<牧師室より>2023年11月号「痛みの中でのサンクスギビング」

 11月になりました。

 アメリカで11月と言えばサンクスギビング。この国では各地から郷里に帰ってきて、家族で過ごす方々が多いようです。私たちの教会でも2019年以来4年ぶりになるサンクスギビングの愛餐会(食事会)をします。また、この機会に以前こちらにおられた方々で戻って来るという方々もおられて、賑やかになりそうです。楽しみにしています。

 しかし、ひとたび世界に目を向けてみると、ロシアによるウクライナへの侵攻は続いていて、戦争の中で2回目の冬を迎えようとしています。そして、10月にはハマスによるイスラエルへのテロ攻撃、またそれに対してハマス殲滅を目指すイスラエルの反撃が続いていて、多くの人々が苦しんでいます。こんな状況の中で、私たちはサンクスギビングを心から楽しめない思いにもなります。

 しかし、実際のところ、アメリカでの最初のサンクスギビングも、万事順調、順風満帆の人生を歩んできた人たちによってではなく、多くの苦しみを経験してきた人々によって祝われたのです。ピルグリム・ファーザーズと呼ばれる人々はイギリスで迫害を受け、困難の中に歩んでいました。そんな彼らが自由を求めて船出した大西洋を渡る航海と、ようやく到着した新大陸での例年にない厳しい冬の寒さによって、乗り込んだ人の半分は命を落としたといいます。希望の船出が悲惨な結果になって、彼らはどんなに大きな痛みを経験したでしょうか?その痛みの中にいた彼らが、現地の人々の助けによって得た初めての収穫。そこで祝われたのがアメリカでの最初のサンクスギビングだと言われます。

 ですから、私たちは今も世界各地で、そして、もっと身近なところでも、痛みの中にある方々のことを心に留めながら、与えられている神様からの恵みに感謝して、サンクスギビングをお祝いするのです。この時期、多くの団体が困難の中にある方々のための働きへの協力を呼びかけています。私たちもこのような働きに心を向けて、出来ること、なすべきことを求めていこうではありませんか。

 今年のサンクスギビングが、多くの人々にとって、感謝と慰め、癒しに満ちたものとなりますように。

<集会紹介>JOYJOYキッズクラブ(2023年11月)

 私たちの教会では、月に一度「JOY JOY キッズクラブ」を木曜日の夕方に開いています。おもに小学生以下のお子さんを対象にした集会で、その名の通り(JOY=楽しみ)、楽しんでもらうためのプログラムです。10月のキッズクラブでは、みたらし団子をつくりました。親子で粉をこねこねし、コロコロ丸め、たっぷりのお湯で茹でたお団子に、たっぷりとタレをつけて美味しくいただきました。

 キッズクラブのスタートは2005年。当時、夏に一週間ほど開いていたデイ・キャンプ「JOY JOY キャンプ」が好評で、「その楽しさを夏以外にも経験してほしい」という牧師の願いから始まりました。しかし、楽しむことのほかに何としても伝えたいのは神さまのこと。この世界をつくられ、なんでもでき、力ある神さまが、みんなのことを大切に思い、愛し、いつも一緒にいてくださる。。。この素晴らしい真実を一人ひとりに知ってもらいたいと願って続けています。スタッフが何度か入れ替わり、集う子供たちはどんどん成長していきましたが、新しいお友だちが次々とやってくる祝福あふれる集まりです。

 数か月前にアメリカへ来て、キッズクラブへの参加は2回目という I 君のお母さまは「いつも工夫を凝らした遊びをしてくださり、親子ともども楽しんでいます。先生のお話も興味深く、子供たちからもたくさん質問がでます。先生が一つ一つ丁寧にこたえてくださるので、子供たちも真剣に聞いています。こういった、日本人の大人が遊びやお話を通して子供と真摯に向き合ってくださる機会は、アメリカの地ではなかなか得難いこともあり、とても感謝して参加させて頂いています。」と語ってくださっています。

 3歳になりたての頃から参加し続けてくれているL君はいま10歳。キッズクラブの魅力を「毎回いろんなゲームをみんなとしたり、いろんな楽しいクラフトやクッキングがあるのが楽しいです。そしてスタッフのみんなが優しいんです。」とコメントしてくれました。学校の活動が忙しく、宿題を持ち込んだりしながらも、「母の情熱がゆえにいつしか常連となりました」というL君のお母さまの頑張りもあって、毎回40-50分の道のりをはるばる通ってきてくれています。

 ニュージャージー州は土地柄、日本語環境のお子さんがたくさん住んでいます。親御さんの仕事の関係で数年間をアメリカで過ごすお友だち、日本人のご両親のもとにアメリカで生まれたお友だち、国際結婚をされているご家庭のお友だち、、、いろいろな理由からこの地に住み、日本語教会に来てくれます。そんなみんなが中学生、高校生、大学生、そして大人になって、「教会は楽しいところ。楽しいだけでなく心に迫るなにかを感じたところ」と思い出し、また教会に足を運んでくれることを願っています。

 最近では必要に応じて英語通訳をつけ、日本語が得意でないお友だちも参加しやすくなりました。毎月、スタッフが知恵を絞ってプログラムを考えています。是非、お友だちにもご紹介のうえ、いらしてください。

<牧師室より>2023年10月号「この国で共に生きる」

私がこの教会の牧師としてご奉仕を始めたときには、ご高齢の方々はそれほど多くはありませんでした。しかし、26年経って、ご高齢の方々のサポートの機会が増えてくる中で、自分が今まで知らなかったことがこれほどあったのか、と思い知らされています。そして、それらの情報は、教会の皆さんにためにも、私自身のためにも、もっと早く知るべきだった、ということばかりです。もし、この国で生まれ育っていれば、当たり前のように知っていて、互いに話題にしたり、共有したりしていたことかもしれません。しかし、日本からやってきた私たちにとっては「そうだったのか!」「へえ、そうなんだ?」ということがどれだけあるかと思わされます。

 その経験から、今回、10月21日の土曜日の午後、私自身が教会の方々のサポートのために、いろいろな方々に助けていただく中で、大きな力となってくださっている「ライフデザインサポート」の方々にセミナーをしていただきます。この国で歩んで行く中で、特にシニア世代や、そこにさしかかろうとしている皆さんにとってはもちろん、どの世代にとっても必要な情報をお話していただきます。詳しくはこちらの案内をご参照ください。多くの皆さんのご参加をお待ちしています。

 しかし、改めて考えてみれば、たまたま、今まで私たちの教会にシニア世代の方々がそれほど多くなかっただけで、教会の周りには、どれほどたくさんのサポートや情報を必要としている方々がおられるだろうかと思います。

 イエスは「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」(マタイの福音書 25章40節)と言われました。

 これを機会に、もっともっと、私たちが多くのことを学び、生活のあらゆる側面において、この地域の日本語を使う方々と共に歩んでいくことができるようにと願っています。

証し

私は96歳になります。日々、主に生かされ、日々、主に守られて恵みを受けております。そんな私でも、寄る年波で、病による痛みや苦しみがあります。そのような時は正直に「神様、痛いです。苦しいです。」と申し上げて、主に在る慰めをいただいております。

 私はかつて高ぶる者でした。主人との結婚生活において日々、口争いが絶えず、相手を傷つけ、私も傷ついてまいりました。

 クリスチャンとなってある日、教会の牧師先生に家庭のことを話したところ、ひどく叱責を受けました。私に同情してくれるどころか責め立てられるなど、思いもよらないことでした。しかし、神様の恵みは低いところに流れます。「謙遜になりなさい」という神様からのメッセージだと受け止めて、家庭においてへりくだることを心掛けました。

 しかし、そう易々と変化は起こりません。私の中で何かが変わり始めていたとしても、主人には伝わらず、相変わらずの結婚生活が続きました。そんなある日、こともあろうか、主人は突然、「家を出ていく」と言い出しました。

