2024年10月号<牧師室より>「祝福を持ち運ぶ」

9月21日のラトガーズ大学の天野先生をお迎えしてのセミナーはとても良い集まりとなりました。先生のお話は分かりやすく、また会場からも質問や意見も寄せられ、海外に住んでいる私たちに必要なお話を伺うことができたと思います。

特にその最後の方でお話いただいたこと、認知症の方々のサポートのために、個人でもなく、国や州の政府でもなく、コミュニティーだからできる事はないかという提言は私たちにとって、とてもチャレンジングな問いだったと思います。これから、この地域のネットワークがこの先生を通して、どのように広がっていくか楽しみです。そして、それだけではなく、天野先生をはじめ、何人かの方々から、「この日本語教会はすでに一つのコミュニティーですね」とお声をかけていただき、励まされたと共に、新しい視点を与えられたように思います。

今まで私は「教会が地域のコミュニティーに、日本語を使う人々のコミュニティーに出て行く」ことの大切さを訴えてきましたし、何ができるかを考えてきました。しかし、今回「この日本語教会はすでに一つのコミュニティーですね」という皆さんにかけていただいた言葉によって、私たちの教会自体が一つのコミュニティーとなり、周りの人々を巻き込んで行くことができれば、それはまた大切な使命を果たしたことになるのではないかと思ったのです。

聖書の中で、「信仰の父」と言われたアブラハムはこのように神様に語られました。

「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。」(創世記 12:1-2・口語訳)

 この約束は、今では教会に対する約束として受け継がれています。安穏とした生活から立ち上がって、神様に従って歩んでいくときに、私たちは祝福の基となって、周りの人々に祝福を持ち運んでいく存在になっていくのです。勇気をもってこの地域に住む日本語を使う方々に祝福を持ち運ぶ働きをさせていただこうではありませんか。

白髪背負う

 「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。(イザヤ書46:4)」

 この夏、1人で里帰りをしました。2ヶ月間実家に滞在し、母の部屋に布団を敷いて寝起きしました。今までは子供たちと帰省するのが常で、実家ではお客さん気分。さんざんもてなしてもらうのに、2週間も居ると毎回、両親と衝突していたのが、今年は波風一つ立たず、ほっと安堵したのと同時に、それだけ親が歳を取ったのだと寂しくもなりました。

 傘寿を過ぎた両親の毎日はとてもスローテンポです。予定があるのは病院に行く日ぐらいで、あとはほぼ家の中で過ごします。父は規則正しく過ごす性分で、朝早く起きて新聞を郵便受けから取り、テーブルに広げて老眼鏡をかけて一通り目を通す。それからテレビ欄の番組表を調べて、見たい番組を色ペンで囲み、軽く朝食をいただいた後は指定席に腰かけてテレビをみながらうつらうつらと午前中を過ごす・・・。午後もまた、しかり。唯一の楽しみは、毎週水曜日の午後に友人たちと行き会うゴルフのショートコースです。約束をとりつけず、来られる人だけが来ればいいという、ごくごくゆるい集まりを続けています。

 母はゆっくりめに起きて過ごします。週2回のデイサービスがない日は、ひるげの匂いに誘われてようやく部屋から出てきてきます。食べ終わるとまた部屋に戻り、何をするでもなく横になって、また夕食の時間に顔を見せます。以前の母はとても多趣味で活動的。若い頃に教員免許のほか茶道と書道の師範資格を取り、子育てが落ち着くと調理師免許、60代でネイルアーティストの資格を取りました。洋服や靴が大好きで、私の楽しみは実家から母の服を貰ってくることでした。そんな母が、今ではたった3、4着の服を着回し、朝から着替えもせずパジャマで過ごしているのです。母の代わりように愕然としました。

 ふたりは自活してくれていますが、いわゆる老々介護です。「老々介護」。聞いたことのある言葉でしたが、両親の生活がまさにそのもの、と気付いたときはショックでした。もともと膝を悪くして歩行が困難な母でしたが、去年の暮れに転倒・骨折して一気に身体の衰えが進み、父が家事の全てを担うようになりました。母が家のことを切り盛りする姿しか見た事のない私にとって、父がこれほどマメに家事をしてくれるのを見るのは嬉しい発見ではありましたが、2人の姿に自分自身の将来を重ね、「歳はとりたくないものだ・・・」と正直、思いました。

 日本人の平均寿命は男女とも80歳を超えていますが、健康問題が日常生活へ制限を与えない期間を表す“健康寿命”なるものは、男性で70代前半、女性で70代半ばです。こんな数字を見ると、「元気に自活できるならいいけれど、我が子や周囲の負担になるようならば、早く逝きたい・・・」と、つい心の中で願ってしまいます。超高齢化が進んで介護保険制度が崩壊するかもなどと言われる日本で、年配者が社会の重荷とみなされる風潮が強い社会で、アンチエイジングなどということばが市民権を得て、老いることが悪いかのようになった世の中で、長生きしたいとは到底思えないのです。希望を見いだせないのです。

 でも、聖書の価値観は違います。老いることが祝福の象徴、老いることは光栄なこと、「白髪は輝く冠(箴言16:31)」だといいます。

 キリスト者であるヘルマン・ホイベルスという人が「人生の秋に」という本で「最上のわざ」と題して、こう書いているそうです。

楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、しゃべりたいけれども黙り、失望しそうなときに希望し、従順に、平静に、おのれの十字架をになう。

若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見てもねたまず、人のために働くよりも謙虚に人の世話になり、弱ってもはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること。

老いの重荷は神の賜物、古びた心に、これで最後のみがきをかける。

 なにか活動が出来なくなったとしても、働きではなく存在そのものに大きな意味や喜びがある。効率とか生産性に意味と価値を与えるこの世の中で、聖書の言葉は老いることへの祝福を語ってくれています。

 この夏、私が一番うれしく思ったのは、母が再び教会へ通うようになったことです。母は洗礼を受けてはいますが、久しく礼拝に集えていませんでした。教会の人間関係に失望したり、自分の願った通りの教会生活を送れなかったりして、通うことを止めてしまったのでした。そんな母が、土曜日の晩から備え、日曜日の朝は早起きして身支度を整え、礼拝に出席するようになったのです。教会から帰ってくると、母の顔つきは明るく、楽しいお喋りが始まります。その姿にクリスチャンではない父は驚きます。町内会の集まりは嫌がるのに、教会の集まりへは進んで出掛ける様子を不思議がります。

 でも、当然なのです。教会は安心して集えるところ。そこには愛があり支え合いがあります。そこでは、働きでなく存在を大切にして受け入れてくれます。高齢者であれ働き盛り世代であれ、1人の存在として見なしてくれます。とは言え、人間の集まりですから気の合わない人がいるかもしれません。ときに、失言や行き違いから、失望したり傷ついたりするかもしれません。でも、イエス・キリストという模範がいて、聖書を読むことで整えられ、大切な戒め「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい(マルコ12:31)」を守ることによって、それぞれが理想の姿へと変えられていく過程にあるのです。

 里帰りも終わりに近づいたころ、「別れが寂しい」と、はばかりもせずに言う両親と離れるのは後ろ髪を引かれる思いでした。もっと滞在を伸ばせないか、日本にしばらく移り住んで両親の生活を支えられないか、とさえ考えました。でも、母が日曜日ごとに教会へ行きはじめたことで、私の心配は安心へと、心残りは希望へと変えられています。母は神様からの語り掛けによりリセットされ、リニューアルされ、新しい力を得ると期待しています。今までも母をずっと運んできてくださった神様が、母が年老いた今も、これからも、同じように運んでくださるから大丈夫だと。背負ってくださるから大丈夫だと。そしていつか、私のことも同じように運び背負ってくださるでしょうと。

 主は良いお方です。神様に心からの感謝をささげ、全ての栄光をお返しいたします。

2024年9月号<牧師室より>「まず仕えることから」

早いもので、今年も2/3が過ぎました。

2024年はイザヤ書527節の「良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、『あなたの神は王であられる』とシオンに言う人の足は。」という聖書の言葉をいただいて、歩んできました。

この言葉から、教会が聖書の教えを伝えることの大切さを感じると共に、地域コミュニティの中で歩んでいくことの大切さを思わされます。

聖書は繰り返し、この世に出て行きなさい、周りの人々に仕えなさい、と語っています。

地域とのつながりを考えるときに2つの出来事を思い出します。一つは今年の2月号でもご紹介した、9-11直後に出席したセミナーの講師の「特別なことが起こってから『私たちには何ができますか?』と聞いても遅い。何もないときからいつもコミュニティの中に生きていないとダメだ」という言葉。もう一つは、東日本大震災の時の先輩牧師の経験です。

東北の沿岸部の教会の牧師をされていたその先輩は、幸いにも津波が教会の手前で止まり、電気も止まらなかったので、「教会は電気が通じています。携帯の充電が必要な方は、ご利用ください」と窓に貼っていたそうですが、誰も尋ねてくる人はいなかったそうです。それで、教会のメンバーの医療関係の方と一緒に避難所に行ったときに、「〇〇寺のご住職が説話をしてくださいます」とアナウンスがされ、人々が集まっているのを見たそうです。同じ「宗教関係者」なのに、自分は「私は牧師です」と避難所に入っていくことも許されずに、医療関係者の補助者としてしか入れない、この扱いの違いは何か?と思いながら、この先輩牧師は、まず、誰も見ていないところで仕えることから始めたそうです。まずは、全国から送られてくる支援物資が人手不足で倉庫に雑然と山積みになっているのを見て、「この倉庫の整理をさせてください」と申し出られました。そして、小さなことから一つ一つのことに忠実に歩んでいく中で、地域の方からも、役場の方からも信頼を得て行かれ、やがて、地域や役場の方から「相談したい」と話がくるようになったそうです。

 そのように、教会と地域コミュニティのつながりを深めていくために、昨年の10月、初めての試みとして、「アメリカで快適に暮らす為に知っておきたい情報」というテーマで、NJで高齢者支援をされている方々にお話をしていただきましたが、今年はその第2弾、9月21日にラトガーズ大学の天野先生をお招きして「認知症について私たちが知っておくべきこと」というテーマでお話をしていただきます。自分自身がそのようになるかもしれないことを覚悟して、またそのような方に接するときの心構えなど、私たちには本当に大切なテーマだと思います。是非ご参加ください。詳しくはこちらの案内をご覧ください。今、このような助けを必要としているどなたかのところに届きますように。

「主の采配の確かさ」

在籍していた神学校の突然の閉鎖に伴い、昨年9月より大都会NYから牧場だらけのKYの田舎町に移り、リバイバルが起こって御霊が力強く働いている神学校のコミュニティでの生活と学びが始まりました。ケンタッキーにはあまり日本人へのアウトリーチの機会がなさそうと勝手に思っていたので、日本人人口が全米で三番目に多いNYCでの日本人伝道の思いを一度神さまにお返しするという自分にとってはかなり辛い覚悟を決めて、神さまに導かれるがまま何も知らずに雲と火の柱を追いかけてケンタッキーに来ました。ところが、神さまは私には予想もできない方法で私を次の宣教の地、ケンタッキーに導いたことが到着して程なくして分かりました。

ケンタッキーに引っ越す直前、コロラドでお世話になった牧師先生ご家族が私のアズベリー行きを知って「ケンタッキーに私たちの親友でアメリカ人のご主人と日本人の奥さんのL夫婦がいるよ」と連絡がありました。そのLさんご夫婦は一度2022年にナッシュビルであったRJC(Reaching Japanese for Christ)の地域カンファレンスで一瞬だけお会いしたことがあり連絡先も交換していたので、ケンタッキーに着いたら連絡してみようと思っていたのですが、全く別件でLさんたちの方からそのあとすぐ突然連絡が入りました。やりとりをする中で、LさんたちもISI(私が所属する留学生ミニストリー団体)のスタッフとして20年以上ポートランドで留学生に仕えるかたわら日本語教会も開拓し、そして2年ほど前に神さまから中西部に移動するように示されて何も分からないままただ神さまの導きを信じてケンタッキーの地へ引っ越してこられたことを知りました。ISIの働きはLさんが来るまでケンタッキー州にはなく(全米でもケンタッキーとテネシー州だけなかったそうです)、私もNYのISIチームからはケンタッキーにはISIの働きがないと聞かされていたので、今Lさんたちがケンタッキーの地でISIの働きを始められたばかりとのことを聞いてびっくりしました。Lさんたちも過去2年間ケンタッキー、レキシントンエリアでの留学生伝道やアメリカ人教会のミニストリーの働きをいろいろと探っていく中で実は日本からの留学生が多いこと、そしてトヨタ系の自動車産業の工場がある関係で日本からの駐在家族もかなりいることがわかってきて、「日本語が話せてミニストリーに重荷のある女性を与えてください」と祈っていたところに私がやってきて驚いたそうです。

Lさんたちは息子さんがアズベリー大学に通っており、家もキャンパスから15分ほどの近さだということも分かって、ケンタッキーに引っ越してきて数日とたたないうちにLさんたちと早速お会いしました。神さまが不思議な形で私たちを繋いでくださったこと、私の日本人伝道への重荷とLさんたちの助け手を求める祈りを神さまが聞いてくださったことに共に感謝と驚きの祈りを共に捧げました。LさんたちがUK(University of Kentucky)でCru(編集注:以前キャンパスクルセードという名前だった学生伝道団体)と協力して2022年に始めたBonfireという留学生ミニストリーに私も早速参加し始め、そこで何人かの日本からの交換留学生とも出会いました。Centre Collegeという別の大学にも日本人留学生が10人弱いることが分かって、その子たちとも交流を始めました。また、Lさんたちや他にもアズベリーで繋がった近隣のクリスチャンの方々を通して、レキシントンエリアのアメリカ人教会が取り組んでいるESL(英会話)ミニストリーに参加している生徒さんの半数以上が日本人の駐在妻さんたちであることも知りました。ESLミニストリーに携わっている方に誘われて9月末にお邪魔したホームパーティでお会いした方々は実際8割以上の方が日本人、しかもみなさんトヨタ系ということで私の地元の愛知県出身…すぐにローカルトークで打ち解けることができ、何人かの日本人ご家族と顔見知りになりました。パズルのピースがぴったり当てはまるかのような神さまの正確な采配と配置に鳥肌が立つ思いでした。

