「燃える柴のように」

私は、6月に大好きなニュージャージー日本語キリスト教 会に転入会しました。
この度はご挨拶も兼ねて、神様がい かに私の人生に関わって下さっているかをお証をする機会 を頂きました。ニューヨークに来て一年経ったこの生活を振 り返って、お証致します。

私が昨年、ピアノの勉強のためにこの地に来ることができ たのは、神様が与えて下さった奇跡でした。自分の能力や 努力ではどうすることもできなかったところに、主が働いて 下さり、明らかに道を開いて下さいました。「神様はやっぱり 凄いお方だ。この神様に信頼していけば何も怖くない!」と 実感できる奇跡だったのです。それなのに、来てからは試 練の連続で、何度も心に恐れを抱いては「大丈夫」と自分に 言い聞かせる日々でした。特にピアノの練習は不安で、競 争の激しい環境に圧倒され、思うように集中できない自分に イライラし、「本当に神様は私をここに呼んでいたのだろう か」と疑うこともあったのを思い出します。

そんな生活の中、ニュージャージー日本語キリスト教会で の毎週の礼拝は酸素吸入のようでした。賛美とメッセージ、 また皆さまの優しいお心遣いに、いつも励まされました。ど んなに沢山の心配事を抱えていても、礼拝に来ると、いつも 「神様に信頼しよう」と新たに思わされました。今も、よい教 会に導かれて本当に感謝だと痛感しています。

そうして数か月が経ち、2月から3月頭にかけて、博士課 程を受験しました。そもそもこの地で勉強をしていたのも受 験準備のためだったので、大きなプレッシャーを感じていま した。怖気づく中、イザヤ14:1「主はヤコブをあわれみ、イ スラエルを再び選んで、これをおのれの地に置かれる」とい う御言葉に励まされ、挑みました。しかし結果は惨敗で、受 けた三つの学校どれも落ち、賛美の歌詞にもありますが、 目の前が暗くなりました。「神様、あなたが私をここに置きま した。明らかにこの道を示して下さいました。なぜですか。次 はどうしたらいいのですか。」しかし神様は何も答えて下さい ません。

次のステップは、二つの選択肢がありました。帰国する か、OPT(Optional Practical Training と言って、留学生がビ ザを延長して働くことができる制度)で残るか。そしてOPTを するのだったら、どこで働くのか:以前いたイリノイ州に戻る か、この地にとどまるか。私の中では、導かれて来たこの地 に残って、もう一度受験に挑戦したいという思いが強くあり ました。しかし、経済的にも、帰国するかイリノイに戻ったら どうか、と親は言います。どうすることもできない状況だった ので、神様に切に祈り、委ねました。すると、神様はまたも や私を憐れんで下さり、全ての必要を満たして下さいまし た。OPT の申請も全てスムーズに済み、こんな恵みは相応 しくない私に、主はもう一度チャンスを下さったのです。行先 の答えを下さらないと思っていた神様は、一歩一歩、暗闇の 中で私の手を引いて下さっていたのだと今になって気づき ます。

もう一年はここにいられるとわかり、錦織先生に転入会の お話を頂きました。とてもお世話になっているこの教会にも っと関わって何かお返しできたらという思いと、自分の信仰 の成長のためにも奉仕を通して神様の働きを拝見したいと いう思いで、喜んで転入会させて頂きました。BIG(中高生の 集まり)のスタッフ、通訳、奏楽の奉仕の機会を頂けている のは大きな恵みです。 特に BIG での奉仕は、始めることができてよかったです。 最初にこの奉仕をやってみないかと聞かれた時、とても躊 躇いました。日本の教会学校での奉仕は小さい子ども相手 だったので、高校生と接する自信がなかったのです。「この 子たちのこの大事な時期に、躓かせてしまったらどうしよう。 こんな私が高校生にお話なんてできない」と、尻込みしてい ました。でも、やった方がいい、と聖霊様に突かれる気持ち がありましたし、OPT のため時間にも余裕があったので、引 き受けました。当初の恐れも、第1コリント3:6「わたしは植 え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、 神である」という御言葉で和らぎました。大事なのは私が頑 張って何かを語ることではなく、神様がこの子たちの心に働 かれることなのだと気づかせて頂けたのです。

BIG の奉仕を通して、私自身、今のところ二つの面で変化 させられています。一つ目は、祈りです。私は自己中心的な ので、自分のことはよく祈っていました。でも、9月に教師任 命式で前に立たされた時、このままではいけない、毎日彼ら の名を挙げて祈ろうと思い立ちました。これまで、誠実に継 続して誰かの祝福を祈ったことはあまりなかったのですが、 神様がその思いを与えてくださったので、変わることができ ています。すると不思議なことに、今まで名前もあまり知ら なかった高校生達に(勝手に一方的に、ですが……)興味 が湧き、もっと関わりたいという思いが与えられました。ま た、祈りの習慣が変えられたことから、他の様々な悩みの 種も、毎朝神様の前に持っていって、委ねて平安を頂く経験 をさせて頂けています。

二つ目に変えられたのは、神様をもっと知りたいという渇 きです。ある日の BIG でリーダーから「今神様から何を頂き たいか」という質問がされました。勇気や力という答えも挙 がり、信仰と答えた子も何人かいたのを覚えています。「神 様への信仰をもっと強く持ちたい」という言葉を聞いた時、私 は「神様がどんなお方で、どれだけ信頼できる方なのか伝 えたい」という思いを与えられました。すると次に心に浮か んだのは、「私自身はどれだけ神様のことを知っているのだ ろう」という疑問です。ずっと教会に来て、聖書を読んでいた 気になっていましたが、何も知らないのだと気づかされまし た。神の属性に関する本を何冊か読み、祈り求めるうちに、 ますます神様の素晴らしさ、私の理解を超えたその深く大き な愛を思い知らされ、もっとこの方を知りたい、そして私の人 生ももっとお委ねしたいと渇きを頂くことができました。

この二つの変化は、BIG の奉仕を引き受けていなかったら 得られませんでした。そして、受験に失敗し、OPT による時 間の余裕がなかったら奉仕を引き受けることはなかったと 思います。神様は私の失敗を用いて、私の弱さを示して下 いました。さらに、失意のモーセのもとに燃える柴の中で現 れたように、主は奉仕を通してご自身を私に現してくださり、 よりすがる渇きを与えて下さったのです。まだまだ変化の過 程の中にいますが、これから神様がどのように私を導いて 下さるのか、全ての面で主に信頼して、期待しつつ歩んでい きたいです。