 すでに成人していた娘は驚きあきれ、弁護士を立てて離婚するよう勧めてきましたが、私の心の中に聞こえてきたのは「とどまりなさい」という声。「なぜ?なにを?どうやって?」と問い続けつつ、まだ夜が明けきらない暗がりの中で、聖書を開きました。意図せずに開いた聖書の箇所はヨハネの福音書15章4節。そこには、はっきりと「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。・・・。」と書いてありました。びっくりしました。と同時に、私の心の中に聞こえてきた声が神様からの声だったと確信できました。ならば、従おうと心に決めました。

 それからの道のりも、決して平坦だったとは言えません。離婚は思いとどまりましたが、その後、主人は大病をして治療に時間とお金がかかりました。「とどまりなさい」との御言葉を握りしめて、看病と介護にあたった日々でした。医療保険に入っていなかったため、医療費は莫大な額になり、私が長年積み立ててきた預金は底をつきました。さすがの主人も「すまない」と謝ってくれましたが、その時に私の口から出た言葉は「そんなことはいいから」でした。

 神様が主人の心に触れて下さいました。「そんな言葉を言わしめる神様はどんな方なのだろう。僕も黎子の信じる神様を知りたい。」主人は神様を求めて歩みだし、やがて信仰を得るに至りました。

 今、私は最高に幸せです。身体が衰え、酸素吸入器の手放せない毎日ですが、イエス様がいつもそばにいて下さいます。神様が語りかけてくださいます。大病が癒され、信じる者とされた主人が、かいがいしく私の身の回りの世話をしてくれています。

 ヨハネの15章4節は、こう続きます。「・・・枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」そして次の5節では、「・・・人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。・・・」人生の最期を迎えつつある今、神様が聖書で約束してくださっている多くの実を、私は見せていただいているのです。

 これから実りそうなものも、まだまだあります。神様の素晴らしさを、外へ出て行って伝えることはできなくなりましたが、家の中でたくさんの祈りをささげています。友人がクリスチャンとなってくれますように、祖国日本に福音が広まりますように、ウクライナで苦しむ人々のもとに平和が訪れますように・・・私の祈りのリストは長く、果てしなく、どれだけ時間があっても足りません。だから神様は、私をまだ生かしてくださっているのでしょうか。

 神様はすばらしい方です。神様の御言葉を信じ、とどまる者に、恵みを与えてくださいます。このすばらしい方のことを、一人でも多くの皆さんに知っていただきたいです。信じていただきたいです。

 すべての栄光を主にお返し致します。

<牧師室より>2023年9月号「空の鳥を見てごらん」

8月の最後の日曜日は「ピクニック礼拝」。多くの皆さんが参加されて、楽しい時を持ちました。礼拝後のサンドイッチのランチや、その後のレクリエーションも良かったのですが、私自身はそれと共に、緑豊かな公園での礼拝の中で、イエスの言葉に従って「野の花に目を留める」ことを実践してみて、新しく目が開かれる思いがしました。

礼拝のメッセージの中で「では、皆さん、自由に歩き回って、野の花をじっくり見る時を持ちましょう」とアナウンスして、10分ほどそれぞれで野の花を見る時をもっていただきました。正直なところ、当日の朝、会場の公園に来てみて、かなりしっかりと刈り込みがなされていて、元々あまり花の多くない8月の下旬、「花なんて咲いてないじゃん」と言われるんじゃないかと思いました。でも、注意して見てみると、普段は目に留まらないような小さな花がいろいろ咲いているのですね。そして、その一つ一つ、花びらの形、その数、おしべが出ているかどうか、など、それぞれに個性があって、いくら時間があっても足りないくらいでした。ちょうど今、NHKの連続テレビ小説「らんまん」の主人公が這いつくばって、草花に見入っているのが、こんな感じなんだろうかと分かるような気がしました。

イエスは「野の花を見てごらん」と言われた後に、「その一つ一つの野の花よりも、神はあなたの事を何倍も大切に思い、心にかけておられるんだよ」と言われるのです。

「今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。」

マタイの福音書 6章30節

これからいい季節になります。散歩をしたり、空を見上げたりするときに、自然の中に込められた神さまのメッセージに耳を傾けてみませんか?

<集会案内>「JOY JOY キャンプ」(2023年9月)

1995年に始まったJOY JOY キャンプ。エネルギーのあふれている子どもたちが、教会で「静かにしていなさい!」とか「おとなしくしていなさい!」と言われることよりも、楽しいことをたくさん経験して欲しい、そして、その中で、楽しいだけじゃない、大切な神さまのメッセージを知って欲しい、とスタートしました。

夏の1週間のデイキャンプ(通いのプログラム)。毎年違うテーマを決めて、工作やお話、テーマソングなどもキットなどに頼らず全部手作りで準備してきました。お借りしている教会の体育館にセットを造って、トンネル迷路を張り巡らして、毎日、エキサイティングな探検をしながら、その中で聖書のメッセージを分かち合ってきました。地域の皆さんの間にも浸透して、たくさんのお子さんたちを迎えてきました。

ところが、2020年はコロナのために中止。オンラインでのアクティビティーをしました。そして、2021年は午前中のみ+人数限定で再開。2022年は午後まで時間を延ばして・・・と、少しずつ正常化を進めてきました。

そして、今年のJOY JOY キャンプは、8月7-11日の午前10時から午後3時、20人の参加者を迎えて持たれました。

今年のテーマは「JOY JOY 探検隊〜宝物を探しに行こう!」で、まずは毎日教会の地下の部屋やメイン会場のジムを探検して、宝さがし。そして、JOY JOY キャンプ名物トンネル迷路も「ミニ版」で4年ぶりに復活!やはり、子どもたちはこのトンネル迷路、とても楽しかったようです。

 

そして、テーマソングや教会の歌を歌って聖書からのお話。神さまが私たちに与えてくださった宝物を一つずつ取り上げていきました。毎日のテーマは「この世界、地球、宇宙」「家族や友達」「いのち」「自分自身」「イエスさま」。子どもたちは毎日真剣にお話を聞いていました。その中で、子どもたちから飛び出してきた名言・・・「宇宙は神さまの宝箱だね!」・・・まさに!です。

その後は、毎日工作をしたりゲームをしたり・・・ちなみに今年の工作は「宝箱」「風船ランプシェード」「ロケット」「宝石石けん」「クレーン」「プラ板」そして、「Tシャツプリント」などなど。そして、ゲームは「震源地」「十字おに」「鬼玉入れ」「しっぽ取り」「風船バレー」「水風船投げ」「スイカ割り」などなど。5時間があっという間に過ぎていく5日間でした。

そして、その週末、13日の日曜日の礼拝には半分以上の子どもたちが出席してくれて、教会の皆さんの前でキャンプの中で歌った歌やテーマソングを歌ってくれました。

 

コロナ前は40-60人の参加者を迎えて持ってきたJOY JOY キャンプ、これからも地域の子どもたちを迎えて続けていくことが出来るようにと願っています。

例年4-5月に申し込み受付を開始します。来年はどんなテーマになるか?お楽しみに!

