「証し」

私と妻はニュージャージー生活に一区切りをつけ、2024年3月に日本に帰国しました。5年半に及ぶニュージャージー生活のなかで、私が神様から頂いた愛と試練についての3つの出来事を振り返り、お証したいと思います。

1つ目の思い出は、2018年10月にニュージャージーに参りましてから、仕事の引継と生活の立ち上げが一段落したところでニューヨーク男声合唱団の門を叩いたことです。学生時代に打ち込んでいた男声合唱ですが、就職して以後、なかなか取り組む機会に恵まれていませんでした。
2015年1月にシンガポールでのベートーベンの第9演奏会、そして2017年12月のことになりますが、モーツアルトの命日にウィーンのシュテファン教会で「レクイエム」を歌うという企画旅行があり、それらの練習から徐々に自分の持ち時間を合唱へと取り分けるようになりました。
これらに続き2019年2月に予定されていたブラームスの「ドイツ・レクイエム」の演奏会にオンステージすべく練習を始めました。ところが急なニュージャージー転勤の話が舞い込んだことから途中で断念せざるを得ませんでした。この時の思いが、自分としては着任早々に男声合唱の門を叩いた動機となりました。
しかし20年前のロサンゼルス勤務時と同様、どうもアメリカの空気質が合わないのか、アレルギー性副鼻腔炎が悪化。ポリープ除去の手術を2019年5月に行い、更に注射による減感作療法を2年間に亘り行いました。結局これは今もなお完治せず、以前のように声が出せなくなってしまいましたが、なんとか定期演奏会に4回も乗ることが出来ました。この間、指揮者の山内竜二さんを始め多くの新しい友と知り合う機会ができ、これから先の人生においても自分には男声合唱の活動はどんな試練が有っても続けていくべきだと、神様からのお導きがあったと思っています。

2つ目の思い出ですが、2021年6月6日の私の洗礼記念日です。受洗の決意に至るきっかけは錦織学先生とバイブルおばさんとの出会いを神様が作ってくださったからに他なりません。もともと父方の親戚は全てクリスチャンというクリスチャンファミリーに生まれたものの、親の方針で信仰を積極的には推奨されなかったこともあり、人生の最後の時に、病床で洗礼を授けてもらう「病床洗礼」を視野に入れていました。その様な私が、このニュージャージーの地でふと見たFacebookをきっかけとして、私の多くの友人と繋がりがある錦織先生を神様が引き合わせてくださったのは、今考えても奇跡としか言いようがありません。
その錦織先生とニューヨーク男声合唱団でご一緒できたこと、合唱団の指揮者の山内さんが教会で指揮棒を振られたことには二重の喜びがありました。

そして最後にですが、今般、想定していたよりも早くに帰国時期を迎えてしまった原因の試練についてお話しします。2022年9月、PSA検査という前立腺の血液検査をオプションで受けました。過去にも何度か受けましたか基準値内、しかしその時は基準値内でしたが数値の上昇傾向が見られたので半年後に再検査となりました。そして2023年3月、再検査の数値も基準内で上昇が続き、ホームドクターの勧めもあって泌尿器科医を受診しました。今思えば、オプション検査を選択したこと、意を決して専門医を受診したことは神様が背中を押してくださったからではないかと思います。
泌尿器科医はベテランの先生で触診だけで怪しいと判断され、すぐに生検(バイオプシー)の手配に入りました。実施したのは私の還暦の誕生日の翌日、2023年4月12日の事でした。2週間後には「中程度リスクの前立腺がん」という所見で「まだ若いのでロボット手術による全摘出」を推奨され、実際に執刀するマウント・サイナイ病院の泌尿器科を紹介されました。その後、MRI検査を受けてのセカンドオピニオンでも結果は同じで、7月14日(金)に手術を行いました。
その後、尿失禁は完璧には収まらないものの、お陰様でその後3回のPSA血液検査では検出限界値以下、すなわち転移の兆候なしとのことです。手術後2年間は経過観察ですが、そもそも前立腺がん手術の予後10年生存率はステージ3でも99.5%なので「死なない癌」ともいわれてます。とはいうものの早期発見に越したことはなく、神様に守られたことを強く感じる日々です。
このような事が起これば、企業は当然に海外駐在員に帰国命令を出します。自分としては会社の産業医ともWeb面談を行い、帰国時期については業務優先で良いと言われ、実際のところは全く業務に支障をきたしておりません。ただ、自分のポストの前任者が過去3名も任期中に病に倒れており、部位は異なるものの2名の方が癌でお亡くなりになっていたので、帰国命令は仕方のない所ではあります。
しかし、神様。私はこのニュージャージー日本語教会の愛する兄弟姉妹、ニューヨーク男声合唱団の仲間たち、信頼できるアメリカ人の同僚や部下たちと離れ離れになってしまうことが、とても残念で、悔しくてなりません。何故ここを離れればならないのでしょうか。
日頃、食生活には十分に注意し、運動習慣もあり、家族にこの病歴の者もいないのに、どうして、このような病を私にお与えになったのでしょうか。いまでもなおどこか心の中で叫び続けております。
この病のことを家族以外へ最初に打ち明けたのは錦織先生でした。先生には余計なご心配をおかけしてしまったことを申し訳なく思っていますが、絶えずお祈りを頂けましたこと、また術後にベッドで読みました、先生の示された聖句には本当に心から救われた思いがあり感謝しております。

最も心に残った、というか最後のまさかの展開に目の前がぱっと開けた部分を最後に読みます。

ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄をもとにかえし、そして主はヨブのすべての財産を二倍に増された。 そこで彼のすべての兄弟、すべての姉妹、および彼の旧知の者どもことごとく彼のもとに来て、彼と共にその家で飲み食いし、かつ主が彼にくだされたすべての災について彼をいたわり、慰め、おのおの銀一ケシタと金の輪一つを彼に贈った。 主はヨブの終りを初めよりも多く恵まれた。彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭をもった。 また彼は男の子七人、女の子三人をもった。 彼はその第一の娘をエミマと名づけ、第二をケジアと名づけ、第三をケレン・ハップクと名づけた。 全国のうちでヨブの娘たちほど美しい女はなかった。父はその兄弟たちと同様に嗣業を彼らにも与えた。この後、ヨブは百四十年生きながらえて、その子とその孫と四代までを見た。 ヨブは年老い、日満ちて死んだ。

ヨブ記42:10−17

 

神さまからのチャレンジ

 2023年の11月で、フルタイムで働くようになって丸4年が経過しました。子育てが終盤に差し掛かり、子どもたちがそれぞれに巣立とうとする中、私にこの地でできる仕事を与えてください、新たに資格を取ったりする必要のない仕事を与えてください、と祈った結果与えられた仕事でした。専念していた20年の子育て期間を経ての社会復帰は、私なりにそこそこチャレンジングでした。子育ての大半が終わったとは言え、3人の子どものうちの2番目と3番目は高校生でまだ送り迎えが必要でしたし、大学進学準備もありました。ある日を境に共働きになったからといって、仕事漬けで走り続けている夫との家事分担は難しく、家や子どもたちのことがうまく回らないことや、自分の時間が取れないことにストレスを感じながらのスタートでした。

 一方、就職した先は、植物工場で日本のおいしいいちごを生産することを目指す農業ベンチャーでした。植物工場とは、屋内で植物の生育環境を人工的にコントロールし、計画的に作物を生産することのできる未来型の農業形態です。私はもともとアウトドアが好きで野山を駆け回っていたタイプだったのですが、ポイズンアイビーを繰り返しその度に重症化していたため家庭菜園さえドクターストップがかかっていました。そんな私にとって、害虫も雑草も排除された植物工場で再び植物に触れることができる仕事は、楽しくて仕方がありませんでした。いちご摘み、葉掻き、糖度測定、パック詰めなどの農作業に加え、ホースやパイプを切って灌水設備を設置したり、コンテナの上にのぼって電気ケーブルを通したりというベンチャーならではの実際の工場づくりも皆でやりました。当時、葉物野菜の植物工場はすでに存在していましたが、受粉の必要ないちごのような果菜類の植物工場は不可能だと言われていたのです。それは、植物工場のような閉鎖空間では、ハチが野生の感覚を失ってしまいうまく働いてくれなくなるという、主に受粉の問題があったからです。それをたった10数名のメンバーで、世界初を目指して夜遅くまで試行錯誤を繰り返す職場は、やる気とパッションに溢れていて、自分がしばらく忘れていた懐かしい感覚が蘇ってくるようで、一緒に働くことでたくさんのエネルギーをもらうことができました。

 そんな私が入社後に立てた目標は「3年でいちご博士になる!」でした。家庭と仕事の両立で苦しんでいた私の、3年は辞めないぞという決意表明でもありました。教育専攻で、小学校教師になり、子育て中も近所の子どもたちの日本語学習のサポートに関わっていた教育畑出身の私にとって、植物工場は何もかもが新鮮で、もともと旺盛な好奇心に火がつき、明けても暮れてもいちごの謎を突き詰める毎日が始まりました。まず、いちごをより知るために植物生理学から始め、夜な夜な借りてきた文献やネット資料を読みあさる一方、植物工場の電気がつく(=植物にとっての朝)6時には農場に入り植物の健康状態を観察する早朝5時起き生活です。実地と勉強会の並走は学びが多く、知れば知るほどまた疑問が生まれます。次に肥料配合や植物の根の栄養吸収を向上させるための有機化学。そしてその次は環境制御のために、例えば人工光の白、赤、青など異なる波長の組み合わせを試すために物理が必要になり、更にそれらのデータを収集して解析するためのデータサイエンス。と、どんどん広がり、終わりがない世界にのめり込んでいって、気がついたら4年が過ぎていたという感じです。残念ながらまだいちご博士にはなれていないと思います・・・奥が深いのです。

 1人で植物と向き合っている時、いろんなことを考えます。例えばいちごの実は、1つの房にいくつものつぼみができ、順番に花が咲き、先に咲いたものから順にいちごの実になっていくのですが、1番最初の実が一番大きく、2番目3番目の実は1番目の大きさを上回ることはありません。家庭菜園を経験されたことのある方はきっとご存知でしょうが、1番目2番目3番目の実を大きくするために、4番目5番目6番の実や花やつぼみを取り除きその栄養を最初の方の実に行くようにする摘果(てきか)を行います。またいちごの実は、最初緑で硬かったものが白へ、そして赤へと色づき、柔らかくなっていきます。赤くなり始めると実の成長自体は止まり、今度は糖度を充実させることへと切り替わるのです。つまり色が変わり始めると実がそれ以上大きくはならないという判断ができるので、この段階で規定サイズ以下のものは摘果します。この作業はいちごを出荷するためには必要ですが、3人の子どもをもつ母親の私にとっては非常に酷なもので、いつも複雑な思いになります。子どもたちの顔が順番に浮かんできて、いちごであっても出現順で見切りをつけるなんてあり得ない、4番目5番目6番目のこのいちごたちだってこんなに美しく咲いているのに、もしかしたら大きくなってくれるかも知れないのに・・・と摘果をしながら何度思ったか知れません。けれども、もう実ができていても、花が咲いていても、つぼみが膨らんできていても、摘果しなければなりません。時には小さなつぼみがたくさんついている房ごと取り除くこともあります。いつもため息が出ますし心が痛みます。ふと新約聖書のマタイ7章にある「良い実を結ばない木は切り倒されて火に投げ込まれる」という聖書箇所が思い起こされ、神さまの厳しい裁きのことを考えたりもします。そして、それぞれ違う道を歩み始めた子どもたちのことを思っては差がついてきたように感じられ、3人とも神さまに喜んで受け入れてもらえるだろうかという思いで不安になるのです。けれども、『今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっとよくしてくださらないでしょうか。』(マタイ6章30節)や『あなたは私の目には高価で尊い』(イザヤ書43章4節)のみことばを思い出すと、脳裏に浮かんだ子どもたちの顔が笑顔になっていきます。子どもたちのそれは、差ではなく違いであって、神様から与えられた個性であることをうなずくことができ、それぞれをそのままの姿で喜んでくださる神さまを思い、安心します。と、次の瞬間「良い実を結ぶとは?あなたは?」ということが突きつけられてくるのです。神さまからのチャレンジです。「私は大丈夫かな。良い実を結んでいないから炉に投げ込まれてしまうんじゃないかな。」と自問自答して胸が詰まりそうになります。すると決まって、♪ Jesus, I need you. Every moment, I need you ♪ という賛美の歌詞が心の中に流れてくるのです。私はすぐに「その通りです。今この瞬間、神様、あなたが必要です!」と心の中で叫びます。さまざまな思いがよぎっては不安になる自分。懸命に努力しても追いつけない高みがある現実に心がうなだれてしまう自分。けれども”Jesus, I nee you!”「この瞬間も、神さま、あなたが必要です」と叫ぶ時、心に平安が与えられます。立ち上がる力が与えられます。私が叫ぶ時、神さまはそこにいてくださいます。摘果は今でもあまり好きなタスクではありませんが、その作業を通して、どの瞬間も私には神さまが必要であることを毎回確認することができるのは感謝なことです。きっと私がそのことを忘れてしまいやすい者であることを神さまはよくご存知だからなのだと思います。自分の力では良い実を結ぶことはできず、ただただ神さまにしっかりとつながっていることが大切だということを再確認する幸いなときとなっています。Jesus I Need You – Hillsong Worship (2015 New Worship Song with Lyrics)
 
