「えっ、転勤?ロサンゼルス?いったい私はどうなるの?」これが父から転勤の知らせを聞いた私の心の中の呟きでした。当時、私は日本の高校1年生。幼い頃に体験したアメリカ(NY)生活は既に遠い昔の出来事でした。努力して希望する大学に入って、資格を取って専門職に着く、漠然とそんな人生設計をたてていましたから、父の転勤は正に降って湧いた災難でした。
現地校の11年生に編入。言葉が不自由なのに加えて私の心はひどく混乱していました。日本で身につけたものがアメリカでは通用しません。ひとつ例をとると、日本では自己主張が強く物事をハッキリ言う人間は煙たがられますが、アメリカでは逆に自分の意見をハッキリと発言しない者は、まるで存在しないかのように誰も気にとめてくれません(今振り返ると高校生と云う難しい年頃ゆえ余計それが強調されたのでしょう)。私は国境を越える度に(NYから帰国した時には「出る杭は打たれる」で随分いじめられた経験があった)自分の価値観や態度が大きく揺るがされるのに当惑しました。そして、国や文化に関係ない絶対的な価値観というのは存在するのだろうか、と考えるようになりました。生きていく上で、場所や時間を越えた確かな基準が欲しいと思いました。
渡米3年目、初めて親元を離れて大学の寮生活が始まりました。何とかアメリカの大学に入学を許可されたものの、大学の勉強についていくのは大変でした。寮生活も、パーティー好きのアメリカ人学生の様には楽しめず、どこか味気ないものでした。その為、週末ごとに自宅に戻るとホッとしました。一学期が終わる頃、予定よりもずっと早く、父に帰国の辞令がでました。日本には帰りたい。でも、今学校を辞めたら今までの自分の苦労、努力は水の泡ではないか。結局、学年末まで私一人アメリカに残ることになりました。
週末に帰る家を失ってしまった私を、暖かく受け入れて下さったのが父の上司のご一家でした。奥様がクリスチャンで、その方を通じて私はロサンゼルス・ホーリネス教会の日本語礼拝に出席するようになりました。初めて日本語で聴く牧師先生のお話は新鮮で、渇いていた私の心に深く染み込みました。しかしながら、しっくりこない事も沢山ありました。イエス様の十字架、復活、永遠の命、等々。聖書によると私も罪人。頭で分かったつもりでも心にピンと来ません。全て納得いくまで自分はクリスチャンにはなれないと思いこんでいました。礼拝に出席し始めて数カ月後、特別伝道集会がありました。神様の愛についてのシンプルなメッセージでした。私はこみあげてくる涙を押し止めることができませんでした。異国の地で、ずっと張りつめていたものが、一気に弾けたようでした。メッセージの最後に、「今日イエスさまを心に招き入れたい方は、前に出てきて下さい。一緒に祈りましょう。」との招きがありました。その時、私は理屈ぬきに、それまでの心のモヤモヤから解放されたいという気持ちに押し出され、まるで清水の舞台から飛び降りるような気持ちで前に出ました。その数週間後、帰国を1ヶ月後に控えて洗礼を受けました。
今振り返ると、当時の私の信仰はとても稚拙でした。日本に帰国してからは、たまにしか神様のことを思い出さない不信仰な時期が何年も続きました。その後、様々な出来事を通して、自分の罪深さを、概念的にではなく、生身の体験から思い知らされ、イエスさまの罪の贖いなしにはもう生きていけないと思うまでに砕かれました。
創世記を読むと、元来人間は神との交わりの内に生きる者として創られた事が分かります。私は10代後半、自分の意志に反してアメリカに来ましたが、結果的にそこで神様に出逢いました。しかもそれは私の人生の中で最大の出逢いとなりました。
月報1999年6月号より