<牧師室より>2023年8月号「宝物を探しに行こう」

 今年もJOY JOY キャンプがやってきます。
 今年のテーマは「JOY JOY 探検隊〜宝物を探しに行こう」です。5日間、20人の子どもたちと、毎日宝物を探しに探検に行きます。

 我が家の「宝物」と言えば、「松井秀喜選手のバット」です。

 もう20年も前ですが、ヤンキースの試合を見に行った時、松井秀喜選手が空振りしたバットが手から滑って観客席にいた私達のところに飛んできました(その時の様子はこちら)。「これはさすがに返さないといけないだろう」と思って係の人に渡したのですが、その時、球場全体で大ブーイング!「何だ?何か自分はブーイングされることしたか?」と思っていたら、周りの人が「あの係の人にブーイングしているんだよ!あれはおまえのものだ!もらってこい!」と口々に言ってくれて、係の人を追いかけて、無事いただいて帰ることができました。それから、野球を見に行く度に、良くもこの大きな球場の中で、自分のところに飛んできたな、と思います。特別な神さまからのプレゼントだったと思います。

 でも、当時良く思ったものですが、もしも強盗に銃を突きつけられて、「おまえの家の宝物を持って行くぞ!」と松井のバットを奪われたら、間違いなく「どうぞ!」と言うだろうなあ、でも、もう一つの我が家の宝物であるその頃小さかった自分の子どもたちに同じことが起こったら、絶対に命をかけて、「自分はいいから・・・」と自分の身を差し出しても、子どもたちを守るろうとするだろうな、と。実際、本当に大切な「宝物」は決して「モノ」ではないんですよね。

 今回のキャンプで子どもたちに是非見つけて欲しい2つの宝物があります。それは、一つは「神様の愛」、そして、もう一つは、「自分自身」です。聖書の中に、天国(=神さまの愛に満たされた人生と死の向こう側にも続く命)という宝物を見つけたら、喜びにあふれて、全財産を売り払ってそれを自分ものにするだろう、というイエスの言葉があります。

「天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。」(マタイの福音書 13章44節)

 私達がこの宝物を自分のものにするために、すべてを投げ出してもちっとも惜しくないだろう、というのです。それくらい価値があるのだよ、というのです。でも、この言葉にはもう一つの意味があります。それは、立場をひっくり返すと見えてくることです。宝を探しているのはイエスであり、宝物は他でもない、私達だというのです。イエス自身が、「私達」という宝物のためには、すべてを投げ出しても惜しくない、と言ってくださったのです。実際、イエスは十字架にかかって、私たちの代わりに罪を負ってくださいました。そこまで私達は愛されているのです。

 今年のJOY JOY キャンプも、子どもたちの安全が守られて、子どもたちが、神さまが自分たちの事を宝物としてくださっていること、そして、愛されている喜びを知ることができるようにお祈りください。

<集会紹介>「Friday Nightオアシス」(2023年8月)

「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネの福音書 4章13~14節)

日々の歩みの中でのオアシスのような場になるようにという願いで2015年に始まった「Friday Nightオアシス」。月に1回ですが、お腹を満たすご飯と、心を満たす聖書の言葉、そして、ホッとできる場所を提供しています。

3年前のコロナ禍ですべてがストップしたときは、オンラインでの集まりを続けました。一番大切な「聖書の言葉」は残りましたが、やはり食事も場所も提供できないのはちょっと寂しかったです。2021年の夏には食事を復活して、「屋外ならばいいだろう・・・」と、牧師宅の裏庭で集まったこともありましたが、3ヶ月連続で途中から雨が降り出して、慌ててテントを張ったりもしました。「広い空間なら・・・」と2021年秋からは教会のジムに集まってきました。そして、今年の6月からはやっと牧師宅に戻ってきました。

7月のFriday Nightオアシスには10人ほどが集まって、ちょうどNJに戻っておられたポール鈴木宣教師とキャロル夫人を囲んで、まずは準備されたお食事(写真撮り忘れました・・・)。それから、鈴木ご夫妻に100クエスチョン(実際は40クエスチョンになりましたが)。鈴木ご夫妻も楽しく質問に答えてくださって、ぐんと心の距離が近づきました。そして、錦織牧師の聖書のお話。40クエスチョンの最後の質問、「今日だけ会える人に何でもいいから5分話して、と言われたら何を話す?」に錦織牧師自身が答えて、「私達は神さまの宝物」、神さまは一人子イエス様を十字架にかけるほどに、私たちの事を愛してくださったのです、という聖書の話でした。とっても5分では終わりませんでしたが・・・。

そして、その後もしばし、デザートやコーヒーで、気がついたら夜の10時。楽しい時間はあっという間に過ぎていきますね。

Friday Nightオアシスは毎月第3金曜日午後7時から牧師宅で。教会の礼拝とはまた違った距離感で聖書のお話を聞くことができ、「本当に、私にとってはオアシスです」と言われる常連の方も。聖書の話は初めて、という方も大歓迎です。場所など詳しいことは錦織牧師(pastor.jccofnj@gmail.com)まで。

<集会紹介>野外早天祈祷会(2023年7月)

3年ぶりに昨年から復活した夏の野外早天祈祷会。今年は5月最後の土曜日、27日から始まりました。5月の早朝は空気が冷たく、でもハドソン川のほとりのFort Lee Ross Dock Picnic Areaは、視界が開けて清々しい景色が広がっていました。爽やかな初夏の天候の下で野外早天祈祷会を持つことができて感謝でした。

6月は24日の土曜日でした。その週の天気予報は毎日雨マーク。でも予報は外れ続き。金曜日から土曜日にかけても雨マークが出ていて、野外早天祈祷会の場所を教会に変更するかどうか悩むところでしたが、教会の天気予報番、錦織牧師の的確な判断で、金曜日中に翌日の野外早天祈祷会を教会で行うことに変更されました。

当日は予報通り朝から雨でしたので教会で祈祷会を持ちました。共に讃美歌を歌い、聖書(聖書箇所はヨシュア記3章14節〜17節)を学び、祈祷課題を出し合いました。その後男性と女性グループに分かれて、近況を分かち合い、祈りの時を持ちました。

8時からは持ち寄った朝食をいただきました。ベーグル、ヨーグルト、フルーツ、ピクルス、今回はスモークサーモンもありました。入れたての美味しいコーヒーを飲みながら、朝食をお腹いっぱいいただき、私達の心もお腹もいつも満たしてくださる神様に感謝しました。

早天祈祷会は6時半からです。いつもより早起きする方もそうでない方も、共に讃美歌を歌い、聖書を学び、分かち合い、祈り合いましょう。今後の野外早天祈祷会は7月29日、8月26日ですので、皆様、どうぞ積極的にご参加ください。

<牧師室より>2023年7月号「自由とされたのだから」

「ああ、またやられた!」18年前の初夏。庭に日本の野菜を作ろうと一生懸命になっていた頃、本当に毎年、グランドホッグとの戦いに苦戦していました。ネットを張ったり、動物の嫌う匂いのスプレーを蒔いたりいろいろ試しましたが、敗戦続き。これはもう捕らえるしかない、とワナを買ってきて、捨てるクズ野菜を餌に、庭に仕掛けました。そうしたら、かかるわ、かかるわ、家族で住んでいたのでしょうか、次々とグランドホッグがかかります。後でネットで調べてみたら、この地域では許されていないようですが、そんなことも知らず、山に連れて行っては、放すことを繰り返していました。

 グランドホッグは昼行性。朝にワナをかけて、夜は変な動物がかからないように閉じておくのですが、ずぼらな性格の私は、ついつい閉じるのを忘れてしまい、ある朝はオポッサムがかかっていました。あまり可愛くない動物なのですが、ワナを開けたら、一目散に逃げていきました。

「あ、また変なのがかかっている!」7月5日の朝、前の晩にワナを閉じるのを忘れてしまっていて、何か動物がかかっていることに気づきました。あたり一面砂ぼこり。かなり暴れていたようです。今度は何がかかったのかな、と近づいてみて、「わっ」と血の気が引きました。ワナにかかっていたのはなんとスカンクだったのです。「どうしよう・・・」と思いました。自分の愚かさを悔いました。逃がすためには近づかなければいけない、近づいたらスプレーをかけられる。まともに食らったら、何日も匂いが消えない・・・。

その後の顛末を詳しく書いているととても長くなってしまうので、詳しく知りたい方は、以前毎日書いていたこちらのブログの記事を。

結論を言うと、最後は覚悟を決めて、すべて捨てていい服で身を固めて、頭には目のところだけ穴を開けた紙袋をかぶって、スカンクのスプレー攻撃を全身に浴びながら、近づいていって、ワナを手で開けて、スカンクを逃がしたのですが、ワナの扉を開いても、スカンクはおびえて、奥の方から動かないんですね。それで最後はワナの一番奥のスカンクがいるところをバンと一発蹴ったら、慌ててワナからでて、逃げていきました。