「すべてはキリストのためであることを知っているので、そ の『とげ』も、侮辱も、苦しみも、迫害も、困難も、大いに喜ん でいます。なぜなら、弱い時にこそ、私は強いからです。― 無力であればあるほど、それだけキリストによりすがるよう になるからです。」 (第2コリント12:10)

月報2016年11~12月号より

「The Brave教師に導かれて」

ニュージヤージー日本語キリスト教会で「主にある家族」としてお付き合いくださり、数え切れないほどの祈りと助けと励ましをくださった皆様へ、心より感謝申し上げます。

7月初めにカリフォルニアへの引越しを無事に終え、今ニュージャージーでの教会生活を振り返り、特に強く神様の導きと訓練を感じました「The Brave (教会学校)」の教師というご奉仕についてお証しさせていただきます。

「受けるより与えるほうが幸いです。」(使徒行伝20章35節)このみ言葉に励まされ、2009年の9月からThe Brave教師の奉仕に立ちました。しかし当初は、私の中に教師としての「自信」などは全くなく、聖書のお話やみ言葉の意味をどのように子供たちに伝えたらよいのか、毎回悩みの連続でした。

聖書の中に、イエス様のもとに5千人が集まるシーンがあります。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」と問うイエス様に対し「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」と答えた弟子の言葉はそのまま私のつぶやきでした。「この小きき者に一体何ができますか?」と。このような信仰が浅かった私に対しても、主は「それをここに持ってきなさい」(マタイ14章18節)と言われ、忍耐強く私を導いてくださいました。

月1回のThe Brave&BIG教師のミーティングである「教師会」に集い初めた頃を思い出します。みことばシェア(お証)、祈りの時、カリキュラム確認と続き、子供達のための様々なイベントについて毎回真剣に話し合い、神様の導きを求めつつ、意見を交わす、その確立した体制や熱意ある先生達の祈りに「教会の子供達は実に恵まれている」と感心したことを覚えています。

教会学校の教師がひたすら祈ることは、教会へ来ている子供達が神様の普遍の愛—無限であり無償でいただける、優しくて強い「神の愛」を知ることです。聖書にはこう書かれています。

「愛は神から出ているのです。…私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」  (第一ヨハネ4章7—10節)

さらに現代の複雑な社会の中で、思春期の子供達が不安・混乱・矛盾、心の葛藤などを経験していく時にも、神様に依り頼み、善悪を見極めて誘惑をはねのける力、問題を解決していく力、希望を失わず生きる力が神様から与えられていくことです。

「見いだす者には、それはいのちとなり、その全身を健やかにする。力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」  (箴言4章22-23節)

この「いのちの泉」とは、決して渇くことのない水があふれる所ですが、ある日ふと「教師会」が私にとっての「いのちの泉が湧く所」になっていることに気付きました。毎日3歳と5歳の子供の世話で忙しくしていた私に「教会学校教師」という奉仕が与えられたのは、実は「神の前に静まり、祈りの時を持ちなさい」との主の招きだったのです。聖書を開き、み言葉に親しみ、心を一つにして祈り合うことこそ、当時の私にとって必要なことでした。主を身近に感じながら、私はいつも平安を得ることができました。

教会学校では一年を通して様々な活動があります。毎週日曜日のThe Braveの礼拝に加え、主の復活を祝うJoy Joy イースター、主の御降誕を祝うJoy Joy クリスマス、夏の一大イベントであるJoy Joy キャンプ etc…。これらを担っていくため、プログラムを組み、準備に時間を割き、人々に仕えていく、それはまた自分を犠牲にすることでもあります。体と心が疲れた時に、繰り返し私の心に響いていたのは「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6章33節)というみ言葉でした。

そしてこのみ言葉は、ニュージャージーの教会での最後の礼拝で我が家の子供達が洗礼を授かった瞬間に成就したのです!同時にこの洗礼の恵みは「奇跡」でもあります。子供達の「神様の子とされて歩みたい」「錦織先生から洗礼を受けたい」との思いが現実にされたからです。一年前にも6ヶ月前にもこのようなことは考えられませんでした。今、子供達の心の中に確かに教会で培われた神様の愛、聖書の一つ一つのお話やみ言葉、神様の子供とされた喜びが着実に育っています。錦織先生、教師の皆様、教会の皆様の愛とお祈りに深く感謝するとともに、主が与えてくださった恵み、み言葉の確かさを覚え、救い主、主をほめ讃えます。

「教会学校の教師」という重荷を用いて、主は確かに私の霊性を整え、信仰を鍛え、教会に来る子供達への愛情を増してくださいました。そして子供達の中にある純粋さ、素直さをみるたびにいつも心に語られたのは、イエス様のこのみ言葉でした。

『子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。』  (マタイ 19章14節)

 

月報2016年9~10月号より

「苦しみを祝福に変えてくださる神様」

2010年、私の結婚生活は夫の実家で義母と一緒にスタートしました。

結婚という未知の生活、慣れない土地、義母との同居、様々な不安がありましたが、そこに至る経緯に不思議な出来事が重なっていたことに神様の導きを感じ、祈り、決断してのスタートでした。

しかし、数カ月後、義母と大きな衝突が起きました。それからは義母の意に反することが何よりも恐ろしく、常に義母が何をしたら怒るかばかりを考えるようになりました。今振り返ると、夫とも家族になりきれておらず、お互いの信頼関係もなかった中で、私にとって義母の存在は絶対に逆らえない重圧でした。小学校1年生の時に父を亡くした夫にとって、女手一つで一生懸命育ててくれた義母がどれ程影響力があるかを考えると、私たちの結婚を壊せる恐ろしい存在に思えたからです。義母から言われた言葉が頭から離れず、夜も眠れず、食事も喉を通らず、嘔吐する中で、「自分を認めてもらうためには『一点の非もない人間』でならなければならない」「ふさわしい嫁にならなければ」と思い込み、夫に自分の弱さを相談することもできず、家にはなるべく遅く帰るために残業をしたり、駅や近くの公園で夫の帰りを待ったりする日もありました。徐々に心の中で義母に対する不信感が芽生え、義母の粗探しをすることで義母が非難したものを正当化するようになりました。すでに心に愛や平安はなく、恐れと憎しみで渇ききっていました。義母から解放されることだけが私の希望であり、そのためには離婚すら考えるようになりました。

結婚から1年、夫と2人で夫の実家を出て新居に引っ越しました。義母から絶縁され、私は完全に教会に行けないと思いました。夫から義母を奪ってしまった私が、自分だけ自分の実家の家族が集まる教会に行くなんてできない、義母と良い関係を築けなかった私がクリスチャンとして夫に証なんてできないという思い、そして、私がいない間に義母が夫を離婚するようにと説得したら…夫が実家に帰ってしまったら…という恐怖心から私は教会と自分の実家の家族から離れ、仕事以外のほとんど全ての時間を夫と過ごすようになりました。