 4年前は20人弱だった会社も、現在は200名となり、急成長急拡大しています。喜ばしいことですが、ただそれゆえの難しさも感じています。「多様性」という壁です。スタートアップ当初の社内は日本人が主流で英語でなくてもOKでしたが、いつの間にか英語が公用語、書類やミーティング、プレゼンも英語となり、メンバーのバックグラウンドの違いからくるカルチャーギャップも多くなってきました。日本人の常識や普通が、そうではない場面に出くわして、うーんと思わずうなってしまうことがあります。働き方もさまざまです。メンバーの集中力、休憩の頻度、仕上がりの丁寧さなどを確認する必要がある時、この人たちは皆同じ給料でいいの?と思ってしまいます。そんな時思い出すのは、聖書の中には早く来た者も遅く来た者も同じ賃金を受け取るたとえが出てきて、すべての者に豊かに与えたいと願っておられる神の愛が語られています。そのたとえ話を思い出して、私自身が他の人と比べるのではなく、自分に託されたことに集中するようにと、「小さなことに忠実でありなさい」と語られました。ようやく、多様性を知ること、認めることはできるようになってきたかなあとは思うのですが、その多様性を尊重し、相手の個性と自分の個性を合わせて2ではなく3にするために上手にコラボしていくことが次の課題と感じています。これも神さまからの大きなチャレンジです。『それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。』(第1ペテロ4章10節)

 また、会社が大きくなるにつれ、全員で力を合わせてなんでもやっていたベンチャーから脱皮し、企業として成長していく時期に差し掛かっています。社内に部門が増え、業務が分化され、特定のスキルのある人が外部から雇用され、専門性が問われるようになってきました。その流れで私の所属や仕事内容も変わり、不満や不安を感じることが多くなってきている今日この頃です。この分野では全くのド素人であり、まだ自分が目指すいちご博士には届けていないと自覚しているのに、任された仕事内容に対する不満、任されないことに対する不満、一緒にプロジェクトをするメンバーへの不満などが積もってきています。最初はあんなに植物をさわれることへの喜びでいっぱいだったのに、いつの間にか、不平不満が溢れて止まらなかった出エジプトの民(旧約聖書)と同じように自分もなってしまっていることに気づき、このみことばによって立ち止まらされています。そう、詩篇103篇『主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。』です。けれども、私が仕事に没頭している間にも、神さまは働き続けてくださっており、たくさんの良いことをしてくださっていました。コロナ禍でも、農業はエッセンシャルワークということで私は毎日出勤していて、リモート授業となっていた子どもたち3人(2人の大学生と1人の高校生)が週2回ずつ6日間の夕食を作ってくれる日々が1年ちょっと続きました。そのおかげで私は早朝からファームに入っていちごの観察をすることができ、一般業務の前に勉強の時間を確保できました。子どもたちは毎回5人分の食事を準備するのに最初は悪戦苦闘していましたが、次第にレシピの材料が揃っていなくても冷蔵庫にあるもので準備できるほど腕が上がっていきました。今は3人とも自宅を離れましたが、十分自炊できるようになってくれたので、ある意味安心して見ていられます。またコロナ禍の閉鎖的な日々も、子どもたちが作ってくれた夕食を囲みながら、その日私の会社であったことをシェアしみんながそれに突っ込んだりダメ出ししたり質問したりと、たくさん話をするのが日課となりました。新しく知ったいちごの植物のあれこれや、ハチの受粉の難しさ、垂直農法のシステムや競合他社との攻防、起業あるあるやシンガポールの大学インターン制度、同僚の20代男子にもっと効率を考えて動くように怒鳴られて凹んだことや、まるでTVドラマのような大人同士の激しい本気のディスカッションがあったことなどです。たわいもないことでしたが、このような分野に長男は興味を持ったようで、私の会社で夏のインターンシップをし、そのまま就職することになりました。小学1年生の頃からFarmerになりたいと彼が言っていたこと、けれどもそれをどのようにサポートしていいかわからなかったことなどをその時思い出しました。娘は、私の研究開発部門での実験の話に影響を受けてか、大学入学直後から生物系の研究に目覚め、それを突き進めるためにこれから研究の道に進もうとしています。立ち上げ初期のメンバーとCEO宅で一緒に食事をする機会が何度かあった次男は、アメリカ育ちですが噂に聞いていた日本的な体育会系のノリというベンチャーの雰囲気を肌で感じ、色々と学ぶこと思うところがあったようです。夫も数年経った今では、自分で洗濯機を回したり洗い終わった食洗機の食器を棚に戻したりと、共働き夫婦らしく家が回るように無言で動いてくれています。私が社会とつながり奮闘していることもまた、家族それぞれに安心を与えているのかもしれません。この4年の間、目に見えること見えないこと、たくさんのことを主がしてくださってきており、これからもしてくださる、働き続けてくださることを確信しています。最近この賛美の歌詞が心を離れません。♪ You are Waymaker, Miracle worker, Promise keeper, Light in the darkness・・・Even when I don’t see it, You’re working. Even when I don’t feel it, You’re working. You never stop, You never stop working ♪ 4年前は、この歳になって、この地で、自分がいちご研究に携わることになるとは、ほんの1ミリも想像していませんでした。けれども、私がこうして植物工場に導かれたことが、このあともきっと何かにつながっていくのだろうと思うと、そのタネあかしが楽しみでなりません。今いるところでどうあることが神さまに喜ばれることなのか、これも神さまからのチャレンジです。まどろむことがない(詩篇121篇3節)神さまが、これからしてくださることに大いに期待し歩んでいきたいと思います。そして日々喜びが口から出る者でありたいと願っています。Leeland – Way Maker (Lyrics)

「嘆きを踊りに変えてくださる主」

ある日、ハモリに負けずに歌い切る!というテレビ番組に、笑いながら共感している自分がいました。
そして身近な録画を見て「あれ?これ私の声?自信を持って歌っていたつもりなのに少し外れてる・・」と自分の歌声に気づき、恥ずかしくなることもあるのですが、「それでもめげずに歌おう!」と、今は心に決めています。

 以前、母が私の出産について語ってくれたことがありました。それは父の母の思いに反して、母の大きな決断によって4番目の子としての出産が私だったことでした。そして、キリスト教や聖書とは無関係だった田舎の家庭に育った私が、イエス様の救いに与るなんて、まさに大きな憐れみでしかありませんでした。運動部に夢中だった中学生の時、姉と一緒に初めて教会に行き、いただいた新約聖書を一人で読み始めました。自分の力で隣人を愛する努力に限界を感じて罪が示され、高校生の時に「神様の愛は罪を赦す十字架に示された!」と知り、クリスチャンになりました。しかし、私が教会に通うことに父は反対で、ある時は茶碗を投げることがありました。そんな時でも罪から救われた喜びと神の愛に感動し、学校や教会の帰り道には「主にすがる我に、悩みはなし、十字架のみもとに、荷を下ろせば、歌いつつ歩まん、ハレルヤ~ハレルヤ~♪」(聖歌498)と歌い、賛美に励まされたり、信仰の友の祈りにも支えられてきました。キャンプに参加したり、聖書を読んで祈る中で、神様と交わることが喜びとなりました。母を通して受けた肉体の命と愛に加え、神様からの霊的な命と愛をいただくことによって、生きる喜びを感じ取っていたように思いました。

 やがて看護の道を歩む中、人が生まれる時には、母も周囲も全力で臨み「命の誕生」「命への畏敬」ともいえるものに感動しました。しかしある時は、厳粛な「人の臨終」にも直面し、本人、家族、医療スタッフが必死になっても限界「人間には立ち入れない世界」があるのを感じる時がありました。遺族の大きな喪失感で悲しむ姿を知り、一人の人の命がどんなにかけがえのない大きなものか・・、神様に問いかけ、深く悩み祈ったものでした。「肉体は滅びても、魂を救うお方がいらっしゃる。」そのことを見出し、それから救いや天国の希望、神様の大きな愛を伝えたいと願うようになり、数年の祈りの後に「私の子羊を養いなさい。」(ヨハネ21:15)のみことばに立ち、聖書学院に導かれました。

 牧会生活の中では共に祈り合い、また恵みを分かち合う中で、主に導かれる方がおられたり、また、離れて弱っていた方が信仰に立ち返った時、一緒に泣いて一緒に笑って、神様が私たちと共にいてくださると感じる時、そして反対していた家族にも神様が’働いてくださった時、それは本当に私の大きな喜びでした。

 しかし、これまでの歩みの中で、ある時には神様は私を訓練してくださいました。髪を振り乱し必死の日々、「睡眠時間を削って、こんなに一生懸命頑張っているのに・・」と、自負や思い違いをしていた時、急に試練の中に落とされます。八方塞がりの中で自分の弱さ、まるでボロ雑巾のような惨めさ、ある時には人を赦しきれない罪深さを示され、悔い改めさせられ、主のみ前にへりくだることを教えられるのでした。それでもイエス様の十字架の愛に戻る時、わたしの心に賛美が湧き上がります。
「恐れは変わりて、祈りとなり。嘆きは変わりて、歌となりぬ。
歌いつつ歩まん、ハレルヤ~ハレルヤ~」(聖歌 498)

あるセミナーの中で、教えられたことです。
「皆さんは祈る時、自分に必要なことを一方的に提示して話していることはありませんか?神様の愛をいただくために、自分を空っぽにして、心の窓を開いて、自分の内側に神の愛の眼差しを求めましょう!」
「想定外の中でも神は働いてくださるのです。言葉も出なくなる時、うめくしかない時、それでも神の前に立つなら、祈りとなるのですから、自らを明け渡す祈りをしましょう。私たちは聖霊が働かれる条件を整えましょう!」と勧められました。
「御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちをとりなして下さるからである。」(ローマ8:26)

私の心のうめきをご存知で共にとりなしてくださる方がいる。そう思うと私の内側に、不思議なほどに平安と、勇気が与えられるようでした。
私の歩みのためには、主ご自身が、そして世界中に広がった兄弟姉妹がとりなしの祈りで支えてくださるのだから。そのように大きな愛に導かれるのを感じるのでした。

「苦しみや悲しみや嘆きを踊りに変えてくださる優しいお方、主により頼みます!」と祈るのでした。

「あなたは私のために、嘆きを踊りにかえ、荒布を解き、喜びを私の帯とされました。
これは私の魂があなたをほめたたえて、口をつむぐことのないためです。
わが神、主よ、私はとこしえにあなたに感謝します。」(詩篇30:11、12)

私をここまで導いてくださった主に、心からの祈りと賛美をささげて歩んで行きたいと願っています。

「主のみ約束に、変わりはなし、み許に行くまで、ささえたまわん。ハレルヤ~ハレルヤ~♪」
(聖歌498)

証し

私は牧師家庭で生まれ育ち、家でも教会でも神様のことを聞くのが当たり前な環境でした。いつの間にか「ごく自然にイエス様を信じていた」というのが正直なところで、何か劇的な変化や感動的な体験を通して救われた、と言えるものがありません。クリスチャンとして「感動的で霊的な経験がなければならない」と思ったことはありませんが、人前で語るような証は自分には無いと感じたり、信仰が揺らいでしまう事はありました。

そんな私の歩みの中で、神様という存在を幼い時から知らされ、自由に信じることのできる環境に置かれていることの恵みや、教会やキャンプの奉仕をする機会が与えられてきたことに感謝をするようになりました。神様が私を遣わして用いてくださり、周りの人々に触れておられることを間近に感じることによって、自分自身の信仰が強められていくのを感じてきました。

中でも一人の方との印象的な出会いを通して、神様は私の信仰を強めてくださり、与えられた賜物を認識するきっかけを与えてくださいました。その方は私が高校生の頃、プリンストンの教会に初めて来られた未信者の方でした。彼女は近くの音楽大学大学院で声楽を勉強するために日本から留学していた方でした。当時の私は、音楽や賛美の奉仕に熱心に携わっていたものの、自分には特に賜物や秀でている部分はないと思っていたので、内側では葛藤も感じていました。また、その方の声楽家としての経歴を知ったことで、彼女の前で賛美をする事に恐れを感じてしまいました。緊張と恐れの中で何とか賛美を捧げることができ、その日の礼拝が終わりました。彼女はそれから約一年間、毎週教会の礼拝に来られました。日本への帰国が近づいたある日、その方から言葉を頂きました。「真歩ちゃんの賛美があの時の私には必要だったし、本当に心が開いていくのを感じました。」あの日、私は葛藤と緊張と恐れの中で賛美していたのですが、その礼拝や賛美がきっかけとなって彼女は神様を真剣に求め始め、帰国直前にイエス様を救い主として信じました。そして牧師である私の父と一緒に祈りを捧げられたそうです。