そのワナの奥でおびえていたスカンクの姿を思い出すと、私達も同じように狭いところでビクビクしていることはないか、と思わされます。神さまは私達のところに来て、私達を解放しようとしてくださっているのに、私達はその神さまの思いに気がつかないで、おびえて、逃げて、閉じこもっていることはないだろうかと。聖書のメッセージは解放のメッセージです。神様が与えてくださる自由を受け取って感謝して歩んでいきましょう。

「真理はあなたがたを自由にします。」ヨハネの福音書 8章32節

<牧師室より>2023年6月号「人を迎える喜び」

5月は3年ぶりに牧師館での集会を再開しました。初めて来られた方や、久しぶりの方々も加えて、聖書をじっくり味わいながら、とても楽しい集まりとなりました。いいですね。本当にいろんな事が次々と平常に戻りつつあります。

 昭和の日本の牧師の家庭に生まれ育った私にとっては、教会の2階だったり、教会の隣だったりした自分の家に教会の皆さんにおいでいただくのは、ごくあたりまえのことでした。日曜日の朝はいつもよりも早く起きて、簡単に朝食を済ませて、家の片付け。弟の部屋一つと、風呂場の脱衣所だけは「荷物置き場」にとっておいて、他の部屋の片付かない荷物を全部そこに押し込んで、自分の部屋も「教会学校」の部屋として使っていただいていました。同じような経験をした牧師の子ども仲間の中には「自分の部屋に入られるのがすごく嫌だった」という子たちもいましたが、私はそういうことを感じたことはありませんでした。逆に来てもらっていることが、うれしかったことを思い出します。

 今でも、同じです。多分、自分のスペースに来てくれるのは、自分のことを信頼してくれているから、自分のことを受け入れてくれているから、と感じるからなのかな、と思います。それがコロナ禍で互いに距離を取るようになり(「6フィートのソーシャルディスタンス」!この言葉にも懐かしささえ感じます)、お互いの家に招き合ったりすることがとても難しくなりました。そして、それが単なる物理的な距離ではなくて、いつの間にか、心理的な距離、お互いの心の距離にもなってしまっていたのでは、と思います。

 互いの心の距離、急に詰めようと思っても難しいですよね。少しずつ、信頼関係を築いていくのだと思います。これからですね。

 神様もそうです。私たちをご自分の家に招いて、ずっと一緒にいて欲しいと思っておられるのです。

 「わたしの父の家には住む所がたくさんあります。・・・わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」(ヨハネの福音書 14章2~3節)

 この言葉は最後の晩餐の時にイエスが弟子たちに言われた言葉です。神様は私たちを喜んで、その家に迎えてくださいます。私たちが、神様を信頼して、神様のところに行くことを喜んでくださるのです。これは究極的にはこの地上の歩みを終えて神様のところにいく「天国」のことを語っています。でも、この地上の歩みの中でも、私たちを喜んで迎え、共に歩もうとされているのです。

 今月も牧師館での集まりが続きます。また、他にご家庭を開放してくださる方もおられます。これらの集まりを通して、更に神様の愛が多くの人々に届きますように。

<集会紹介>BIG集会(2023年6月)

毎月第4土曜日の午後4時から8時までの間、教会ジムは中高生たちの喜びと笑いと熱気に包まれています。今から15年ほど前、教会に集う中高生たちのグループ “BIG” (Believe In God)が中心となって始めたBIG集会は、コロナ禍で集まることができなかった時間を経て昨年の春から再開し、毎回約15名の元気な中高生たちが集っています。

普段のBIG集会の様子をご紹介します。まず初めに輪になって自己紹介をします。名前と何かひとつテーマを決めて自分について言ってもらうのですが、ふざける子、真面目に答える子、恥ずかしがる子、なんとか笑いを取ろうとする子(&おじさんたち)など個性が溢れ、もう既に楽しいです。次に場の雰囲気を和らげるためにアイスブレークのゲームをするのですが、大体このゲーム中に盛り上がりは最高点に達してしまいます。そしてメインの遊びです。バレー、ドッジボール、バドミントンなどのスポーツ、ジムを暗くして犯人を当てるゲーム、教会全体を使ったかくれんぼ、ブックマーク作りなどのアート、夏は水遊びやスイカ割りなど、様々な内容のアクティビティを楽しみます。また自由時間を入れて好きなことをしたり、スポーツが苦手な子はキッチンを手伝ってもらったりと、子供たちの思いや個性も大切にしています。

十分に遊んだ後は賛美と聖書の時間です。ピアノやギターの伴奏でコンテンポラリーの讃美歌を歌います。最初は歌えなかったり恥ずかしそうにしていた子たちも、今では大きな声で楽しそうに歌っています。聖書のメッセージの前には、その日のテーマや自分自身やについて考えさせる質問を投げかけてから始めます。真剣な話には照れがある子や、あまり興味が持てない子もいるようですが、中高生にも分かりやすい聖書のメッセージに多くの子が耳を傾けて聴いている姿が見られます。

続いて楽しく美味しい食事の時間です。毎回スタッフミーティングで「中高生たちが喜びそうな食べ物」を話し合って決め、数名のスタッフが材料調達から調理まで担当します。皆で一緒に食卓を囲んで、ワイワイしながら食事ができるのは最高です!もちろん腹ペコの子供たちはあっという間に食べ終わり、またすぐに遊び始めます!

そして8時に保護者の方が迎えに来られて解散です。中高生たちは居心地が良いのか、なかなか帰ろうとしませんが。いつも参加している子たちに「なぜBIG集会に来るの?」と聞いてみたところ、「居て楽しいから」「楽しくキリスト教について学べるから」「癒される場所だって分かってるから」「リフレッシュや癒しがもらえるから」等の答えが返ってきました。考えてみると「楽しい場所・癒しのある場所・居場所」は、年代を超えた多くの人々にとって重要なことではないかと思います。次の世代を担う中高生たちにとって、これからもBIG集会がそんな場所でありますように。

<牧師室より>2023年5月号「神の時を待つ」

 昨年のクリスマス直前、12月22日の午後に携帯電話にテキストメッセージが届きました。「・・・旅行の帰り道にある出来事に遭遇し、その時神様がいらっしゃるという事を実感しました・・・」

 4月の最後の日曜日、今年初めての洗礼式を持ちました。今回の月報にも証しを書いてくださっていますが、クリスチャンの男性と結婚されて数十年、それからずっと教会に集って来られた方です。その方のために、御家族はずっと祈っておられたそうです。教会でもお祈りしてきました。その祈りが聞かれるまでは、時間がかかりましたし、もう、ずっとこのままなのかな、とも思いました。一緒に聖書の基礎の学びもしました。イエスの十字架の話も何度もしてきました。それでも、なかなか聖書の言葉が入っていかない、そんなもどかしさも感じていました。しかし、この時に、神様は特別な方法で、その方の心に触れてくださったのです。

 その前の週、4月4週目の日曜日は一人の方がカリフォルニアに引っ越されると言うことで最後に一言挨拶をお願いしました。その中で、NJで経験した一つ一つの出来事の中で、心に与えられた聖書の言葉を分かち合ってくださいました。

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」(伝道者の書 3章11節)

 私たちには分からないことがあります。すべてを見極めることはできません。でも、神様の時があって、神様の時に美しいことをしてくださるというのです。

 私たちはしばしば、思い通りに行かないことに出会います。自分の願った道が開かれなくてがっかりすることもあります。「どうして?」と思うことにも出会います。でも、神様はすべてを美しく導いてくださり、神の時に御業をなしてくださるのです。その神の時を待ち望み、神様を信頼して歩んで行こうではありませんか。

Testimony

I feel that my life has been led by God.

However, it took me a long time to believe in God as my Lord, but through an event that took place in 2022, I was able to believe in and accept God. I am truly grateful for that.

