「御言葉を行なう人になりなさい」

夏の大イベントであるJOY JOY Campが終わった直後にこの原稿を書いています。本当に多くの方々の祈りとご協力によって、51名の子供たちを受け入れて、神様の話をしてきました。楽しい一週間でした。元気な子供たちの笑顔に励まされた一週間でした。
その一方で、「ちゃんと私たちの伝えたいメッセージは伝わっただろうか?」という思いも持っています。今年のテーマは「ジョイジョイキングダム~地球は神様のテーマパーク」でした。神様は熱い情熱をもってこの世界を作り、私たち人間とともに歩もうとしておられて、一人一人は神様にとって大切な存在であり、また、神様に背を向けてしまった人間と、もう一度共に歩むために、一人子イエスを与え、その十字架の死によって、私たちはあがなわれたのだ、というメッセージを伝えたかったのです。
言葉としてはそれを伝えました。劇をやったり、お話をしたり、子供たちにわかるように一生懸命に伝えました。多くの方々が時間をささげ、労力をささげて、このことをしてくださいました。子供たちも一生懸命聴いてくれました。そして、中には、その内容について応答をしてくれた子供たちもいました。しかし、その一方で、私たちは、いや、もっと言うならば、私自身は、本当にそのように生きているだろうかと、問われているように思わされたのです。
中には傷を負って歩んでいる子供たちもいるかもしれません。「一人一人は神様にとって大切」と言われても、それが本当にわからない、という環境の中にいる子たちもいるかもしれません。言葉で伝えるだけでは、伝わらないし、もしも言っていることとやっていることがチグハグだったら、子供たちは本当に混乱するだろう、聖書のメッセージを伝える私たちが、その姿、態度、行動でそれを表していかないといけない、と思います。
「そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。」ヤコブの手紙1 章22節
このことは、決して、単に子供たち対する姿勢だけではありません。教会のあり方、また自分の人間としての生き方に関わる問題です。本当に聴くだけ、語るだけではなく、そのように生きるものとならせていただきたいと思います。

月報2014年9~10月号より

「石賀睦美先生の思い出」

ニュージャージー日本語キリスト教会に導かれて、4年目に、正木先生の後任として来てくださった石賀先生ご夫妻にお会いした時、とても親しみを覚えました。というのも、私達夫婦と年齢も同じ、特に、お二人が兵庫県の能勢から来られたことに、私の子供時代を思い出したからでした。私の父は兵庫県能勢村出身で、姓も、結婚前は能勢だったこと、子供のころ、ちかくの猪名川で遊んだ思い出などがあったからです。
石賀先生ご夫妻はNJの教会では2年間の御奉仕でしたが、御言葉の学び、祈り会など、本当に充実した楽しい2年間でした。礼拝前の睦美先生からの信仰の基礎の学びでは、信仰を持ってまだ短かった私には、本当に必要な学びでした。礼拝後、牧師館にお邪魔しては、食事まで頂いて、さぞ睦美先生も忙しかったと思います。
2年間はあっという間に過ぎて、私達ももっといて頂きたい、との願いもありましたが、帰国されることになりました。私達も日本に帰国の都度、先生が新しく始められた教会での礼拝に参加し、ご一緒に温泉に連れて行って頂いたり、先に帰国された信仰の友たちとの再会も楽しみの一つでした。
2012年の夏に、突然の睦美先生の入院、それも肺がんの末期だと聞き、本当に驚きました。教会の祈祷会でも皆さんにお願いして、祈って頂きました。そして素晴らしい癒しの奇跡を見せて頂き、どんなにうれしかったことでしょう。主の御業をあがめて、ただ感謝でした。癒されて、輝いて、ただただ主の御業を御証して日本の各地、またアメリカにも来られて元気に飛び回っておられるお姿に、これからも長く、生涯、主のために用いられる、と信じていました。
昨年の11月に4年ぶりに日本に帰り、どうしても先生ご夫妻にお会いしたく、ご自宅での礼拝に参加しました。睦美先生がお元気にメッセージされているのに、本当に主の御業を崇めて感謝しました。お元気で、輝いて、若返られたように見えました。そして、それから何ヶ月もたたないのに、再び入院、そして間もなく召された、との知らせにはただ信じ難く、何故?あの癒しは何だったの?と呆然としてしまいました。でも私達は知っています。主がなさることは最善だということを。睦美先生は命をのばされた1年余りを全力で、主の素晴らしさを伝える為に走りぬかれて、主から、「よくやった、忠実な僕よ。」と、栄光の冠を受けて、イエス様にお会いした喜びいっぱいの笑顔が目の前に浮かびます。イエス様が本当に大好きで、イエス様に喜ばれることだけを考えておられた睦美先生は、御言葉を身をもって実践された、と本当に感慨深く思わされます。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって、神があなたがたにのぞんでおられることです。」(I テサロニケ5:16~18) この御言葉をそのまま実践された睦美先生の信仰と、生き様を見せて頂きました。主に心から感謝します。病の苦しみの中でも、ただ主に信頼し、感謝と喜びで一杯だった睦美先生の言葉は、召される時も「感謝、ハレルヤ」だった、と伺いました。
私達には天国での再会の希望があります。一足先に御国に行かれた睦美先生、多くの人達に励ましを与え、また、主に信頼し切る信仰を見せてくださったことを心から感謝します。
(4月25日に主の下に召されました石賀睦美先生の思い出を、元当教会のメンバーで、今はホノルルキリスト教会で信仰を守られておられます加藤慶子姉に書いて頂きました。)