神様が導いてくださった出会い、彼女の魂への働き、そして彼女からの言葉を通して初めて、神様が私をも用いてくださったのだと感じました。その後も 私の周りで人々が神様への信仰を持ち、救われていく姿を間近で見聞きする中で、私自身も恵まれ、信仰が強められ、この道を歩むことに更なる確信が与えられていることを感謝しています。

証し

私は96歳になります。日々、主に生かされ、日々、主に守られて恵みを受けております。そんな私でも、寄る年波で、病による痛みや苦しみがあります。そのような時は正直に「神様、痛いです。苦しいです。」と申し上げて、主に在る慰めをいただいております。

 私はかつて高ぶる者でした。主人との結婚生活において日々、口争いが絶えず、相手を傷つけ、私も傷ついてまいりました。

 クリスチャンとなってある日、教会の牧師先生に家庭のことを話したところ、ひどく叱責を受けました。私に同情してくれるどころか責め立てられるなど、思いもよらないことでした。しかし、神様の恵みは低いところに流れます。「謙遜になりなさい」という神様からのメッセージだと受け止めて、家庭においてへりくだることを心掛けました。

 しかし、そう易々と変化は起こりません。私の中で何かが変わり始めていたとしても、主人には伝わらず、相変わらずの結婚生活が続きました。そんなある日、こともあろうか、主人は突然、「家を出ていく」と言い出しました。

 すでに成人していた娘は驚きあきれ、弁護士を立てて離婚するよう勧めてきましたが、私の心の中に聞こえてきたのは「とどまりなさい」という声。「なぜ?なにを?どうやって?」と問い続けつつ、まだ夜が明けきらない暗がりの中で、聖書を開きました。意図せずに開いた聖書の箇所はヨハネの福音書15章4節。そこには、はっきりと「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。・・・。」と書いてありました。びっくりしました。と同時に、私の心の中に聞こえてきた声が神様からの声だったと確信できました。ならば、従おうと心に決めました。

 それからの道のりも、決して平坦だったとは言えません。離婚は思いとどまりましたが、その後、主人は大病をして治療に時間とお金がかかりました。「とどまりなさい」との御言葉を握りしめて、看病と介護にあたった日々でした。医療保険に入っていなかったため、医療費は莫大な額になり、私が長年積み立ててきた預金は底をつきました。さすがの主人も「すまない」と謝ってくれましたが、その時に私の口から出た言葉は「そんなことはいいから」でした。

 神様が主人の心に触れて下さいました。「そんな言葉を言わしめる神様はどんな方なのだろう。僕も黎子の信じる神様を知りたい。」主人は神様を求めて歩みだし、やがて信仰を得るに至りました。

 今、私は最高に幸せです。身体が衰え、酸素吸入器の手放せない毎日ですが、イエス様がいつもそばにいて下さいます。神様が語りかけてくださいます。大病が癒され、信じる者とされた主人が、かいがいしく私の身の回りの世話をしてくれています。

 ヨハネの15章4節は、こう続きます。「・・・枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」そして次の5節では、「・・・人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。・・・」人生の最期を迎えつつある今、神様が聖書で約束してくださっている多くの実を、私は見せていただいているのです。

 これから実りそうなものも、まだまだあります。神様の素晴らしさを、外へ出て行って伝えることはできなくなりましたが、家の中でたくさんの祈りをささげています。友人がクリスチャンとなってくれますように、祖国日本に福音が広まりますように、ウクライナで苦しむ人々のもとに平和が訪れますように・・・私の祈りのリストは長く、果てしなく、どれだけ時間があっても足りません。だから神様は、私をまだ生かしてくださっているのでしょうか。

 神様はすばらしい方です。神様の御言葉を信じ、とどまる者に、恵みを与えてくださいます。このすばらしい方のことを、一人でも多くの皆さんに知っていただきたいです。信じていただきたいです。

 すべての栄光を主にお返し致します。

Testimony

I feel that my life has been led by God.

However, it took me a long time to believe in God as my Lord, but through an event that took place in 2022, I was able to believe in and accept God. I am truly grateful for that.

I married my Christian husband from Taiwan in 1972 in the United States. My husband’s mother and four sisters were all Christians. So I started attending a Taiwanese church in Queens every week, as my husband’s relatives gathered at church. However, my husband never once told me to become a Christian myself. I think that was a good thing for me. If he had told me that, I would have run away.

If I had not believed it myself, I would not have wanted to be baptized.

God has invited me many times through many events. In 1984, an American woman took the trouble to order a Japanese Bible and gave it to me as a gift.

Then, in 1989, when the pastor of the Japanese church in Maywood was still Rev. Masaki, my husband was working in real estate at that time, and I met a Japanese Christian at that time, and he and his wife invited me to come to the New Jersey Japanese Christian Church for the first time, and then I started listening to Bible stories in Japanese.

Then, in 1992, my mother-in-law, who had been really good to me, passed away, and I made a promise to her at that time that I would be baptized someday.

But for the life of me, I couldn’t really feel God.

Then one thing happened in December 2022. I was on a trip at that time. But on the way back, I had a real problem at the airport. A woman saw my situation and approached me. She told me that she was a doctor and that she had to help me as soon as she saw my situation. Then, after hearing my story, the woman reached out to me with her time and what she had at her convenience. At that moment, I felt God’s hand in giving me that person’s presence. The person’s name was Nancy. When I heard her name, I remembered that my friend who gave me a Japanese Bible as a gift 38 years ago was also named Nancy. With a strange feeling, I came home and was relieved when I received a video from a Japanese friend. It was a video called “Love Letter from Heavenly Father” made by a Christian, and it was edited in such a way that words and stories from the Bible were spoken directly to me from God. It ended with the message, “I am waiting for your return.” As I watched the video over and over again, I realized that God was now calling me through each of these things. And I wanted to believe in Him.

Four months later. In the study of preparation for baptism, I have learned again about God’s love, my sins, and Jesus who went to the cross to forgive them, and I want to follow him as my Lord.

「証し」

私の歩みは神様に導かれてきたことを感じます。

しかし、なかなか、その神様を主として信じることができなくて、時間がかかりましたが、2022年に起こった一つの出来事を通して、私は神を信じ、受け入れることができました。その事に心から感謝します。

私はアメリカで、1972年に台湾系のクリスチャンの夫と結婚しました。夫の母も、4人の妹たちもみんなクリスチャンでした。それで私も、教会で夫の親戚が集合するという流れで、毎週Queensにある台湾系の教会に通うようになりました。しかし、当の夫は自分に対して、一度も自分がクリスチャンになるように、と言うことはありませんでした。それが自分にとっては良かったことだと思います。もしも、そう言われていたら、私は逃げ出していたと思います。

自分から信じることができなければ、無理をして洗礼を受けることはできなかったのです。

そんな私を、神様は幾つもの出来事を通して、何度も招いてこられました。1984年には一人のアメリカ人の女性が、わざわざ日本語の聖書を取り寄せて、私にプレゼントをしてくださいました。

そして、1989年だったでしょうか、まだこのMaywoodの日本語教会の牧師が正木先生だったときです。その頃夫が不動産の仕事をしていて、その時に一人の日本人クリスチャンに会って、そのご夫妻のお誘いで初めてニュージャージー日本語キリスト教会に来て、それから日本語で聖書の話を聞くようになりました。

そして、1992年には、本当に良くしてくれた義母が亡くなりましたが、その時に「私はいつか洗礼を受けるから」と義母に約束をしていました。

でも、どうしても、神様を実感できなかったのです。

そして、2022年12月に一つの出来事が起こりました。その時、私は旅行に出ていました。しかしその帰り道、空港で本当に困ったことが起こりました。その私の様子を見て、一人の女性が声をかけてくれました。その人は自分は医者であり、あなたの様子を見てすぐに助けなければ・・・と思った、と私の状況を聞いてくれました。そして、私の話を聞いて、その女性は自分の時間や持っているものを都合して、私に手を差し伸べてくれたのです。その時、その人の存在が与えられたことに神様の御手を感じました。その人の名前はNancyさんといいました。その名前を聞いたときに、38年前に日本語聖書をプレゼントしてくれた友人もNancyという名前であったことを思い出しました。不思議な思いを持ちながら、家に帰ってきて、ホッとしたときに、日本の友人からビデオが送られてきました。それはあるクリスチャンが作った「天のお父様からのラブレター」という名前のビデオでしたが、聖書の言葉やストーリーが神様から自分に直接語りかけられてくるように編集されたビデオでした。その最後は「私はあなたが帰ってくるのを待っている」というメッセージで締めくくられていました。そのビデオを何度も繰り返し見ながら、今、これらの一つ一つのことを通して神様が私を招いている、と分かりました。そして、私はこの方を信じたい、と思いました。

それから4ヶ月。洗礼の準備の学びの中で、神様の愛、私の罪、そして、それを赦すために十字架にかかってくださったイエス様のことをもう一度学び、この方を主として従って行きたいと思っています。

「証し」

3歳の頃から3つ上の姉に連れられ町内の土曜学校に献金の5円を握りしめ行ったのがキリスト教との出会いです。

途切れとぎれの記憶ですが時々頂く小さなカードがとっても嬉しく宝物だったのを思い出します。斎藤という同じお名前のふたりの牧師がおられて、楽しく、子供讃美歌も沢山教わり、今でも時々口ずさみます。

小学低学年の頃「放蕩息子」のお話を聴いた時は心が熱くなり、それが私の「初恋」でした。

毎日、押し入れに電気スタンドを引き入れ本を読んで、親の言う事も聞かない、弟息子の様であった私を、あの様に迎えて下さる主、その様なお方は子供ながら辺りを見廻しても見た事も聞いた事も無い世界でした。

15歳の高校受験に入るまでは斎藤牧師のいらっしゃる堀切教会に通いました。

その主を知った私が、その後は高校、デザイン学校と、成績はともかく生活は主とかけ離れてしまいましたが、「主の祈り」だけは私の身から離れませんでした。

1989年にアメリカに渡り、ノースカロライナ州のチャペルヒルに住んでいました。

今、手術しないと2週間の命と言われた60歳の時、同じ乳がんを経験した台湾の方にお話を伺いに行った所、日本人の大学教授の乳がん経験者が近くに居るので紹介しましょうかと言われましたが、その時はお断りしました。

幸いに手術で全ての癌は取り去られました。

2年後の1月に連れ合いに肺がんが見つかり7月に亡くなり独りになった時に、先程の台湾の方にお話頂いた方の紹介をお願いしました。

連絡を取り翌日山内先生にお目にかかれたのも主のお計らいであったと思います。
その晩は1ヶ月に1度の山内家でのバイブルスタディの日でした。約20名の日本の方が集まり、リーダーは山内先生のご主人で、そこにはラーリーの日本人教会の横井牧師もいらっしゃいました。2年後横井牧師から洗礼を受けました。

64歳の「放蕩息子」です。

ノースカロライナからNYに来て約10年、NJの教会の礼拝に参加させて頂いてから5年程、毎週の教会が喜びです。

讃美歌も沢山覚えました。
若い方々とご一緒出来るのも嬉しいです。
私に何が出来るのかを探すのも楽しみのひとつになって来ています。

あの小学低学年の子供が恋をしたと思っていたのは思い上がりだったと今はっきりと判ります。私が恋をしたのではなく、主に愛された時だったのです。

「証し」

私は3度の神様との出会いからキリスト教に関心を持つようになりましたが、キリスト教との最初の出会いは「恐怖」からでした。

最初の出会いは、クリスチャンホームで育った友人のお母様から聞かされたイエス様のお話からでした。当時の私は宗教に対してあまり良いイメージを持っていませんでした。イエス様のお話を聞かされた時は、正直内容を理解することができませんでした。

ある日、出かけるから車に乗ってと友人と彼女のお母様が言われたので、言われるがままに車に乗り、知らない場所で下ろされ、案内された場所へ向かうと、そこには多くの海外の方が座っており、私も流れで席につきました。しばらくすると1人の男性が前に登壇され、目を瞑り英語で何か話し始めました。周りを見渡すとその場にいる人全員も目を瞑り、手を合わせていました。そして、“Amen”と聞こえた瞬間、私は教会にいるのだと認識し、神様との最初の出会いから「クリスチャンは強引で怖い人」というイメージを持つようになりました。