I married my Christian husband from Taiwan in 1972 in the United States. My husband’s mother and four sisters were all Christians. So I started attending a Taiwanese church in Queens every week, as my husband’s relatives gathered at church. However, my husband never once told me to become a Christian myself. I think that was a good thing for me. If he had told me that, I would have run away.

If I had not believed it myself, I would not have wanted to be baptized.

God has invited me many times through many events. In 1984, an American woman took the trouble to order a Japanese Bible and gave it to me as a gift.

Then, in 1989, when the pastor of the Japanese church in Maywood was still Rev. Masaki, my husband was working in real estate at that time, and I met a Japanese Christian at that time, and he and his wife invited me to come to the New Jersey Japanese Christian Church for the first time, and then I started listening to Bible stories in Japanese.

Then, in 1992, my mother-in-law, who had been really good to me, passed away, and I made a promise to her at that time that I would be baptized someday.

But for the life of me, I couldn’t really feel God.

Then one thing happened in December 2022. I was on a trip at that time. But on the way back, I had a real problem at the airport. A woman saw my situation and approached me. She told me that she was a doctor and that she had to help me as soon as she saw my situation. Then, after hearing my story, the woman reached out to me with her time and what she had at her convenience. At that moment, I felt God’s hand in giving me that person’s presence. The person’s name was Nancy. When I heard her name, I remembered that my friend who gave me a Japanese Bible as a gift 38 years ago was also named Nancy. With a strange feeling, I came home and was relieved when I received a video from a Japanese friend. It was a video called “Love Letter from Heavenly Father” made by a Christian, and it was edited in such a way that words and stories from the Bible were spoken directly to me from God. It ended with the message, “I am waiting for your return.” As I watched the video over and over again, I realized that God was now calling me through each of these things. And I wanted to believe in Him.

Four months later. In the study of preparation for baptism, I have learned again about God’s love, my sins, and Jesus who went to the cross to forgive them, and I want to follow him as my Lord.

「証し」

私の歩みは神様に導かれてきたことを感じます。

しかし、なかなか、その神様を主として信じることができなくて、時間がかかりましたが、2022年に起こった一つの出来事を通して、私は神を信じ、受け入れることができました。その事に心から感謝します。

私はアメリカで、1972年に台湾系のクリスチャンの夫と結婚しました。夫の母も、4人の妹たちもみんなクリスチャンでした。それで私も、教会で夫の親戚が集合するという流れで、毎週Queensにある台湾系の教会に通うようになりました。しかし、当の夫は自分に対して、一度も自分がクリスチャンになるように、と言うことはありませんでした。それが自分にとっては良かったことだと思います。もしも、そう言われていたら、私は逃げ出していたと思います。

自分から信じることができなければ、無理をして洗礼を受けることはできなかったのです。

そんな私を、神様は幾つもの出来事を通して、何度も招いてこられました。1984年には一人のアメリカ人の女性が、わざわざ日本語の聖書を取り寄せて、私にプレゼントをしてくださいました。

そして、1989年だったでしょうか、まだこのMaywoodの日本語教会の牧師が正木先生だったときです。その頃夫が不動産の仕事をしていて、その時に一人の日本人クリスチャンに会って、そのご夫妻のお誘いで初めてニュージャージー日本語キリスト教会に来て、それから日本語で聖書の話を聞くようになりました。

そして、1992年には、本当に良くしてくれた義母が亡くなりましたが、その時に「私はいつか洗礼を受けるから」と義母に約束をしていました。

でも、どうしても、神様を実感できなかったのです。

そして、2022年12月に一つの出来事が起こりました。その時、私は旅行に出ていました。しかしその帰り道、空港で本当に困ったことが起こりました。その私の様子を見て、一人の女性が声をかけてくれました。その人は自分は医者であり、あなたの様子を見てすぐに助けなければ・・・と思った、と私の状況を聞いてくれました。そして、私の話を聞いて、その女性は自分の時間や持っているものを都合して、私に手を差し伸べてくれたのです。その時、その人の存在が与えられたことに神様の御手を感じました。その人の名前はNancyさんといいました。その名前を聞いたときに、38年前に日本語聖書をプレゼントしてくれた友人もNancyという名前であったことを思い出しました。不思議な思いを持ちながら、家に帰ってきて、ホッとしたときに、日本の友人からビデオが送られてきました。それはあるクリスチャンが作った「天のお父様からのラブレター」という名前のビデオでしたが、聖書の言葉やストーリーが神様から自分に直接語りかけられてくるように編集されたビデオでした。その最後は「私はあなたが帰ってくるのを待っている」というメッセージで締めくくられていました。そのビデオを何度も繰り返し見ながら、今、これらの一つ一つのことを通して神様が私を招いている、と分かりました。そして、私はこの方を信じたい、と思いました。

それから4ヶ月。洗礼の準備の学びの中で、神様の愛、私の罪、そして、それを赦すために十字架にかかってくださったイエス様のことをもう一度学び、この方を主として従って行きたいと思っています。

<集会紹介>クロッキー教室(2023年5月)

2008年7月に、「ぐるぐるっと線を描いてみましょう。」と、アーティストのお宅で始まったクロッキー教室。Covid 19のパンデミック時もZoomでオンラインセミナー形式を駆使して広く参加者を繋ぎ、途切れることなく15年の長きにわたって続いています。教室の後半は、錦織牧師からみ言葉メッセージを頂き、皆さんに聖書の世界にも触れてもらっています。教室がおわってからの茶話会は、皆さんのアメリカ生活豆知識や体験談など話題がどんどん広がって楽しみな時間となっています。手作りサンドイッチやお菓子を食べながら、楽しい時間となっています。

クロッキー教室で絵の指導をしているのは、日本ではイラストレーターなどで、今はニューヨークの街や聖書のみ言葉を題材に絵を描き活躍している画家、啓茶(ケイティ)こと渡辺啓子さん。”クロッキー“の意味も良く分からないような私たちに、色々な媒体をつかってアートの面白さを手取り足取り指導して下さっています。参加者による”私の好きな画家紹介“なども、アート界への目を開いてくれる貴重なテーマです。人物画はクロッキーの主体として毎回どなたかにモデルになっていただき、モデルをしている間に簡単な自己紹介をかねお話をしてもらっています。皆さんが淡々としてくださるお話に共感したり励まされたり…。最後にお互いの作品を見ながら啓茶先生の評をきくのは大きな刺激となり、アートへのさらなる興味を引き出してくれます。

参加者からは、自分の意外な才能に気がついた、今まで何気なく見ていたものの形状に興味をもってみるようになった、集中力が付いたなどの感想を頂いています。渡米中のお母さんと参加された方に「自分の母親が絵を描くのを初めてみた!」、というようなうれしい驚きもありました。参加にはなにも制限はなく、赤ちゃん、幼児、永住の方、駐在の方、学生、渡米中の親族など、アートにちょっとでも興味がある方どなたでも歓迎しています。Zoomでは日本やNJ外からの参加者もあり貴重な体験となりました。

現在Zoomは終了し、教会のジムで月1回水曜日約2時間のベースで行っています。教室の様子は、HPクロッキーブログをご覧ください。

啓茶先生が教会でのご奉仕の場として始まったクラスです。「アート能の右能をつかって自由な発想力を付け…」ながら、聖書のみ言葉の学びと共に成長していける教室を目指しています。皆様の参加をおまちしています。

<集会紹介>親子クラス(2023年4月)

3年前にこのクラスをスタートしようと準備を進めていた矢先にコロナになり、2020年7月からオンラインで始めた親子クラスですが、その時々の状況によって、参加者のニーズやお子さんの年齢によって、クラスの持ち方や内容も少しずつ変わってきました。途中からオンラインと対面でのクラスを交互に持つようになり、昨年の秋からは完全な対面で月2回(第2と第4火曜日)教会に集まって楽しい時間を過ごしています。