月報2014年7~8月号より

「Joy2 Camp」

「この迷路かんたんだよ!」 巨大迷路の出口から出てきた5歳のぼくは、息を弾ませながら得意そうに叫んでいたのをよく覚えている。2005年の夏、(ぼくは初めてニュージャージー日本語キリスト教会の夏のキャンプに参加した。その年のキャンプのテーマは「カラダだからだ」、人間の体についてだった。キャンプスタッフたちの寸劇やお話から、人間の体がいかに不思議かを学んだ。初参加のぼくには何もかも新しく、教会ジムに所狭しと張り巡らせられた段ボールの巨大迷路はものすごくインパクトがあった。行っても行っても出口が見えない巨大迷路。怖さをこらえながら何とか闇の中を突き進み、出口に近づいて明かりが見えてきた時は達成感でいっぱいになった。一度完走できるとあとはすっかり自信満々、その後ぼくは何回も何回も迷路を制覇した。もう一つ気に入ったのはテーマソングとダンスだ。早いテンポの曲と早い振付についていこうと必死になって踊りまくった。ぼくは、日本語で自分と年の近い子たちとともに神様のことを学べる、今までにないこのキャンプがすっかり好きになって、その年から毎年、ジョイジョイキャンプが待ち遠しい夏の一大イベントとなった。
ぼくは幼いころから教会っ子だった。母親が熱心なクリスチャンであるため、毎週日曜日、生まれた時から教会に行っていた。ぼくの通っていた教会はウェストチェスターの英語の教会だったので、当時日本語しか分からなかったぼくは、何のことを話しているのか、どんなお話なのかさえも分からないまま、ただ教会にいた。礼拝後のコーヒーアワーのおいしいクッキーが唯一の楽しみだったかもしれない。3歳になる3日前、ぼくは家族とともにニュージャージーの今住んでる町に引っ越して来た。教会も同じ町の教会に変わった。この地元の教会もまた英語の教会だったのでよく話が分からずにいたが、物心もついてきて、母親が家でいろいろ日本語で神様、イエス様、教会のことを話してくれるようになった。また小学一年生になって現地校にも行き始め、英語がだんだん分かるようになってくるにつれ、英語でも神様のことについて徐々に理解することができるようになってきた。ちょうど同じ頃、ぼくは日本語教会の存在を知った。キッズクラブやシンガーズ、ジョイジョイイースターやジョイジョイクリスマスなど日本語教会に行く機会も増えた。生まれた時から日本語環境で育ったぼくは、やはり日本語の方が得意で、楽で、楽しい。すぐさま日本語で神様のお話を聞ける日本語教会が気に入った。
ぼくが小学一年生の時のジョイジョイキャンプのテーマは「ジャングルぐるぐる探検隊」、ジャングルに隠された秘宝を探しに行くというお話だった。壁の様々なカラフルな飾りが印象的だった。教会ジムにジャングルのように青々とした木が茂り、動物の姿や手作りの洞窟もあって、まさに本物のジャングルのようだった。その年は特に工作が楽しかった。自分でブーメランを作ったり、作ったものでほかのキャンパー達と競争したりして盛り上がった。来年も絶対来る!そう思っていたが、残念ながら、その翌年と翌々年は、一時帰国などがあり参加できなかった。
その頃のぼくは、表面的にはいい子でも、本当の自分はそうではないことに気づいていて苦しんでいた。それに、いくら「ごめんなさい」と謝って心を入れ替えても、すぐに同じ間違いを繰り返してしまい全然いい子になれない自分に対して、ものすごく落ち込むことがあり、小学1年生にして死んでしまいたい、消えてしまいたいと思ってしまうこともあった。そんな中、ジョイジョイキャンプで教えてもらった「神様がぼくのそのままの存在を『高価で尊い』と思って下さっている」ことがぼくの心を支えてくれていた。英語が分かるようになっていたぼくは、英語の教会の教会学校やVBS(Vacation Bible School)を通して、また3つの日本語教会合同の2泊3日のキャンプジーザスを通して、日本で牧師をしていた祖父のバイブルクラスを通して、神様の愛とイエス様による救いを教えてもらい、ぼくが死ななければいけない代わりにイエス様が十字架で死んでくださったことを知り、イエス様をぼくの救い主として心にお迎えして2008年8月10日に洗礼を受けてクリスチャンになった。
2回目のジョイジョイキャンプ参加から3年後、2009年のキャンプにぼくは久しぶりに参加した。その年のテーマはHard Rock Caf_ならぬ「Heart Rock Caf_」だった。 テーマソングが格好良く、すごく気に入った。その年のもそれまでのも、ジョイジョイキャンプのテーマソングは全て教会オリジナルであるという事実にも初めて気づき、改めて感動した。その年は初めてキャンパーもスタッフも全員男の高学年グループに入ったので、お互いにちょっとじゃれてふざけあったり、ランチの時には誰が一番早く多く食べれるかを競争して急いでお替わりをしに行ったりもした。毎日の男クッキングは、実に楽しかった。また、ランチの後は、高学年キャンパー限定の外グラウンドでのサッカーにも行けるようになって、友達やスタッフと一緒に汗を流し、久しぶりのキャンプは前回、前々回とはまた一味違うとても楽しいキャンプとなった。
翌年はマタイ7章7節 (“Ask and it will be given to you; seek and you will find; knock and the door will be opened to you.” Mathew 7:7) にちなんで「A.S.K.」という題で探偵のテーマで、2011年小6のぼくにとって最後のキャンプは「Joy2 Factory」だった。その頃のぼくは、高学年になり反抗期が始まっていた。口うるさい親のことも嫌ではあったが、ぼくはついつい反抗的な態度をとってしまう自分のことに嫌気がさしていた。学校での勉強も量が増え難しくなり、楽器の練習やスポーツ、日本語学習の時間のやりくりが大変でイライラすることも多くなった。それぞれに関して自分の理想や目標を掲げていたが、遊びやテレビや漫画の誘惑に負けてしまう精神的な弱さと、やりたいことがいっぱいありすぎて疲れてしまう肉体的な弱さにいつも負けてしまい、目標には程遠い自分が悲しかった。そんなふうに360日闘いの日々が続き、夏になって5日間のジョイジョイキャンプに戻ってくると、このままの自分でいいんだ、このままのぼくを神様は愛してくださっているんだという安心や平安が与えられた。落ち込んでうつむいていた自分が、神様の愛に包まれてまた顔を上げて前に進むことができる、どん底から引き戻される強い神様の愛の力、愛の支配を感じる充電の時、ジョイジョイキャンプはいつしかぼくにとってそのような、ただ楽しい時を過ごす以上の存在になっていた。
「神様はいつも、どこでも、いつまでも、そばにいてくださる」「神様がいるから大丈夫だ!」「求め続けることが大事」これがぼくがジョイジョイキャンプで学んだ、ほかのキャンパーたちにも知ってほしいことだ。キャンパーを卒業しスタッフになったが、ぼくはこれからもすべてを満たして下さる神様に心の必要を求め続け、ほかのキャンパーや愛が必要なすべての人に、ぼくがキャンプのスタッフに教えてもらったように、この神様の最強の「愛」のことを知ってもらいたいと思う。