そして、Lさんたちと出会って3週間ほど経った頃、「一緒に日本語教会を始めませんか?」と誘われました。日本人へのアウトリーチの大きなニーズとそこへのアメリカ人教会の試みを見、また私がそこに送られてきたこともあって「今が動く時だ」と確信されてのお誘いだったそうです。こうして2023年10月からケンタッキー、レキシントンでの日本語教会開拓が始まりました。アズベリー神学校のカフェテリアにLさんたちをお招きして、ランチに集まってくる神学生たちで私がその時点で知っている限りの日本人に重荷のある人たちに声をかけ、ランチをしながら教会のビジョンを分かち合い、ネットワーキングを行いました。その中で何人かの神学生たちが興味を示してくれ、後に多くの点で尊い助けの手を差し伸べてくれました。

この開拓教会は、みんなで話し合って「いずみコミュニティチャーチ」という名前になりました。レキシントンにある南部バプテスト派で日本人駐在妻さんたち向けにESLミニストリーを長年続けてくださっている大きな教会が快く教会の中高生向けのクラスルームを貸してくださり、礼拝がスタートしました。最初はLさんご家族、求道中の駐在妻さん、そして私の6人だけの小さな集まりでしたが、UKやCentre Collegeの日本人留学生、アズベリー大学の日本にルーツや重荷のある学生たち、また駐在のご家族など、毎週神さまが人を送ってくださって、教会が始まって8ヶ月経った今は平均して30人前後が集う教会になっています。2月に行った餅つきのイベントと礼拝には、なんと近隣の日本人家族や留学生たち合わせて100人以上もの参加者もありました。10人弱、レギュラーで来てくださっている未信者の方々もおられ、とてもミッショナルな教会です。

また、UKのBobfireミニストリーで出会ってから個人的にも共にバイブルスタディを始め、EC23にも一緒に参加した日本人の交換留学生の女の子、Rさんがこの4月に私たちの教会で洗礼を受けました!彼女の洗礼式はお部屋をお借りしているアメリカ人教会のメイン礼拝の中でLさんを通して執り行われました。これはいずみコミュニティチャーチにとっての最初の洗礼式でしたが、長年日本人のためにESLミニストリーを続けてきたこのアメリカ人教会にとっても初めての日本人の洗礼式で、礼拝堂は大きな大きな天の喜びで満たされていました。RさんはEC23に参加したあと、積極的にBonfireでも私たちの教会でも賛美チームに入って賛美のリードをしてくれるようになったり、UKの他の交換留学生たちに一生懸命神さまのことを分かち合ったり、周りの留学生たちのことを想いやったり、本当にさらに生き生きとしたキリスト者の姿に変えられていきました。彼女の洗礼式や喜びに溢れていく姿を見て、いずみコミュニティに通ってくださっている求道中の40代の男性の方が、「自分もそろそろ洗礼について真剣に考えたい」とRさんに伝えにきてくれたと聞きました。キリストによって変えられていく彼女の姿は未信者の方々だけでなく私たち「種を蒔く者」にとっても本当に大きな励まし、慰め、希望でした。Rさんは5月の頭に日本に本帰国し関西方面で信仰生活を始めています。関西にいる私が信頼する姉妹たちに繋いではいますが、どうぞこれからのRさんの信仰の歩みと、またご家族の救いのためにお祈りいただけると幸いです。

このようにして、一度お返しした日本人伝道への思いを神さまはケンタッキーの地でさらに私の愛知県出身という出生までもが生かされるような形で聞き届けてくださいました。またアズベリー神学校のカウンセリング修士も、全米の神学校で5校しかないカウンセリング認定を受けているプログラムで、以前いた神学校よりもさらに良い環境とカリキュラムの中で学べることになりました。学費や寮費が支払えるか分からない中でケンタッキーへ来ましたが、到着して数日後に学費はほぼ全額卒業するまで奨学金が与えられること、寮費もNYCにいた頃の一ヶ月分の家賃で一学期住めることがわかり、アドナイ・イルエ=「備えの主」の養いの業と恵の大きさに心がいっぱいで賛美の思いで溢れました。ウィルモアの小さな田舎町もとてもあたたかいコミュニティと美しい牧歌的風景の広がる素晴らしい場所で、NYCという都会の喧騒に当てられてすり減っていた私の心と魂を癒し潤してくれるようでした。NYCでの日本人伝道のニーズは未だとても大きく、私も引き続きそのためにお祈りしていますが、現在IPPUKU(私が携わっていたISIの日本人留学生ミニストリー)の元スタッフがもう一度活動を再開させようといろんな方たちに連絡を取り、また私もオンラインでミーティングを重ねたりしています。ぜひこの霊的な砂漠地帯であるNYCでの日本人ミニストリーのため、共にお祈りください。

あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。” イザヤ書 43章2節

神さまと歩む道は平坦な道とは約束はされていません。水の中や火の中を通ることもありますが、この聖書の箇所でそれらが私たちに致命的なダメージを与えることはないよう神さまの守りの手がいつも共にあることが約束されています。私もこの激動の一年を振り返る時に、常に神さまの慰めと支えの手があったこと、いつでも必要な安息の時を主は備えていてくださったこと、そして神さまの御計画がいつでもベストプランであることを体験しました。これからも神さまの養いの手を取り、キリストだけを握って導かれるところどこにでも主の道を見出したいと思います。お祈りやあらゆる形での多くの方の支援にも心から感謝しつつ。

2024年8月号<牧師室より>「開かれる道、閉ざされる道」

日本から戻ってきて10日ほど。やっと落ち着いて、18日間の日本滞在を振り返る事ができています。

多くの方々に祈られて、派遣されて、迎えられた日本での日々、本当にエキサイティングな日々でした。5年ぶりの日本で、6年ぶりの各地訪問。久しぶりの方々との再会も長い年月を超えて、まるでずっと共に歩んでいたかのような感覚に襲われる一方で、若者たち、子どもたちの成長には驚かされます。また、初めて出会う方々も何人もおられて、それはまた特別な一時でした。

日本に着いた翌日から東北から北海道と3泊4日の巡回、まず暑い東京から離れて、NJに近い気候で過ごしたのは正解でした。その後、東京での土曜日の帰国者集会と日曜日の礼拝メッセージ。

そして、月曜日からの3日間は今回の日本訪問の中心的な目的である、出身教団の日本ホーリネス教団の小田原での夏季聖会でのご奉仕でした。今から32年前に祈って送り出してくださった皆さんに、日本に帰ることもなく、そのままアメリカにいることになった自分が受け入れられるのだろうかと緊張と不安を感じていました。しかし、そこで神さまが私の心に語ってくださったのは、自分がどう思われるかよりも、神さまが語りなさいと言われることを語ることの大切さ。平安と自由な心で大胆に聖書からのメッセージを語ることができました。

そして、そのまま、土曜日まで東海から関西方面の各地で皆さんと時間を過ごし、東京に戻ってきました。そして、2回目の日曜日、池の上教会での礼拝と午後の伝道会にも、NJの関係の方々が多く来られて、喜びの再会を果たし、ご奉仕も終えました。

ところが、翌朝判明したまさかのコロナ陽性。日本でも5類感染症に移行して、以前のような対応は必要なかったとしても、帰米までの予定はすべてキャンセルして、活動自粛生活に入ることになりました。

最後の5日間は東京近郊で集まりを持ったり、個人的にお会いしたり、訪問させていただく方がいたりと、すごく楽しみにしていたので、とても残念でした。NJから送り出してくださった皆さんに対しても、18日間の中の5日間も部屋に籠もって過ごすことになるのは申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

脅かされていた日本の夏の暑さも、確かに大変でしたが、汗拭きタオルを忘れないように、ということだけ気をつければ、それほど体調に影響することもなく過ごしていたのに、また、コロナの症状もごく軽く、1日半だけ、解熱剤がないとちょっとだるい、という程度。前回感染してから2年間、全く何も気にしないで生活することができていたのに、このタイミングでとは・・・という思いでした。

でも、落ち着いて考えてみると、残念は残念ですが、この日本訪問の準備をしている中で、どうしてもお会いして共に祈りたいという方々との予定がどうしても合わなかったり、久しぶりの日本訪問で連絡がつかなかったり、そういうことの連続でした。その一方で、パズルがぴったり合うかのように隙間の時間に予定が合って、お目にかかることができる人もおられました。「開かれる道もあり、閉ざされる道もある」、このことは、私自身の人生、以前からそうだったな、と思わされます。

「今日か明日、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をしてもうけよう」と言っている者たち、よく聞きなさい。あなたがたには、明日のことは分かりません。あなたがたのいのちとは、どのようなものでしょうか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それで消えてしまう霧です。あなたがたはむしろ、「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」と言うべきです。
ヤコブの手紙 4章13~15節

静まって、わたしこそ神であることを知れ。 わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、 全地にあがめられる。
‭‭詩篇‬ ‭46‬:‭10‬ (口語訳‬)

予定どおりに行かないことがある、祈ってきて、時間もかけ、労力もかけて準備したことなのに、道が閉ざされることもある。それも神さまの御手の中にあることなのです。

今回、各地を走り回っていた自分に、神さまが「落ち着いて、静まって、祈りなさい」とブレーキをかけられたのではないか、という思いもあります。また、「自分がやらなければ・・・」という気負いも手放すようにと言われたのかもしれません。

実際、私が行けなくなった東京での集まりは、皆さんで集まって、そこに私がオンラインで顔を出す、という形になりましたが、とてもいい集まりになったようです。また、ちょうど出張で東京に行かれるNJの教会の方に同行して、お母様にお会いし、信仰告白に導かれたら、洗礼式をするという願いも持っていましたが、それは東京で牧師をしている実兄が代わってくれることになり、洗礼式をしてくれました。私だったら、その後、次に訪問するのはまた1-2年後になりますが、東京で牧師をしている兄ならば、しばしば訪問する事もできそうです。

とは言え、やはり、残念な気持ちはあります。その中で、「すべてのことがともに働いて益となる」(ローマ人への手紙 8章28節)という神の御業を見せていただけるようにと祈っています。

祈ってくださった皆さん、迎えてくださった皆さんに心から感謝しつつ。

「主の柱が動く時」

昨年の7月1日、2年間在籍していたマンハッタンにある神学校の大学院からメールがありました。

「来月末(8月末)で学校がなくなります。」

突然、なんの前触れもなく知らされたニュースに初めは頭が追いつかず、ただ、「神さまはまた何か企んでおられるな…」という予感だけがありました。学校閉鎖のアナウンスから学校が実際閉鎖されるまで2ヶ月もないというありえない状況の中で、悠長に悩んだり決断したりする間も許されない中で、ただ神さまの声のする方に向かって進むというシンプルだけれども究極の信仰の試練に突然飛び込むことになりました。

そのうち、学校からこれまで取得した単位を移行できる全米の提携神学校のリストが届きました。ただ、私の在籍していたプログラムは神学修士ではなくカウンセリング修士だったので、他の神学生たちに比べて神学校でカウンセリングの修士が取れる提携校は限られ、結局マサチューセッツかケンタッキーにある神学校の2択だけでした。通常、大学院受験は教授や(神学校であれば)牧師からの推薦状を数枚、学校側から出されるテーマに沿ったエッセイ、あらゆる出願手続き、そして面接などの過程を何ヶ月もかけて行います。それを数週間もない期間で全部済ませなければならないなんて…と気を失いそうになりました。もう全部諦めて日本にすっ飛んで帰りたい気持ちもありました。それでも、これだけ激しい大嵐のチャレンジに私を招いた神さまだから、何か私には想像も出来ないような計画をお持ちに違いない、と感じました。また、心配した知人から電話がかかってきて、「ガリラヤ湖で弟子たちと大嵐に会った時、キリストは枕して休んでおられたから、神さまは大嵐の只中にあっても日和ちゃんにきちんと休息も与えてくださるから、大丈夫。」と祈りと共に励ましてくれました。「この嵐をあなたと共に通ります、でも通るからには神さま私を養って、祝福してください!」と祈りました。

そこから大急ぎで2択に絞られた神学校の両方にコンタクトを取り始めました。するとすぐにケンタッキーの方の提携校、アズベリー神学校から連絡が帰って来ました。この私の置かれた異例の事態に理解を持ってくださり、急ピッチで出願手続きをサポートしてくれました。このアズベリー神学校はケンタッキーの小さな田舎町にある神学校で、ジョン・ウェスレー(18世紀の神学者)の教えを土台とした福音派、ウェスレー・ホーリネスの流れを汲んだ神学校です。正直私には昨年まで全くと言って良いほど面識のない神学校でした。昨年の2月、この神学校の併設大学であるアズベリー大学でリバイバル(現地の人たちはへり下りの意味を込めてOutpouringと呼んでいます)という聖霊が力強く働いて信仰が大規模に覚醒するという出来事があり、そのニュースを私もSNSを通して見てとても励まされました。それ以降いつか訪ねてみたいと思っていた矢先に出願してみるということになり、自分でも驚いていました。

アズベリー神学校との出願・受験手続きは驚くほどスムーズに進みました。私のミニストリーでのメンターたちも超多忙なスケジュールの合間をぬって推薦状を速やかに送ってくださり、教会の青年も仕事のあと明け方近くまでかけて私のエッセイの英語を添削してくれ、また多くの方の背後の祈りに支えられて、出願から面接・合格通知まで10日足らずで終わってしまいました。こうして、今御霊が力強く働いているアズベリー神学校への道が急に開かれました。

ただ、留学生ビザの制限があり、住んでいたNYCからオンラインでケンタッキー州の神学校であるアズベリーの授業を受講することは許されず、私はどうしても残りの1ヶ月も満たない短期間で留学生用の在留書類発行など含めた一通りの入学・転校手続きをし、そして8月後半から始まる新学期までにケンタッキーのキャンパスに引っ越しも完了しなければいけないという、とても無理難題なスケジュールに思えました。もし秋学期が始まる9月までにキャンパスへ行くことができなければ、諦めて日本に帰国し、一からまた留学の準備を始めなければならないという大きなプレッシャーもありました。しかもこの時点では学費や寮費を払える見込みも立っておらず、何もかもが未知でした。