しかし、離れれば解放されると思っていたのに、優しく思いやりのある夫の姿に義母に対する感謝が起こり、夫のしぐさや口癖に義母の影響を感じて嫌悪感が起こり、義母の言葉を思い出して許せない気持ちが再燃し、最愛の息子に会えず寂しく暮らしているであろう義母を想像して涙し、どんなに蓋をしたりコントロールしようとしても義母を思わない日は一日もなく、むしろ自分の汚い泥沼の感情の中でもがき苦しみ続けました。

そんな中で、私は生まれて初めて心の底から神様を求めるようになりました。考えてみたら、それまでの私は受動態の信仰でした。クリスチャンの両親のもとに生まれ、物心つく前から教会に通い、小学校6年生で受洗し、中高はミッションスクールに通い、必要な御言葉、メッセージは常に求める前から与えられてきました。祈りに応えてくださる神様が大好きで、イエス様も聖霊様も信じていました。しかし、どうにもならない自分の醜い感情、弱さ、愛のなさを嫌というほど思い知らされ、それでもなお自分を正当化しないと生きていられないような苦しみの中で、言葉にならない言葉で神様を求めました。初めて自分から「生きる指針」を探し、神様とのつながり、神様の御心、聖書をもっと知りたいと願うようになり、ネット配信されている中川健一先生の「ハーベストタイム」を聞くようになりました。毎日の通勤や帰宅後、ひたすら創世記、出エジプト記、ローマ人への手紙、福音書の講解メッセージ(毎回一章ずつ順番に解説するもの)を聞き続けました。それまで知ってるつもりになっていた聖書への理解が全く変わっていきました。

別居から2年後、義母との交流が再開し、その半年後に夫の転勤でNYに引っ越し、NJ日本語キリスト教会に導かれました。礼拝堂に入った瞬間、初めての教会なのに、何とも言えない懐かしさ、喜びが溢れました。ほぼ4年ぶりの牧師先生の生の説教、賛美、クリスチャンの方々との交わり、全てが嬉しくて感謝と感動で心が震え、「帰ってきた…」と感じました。しかもずっと願っていた夫と一緒に。それから1年、素晴らしい主にある家族との交わり、先生を通して必要なメッセージを語ってくださる神様のもと、感謝に溢れる毎日を過ごさせて頂いています。

先月、義母をNYに迎えました。約2週間の滞在でしたが、義母に遊びに来てもらおうと提案したものの、日が迫るにつれ過去の記憶がよみがえり、不安になっていた私に、「好きは感情、愛は行動」「好きという感情は持てなくても、愛するという行動はできる」とメッセージ(2016年2月28日「敵意を超える生き方」)を与えてくださり、「愛をもってお義母さんと接することができますように」と祈りました。義母と一緒に過ごす中で、ふと義母の背中の小ささに気づかされました。驚きました。私にとって義母は絶対に動かすことができない大きな大きな存在だったからです。義母の手の白さに「あぁ、この手で一生懸命夫を育ててくれたんだ」と胸が熱くなり、過去のことも「義母も必死だったんだ」と分かった瞬間、慣れない外国で驚いたり喜んだりしている義母の笑顔が愛しくなり、「夫の」ではなく「私の」母と思うことができたのです。「何事もなく無事に」と願っていた母の帰国日は、母への愛情と寂しさと神様への感謝で涙が溢れました。神様は私の人生最大の奇跡、私の心に義母に対する愛情を与えてくださったのです。

夫の実家を出たあの日、こんな日が来るなんて誰が想像できたでしょうか。あの頃、夜中に起きては聖書を開き、「神様なぜですか」と泣きながら問い続けました。「何かの報いでしょうか」「神様は本当に今も私の側にいてくだるのでしょうか」と。

今回、この証を書きながら、あの頃の苦しみが今の私への祝福だったと分かりました。

義母、実家族との遮断を通して、私自身も精神的に「父母を離れ」、夫にどんなことも相談し、強い絆と信頼関係をもった夫婦になれました。夫を失いたくない一心でしたが、夫を愛し、夫に仕えることを学びました。何より、義母とのことで自分の中の悪、どうにもならないに醜さ、弱さ、渇きを知りました。「罪を犯すから罪人」ではなく「罪人だから罪を犯す」とメッセージで聞いた時、まさに自分の事だと胸に衝撃が走りました。イエス様がゲッセマネで血の汗を流されたほど恐れた“父なる神との断絶”は、本当は私が永遠に味わうはずの恐怖だったのだと気が付き、心から悔い改め、イエス様の十字架に感謝し涙が溢れました。

「同居さえしなければ」「私がもっと違ってたら」「結婚しなければ」…「たられば」で頭がいっぱいだった長い年月の一つ一つ、全て何も欠けては成り立たない神様のご計画でした。義母とのことがあったから、自分の罪を知りました。神様を求め聖書を学びました。教会に行けなかったから、教会に集える喜びを知りました。結婚したから、夫との愛を通して神様の愛が分かるようになりました。本当の平安は、復讐や憎しみからは得られない、また、自分の努力でも得られない、神様からの愛だけが苦しい心に平安を与えるのだと心から信じることができました。

『神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。』(伝道者の書3章11節)

神様が私にどのような未来を準備されているか私はまだ知りません。より大きな困難があるかもしれません。より長い時間苦しみの中を通るかもしれません。けれど、どんな困難な時も、満たされている時も、どんな時も神様に喜ばれる生き方を選ぶ知恵と勇気が与えられますよう、神様を信頼して希望をもって進んでいけますよう、祈りつつ生きていきたいです。

 

月報2016年7~8月号より

「私の人生が変えられた理由」

私は、幼いときから誰よりもこの自分を知りたいという強い願いがありました。一生懸命勉強をしたら、いずれかこの願望が叶うと信じていましたし、その為努力を一杯積んできました。だから、大きくなってから、私は生命科学の道を選びました。

それと同時に、自分も自然に幸せになれると思っておりました。
しかし、その考えに大きな落とし穴があると言う事に最初に気づいたのは、大学にいた頃、私の同級生が一時成績が最良でなかっただけの理由で、自殺をした事でした。

自分をを知るため勉強をしたのに、なぜその途中で自分を死に追い込まなければならないのか。それは、幸せを感じなかったではないのか。
そう思いながら、私は、そもそも幸せが何かを、考え始めたのです。
自分の肉体のことをいくら知っても、心が幸せじゃなければ、それは自分が自分を知るということにはなってない。