月報2014年7~8月号より

「『中風の癒し』と救いの恵み覚え続けるために」

マルコによる福音書2章1~12節には、4人の友によって、イエス様のもとに運ばれてきた中風の者が、癒され、起きあがる記事があります。ここでイエス様は、まず「子よあなたの罪はゆるされた」と、「罪の赦しの宣言」をされました。「病よなおれ」より先に赦しでした。私は、高校生のときに、友人関係で悩み、人を心から愛せないでいる、自分の心の醜さや罪に苦しんでいました。でも、教会でこのメッセージを聞いたとき、『ここに罪を赦してくださるお方がいらっしゃる』と知ったのです。自分の力で動くこともできず、長い間の孤独と悲しみに闘う日々の中風の姿は、まるで私の心の状態と重なるようでした。イエス様の罪の赦しは、言葉だけではない、やがて十字架を背負い、罪の身代わりとなって、ご自身の命を与えるということでした。私は、イエス様の十字架が私の罪の身代わりと知り、そしてこの赦しの宣言を信じ、救いの恵みにあずかりました。こんな私を十字架にかかるほど愛してくださるお方、神様の愛に目が開かれ、解放され、大きな喜びと感謝の賛美があふれ、生きる力が湧いてきました。それは脱線した電車が、本来走るべきレールに戻され、真に自由に走れるようになったような経験でした。
またこの記事で、イエス様が癒されたのは、4人の友の「彼らの信仰を見て」と記されています。彼らが立派だからというのではなく、ただ、イエス様なら立ち上がらせてくださるという信頼でした。またその熱意は常識を超えるような愛の行動、4人が一つ思いになってもがく魂に仕える姿でした。しかし、私たち人間の愛の力は、ほんのわずかであることを、認めざろうえません。3年前、奥田先生という、ホームレスのケアーをされておられる牧師を囲んで、語り合った日のことが、私の心に残っています。「先生、でも裏切られることもありますよね。」と語りだす人がいました。愛する行為の中で疲れた姿のようでした。先生は「うん、でも・・・僕もたくさん裏切ってきたからな・・・」と語るのでした。私はその対話の中から、ペテロのことを思わされました。
ペテロが「どこまでもイエス様について行きます。」と告白しながら、イエス様が十字架にかかられる直前に3度も「イエスを知らない」と否んだ出来事、それは人間の弱さそのものです。そんなペテロが立ち直ったのは、限りなく赦してくださる、イエス様の十字架の愛の力でした。著者マルコはこのペテロと親しく、メッセージの通訳もされていたようです。ペテロの失敗談も聞いていたことでしょう。その中から「イエス様の完全な赦しと愛の力」を知り、信頼すべきお方がイエス様であることを正に伝えたかったのでしょう。「彼らの信仰を見て」と記しています。
昨年のこと、働き者で、どこへでも自転車で出かけるほど元気だった私の母は、3月に心臓病と呼吸不全で倒れ、緊急入院しました。幸いにも神様に守られ、やがて酸素も点滴も取れ、リハビリをし、1ヶ月後には退院、自宅療養となりました。姉夫婦が毎日のように母を見舞い、食べられそうな食事を作り、共に祈って、本当に良く支えてくれました。
私が5月の末に母の看病のために一時帰国した時、食事と排泄以外布団に伏す母は、今までとは全く違い、小さく、弱く見えました。姉と一緒に、時には教会に行っていた母でしたが、いろいろな理由と戦争で深く傷つき、苦労を重ねた母にとって、受洗の決心は簡単なものではありませんでした。私は母のためにひたすら祈る中、「彼らの信仰を見て」との言葉が私の心をとらえました。同じときに水郷めぐみ教会の平山牧師夫人もその言葉が心に示されたそうです。母の様子を見ながら、しかし、今のこの時を逃しては、遅すぎてはいけないのでは・・・と思い、平山牧師に訪問をお願いしました。すると以前は訪問を拒んでいた母の心が不思議と解かれ、驚いたことに、布団から這うように進み出、身を低くし牧師夫妻の導きで、病床洗礼にあずかることができました。5月29日が長い間祈っていた母の受洗日となりました。
母は、恐れや、心配から、解放されたからでしょうか、布団の中でもまるで幼子のような笑顔を見せてくれました。また、「お母さん、受洗おめでとう」「祈っています。」のお便りを頂き、多くの方に祈られていることに「ありがたいね。」と、何度も繰り返し、幸いな時を共に分かち合うこともできました。また、母は長男である兄のために祈り、久しぶりに家に戻った兄を迎えては、布団の中でもそれはそれは大きな喜び様でした。まるで「嘆きを踊りにかえてくださった。」詩編30編20節のみ言葉の約束を見たようでした。
8月に病院で検査後急変し、昏睡状態となり、姉と私は毎日泣きながら、葬儀の相談をすることもありました。その1週間後、意識を回復したものの、電話の母の声は、ろれつが回らず、全身から力を振り絞るように「が・ん・ば・る・よ」と答えが返ってきました。8月半ば、教会の皆様からのご理解とサポートを頂き、母の病院に付き添う時が与えられました。弱った母は、ゆっくりと、「イエス様・信じてるから・大丈夫。最高の人生だった。」と、ベットの中でにこっと笑みを浮かべるのでした。真夜中に「イエスさまの歌、歌ってよ」と嬉しい我がままも言ってくれました。多くの方に祈られていること、愛されていることを「あ・り・が・た・い・ね。」と何度も繰り返す母の言葉や顔は、平安そのものでした。「点滴を刺す血管ももう限界です」と告げられ、牧師夫妻の面会とお祈りを頂き、その夜には、姉と3人で賛美し祈る中、母は天に召されて行きました。イエス様の十字架が母を救い、心の傷を癒し、永遠の命を与えて、天国へと導いてくださいました。
神様の愛にそして皆様のお祈りに心から感謝致します。
月報2014年5~6月号より