一方、マサチューセッツの神学校はNYからも比較的近くまたアクセスもいいので、大好きなNJの教会やNYCのミニストリーチームにも頻繁に戻って来られそうで、転校するとすればこちらの学校の方が理にかなってるように思えました。しかし、なぜかこちらの学校からは最初に問い合わせのメールを送って以降音沙汰が一切なく、返事を待っているうちにあれよあれよという間にアズベリー神学校への合格が決まってしまいました。アズベリーからの合格通知が届いたくらいのタイミングでようやくマサチューセッツの神学校からもメールがありましたが、それによると、私に何回もメールを送ってコンタクトを取ろうとしていたけれども全然私に連絡がつかなかったとのこと。私も何回もスパムメールなども入念に確認してメールを何回か送りましたが返信メールは見当たらず、本当に謎でした。でも、この時点ですでにそちらの学校は最終の面接期間を終えてしまっていました。私の状況の緊急性を加味して、特別に私のためだけに面接の機会を作ってあげるよとオファーもしてくださいました。しかし、その時なぜ神さまはアズベリーとのやりとりを驚くほど早くスムーズに進めて、もう一つの学校との連絡を止めておられたのだろうと思い巡らしました。論理的に考えたら、こんなギリギリのタイミングでこれまで7年過ごしたコミュニティ近くの神学校ではない遠いケンタッキーの地に、誰も何も知らない場所に行くことは無謀で筋が通っていないようにも感じました。ですが、その時私の中に浮かんだのは、出エジプトのこの場面でした。

主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。” 出エジプト記 13章21節

イスラエルの子らは、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。雲が上らないと、上る日まで旅立たなかった。” 出エジプト記 40章36~37節

イスラエルの民たちは、雲と火の柱が動けば動き、止まればその場に留まり、そうして40年間荒野を旅し続けました。その柱がいつ動くのか、民たちは知りませんでした。もしかしたら、夕食の準備をしかけていたのに柱が動いたから急に荷造りをして移動しなければいけない、なんてこともあったかもしれません。神さまのタイミングは、必ずしも私たちが思うベストタイミングであるわけではなく、また私たちが準備できているかどうかに限らず神さまが進む時は私たちも進む。そして何より、神さまがその荒野の旅路にいつも寄り添い、私たちの必要をマナによって常に満たし、行くべきところへ導いてくださる。そのようなイスラエルの民たちの荒野での日々を思った時、今私の目の前の柱も動いて、それはケンタッキーの地へ向かっているのだと感じました。大好きなNJの教会の主にある家族のみなさん、重荷を持って全力投球してきたNYCでの日本人伝道、そして素晴らしいミニストリーチームやメンター、そんなみなさんとの突然の別れとミニストリーを手放すことがとても辛く、ケンタッキー行きを決断してから2日間ほどは泣き腫らしましたが、2日間たくさん泣いてからは心を決めいろんなものを手放して神さまの養いの手だけを握って、7年過ごしたNYの地を去るための準備を始めました。

ケンタッキー行きを決めてから実際に引っ越すまでの1ヶ月弱の期間は怒涛の日々でした。お世話になった多くの方々やミニストリーで出会った学生さんたちとお別れの挨拶をして、引っ越しの準備をして、教会のキッズキャンプを手伝って、転校に必要な書類を集めたり提出したりして、送り出しの祈りを浴び、とても濃厚な時間でした。そうして8月末、5つのダンボール箱と3つのスーツケースでケンタッキー州レキシントン郊外のウィルモアという小さな町に引っ越しました。レキシントンの空港についた時、アズベリーからお迎えのボランティアがあり、博士課程にいるインドからの留学生でヘプセバさんという方が私を空港で出迎えてくれました。このヘプセバ(Hephzibah)はイザヤ書62章4節に出てくるヘブライ語で、「わたし(神)の喜びは彼女(この文脈では女性名詞化された神の民、イスラエル)にある」という意味です。実は私がNYCで最後に長期レジデントとして住んでいたクリスチャンゲストハウスの名前もHephzibah Houseで、NYのヘプセバからKYのヘプセバへ託されたような不思議な出会いでした。そのヘブライ語の意味のように、神さまがこのユニークな方法で「わたしはあなたを喜んでいるよ」と愛を伝え、ケンタッキーに歓迎してくれているように感じました。

あなたはもう、「見捨てられた」と言われず、あなたの土地は「荒れ果てている」とは言われない。かえって、あなたは「わたしの喜びは彼女にある」と呼ばれ、あなたの国は「夫のある国」と呼ばれる。それは、主の喜びがあなたにあり、あなたの国が夫を得るからである。” イザヤ書 62章4節 

Hephzebah Houseで過ごしたNYC最後の2ヶ月間、大嵐のような日々を送る中で神様は何度も私に「あなたはわたしの喜びの花嫁、あなたはわたしの愛する娘」ということを伝えてくださいました。Hephzibah Houseの壁にこのイザヤの言葉が書かれていて、毎日それを見る度に試練の中で神様の愛が拠り所となり、次の人生の通過地点へ行くための備えの期間となったと今振り返ります。こうして7年間のNYでの生活を終え、KYでの新たな歩みが始まりました。

(9月号に続く)

「日本での新生活の意味・主のご計画を尋ねる」

私たち家族は、この3月に日本に本帰国しました。駐在に終わりが来ることは分かっていましたが、子供たちにとって「日本は遊びに行くところ」であったため日本での新生活への不安は隠しきれていなかったと思います。

帰国して数か月がたった今、フェイスブックを眺めると、夏休み入りしたアメリカの皆さんの投稿が目に飛び込んできて、楽しかった思い出が蘇ってきます。庭でのBBQ・ハンバーガー、海や公園、礼拝堂・ジムでの愛餐会、そしてマンハッタンの喧騒。まだ五感で思い出せるので、あたかも日本に一時帰国しているような気持ちにすらなります。

アメリカでの生活・経験を総括するには日が浅いものの、良い信仰の輪(教会)に加えられこと、大きな怪我、病気、事件に見舞われることが無かったことに感謝しています。しかし、何よりも妻の受洗、そして新たな命が家族に与えられたことは私が渡米した当時の期待をはるかに超える祝福でした。主のご計画が人智をはるかに超えたものであることを経験することが出来たと思います。

この半年を振り返ったとき、転勤に伴うドタバタ(5人家族の引越・家探し、仕事の引継、子どもたちの転校)だけでも大変ですが、子どもの高校受験と私の大学院の受験をこなさなければならず、「走りながら考える」とはまさにこのことだと感じる毎日を過ごしました。これだけ多くの出来事を同時並行的に進められたのは、家族が実質的な司令塔と仰ぐ妻の段取り力に他なりません。整然とした新居でコーヒー片手にホッとするとき、神様が妻の健康を守って下さったことに感謝せずにはいられません。

「えっ!これから大学院に?何故?」と質問された時に、5分も10分も使って経緯を説明するわけにもいかず簡潔な受け答えをしてきましたが、祈り求めていた進学にいたった経緯をご紹介します。

経営大学院に初めて興味を持ったのは20代の後半でした。不景気が普通の状態である学生時代を過ごし、少し上向いたと思ったらリーマンショックに見舞われ、漠然とした不安感を持っていました。思い描いたような仕事(=海外駐在)も出来ず焦りがありました。ニッチな領域の手に職的な仕事をしてきたため、経営大学院って意味があるのだろうか?手に職の方がいいのでは?決して勉強自体が好きな性分ではなく、大学時代の成績も褒められたものではなかったため、何となく気になりながらも自分に言い聞かせるように目の前の仕事と家族に集中してきました。

念願叶ってアメリカに来た当初は日本で担当していた業務領域をアメリカで担当するスペシャリスト的な仕事が与えられました。しかし、駐在の後半には経営陣を補佐する仕事が与えられ、尊敬する同僚の視野の広さ、思考の深さに魅了され、体系的にビジネスを学ぶ意欲が掻き立てられました。

一時帰国の際に学校訪問し目的と手段(進学)にズレがないかを確認したり、費用対効果を検証した上で、テスト対策・願書づくりの日々が6月から始まりました。受験は2回(年)までと決めていたため「ご計画ですよね。信じます。先取して感謝します。」と祈る日々が続きます。11月には受験のために弾丸で一時帰国し、2月には長男と一緒に3週間滞在し、長男の高校受験の傍ら、私も受験に臨みました。そして無事に合格を頂き、4月から会社員、夫・父、学生という三足の草鞋を履く生活を送るチャンスを得ました。仕事においても海外子会社を再編するプロジェクトを任され、大学院での学びを実践で活かせる役割を得られました。

今は日本での生活にもすっかり慣れましたが、片道1時間、電車に揺られて通勤・通学する毎日は案外苦痛ではなく、むしろ課題・自習の貴重な時間で座席に座ることは許されません(寝てしまいます)。自分のキャリア、家族の経済的な自由を目的に進学したことは偽らざる本音なので、一日の働きを終え寝床に入る時、「この道は神様が与えて下さったが、なぜ与えられたのか。キリスト者としての私は期待されているのか。両立が難しくて困難に至るような計画ではないですよね。試練は与えないでください。」と神様に聴きながら、気が付くと朝を迎えます。

“主は言われる、わたしがあなた方に対して抱いている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。”
エレミヤ書29章11節

一切が益となる計画を神様は用意してくださっています。主に感謝しつつ、私が御心から逸れず常に主を仰いでいられるようお祈りください。

2024年7月<牧師室より>「互いに励まし合う」

「7月の日本、昔とは暑さが違いますよ、気をつけて!」

7月に日本を訪問する予定だという話をすると、多くの方々にそのように言われます。調べてみたら、最後に7月に日本に帰ったのが、2005年。19年前です。その時も、とにかく暑くて、「これからは夏に日本に行くのは難しいな」と思ったのを覚えています。 その時よりも暑くなっているとしたら、どんな感じなのでしょう。そして、自分もその頃は40代、今は60代ですから、昔のようにはいかないかも・・・と心配しながらも、久しぶりの日本を楽しみにしています。

27年前にニュージャージー日本語キリスト教会の牧師になってから、間が短い時には毎年一度、間が開いてしまっても、2-3年に一度日本を訪問して、帰国された方々の集まりや訪問、メンバーの日本の家族の訪問を続けてきました。しかし、コロナ禍があって、とても間が開いてしまいました。今回、日本の所属教団からの招聘を受け、7月半ばに日本に行く用事ができたので、それに合わせて2週間半の予定で日本を訪問します。前回は2019年5月でしたので、6年ぶりになります。その間に天に召された方々、病を負われた方々、また、連絡がつかなくなってしまった方々もおられます。教会から足が遠のいてしまった方々もおられるでしょう。間が開いてしまったことの難しさを感じています。

日本に帰国された方々には、一日も早く、日本で教会につながって、そこで歩んでいただきたいと願っています。どこにいても、自分の住んでいるところのそばにある教会につながって、その教会を通して神さまに仕えていただきたいと思います。「自分が信仰を持った、あの教会は良かったなあ」と思って、地元の教会と比べるのではなく、謙遜になって、地元の教会で仕えていくようにお勧めしています。しかし、実際のところ、困難を感じる方々もおられます。ですから、励ましは必要だなあと思わされています。私たちの教会の歴史の中では、実際に牧師だけではなくて、出張や旅行で日本に行く方々が、帰国された方々に声をかけ、連絡を取ったり、日本に先に帰国された方が、戻った方々を励まし、サポートしてくださったりしてきました。そのような互いの励ましによって、私たちは支えられてきたのだと思います。

「自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。」(ヘブル人への手紙 10章25節)

今年の日本訪問でも、そのような働きができるようにお祈りください。互いに励まし合い、力をいただいて、立ち上がっていく時となりますように。日本の方々、お目にかかることができるのを楽しみにしています。予定はこちらから。

<集会紹介>「NY礼拝」(2024年6月)

2021年9月にNY礼拝が始まってから間もなく3年になろうとしています。「もう3年」ですが、「まだ3年」です。

私(錦織)がニュージャージー日本語キリスト教会に集うようになったのは30年前、1994年の秋だったのですが、その時も、NYからNJにある教会に集ってこられる方が多くおられました。ある方々は自家用車で、また、ある方々は毎週NJからの奉仕者が運転する教会のミニバンに乗って、集ってこられていました。

1997年にこの教会の牧師としての働きを始めたときに、マンハッタンの大学に通うクリスチャンの学生から相談されて、学内でのバイブルスタディーに行くようになり、そこから教会に来るマンハッタンやクイーンズの学生たちが増えてきました。洗礼を受ける学生たちも起こされてきました。その頃から「平日はこのように自分がNYに来て、集まりを持つことができるけれども、日曜日はNJの教会まで来るのが大変だから、そこで止まってしまう学生たちがいる、何とか、NYで礼拝はできないだろうか」と祈り始めました。

大学でのバイブルスタディーはクリスチャンの学生たちが卒業して、2-3年で終わってしまったのですが、その後も、「自分はクリスチャンだから、NJの教会に来ることはできるけれども、クリスチャンではない友達を誘うことは難しい」との声を聞きながら、なんとか、NYでも礼拝をささげることができないだろうかと祈ってきました。

そして始まったNY礼拝、毎月第2日曜日の午前中にマンハッタンのスタジオをお借りして集まって、礼拝をささげています。場所と時間は違いますが、ほぼ、NJと同じプログラムで、同じメッセージをお話しています。いつもNJまで来られる方々も、なかなかNJまでおいでになるのが難しくて、NY礼拝だけに来られる方々もおられます。住んでいるのはNJだけれども、車がないのでNYの方が便利な方や、旅行で来られる方、ウェブページを見て来られる方、ご高齢の方、若い方、いろんな方が集われています。まだ、このNY礼拝から洗礼にまで導かれる方は出ておられませんが、一人でも多くの方々に、聖書のメッセージを、イエス・キリストの福音を伝えたいと願っています。

今月は6月9日(日)午前10時15分から、場所はRipley-Grier Studios #2B (2階)    939 8th Ave (55thSt. & 56thSt.の間)。是非お出かけください。

2024年6月<牧師室より>「コミュニティーの中で生きる。再び。」

 今年の2月号の月報で「何かが起こってから、『私たちは〇〇教会の者ですが、何かできることはありますか?』と聞いても、それからでは遅い、教会がいつもいつもコミュニティの中で生きていないと、いざという時に教会に手を差し伸べてもらおうなんて人は誰もいない」という9-11の後に参加したセミナーの講師の言葉を紹介しました。それからずっと、私たちは、コミュニティーの中に生きる、そのためにはどうすればいいのか、という課題をもらって歩んでいます。

 数年前にJCCカフェが始まったときも、地域の方々の憩いの場となる様にという願いででスタートしました。実際に毎回多くの方々がおいでくださり、時間を過ごしてくださり、その目的を果たしていたと思います。この働きはコロナ禍で中断して、奉仕をしてくださる方々が引っ越して行かれたりして、まだ再開の目途は立っていませんが、また少し違った形でも、このような場が持てればと思います。また、親子クラスやキッズクラブ、クロッキー教室、JOYJOYキャンプなども、私たちがコミュニティーの中で生きる働きの一つになっていると思います。でも、まだまだ多くの日本語を使う方々に届いていない、まだ出会っていない、そんなことを思わされます。一つ一つの働きがもっともっと多くの方々に届いていくものとなりますように。