この日を境にキリスト教に触れることを避けてきましたが、大学進学で神様との2度目の出会いがありました。履修した“English Literature”の授業の担当講師がクリスチャンであり、この授業で扱った文献が英語で書かれた聖書だったのです。この先生も友人のお母様と同様な熱量で神様のお話をしていました。キリスト教に対して恐怖心を拭うことはできなかったものの、聖書の内容から励まされていることが何度かありました。

私は大学時代アメリカに1年間留学をしており、同じ大学のクリスチャンホーム育ちの日本人学生との出会いが神様との3度目の出会いです。友人のお父様が牧師先生をしている教会の中高生や子どもたちとのアクティビティにお誘いをいただくことがあり、何度かお伺いしていました。子どもたちとのアクティビティは楽しく、その後に聞く牧師先生によるイエス様のお話を聞くのも大変励まされていました。その中でも、『善きサマリア人のたとえ』を聞いたとき、心を覆っていたモヤモヤがスッと晴れたような感覚になったのを覚えております。

私は小さい頃から他人と比較されることが多く、無意識に自分で他人と比較する癖がありました。またそういったことから人の目を気にするようになり、何をしたら嫌がるのか、何をしたら喜んでくれるのか、そればかり考えていました。当時留学先での勉強に不安もありましたが、それ以上に留学先で出会う友人との友好関係が良好でいられることを考えることに気を張っていました。しかし、良好でいられるようにと思いつつも、許せないこともあります。私の友人のある行動で私は1人勝手に憤りを感じていました(その行動についてはその方の尊厳を守るために控えさせていただきます)。その友人と向き合いその行動の理由を聞くことができたが、それでも怒りを抑えることができませんでした。このような経験は何度かありましたが、相手は私が怒っていることにすら気づかずに何事もなかったかのようにしていました。私もこれ以上悪化したくないという思いで普通に振る舞いますがモヤモヤが残るばかりでした。そんな思いを抱えていたので、強盗に襲われた人に手を差し伸べた「善きサマリヤ人」のように、どうにもならない私のためにイエスが手を差し伸べてくださる、イエス様は私たちに罪を背負い、死をもって罪が赦された、自分の都合で人を愛するのではなく、どんな人に対しても愛を持って接することの大切さに気づくことができました。ずっと前から神様は私を導いてくれていたと思うようになりました。

このことがきっかけでキリスト教について、アメリカの教会のみなさんとのバイブルスタディや聖書を一緒に読んで祈る機会、牧師先生による学び会を通して勉強するようになりました。私たち人間は払いきれない程の罪という負債を抱えているが、イエス様の十字架の死の贖いにより救われた、神様は父なる神、イエス様、聖霊様の三位一体で、どれかが欠けることは絶対になく、私たちは神様の栄光をあらわすために生きる、と様々なことを学びました。

神様のみことばにはいつも励まされていましたが、あるバイブルスタディの時、「神様は神様と私たちの間にある扉の前で私たちが開けるのをずっと待っている」というお話を聞いた時、私たちは聖霊様を通して神様との交わりを持ち、イエス様によって罪が赦されたことへの感謝をすることが大切であることを認識しました。ここから神様との交わりを常に持つようになりました。

学び会の中でヨハネの福音書にある「生命の水」について牧師先生からお話を聞いた後、私は信仰告白をしました。信仰告白をしている時の感情をどのように表現したら良いか今でもわかりませんが、涙が止まらず、ただ「永遠の生命に至る水が湧き出る」感覚であることを実感し、神様はいるのだと確信しました。ここから私の信仰生活が始まりました。

「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネの福音書 4章13~14節)

そして、その後、日本のクロスプレイスという教会に導かれて、1月15日に洗礼を受けました。神様がここまで私の歩みを導いてくださったことに感謝します。

「証し」

主の御名を賛美いたします。

 2021年夏、私たち家族は日本へ本帰国をしました。約8年ぶりの日本での生活です。皆さまにお祈りをしていただき、ありがとうございます。

 帰国してすぐは、新生活に向けて一からの準備で忙しい日々を送っており、準備が落ち着いたら、礼拝へ行こうと考えておりました。1ヶ月過ぎ、少しづつ生活が落ち着いてきたので、そろそろ日曜日に礼拝へ…と思い、主人に話したところ、日曜日、私は家族と過ごし、教会へはもう行かないと思ったそうです!キリスト者の生活の中心は礼拝である、わかっていましたが行動で示していなかったのです。このことを機会に、教会の礼拝を守ることを第一にして生活を送ることを目標にしました。

 今年の初夏、日本に一時帰国をしている姉妹(教会ではお互いのことを神の家族として、「兄弟姉妹」と呼ぶことがあります)から一緒に礼拝をお捧げしませんかと連絡をいただきました。NJ日本語キリスト教会で大変お世話になった方です。大変嬉しかったです。主の恵みに感謝です。

 礼拝を喜んで守るものには祝福されるという神様の約束を信じ、これからもキリスト者として信仰生活を守っていきたいと祈っています。

 日本の生活も少しずつ落ち着いてきたころ、予想していなかった出来事がありました。義母の死と実母の介護です。

 義母は、体調を崩し総合病院へ受診、そのまま入院、数日後亡くなりました。あっという間の出来事でした。私たち家族の本帰国を誰よりも楽しみにし、孫の成長をこれから近くで見ることができると喜んでいました。今も義母の笑顔の写真を見るたびに何故?という思いが消えず、悲しみの中におります。

 そして、実母の介護です。ついこの間まで元気に一人で生活できていましたが、転倒が多くなり、気づいたら歩行困難になっていました。総合病院にて腰の手術を提案され入院しましたが体調を崩し、手術は見送りになりました。やっと体調が整いましたが、主治医から手術するタイミングを逃してしまった、手術しても改善されないと、今度は施設での車椅子生活を提案されました。

わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、
あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。
ー主のことばー
天が地よりも高いように、
わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、
わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。 イザヤ書55:8−9

 私たちが考えても理解できないことが現実にあります。義母との突然の別れがそうです。また、私たちが予定していた通りには計画はすすみません。実母は手術して少しでも歩けるようにと願っていたのに、手術ができなくなり、施設での車椅子生活を提案されました。しかし、実母は以前と変わらず退院後一人暮らしを強く希望したため、介護生活に向けてケアマネジャーさんたちと相談を繰り返しました。やっと決まって安心したと思ったら、変更になることも数回続きました。住宅改修など大きな決断をしなければならず、その変更が何度も続くと、さすがに心も身体も疲れを感じてきました。

 そんな時に、このみことばから、慰めと励ましをいただきました。神様のみ思いと私たちのみ思いは異なる。そのことを受け入れる。神様に委ね、神様を信じて共に歩ませていただく。私たちの想像をはるかに超えた神様のみわざを信じたいと祈っています。

 その後の実母は、入院中リハビリに一生懸命に取り組み、退院後、介護サービスを利用し、多くの方々に支えられ、転倒することなく一人で生活をしております。神様が多くの助け手を与えてくださり、実母の生活を守ってくださっています。感謝です。

 安中聖書教会に導かれ、現在、転入会に向けて牧師先生と共に学びの時が与えられています。

 今住んでいる所から車で30分ほどのところに安中聖書教会はあります。群馬県は山々に囲まれている県で、小さい頃から山を見ることには慣れ親しんでいますが、教会に向かう時に目の前に広がる山々は本当に素晴らしいです。毎回、教会へ向かうたびに、この景色に感動し、天地のつくり主である主の恵みに感謝を覚え、礼拝を大切にしたいと思います。

 NJ日本語キリスト教会に主の豊かな祝福がございますように、多くの方が導かれますように日本からお祈りしています。アーメン

コロナ禍の中でも恵みを数えて

全世界の人々が同時に経験した患難であるコロナ禍の中で、多くの方々が困難を味わって来ました。こんな事が起こるとは!思いがけない事の中で私達が味わったことはなんでしょうか? 神のみ心を知り、尚深い愛なる神のご計画を知りたいと思っています。

コロナ禍が始まった頃の、不気味な不安、人との交流を絶たれた寂しさ、病気への恐れ、日常の変化の戸惑い、考えたらキリの無い暗闇が押し寄せたものです。

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝を持ってささげる祈りと願いによって、あなた方の願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、全ての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリストイエスにあって守ってくれます。」ピリピ4章6〜7節

コロナ禍の始まる前に、この箇所から錦織先生がメッセージをされました。私はこのみ言葉の「祈り」の言葉の前に「感謝を持って」という言葉がとても気になっていました。
神様が「先ず恵みを数えるのだよ」と言われている気がしました。
詩篇103篇2節の「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」の言葉のように、日常のどんな小さな恵みにも感謝していくことの大切さを示されたのです。コロナ禍の中でも朝目が覚め、立ち上がり、手足が動くだけでも高齢の私には恵みの数々です。そう考えると恵みは溢れていきました。 三年間のコロナ禍でも小さい恵みを数えて行くと、確かに神様は共に居られ、最善を示して下さった事を知るのです。

皆様にも沢山のお祈りをして頂いた叔母が居ました。母の妹です。生涯独身を貫き90歳まで身の回りの事もきちんとし、お洒落も忘れなかったです。正に90歳の誕生日の後にコロナ禍が始まりました。私も誕生日を共にしてギリギリセーフの帰米をしました。今思えば、成田でひどい咳をしているアジア人がいた事を覚えています。

瞬く間に広がっていくCovid-19 の中、娘もマンハッタンでの仕事に不安を感じて、コロナ禍が始まる2年前に娘が購入したコネチカットの家で仕事をする準備を始め、私も一緒に生活することになりました。 娘の仕事の動きが止まり収入が減りましたが、国のサポートを受ける事が出来ました。そして何よりも感謝だった事は、娘は仕事が多忙過ぎて受ける事のできなかった建築の試験勉強を始める事が出来た事です。一年間で5回ほどの試験(一回4~5時間)を無事クリアする事が出来た時はバンザイをさけび、特別に与えられた時間を二人で感謝しました。又共に祈って下さった方々に感謝いたします。

礼拝や祈祷会などの集会にZoomが始まったのも不思議な事です。この方法を持って仲間と励ましあうことで助けられました。コロナ禍にインターネットを通して世界中に神の愛が伝わって行くという神のご計画の凄さを知りました。「何時になったら世界中に福音が伝えられるのか」と思いましたが、正に神には不可能な事がないのですね!

2021年半ばに妹から知らせがあり、何時も明るいメールで元気だと思っていた叔母の心不全が進んでいる事が分かりました。家での生活は無理になりそうなので、私の代わりに妹が施設を探すのに奔走して、家のすぐ近くに良い所を見つけてくれました。私の日本行きの時期を決めるのは難しかったのですが、未だ規制が厳しい11月30日着で日本入国しました。
空港の税関で叔母が危篤のことを伝えると、施設の方と相談するように言われ、施設の方の配慮で、入国3日目の12月3日に叔母と2年ぶりの再会をしました。まだ入国後14日間自宅待機の時です。時間も心配しないでと言われ驚きました。酸素を付けながらでしたがとても喜んで貰えました。次の日も面会して良いということで、12月4日の朝、更に苦しそうでしたが、面会室に来てくれました。 口紅を塗ってあげ、大きな声で笑い合いました。酸素量が殆どMaxになっていました。その夜、食事の後静かに息を引き取ったと連絡があり、駆けつけてまだ温かみの残る叔母に触れ、叔母の人生を守って下さった神様に感謝しました。 看護婦さんが「貴方に会うのを本当に楽しみにしておられましたよ、待っておられたのですね。本当にしっかり生きられた方で、いろいろ教えられました」と言って下さった言葉は、何にもまして叔母の人生を示している気がします。神様に支えられた人でした。

2022年の春、若い友人二人をガンで次々に失いました。あっという間のお別れで、大きな悲しみでした。教会にも来られ福音に耳を傾けた友ですが、確信を受け取れなかったのは心残りの辛いことです。世界中にコロナで家族を失った方がおられます。神がおられるならどうして?と悲しみから立ち直れない方もどれほど多い事でしょうか? 