「覚え続けるために」

ニュージャージー日本語キリスト教会の皆さん、震災以来の継続的なご支援に心より感謝申し上げます。未曾有の危機に直面し、戸惑い、疲労しながら必死で堪えてきた松田牧師とオアシスチャペルにとって、錦織先生およびニュージャージーの皆さんとの出会いは、何より大きな助けとなりました。9.11と3.11。違いがたくさんありますが、似ているところもたくさんあります。ニュージャージー日本語キリスト教会とオアシスチャペルは、大きな被害を受けた地域のただ中に置かれた教会として、同じような痛みや困難、悩みや葛藤を分かち合える『友』とされたのだと思います。松田牧師が錦織先生と出会った頃に語っていたことばが、私の胸に印象深く刻まれています。
「被災した今の自分の状況、大変さをぜんぶ分かってくれたように感じた。そのような人にはじめて出会った。とても有り難かった。」
現在の東北の状況を知り得る範囲でお分かちしたいと思います。
震災当時47万人にのぼった避難者の数は、2014年1月現在、約27万4千人となりました。仮設住宅にいまだに約10万人の方々が生活されています。災害公営住宅の着工・完成が遅れています。ある地域では3年、別の地域では4、5年かかるとも言われています。津波により生じた瓦礫が、いまだに片付いていない地域もあります。宮城、岩手では2014年の春、福島では2015年の春が政府発表による完全撤去の目処となっています(復興庁www.reconstruction.go.jp 「復興の現状と取り組み」参照)。
震災から3年。大きな支援団体が働きをどんどん縮小して撤退していきました。メディアに取り上げられる頻度は下がり、被災地を訪れる人々の数も減りました。震災前からの課題である「過疎」に拍車がかかっている沿岸地域もたくさんあります。「忘れられてしまうのでは・・・」という新たな不安が被災地を覆っています。
様々な領域における「ギャップ」が広がっています。被災地と被災地「外」のギャップ。沿岸部と内陸部のギャップ。復興が進んでいる地域とそうでない地域のギャップ。活動が活発な仮設住宅と、そうでない仮設住宅のギャップ。在宅の被災者の方々と家を失った方々のギャップ。復興プロセスの中でも様々なギャップが生じ、広がっているように思います。
また、あれほどの大災害でしたから、被災した方々は心に深く、大きな傷を負いました。生活も一変しました。経済や環境、状況に余裕があるときには感じなかったようなストレスや悪感情に苛まれている方々がたくさんおられます。上述の「ギャップ」も苦しみを大きくします。人間関係の破壊が起こりがちです。これから先、5年、10年を生きていくための希望や力をどこから見いだせばよいのか? 心すこやかに生きていくこと自体が、大変なチャレンジです。
ニーズ、課題が多様化しています。物資に困っているところもあれば、心のケアを必要としている人々もいます。経済立て直しの知恵が必要とされているところ、コミュニケーションや人間関係に助けが必要なところ、教育の課題、住宅の課題、原発エネルギーの課題、復興遅延ストレスの広がり・・・。
小さな私たちに出来ることは限られていますが、神様が私たちにどのような実を実らせたいと考えておられるか、注意深く求めながら歩ませていただきたいと考えています。
復興への歩みは10年単位、まだまだ先の長い道のりとなります。これから先、特に遠方にいらっしゃる皆様には「東北を覚え続けていただくこと」が大きな助けになると考えています。『覚え続ける』取り組みです。大きなインパクトをもたらした東日本大震災ですが、情報過多の時代に『覚え続ける』ことは至難のわざで、気を抜くとあっという間に風化してしまうのではないかと感じます。風化防止のために5年、10年といった長いスパンで『覚え続ける』ことが大切なのですが、たくさんの方々に息の長い関わり方を模索していただくために『資源ベースの支援』をお勧めしています。
震災発生当時はニーズがシンプルでした(生き延びるための水や食料、衣服や毛布、避難する場所、医療環境など)。緊急支援の期間であり、自衛隊や救援団体、医師や技術者などの専門技術を持った方々が活躍しました。被災地、被災者からのニーズを中心とした要請とそれを受けた支援活動がマッチした期間です。世界中からたくさんの感謝なご支援をいただきました。このような支援を『ニーズベースの支援』と呼びたいと思います。すばらしい助け方です。しかし、こうした支援状況はやがて終息していきます。支援したいと考えている人たちが山ほどおり「どのような支援をするか」がより重要だった時期は過ぎ、「どのような支援でもいいから、継続すること」の価値が高まっていきます。これからは、たとえ専門技術を持っていなくても、あきらめずに関わりを継続しようとする人々が求められます(教会がより力を発揮できる時がやって来たと感じています)。
さて、そのような「継続すること」に主眼を置いた支援を行うために、『資源ベースの支援』がとても有効です。支援する側の人々が元々持っているものや強みを活かした支援です。どこかから手に入れてきたり、新しく勉強したりしなくても出来る支援です。
一例を挙げますと、音楽が盛んでトップクラスの実力を誇るクワイアを擁するアメリカのある教会は、震災を受けて、そのクワイアを10年間、日本に派遣し続けることを決めたそうです。外国からの歌の支援は、震災発生当初はあまり大きな効果を期待出来なかったかもしれません。しかし音楽を用いたこの支援は現在も継続されていますし、今後も続いていきます。この息の長い支援の価値は、これからどんどん高まっていくはずです。彼らならではの資源を活かしたすばらしい支援です。
神様がニュージャージー日本語キリスト教会にお与えになった資源には、どのようなものがあるでしょうか? 冒頭に錦織先生と松田牧師の出会いについて記させていただきましたが、9.11を巡る貴重な経験や痛みは、多くの人々を助けるために備えられた皆様ならではの貴重な資源のひとつなのではないかと思います。
あの震災から3年が経ちました。皆さんが経験された9.11からの3年後はどのような日々を送っておられたのでしょうか? ちょうど10年前(2004年頃)、皆さんは何を感じ、どのような生活をしておられたのでしょうか? どのようなことから慰め、励ましを受けておられたのでしょうか? 時が経つにつれて、心や体、霊的な領域にどのような変化が起こってくるものなのでしょうか?
大変な危機的状況に置かれ、しかし立ち上がり、立ち続けてきた皆さんのご経験や証しに、私たちは大きな関心を持っています。成功も失敗も、恵みも痛みも分かち合ってくださるならば、大きな助けになると感じています。
善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。(ガラテヤ 6:9-10)
今後とも、信仰の家族としてのお付き合いをどうぞよろしくお願いいたします。神様が結び合わせてくださった皆さんとの関係を感謝いたします。皆さんの存在は、私たちの励ましであり、希望です。心からの感謝を込めて・・・。