現在参加して下さっているのは0歳から3歳になったばかりのお子さん達とそのお母さん達で、プログラムは手遊び歌、ギターに合わせての歌、運動・遊び、絵本の読み聞かせ、聖書のお話、スナックタイムなど。おしゃべりタイムでは子育てについて考えたりシェアしたり、アメリカ生活あれこれについての情報を交換したり。。。昨年12月には初めての試みで、お母さん達のためのお茶会を持ちました。途中から子ども達はお母さんと離れてベビーシッターのスタッフと楽しく遊び、お母さん達は美味しいコーヒー(錦織先生が淹れて下さる本格的なコーヒーです!)とお菓子を囲みながら話も弾み、息抜きをする時間を過ごして頂けたのではないかと思います。今年になってからは新しい参加者も増え、好評だったお茶会を定期的に行うようになり、もともと描いていたクラスの形になりつつあります。毎日の子育てに追われて忙しくしているお母さん達が少しでもほっとできるような時間を、お子さんを安心して連れて来られるような場所をこれからも提供していくことができたらと願っています。そして、可愛い子ども達が神様の愛の中で守られ、元気に成長していく姿を見せてもらうのを楽しみにしています。

参加ご希望の方は、こちらの案内をご覧くださり、案内にありますリンクからお申し込みください。

2023年4月号<牧師室より>「新しい力に満たされて」

Happy Easter!

今年も春の訪れを告げるイースターがやってきます。今年は4月9日。近所の公園でも桜の木が花を咲かせ始めました。まだまだこれからという感じですが、ちょうどイースターの頃には花盛りとなりそうです。

 

 冬の間、葉を落としていた木々が一斉に芽吹き花を咲かせるこの時に、イースターをお祝いするのは、イエスの復活の力が私たちにも注がれるのだということを教えてくれます。死んでいたかのように見える自然界も冬が過ぎ去るのを待っていました。そして、その内側にあった命が春の訪れと共に外にあふれてくるのです。それと同じように、十字架にかけられて墓の中に葬られたイエスは、死と墓を打ち破ってよみがえり、今も、私たちのうちにその復活の力を満たしてくださるのです。

 「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。」

ローマ人への手紙 8章11節

  私も自分の力のなさ、弱さに落ち込むこともあります。がっかりすることもあります。エネルギッシュに生きている他の人を見ると、そのように生きられない自分に焦りを感じることもあります。そんな時、この復活の力が今も私のうちに注がれていることを思い出すのです。そして、祈るのです。「神様、あなたの力を、イエスをよみがえらせたあなたの力を、私のうちに満たしてください」と。祈りの力はすごいです。祈りの中で心が燃やされていき、本当に力が湧いてくるのです。

 その力を一人でも多くの方々に知っていただきたいです。

 今年のイースター礼拝は4月9日の午後1時半からです。そして、礼拝後には4年ぶりになる愛餐会(持ち寄りのお食事会)をいたします。是非お出かけください。皆さんで共にイースターをお祝いしましょう。心からお待ちしています!

2023年3月号<牧師室より>「聞くのに早く、語るのに遅く」

最近、家族に「テレビの音が大きい」と言われることが増えてきました。ずっと「単なる好みの問題だろ・・・」と思っていたのですが、ある集まりで皆さんのお話を聞きながら、「ん?右の耳で聞くときと、左の耳で聞くときで聞こえ方が違う・・・」と気がついたのです。

 それで、アプリで「聴力検査」を探して、試してみたら、なんと「高度難聴」!その後、静かなところで落ち着いてテストしたら、そこまでは悪くないようですが、それでもボーダーライン。神様からいただいた大切な聴力。これはちゃんとお医者さんに行って調べないといけないな・・・と思っているところです。

 聖書の中にこのような言葉があります。

「人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。」

ヤコブの手紙 1章19節

 語るためには聞かないといけないです。私たちは、相手の言うことを一言聞いて、すぐに反論したり、アドバイスをしたりすることがどれほど多いことでしょうか。自分が聞いてもらう立場だと、ちゃんと聞いてもらっていない時はすぐに分かります。「この人、全然話を聞いてくれていないな」と。でも反対に自分が聞く側に回ると、自分ではなかなか気がつきません。勝手に相手の言いたいことが分かったような気になって、コメントをしたくなるものです。一生懸命聞いて、理解しようとして、その心の叫びに耳を傾けて、そして、初めて口を開く。そのような姿勢がどれほど必要かと思います。

 それと共に、この言葉は、まず聞くことによって内側が豊かにされて、初めて語ることができる、という真理も表していると思います。ですから、私たちはもっともっとinputに目を向けなければいけません。何を聞くかによって、私たちの口から出る言葉は変わってきます。Negativeな言葉を聞いていると、negativeなものがあふれてきます。Positiveな言葉を浴びていると、positiveなものがあふれてくるのです。ですから、神の言葉である聖書のメッセージを聞くことが、本当に大切です。神の愛の言葉を聞くことが本当に大切です。それによって、私たちの内側が満たされて、そこからあふれるものによって語っていくことができるのです。

 心の聴力、ちょっと目を向けてみませんか。

「証し」

3歳の頃から3つ上の姉に連れられ町内の土曜学校に献金の5円を握りしめ行ったのがキリスト教との出会いです。

途切れとぎれの記憶ですが時々頂く小さなカードがとっても嬉しく宝物だったのを思い出します。斎藤という同じお名前のふたりの牧師がおられて、楽しく、子供讃美歌も沢山教わり、今でも時々口ずさみます。

小学低学年の頃「放蕩息子」のお話を聴いた時は心が熱くなり、それが私の「初恋」でした。

毎日、押し入れに電気スタンドを引き入れ本を読んで、親の言う事も聞かない、弟息子の様であった私を、あの様に迎えて下さる主、その様なお方は子供ながら辺りを見廻しても見た事も聞いた事も無い世界でした。

15歳の高校受験に入るまでは斎藤牧師のいらっしゃる堀切教会に通いました。

その主を知った私が、その後は高校、デザイン学校と、成績はともかく生活は主とかけ離れてしまいましたが、「主の祈り」だけは私の身から離れませんでした。

1989年にアメリカに渡り、ノースカロライナ州のチャペルヒルに住んでいました。

今、手術しないと2週間の命と言われた60歳の時、同じ乳がんを経験した台湾の方にお話を伺いに行った所、日本人の大学教授の乳がん経験者が近くに居るので紹介しましょうかと言われましたが、その時はお断りしました。

幸いに手術で全ての癌は取り去られました。

2年後の1月に連れ合いに肺がんが見つかり7月に亡くなり独りになった時に、先程の台湾の方にお話頂いた方の紹介をお願いしました。

連絡を取り翌日山内先生にお目にかかれたのも主のお計らいであったと思います。
その晩は1ヶ月に1度の山内家でのバイブルスタディの日でした。約20名の日本の方が集まり、リーダーは山内先生のご主人で、そこにはラーリーの日本人教会の横井牧師もいらっしゃいました。2年後横井牧師から洗礼を受けました。

64歳の「放蕩息子」です。

ノースカロライナからNYに来て約10年、NJの教会の礼拝に参加させて頂いてから5年程、毎週の教会が喜びです。

讃美歌も沢山覚えました。
若い方々とご一緒出来るのも嬉しいです。
私に何が出来るのかを探すのも楽しみのひとつになって来ています。

あの小学低学年の子供が恋をしたと思っていたのは思い上がりだったと今はっきりと判ります。私が恋をしたのではなく、主に愛された時だったのです。

2023年2月号<牧師室より>「春を待ち望んで」

2023年も早くも1ヶ月が過ぎ、2月になりました。アメリカでは2月2日が春の訪れを占うグランドホッグデー、日本では2月4日が、寒が明けて春の始まりを告げる立春ですね。冬至から1ヶ月あまり経ち、ちょっと散歩をしてみようと外に出ると、久しぶりの青空はまぶしいほどです。夕方も4時半には暗くなっていたのに、今は5時半まで昼間の明るさが残っています。2月はまだまだ寒い日や雪の日も多いですが、太陽は確実に春がやってくることを約束してくれています。春が待ち遠しいですね。