卒業の後、私は臨床と研究とビジネスの道を歩み、二十年を過ぎました。その間も、自分自身も色々な人生の難関に出会いました。

心の安らぎを求める為、私は一時期いろんな“心豊かな“人と友達になり、そして成功した人が書いた書物も一杯読みました。心の教養レベルがこれで上がると信じたわけです。

名声ということに興味が沸いた時があります。他の人たちの“リーダー”となって有名になることさえできれば、心豊かな有意義な人生を送れるのではないかと思ったのです。その名声というのは、なにも学問とか能力とかにこだわらなくてもいいと思ってました。

それに大きな疑問をかけたのは、去年夏ごろ故郷中国上海に帰ってからでした。その時、私は昔の中学校の同級生達の同窓会を参加しました。気づいて悲しくなったのは、彼らの多くが、自分が他人より優れてることに凄くこだわっている事でした。彼らは、ひたすら自分がどれだけ裕福なのか、どれだけ事業に成功してるのか、どれだけ会社で高い位置についてるのかを見せびらかし、他の人たちの“リーダー”になりたがってました。彼らは、明らかに、高度発展の社会の悪の誘惑に負けたのです。人間性は生まれながら弱い、それに抵抗するために高い霊性を持たなければならないと私はその場でふっと思ったのでした。

アメリカで、私の以前からの親友にこの感想を持ち出して話したところ、クリスチャンであるその方からクリスチャンへの信仰を勧められました。今までの十年間、私は以前も何度も行ったり行かなかったりクリスチャンの礼拝に参加した事もありましたが、この時はじめてイエス・キリストを信じる決意をしました。『あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。』(詩篇119:105)

人間はみな弱みを持ってます。その弱みを克服するためには、肉体と心を知るだけでは足りません。信仰によって、より高い霊性を養わなければいけません。その霊性とともに、自分を愛し、そして他人も愛する。それは、まさに、イエス・キリスト自身の歩みではないでしょうか。。『愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで心理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。』(コリント人への第一の手紙13:4-7)

主イエス様。私はあなたを必要としています。あなたが私の罪のために身代わりとして十字架にかかって死んで下さったことを感謝します。私の罪を赦し、私を清めてくださったことを感謝します。私は今あなたを、私の救い主、人生の主としてお迎えいたします。私の人生を導き、私をあなたが望んでおられるようなものに変えてください。アーメン。

月報2016年3~4月号より

ランディ・ホンゴー牧師による証

今回の証は、私たちの教会を東海岸の母教会と呼んで懇意にしてくださっているChristian Visionのランディ・ホンゴー先生が書いてくださいました。
(http://www.rghongo.com)

私は1947年7月1日、ハワイのビッグアイランドと言われるハワイ島のヒロという町で生まれました。私の父は日系人で、母はハワイ人と中国人のハーフでした。2歳下にルツという妹がいます。両親はランの栽培をしていました。私は子供の頃は農園で花を摘む手伝いをしていました。大きくなって車の運転ができるようになると、私はランを花屋に届けたり、世界中に出荷するために、空港まで配達したりしていました。私の両親は、ずっと、私が家の仕事を継ぐことを期待していました。

しかし、ハイスクールの時に、私はクリスチャンになり、人生が変わりました。私はユース・フォー・クライストというクリスチャンクラブに参加するようになり、そこで、クリスチャンの友達がどのように信仰を持つようになったのかという証しを聞いたのです。初めて聖書を読みました。クリスチャンの賛美歌を知りました。4ヶ月その集まりに通ううちに、私はイエスがどんなに私のことを愛してくださっているかを知りました。イエスを私の個人的な主、救い主として受け入れる準備ができたのです。そして、1963年12月22日、私はイエスを受け入れました。

それから、私は神様に、自分にどんな仕事をして欲しいと思っておられるか、見せてください、と祈るようになりました。私は10歳からピアノを始めていましたが、ピアノを弾くのが大好きでした。また文章を書くのも好きでした。ですから、私は神様に祈りました。「私は家を継いでランの農園をすべきでしょうか?それとも、英語の教師でしょうか?それとも、音楽の教師でしょうか?」

1965年にハイスクールを卒業すると、私はオアフ島に出てきました。ホノルルのハワイ大学に入学したのです。私は英語の先生になろうと英語を勉強することにしました。でも、私は音楽が大好きだったので、音楽のクラスも取りました。その音楽のクラスでキュートな女の子に会いました。彼女の名前はゲイ・シンサトといいました。彼女と私は最初は良い友達となり、やがて恋に落ちたのです。

ゲイはとても美しい歌声をしていました。そして、時々は私も一緒に歌を歌いました。それまでの私はシンガーというよりもピアニストでしたが、彼女と一緒に歌うことによって、シンガーとしても上達したようです。彼女は私に会う前の年にクリスチャンになっていました。彼女は私を教会に誘ってくれました。私は他の島からやってきたので、ホノルルの教会については何も知らなかったのです。ゲイのおかげで、私はカリヒ・ユニオン・チャーチに通い始めました。

英語で学位を取って、私は大学を卒業しました。卒業してすぐ、ゴスペルを歌うチームの一員として、アメリカ本土に招かれて、1年間、アメリカ中を回りました。そして、ハワイに帰って、1971年7月31日にゲイと結婚しました。

結婚する頃には、ゲイと私はチームとして、自分たちの教会や他の教会でも、一緒に歌うようになっていました。ゲイはハイスクールで音楽を教え、私は小学校の4年生を教え始めました。そんな時、神様は、私に音楽の仕事をするようにと語り始められたのです。3年ののち、1975年に私たちはケンタッキーのルイビルに引っ越しました。そこで神学校に通い、教会音楽の修士号を取るためです。このころの私の計画はハワイの教会で音楽主事として働くということでした。このルイビルで1978年の4月3日に息子のアンドリューが生まれました。ルイビルでは多くのバプテスト教会が私たちを招いてくださって、賛美の歌を歌うチャンスを与えてくれました。この期間は、ハワイの文化や音楽、そして、クリスチャンとしての証しを分かち合う働きを始めるための準備の時として、神様が私たちを訓練してくださる時だったのだと思います。

私たちは1980年にハワイに戻りました。そして、カリヒ・ユニオン・チャーチで音楽主事として働き始めました。同時に、いくつもの教会から「歌って欲しい」との依頼が入るようになりました。私たちは神様の導きを感じて、1982年に教会の音楽主事の職を辞し、独立して「Christian Vision」という団体を作って働きを始めることにしました。それから、Christian Visionを通して、ハワイや、アメリカ各地、そして全世界で、音楽を通して神様の良き知らせを伝える働きをさせていただいてきました。ゲイの故郷である日本では24回、そして、他にも、韓国、中国、ベトナム、カンボジア、マレーシア、ブラジル、ドイツ、オーストリア、スイス、イングランド、スコットランド、ウェールズ、カナダなど各地を回って、コンサートをさせていただきました。19枚のCDを出しました。1998年にはアメリカの大統領のお招きをいただいて、朝食祈祷会で賛美をさせていただきました。神様は神様のための私たちの音楽の働きを豊かに祝福してくださったのです。

2011年に、私は多発性骨髄腫という、血液のガンと診断されました。私たち家族は2011年12月からしばらく南カルフォルニアに滞在することになりました。それは、私がシティー・オブ・ホープがん研究センターで治療を受けるためにです。そこで5ヶ月間のキモ・セラピーを受けた後、2012年7月に幹細胞移植を受けました。2012年8月の末にはハワイに戻り、そして、2014年の11月に私のがんの担当医はガンが寛解していると診断を下しました。神様が癒してくださったのです。ハレルヤ!