 昨年9月にはフリーマーケットとNY男声合唱団のミニコンサートをもって、教会の存在を知っていただく、一歩でも教会の建物に入っていただく、という時を持ちました。とても良いときとなりましたし、これも「コミュニティーの中に生きる」ということの表れになったと思います。

今年は6月22日(土)にフリーマーケットと今度はNY混声合唱団にミニコンサートをしていただいて、更に多くの方々とのつながりを作っていきたいと願っています。昼の12時から午後4時がフリーマーケット、午後4時から5時までがミニコンサートです。是非お出かけください。

昨年の男声合唱団も、今年の混声合唱団も、合唱団の方からお声かけをいただいて、共にやりましょう、やらせてください、ということから始まっています。更にこの地域でコミュニティー作りをしておられる皆さんと共に歩んでいくことができますように。

「良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。
平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、
『あなたの神は王であられる』とシオンに言う人の足は。」
イザヤ書 52章7節

私は教会で育ったからクリスチャンなのか? 〜生態学を通して信仰の自立を考える〜

1.はじめに

2024年5月に大学を卒業いたしました。中高生時代に体調を崩していたので、親元を離れてのアトランタでの大学生活にご心配をおかけしましたが、多くの方にお祈りしていただき支えられましたことに感謝しています。さまざまな壁にぶつかりながらも、充実した日々を過ごすことができました。

大学での4年間を振り返ると、自分で言うのもおこがましいですが、学業と信仰が互いに影響し合いながら大きく成長できたように思います。生態学を学ぶ中で、またクリスチャンとしてのアイデンティティが芽生えたこの期間を通じて神様の恵みを深く実感したので、そのことをお証しさせていただきます。


2. 幼少期と信仰の始まり

ニュージャージーで生まれ育った私にとって、平日は英語の現地校、土曜日は日本語学校、日曜日は教会という生活が幼少期から高校卒業するまで「当たり前」でした。母がクリスチャンなので、物心がつく前から地元の英語教会やニュージャージー日本語キリスト教会に通い、教会学校やジョイジョイシンガーズ、ジョイジョイキッズクラブ、ジョイジョイキャンプなどに参加していたので、自分が神様に愛されていることを耳にタコができるほど聞いていて、知っていました。

最初は母に教会に連れて行かれていましたが、小学1年生の時に神様の子どもになりたいと自ら願い、洗礼を受けました。中高生になると、教会のミニストリーを手伝うようになり、少しずつスタッフとしての役割を担うようになりました。礼拝では和英通訳をするなど、さまざまな奉仕に加わる機会に恵まれました。英語と日本語を活かしながら礼拝のために、教会キッズのために、教会のご奉仕をするのは純粋に楽しかったのを覚えています。当時、私が発案した工作の企画や賛美動画の活動を教会の大人やユースの仲間が喜んで応援してくださったことによって、私の与えられた賜物が用いられていると感じ、教会生活やご奉仕に積極的にになれたのだと思います。 


3. アトランタでの大学生活

COVIDで最初の1年リモート授業を余儀なくされましたが、2年目の夏から大学進学のために親元を離れてアトランタでの生活が始まりました。リベラルアーツの小さい女子大だったので、理系文系問わず興味のある分野を少人数の授業で受けることができました。脳科学専攻の一方、ジャーナリズム・公衆衛生学・化学を副専攻として学び、生態学の部活の部長を務めたり、昆虫を用いた微生物の研究をしたりなど、いつしかスケジュールの詰まった大学生活を送っていました。

教会に行くかどうかを自分で決めるようになり、毎週アトランタ日本語バプテスト教会に通いました。新しい教会生活のスタートでしたが、ニュージャージーの教会もアトランタの教会も、同じ神様を礼拝する場であり、主のもとに帰る場所であり、神の家族と会える場所だと感じました。大学から離れて数時間、日本語でメッセージを聞ける、教会の皆様と交われる環境に身を置くことができ、徐々に教会が心の拠り所となりました。

アトランタの教会では、礼拝の賛美チームに参加したり、教会学校で祈り課題を共有したり、月に一度の愛餐会で共に食事をしたりしました。また、礼拝後にはキッズとお絵描きをしたり、本を読んだり、宿題を手伝ったりする時間を過ごしました。教会の外でもご自宅に招いていただいたり、キッズとザリガニやイモリを探しに行くこともありました。

たとえ寝不足でも、試験に追われていても、日曜日の朝は教会に行こうと思えたのは、信仰の支えがあったからこそです。1週間大学でヘトヘトになって教会へ駆け込み、主のもとで憩い、力をいただいてまた出ていく、1週間がんばれるというふうに、学業と信仰が互いに影響し合い、私の生活を支え、大きく成長させてくれたように思います。


4. 信仰に対する葛藤と挑戦

同時に、信仰に対する葛藤も感じるようになりました。アトランタで出会ったアメリカ人や日本人の友達に、自分の信じている神様についてうまく説明できず、悔しく情けない気持ちになることが何度もありました。礼拝に来てもらっても、主の祈りを唱和した時に「今のはカルトっぽくなかったかな?」と心配することもありました。

大学では、私が教会に通っているクリスチャンだと知っている人はいるものの、聞かれなければわざわざは言わないようにしていました。私の大学は非常にリベラルな校風で、キャンセルカルチャーが激しいと感じていたため、学問で不自由を感じないために、私は必要でない情報は無闇に言わないスタンスを取っていたのです。

例えば、クリスチャンのキャンパスミニストリーがLGBTQに関する声明を出すよう学生から求められ、保守的すぎる、寛容でないと大学のコミュニティーから追い出されるということがありました。このような環境で、自分の信仰をどう表現するか、どのように維持するかについて多くの葛藤を感じていました。


5. 信仰と学問の共生

生物学の研究を進める中で、神様の偉大さを感じました。例えば、昆虫が特定の微生物と共生することによって得られる利益や、生態系全体におけるその役割を理解することで、神様の計画の緻密さと精巧さに感嘆しました。

しかし、これらの分野に関する知識が深まるにつれて、疑問も増えました。例えば、遺伝子操作の発展は生命の神秘を解明する一方で、倫理的な問題も引き起こす可能性があります。進化学においては、自然選択や突然変異のメカニズムを理解することで、神様が創造された生命の多様性の素晴らしさを解明できる一方、クリスチャンとして進化論と創造論の間で揺すぶられることもありました。

こうした疑問に直面する中で、神様が与えてくださった知識と技術をどのように使うべきか、クリスチャンとしてこの道の研究者として進んでいく場合どうあるべきかについて考えるようになりました。科学の進展を通じて神様の偉大さを証しする一方で、倫理的な問題に対しても慎重に対応することが求められるからです。これは大きな挑戦です。大学院進学に際し、この道を突き進むことが正しいことなのか神様に喜んでいただけることなのかと、大いに悩んだ部分でもあります。けれども今は、信仰と学問の両立についてさらに多くを学び、クリスチャン研究者としての自分の立ち位置を再確認しながら歩んでいこう、と思わされています。


7. 神様を受け入れる選択

生態学では、最初に定着した種がその後の生態系に大きな影響を与えることを「先住効果(Priority Effect)」と呼びます。複数の生物種が新しい環境に導入される際、どの種が最初に到着するか、その数や環境への適応度の違いによって、それぞれの生物種の成長能力や最終的なコミュニティーの構成が変わります。
私の信仰も、まさにこの先住効果のようだと感じます。母が私を毎週教会に連れて行き、様々な教会の集まりに参加させてくれたことで、私の信仰の基盤が築かれました。この最初のエクスポージャーがなければ、私の信仰は異なるものになっていたかもしれません。大学生活を通じて、私は自分の信仰が、母や育った環境からの影響だけでなく、私自身の選択によるものであることに気づきました。

最初に与えられた信仰の環境が、神様と共に歩み続けたいという私の意志によってさらに強固なものとなりました。このようにして、信仰は単なる環境による「エクスポージャー(exposure)」だけでなく、私自身の「選択(selection)」によっても形成されていったのです。

時折クリスチャンでない生き方に揺れ動き、教会から離れそうになりましたが、聖霊様による信仰生活の免疫(Immunity)に守られているのだと思います。最初に形成された信仰が成長し、大学生活を通じてさらに深く「定着(establishment)」したと感じています。

学業と信仰の両面を通して、私は信仰生活が自分にとってどれほど重要であり、それが私の人生にどれほど深く根付いているかを実感しました。このプロセスを通じて、信仰が私自身の意思と神様との関係に基づいていることを確信しています。これからも、神様の導きと共に成長し続けていきたいと思います。


8. 結論

私は、クリスチャン家庭で育ったからではなく、自らの意思で神様を受け入れました。まだ弱さや葛藤はありますが、これからも神様の愛に満たされ、神様のご臨在の中で生き生きとした信仰生活を送りたいと祈っています。

   『雨や雪は、天から降って、もとに戻らず、
  地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、
  種蒔く人に種を与え、食べる人にパンを与える。』 <イザヤ書 55:10>

2024年5月<牧師室より>「宇宙ってホントにすごい」

  「おお、わお、すげえ・・・」

 自分はどうして、こんなにも表現力が貧しいのかなと思いますが、それが4月8日に皆既日食を見たときに出てきた言葉です。

 今から50年くらい前、小学生時代の誕生日パーティーで友達にもらった「宇宙のひみつ」という学習漫画にハマりました。何度も何度も読み返しました。その中に「日本で皆既日食が見られるのは2035年・・・その頃は僕たちはおじいちゃん・おばあちゃんだね・・・」というくだりがあり、「そうか、楽しみだな」と思っていました。しかし、その後アメリカに引っ越して、なんと、想定よりも18年も早く、2017年8月にサウスカロライナで初めての皆既日食を見ることができました。見事に真っ黒になって周りにコロナが広がっている太陽。必死になって写真を撮っていました。

 それから6年半。ずっと「次も見るぞ!」と思っていた皆既日食、前回の片道12時間に比べて、今度は4時間くらい運転すれば着く、ということで、絶対行くぞ!と楽しみにしていました。

 2週間くらい前から4月8日の天気予報を注目していたのですが、毎日コロコロ変わる予報。「ダメかなあ」「いや、行けるかも」「まあ、3日前まで分からないだろうなあ」と気分もアップダウン。でも、2-3日前には「大丈夫そう」ということで、ニューヨーク州のPlattsburghか、湖を挟んで対岸のバーモント州のBurlingtonに照準を合わせて準備をしていました。

 でも、当日になって、ちょうど日食の始まる2時頃から雲が広がってくるという予報。不安の中で何とか見えてほしいな、と思って朝7時に家を出ました。計算では11時半頃には着くはずが、途中混んでいて着いたのは1時半頃。何とか間に合いましたが、空は予報どおり薄曇り。「ダメかも・・・」と心配しましたが、薄雲も本当に極薄の薄雲で、3分間の天体ショー、存分に楽しむことができました。今回は、前回の反省で、写真を撮ることになりすぎないで、天を見上げて、自分の目で日食を見て、自分の肌で空気を感じることができました。

さっきまで直接見ることができなかった太陽が黒くなり、周りに明るくコロナが広がっています。

空全体が薄暗くなり、夕暮れのよう。そして、3分の後半、その黒い太陽の右下の方から赤い炎が漏れてきているようでした。

そして、だんだん右下の方が明るくなってきて、キラッとダイヤモンドリングが現れて、すぐにまた明るい太陽に。

ああ、こうやって書きながらも、あの感じ、あの空気は言葉ではうまく表せないなあと思います。

ちょっと引いて考えてみると、太陽の大きさは月の400倍。その太陽がほぼぴったり月に隠されるというのは、地球からの距離が太陽は月の400倍だから。

太陽を直径40センチのビーチボールの大きさにすると・・・

地球:直径約4ミリのご飯粒くらい。
月:直径1ミリのゴマ粒くらい。
地球と月の距離:約10センチ。

ですから、4ミリのご飯粒の周りに10センチ離れて1ミリのゴマ粒が回っている、それが地球と月の関係。そして、40センチの太陽が地球からどれくらい離れているかというと、2メートルとか、5メートルとかではなく、なんと40メートル。

→今回の日食:目の前10センチのところにある1ミリのゴマ粒が、40メートル離れた40センチのビーチボールをぴったり隠した、ということ・・・すごいと思いませんか!

 でもこの太陽とか地球とかは宇宙の中ではホンの片隅の星。この宇宙を造られた神様が、この小さな地球に生きている、ホンの小さな存在である私たちに目を留めてくださっている、日食も経験できるようにして、神さまの素晴らしさを教えようとしておられる。これはなんとすごいことではないでしょうか。

「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」

詩篇 19篇1節

日本の皆既日食11年後です。是非、皆さん楽しみにしていてください。その他にも2年後のスペイン、3年後のエジプト、4年後のオーストラリアと、いろんなチャンスがあります。是非ご検討ください。

「想像を超えた神様のご計画」

お証の機会に感謝します。

私は、昨年5月に組織改編によるリストラの為、18年間勤めた会社を退職することになりました。ある朝オフィスで働いている時に、突然上司から会議室へ呼び出され、あなたのポジションを無くすことになったと通告されました。そこからは、自分のデスクに戻ることも許されず、終わりのないバケーションに突入する事態となりました。

組織を司る部署に所属し、会社の方向性も熟知していましたので、それが自分に起こり得ることも承知していましたが、実際にそれを経験すると、かなりの衝撃でした。

この話を聞いた、教会のHさんは、『神様のされることは、ベターかベストしかないからね。』と言ってくれましたし、一緒にスモールグループ(聖書の分かち合いと祈りの時)をやっているKさんは、『神様がすることはベストしかないよ。』と言ってくれました。 それぞれの励ましを聞きながら、本当に心からそう思える日が来たらいいな、果たして来るだろうかと、ただ思うばかりでした。 また急に時間が出来た為、一体どうしてこのようなことになったのだろうかと考え始めました。

今後、再就職して新しい会社に行く場合、ほぼ一年は纏まった休暇を取れなくなると思い、5月後半には息子と一緒に里帰りをすることにしました。その結果COVID以来、久しぶりに日本の家族に会うことが出来、少し前に帰国されたNTさんや、NSさん・Kさんご夫妻にもお会いしました。

日本の母は4年ほど前から認知症患者用施設に入居していますが、前回会った時と比べて、だいぶ足腰が弱っていました。 また私と自分の妹の名前を混乱して呼んだりし、母に残された時間が多くないことを感じました。 母に早くイエス様の救いを受け入れてもらい、天国の切符を受け取ってもらわないとと焦る思いで、面会に行った時、母と二人だけで話をしたいと施設にお願いし、その時間を作っていただきました。