月報2014年3~4月号より

「19年かかってわかった神様の恵み」

私は18歳の時、初めて日本に行った。
香港の高校を卒業して、イギリスやアメリカに留学した同級生たちをよそに、人と同じになりたくない、という思いと、テレビで青春ドラマなどを見て憧れていた日本に行きたいという漠然とした思いだけで、ひとり東京へ行った。
東京に住んでみると、言葉はほとんどしゃべれないし、狭いアパートで、夢見ていたことと現実は違った。当時は留学生ビザを取るにも身元保証人を見つけるかブローカーを通すしかなかったので、「自分は自力で何とかするのだ」という思いで、正規な留学生ビザも取らずに語学学校へ入った。そして毎日ひたすら日本語を勉強した。
日本の大学に入るには身元保証人の近辺に住むという条件だったので、おじの知り合いが愛知県におり身元保証人になってくれたが、留学生ビザのない私を受験させてくれたのは岐阜大学だった。なぜあの時岐阜大学が受験させてくれたのか今でもよくわからないが、事情を知った受験係の事務の人が手紙をくれて、「普通の試験を受けてみないか」と言ってくれたので、一般の日本人高校生と同じように日本語で試験を受けて工学部に合格した。すぐに友達が出来、先生たちにも良くしてもらい、留学生としてロータリークラブから生活費に相当する額の奨学金をもらい、充実した大学生活を送ることが出来た。いつもいつも一生懸命前向きに勉強し、家庭教師のアルバイトもして、トップで卒業。自分の道を切り開いていった。ドイツにも憧れ、大学でドイツ人の先生に一生懸命ドイツ語を習い、ドイツ留学をも計画した。
大学院に進む時は、日本政府とドイツ政府から奨学金オファーがあり、ますます自分の努力と運の強さに自信を持った。尊敬する教授のいた東北大学を選び、日本国文部省の国費奨学金もたくさんもらえたので、博士課程の途中で結婚して、新しく出来たばかりの留学生会館に住んだ。昼も夜も研究に没頭し、研究成果が何度も全国版の新聞に取り上げられたので、ますます自分のがんばりに自信を持ち、「運命は自分の力で開ける」、と思った。
博士課程を終えるころ、スタンフォード大学やNASAから博士研究員のオファーがあった中でNASAでの研究を選び、日本から見れば憧れの研究所ですばらしいスタートだと、意気揚々とアメリカに渡った。メリーランドのNASA Goddard Space Flight Centerでの研究生活をはじめとし、フロリダの大学、コロラドの国立海洋大気局を渡り歩いて研究実績を積んだ。
コロラドで妻が教会に行くようになり、結婚9年目にして娘が与えられた。
このころ、アメリカでの研究生活は8年目となっていたが、職場の人たちを見ながら、「アメリカで生まれ育ったわけでなく学校教育を受けたわけでもない、アジア人の自分がこの国でどれだけやっていけるのだろう」、と疑問や違和感、不安を感じるようになっていた。ちょうどそんな時に、東北大学の教授がコロラドまで来て、「新しく産官学連携事業として研究所を作るので来てほしいと」言ってくださったので、「これはアメリカでつけた実力を発揮して活躍する機会だ」と、故郷に錦を飾るような気持ちで日本に戻った。研究分野も今までの宇宙と大気の光イメージング計測から生体光計測に広がった。
はじめ仙台郊外に出来ると思っていた研究所が山形市内にできることになり少しがっかりしたが、蔵王と月山の間に広がる自然豊かな山形市に、「こんなところで子育てできるなんて幸せ」と妻は喜んだ。田んぼや畑、果樹園、美しい山河、人情豊かな山形の人たちに囲まれて、娘は伸び伸びと育った。妻は山形南部教会に娘と一緒に毎週礼拝に通っていたが、私は気の向いた時についていって、お客さんとして、みんなに親切にしてもらうのがうれしかった。普段は忙しいこともあり、神経がもたないので、子どもの世話も家のことも何もしなかった。特に、娘と接する時間を大切にしなかったことは、今でも悪かったと思っている。
アメリカ帰りで皆に期待されていると思っていたが、国のプロジェクトはなかなか自分の思うようにいかないことが多く、数年ごとに切り替わりそのたびに状況が変わったり、日本経済も悪くなったりして、困難もたくさんあったし、日本流のやり方や職場の状況に不満や怒りもあった。思い通りに行かない不満やイライラを妻にぶつけたり、教会に行っても「つまらない」と思うようになり行かなくなった時期もあったが、教会の人たちや牧師先生はいつも変わらず親切だった。でも、それは「自分がいい人だから相手も良くしてくれるのだ」と考えていた。「あなたは罪びと」などといわれるのはいやで、自分が退職して現場から離れるまで、神様と距離をおきたいと考えていた。
このような研究にかかわる政策と体制に限界を感じ、共同研究していた会社に、「今の研究をアメリカで進めようじゃないか」と持ちかけたところ、会社も賛同して採用してくれたので、東京本社のメンバーとともに、2007年春、ニュージャージーに赴き、会社の研究所を立ち上げた。 山形を去る前に、山形新聞が特集を組んで3日連載で、私の13年間に亘る山形での研究と大学指導の歩みを「産官学連携の実例」として紹介した。それをもって、自分が山形でやったことの意義が明確になり、自分の足跡を残したことに気持ちの整理がつき、心残りなくアメリカに旅立てると思った。
ニュージャージーでは優秀な部下に恵まれ会社の信頼を得て、世界最高機能の眼科診断イメージング装置の開発に成功したことで、日本の国際競争力を高めることに貢献したと喜びを感じている。
いつもいつも自分は試練と闘っていると思ってきたが、その後ろにどれほど多くの人たちの助けがあったか、今わかる。コロラドで妻と娘を温かく受け入れてくれたFirst United Methodist Churchの人たち、山形を出発するその日の朝までお世話になった山形南部教会の人たち、ホテルの玄関まで見送りに来てくれた友人と隣人たち、仕事先の長野で高速道路のインターチェンジまで見送りに来てくれた教会員のことは忘れない。妻と娘を送り迎えするうちに温かく仲間に入れてくださったニュージャージー日本語教会の皆さん。2013年の元旦礼拝でついに洗礼を受けるに至ったのも、背中を押してくれた人たちのおかげであるし、私をたくさんの人が祝福してくださったことは本当に感謝である。「私がいい人だから」「私が何か良いことをしたから」でなく、ただただ私のために祈り助けてくださったたくさんの人たち、その人たちを通して働いてくださった神様の恵みがようやくわかった気がする。私を今まで祈り支えてくれた妻にも感謝している。
今まで数々の試練があったが、それと同じだけの恵みがあったのだと今は思える。試練はその時は苦しいが、時がたてば記憶の中の一部として遠ざかっていく。しかし恵みは遠ざかることないばかりか、記憶の中の一番近くに残って常に自分に喜びと勇気を与えてくれる。今まで知らずに沢山の神様の恵みを受けてきた私、今まで人に与えることを考えもしなかった私であるが、このみ言葉に出会って、このようになりたいと思うようになった。

「受けるよりは与える方が、さいわいである。」
使徒行伝20:35
感謝します。

月報2014年1~2月号より

「信仰生活40年」

「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。生るるに時があり、死ぬるに時があり、・・・・・・・・、神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終わりまで見きわめることはできない。」  伝道の書3章1節‐11節

1973年に洗礼を授かりましたので今年は受洗40年の年になりました。この40年間一度も受洗を悔やむことなく、私を選んでクリスチャンの一人に加えて下さった主に感謝の日々を過ごせています事を何よりうれしく感じています。そして40年の歩みの中でいろいろの事が有りましたが、冒頭の聖句に記されています「神のなさることは皆その時にかなって美しい。」ことを実感する事が出来た40年であり、それだけでなく生まれた時からの70年がすべて主の御計画の中で歩ませて頂けていると確信しています。

高校生時代から英語が大嫌いでしたので、アメリカに来る事など思っていませんでした私に、留学の思いを持たせて下さったのも深遠なる主の御計画であったと今更ながらに思わされます。アメリカに来ることが無ければ教会に足を運ぶことも無かったか、または導かれるのにもっと時間が掛かったことでしょう。その後、いろいろな理由で好むと好まないにかかわらず住む地域を変えねばなりませんでしたが、その一つ一つを主が導いてくださったことを思い知らされています。