天地を創造され、始めから最後までを御支配なさっておられる方が「今はわからないが、後でわかるようになる」と言われる時、解決を頂かなくても平安に包まれるからふしぎです。この平安の基なる方を機会を逃さずお伝えしていきたいです。

「これらのことをあなたがたに話したのは、あなた方が私にあって平安を得るためです。世にあっては患難があります。しかし勇敢でありなさい。私はすでにこの世に勝ちました」ヨハネ16章33節

患難まで行かなくとも日々問題にぶつかる者ですが、世に勝った方が共に歩いてくださっているのです、感謝です。 短い証の行間にいちいち感謝の言葉は入れませんでしたが、コロナ禍の中でも数えると恵みは溢れます。自分自身を見ると望みも消えゆくような時にも、行いでなく恵みによって贖い出して下さったイエス・キリストの憐れみが、恵みの一つ一つに現れてきます。日常のささいに見える様な恵みを数えながら、与えられた命を歩んで行きたいと願っています。

望みも消えゆくまでに 世の嵐に悩むとき 
数えてみよ主の恵み (汝)なが心はやすきを得ん
数えよ主の恵み 数えよ主の恵み  
数えよ一つずつ 数えてみよ主の恵み(新聖歌172番)

「信仰によって義とされて」

名前は宣彦(のぶひこ)です。
父が「宣べ伝える人に」と名付けました。
名前の所以からお分かりかと思いますが、私は牧師の家庭/クリスチャンファミリーで育ちました。

幼稚園、小学校の時は、毎週、当たり前のように教会学校に通い、神様の事、聖書の事、よく分からないけど、楽しくて、いつも自分の回りに「教会」がありました。そして、それが私にとって当たり前でした。

しかし、小学校高学年頃から、この当たり前が自分が回りとは違う事を知り、それが、いろんな宗教を知るきっかけとなりました。なんか自分は友達とは違う、日曜日は友達と遊べない…と。いつも友達といたいから、両親に対しての反抗期が始まりました。

そして、中学生の頃から教会からも離れ、生活態度はだんだんと悪くなり、両親とも不仲になりました。

高校受験の時、生活態度が悪く、いわゆる不良中学生だったため、姉、兄が行っていた高校を受験できず、私は落胆して、働く事を考えてました。ただ両親は高校には行って欲しいと、中学浪人の道を備えてくれて、1年浪人した後、ミッション系の学校に合格しました。

この時、両親に「今までゴメンなさい。そして、ありがとう。これから頑張ります。」と、強く思った記憶があります。ですがこの思いは本物でなく、まだ、自分の変化までは至りませんでした。

高校生活は実家から離れ、寮に入りました。両親に感謝はしつつ(今思うと上っ面だけの感謝)、勉学に励んだ結果、高校3年の時、学校から私立大学の推薦をもらえる事になりました。両親は大変、喜んでくれました。
が、それが決まってすぐの高校3年の夏休み、私が謹慎に値する事を起こし、その推薦も取消しとなりました。

その時の両親の涙は、今でも忘れられません。両親が高校に来て、私のために懇願する姿を見て、「私はなんと愚かな人間だ」と強く思いました。「両親の愛」を感じた時でした。中学生の時と同じく、働く事も考えましたが、その後、なんとか、この時期でも募集のある大学にいく事ができました。

中学浪人の時、また、やっと手にした高校生活で自ら犯した事での謹慎処分による推薦停止。そこでの両親の対応。こんな私を信じて思う両親の愛。私自身もやっと、この両親の思いに気付き、神様のお導きにて「洗礼」を受けました。

大学からまた、教会に出席するようになり、青年会で母教会の日本基督教団池袋西教会に関係のある先生が牧会していた鹿児島の奄美伝道にお手伝いに行ったり、クリスマス祝会や教会バザーを運営したりと教会生活を歩んでいました。

ただ、大学3年になると、アルバイトに夢中になり、社会勉強と理由をつけ、日曜日の教会をサボるようになりました。

中学生の時からまた、2回目の神様や両親の思いに対して、逆行する生活が始まってしまいました。そんな生活が続いて2年がすぎ、なんとか東京の百貨店に就職が決まりました。

しかし、日曜日は休めない業界のため、さらにどんどんと教会から離れていきました。全く教会に行かない日々が10年近く続きました。

この間に会社から人事異動により、ニューヨーク駐在になり、アメリカに来ました。その前にも婦人服のバイヤーとして、何度か出張でアメリカには来ていましたが、駐在になるとは思わず、驚いた事を思い出します。

アメリカで勤務してる中、今の妻(アメリカ在住者)と出会い、結婚しました。そして、私にとっては大好きな会社でしたが、6年間の駐在期間を完了して、その会社を辞め、家族でアメリカ在住を決めました。

そこから10数年、自営業をいくつか起業して家族のために邁進しました。
簡単で楽な道のりではありません。自営ですので、また日曜日は休めず、サラリーマンとは違い、朝から夜中まで毎日毎日が奮闘の日々でした。

そんな中、日本で牧会を続けていた父が亡くなりました。9年前のイースターの時期です。アメリカのお店を義弟に頼んで、帰国しました。帰国して父が私を認識した翌日に父は召天しました。

帰米の際、いろんな事を思い、考え、これからの自分を見つめ直して、アメリカの自宅に戻りました。

でも、また日々奮闘の毎日の中、その気持ち、思いも薄れて、いつもの流れとなり、毎日毎日、仕事に追われる日々が続きました。何も変わりませんでした。

それから数年後、コロナが起き、お店の状況も悪化し、とうとう閉業をする事に
なりました。それが、今年の1月です。自営の閉業作業は大変でした。
そんな中、さらに私に追い打ちをかけるように、今年2月には日本の姉のもとにいた母も召天しました。コロナ禍のため、母の最期には会えず、姉が母の最期をFaceTime で連絡してくれました。自分の状況を母が心配する事はなく、天に逝ったのは、すべてもの救いでした。

….上記が今年までの私の歩みです。

父そして母、クリスチャンの両親の死を考え、私の中で、何かが動きました。

私自身を振り返る日々を過ごしていると日本の姉から連絡があり、
普通の会話から一言… 「そろそろ教会に戻りなさい。両親に安心してもらえるように。」

何か見えないものに心を揺さぶられました。
多分、それは聖霊のお導きだったかもしれません。
天国から父と母が見ていたからかもしれません。

日本の牧師先生からアメリカで牧会されてらっしゃる錦織先生の話を伺って、今があります。

今は私にも新しい仕事が与えられ、次のステップを生かされてます。

両親、姉、また兄… 家族に支えられ、こんな私が今まで生きてこれたのは目に見えない神様のお導きがあったからだと感じます。

姉の一言で今は救われ、毎週教会出席ができて、感謝です。

人生を甘く考え、勝手し放題に生きて来て、
苦しい環境を自ら生み、自ら苦しんできた日々。
自分の人生の節目節目で家族に助けられてきた、
甘えた、どうしようもない自分の今までを振り返ると、
やはり、その都度その都度、
神様のお導きがあって今があると思います。

 
牧師である亡き父がアメリカ赴任時に私に渡してくれた色紙があります。
「患難を喜ぶ」
ローマ人への手紙第5章3〜4節
苦しい状況からお導きによって、いろいろな形で強く生かされる。
神様が共にあって導かれる事に感謝します。

再び、教会に戻りました。
この30数年間、礼拝をまもらない私に共にいて下さった神様に感謝します。
今、私の手元に母の形見の聖書と讃美歌があります。
教会には、母と一緒に出席しています。

だらしのない私ですが、この再スタートをどうぞよろしくお願いします。

そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」
ローマの信徒への手紙5章3-5節(新共同訳)

弱さのその先

コリント人への第二の手紙 12:8-10
‘このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。 ‘

 イエス・キリストを受け入れるまでの私は自分の弱さに対し見て見ぬふりをして過ごす日々を送っていたと記憶しています。「弱い自分なんていうのは、一時の気の迷いだ。人よりも頭の回転が遅くて、劣るところがあるんだからきっと努力がまだまだ足りないんだ。こんなネガティブ思考じゃダメだ。なんて、情けない。」26歳までのわたしはいわゆる根性論の塊で、可能性は無限なんだから努力すればどんな自分にもなれると信じて疑いませんでした。家族や親戚の目もあり、幼少の頃から割と早くなんでもできていたようで褒められるのも好きだったわたしは、いじめられれば立ち向かい怖気付かない自分でいればいつか終わるとやり過ごし、成績が悪ければわかるまで問題を解けばいい、なんでも挑戦してそこそこ優秀でいれるよう努力、努力、努力。いつからか、家族からの期待なども相まってひとりで過ごしていても常に見られている感覚が抜けず、見られている恥ずかしさによりその「誰か」のために自分の弱点、弱さに蓋をし無視し続け「ちゃんと」を演じる人格が形成されました。しかし、2013年、地元で大学を卒業後、就職のため上京し医療従事者として働き始め大きな挫折を契機にその演技は崩れます。
 職場とプライベートでの人間関係による人間不信と日に日に悪化する体調、仕事における度重なる失敗と努力しても努力が足りないと言われ続ける虚しさなど理不尽と思えるようなことが起こっても、すべて「自分が悪いんだ」と行き場のない悲しみと怒りの矛先はいつも自分でした。病院での出来事や体験は守秘義務があると思い、親含め誰にも打ち明けず、通勤できず引きこもりになって、4ヶ月間は人との関わりを一切遮断しました。起きている間中、過去人からかけてもらった言葉の一つ一つが脳内を無限ループし、気持ちが悪かったので、ひたすら寝て忘れる日々。今思い出してもどうやってあの頃を過ごしていたのか、正直他のことはあまり思い出せません。苦悩を話すとキリがないのですが、ここまでが救い主イエスさまを知るまでの主なわたしの背景になります。
 ですが、神さまはわたしを常に自分自身を見つめている必要から解放してくれました。大きな転機となったのは当時友人だった現在の夫との出会いでした。2014年、わたしが幼少期の頃にアメリカで一人クリスチャンとなっていた母にやっと打ち明け、せっかく時間があるのなら何か好きな習い事でもしてみては、という提案から通い始めたのが英会話スクール。マンツーマンレッスンを担当してくれていたインド人の先生とより親交を深めたいと話したら、牧師であるお兄さんが毎週末に家庭集会を開いているからと誘われて、通い始めました。当時の夫と初めて会ったのは牧師を筆頭に、クリスチャンではないメンバーで結成されたワーシップバンド(礼拝のリードをするバンド)の初リハーサルの時でした。家庭集会にはカレーに目がない当時の彼も時々参加していたようで、彼は彼でその牧師から仕事で必要になった英会話レッスンを受けていたそうです。その頃のわたしは人混みが苦手で、今でもそうですが街を歩くときは人の目線が気にならないように視線を外すようにしていました。そんな弱いわたしを隠せないほどまでになっていた時期に、わたしは彼に拾われて、教会に通う後押しをされました。彼は「少なくとも君には必要なことだとわかるから」と言ってもらいながら教会についてきてくれました。後にその彼の姿を思い出して、神さまはどんな人もこうして用いて導いてくれるんだなと感じました。その後、母のお世話になったアメリカの牧師家族のいるミシガンを夫と共に訪れ、結婚準備の聖書勉強会と小さなパーティーを開いてもらいました。驚いたことに夫の口から「J牧師の言葉は信用できる。あの人はまさに本物の牧師さんだ。」そんな言葉が彼から出てくるとは思いもしませんでした。まだ小さかったわたしに彼が語りかけるときの話し方や言葉はよく覚えていて、まるで子守唄のように心地が良かったのを覚えています。今でも英訳聖書を読むと頭に流れてくる音声はその牧師の声です。帰国後しばらくしてから夫と入籍しましたが、その1ヶ月後、彼は召天されイエスさまのもとへ行かれました。のちに牧師の娘さんから聞いた話によると、もう何度も脳梗塞を繰り返しては自宅へ帰り失明し聖書も読めなくなっていながらも常に認知症を患った日本人の奥さんを気にされお世話をしたがっていたそうです。ところが、私たちが2015年の年末に訪問したとき、目が再び見えるようになり、読みたかった聖書を自分の目で読むことができたんだそうです。また、実は訪ねた時もう一つの奇跡が起こりました。認知症を患った彼女にわたしたちが日本語で話しかけるや否や、なんと小さい頃話したわたしの知っている昔の彼女の喋り口調そのままにハキハキと話し始めたではありませんか。これにはご家族も牧師も涙ながらに大変驚かれていました。そのため、わたしたちは牧師の喜びに満ちた目と目を合わせ、奥さんの日本語での聖書解説を聞くという、そんな奇跡のうちに結婚のための聖書勉強会を終えたのでした。
 その後、夫と共に教会を転々としながら、2年と時間は掛かりましたが、自分を粉々に打ち砕かれ疲弊し、夫がいるのに自分にはもう何もなく自分を含めたすべての人が信じられないほどの絶望を抱えていた2016年、後に洗礼を受けることとなる教会の方々の祈りにより悔い改め、新生しました。祈ってもらう中で目が開かれ、イエスさまが十字架にかかりすでに勝利してくださったこと、イエスさまの御名の権威によりサタン(悪魔)がわたしの宮から去るようと共に涙を流しながら神さまの御前に明け渡すことができました。ちょうど母が東京に来ていたので、帰宅してから二人で泣きながら喜びました。2017年12月10日、友人であり長老の二人から洗礼を受け、イエスさまと歩み始めたのが4年半前です。
 そして2022年、現在は夫婦でアメリカの地にいます。夫と初めて出会った日の帰り道、お互い違う時代に幼少期をミシガン州で過ごしたことを知り、いつかまたアメリカに行きたいと二人で語り合った日から8年です。あの頃と比べ、関わっている人や状況、体型も悩む内容も全く異なりますが、神さまが、何より今もなお絶えずわたしの弱さを用いて、真に自分を砕き、神さまの御前に平伏し明け渡すことがどれほどの恵みであるかを毎回新しく認識させてくださることに喜びを覚えます。最後に著者ティモシー・ケラーのThe Songs of Jesusの本から引用します。