母に、イエス様が私たちの罪の為に十字架で死んだこと、イエス様が墓に葬むられて、三日目によみがえったこと、このことを信じるものは神様の子として、死んだあとも天国へ行って、永遠の命がもらえる。お母さんもイエス様を信じようね、と手を握って話ました。 それを聞き、母は、それはありがたいね、と応答しました。そう、だから一緒にイエス様を信じるお祈りをしよう、私は祈りを導き、イエス様、私たちの罪を赦す為に死んでくれて有難うございます。お母さんはイエス様を救い主として、感謝して受け入れます。 神様のこどもとして、これからの歩みもイエス様が助けて下さい。アーメン。母もアーメンと応答しました。 簡単でつたない信仰告白のお祈りでしたが、イエス様が聞いて下さったと信じます。

もっと若く、頭がしっかりしていた時は、教会に連れて行っても、説教の時間に居眠りをしているような母でしたが、今は疑問を呈する力もなく、福音を受け入れることが出来る柔らかい心になっていました。 私は、この為にこの時期里帰りすることが出来たのだと思い、心から神様に感謝しました。

一方で、日本から戻った後は、弁護士を通じて、会社と退職条件の交渉を行う必要があり、それを考えるだけで気が重く、以前のように心から里帰りを楽しむことは出来ませんでした。

こちらに戻ってからは、経済面以上に、周りの人たちに別れを告げる機会もなく、職場を去ったことからくる心痛や、これからどうすれば良いのかという漠然とした不安が残りました。 時差ぼけの時期が過ぎても、なかなか寝付けず、不眠症となり、体重は急激に落ち、いつも疲れて体調や気分が悪く、何もしたくない時が長く続きました。

毎週持っているスモールグループでは、AさんやKさんが常に励ましのお祈りをしてくれました。一緒にNY礼拝を捧げているYさんや、以前教会に来ていたMさんやFさんなどが家に来てくれて、交わりや祈りを通して励ましを与えてくれました。MHさんも、私が不眠症で悩んでいると聞き、カウンセリングをしてくれました。本当に神様は必要な時に、必要な祈り手と助け人を与えて下さるお方です。

人の道は主の目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を配っておられる。(箴言5:21) という聖書の言葉をいつもデスクの前に置いていました。 私の知らないうちに神様が心を砕いて下さっている、このことを思うたびに涙が出てきました。

体調不良が続く中、求職活動はとても難しいように思えました。 また以前の職場や、他で経験した様々なことから、私は強い年齢コンプレックスとも戦っていました。 神様は必ず必要を満たして下さるし、神様の方法でことを為して、ご栄光を現わして下さると、スモールグループで励ましてもらっていましたし、私自身もそう信じていましたが、恐れを取り除くことが難しかった事実を告白せずにはいられません。

夏が終わるころには、何とか就活を再開し、いくつかの会社に面接へ行きました。 その結果、半年の失業保険給付が終わろうとする10月の終わりに、神様はある会計事務所とそのクライアント企業での仕事を与えて下さいました。 ただ、その時も面接や、仕事の初日に雇用主や人々に年齢を知られることを恐れていました。

再就職先では、2つの会社を掛け持ちしながら、フルタイムで働く条件で入社しました。最初は大変で、夜も週末も独学での学びを続けました。やがて次第に慣れてくると、仕事が楽しくなっていき、ここで数年働いてリタイヤしても良いかもと思うようになりました。 ところが、入社して1か月半ほど経った頃、突然勤務時間を40時間から35時間にして欲しいと言われました。 それを承諾しましたが、その後も徐々に業務量が減っていき、1月に入ってからは、翌日仕事があるかどうか分からないような状況になりました。SGでも、明日仕事があるように祈って下さい、というお祈りをお願いするようになりました。 しかし、状況が改善することはなく、そこで働き続けることは困難に思えました。

あなたは私の報酬を何度も変えました、とヤコブが叔父のラバンに言った言葉が頭に浮かび、神様に叫びました。あなたはこの状況をご覧になっていますね。神様、何とかしてください。私が今までやってきたことを活かせる別の機会を与えて下さい、と私は神様に泣いて叫んで祈りました。

そして、その直後のことです。確か翌日だったと思いますが、就職サイトIndeedでNew Jerseyにある会社のポジションを見つけました。 ある日系のJob Agencyが掲載していたもので、Just Postedとありました。長年勤めていた以前の会社の同業他社で、その内容を見て心に感じるものがあり、すぐに応募しました。

しかし、先方からは何の連絡もありませんでした。 約一週間して、そのAgentから漸く連絡がありましたが、なんと私が応募したポジションではなく、マンハッタンでの別のポジションに興味はないかとの問い合わせでした。 私はその会社への応募もお願いしつつ、その前週にIndeed経由応募したNJのポジションがあることを先方に伝えました。 その方は、NJでの仕事は12月から出ており、もうクローズになっていると思う、でもまだ履歴書を受けてもらえるか聞いてみると言って、その会社にも私の履歴書を送ってくれました。

その結果、2月初めにはこれら2つの会社に面接に行くことになりました。 勤務していた会計事務所での仕事がスローであった為、面接準備や祈りに十分時間を取ることが出来ました。

後日私が入社することになったNJの会社では、面接官の方が実家で不幸があり帰国していた為、採用活動がひと時中断されていた、その間に私の履歴書が届き、タイミング的には良かったと言って下さいました。 ただその面接で受けた印象は、可もなく不可もなくといった感じでした。 一方、もう一つのマンハッタンの会社では、第一面接の時より、是非来て欲しいという雰囲気が漂っていて、こちらに決まるのではないかという感じがしました。

しかし、感謝なことにその翌週には両方の会社からオファーをいただき、どちらかを選ばないといけないという状況になりました。 条件的にはほぼ同じでしたが、祈りの中で、安き道を選ぶのではなく、狭い門から入りなさい、というみ言葉が心に響きました。 通勤に片道70分、コーポレート業務全般を総括する相当チャレンジングなポジションでしたが、こちらの会社に行く決断をしました。 神様が安きなところでsettleするのではなく、更にチャレンジして人として成長するように促しているように思えたからです。

こういった経緯で、2月後半からJersey Cityにある会社に再々就職することになりました。前任者が2月末日で退職する為、引継ぎは4日しかありませんでしたが、親切な方が備えられており、出来る限り教えて下さいました。 これも祈ってきた結果です。 それから約二か月経った現在も、分からないことばかりで、仕事をこなす為の知恵が与えられるよう、助け人が備えられるようにと祈らない日はありません。

人生を歩んでいく中で、どこかであなたはもう要らないと言われることがあるかもしれません。 年齢を重ね、人の目には、また常識的にも可能性がないと思える状況に遭遇するかもしれません。 でも神様は常に憐みを注いて下さっていて、主のみ名を呼び求めるものに対して、不可能なことは何ひとつない神様の方法を以って、私にも憐みを示して下さいました。

最近、更に神様から語られたことがありました。『私が与えてきたものが、私より大切なものになっていないか? あなた自身のすべてを私に捧げなさい。』と。 神様が与えて下さった仕事が偶像にならないようにと悔い改めて、握っていた手を神様の前で開きました。神様が与えて下さっているもの、私自身の命、時間、信念、仕事、その他多くのものを神様の前にお捧げする祈りをしました。その時に心にすっと平安が与えられました。

わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである。あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。 (へブル12:5-7

2024年春のレント集会において、ここに書いた内容でお証をしました。 後日に至っても、証のビデオを見ました、と励ましのご連絡をいくつかいただきました。 これを通しても、証をするものが一番の恵みを受けることを今回も経験させていただきました。

感謝しつつ、すべてのご栄光を主にお返しします。

<集会案内>「礼拝」(2024年5月)

「皆さん、こんにちは!」

 私たちの教会の礼拝は、まず、この「こんにちは!」の挨拶と教会のニュースで始まります。それはどうしてかというと、私たちが一人一人個人的に神さまにお祈りすることも大切ですが、それと共に、一緒に集まって礼拝することが大切だと思うからです。

 聖書の中にはこのような言葉があります。

「いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」(ヨハネの手紙 第一4章12節)

 神さまは目に見えないでしょ。神さまがいるっていうけど、見えないじゃん。でも、私たちが互いのことを大切にして、祈り合い、励ましていくときに、神様がそこにいてくださるんだよ!というのです。ですから、神さまが教会堂にいて、そこで一人一人バラバラに礼拝をするのではなく、素敵なステンドグラスがあるから、そこに向かってお祈りするのでもないのです。私たちが一緒に集まるところに、そして互いのことを心にかけて、一緒に礼拝をささげるときに、本当の礼拝があるのです。ですから、私たちは最初に「こんにちは!」と挨拶から始めて、教会の中のニュースをアナウンスして、礼拝をスタートするのです。

 そして、讃美歌。私たちはここ数十年の間に作られたノリのいい現代の歌も、歴史の中で歌い継がれてきた伝統的な讃美歌も、いろいろ歌います。大切なのは、心から神さまの素晴らしさを歌うこと、神さまの大きさ、愛と力に感謝して歌うことです。伝統的な讃美歌の中には「この歌、どこかで聞いたことがある!」「幼稚園の時に歌った!」みたいな曲もあるかもしれません。

 それから、祈り。祈りは、うれしいことも、泣きたいことも、何でも心にあることを神さまにお話すること。個人的に心の中で祈る時もありますが、誰かが代表して祈り、みんなでそこに心を合わせる時もあります。でも、心配しないでください。何の予告もなしに「あなた、みんなを代表して祈ってください」みたいな指名はしませんから。

 そして、聖書。「神からのラブレター」と言われる聖書の言葉を読んで、牧師がそこから説き明かし、現代に生きる私たちへのメッセージを語ります。だいたい30-40分くらい。毎月第2週は最初の10分くらい子どもたちのためにもお話します。コロナ禍でのリモートの時に始まった「バイブルおばさん」シリーズ、今も続いています。大人の方々の中にも「自分にはこれくらいがちょうどいい」という声も・・・。

  献金。神さまが与えてくださった素晴らしいことに感謝をして、クリスチャンは自分の人生をまるごと神さまにささげていく、その一つの表れとして、与えられたものの中から神さまに献金をします。これは入場料や会費ではありませんので、初めての方や、クリスチャンではない方はご心配なく。

 そして、1時間15-30分の礼拝の最後に「祝祷」と言われる祈りを牧師がささげます。これは、ここから出て行く時に、神さまが共に行って、守り、祝福を与えてくださるようにという派遣の祈りです。私たちはここで力をいただいて一週間の歩みに出ていくのです。

 いろいろ詳しく礼拝の中でなされていることの一つ一つの意味を書いてきましたが、礼拝は、目に見えない神様の前に、皆で一緒に出るとき。是非、一度お出かけください。私たちは、初めての方、クリスチャンでない方々も大歓迎です。百聞は一見にしかず、是非、一度私たちの教会の礼拝にお出かけください。

「証し」

私と妻はニュージャージー生活に一区切りをつけ、2024年3月に日本に帰国しました。5年半に及ぶニュージャージー生活のなかで、私が神様から頂いた愛と試練についての3つの出来事を振り返り、お証したいと思います。

1つ目の思い出は、2018年10月にニュージャージーに参りましてから、仕事の引継と生活の立ち上げが一段落したところでニューヨーク男声合唱団の門を叩いたことです。学生時代に打ち込んでいた男声合唱ですが、就職して以後、なかなか取り組む機会に恵まれていませんでした。
2015年1月にシンガポールでのベートーベンの第9演奏会、そして2017年12月のことになりますが、モーツアルトの命日にウィーンのシュテファン教会で「レクイエム」を歌うという企画旅行があり、それらの練習から徐々に自分の持ち時間を合唱へと取り分けるようになりました。
これらに続き2019年2月に予定されていたブラームスの「ドイツ・レクイエム」の演奏会にオンステージすべく練習を始めました。ところが急なニュージャージー転勤の話が舞い込んだことから途中で断念せざるを得ませんでした。この時の思いが、自分としては着任早々に男声合唱の門を叩いた動機となりました。
しかし20年前のロサンゼルス勤務時と同様、どうもアメリカの空気質が合わないのか、アレルギー性副鼻腔炎が悪化。ポリープ除去の手術を2019年5月に行い、更に注射による減感作療法を2年間に亘り行いました。結局これは今もなお完治せず、以前のように声が出せなくなってしまいましたが、なんとか定期演奏会に4回も乗ることが出来ました。この間、指揮者の山内竜二さんを始め多くの新しい友と知り合う機会ができ、これから先の人生においても自分には男声合唱の活動はどんな試練が有っても続けていくべきだと、神様からのお導きがあったと思っています。

2つ目の思い出ですが、2021年6月6日の私の洗礼記念日です。受洗の決意に至るきっかけは錦織学先生とバイブルおばさんとの出会いを神様が作ってくださったからに他なりません。もともと父方の親戚は全てクリスチャンというクリスチャンファミリーに生まれたものの、親の方針で信仰を積極的には推奨されなかったこともあり、人生の最後の時に、病床で洗礼を授けてもらう「病床洗礼」を視野に入れていました。その様な私が、このニュージャージーの地でふと見たFacebookをきっかけとして、私の多くの友人と繋がりがある錦織先生を神様が引き合わせてくださったのは、今考えても奇跡としか言いようがありません。
その錦織先生とニューヨーク男声合唱団でご一緒できたこと、合唱団の指揮者の山内さんが教会で指揮棒を振られたことには二重の喜びがありました。