2年間のカリフォルニアに於ける大学院での学びとその後2年間の米国企業での研修を終えて帰国しましたが、その当時は終身雇用の時代でしたので、一度就職した企業を退社してアメリカに私費留学した者の再就職は容易ではありませんでした。今でこそ当たり前に知られていますMBAという学位も知っている人は皆無で求職の役には立ちませんでした。しかしこの就職浪人期間も主の御計画の一つであったと今は確信しています。
もちろん家族の温かい理解があってこその浪人生活でしたが、帰国しました私に主が御用意下さった教会での経験がどれほどその後の信仰生活の助けになったか分かりません。その教会も本当に不思議な出会いでした。帰国して直ぐに会った妻の叔父が「先週ロータリークラブの会合で牧師がとても素晴らしい話をして下さった。アメリカでクリスチャンになったのであればそこの教会へ行くと良いと思うよ。」と言ってくれました。牧師のお名前を聞きますとカリフォルニア時代に親しくさせて頂いた牧師の弟さんでしたので、主の導きと感謝して先ずはその教会の礼拝に出席させて頂き日本での教会生活が始まりました。共に30歳代半ばで1歳年上のアメリカ帰りの牧師はとても尊敬でき気も合いましたので、仕事が無くて時間が有った私はかばん持ち兼運転手のような立場で牧師の伝道旅行に度々帯同させて頂きました。

その折に見せて頂けた牧師の主にお仕えになる姿勢は何よりも私の信仰成長の糧となりました。行かれる地方でユニークな企画で用いられている教会や、成長している教会をきちんと調べておられて、空いている時間を使われて訪問されそこから学ばれます。教会がどのような場所に立地しているのかを知るために まず教会の近辺を車で回って環境をご覧になってから訪問されます。教会にはアポイント無しで訪問しますので牧師が居られれば短時間で整理されたポイントを質問され、地方の教会ではお留守でも鍵がかかっていない会堂もあって、失礼して中に入らせて頂き、会堂の中を見せて頂く事もありました。その一つでは当時では珍しい喫茶店風のカウンターでコーヒーが飲めるようになっている会堂を見つけてとても感心されて、新会堂の参考になさっていました。また札幌郊外では教会とは別に繁華街で普通の喫茶店を開いて伝道されているニュージャージー州からの宣教師を訪問して、喫茶店伝道のご苦労や喜びをお聞きしながら一晩実際の様子を見せて頂きました。どのようにお客様にアプローチしてどのタイミングで福音を語るのかは、宣教師がアメリカ人である事がとても利していたことは事実ですが、なるほどと感心できる刺激的な経験であった事を今でも思い出します。牧師はその後東京新宿での喫茶店伝道にこの時に感じられ学ばれた事を活かされておられました。さらにこの牧師は教会を運営するには一般のビジネスでの会社経営に通じるものがあると考えておられ、私も良く読んでいない「プレジデント」「日経ビジネス」などを購読しておられて、移動中の車の中や二人だけの食事の時にはそこからの話題や質問が多くありました。組織として運営し成功するには会社も教会も共通点が多いと気付かれて、特にコミュニケーションや人事査定に大変興味を持っておられました。MBAという学位だけは持っていました私にとりましても、牧師との会話は理論を実際に活かすための良き議論と学びの場となりました。

与えられた役割(任務)を真摯にとらえその立場を有効に活かし、共に労する人々と喜びを共にしながら組織をいかに活性化させて主に喜んで頂くかという事を絶えず考えておられ、その使命のために「万事を益となるようにして下さる」(ローマ人への手紙8章28節)主に熱き祈りを日々ささげておられる牧師のお姿に身近に接する事で、聖霊様は新しい職に就く前の私にクリスチャン社会人としての仕事に対する心構えを植え付けて下さいました。
人の目から観ますと就職浪人と言う不遇の一年数か月でしたが、主は私のその後の社会人生活と信仰生活に必要な時として聖霊様を通してこの機会を与えて下さった、まさに無駄のない有意義な期間でした。その教会での信徒生活は短い期間でしたが、マーケティングの重要さ、相手の立場になって考えてみる心遣いや、自分からなんでも率先して経験すると言った組織の中での人間関係、熱き祈り等々、社会人生活の中でも大変役に立つ多くの事を理論では無く実際にこの目で見て体験でき、会社ではなく教会生活でそれを身につけさせて下さった主の御愛に心から感謝しています。

40年間の信仰生活を通して沢山の恵みのお証がありますが、その一つを書かせて頂きました。会社人間から引退してこのニュージャージー州に越してきましたのも主の導きであると信じています。これからも主の福音を伝えていく大宣教命令を示されているクリスチャンの一人として、どのような経験を聖霊様がさせて下さるのか大きな期待を持って胸をわくわくさせています。その折々では決して楽な事ではないと感じましても、主が
「愛する者たちよ、あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚きあやしむことなく、むしろキリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それはキリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。キリストの名のためにそしられるなら、あなたがたは幸いである。その時には、栄光の霊、神の霊が、あなたがたに宿るからである。」(ペテロ第一の手紙4章12-14節)
と約束して下さっていますので、続けて主にお委ねし、お従いする信仰生活を送っていきたいと祈り願っています。

月報2013年11~12月号より

「主とともに歩む 」

この教会に転入会が許され1ヶ月が経とうとしています。ここに至るまでたくさんの方がお祈りにお覚えてくださってましたこと、また家族一同親しくお交わりの輪の中に加えて頂いておりますことを心より感謝申し上げます。何年も前からこの教会や皆様といろいろな関わりを持たせて頂いてますが、どのようにして私が信仰を持ったかお話しする機会がありませんでしたので、そのことをお証しさせて頂きます。

私の両親はクリスチャンで、生後1歳半の長男を日本脳炎で天に送るという試練を通し、家族献身に導かれました。両親の学びの期間、兄と私はインマヌエル綜合伝道団の神学校(聖宣神学院)の家族寮で幼少期を過ごし、その後両親の転任に伴って高松、京都伏見、新潟の地で、両親が奉仕する教会で育ちました。

高松にいたときのことです。私は2歳半、弟が生まれて5人家族になっていました。両親は、間近に迫った春の特別伝道集会の準備に追われていました。当時は、特別集会の準備と言えば、たくさんの立て看板を作って街中の電柱に立てて回ったり、チラシを何千枚も印刷して近隣に個別配布したり・・・。もちろん、チラシやポスターを作るにもガリ版やシルクスクリーンでの手作業という時代でしたから、その直前の忙しさは相当なものでした。そんな矢先、私は、外に出た兄を追って玄関を飛び出し、走って来た乗用車にはねられてしまったのです。車が急停車するブレーキ音を聞き、びっくりして教会から飛び出して来た両親は、血まみれになってゴムまりのように転がっている私を見つけ、大急ぎで病院に運びました。まだ幼くて体がやわらかかったからでしょうか、幸い命は取り留めました。が、左足大腿部を複雑・粉砕骨折しているということで、何度かに分けての手術が必要となりました。説明を受けた両親は、手術を受けたとしても完治は無理かもしれない、将来足を引きずって歩くことになるかもしれないと言われたそうです。両親は祈り、そして私に手術を受けさせる決心をしました。