しかし、ガンの治療を受けている間に、私の腎臓はダメージを受けて、人工透析を始めなければなりませんでした。また、2014年の6月には中程度の心筋梗塞を起こしました。その後、心臓は強められていますが、休息は必要ですし、スケジュールもあまり忙しくならないように気をつけています。コンサートは続けていますが、休息のために十分な時間を取らなければならなくなっています。

今、私は健康について多くの戦いを感じています。しかし、神様が私を強めてくださって、続けて神様を愛し、神様に仕えることができるようにしてくださっています。私は、日々、私のことを心にかけてくださり、私に目をとめてくださっている神様に感謝しています。私は、日々、イザヤ書41:10のみ言葉に立たせていただいています。

「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。」

私の人生の中で、健康な時も病の時も、神様はいつも私と一緒におられました。

神様は、高校生だった私にご自身を示してくださって、私はクリスチャンになりました。

神様は私のところに美しい日本人の女性を連れてきて、今日まで44年間連れ添う私の妻として与えてくださいました。

神様は私に、今はニューヨークに住んでいる素晴らしい息子アンディーを与えてくださいました。

神様は私の人生の仕事は神様のために音楽の働きをすることだと示してくださいました。

神様は私に世界に広がる音楽の働きを与えてくださいました。

神様は私にたくさんの歌を書かせ、たくさんのCDを録音させてくださいました。

そして、私の病の時には、私を支え、強くし、神様が私を愛してくださっていること、心にかけてくださっていることを示してくださいました。

神様が与えてくださった素晴らしい人生のゆえに、また神様がしてくださったすべてのことのゆえに、私は神様をほめたたえます。私は命の日の限り神様を賛美する歌を歌い続けます。

月報2016年1~2月号より

「先日、娘が結婚しました。…」

先日、娘が結婚しました。

10 歳のころから、教会に、教会の皆さんに、いえ神様に育てていただいた一人娘です。本当に、神様に出会っていなかったらどうなっていたかと思うと、この不思議なご計画に、ただ、ただ感謝です。

「絶対泣くよ」、「大泣きだよ」、「大きなタオル持って出席しないと」、などという皆さんの暖かい?お言葉に送られて、日本での結婚式に臨みました。日頃から涙もろい私は、自分でもきっと涙が止まらないだろう、号泣しちゃうかもしれないな、でもこの日ばかりは許してもらおう、と覚悟していました。

式を明日に控えた前日、家族で夕食を共にしました。食事の前のお祈りで、娘を神様から与えられたことに感謝しようと口を開いた途端に、今までのすべてのシーンが、頭の中に次々に現れてきて、涙が噴き出し嗚咽で口がきけなくなっ
てしまいました。家族から(娘からも)笑いがこぼれる中、何とか感謝とアーメンを言うことができました。明日はどうなることか、、、でも、仕方ないよね、という感動の一夜を過ごしました。

さて、いよいよ当日。おとなしく花嫁の父を演じていては、ただのむさくるしい涙ジィさんになってしまうことは容易に想像がつきましたので、趣味を生かし、カメラマンをやることにしました。「花嫁の父がカメラマンするのぉ?」という周囲の声もありましたが、何かに集中していないと、やっぱり泣いちゃうような気がして・・・・それに、赤ん坊のころから何千枚も撮り続けた娘の写真を今日撮らないでどうする、という思いがありました。従って、準備には気合が入っていました。優しい奥様の許可を得て、ちょっといいカメラと高級レンズを購入。いつもは持たない予備の電池もアマゾンで購入。新しいカメラには修養会のカメラマンで慣れ、準備万端でした。何しろ私にしてみれば、今までの思いの集大成とも言える「時」なのですから。

式が始まり、目頭が熱くなって前がよく見えなくなること数回。やっと花嫁の父役から解放され、モーニング姿のカメラマン登場です。ファインダーの中で、娘の花嫁姿と赤ん坊の頃の娘の姿が重なり、夢中でシャッターを押し続けました。前半快調に撮ったおかげで、アマゾンの安い電池は早くもアラーム点灯。やっぱり予備があってよかったねと、電池を換えようと思った瞬間、背筋がゾォ?っとして、心臓バクバク。「予備電池失くした!!」なに?っ!!これからいい所なのに・・・新郎新婦入場は?ケーキカットは?家族の集合写真は?

「何のために、カメラ買ったんだ??っ!」

結局、しばらくして、失くした電池が見つかり、モーニングカメラマンは復帰したのですが、その間の写真は数枚しかないということになってしまいました。

そして、その日最後のクライマックスシーン。花束贈呈の後、私が両家を代表してご挨拶をすることになっていました。私の筋書きでは、この時点で、持参したタオルはグチャグチャで、泣きはらした目で感動的な挨拶をする予定でした。もちろん、そういう状況下でのスピーチの原稿は、誰にも言っていませんが、頭の中で何度も練習していました。ところが、、、、

この時まで、不思議なことに全然泣いていないんです。私の心の中の原稿は、自分でも良い話だと自負していたのですが、泣いてないと話せない内容でした。急遽、スピーチの内容変更。泣いてもいないのに、しどろもどろのご挨拶にな
ってしまいました。

実は、少し前から、娘の結婚が近づくにつれ、神様が絶えず私に語りかけているような、実際神様の声が聞こえるような、ふとそんな気持ちになることが幾度もありました。

娘が巣だって行くことはやはり寂しいことで、気がつくと涙がこぼれていることがあるのは事実です。しかし一方、とても喜ばしいことでもあります。何しろ、この人生という、決して楽しいばかりではない、長い道のりを共に歩く伴侶が与えられたのですから。けれども、親として、若い、幼いカップルを離れて見ていると、本当に危なっかしい。些細なことで喧嘩したり、メソメソしたり。親から見るとこうすればいい、ああすればいいと教えてあげたいことが山ほどあります。できることなら行って、忠告したり、なだめたり、何かしてあげたい。そういう思いが何度も心の中に湧いてきます。