この「待つ」ということは、私たちの信仰にとってとても大切なことです。自分の力ではどうにもならないことを前にして、神がなさることを信頼して、神が働いてくださる時を信頼して、待ち望んでいくのです。聖書の中に「待ち望む」という言葉が何度も出てきます。

代表的な言葉を挙げると、

「雄々しくあれ。心を強くせよ。すべて主を待ち望む者よ。」詩篇31篇24節

「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。」イザヤ書40章31節

「その恵みは、私たちが・・・祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。」テトスへの手紙 2章13節

ですから、「待ち望む」というのは、「冬は寒いからこたつの中で丸くなっていよう」とか「今は状況が悪いから、我慢するしかないね」と、ただ我慢して春が来るのを待っている、嵐が通り過ぎるのを待っている、というのではなく、神が良くしてくださることを信頼して、いろいろ心配しないで、勇気をもって、自分のなすべきことをするという意味です。上のイザヤ書の言葉にあるように、「主を待ち望む者は力を得る」ことができるのです。

あなたは今、どんな状況に置かれているでしょうか?冬のような状況でしょうか?主を待ち望みましょう。必ず春がやってくることを信じて、主を待ち望み、力を頂いて、勇気をもって、忠実に自分のなすべきことをしていきましょう。

「証し」

私は3度の神様との出会いからキリスト教に関心を持つようになりましたが、キリスト教との最初の出会いは「恐怖」からでした。

最初の出会いは、クリスチャンホームで育った友人のお母様から聞かされたイエス様のお話からでした。当時の私は宗教に対してあまり良いイメージを持っていませんでした。イエス様のお話を聞かされた時は、正直内容を理解することができませんでした。

ある日、出かけるから車に乗ってと友人と彼女のお母様が言われたので、言われるがままに車に乗り、知らない場所で下ろされ、案内された場所へ向かうと、そこには多くの海外の方が座っており、私も流れで席につきました。しばらくすると1人の男性が前に登壇され、目を瞑り英語で何か話し始めました。周りを見渡すとその場にいる人全員も目を瞑り、手を合わせていました。そして、“Amen”と聞こえた瞬間、私は教会にいるのだと認識し、神様との最初の出会いから「クリスチャンは強引で怖い人」というイメージを持つようになりました。

この日を境にキリスト教に触れることを避けてきましたが、大学進学で神様との2度目の出会いがありました。履修した“English Literature”の授業の担当講師がクリスチャンであり、この授業で扱った文献が英語で書かれた聖書だったのです。この先生も友人のお母様と同様な熱量で神様のお話をしていました。キリスト教に対して恐怖心を拭うことはできなかったものの、聖書の内容から励まされていることが何度かありました。

私は大学時代アメリカに1年間留学をしており、同じ大学のクリスチャンホーム育ちの日本人学生との出会いが神様との3度目の出会いです。友人のお父様が牧師先生をしている教会の中高生や子どもたちとのアクティビティにお誘いをいただくことがあり、何度かお伺いしていました。子どもたちとのアクティビティは楽しく、その後に聞く牧師先生によるイエス様のお話を聞くのも大変励まされていました。その中でも、『善きサマリア人のたとえ』を聞いたとき、心を覆っていたモヤモヤがスッと晴れたような感覚になったのを覚えております。

私は小さい頃から他人と比較されることが多く、無意識に自分で他人と比較する癖がありました。またそういったことから人の目を気にするようになり、何をしたら嫌がるのか、何をしたら喜んでくれるのか、そればかり考えていました。当時留学先での勉強に不安もありましたが、それ以上に留学先で出会う友人との友好関係が良好でいられることを考えることに気を張っていました。しかし、良好でいられるようにと思いつつも、許せないこともあります。私の友人のある行動で私は1人勝手に憤りを感じていました(その行動についてはその方の尊厳を守るために控えさせていただきます)。その友人と向き合いその行動の理由を聞くことができたが、それでも怒りを抑えることができませんでした。このような経験は何度かありましたが、相手は私が怒っていることにすら気づかずに何事もなかったかのようにしていました。私もこれ以上悪化したくないという思いで普通に振る舞いますがモヤモヤが残るばかりでした。そんな思いを抱えていたので、強盗に襲われた人に手を差し伸べた「善きサマリヤ人」のように、どうにもならない私のためにイエスが手を差し伸べてくださる、イエス様は私たちに罪を背負い、死をもって罪が赦された、自分の都合で人を愛するのではなく、どんな人に対しても愛を持って接することの大切さに気づくことができました。ずっと前から神様は私を導いてくれていたと思うようになりました。

このことがきっかけでキリスト教について、アメリカの教会のみなさんとのバイブルスタディや聖書を一緒に読んで祈る機会、牧師先生による学び会を通して勉強するようになりました。私たち人間は払いきれない程の罪という負債を抱えているが、イエス様の十字架の死の贖いにより救われた、神様は父なる神、イエス様、聖霊様の三位一体で、どれかが欠けることは絶対になく、私たちは神様の栄光をあらわすために生きる、と様々なことを学びました。

神様のみことばにはいつも励まされていましたが、あるバイブルスタディの時、「神様は神様と私たちの間にある扉の前で私たちが開けるのをずっと待っている」というお話を聞いた時、私たちは聖霊様を通して神様との交わりを持ち、イエス様によって罪が赦されたことへの感謝をすることが大切であることを認識しました。ここから神様との交わりを常に持つようになりました。

学び会の中でヨハネの福音書にある「生命の水」について牧師先生からお話を聞いた後、私は信仰告白をしました。信仰告白をしている時の感情をどのように表現したら良いか今でもわかりませんが、涙が止まらず、ただ「永遠の生命に至る水が湧き出る」感覚であることを実感し、神様はいるのだと確信しました。ここから私の信仰生活が始まりました。

「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネの福音書 4章13~14節)

そして、その後、日本のクロスプレイスという教会に導かれて、1月15日に洗礼を受けました。神様がここまで私の歩みを導いてくださったことに感謝します。

<牧師室より>2023年1月号「光に照らされて輝く」

明けましておめでとうございます!
本年もどうぞよろしくお願いします。

2022年はガラテヤ人への手紙5章13節「兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい」という言葉を頂いて、歩んできました。

多くの困難や閉ざされた道などもありましたが、そのような中でも、皆さんのお祈りに支えられて、神様が与えてくださる平安と喜びの中に歩むことができました。心から感謝します。

教会としてもっともっと地域社会とつながりをもって外向きの働きができればと思っておりましたが、大きな進展はありませんでした。そんな中でも、弱さや痛みを抱えたお互いのために祈り合い、支え合う中で、聖書の言葉通り、与えられた自由を仕えるために用いておられる方々の姿に励まされています。

「主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。」詩篇105篇4節

2023年のために祈っている時に与えられた聖書の言葉です。

たとえ、私たちが今までよりも積極的に社会の中に出ていくことができたとしても、もしも、私たちの顔が死んでいたならば、もしも、私たちが単なる義務感で、しょうがなくやっている、というのが見え見えだったら、それに何の意味があるのでしょうか?社会に出て行くときに、人々に仕えていくときに、私たち自身の心の状態がどんな状態であるかが問われてくるのです。

聖書の中に出てくるモーセという人は、神と語り合ったがゆえに顔が輝いていたと書かれています。私たちも、神の輝きに照らされて、そして、私たち自身が輝きにあふれて歩んでいく時こと、それが私たちが出て行くときに必要なことだと思わされています。

新しい年も、続けて私たちがこの地域社会の中で、特に日本語を使う方々の社会の中で果たしていく役割が何であるかを求めていこうと思います。更に一歩外に出て、人々に仕えていく教会となることができるように、まず、私たちの顔が神様の光に照らされて輝くものとなりますように!

「クリスマスの平和」

2022年も早くも12月になり、街はクリスマスの装いになりました。今年のクリスマス、皆さんはどのような思いで迎えようとしておられるでしょうか?