手術の前の日、私は、牧師である父から病床で個人伝道を受けました。マルコによる福音書10章に出てくる目の見えないバルテマイのお話を通して、イエスさまは「助けてください」「癒してください」と求めるとき、それに応えてくださるお方であることを知りました。そして、交通事故で本当は死んでいたかもしれないこと、きわどいところで命を守ってくださったこと、神さまが私を愛してくださっていること、あの時事故で死んでいたら地獄に行っていたこと、地獄に行かなくてもいいようにイエス様が私の罪の身代わりとなって十字架で死んでくださったこと、イエス様の十字架を信じる者には永遠の命が与えられること・・・。この時、それまで教会学校や聖書えほんで語られていたお話と、自分のこととが重なり、私も神さまの子どもになりたい、天国に行ける子どもにしてほしいと思い、罪を悔い改めて祈ってもらい、『しかし、この方を受け入れた人、すなわち、その名を信じた人には、神の子どもとされる特権をお与えになった。』(ヨハネ1章12節)のみことばをいただいて、神さまの子どもになりました。

翌日受ける手術も、怖くなくなりました。もし万が一死んでしまうようなことがあっても、天国に行けるという確信が与えられたからです。大腿部と言えども、全身麻酔ですし、小さな子どもの複雑・粉砕骨折の手術は大変でした。細かく砕けて肉に突き刺さった一つ一つの骨を集め、パズルのように元の形に組み上げていく作業は、手術に付き添った父の目にも、息を呑むような瞬間の連続だったそうです。1回目の手術が無事終わり、筋肉の回復と骨の成長を待って、骨を固定するために取り付けたボルトを外す2回目,3回目の手術が行われました。手術、リハビリ、数ヶ月の入院生活、その一つ一つを神さまは守り、いつも一緒にいてくださいました。体を回復させてくださった神さまは、私の小さな信仰も育んでくださり、さんびか大好き、聖書のお話大好き、教会大好き、教会のお手伝い大好きな子どもにしてくださいました。そして救われた日から2年7ヶ月後、1973年のクリスマス,当時教区長であった川口始牧師に洗礼を授けて頂きました(『少年H』にも登場する先生です)。運動しなければならない時期に歩けなかった私の足は、すっかり筋肉が衰え、退院後も数年に渡り体操教室に通って筋力強化に努めなければなりませんでしたが、ドクターの言葉通りにはならず、小学校に上がる頃には、奇跡的にもみんなと同じように歩いたり走ったり出来るまで回復したのです。(実は頭部も強打していてその影響の方がもっと深刻な問題だった、と二十歳になって初めて知らされた時には驚きましたが・・・。)

クリスチャンとなった私は、その後いつもハッピーで笑顔でいられたかというと、そうではありません。仏教文化の根強い京都で小中学校時代を過ごした時には、「おまえんち、アーメン、ソーメン、冷(ひや)そーめん!」とからかわれ、社会科でキリスト教禁止令を学習すると「教会の子やから、やっぱし踏めへんのか?踏んでみろやー。」と落書きの踏み絵を突きつけられ、礼拝出席の為に日曜日のクラブ活動を休むと届ければ大罪を犯したかのように先輩たちに非難され、学校に行きたくない、クリスチャンであることを隠したい,牧師の家庭になんて生まれて来たくなかったと思い、悩みました。新潟で過ごした高校時代は、公立高校の授業料を期日内に納入できないような経済的な戦いの中にあり、志望大学に合格できなかったものの、家計への負担を考えると自宅浪人したいとも言い出せず、東京に出て働きながら学びました。
『あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなた方を耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。』(第1コリント10章13節)

困難に出会う時、いつもこのみことばを思い起こし戦ってきましたが、脱出の道がどこにあるのか分からないことも多々ありました。けれども、若い時からクリスチャンとされた者の幸いは、祈って進んでいく中で必ず神さまが導いてくださる、そしてそれはいつも最善でしかない、ということを理屈ではなく体験的に知っていることではないかと思います。今振り返ると、若い時に通らされた数々の試練のゆえに私の信仰は堅くされたと思いますし、就職、渡米、結婚、子育てと導かれた現在も、日々多くの問題を抱えていますが、「神さまが一緒だから大丈夫!」と思えるのです。

今も30センチほどの手術の傷が私の足には残っています。その傷を取ることを両親は薦めてくれたのですが、私はそうしませんでした。その傷を見るたびに私は、事故のこと,神さまの子どもとされた恵み、イエスさまの手足の釘の痕を思います。キリストの打ち傷によって癒されたことを感謝しつつ。

月報2013年9~10月号より

「母の受洗」

今年84歳になった母は、小柄な身体で、田舎道をどこへでも自転車で出かけるほど元気でした。ところが3月に心不全で救急車で運ばれ、緊急入院、その後の検査で、2つの心臓の弁が狭窄、閉鎖不全による心肥大に加え、肺水腫の診断を受けました。

知らせを聞いても、直ぐに飛んでいけず、涙と心騒ぐ私に、神さまは「あなたは私のために嘆きを踊りに変え、荒布を解き、喜びを私の帯とされました。」〈詩編30篇2節〉と、み言葉を示してくださり、私の心も支えて下さいました。

母は、神さまに守られ、やがて酸素も点滴も取れ、1ヶ月後に自宅に戻ることが出来ました。近くに住む姉夫婦が、毎日のように、母が食べられそうな食事を作り、仕事の合間に届けに行っては、共に祈り、励ましてくれていました。

私が5月末に母のサポートのために一時帰国した時、母は、長い間の咳と痰に悩まされ、食欲、体力が落ち、食事と排泄以外、布団に伏す姿は、今まで見たこともなく小さく、弱く見えました。そのような中でも、私の出産の時のことを語っては、「範子を産んでよかった。」と涙ながらに語ってくれ、「ありがとう!」の言葉を交わす時が与えられたのは、感謝なことでした。
以前から、イエス様を信じて祈りに手を合わせる母でしたが、今回、水郷めぐみ教会の平山先生ご夫妻のお導きを頂いて、5月29日に自宅で病床洗礼に導かれました。

「神我らと共にいます」(マタイ1:23)
「我が国籍は天にあり」(ピリピ3:20)

そして、その数日後、しばらく会えず、祈っていた兄が帰ってきた時の母の喜び様は、まるで病気を吹き飛ばすような笑顔でした。私にはまるで幼子のような母が、大きな母に見えました。兄は早朝から玄関を履き、自ら「教会に行かなきゃ・・・」と語るのでした。私にとっても、神様の力以外に考えられない、神さまのみ言葉のお約束の出来事を見せて頂きました。兄は教会の祈りの時に、涙を流していたそうです。