でも、それは若い2 人が望むことでもないし、本当に本人たちのためになることなのかわからない。第一、地球の反対側に居ては、実際そんなことができるわけがない。結局、直接には何もできないんだなぁと、親の無力さに、また寂しくなっていました。そんな時、その思いの中に、神様が、「私がいる。私が2 人のそばに居て良くするのだから、何も心配しないで、ただ祈っていなさい。」そう語っていました。

そして、結婚式をも用いて、主は、

「自分の力ですべて良くしようと思っても、お前には何もできない。いくら万全の準備をしたつもりでも、娘の写真1 つ思うように撮れず、自分の感情すら思いと異なるのだから。ただ、私に依り、祈りなさい。」

そのように、語ってくださいました。私の、何でも自分が頑張れば良くなる、自分が何とかしなくては、という思いの限界をお示しになり、神様の愛に頼る生き方を教えて下さっているかのようでした。

まだまだ長い残りの人生を、喜びにあふれ、しっかりと歩むうえで常に見上げて行くものは何か。娘の新しい門出に、人生の道しるべを与えられたのは、この私でした。

私の心には、次の御言葉がこだまのように響きわたっていました。

「力を捨てよ、知れ/わたしは神。」(詩篇46: 11)

アーメン。感謝します。

月報2015年11~12月号より

「私の生まれた地は、現在のロシア…」

私の生まれた地は、現在のロシアのサハリン(旧樺太、戦前は日本の領土)です。戦後、昭和23年11月に日本人として最後となった船で、親戚を頼りに大家族11人と共に引き揚げて、北海道紋別郡生田原町に落ち着きました。数年後、奇しい出来事が起こり、岩見沢市郊外に住み、小学から高校まで過ごしました。やがて、社会人として札幌に移り、数年後には結婚、長女出産、その後、室蘭市に仕事の関係で移り住みました。
ある日、近くで開拓伝道をしておられたスウェーデンミッション白鳥台キリスト教会のアナニア・トシエル宣教師が訪ねて来られ、一枚のトラクトを渡されました。以前、中学校で歴史の教科書で学んだキリスト教は、「自由、平等、博愛」の精神が根底に流れていると感じていて、宗教は嫌い、私には必要無いと常に思っていた私の心にその時何かが響いたような気がして、直ぐに祈祷会に出席し、礼拝へと導かれました。また、吸い込まれるように聖書をむさぼり、通読する日が続くようになりました。礼拝とは云っても、トシエル師と若い女性の伝道師と私の三人だけでしたが、私にとって恵みの時、救いの時だったと、後になり神様のご計画であったことを主から知らされました。間もなく、聖書の冒頭にある「初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。創世記1:1-2」という御言葉に圧倒され、神様に捕らえられてしまいました。
そのような中にあって、人目にはわからなかったようですが、主人との関係が悪い状態に陥っていました。こんな時こそ神様にすがるしか道が無いと追い込まれました。すると、数々の御言葉が与えられ、祈られ励まされて、神様の愛がどれ程に深く絶大であるかを示されました。そして、何よりも神様の御名を冒涜し、傲慢な私の心が罪であることを知らされました。
二千年前にこの私の罪のために、父なる神は愛する独り子イエス・キリストを人として地上に送り、イエスは私だけでは無く全人類の罪を担い、苦しみの十字架の上で打ち砕かれ、血を流して死んでくださり、その血潮のゆえに罪赦されたことを知りました。また、三日目によみがえり、弟子たちに現れ、神の国を語り教え、天に昇り、父なる神の右に座し、今も私たちのために執りなしてくださっている事を知りました。永遠の命が与えられる希望を固く信じ、イースターにその教会の初穂として洗礼を受けました。洗礼の日、礼拝の始まる前より、涙が止まらず二時間ほど続き、洗礼式に臨んだ事は忘れられません。聖霊が私の体、霊の中に圧倒的に臨んでくださった事を後で確信しました。ハレルヤ!!  私の人生はこれからすべてバラ色、元の幸せな家庭生活が送れるのだと神様に感謝を捧げておりました。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。使徒16:31」
しかし、主人は私たちの前から姿を消したのです。受洗二週間後、主人から丁重な手紙が届き、帰る事は出来ない、死を選ぶとの内容に驚き、地球が180度回転したような、頭の上では真っ黒な雲が渦巻いている幻を見てしまったのです。幸い、近くに教会がありましたので、1日に何度も祈りに行き、トシエル師には「ご主人は必ず生きていますよ」と励まされましたが、どこかの教会に飛び込んで、神に助けを求めてほしいと泣きながらの日々でした。
やがて、室蘭で住む事が困難になり、札幌に移り、OMF(国際福音宣教会)の教会に集い、祈りと励ましを受けました。興信所に足を運び、主人の行方を依頼する事になったのが、娘が5才の時でした。その時、何よりも力となり、私を支えたのは聖書の御言葉でした。
8ヶ月後、祈りが答えられ、その年のクリスマス・イブの日に仙台で再会し、数知れずの厳しい現実と向き合いつつ再出発しました。仙台で私が行き始めていた仙台国見教会のイースター礼拝に主人は約束通り出席し、礼拝のメッセージと聖霊の助けにより、イエス様を信じ救われました。礼拝後、赤裸々に罪を告白し悔い改めました。そして、ペンテコステの日に洗礼を受けました。
その主人が5年前にスキルス性の胃癌と宣告され、10日間の入院の間、お会いする方々に感謝の言葉を言い続け、イエス様が共に闘ってくれた事を語り、最後には神様の御手に捉まるようにしながら、身許に凱旋しました。葬儀には私の姉妹や甥たちも遠くから駆けつけてくれて、「キリスト教の葬儀はとても良いね。感じる事が多くあった」と言ってくれ、私も十字架の出来事を語る事が出来ました。錦織先生とは以前から再会の約束をしていましたが、ちょうど日本を訪問されていた先生が来られたのが前夜式の時となり、先生からも慰めの御言葉をいただき、神様の愛と憐れみを感じました。
翌年3月11日に東日本大震災が発生し、3分43秒の地震に自然界の恐ろしさを体験しました。私のしていた仕事の関係から、多くの被災者と向き合い、現場にも接し、その苦しみと悲しみを微力ながら共に分かち合いました。
その後、アメリカに住む娘たち家族と生活をするように導かれ、人生で一番長く時間を過ごした仙台を離れ、2012年11月にアメリカにやって来ました。翌年にNJ日本語キリスト教会のメンバーとして加えさせていただきましたことに感謝しています。はや3年を過ぎようとしています。
私が今思う事は、この世の厳しい時代に生かされた者として、この地上では残された時間は少ないかも知れないと感じています。しかし、私たちの国籍は天国にあり、そこには住む家を用意していてくださると約束されている希望のゆえに、患難さえも喜び、忍耐を持って祈り従う者となりますように。これ程までに愛して下さるお方を一人でも多くの人達が信じ、救われますように。そのために約束の御言葉を宣べ伝える事が出来ますように助けて下さいと祈る日々です。再びイエス様がこの地上に来られる事を固く信じます。主イエスよ、来て下さい!! アーメン