今年はロシアがウクライナに侵攻するというニュースがあり、今も戦いが続いています。例年以上に平和を祈るクリスマスを迎えられる方も多いのではないでしょうか。

実は、「平和」はクリスマスの大切なメッセージの一つです。聖書の中にこのような言葉があります。

ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。

イザヤ書 9章6~7節

これは、イザヤという預言者が救い主の誕生を預言した言葉です。その救い主は「平和の君」と呼ばれる、そして、その救い主による平和が限りなく続く、と約束されているのです。

そして、それから700年後、最初のクリスマス、イエスが生まれた夜に、天使たちはこのように歌いました。

「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」

ルカの福音書 2章14節

アメリカで道を走っている時に時々目にする「Peace On Earth」という言葉はここから来ているのですね。

イエスは平和をもたらすために来られました。そして、神は今も私たちの平和を願い、私たちに平和を与えようとしておられるのです。この時に「平和」が何を意味しているのかにちょっと注意しないといけません。日本語・英語を含めてほとんどの言葉で、「平和」は「穏やかなこと」「争いのないこと」「波風が立っていないこと」を意味しています。戦争と戦争との間の争いがない期間のことを「平和」と呼んだ人々もいました。しかし、旧約聖書が書かれ、また新約聖書でもその背景となっているヘブル語では、「平和」は「シャローム」といって、命と自由にあふれた状態を指すと言われています。ただ、争いがない、強い者の横暴さの中で、みんなが我慢して成立しているような平和ではなく、本当に一人一人が喜びに満ち、感謝にあふれて歩むような平和を指しているのです。神は、クリスマスにお生まれになったイエスを通して私たちに与えようとしている平和はこれです。私たちの内側を喜びと命、自由と力に満たし、それによって、私たちが周りの人々との間に平和を作り出していくことができるようにしてくださるのです。

今年のクリスマス、私たちが世界の平和を祈ると共に、神様の力を頂いて、まずは自分の周りの人々との間に「波風が立たない」状態を超えた本当の平和を作り出していくことができますように。

「証し」

主の御名を賛美いたします。

 2021年夏、私たち家族は日本へ本帰国をしました。約8年ぶりの日本での生活です。皆さまにお祈りをしていただき、ありがとうございます。

 帰国してすぐは、新生活に向けて一からの準備で忙しい日々を送っており、準備が落ち着いたら、礼拝へ行こうと考えておりました。1ヶ月過ぎ、少しづつ生活が落ち着いてきたので、そろそろ日曜日に礼拝へ…と思い、主人に話したところ、日曜日、私は家族と過ごし、教会へはもう行かないと思ったそうです!キリスト者の生活の中心は礼拝である、わかっていましたが行動で示していなかったのです。このことを機会に、教会の礼拝を守ることを第一にして生活を送ることを目標にしました。

 今年の初夏、日本に一時帰国をしている姉妹(教会ではお互いのことを神の家族として、「兄弟姉妹」と呼ぶことがあります)から一緒に礼拝をお捧げしませんかと連絡をいただきました。NJ日本語キリスト教会で大変お世話になった方です。大変嬉しかったです。主の恵みに感謝です。

 礼拝を喜んで守るものには祝福されるという神様の約束を信じ、これからもキリスト者として信仰生活を守っていきたいと祈っています。

 日本の生活も少しずつ落ち着いてきたころ、予想していなかった出来事がありました。義母の死と実母の介護です。

 義母は、体調を崩し総合病院へ受診、そのまま入院、数日後亡くなりました。あっという間の出来事でした。私たち家族の本帰国を誰よりも楽しみにし、孫の成長をこれから近くで見ることができると喜んでいました。今も義母の笑顔の写真を見るたびに何故?という思いが消えず、悲しみの中におります。

 そして、実母の介護です。ついこの間まで元気に一人で生活できていましたが、転倒が多くなり、気づいたら歩行困難になっていました。総合病院にて腰の手術を提案され入院しましたが体調を崩し、手術は見送りになりました。やっと体調が整いましたが、主治医から手術するタイミングを逃してしまった、手術しても改善されないと、今度は施設での車椅子生活を提案されました。

わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、
あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。
ー主のことばー
天が地よりも高いように、
わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、
わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。 イザヤ書55:8−9

 私たちが考えても理解できないことが現実にあります。義母との突然の別れがそうです。また、私たちが予定していた通りには計画はすすみません。実母は手術して少しでも歩けるようにと願っていたのに、手術ができなくなり、施設での車椅子生活を提案されました。しかし、実母は以前と変わらず退院後一人暮らしを強く希望したため、介護生活に向けてケアマネジャーさんたちと相談を繰り返しました。やっと決まって安心したと思ったら、変更になることも数回続きました。住宅改修など大きな決断をしなければならず、その変更が何度も続くと、さすがに心も身体も疲れを感じてきました。

 そんな時に、このみことばから、慰めと励ましをいただきました。神様のみ思いと私たちのみ思いは異なる。そのことを受け入れる。神様に委ね、神様を信じて共に歩ませていただく。私たちの想像をはるかに超えた神様のみわざを信じたいと祈っています。

 その後の実母は、入院中リハビリに一生懸命に取り組み、退院後、介護サービスを利用し、多くの方々に支えられ、転倒することなく一人で生活をしております。神様が多くの助け手を与えてくださり、実母の生活を守ってくださっています。感謝です。

 安中聖書教会に導かれ、現在、転入会に向けて牧師先生と共に学びの時が与えられています。

 今住んでいる所から車で30分ほどのところに安中聖書教会はあります。群馬県は山々に囲まれている県で、小さい頃から山を見ることには慣れ親しんでいますが、教会に向かう時に目の前に広がる山々は本当に素晴らしいです。毎回、教会へ向かうたびに、この景色に感動し、天地のつくり主である主の恵みに感謝を覚え、礼拝を大切にしたいと思います。

 NJ日本語キリスト教会に主の豊かな祝福がございますように、多くの方が導かれますように日本からお祈りしています。アーメン

2022年11月号<牧師室より>「小さき者と共に」

  先月、私たちの教会でずっと信仰の歩みを共にしてきた方が、神様のもとに召されて行かれました。92歳とご高齢ではあられましたが、もうしばらく共に歩む時間が与えられていると思っていたので、突然のことに本当に寂しさを感じています。ご遺族のために心から神様の慰めをお祈りしています。

 聖書の中に、このような言葉があります。

「彼は死にましたが、その信仰によって今もなお語っています。」(ヘブル人への手紙 11章4節)

 この「彼」というのは、聖書に出てくるアベルという人のことを指しているのですが、これは、私たちの信仰の先輩たちのことに当てはめて受け止めることのできる言葉です。

 天に召されたその方は、本当に多くの働きを担ってくださいました。オルガンやピアノでの奏楽、聖歌隊のメンバーとしての奉仕、そして、英語が第一言語の方でしたので、通訳や英語でのバイブルスタディーも担当してくださいました。本当に穏やかな、謙虚な方でした。大学の哲学の教授でしたから(それもニーチェの専門家)、多くの学びをしてこられたでしょうが、本当に幼子のように神の前に歩んでおられました。教会の人々を愛し、笑顔で迎えられる方でした。その彼が、時々厳しい表情をすることがありました。それは、社会的に弱い人、軽んじられている人が、不当な差別を受けたというニュースに接したときでした。ご自身も戦時中には日系人として強制的にキャンプに収容されたときもありましたが、その事についてはあまり触れることなく、それよりも、現代の社会の中での不当な差別に怒り、社会の断絶を嘆いておられました。彼が天に召されてから2週間が経ち、彼が遺してくれた信仰の遺産、「その信仰によって今もなお語っている」のは、このことではないだろうかと思わされています。

 イエスも言われています。「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」(マタイの福音書 25章40節)

 まず、私たち自身が神様に愛されたその愛に満たされて、この社会の中で、今も弱い立場に置かれている方々の