そして最後にですが、今般、想定していたよりも早くに帰国時期を迎えてしまった原因の試練についてお話しします。2022年9月、PSA検査という前立腺の血液検査をオプションで受けました。過去にも何度か受けましたか基準値内、しかしその時は基準値内でしたが数値の上昇傾向が見られたので半年後に再検査となりました。そして2023年3月、再検査の数値も基準内で上昇が続き、ホームドクターの勧めもあって泌尿器科医を受診しました。今思えば、オプション検査を選択したこと、意を決して専門医を受診したことは神様が背中を押してくださったからではないかと思います。
泌尿器科医はベテランの先生で触診だけで怪しいと判断され、すぐに生検(バイオプシー)の手配に入りました。実施したのは私の還暦の誕生日の翌日、2023年4月12日の事でした。2週間後には「中程度リスクの前立腺がん」という所見で「まだ若いのでロボット手術による全摘出」を推奨され、実際に執刀するマウント・サイナイ病院の泌尿器科を紹介されました。その後、MRI検査を受けてのセカンドオピニオンでも結果は同じで、7月14日(金)に手術を行いました。
その後、尿失禁は完璧には収まらないものの、お陰様でその後3回のPSA血液検査では検出限界値以下、すなわち転移の兆候なしとのことです。手術後2年間は経過観察ですが、そもそも前立腺がん手術の予後10年生存率はステージ3でも99.5%なので「死なない癌」ともいわれてます。とはいうものの早期発見に越したことはなく、神様に守られたことを強く感じる日々です。
このような事が起これば、企業は当然に海外駐在員に帰国命令を出します。自分としては会社の産業医ともWeb面談を行い、帰国時期については業務優先で良いと言われ、実際のところは全く業務に支障をきたしておりません。ただ、自分のポストの前任者が過去3名も任期中に病に倒れており、部位は異なるものの2名の方が癌でお亡くなりになっていたので、帰国命令は仕方のない所ではあります。
しかし、神様。私はこのニュージャージー日本語教会の愛する兄弟姉妹、ニューヨーク男声合唱団の仲間たち、信頼できるアメリカ人の同僚や部下たちと離れ離れになってしまうことが、とても残念で、悔しくてなりません。何故ここを離れればならないのでしょうか。
日頃、食生活には十分に注意し、運動習慣もあり、家族にこの病歴の者もいないのに、どうして、このような病を私にお与えになったのでしょうか。いまでもなおどこか心の中で叫び続けております。
この病のことを家族以外へ最初に打ち明けたのは錦織先生でした。先生には余計なご心配をおかけしてしまったことを申し訳なく思っていますが、絶えずお祈りを頂けましたこと、また術後にベッドで読みました、先生の示された聖句には本当に心から救われた思いがあり感謝しております。

最も心に残った、というか最後のまさかの展開に目の前がぱっと開けた部分を最後に読みます。

ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄をもとにかえし、そして主はヨブのすべての財産を二倍に増された。 そこで彼のすべての兄弟、すべての姉妹、および彼の旧知の者どもことごとく彼のもとに来て、彼と共にその家で飲み食いし、かつ主が彼にくだされたすべての災について彼をいたわり、慰め、おのおの銀一ケシタと金の輪一つを彼に贈った。 主はヨブの終りを初めよりも多く恵まれた。彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭をもった。 また彼は男の子七人、女の子三人をもった。 彼はその第一の娘をエミマと名づけ、第二をケジアと名づけ、第三をケレン・ハップクと名づけた。 全国のうちでヨブの娘たちほど美しい女はなかった。父はその兄弟たちと同様に嗣業を彼らにも与えた。この後、ヨブは百四十年生きながらえて、その子とその孫と四代までを見た。 ヨブは年老い、日満ちて死んだ。

ヨブ記42:10−17

 

<集会紹介>(2024年4月)「祈祷会」

「祈祷会」って何をやるの?という方も多いかもしれません。その名前から「祈祷師さんか何かにお祈りしてもらうの?」という質問を受けたこともあります。英語では「prayer meeting」。祈りたい課題を挙げて、互いのために祈り合う集まりです。

クリスチャンにとっては「祈り」は「呼吸」のようなものと言われます。それがなければ生きていけない「いのち」を支えるものです。また「神との会話」とも言われます。何でも、神さまの前に自分の思っていることを言葉にして(また、言葉にならない部分も合わせて)、訴えるものであり、また神さまが私たちの心に語りかけてくださるのを待つときでもあります。

私たちはその「祈り」を普段は個人的に一人一人の心の中でしています。日本の文化の中で育った皆さんはそちらの方がなじみがあるかもしれません。日本のドラマでも、神社で並んでお祈りをして、「何を祈ったの?」「それは秘密だよ」なんて言い合うセリフがあったりしますね。それが日本では普通なんでしょうね。でも、教会では、それと共に、声を出して一緒に祈る時もあります。

イエスもこのように言っています。「まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。」(マタイの福音書 18章19節)

2-3人で、5人で、10人で共に祈る時があります。個人的にそのような集まりを持つこともありますが、私たちは今、教会全体として、毎週木曜日朝と夜にZoomで集まって祈り会を持っています。

実は、このZoomでの祈祷会、4年前にCovid-19の感染拡大で、教会の集まりがすべてオンラインに移行したときに、とにかく単なる一方的なオンライン配信ではなく、双方向通信で、お互いの情報を交換することも含めて集まり始めたのがスタートでした。仕事も学校もすべてオンライン、買い物に出るのもままならない中で、多くのメンバーが集まって共に祈っていました。4年が経ち、多くのことが平常に戻る中で、参加者もずいぶん減りましたが、続けてオンライン上に集まって祈っています。この集まりの中で「創世記」から読み始めた聖書も今は「列王記第一」まで進みました。

祈祷会は「spiritual ER」と呼ばれます。人の力の届かないところまで届く神の御手を動かす集まりです。この祈りの時は自分自身のためだけではなく、教会全体や地域社会、そして、世界で起こっていることへのとりなしの時でもあります。世界各地からアクセスできます。是非一度のぞきに来てください。Zoomのアクセス情報が必要な方はこちらまで。

2024年4月<牧師室より>「信じられない者への招き」

ハッピーイースター!

いつまでも肌寒い日が続いていますが、今年もイースターがやってきました。

このイースター、イエス・キリストが十字架につけられて、葬られたあと、3日目によみがえられたことをお祝いするお祭りです。今年も3月31日にはイースター礼拝と、礼拝後には愛餐会(ポットラックでのお食事会)を、また、4月6日には子どもたちのためのJOYJOYイースターを持ちます。是非お出かけください。

復活したイエスにお会いした、という人々がいる中で、イエスの十二弟子の中にもそれが信じられなかった人がいました。それはトマスという人です。イースターの日の夕方、イエスが弟子たちのところに現れて、本当にご自分がよみがえったのだと伝えた時、たまたま、トマスはそこに居合わせませんでした。他の弟子たちが喜びにあふれて「トマス、イエス様はよみがえったんだよ!」と言っているのを見て、彼はどんなに寂しい思いになっただろうかと思います。「どうして、私がいるときではなく、私がいないときにイエスは来られたのだろう」と思ったことでしょう。勢い余ってか、トマスは「私はイエスが十字架で手に釘を打たれたその傷跡に指を入れ、脇腹の槍の跡に手を差し入れてみないと、決して信じない」とまで言うのです。

それから1週間後、トマスがいるところに、イエス様が現れて、トマスが言っていたとおりのことを告げます。「さあ、あなたの指を私の手の釘跡に、あなたの手を私の脇腹に入れてごらんなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と。

そこで、トマスは「わが主よ、わが神よ」と答えるのですが、この場面、多くの画家たちによって描かれています。その代表的なものが、16世紀末から17世紀初めにイタリアで活動していたカラヴァッジオの絵です。

このトマスがイエスの脇腹に指を突っ込んでいる絵を初めて見たときには、本当にびっくりしました。私の想像では、トマスはイエスの言葉に、ただひれ伏すしかなかったのでは・・・と思っていたからです。「じゃあ、いいですか、指入れますよ」みたいな事をするだろうかと。今でもそのように思っています。

しかし、カラヴァッジオの絵をよく見てみると、トマスの手はイエスの手にしっかりと握られています。トマスの手を脇腹にぐっと引っ張っているのは他ならないイエス自身の手なのです。これは聖書に書かれていることではなく、あくまでもこの画家の解釈なのですが、イエスの脇腹の傷跡にトマスの指が入っているのは、彼の好奇心や「触らないと信じないぞ」という頑固さではなく、イエスの招きであり、イエスが「ほら触ってごらんよ」と手を引っ張ってくれたからなのです。

イエスは今も私たちを招いておられます。信じられないならば、調べてごらん。さあ、あなたの手を伸ばして調べてごらんと招いておられます。その上で「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言っておられるのです。

今年のイースター、一人でも多くの皆さんが、復活のイエスにお会いすることができますように。

2024年3月<牧師室より>「3月は嵐の季節」

3月になりました。

今年も我が家の庭で一番最初に咲くクロッカスの芽が出てきました。朝晩は氷点下に下がっても、昼間はすっかり春の日差し。今月10日にはサマータイムが始まり、19日のthe first day of spring(日本では20日の春分の日)を過ぎると、昼間の時間の方が長くなりますね。いよいよ春がやってくるな、と楽しみになります。

でも、油断は大敵です。1993年の3月、もう30年以上前になりますが、アトランタの大学で勉強していた時、春休みにフロリダのオーランドに行きました。アトランタを出る時にはレンギョウの黄色い花が満開でした。半袖短パンで2-3日楽しく過ごして、アトランタに戻ろうと思って高速に乗ったら、あちらこちら木々がなぎ倒されています。途中でガソリンを入れようと思ったら、軒並み停電でガソリンを入れられません。そして、フロリダとは思えない寒さ。フロリダ州を抜けてジョージア州に入る頃には雪が降り出しました。アトランタに電話をしたら、吹雪でとてもじゃないけど帰れないと。あとで分かったのは、その時、アメリカの南東部から東海岸を、後にstorm of the centuryと呼ばれるようになる嵐が襲っていたのでした。ニュージャージーも大雪だったようです。

実は3月は嵐の季節なのです。アメリカには “March comes in like a lion and goes out like a lamb” (3月はライオンのようにやってきて、羊のように去って行く)という言葉があります。この時期は冷たい冬の空気と暖かい夏の空気がせめぎ合って、特に前半は、しばしばとんでもない嵐になることがあります。

聖書の中にも嵐の場面が出てきます。それはもっと小さい規模のものですが、イエスの活動していたガリラヤ湖で、何度か、イエスと弟子たちは嵐に遭っています。湖で嵐に遭った弟子たちはどんなに不安だったことでしょうか。しかし、イエスはその嵐の中でも平安を保っておられて、「しっかりしなさい、わたしである、恐れることはない」(マタイの福音書14章27節)と言われ、嵐を鎮めておられるのです。

私たちの人生にも嵐がやってきます。イエスに従う道も万事順調、順風満帆ではないのです。でも、その時にも、イエスは私たちに「恐れるな。私がいるから」と語ってくださり、平安を与えてくださいます。皆さんの中にも今、嵐の中を通っておられる方もおられることでしょう。イエスはその嵐の中にも共に行ってくださいます。「主よ、助けてください」と祈ってみてください。神さまはあなたを支えてくださいます。

神さまからのチャレンジ

 2023年の11月で、フルタイムで働くようになって丸4年が経過しました。子育てが終盤に差し掛かり、子どもたちがそれぞれに巣立とうとする中、私にこの地でできる仕事を与えてください、新たに資格を取ったりする必要のない仕事を与えてください、と祈った結果与えられた仕事でした。専念していた20年の子育て期間を経ての社会復帰は、私なりにそこそこチャレンジングでした。子育ての大半が終わったとは言え、3人の子どものうちの2番目と3番目は高校生でまだ送り迎えが必要でしたし、大学進学準備もありました。ある日を境に共働きになったからといって、仕事漬けで走り続けている夫との家事分担は難しく、家や子どもたちのことがうまく回らないことや、自分の時間が取れないことにストレスを感じながらのスタートでした。

 一方、就職した先は、植物工場で日本のおいしいいちごを生産することを目指す農業ベンチャーでした。植物工場とは、屋内で植物の生育環境を人工的にコントロールし、計画的に作物を生産することのできる未来型の農業形態です。私はもともとアウトドアが好きで野山を駆け回っていたタイプだったのですが、ポイズンアイビーを繰り返しその度に重症化していたため家庭菜園さえドクターストップがかかっていました。そんな私にとって、害虫も雑草も排除された植物工場で再び植物に触れることができる仕事は、楽しくて仕方がありませんでした。いちご摘み、葉掻き、糖度測定、パック詰めなどの農作業に加え、ホースやパイプを切って灌水設備を設置したり、コンテナの上にのぼって電気ケーブルを通したりというベンチャーならではの実際の工場づくりも皆でやりました。当時、葉物野菜の植物工場はすでに存在していましたが、受粉の必要ないちごのような果菜類の植物工場は不可能だと言われていたのです。それは、植物工場のような閉鎖空間では、ハチが野生の感覚を失ってしまいうまく働いてくれなくなるという、主に受粉の問題があったからです。それをたった10数名のメンバーで、世界初を目指して夜遅くまで試行錯誤を繰り返す職場は、やる気とパッションに溢れていて、自分がしばらく忘れていた懐かしい感覚が蘇ってくるようで、一緒に働くことでたくさんのエネルギーをもらうことができました。

 そんな私が入社後に立てた目標は「3年でいちご博士になる!」でした。家庭と仕事の両立で苦しんでいた私の、3年は辞めないぞという決意表明でもありました。教育専攻で、小学校教師になり、子育て中も近所の子どもたちの日本語学習のサポートに関わっていた教育畑出身の私にとって、植物工場は何もかもが新鮮で、もともと旺盛な好奇心に火がつき、明けても暮れてもいちごの謎を突き詰める毎日が始まりました。まず、いちごをより知るために植物生理学から始め、夜な夜な借りてきた文献やネット資料を読みあさる一方、植物工場の電気がつく(=植物にとっての朝)6時には農場に入り植物の健康状態を観察する早朝5時起き生活です。実地と勉強会の並走は学びが多く、知れば知るほどまた疑問が生まれます。次に肥料配合や植物の根の栄養吸収を向上させるための有機化学。そしてその次は環境制御のために、例えば人工光の白、赤、青など異なる波長の組み合わせを試すために物理が必要になり、更にそれらのデータを収集して解析するためのデータサイエンス。と、どんどん広がり、終わりがない世界にのめり込んでいって、気がついたら4年が過ぎていたという感じです。残念ながらまだいちご博士にはなれていないと思います・・・奥が深いのです。