月報2015年9~10月号より

「結婚前は自分のことを…」

結婚前は自分のことを愛情深い人間だと思っていました。
人生の価値はいくら貯金をしたかとか、高い地位に就いたとかではなく、どれだけ人を愛し愛されたかにあると公言するほどでした。

主人と私は2009年1月にNJで新婚生活をスタートさせました。ドラマのように甘く幸せな新婚生活を描いていましたが、実際は、初めての共同生活、初めて暮らす土地、言葉の壁、様々なストレスが一気に押し寄せ、口から出るのは不平不満ばかり。
主人は精一杯やってくれているのに、常に心を占めるのは「こんなに頑張っているのに、主人は分かってくれない」というつぶやきでした。
愛を持って穏やかに主人に接したいという思いとは裏腹に辛くあたってしまう毎日でした。

11歳で洗礼を受けたものの、神様から遠く離れた生活を十何年も続けていた私でしたが、その時は不思議と教会へ行こうと思い立ち、すがるような気持ちで毎週教会に通い、涙ながらに祈りました。
自分ではどうすることもできずにいた時、バイブルクラスでサマリヤの女の箇所が開かれました。
「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」ヨハネ4章13・14節

その時、自分の心がカラカラに干涸びた井戸のように思えました。
干涸びた井戸から、なんとか愛を絞り出そうとする自分の姿が見え、ハッとしました。

「神は愛なり」という御言葉は聖書をあまり知らない人でも聞いたことがあると思います。その箇所にはこう書いてあります。

「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」 第1ヨハネ4章8節

神様は愛情深いとか、愛に満ちているというのではなく、「愛そのもの」だと言うのです。
そして愛とは、
「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。」第1コリント13章4~8節
だと言うのです!

愛して結婚したはずの主人に労りの言葉をかけることも惜しみ、求められるものも与えず、欠点を暴き出しては責め立てる・・。聖書が言う愛とは真逆の自分の姿に、私の心には元々愛など存在しないとはっきりわかりました。
そして、愛の源泉である神様に繋がって愛を頂きながら生きたい!と強く思いました。

愛が神様のものだとわかってからは、自分の力で愛をひねりだそうと自分自身に寄り頼んでいた私の傲慢さが浮き彫りになりました。
それと同時に、そんな私に無償の愛を注ぎ、許し続けて下さる神様の哀れみを感じ、私も主人を無償の愛で愛し、許したいという思いが与えられ、もう一度イエス様に従って歩む決心をしました。

この「二度目の救い」とも言えるような信仰のリバイバルから6年が経ちました。
雷に打たれたように、神様を信じたその日から劇的な変化が!という救いもありますが、私の場合、ノロノロと牛歩のごとくここまできました。
疑い深くなかなか納得しない私の性格に合わせ、神様はゆっくり時間をかけ、一歩一歩階段をのぼる様にわからせて下さいました。

数年前までの私には「何かを成し遂げなければ!」という焦りがありました。
駐在生活で仕事はできないにしても、それに代わる特技のような物を見つけて、いずれは教室が開けるぐらいに極める。というのが、私の生きる目的であったように思います。
それを実現している人を見ては、自分と比べ、焦ったり嫉妬する日々でした。
今思えば、やりたいことが決まっているわけでもないのに、極めたいと思う深層心理には、自分の存在意義を証明したいだとか、誰かに認めてほしいという欲求があったのだと思います。
でも、二つの御言葉に出会い、このような強迫観念が消えてしまいました。というか、生きる目的がすっかり変わってしまいました。

「主を賛美するために民は作られた」 詩編102:19
「全世界に出て行きすべての造られたものに福音を述べ伝えなさい」 マルコ16:15

「神様を賛美する。」「福音を述べ伝える。」それが神様が私の人生に望んでおられる使命だとわかってからは、自分で自分に背負わせていた重圧から解き放たれ、空を飛べそうなくらい自由で楽しい気分でした。
ありのままの私を愛して下さる神様を前に、誰かと比べて落ち込む必要もなければ、躍起になって自分の存在意義を証明する必要もなく、「自分」の栄光を現すことよりも、ただただ自然体で神様に従って生きて「神様」の栄光を表す方が、何百倍も喜びがあるということを知ってしまいました。

死んだら天国に行けるという約束はもちろん素晴らしいですが、神様に従って生きる時、この地上で天国を一足先に味わえるというのはもう一つの素晴らしい約束であり、クリスチャンの特権です。
先に救いを聞いた者の責任として、福音を伝えること。特にかつての私と同じように苦しんでいる方々に、神様にあっての本物の自由と楽しさを伝えたいという願いが与えられ、それと同時に次々に新しい出会いが与えられています。
神様がどのような大きな御業を見せて下さるのだろうと期待し、わくわくしている今日この頃です。