詩篇51:14-19では、無償の恵みによって砕かれた心について、ダビデ自身が、どれほど失われつつ、どれほど愛されているかを知っている心の大切さを語っています。神さまの方を向く時、私たちは常に自分自身を見つめていることから解放されます。わたしのくちびるが開かれた時、わたしたちは自分のことを語るのではなく、神への賛美を語るのです。

 天の父なる神さま、あなたの御名は代々限りなく崇められるべき御名です。わたしを打ち砕き、救い出し、あなたの所有する者としてくださったことを心から感謝いたします。ここに、自己に目が向いてしまう弱さを認め、度重なる裏切りと背きを告白いたします。わたしの砕かれた霊と与えられた聖霊さまの満たしにより自己保身をやめます。ただただあなたの御手に委ね安堵し、傲慢な自己陶酔である自己嫌悪も自己満足からも解放され、何度も悔い改めて平伏し神さまに向き直します。救いの喜びと絶望などの偽りの傷ではなく真に受けた砕けた魂の傷を御前に捧げることができますように。あなたの御心のままに、心を騒がせない静かな霊の平安に預かります。
万軍の主なるイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

 渡米し、夫と共に新たな生活を始めた2019年から2020年3月の新型コロナウイルス感染症に伴うロックダウン、そして通っていたマンハッタンの教会の閉鎖、メンバーの解体と新たな教会探し、自宅での自粛期間中の孤立と無気力、2021年から少しずつ外出が増え、この頃参加し始めた日本人による街の清掃プロジェクトを通して日本人クリスチャンの女性と出会うまでの間、対面での礼拝に集えないことに伴う精神的な影響の大きさを実感しました。オンラインでいくら礼拝を個人で捧げるも得られない人の温もりといつまで経っても構築できない人間関係は孤立を生み、時差に伴い日本の教会の皆さんとの関わりも激減し、その上教会も失ったため人と連絡を取り合うことや聖書の言葉に触れなくなるまでにそう時間は掛かりませんでした。自分の意思の弱さもあったと思いますが、その頃はまだ神さまに悩みを明け渡し祈り求めることを知らなかったため、ただただ神様に向き直すことが困難でした。
そして2021年12月、当時は気がつきませんでしたが受洗して4年目を迎えた翌日に初めてニュージャージー日本語キリスト教会のNY礼拝へ出会ったばかりの友人と共に赴きました。礼拝での集いはまるで家に帰ってきたような、初めて訪れたとは思えないほどに温かく、対面で母国語で錦織牧師の取り次いでくださったメッセージがすっと心に染み渡り、目は涙で溢れていました。その後、再びオンラインとなりましたがその日を境に主の導きであったと感じ、晴れて今年2022年の3月から対面でのNJ礼拝へ通わせて頂いております。
 NYに住んでいる者がNJで礼拝を守ることは日本にいる多くの友人たちから大変驚かれます。これは神様の憐みと教会員の皆さんのご奉仕がなければ、なかったことです。皆さんの賜物とご奉仕によりこうして私の信仰生活が支えられています。改めて心から感謝申し上げます。同じ教会の神さまの家族として快く迎え入れて頂いた喜びの気持ちを胸に、今後私もニュージャージー日本語キリスト教会の皆さんと共に奉仕を通して神さまのご栄光と御心のため用いていただきたいと思っています。

「信仰は政治に従属するのか」-2022年3月18日のレント集会によせて-

冒頭から私の大変お恥ずかしい昔話で恐縮ですが、学生時代には政治学科にて学びました。
今思えば若気の至りなのですが、政治の道を志した時でもありました。例えば、①地元の練馬区の小中学校でPTA会長を務められた方がいて、その方が自民党から区議会議員選挙に立候補するというので、そちらで選挙運動のアルバイトをしました。②数々の政治家を輩出している“雄弁会”という弁論サークルがありそこを覗いてみたものの、内部が「学生運動派」「政治哲学派」「国会議員のカバン持ち派」に分かれ、かなり荒れていて、例年GWに行われる最初の合宿前に入部を断念しました。③挙句の果てには就職活動の際、クリスチャンだった伯父たちのうち3人が通信社や新聞社の政治記者だったので面接のご指南を頂いたり、“山崎塾”というマスコミ塾に通ったりしました。1984年に「世田谷ケーブル火災」という事故があり、その山崎塾では課題として住民への取材が与えられました。結局そこで挫折してしまいました。④ゼミでは憲法の「基本的人権」をテーマにしました。ゼミには同期の仲間が20名おり、そこから2人の現職の参議院議員が出ています。そのうちの一人は世耕弘成くんで、次期総理大臣を目指すために衆議院に鞍替えするだとか最近のニュースで見、今後の彼の活躍を祈っているところです。
では、そもそも何故政治を志す様になったのかですが、大学1年生の時のとある教授の一般教養の政治学の授業の中で「全ての学問・芸術は政治に従属する」という、おそらくマルクスかエンゲルスの著書の中の言葉でしょうか。つまりこの世で政治が最上位にあり、宗教を含め全てが政治の支配下にある、と聞いて以来、クリスチャンホームに生を受けたにもかかわらず、その影響を大きく受けました。

洗礼を受けて何が変わったか、と錦織先生にも問われたことがありますが、最近になって「宗教は政治に従属しない、すなわちあらゆる信仰は政治を超える」と感じる出来事が増えてきました。

私の友人の一人に、高校でのクラスメート、その高校は3年間クラス替えがありませんでした。エスカレーターで上がった大学でも同じ学部学科、しかも同じグリークラブに4年間所属していたものがおります。彼は40代中盤になってから生命保険会社を脱サラして日本正教会の神父へと献身しました。ニューヨークめぐみ教会の笹川牧師の東方教会バージョンとでも申しましょうか。現在は熊本県の人吉ハリストス正教会にて務められておられます。

特に私が洗礼を受けてからというもの、彼の教会のFacebookやブログをよく読むようになりました。先月に印象に残る3つの記事があり、引用しつつレント集会での証としてお話しさせて頂きます。

まず2月11日のことですが、「イスラームと正教会」という題で彼のZoom講演会があり聴講しました。

アメリカでも9.11以降、なにかにつけイスラム教徒とキリスト教徒とは対立軸で話されがちですが、実際その後の報復合戦の様相を呈している戦争やテロの報道に接するにつけ、宗教間の憎しみの連鎖が続いているように思います。彼の講演会ではまずイスラームの教えや価値観を客観的に説明し、キリスト教、彼の場合は正教会になりますが、キリスト教との考え方の相違点を説明するものでした。例えばコーランの文中、預言者たちの中の一人にイエス様も含まれているなど、初めて知ることも多く、とりわけ印象に残ったのが彼のまとめの部分でした。それは「異なる信仰、異なる価値観といったアイデンティティの相違を理由にした社会の分断こそが今世紀の世界共通の問題であること。その最大の原因は異なるものに対する無知、無理解である。従って宣教者である彼がイスラームについて学び、正しい情報を教会内に伝え、キリスト者が異教徒の兄弟姉妹に偏見を持ち差別することは誤りだと伝えたい」ということです。

そして講演会ではヨハネ13章34節を引用されたので読みます。「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」とあるようにキリスト者は相手がだれであれ他者に隣人愛をもって接することが求められると結ばれました。

私自身、西方教会と東方教会とが聖書を共有している同じキリスト教徒であることすらよく理解していなかったのですが、この講演を通してイスラームのみならず日本正教会についても知ることが出来たのが収穫でした。講演会の最後にトピックとして、9.11以前にはWTCの真下にギリシャ正教会聖ニコラス堂があったそうです。9.11でWTCの下敷きになって倒壊したのですが、現在、ギリシャ正教会聖ニコラス国民礼拝堂という新しい名前で再建中との言及があり、是非、機会を見つけて訪ねてみたいと思うようになりました。

次に2月23日、日本では天皇誕生日の祝日でした。

この日にちなんでの話でしたが、日本正教会の祈祷文の中では必ず「我が国の天皇陛下及び国を司る者のために祈る」という文言が入っているそうです。彼自身はカトリックからの改宗者でしたが、当初は天皇陛下という具体的な文言に大変驚いたそうです。私たちに置き換えるとバイデン大統領やニュージャージーのマーフィー州知事を名指しで祈るような感覚でしょうか。

正教会ではどこでもその教会が立地する国の元首の為に祈り、天皇誕生日には天皇陛下の繁栄を祈るとともに日本国を司っている人々が正しい政を行うように、そして世界の紛争と人権侵害に苦しむ人々が救われる様に祈っているそうです。またロシア正教会の在日本代表も天皇陛下の為に祈るそうです。

現在、ロシアとウクライナの間では正教会に属するもの同士の戦争となっており、其々の教会は大変苦しい立場にあるのではないかと想像されます。そんな状況でも正教会はその国の元首のために祈るそうです。その根拠となっている、使徒パウロがテモテに宛てた第一の手紙2章1節を読みます。「そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。 それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。」 私たちの教会でも3月の祈祷課題の第39番に、バイデン大統領やマーフィー州知事の名前こそありませんけれども「政権のリーダーのために祈る」とありますように、日々ウクライナからの報道映像を見るたびに為政者への祈りの重要性に気づかされました。

然しながら、とても残念なニュースもあります。先週の日曜日、ロシア正教会のトップであるキリル総主教の説教があり、そこで彼は「ウクライナ戦争の原因はプライドパレード、つまり性的少数者の多様性を拒否するかどうかの闘争」と発言しました。当初はフェイクニュースではないかと思いました。しかしながら、大学でロシア語を教えている日本人が実際に説教を聞いたところでも、耳を疑うような発言だったとのことです。歴史を振り返るとロシア正教会はソ連時代に共産主義の名の元で弾圧を受け、その後プーチン大統領によって復興を果たした経緯があります。その観点から恩義があるのは理解できますが、まさに「全ての学問・芸術は政治に従属する」と聞いた授業を思い起こさずにはいられません。自らが信ずるもののトップが戦争を肯定するというのは多くの信者にとって受け入れがたいことだと思いたいです。戦火に苦しむウクライナの人々はもとより、戦争に心を痛めているロシアの人々にも祈りを捧げたいと思います。

最後になりますが、2月24日にロシアがウクライナへ侵攻を開始した事を受けてなのか、残念ながら日本でもヘイトクライムが発生していることがニュースで取り上げられていました。東京の銀座に「赤の広場」という名前のロシア料理の食材店があるそうです。その「赤の広場」と書いてある看板が何者かによって破壊されたとのことでした。しかも経営者はウクライナ人の方なのに、です。因みにですが世界遺産にもなっている「赤の広場」は決して共産主義・社会主義の旗の色のことではなく、ロシア語で「赤い」とは「美しい」の意味があり、「赤の広場」とは本来「美しい広場」という意味だそうです。この出来事で、「プーチンは悪、ロシアは悪、だからロシア人を攻撃する」みたいな誤った正義感が戦争の被害者を広げているように感じます。ヘイトクライムが戦争に加担してしまっているとも言えましょう。今私たちが直面している状況に敢えて例えますと、マンハッタンの地下鉄などで惹起しておりますアジア系住民に対するヘイトクライムがあります。これが発生する理由も同じようなロジックなのだと思われます。
今週の水曜日、ウクライナのゼレンスキー大統領が米国議会でリモート演説を行いました。ロシアの攻撃を非難する例えに911とパールハーバーを並列していたことに私は大きく失望しました。これは日本人やアジア系住民に対するヘイトクライムに繋がる、政治家としての資質に疑問符が付きかねない発言でした。彼が今後ウクライナ国民のために正しく政を行うように祈りたい気持ちです。このような状況下でもキリスト者として国籍とか民族とか無関係に祈りをささげたいと思い、最後に、イエス・キリストが逮捕される直前に追手に対して剣を向けたペトロに対して言ったみ言葉、マタイ26章の52節から54節を読みます。「そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。 それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。 しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」。

「愛されているから」

 皆さん、こんにちは!4月からニュージャージー日本語キリスト教会(JCCNJ)で共に神様を礼拝し、教育主事として奉仕させて頂くことになりました、栗栖信之です。現在ニュージャージー州ハミルトンという、メイウッドから南西70マイルの町に妻と2人の娘たちと2匹の猫たちと住んでいます。どうぞよろしくお願いいたします。