 1人で植物と向き合っている時、いろんなことを考えます。例えばいちごの実は、1つの房にいくつものつぼみができ、順番に花が咲き、先に咲いたものから順にいちごの実になっていくのですが、1番最初の実が一番大きく、2番目3番目の実は1番目の大きさを上回ることはありません。家庭菜園を経験されたことのある方はきっとご存知でしょうが、1番目2番目3番目の実を大きくするために、4番目5番目6番の実や花やつぼみを取り除きその栄養を最初の方の実に行くようにする摘果(てきか)を行います。またいちごの実は、最初緑で硬かったものが白へ、そして赤へと色づき、柔らかくなっていきます。赤くなり始めると実の成長自体は止まり、今度は糖度を充実させることへと切り替わるのです。つまり色が変わり始めると実がそれ以上大きくはならないという判断ができるので、この段階で規定サイズ以下のものは摘果します。この作業はいちごを出荷するためには必要ですが、3人の子どもをもつ母親の私にとっては非常に酷なもので、いつも複雑な思いになります。子どもたちの顔が順番に浮かんできて、いちごであっても出現順で見切りをつけるなんてあり得ない、4番目5番目6番目のこのいちごたちだってこんなに美しく咲いているのに、もしかしたら大きくなってくれるかも知れないのに・・・と摘果をしながら何度思ったか知れません。けれども、もう実ができていても、花が咲いていても、つぼみが膨らんできていても、摘果しなければなりません。時には小さなつぼみがたくさんついている房ごと取り除くこともあります。いつもため息が出ますし心が痛みます。ふと新約聖書のマタイ7章にある「良い実を結ばない木は切り倒されて火に投げ込まれる」という聖書箇所が思い起こされ、神さまの厳しい裁きのことを考えたりもします。そして、それぞれ違う道を歩み始めた子どもたちのことを思っては差がついてきたように感じられ、3人とも神さまに喜んで受け入れてもらえるだろうかという思いで不安になるのです。けれども、『今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっとよくしてくださらないでしょうか。』(マタイ6章30節)や『あなたは私の目には高価で尊い』(イザヤ書43章4節)のみことばを思い出すと、脳裏に浮かんだ子どもたちの顔が笑顔になっていきます。子どもたちのそれは、差ではなく違いであって、神様から与えられた個性であることをうなずくことができ、それぞれをそのままの姿で喜んでくださる神さまを思い、安心します。と、次の瞬間「良い実を結ぶとは?あなたは?」ということが突きつけられてくるのです。神さまからのチャレンジです。「私は大丈夫かな。良い実を結んでいないから炉に投げ込まれてしまうんじゃないかな。」と自問自答して胸が詰まりそうになります。すると決まって、♪ Jesus, I need you. Every moment, I need you ♪ という賛美の歌詞が心の中に流れてくるのです。私はすぐに「その通りです。今この瞬間、神様、あなたが必要です!」と心の中で叫びます。さまざまな思いがよぎっては不安になる自分。懸命に努力しても追いつけない高みがある現実に心がうなだれてしまう自分。けれども”Jesus, I nee you!”「この瞬間も、神さま、あなたが必要です」と叫ぶ時、心に平安が与えられます。立ち上がる力が与えられます。私が叫ぶ時、神さまはそこにいてくださいます。摘果は今でもあまり好きなタスクではありませんが、その作業を通して、どの瞬間も私には神さまが必要であることを毎回確認することができるのは感謝なことです。きっと私がそのことを忘れてしまいやすい者であることを神さまはよくご存知だからなのだと思います。自分の力では良い実を結ぶことはできず、ただただ神さまにしっかりとつながっていることが大切だということを再確認する幸いなときとなっています。Jesus I Need You – Hillsong Worship (2015 New Worship Song with Lyrics)
 
 4年前は20人弱だった会社も、現在は200名となり、急成長急拡大しています。喜ばしいことですが、ただそれゆえの難しさも感じています。「多様性」という壁です。スタートアップ当初の社内は日本人が主流で英語でなくてもOKでしたが、いつの間にか英語が公用語、書類やミーティング、プレゼンも英語となり、メンバーのバックグラウンドの違いからくるカルチャーギャップも多くなってきました。日本人の常識や普通が、そうではない場面に出くわして、うーんと思わずうなってしまうことがあります。働き方もさまざまです。メンバーの集中力、休憩の頻度、仕上がりの丁寧さなどを確認する必要がある時、この人たちは皆同じ給料でいいの?と思ってしまいます。そんな時思い出すのは、聖書の中には早く来た者も遅く来た者も同じ賃金を受け取るたとえが出てきて、すべての者に豊かに与えたいと願っておられる神の愛が語られています。そのたとえ話を思い出して、私自身が他の人と比べるのではなく、自分に託されたことに集中するようにと、「小さなことに忠実でありなさい」と語られました。ようやく、多様性を知ること、認めることはできるようになってきたかなあとは思うのですが、その多様性を尊重し、相手の個性と自分の個性を合わせて2ではなく3にするために上手にコラボしていくことが次の課題と感じています。これも神さまからの大きなチャレンジです。『それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。』(第1ペテロ4章10節)

 また、会社が大きくなるにつれ、全員で力を合わせてなんでもやっていたベンチャーから脱皮し、企業として成長していく時期に差し掛かっています。社内に部門が増え、業務が分化され、特定のスキルのある人が外部から雇用され、専門性が問われるようになってきました。その流れで私の所属や仕事内容も変わり、不満や不安を感じることが多くなってきている今日この頃です。この分野では全くのド素人であり、まだ自分が目指すいちご博士には届けていないと自覚しているのに、任された仕事内容に対する不満、任されないことに対する不満、一緒にプロジェクトをするメンバーへの不満などが積もってきています。最初はあんなに植物をさわれることへの喜びでいっぱいだったのに、いつの間にか、不平不満が溢れて止まらなかった出エジプトの民(旧約聖書)と同じように自分もなってしまっていることに気づき、このみことばによって立ち止まらされています。そう、詩篇103篇『主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。』です。けれども、私が仕事に没頭している間にも、神さまは働き続けてくださっており、たくさんの良いことをしてくださっていました。コロナ禍でも、農業はエッセンシャルワークということで私は毎日出勤していて、リモート授業となっていた子どもたち3人(2人の大学生と1人の高校生)が週2回ずつ6日間の夕食を作ってくれる日々が1年ちょっと続きました。そのおかげで私は早朝からファームに入っていちごの観察をすることができ、一般業務の前に勉強の時間を確保できました。子どもたちは毎回5人分の食事を準備するのに最初は悪戦苦闘していましたが、次第にレシピの材料が揃っていなくても冷蔵庫にあるもので準備できるほど腕が上がっていきました。今は3人とも自宅を離れましたが、十分自炊できるようになってくれたので、ある意味安心して見ていられます。またコロナ禍の閉鎖的な日々も、子どもたちが作ってくれた夕食を囲みながら、その日私の会社であったことをシェアしみんながそれに突っ込んだりダメ出ししたり質問したりと、たくさん話をするのが日課となりました。新しく知ったいちごの植物のあれこれや、ハチの受粉の難しさ、垂直農法のシステムや競合他社との攻防、起業あるあるやシンガポールの大学インターン制度、同僚の20代男子にもっと効率を考えて動くように怒鳴られて凹んだことや、まるでTVドラマのような大人同士の激しい本気のディスカッションがあったことなどです。たわいもないことでしたが、このような分野に長男は興味を持ったようで、私の会社で夏のインターンシップをし、そのまま就職することになりました。小学1年生の頃からFarmerになりたいと彼が言っていたこと、けれどもそれをどのようにサポートしていいかわからなかったことなどをその時思い出しました。娘は、私の研究開発部門での実験の話に影響を受けてか、大学入学直後から生物系の研究に目覚め、それを突き進めるためにこれから研究の道に進もうとしています。立ち上げ初期のメンバーとCEO宅で一緒に食事をする機会が何度かあった次男は、アメリカ育ちですが噂に聞いていた日本的な体育会系のノリというベンチャーの雰囲気を肌で感じ、色々と学ぶこと思うところがあったようです。夫も数年経った今では、自分で洗濯機を回したり洗い終わった食洗機の食器を棚に戻したりと、共働き夫婦らしく家が回るように無言で動いてくれています。私が社会とつながり奮闘していることもまた、家族それぞれに安心を与えているのかもしれません。この4年の間、目に見えること見えないこと、たくさんのことを主がしてくださってきており、これからもしてくださる、働き続けてくださることを確信しています。最近この賛美の歌詞が心を離れません。♪ You are Waymaker, Miracle worker, Promise keeper, Light in the darkness・・・Even when I don’t see it, You’re working. Even when I don’t feel it, You’re working. You never stop, You never stop working ♪ 4年前は、この歳になって、この地で、自分がいちご研究に携わることになるとは、ほんの1ミリも想像していませんでした。けれども、私がこうして植物工場に導かれたことが、このあともきっと何かにつながっていくのだろうと思うと、そのタネあかしが楽しみでなりません。今いるところでどうあることが神さまに喜ばれることなのか、これも神さまからのチャレンジです。まどろむことがない(詩篇121篇3節)神さまが、これからしてくださることに大いに期待し歩んでいきたいと思います。そして日々喜びが口から出る者でありたいと願っています。Leeland – Way Maker (Lyrics)

<集会紹介>「レント集会」(2024年3月)

「レント」というと、アパートやお家を借りること・・・ですよね。だから「レント集会」というと、何か場所を借りて集まるの?なんて考える方もおられるかもしれません。でも、そのレントは「Rent」で(ちなみにブロードウェイのミュージカルの題名もこちら)、一方、私たちの教会の「レント集会」は「Lent」。元々は「春」を意味する言葉。「L」と「R」の問題、日本育ちの私には、何年アメリカに住んでもなかなか抜け出せないです・・・。

イースターまでの日曜日を除く40日間、教会ではイエスの十字架の苦しみを心に留める「レント」の期間を過ごしています。今年のレントは2月14日から始まりました。イースターの3月31日の前の日まで続きます。

そのレント期間の毎週金曜日7週にわたって、午後7時半から「レント集会」を持っています。イエスの十字架や苦しみをテーマに学んできました。今から36年前の教会創立当初の資料を見ると、教会が始まった最初の年のレントにも今と同じように集まって「レント集会」を持っていたことが分かります。それから変わらず毎年持たれてきています。

イエスの十字架の意味を学ぶこと、そのイエスの苦しみを思い、自分自身の苦しみの意味を見つけること、そして、そこに表された神の愛に応答すること、これはクリスチャンの歩みにとって、とても大切なことです。

そのレント集会の中で、毎年何人かの方々に「証し」をしていただいています。クリスチャンとして歩んでいる中で悩むことや困難にぶつかることの中で、神さまがどのように導いてくださったか、また、現実社会の中で聖書の言葉にどのような力があるか、体験をお話していただくのです。

今年もすでに3回、教会に数名が集まり、オンラインの同時中継にも十数名が集まり、良い学びの時となっています。今年残すところはあと4回。是非、教会でも、オンラインでも参加してみてください。毎回のテーマ等、詳しくはこちらから

「嘆きを踊りに変えてくださる主」

ある日、ハモリに負けずに歌い切る!というテレビ番組に、笑いながら共感している自分がいました。
そして身近な録画を見て「あれ?これ私の声?自信を持って歌っていたつもりなのに少し外れてる・・」と自分の歌声に気づき、恥ずかしくなることもあるのですが、「それでもめげずに歌おう!」と、今は心に決めています。

 以前、母が私の出産について語ってくれたことがありました。それは父の母の思いに反して、母の大きな決断によって4番目の子としての出産が私だったことでした。そして、キリスト教や聖書とは無関係だった田舎の家庭に育った私が、イエス様の救いに与るなんて、まさに大きな憐れみでしかありませんでした。運動部に夢中だった中学生の時、姉と一緒に初めて教会に行き、いただいた新約聖書を一人で読み始めました。自分の力で隣人を愛する努力に限界を感じて罪が示され、高校生の時に「神様の愛は罪を赦す十字架に示された!」と知り、クリスチャンになりました。しかし、私が教会に通うことに父は反対で、ある時は茶碗を投げることがありました。そんな時でも罪から救われた喜びと神の愛に感動し、学校や教会の帰り道には「主にすがる我に、悩みはなし、十字架のみもとに、荷を下ろせば、歌いつつ歩まん、ハレルヤ~ハレルヤ~♪」(聖歌498)と歌い、賛美に励まされたり、信仰の友の祈りにも支えられてきました。キャンプに参加したり、聖書を読んで祈る中で、神様と交わることが喜びとなりました。母を通して受けた肉体の命と愛に加え、神様からの霊的な命と愛をいただくことによって、生きる喜びを感じ取っていたように思いました。

 やがて看護の道を歩む中、人が生まれる時には、母も周囲も全力で臨み「命の誕生」「命への畏敬」ともいえるものに感動しました。しかしある時は、厳粛な「人の臨終」にも直面し、本人、家族、医療スタッフが必死になっても限界「人間には立ち入れない世界」があるのを感じる時がありました。遺族の大きな喪失感で悲しむ姿を知り、一人の人の命がどんなにかけがえのない大きなものか・・、神様に問いかけ、深く悩み祈ったものでした。「肉体は滅びても、魂を救うお方がいらっしゃる。」そのことを見出し、それから救いや天国の希望、神様の大きな愛を伝えたいと願うようになり、数年の祈りの後に「私の子羊を養いなさい。」(ヨハネ21:15)のみことばに立ち、聖書学院に導かれました。

 牧会生活の中では共に祈り合い、また恵みを分かち合う中で、主に導かれる方がおられたり、また、離れて弱っていた方が信仰に立ち返った時、一緒に泣いて一緒に笑って、神様が私たちと共にいてくださると感じる時、そして反対していた家族にも神様が’働いてくださった時、それは本当に私の大きな喜びでした。

 しかし、これまでの歩みの中で、ある時には神様は私を訓練してくださいました。髪を振り乱し必死の日々、「睡眠時間を削って、こんなに一生懸命頑張っているのに・・」と、自負や思い違いをしていた時、急に試練の中に落とされます。八方塞がりの中で自分の弱さ、まるでボロ雑巾のような惨めさ、ある時には人を赦しきれない罪深さを示され、悔い改めさせられ、主のみ前にへりくだることを教えられるのでした。それでもイエス様の十字架の愛に戻る時、わたしの心に賛美が湧き上がります。
「恐れは変わりて、祈りとなり。嘆きは変わりて、歌となりぬ。
歌いつつ歩まん、ハレルヤ~ハレルヤ~」(聖歌 498)

あるセミナーの中で、教えられたことです。
「皆さんは祈る時、自分に必要なことを一方的に提示して話していることはありませんか?神様の愛をいただくために、自分を空っぽにして、心の窓を開いて、自分の内側に神の愛の眼差しを求めましょう!」
「想定外の中でも神は働いてくださるのです。言葉も出なくなる時、うめくしかない時、それでも神の前に立つなら、祈りとなるのですから、自らを明け渡す祈りをしましょう。私たちは聖霊が働かれる条件を整えましょう!」と勧められました。
「御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちをとりなして下さるからである。」(ローマ8:26)

私の心のうめきをご存知で共にとりなしてくださる方がいる。そう思うと私の内側に、不思議なほどに平安と、勇気が与えられるようでした。
私の歩みのためには、主ご自身が、そして世界中に広がった兄弟姉妹がとりなしの祈りで支えてくださるのだから。そのように大きな愛に導かれるのを感じるのでした。