月報2015年7~8月号より

「私は両親共にクリスチャン…」

私は両親共にクリスチャンの家庭に生まれました。というと小さい頃から教会の子供として育って来たのだろうと思われるかもしれませんが、実は家族揃って教会に行くというクリスチャンホームではありませんでした。父はクリスチャンスクールの校長を長くしておりましたので、学校と教会はほとんど一体で学校では生徒さんたちにお話もすることも多く、家ではよく聖書を広げていました。母は日曜日も祖母や子供達のクラブ活動などのお世話で、ほとんど教会には行きませんでした。兄は野球少年で日曜は不在、私は小学生の時は父と教会に行くこともありましたが、中高生になるとクラブ活動でほとんど教会には行かなくなりました。
大学生の時に韓国研修旅行で現地の礼拝に参加する機会がありました。その時に韓国の学生さんに両親がクリスチャンだと話すと、なぜ教会に行かないの?是非行ってみてと言われました。
いままで誰かに教会に行ったらと勧められた事がなかったので、その時の言葉が強く心に残り、また教会に通うようになりました。それでも自分は小さい頃からお祈りもしてきたし神様が守ってくれているという勝手な自信があり、洗礼を受けようと思った事はありませんでした。
社会人になり将来結婚して新しく家庭を持つことを意識するようになったとき、私は、両親の信仰により今まで守られていただけで、自分で都合の良い神様を作り上げ、本当の神様と直接つながっていなかったことに初めて気がつきました。
『私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。』(ヨハネ15章5節)誰しも一人一人が自分の信仰で神様とつながっていなければならない。結婚を意識した相手がクリスチャンでなかったこともあり(今の夫ですが)、私は自分の中にしっかりとクリスチャンの柱を立てて生きて行きたいと願い横浜の蒔田教会で洗礼を受けました。
結婚と同時(1995年)に駐在で上海に行きました。当時の中国ではキリスト教の集まりを宣伝することができず、どこに行ったら日本人のクリスチャンの方に出会えるのかも全くわかりませんでした。しかし本当に神様の導きとしか思えないように、すぐに家庭集会に出会うことができ、その後小さな礼拝に参加することができるようになりました。そこでは香港の日本語教会から送られてくる説教テープを流しながら礼拝を持ちました。中心になってくださっていたのはある銀行の駐在員の方でしたが、のちに牧師となられました。
日本に帰国後は、子供達が教会の幼稚園に通うようになると教会学校に通い始め、子供達はたくさんの聖句を覚え、私も励まされました。
『いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、どんな事にも感謝しなさい。これこそ、キリストイエスにおいて、神様があなたに望んでおられることです。』(テサロニケの信徒への手紙一 16-18)日々の生活の中で、また困難やトラブルの中にある時、弱い私には実行するにはとても難しいのですが、私が常に忘れてはいけないと思っている神様からのメッセージのひとつです。

私たちの家族(実家)に変化があったのは、父が9年前に亡くなった時です。ガンと宣告されてから2ヶ月、本当に短い時間で父は天に召されました。父の葬儀での教会員の方々の励ましや勤めていた学校での追悼礼拝などによって、家庭では見えなかった父のクリスチャンとしての歩みを垣間見ることができました。また、家庭ではいつもおだやかで優しく、よく勉強しよく働き、時にユニークで、でも反抗できないような毅然とした態度の父でしたがそれは教会や学校でも同じでした。そして天国で父が神様に『よくやったね』と喜ばれて迎えられているであろうことを心から感じました。
それから母は教会に行くようになり、教会を中心に皆さんに支えられて今は一人暮らしをしています。そして兄は父の死から1年後家族で洗礼を受けました。私は子供達がお世話になり通っていた大森めぐみ教会に転会しました。天国で父はとてもびっくりしているのではないでしょうか。それとも父は祈りが叶えられ、こうなることをちゃんと知っていたのかもしれません。
今思えば、父と神様のことを話たり、もっと色々と教えて欲しかったと悔やまれます。でも父はただ、私たちが自らの意志で聖書を読み、教会に足をむけ、聖霊の呼びかけに気がつくことを待っていてくれたのだと思います。
そしてこの度、孫娘の佳帆が洗礼を受けたことを誰よりも天国で喜んでくれていることと思います。

このニュージャージー日本語教会に来て、本当にたくさんのことを学びました。
礼拝で先生が語ってくださること、グループや様々な学びを通して、そして教会の活動を通しての教会の意味、大切さに改めて気付かされました。
『教会はキリストの体、一人一人はその器官である。』(コリント信徒への手紙一 12章27節)
それぞれが神様からいただいた賜物を用いて教会に仕える。人と比べて得意なものなど何もないと思っていた私ですが、こちらの教会での賛美の歌の奉仕、子供達のキャンプのお手伝いを通して、私にも教会で役に立てることがあるのではないかと思えるようになりました。そして自分が与えられている賜物をつまらないものであると思うのは神様に対してもとても失礼なことであることを知りました。
7月に4年の滞在を終え帰国することが決まりました。
日本の教会は転会後間もなく渡米してしまい、牧師先生も変わってしまいました。
懐かしいけれど新しい教会にいくような、そして私自身も変えられた今では、どんな教会生活になるのか期待と不安があります。新しくクリスチャンとなった娘と、まだクリスチャンではない夫と息子と共に、神様に期待してキリストにしっかりつながり、私を導いてくださるほうに歩いて行きたいと思います。

月報2015年5~6月号より

「私は小さい頃から教会…」

私は小さい頃から教会に行っていました。母がクリスチャンで、教会の幼稚園に通っていたからです。
このニュージャージー日本語キリスト教会に来たのは、小学四年生の時です。父の転勤で突然アメリカにやってきて、最初は英語もまったくわからず学校の宿題に追われる毎日で、母は教会を探す余裕もありませんでした。
そんなある日、母が聖書の会で、錦織先生と出会いました。そして、錦織先生が母と私を教会へ誘ってくださいました。それから2年が過ぎ、私は錦織先生の元で、洗礼を受ける決心をしました。
きっかけは去年の夏、「ひがきゃん」にいったことです。ひがきゃんとは、東海岸にある日本人教会に通っているユース(中高生)のキャンプです。私はここで神様と向き合う経験をして、たくさんの事を学びました。
一つは、栗栖先生が教えて下さった「神様がいるという証拠は神様によって、変えられた自分なんだ。」と言うことです。私は昔から教会に行ってはいても、神様は本当にいるのかどうかと信じられなかったり、疑ったりする事がありましたが、ひがきゃんに行って、自分が神様によって変えられたと感じました。
二つ目は、友達と大声で肩を組んで泣きながら、笑顔で心から神様を賛美するのがどんなに素晴らしいかを知りました。
そして、神様を信じると決めたのですが、なかなか洗礼を受ける気にはなりませんでした。なぜなら私はあと一、二年で日本に帰るので、洗礼は日本で受けようと思っていたからです。
でもある日、BIG(中高生の分級)で「なぜ教会に行っているのに洗礼を受けないのか」というワークシートをもらいました。その中に「先延ばしにしている人」という題があり、それはまるで私の姿だと思いました。先延ばしにしていると逃すものが多く、損をするだけだというところがすごく印象に残り、早く洗礼を受けたいと思い始めたその日の礼拝後、錦織先生が「クリスマス礼拝に受洗する?」と声を掛けて下さったのです。私はこれは絶対偶然ではなく、神様が受けなさいと私に告げているのだと思い、洗礼を受ける決心をしました。そして、昨年のクリスマス礼拝で洗礼を受けました。
私はもう先延ばしにする人ではなく、神様を受け入れ、これからたくさんのめぐみを受けることができます。この夏、日本に帰り新しい生活がスタートしますが、ここで出会った兄弟姉妹との交わり、たくさんの学び、「神にできないことは何一つない。」(ルカによる福音書1章37節)と言う御言葉などを忘れずに神様と共に歩んでいきたいです。

月報2015年5~6月号より