それから、「お母さん受洗おめでとう」「祈っています。」のお言葉をたくさんいただき、母が、なんと多くの方に支えられ、愛されているかを知らされる、幸いな時でした。
母も、「ああ、ありがたいね。」とお祈りのサポートに感謝の言葉が続きました。

私の帰米後間もなく、再入院となった母ですが、身体の弱さの中にも、神様の守りと、祈りの使命が母を支えてくれています。この世で多くの苦労がありましたが、今、幼子のように天国の希望を握ることが出来たのは、何と大きな恵みでしょうか。

主に、そして皆さまのお祈りに心から感謝致します。

月報2013年7~8月号より

「高橋さんとは20年以上の…」

今回は、元JCCNJメンバーの五賀潔兄が、3月20日キリスト兄弟団成増教会でもたれた故・高橋剛兄の葬儀でお話しされたお証しを掲載させていただきます。
高橋兄の思い出

高橋さんとは20年以上の親しいお付き合いをさせていただきました。最初の出会いは、92年に私達夫婦が米国のニュージャージー日本語キリスト教会の聖歌隊に入った時です。高橋さんは以前より奥様と2人で参加されていました。その時はまだノンクリスチャンでいらっしゃいました。そして94年に当時の石賀誠先生が日本に帰国されることになった時、奥様と一緒に洗礼を受けることを決心され、その年のイースターに受洗されました。聖歌隊のメンバーと共に高橋さんご夫妻の洗礼を大変喜んだことを覚えています。

その後、正式な教会員として当時私が担当する委員会(宣教?伝道?よく覚えていませんが)にご参加いただきました。議事録作成の担当を快く引き受けてくださり、その委員会の議事録を作成してくださいました。その内容がポイントを簡潔・明瞭に網羅したもので、さすがだなーと感銘したことを覚えています。

高橋さんにとって青二才で経験不足な私のような者に対しても、謙虚に接してくださいました。また、ご自身のプライベートゴルフクラブに私達夫婦をご招待くださり、一緒にゴルフを楽しんだりしました。私を含め、多くの方が高橋さんのご好意に与ったと思います。

私たち夫婦が97年に帰国後、98年に成増教会に通うようになってから、日本のご自宅が近いこともあり日本に帰国された時は必ずといっていいほど成増教会に来られ、ニュージャージー日本語キリスト教会の近況を良く話してくださいました。ニュージャージーの教会の会堂建設の問題等、ずいぶんと心を砕かれ、ご奉仕されていました。2011年末に拠点を日本に移され、成増教会の会員になられてからは、ほぼ毎週のように日曜日の昼食をご一緒させていただいていました。

この場で高橋さんの素直な信仰、率直なお人柄を表したご自身の証しを紹介いたします。2006年にがんの手術を受けられた時の事の証しです。

(以下、高橋兄の証しの要約 : 高橋兄は2006年2月末、日本へ一時帰国された際に受けられた人間ドックで、大腸ガンの診断を受けられました。糖尿病の持病と心筋梗塞の病歴から手術の成功率は5分5分、でもこのままにしておけば2~3年は大丈夫かもしれないが、4~5年目には必ず腸閉塞になって苦しんで死ぬでしょうと担当医から宣告されます。本来、体が弱く60才位まで生きられればいい方だと言われていたのに、75歳(当時)まで生きてこられたのだから今死んでも十二分に元は取れていると、手術を受けない決心をされました。ガンの宣告を受けたにもかかわらず、ご夫妻そろって平安を保っていられたのは、お二人がクリスチャンであるということにあると気付かれ、既に天に永遠の命が用意されていて、無意識のうちに死を恐れない安心感が与えられました。その後、温熱療法や気功治療を受けられましたが、病状の改善は見られず、10月の再検査の結果、主治医の判断で11月1日に手術を受けることとなりました。入院前、高橋兄は「神さま、私に何か起きるのでしたら、脳梗塞だけはならないようにお願いします。もし脳梗塞になるのでしたら、すかさず天に召してください」と祈られました。弟さんを脳梗塞で亡くされ、脳梗塞のつらさと家族にかける負担の大きさがよくわかっておられたからです。手術後、翌2日の朝まで麻酔から覚醒せず、その間に心筋梗塞を起こすなど大変な手術ではありましたが、兄の祈りが聞かれ、手術は成功、ガンは切除され、2週間後に晴れて退院となりました。
この経験を通して、高橋兄は神様に守られていることを実感されました。第一に初期の段階でガンが見つかったこと、第二にガンと聞いても平安を保つことができたこと、第三に代替治療もトライしてうまくいかないことを納得した上で、担当医が背中を押して手術に向かわせてくださり、ガンの恐れを取り去ることができたこと、第四に脳梗塞を回避できたこと、そしてもう一つ、日頃余りコミュニケーションのない一番下の娘さんがご夫妻のサポートのために飛んできて、ゆっくり話をする貴重な時間を持てたこと。「これらはすべて神さまのみ恵みによるものと言う他ありません。本当にクリスチャンであることの喜びを感じて感謝しております。」(本文より、以上)

(証の全文は2009年2月号月報に掲載されております。)    http://jccofnj.org/?p=536

この証しの中で、高橋さんはお医者様を通して手術を成功させてくださった神様に感謝し、この後の人生は死んでもおかしくなかったのに特別に付け足していただいたものとして、神様のために生きようと思われたそうです。

最後に一言、3月3日に見舞いに行った時、高橋さんが、「五賀さん、天国に先に行って、あなたの部屋を掃除して待ってますよ」とおっしゃいました。私は、「高橋さん、天国の部屋は掃除する必要がないほど素晴らしいそうですよ。」と言い、高橋さんが「そうですか。そんなに素晴らしいですかね!」笑っておっしゃいました。高橋さんご自身が平安で、天国を待ち望んでいることが強く感じられ、逆に励まされました。

高橋さんのような素晴らしい方が天国で準備して待ってくださることは何と幸いでしょう。主に感謝します。
(3月20日の葬儀にて)

高橋さんは、亡くなる前の数年間を天国への準備期間のように位置づけられて、いろいろな方々にお会いになってもてなされたり、親切にしたりしていらっしゃいました。最後は病室にご家族全員が集まって、天国に見送られました。

晩年をクリスチャンとして人生を全うするお姿を間近で見せていただけた私達は、本当に幸せでした。悲しみの中にも重苦しさはなく、むしろさわやかな気持ちにさせていただきました。

天国への希望を与えてくださり、生きた証しを見せてくださる神様をほめたたえます。

月報2013年7~8月号より