「苦しみや悲しみや嘆きを踊りに変えてくださる優しいお方、主により頼みます!」と祈るのでした。

「あなたは私のために、嘆きを踊りにかえ、荒布を解き、喜びを私の帯とされました。
これは私の魂があなたをほめたたえて、口をつむぐことのないためです。
わが神、主よ、私はとこしえにあなたに感謝します。」(詩篇30:11、12)

私をここまで導いてくださった主に、心からの祈りと賛美をささげて歩んで行きたいと願っています。

「主のみ約束に、変わりはなし、み許に行くまで、ささえたまわん。ハレルヤ~ハレルヤ~♪」
(聖歌498)

<牧師室より>2024年2月号「コミュニティに生きる使命」

良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。
平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、
「あなたの神は王であられる」とシオンに言う人の足は。
イザヤ書 52章7節

私たちの教会は、この聖書の言葉をいただいて、2024年をスタートしました。
この言葉は、教会が、神さまからの平和と解放、救いのメッセージを託されて、出て行く使命を頂いていることを示しています。

それは、言葉によって聖書に表された神の愛、神の救いを伝えるということはもちろんですが、それだけではなく、私たちの行動によって、神の愛を表していくということも大切なことだと思わされています。

9-11の同時多発テロの直後、社会全体が大きな痛みを通る中で教会は何ができるだろうかと、いくつかのセミナーに参加している中で、「何かがあってから、『私たちは〇〇教会の者ですが、何かできることはありますか?』と聞いても、それからでは遅い、教会がいつもいつもコミュニティの中で生きていないと、いざという時に教会に手を差し伸べてもらおうなんて人は誰もいない」との講師の言葉は衝撃でした。今頃になってこんなセミナーに来ているようではダメだと言われているような、でも、これからの生き方が問われるのだとチャレンジをいただいたような思いになりました。

それから22年、ずっと私たちの教会が、そして、私自身が、コミュニティの中で生きるとはどういうことなんだろう、何ができるんだろう?と問い続けています。今年は特別にそのことを考え、受け止め、実践していく年となる様にと願っています。

 今月は14日のAsh Wednesdayから教会はレントの期間に入ります。教会の歴史を通して、この期間はイエスの十字架での苦しみを覚えて、聖書を味わい、悔い改め、人々に仕える時として重んじられてきました。

 私たちの教会でも、2月16日から3月29日のGood Fridayまで、毎週金曜日の午後7時半から9時まで、教会に集まって、レント集会を持ちます。今年は「受難週からのメッセージ」。受難週とは、イエスが十字架にかかった最後の一週間です。その一週間に起こったいくつかの出来事から、神さまが私たちに託されたメッセージについて学んでいきます。教会に集うのが難しい方のためにオンラインでの参加もできるようにします。是非、ふるってご参加ください。オンラインでのアクセスを希望される方は錦織牧師(pastor.jccofnj@gmail.com)までお問い合わせください。

証し

私は牧師家庭で生まれ育ち、家でも教会でも神様のことを聞くのが当たり前な環境でした。いつの間にか「ごく自然にイエス様を信じていた」というのが正直なところで、何か劇的な変化や感動的な体験を通して救われた、と言えるものがありません。クリスチャンとして「感動的で霊的な経験がなければならない」と思ったことはありませんが、人前で語るような証は自分には無いと感じたり、信仰が揺らいでしまう事はありました。

そんな私の歩みの中で、神様という存在を幼い時から知らされ、自由に信じることのできる環境に置かれていることの恵みや、教会やキャンプの奉仕をする機会が与えられてきたことに感謝をするようになりました。神様が私を遣わして用いてくださり、周りの人々に触れておられることを間近に感じることによって、自分自身の信仰が強められていくのを感じてきました。

中でも一人の方との印象的な出会いを通して、神様は私の信仰を強めてくださり、与えられた賜物を認識するきっかけを与えてくださいました。その方は私が高校生の頃、プリンストンの教会に初めて来られた未信者の方でした。彼女は近くの音楽大学大学院で声楽を勉強するために日本から留学していた方でした。当時の私は、音楽や賛美の奉仕に熱心に携わっていたものの、自分には特に賜物や秀でている部分はないと思っていたので、内側では葛藤も感じていました。また、その方の声楽家としての経歴を知ったことで、彼女の前で賛美をする事に恐れを感じてしまいました。緊張と恐れの中で何とか賛美を捧げることができ、その日の礼拝が終わりました。彼女はそれから約一年間、毎週教会の礼拝に来られました。日本への帰国が近づいたある日、その方から言葉を頂きました。「真歩ちゃんの賛美があの時の私には必要だったし、本当に心が開いていくのを感じました。」あの日、私は葛藤と緊張と恐れの中で賛美していたのですが、その礼拝や賛美がきっかけとなって彼女は神様を真剣に求め始め、帰国直前にイエス様を救い主として信じました。そして牧師である私の父と一緒に祈りを捧げられたそうです。

神様が導いてくださった出会い、彼女の魂への働き、そして彼女からの言葉を通して初めて、神様が私をも用いてくださったのだと感じました。その後も 私の周りで人々が神様への信仰を持ち、救われていく姿を間近で見聞きする中で、私自身も恵まれ、信仰が強められ、この道を歩むことに更なる確信が与えられていることを感謝しています。

<牧師室より>2024年1月号「神の恵みによって」

明けましておめでとうございます。

 私たちの教会は1988年元旦にスタートしました。2024年の1月1日に36周年を迎えます。最初はいつまで続くかと思った、と伺っていますが、ここまで守られてきたのは、ただ神さまの恵みであり、憐れみによるものであったと思わされます。

「神の恵みによって、私は今の私になりました。」
(コリント人への手紙 第一 15章10節)

 私が初めてこの教会に足を踏み入れたのは1994年の秋でした。その2年前に日本での牧師の働きを中断してやってきたアメリカ。最初のサンディエゴも、次のアトランタも、知り合いを頼って生活を立ち上げました。しかし、誰も知り合いがいないニュージャージーの大学院に進むことになり、まだEmailとかウェブページとか、あまり普及していない頃でしたから、「キリスト教年鑑」という名前の、日本の教会と世界各地の日本語教会の連絡先が載っている分厚い本を開いて、「神学生としてご奉仕する場はないでしょうか?」とNY周辺の教会に手当たり次第手紙を書きました。その中で、ただ一つ、お返事をくださったのが、ニュージャージー日本語キリスト教会だったのです。「何も約束はできないけれども、とにかく一度来てごらんなさい」と。そのお返事に励まされて、9月の初め、この教会に一歩足を踏み入れました。

 それから、間もなく30年。牧師としてご奉仕をさせていただくようになって、27年。本当に素晴らしい喜びもたくさん経験しましたが、痛みや悲しみ、戸惑うことも何度もありました。そして、私が来る前には、もっと大きな危機があったと伺っています。それでも、ここまで守られてきました。誰かが頑張ったとか、あの人がいたからとか、そういうことを超えて、本当に神さまの憐れみによるものだと思わされます。

 この世界の経済と文化の中心地であるニューヨーク周辺には、これからも日本語での教会の働きが必要でしょう。日本語で人々を支え、励まし、神さまの恵みを伝える教会が必要だろうと思います。そのために、これからも、願わくは、ニュージャージー日本語キリスト教会が用いられてほしいと思います。これからも困難が襲ってきたり、逆風の中を歩んだりするときがあると思います。それでも、ここまで守ってくださった神さまが、これからも一歩一歩導いてくださることを信じています。

2024年の元旦は午前11時から元旦・創立記念礼拝をいたします。また礼拝後にはお餅を準備しています。是非お出かけください。新しい年、神の前に出て祈りをもってスタートしましょう。

<集会紹介>聖書を読む会(2023年12月)

 今回、改めて調べてみると始まったのは2001年5月。Fort Leeで「初めて聖書を読むお友だちを誘って聖書を一緒に読んでいきたい」という方々の声によって始まった集まり。直後の9月には9-11の同時多発テロで一人の参加者のご主人が犠牲になるという大きな痛みを通りました。しかし、それによって、12月にはWaldwickでも始めたいという方が起こされて、2つのグループがそれぞれの場所で集まりを持つようになりました。その後、Fort Leeの集まりの皆さんはそれぞれのところに引っ越していかれましたが、Waldwickの集まりは、RidgewoodやMidland Park, Paramusなど、いろいろなお宅で引き継がれて続けられてきました。そして、一回に集まるのはもう無理かと、悲鳴を上げるほどに多くの方々が集まっていた時に、突然のコロナ禍での中断を余儀なくされました。何度かオンラインでの集まりを経て、教会で再開したときには本当に小さな集まりとなりましたが、今はParamusの牧師館に場所を移して、少しずつ集まる方々が増えてきています。

この集まりでは最初に一つ、聖書を開く前に、質問を投げかけます。最近のものからご紹介すると、こんな質問です。

  • 悲しいとき、辛いとき、苦しいときに、ありがたかった(ありがたいと思う)言葉や態度は何でしょうか?
  • あなたは何でも信じやすい方ですか?何でも疑ってかかる方ですか?場合によりますか?どんな人の言葉は信じられますか?どんな人の言葉は信じられませんか?
  • アメリカに来た時に、困ったこと、戸惑ったことはありましたか?どんなことだったでしょうか?そんな中で手を差し伸べてくれた人はいますか?どのように恩返しをすることができたでしょうか?
  • 社会を見ていて「これだけは許せない!」と思うことはありますか?個人的に経験したことで、「これはひどい!」と思ったことはありますか?どんなことでしょうか?

 それから聖書を開いて、聖書の内容についての質問に答えていきます。そして、最後にはこの最初の質問と聖書が絶妙につながってくることを感じるのです。

 教会の歴史の中で、一番長く続いている集まりの一つですが、それと共に多くの方々が聖書に出会い、イエスに出会ってきた集まりです。今はParamus一カ所だけですが、もしも「うちの地域でも!」という方がおられましたら、是非ご相談ください。新しくスタートできたらと願っています。

<牧師室より>2023年12月号「暗闇が深いところにこそ」

メリークリスマス!

 12月になりました。クリスマスまでいよいよ3週間を切りました。街がイルミネーションで華やぎ、お祝いムードに染まるこの季節ですが、世界に目を向けると、痛みを感じないではいられません。ウクライナはロシアの侵攻から2回目のクリスマスを迎えようとしています。そして、ハマスとイスラエルの間の停戦も一週間で終わり、また本格的な戦闘が再開しています。現地からのニュースに接すると本当に心が引き裂かれるような思いになります。私たちがもしもこの痛みを完全に失って、自分たちだけが良ければそれで良い、と思ってしまってはいけないのだろうと思います。

 クリスマスはイエスの誕生を祝う日。しかし、実際にイエスが生まれたのは12月ではないだろうと言われています。12月ではイエスがお生まれになった夜、羊飼いたちが野宿しながら羊の群れの番をしていた、という聖書の記述と合わないというのです。では、なぜ、12月にクリスマスを祝うようになったのかというと、緯度が高く冬の日中の時間が短いヨーロッパで、これから日が長くなっていく、太陽が帰ってくることを祝っていた冬至の祭りに、暗闇を照らす光として来られたイエスの誕生を合わせて祝うようになったのだろうと言われています。

 聖書の中に、イエスの誕生について語っているこのような言葉があります。

「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネの福音書1章5節)

「すべての人を照らすまことの光が、世に来ようとしていた。」(ヨハネの福音書1章9節)

 イエスは暗闇を照らす光だと、暗闇に勝利する光だと、またすべての人を照らす光だというのです。この暗闇は「一人一人の個人の心の暗闇」だとしばしば言われます。私もそう思います。イエスは私の心の暗闇も照らし、私の心も造り変えてくださいました。しかし、それだけに限定されないのではと思います。この暗闇を照らす光、すべての人を照らす光は、今、暗闇のような状況にある人々のところに届き、その暗闇を照らす光なのだと信じます。そして、私たち自身も心を照らされて、光とされて、出て行くのです。世界の反対側のことも忘れてはなりませんが、身近なところにも暗闇の中に置かれている人々もいるでしょう。そこにも私たちは光を届ける使命があるのです。

「起きよ。輝け。まことにあなたの光が来る。主の栄光があなたの上に輝く。」(イザヤ書60章1節)

 今年のクリスマス。私たちの心がイエスによって照らされて、私たちも光とされて、光を世にもたらす存在とされますように。

<牧師室より>2023年11月号「痛みの中でのサンクスギビング」

 11月になりました。

 アメリカで11月と言えばサンクスギビング。この国では各地から郷里に帰ってきて、家族で過ごす方々が多いようです。私たちの教会でも2019年以来4年ぶりになるサンクスギビングの愛餐会(食事会)をします。また、この機会に以前こちらにおられた方々で戻って来るという方々もおられて、賑やかになりそうです。楽しみにしています。

 しかし、ひとたび世界に目を向けてみると、ロシアによるウクライナへの侵攻は続いていて、戦争の中で2回目の冬を迎えようとしています。そして、10月にはハマスによるイスラエルへのテロ攻撃、またそれに対してハマス殲滅を目指すイスラエルの反撃が続いていて、多くの人々が苦しんでいます。こんな状況の中で、私たちはサンクスギビングを心から楽しめない思いにもなります。

 しかし、実際のところ、アメリカでの最初のサンクスギビングも、万事順調、順風満帆の人生を歩んできた人たちによってではなく、多くの苦しみを経験してきた人々によって祝われたのです。ピルグリム・ファーザーズと呼ばれる人々はイギリスで迫害を受け、困難の中に歩んでいました。そんな彼らが自由を求めて船出した大西洋を渡る航海と、ようやく到着した新大陸での例年にない厳しい冬の寒さによって、乗り込んだ人の半分は命を落としたといいます。希望の船出が悲惨な結果になって、彼らはどんなに大きな痛みを経験したでしょうか?その痛みの中にいた彼らが、現地の人々の助けによって得た初めての収穫。そこで祝われたのがアメリカでの最初のサンクスギビングだと言われます。

 ですから、私たちは今も世界各地で、そして、もっと身近なところでも、痛みの中にある方々のことを心に留めながら、与えられている神様からの恵みに感謝して、サンクスギビングをお祝いするのです。この時期、多くの団体が困難の中にある方々のための働きへの協力を呼びかけています。私たちもこのような働きに心を向けて、出来ること、なすべきことを求めていこうではありませんか。

 今年のサンクスギビングが、多くの人々にとって、感謝と慰め、癒しに満ちたものとなりますように。