 今回は私の自己紹介を兼ねた証をお分ちしたいと思います。

 私は、広島県広島市の瀬戸内海を望む町で生まれ育ちました。友達との遊び場は海、山、川という大自然。体力や筋力はそこで養われましたし、今でも自然の中にいる時に一番ホッとします。父や友達の影響でスポーツを始め、野球、サッカー、陸上、最後にバスケットボールにハマりました。小中高と全国レベルのチームでプレーしましたが、高校3年の夏に突然原因不明の病気で2ヶ月間の自宅療養となり、激しいスポーツはもう無理だと言われました。受験勉強どころではなく、高校卒業さえ危ういほどでした。それまで毎日が楽しく、好きなバスケや友達に囲まれて充実した日々だったのに、楽しみと喜びを失い心は空っぽになり、無気力でダラダラと過ごす日々へと激変しました。かつての「大学でバスケを続けたい。小学校の先生になりたい。弱い立場の人に寄り添いたい。」という目標や願いは消え去りました。友達との連絡を断って孤立し、罪の誘惑に流されて自分や周りの人を傷つけていくという時間が2年も続きました。

 幼い頃は、教会で多くの時間を過ごしました。両親はアメリカ人宣教師たちを支えながら、広島市内で2つの教会開拓に携わりました。だから教会は数名ほどの小さな群れでしたが、私にとって教会は「もう一つの家」のような大切な存在でした。教会の人たちはみんな優しく、いつも嬉しそうでした。だから私も教会に行くのが楽しみでしたし、「教会は楽しくて良い所」だと感じていました。説教や神学など難しいことは分かりませんでしたが、教会の真ん中におられるイエス様は良い方で、いつも私たちを愛しておられる。イエス様を送ってくださった父なる神様は素晴らしい神様だ。と心から信じていました。しかし中学2年生頃から、幼い時に感じていた事や信じていた事が「実は教会や大人のクリスチャン達の中には無い」と批判的に感じ始めたのです。並行してバスケや友達の方が神様や教会より優先順位が上になり、高校入学後はほとんど教会に行かなくなりました。そんな私を両親は咎めることなく、バスケに全てを注いでいた私を常に応援してくれ、教会に行くことを強要しませんでした。教会の大切さやイエス様を信じることの意味を伝えつつ、どうするかは私に任せてくれました。そうやって私に自由を与えてくれたことを今はもっと感謝しているのですが、まさか数年後に彼らの息子があそこまで堕落するとは夢にも思わなかったことでしょう。私の罪は恐ろしく醜く、自己中心の塊でした。神様を愛するよりも、人を愛するよりも、自分の欲望を満たすことだけを求めていました。例え欲しいものを手に入れても、その結果は余りにも悲惨で、代償は余りにも大き過ぎました。「罪の支払う報酬は死である。」(ローマ6:23)と聖書が言う通り、私は生きるに値しない、死が相応しい罪人でした。

 大学留学のため1990年にニュージャージーに来ました。同年クリスマスに西郷純一・かおる牧師夫妻と出会い、91年10月に開始されたプリンストン日本語教会(PJC)に集い始めました。当時は「私は罪人である」という自覚は全くなく、「俺はダメな奴だけど、アメリカに行けば何か変わるんじゃない?」くらいに考えていました。ちょうどその頃、姉夫婦がJCCNJに集い始めていました。「のぶ君は西郷先生と気が合うようだから、PJCに行けばいいんじゃない?」と姉から勧められた私は、内心(俺、神様も教会も興味ないから。そもそもアメリカ来て何でわざわざ日本語の教会に行くの?)と苛ついていました。でも確かに西郷先生ご夫妻の人柄には惹かれていましたし、不思議なことに「自分の本音」とは裏腹に、(教会に行こう。今行かなければ俺は本当にダメになってしまう。)という思いが湧いてきて、迷わず第一回礼拝に行きました。そしてなんと礼拝メッセージでボロボロに泣いてしまったのです。この御言葉がストレートに心に刺さったからです。「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。」(ルカ10:42)この時、私にとって無くてならぬもの、それはイエス様だとハッキリわかりました。礼拝後、西郷先生に自分の過去について打ち明けました。先生は言われました。「イエス様が栗栖君の罪を背負い、あなたの身代わりに十字架で死なれた。だからあなたはもう死ななくてよいのです。そしてあなたが本当に生きるために、イエス様は甦って今も生きておられます。」私の目から涙が止まりませんでした。その日を皮切りに自分の罪深さが分かり始めました。罪を知れば知るほど心が痛み、本当は生きていてはいけないのだと思いましたが、ますます赦されたことの意味、イエス様の愛の深さ、神様の愛の大きさが心に深く染み込んできて、感謝が溢れました。このプロセスの中で、私にとって教会は再び家となりました。大学のクラスが終わると教会に行って勉強し、そして礼拝の準備や掃除などをしました。牧師に言われたからではなく、そこに喜びと楽しみがあったからです。ただただ「私を愛してくださった神様に感謝したい」からでした。教会を愛し仕えること、それが一番自分らしく感謝を表せる形だったのです。それは幼い時から見て育った、小さな教会を愛して仕えていた両親から受け継いだものでした。また、ずっと前に「小さな子供や弱い立場の人と共に歩みたい」という思いを私に与えて下さった神様の、変わらない召しの現れなのではないかと思いました。間もなく私は、「どんな形でも立場でもいいですから、とにかく教会に仕えていきます」と献身の祈りを捧げました。

 「神の賜物と召命とは、変えられることがない。」ローマ11:29

 「兄弟姉妹たちよ。それだから、ますます励んで、あなたがたの受けた召しと選びとを、確かな者にしなさい。そうすれば、決してあやまちに陥ることはない。」第二ペテロ1:10

 そして98年にフィラデルフィア聖書大学を卒業、クリスチャン&ミッショナリー・アライアンス教団から牧師ライセンスを頂き、PJCおよびニューヨーク日本語教会(現在単立)の副牧師に就任、2000年からPJCの牧師として今日に至ります。その他、東海岸日本語ユースキャンプ “ひがきゃん”(2009〜2020、現在活動休止中)、リーハイバレー日本語教会(2010〜2013)、JCFN協力主事ユース担当(2017〜2019)、コーナーストーン教会日本語部(シカゴ)コンサルティング牧師(2020〜2021)、無牧教会の礼拝説教ミニストリー(2019〜2022)、オリーブの会(ランカスター)ゲスト・メッセンジャー(2021〜現在)に携わってきました。

 さて私がJCCNJに行くようになったきっかけは、91年から97年までJCCNJに集っていた井上義・直子夫妻でした。姉の直子が鈴木ポール宣教師を紹介してくれたことが大きかったです。バスケとユースへの情熱を共有できたこと、彼が「イエス・キリストの愛に応えたいからキリストの弟子になる」と教えてくれたことは衝撃的でした。彼とは月2回、礼拝後に中高生たちとバスケして、ポール師のアパートで集会を持つという働きをすると共に、キリストの弟子として成長することについて個人的に熱心に導いてくれました。ポール師はまさに「イエス様を愛する弟子が、もう一人の弟子を育てる」という愛を実践してくれたのです。私のユースミニストリーの原点はここにあります。

 そして神様は、錦織学先生と出会わせて下さいました。心から尊敬する先輩であり、同労者として多くのことを分かち合い、祈り合うことのできる先生、また互いに夫・父親・男性としての重荷や思いを分かち合い、友として苦しみや試みの時に支え合うことのできる関係を主に感謝します。しかし私が最も感謝していることは、神様が錦織先生に与えておられる「教会への愛と情熱」です。先生の教会に対する真剣な熱い思いに触れる度に目が覚め、襟を正され、原点に引き戻される思いがします。そして「先生を通して働かれる神様の教会を見たい」と思わされるのです。それが、私がJCCNJで皆さんと一緒に歩み、共に教会を建て上げる働きに参加したい、と願う理由の一つです。

 昨年10月にJCCNJの礼拝に久しぶりに参加し、礼拝後に皆さんが交わっている姿を見て、私はただ嬉しくて心が暖かくなるのを覚えました。家に帰ってからも「あの交わりの中にもっと入っていきたいな」とか、「教会の祝福の為に自分に何かできることはないかな」という思いが湧いてきました。そして何年も前から錦織先生と何度も交わしてきた会話を思い出しました。「いつか一緒に働きたいねえ。」「一緒にできたらいいですねえ。」その時(あれ?もしかして今、神様が語っておられるのかな?前に進めってことかな?)と思い、祈り始めました。そして今ここまで、神様が確かに導いてくださったこと、またここから先へと導いてくださることを信じています。

 先日、錦織先生からJCCNJに今年与えられている御言葉を教えて頂きました。

「あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」(ガラテヤ5:13)

 この御言葉は、クリスチャンと教会の原点であると思いますし、実は私自身にとっての原点となる御言葉です。かつて私は、与えられた自由を肉の働く機会として、自分の欲を満たすために使っていました。でもイエス様によって救われ、神の愛によって自由とされたことを知った時、この自由を神と人を愛する為に使いたいと願う者とされました。どうかJCCNJが、イエス様が与えて下さった自由によって、神と人を愛する教会として成長し続けますように。その愛を教会の中と外で実践していくことができますように。私もこれから皆さんと共に成長し、教会の為に何か貢献できればと願っています。どうぞよろしくお願いします!

「私のここまでの歩み」

私は昨年の6月に洗礼を受けました。寄り道もしましたが、ここまで神様に導いていただけたことを心から感謝しています。

私と聖書との最初の出会いは、小学生の頃、疎開させていただいた先が、クリスチャンの家だったことでした。そこではみなさんと一緒に教会に行きましたが、クリスマスなどの催しがとても楽しかったことを覚えています。また、戦争のあとは、母はクリスチャンではなかったのですが、よく宣教師の方をお招きして、お話を聞いていました。その頃、小学生だった私は、一緒に座るようにと言われたのですが、お話もよくわからず、すぐに逃げ出していたことを思い出します。

30代の頃に、一人でアメリカに渡ってきました。友人の家でしばらく居候をしていたとき、NYの友人から、電話があり、彼女の義理の妹がNYで結婚するので、その式に列席してほしいと頼まれて、急遽LAからNYへ参りました。それ以後ずっとNYで生活をしています。あるとき、NYでのルームメイトが付き合っていた男性のところに移ることになり、相手のアパートに引っ越すので、このまま、アパートを借りてほしいと頼まれたのです。そして、そこに一人で住んでいたのですが、あるとき、泥棒に入られました。テレビなど持って行かれてしまったのですが、大きな被害がなくて守られました。しかし、そのアパートからも、私の名前で借りた家でもないので、出なければいけなくなり、どうしようと思っていたときに、私は統一教会に出会いました。

その頃、私は大きな日系の会社の社長秘書をしていました。そこに、統一教会の人が訪ねてきたのです。それは、統一教会の教祖であった文鮮明氏がマジソン・スクエア・ガーデンで大会をするので、そこに日本のエグゼクティブを勧誘するためでした。私は、その訪ねてきた方と親しくなりました。そして、住むところで困っていた私を、統一教会がミッドタウンに持っていたホテルの一室に泊めてもらえることになったのです。そのホテルでは、多くの統一教会の人々が生活をしていました。その時、私は全く宗教に興味がなかったのですが、そこで生活する人々の顔が違うことに魅力を感じ始めていました。大変優しく、きよく見えました。そして、そこで歌われる歌も、若い心が燃やされるもので、また語られるお話も、若い人たちにぐぐっとくるような講義でした。そして、そこを出ようと思ってアパートを探して見つけたのですが、いざ出ようとすると、そこを出るのが怖くなったのです。

それでも、まだ入信するかどうか、迷っていて、いや、もう出ようとも決心した矢先に、「祝福」(合同結婚式)があり、声がかかったのです。しかし、私は、その「祝福」は、もっと長年統一教会員である人でなければ、資格がないと思っていました。そして、その場から立とうとしたとき、それでも、自分を導いてくれたその人の上司にはとてもお世話になっていたし、その方が、「いいから、ただ座っているだけでいいから」と言われたので、その「祝福」を受けることになりました。そして、教祖様の指名する相手と結婚したのです。

私は文先生から「祝福」を受けたときは大変うれしかったです。でも、この「祝福」がうまくいかない人も何組かいました。わたしも例外ではありませんでした。

私たち夫婦は統一教会の中で養女をもらったのですが、アーティストをしていた夫にその娘を預けて、私は仕事に出ていました。その間は良かったのです。しかし、私が仕事を辞めて、家にいるようになってから、関係が壊れていきました。夫は、社会をよくしたいと、次々と文章を書いていました。それが統一教会の教えとはかけ離れたものだったため、統一教会には受け入れられず、それが辛くて、お酒を飲むようになっていったのです。そういうこともあり、私たちは別れることになり、統一教会からも足が遠のくようになりました。

そんな私がニュージャージー日本語キリスト教会に集うようになったのは、クリスチャンの友人に誘われたことでした。最初に書いたように、小さい頃の経験や母の影響等から興味があったので、声をかけてもらったときに、素直に行ってみたいと思いました。

教会に来て、牧師の話を聞き、語られる言葉の指している方向に心が向くようになりました。いろいろな問題にぶつかったときに、何かにすがりたい、導いてほしい、と思いながら、なかなか祈ることができないでいましたが、教会に集う中で、寝る前に祈るようになりました。そして、その祈りに応えて、神様が助けを与えてくださいました。あるときは、大切なものをなくしてしまったときに、「神様、どこにあるか教えてください。見つかるようにしてください」とお祈りしたところ、何度も繰り返し確認していたところにあったことに気がついたのです。その時に、私が信じるべきは、これしかない、いくら抵抗しても抵抗しきれないと感じました。そして、イエス様を救い主として信じていきたいと思いました。私のために十字架にかかり、私の罪を赦してくださるイエス様の恵みに感謝して、洗礼を受けたのです。

洗礼を受けて、私は本当に良かったと思います。それまで、「あーでもない」「こーでもない」と一人で思いわずらっていることが多かったのですが、今では、神様に祈って、神様に委ねて、平安が与えられています。これからも、神様は私の祈りを聞いてくださり、答えてくださることを信じて、歩んでいきたいと思います。

「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」

ピリピ人への手紙4:6-7

証し

日々導いて下さる主に感謝します。

去年からのコロナ禍の影響は大きく、この証を書いている時点でも新種株オミクロンが思いがけないスピードで私たちの生活を脅かし始めています。私自身も不安な日々を過ごしていますが、この度の教会への入会には主のお導きを強く感じています。

この5年近く聖書を読む会やクロッキー、カフェなどのお手伝いをさせて頂いているにもかかわらず、会員としてご奉仕したいという気持ちにはなかなかなれませんでした。日本の母教会を離れたくない気持ちもあり、Maywoodでの教会員としての生活が思い描けなかったのです。しかし、伝道という意思をはっきりと持って活動されている教会員の皆さんのご奉仕する姿を見て、サークル活動の延長のようなかかわり方であってはならないという気持ちが日々強まってきました。そんな時、ある会員の方から「そろそろ主にある家族になろうよ」と、声をかけていただきました。そうか、教会は「主にある家族」なんだということが強く心に響き、だからこそ信じあってともに祈ることが出来るのだと改めて思わされました。悟るに遅い自分の心が決まるよう少しずつ神様は備えて下さり、5年かかりましたが、この教会でご奉仕するように導いて下さったのだと思っています。

私がイエス様と共に歩むようになったのは、おそらく幼稚園の頃通い始めた教会学校からだったと思います。田舎の丘の上にある小さな教会でした。毎日曜日色々な絵がかいてあるみ言葉カードをもらうのが楽しみで、社宅の友達と喜んで通っていました。そのカードを入れた本は宝物でした。クリスマス会の劇やイースターのゲームなども楽しい思い出ですが、イエス様は心の清い人を喜ばれるという思いが、そこを離れてからも子供心にずっと残っていました。

我が家はおそらく祖父の代からクリスチャンだったようで、祖父は節(セツ)、父は羔三(こうぞう)という名をもっています。今は聖書には使われていませんが、羔は“こひつじ”という意味で、おまけに炎をあらわす4つの点の“レンガ”がついています。中学の頃、なんと“生け贄の子羊”ではないかと妙に感心したのを覚えています。祖父たちは明石のカソリック教会に所属していました。

母は、クリスチャンではありませんでしたが、色々な悩みがあるらしく救いを求めていました。PL教団に通っていたこともあり、私も変なお守り袋を首からつり下げさせられていました。しかし、母は東京に戻ってから父と二人で田園調布教会に通うようになり、いつしか洗礼をうけ婦人会でも積極的にご奉仕をしていました。婦人会の集まりもよく我が家で開かれ、私も一緒に牧師のお話を聞いたものでした。

毎日曜日仲良く歩いて教会に行く両親の後姿をみて、いつしか私も自然と教会に足が向くようになりました。大学4年の頃ヨルダン会という青年会に入り、修養会、文化祭など色々な行事をも通して聖書を学ばせていただきました。

ある年の12月、副牧師が洗礼希望者を募っておられました。この時、自分でも不思議ですが、私は迷うことなく手をあげクリスマスの日に洗礼をうけました。「あなたが私を選んだのではない。私があなたを選んだ」(ヨハネ15.16)というみ言葉が心にしめされ、洗礼を受けるということは主が私を選んでくださるということで、なんという光栄な事だろうと単純に思っていました。しかし、そこが主との交わりの出発点で、色々な試練を通して信仰について考えさせられる日々が続きました。

1982年に、夫がポストドクとしてカナダに2,3年の予定で勉強しに来たのですが、そのまま就職したため、来年で北米40年を迎えることになります。私は、しばらくカナダの日系新聞社で働いていましたが、合気道をやっていたときに腰を打ち動けなくなり、約2年はベッドで寝ていました。のちに病名が間違いだったとわかるのですが、当時はパーマネントの身体障害者として認定され5年は座る事もできず、夫が家事一切をこなしてくれていました。このときに重くのしかかってきたのが、「すべてのことに感謝しなさい」、というみ言葉です。この状況を感謝できるのか。痛みで体が硬くなり動けないまま人生が終わるのかどうかも分からず、頼れるのは主人のみという生活の中で祈っても祈っても不安が取り除かれることはありませんでした。幸い信仰を捨てようという思いには至りませんでしたが、長期にわたって癒されないことへの歯がゆさが、祈りとはなんだろうかという疑問を深めていきました。そんな私に、主は多くの信仰の友を与えて下さり、共に賛美をしたり聖書のお話をきいたり、彼女らに支えられて主を中心にした生活を送っていました。そして、いつしか自分の決断として、「この状況をも感謝していこう」、と思うことができるようになり、次に神様が何をして下さるかを期待しながら過ごすようになっていました。いつもイエス様が私とともに歩いて下さっていることにようやく気付いたのだと思います。

日本、カナダ、アメリカと生活の拠点が変わり、色々な試練がありましたが、行く先々でみ言葉から離れることなく祈りながら来れたことは本当に感謝です。今回は神様の導きにより準会員としてご奉仕できるようになり、新しい生活に希望と喜びをもって過ごさせていただけることに感謝しています。

第一テサロニケ5.16-18

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて、感謝しなさい。これが、キリストイエスにあって、神があなた方に求めておられることである。」

証し

私は 1963年11月に奈良県の生駒市に生まれました。大学に入学して親元を離れて、東京で下宿生活するまで、生駒で育ちました。父は、私が小学生の頃にサラリーマンを辞めて自分で会社を興しました。所謂、脱サラで、それ以来、仕事に没頭する日々が続きます。週日は会社に寝泊まりし、土曜日の夜に帰宅、そして、月曜日の朝に出ていくという生活が、私が大学に入学するまで続きました。母は、専業主婦でしたが、父の母(祖母)の影響、そして、父が独立したこともあって、毎朝・毎夕、先祖への御祈祷と般若心経を唱えていました。父の事業の成功祈願がその目的であったと思います。

高校卒業までは、特に生活に困ることも無く、また、大きな失敗や挫折も無く過ごしてきました。大学受験には一度失敗したものの、浪人生活を経て希望の大学に入学し、予定通り4年間 で卒業、そのまま東京で就職することになりました。大学時代も、親から仕送りを貰いながらアルバイトもしていたので、特に勉学や、生活に困るということはありませんでした。将来何 となく海外で仕事がしたいと思って、四谷の英会話学校にも通い、当時海外進出が著しかった自動車会社に就職しました。当時はバブル経済の直前で、円高が急激に進んだため、特にメーカーは採用を絞っていたのですが、幸い就職活動もスムースで、すんなり就職できました。

入社後は、輸出営業に配属され、担当地域はアメリカとなりました。当時は、貿易摩擦が大きな問題となるほど、各社ともにアメリカ市場を重要視しており、仕事も充実していました。就職して4年後にお見合いをして、今の妻と結婚、そして、その3年後にロス郊外にある子会社に駐在派遣されることになりました。会社も勢いがあり、また、アメリカでの車の売れ行きも 良かったため、待遇面でも今の駐在員に比べて、かなり良く、大変恵まれていたと思います。 また、1999 年に長男がアメリカで生まれ、2001 年に帰国し、次男が日本で生まれました。帰国後のキャリアも順調でしたが、2005 年に業務命令で、再度、同じロス郊外の子会社に駐在派遣されることになりました。2005 年当時は、会社の経営が思わしくなく、アメリカの子会社を 立て直す必要があり、それを実行するために、再度派遣されたもので、1 回目の派遣とは異なって、かなり責任が重かったのですが、何とかやり遂げることが出来、その結果、昇進も得られました。2011年に任期終了となり、帰国命令が下ったのですが、子供の教育面のことを考え て、そのままアメリカに残ることを決断、ローカル社員として雇用の切り替えを会社にお願い し、上司、会社の幹部からの理解も得て、特例措置として認められることになりました。これは会社としては、初めて行う極めて例外的な対応で、かなり恵まれた待遇と言えます。

このように、昇進も順調で、待遇面でも恵まれていたこともあって、会社員生活としては、満足しうるものでした。会社の先輩からも「この会社で、お前ほどラッキーな奴はいない」とまで言われ、かなり傲慢な気持ちになっていたのではないかと思います。ただ、一方では、何もかも希望通り行くので、どこかで落とし穴があるのではないかとの気持ちも持っていました。

それが具体的な形となって表れたのが、子供の教育・学校生活の問題でした。子供が 11 年生に なった 9 月に突然、不登校になったのです。彼は、小学生の頃から、授業態度に問題があり、 何度も先生から呼ばれるなどしていたのですが、当時は、何となく気になりながらも、その内、態度も収まってくるだろうと思っていました。学校からの勧めもあって、カウンセリングを受けたりしていましたが、私自身はそれ程、真剣に問題を捉えておらず、相変わらず、大きくなっていけば、その内、問題行動も収まってくるだろうと、たかを括っていました。そして、子供の問題責任を妻のせいにし、徐々に妻との関係も悪くなっていきました。カウンセリングでは、夫婦関係を修復することが大切であると指摘されたのですが、私自身、青少年時代、父親との接触が殆ど無かったにも関わらず、特に大きな問題も起こさず、大学を出て就職し、経済的にも問題ない生活ができているのだから、夫婦関係が原因であるとも真剣に捉えていませんでした。また、子供が問題を起こす度に、学校から呼ばれるのが苦痛で、そのため、彼が問題を起こす前に転ばぬ先の杖として、私が子供の手助けを行うような始末でした。

妻は、2014 年に洗礼を受け、毎週礼拝に通っていましたが、私は特に興味もなく、かといって、反対するわけでもなく、妻が教会に通うのを眺めていました。私が通っていた高校が日本聖公会に所属する学校であったこともあって、特にクリスチャンや教会に対するネガティブな印象もなく、とは言っても、ポジティブな気持ちもありませんでした。ところが、子供の問題が大きくなってから、教会の牧師先生を始め、教会の信者の方々から色々なアドバイスを妻が得るようになり、しかも、それが通り一遍のものではなく、信者の方々の経験などにも基づく、我々夫婦に寄り添ったアドバイスばかりでした。特に、当地での日本人社会はせまく、他人の問題が噂話になるようなことを見聞きしてきた私にとって、身内の問題はあまり話したくないと思ってきたのですが、教会の方々との触れ合いが深まるにつれ、自分のプライドは捨てても、本当に助けて貰いたいという気持ちが高まってきたのです。

毎週通いだした礼拝での聖書朗読、牧師先生のメッセージに触れ、これまでの私の奢った態度、姿勢、気持ちが徐々に砕かれていくのがわかりました。マタイによる福音書11章28節の「すべて、疲れた人、重荷を負っているひとは、私のところに来なさい。私があなたがたを休ませてあげます」との一節に私は素直にすがりたいという気持ちで一杯となりました。

子供の不登校の問題が発生して以来、教会の礼拝に通うことが私の心の救いになったことに加え、夫婦で話す機会が増えました。これまでの私の奢った考え方を悔い改め、妻との関係ももう一度構築し直し、そして一致協力して子育てをやり直すことにしました。妻とはよく話し合った結果、長男を取り巻く環境や、彼の心身の状態を鑑み、彼を日本に帰国させ日本の学校でもう一度やり直す機会を与えることにしました。また、私の両親、妻の両親の健康状態も考え、2017年の夏に、我々家族も一度日本に帰国し、新たな生活環境の下で、家族、そして両親、みんなで助け合いながら生活することにし、仕事については、父親の事業をサポートすることにしました。そして、2017年5月14日に、アーバイン日本語教会の杉村牧師に導かれて、信仰告白を行い、帰国直前の同年7月19日に受洗しました。

日本に帰国後は、家内の実家近くの千里摂理教会(日本改革派教会)の客員会員となり、新たに日本での信仰生活を始めました。また、子供も実家近くの高校(インターナショナルスクール)に無事転校することが出来、新たに日本での学校生活を始めることが出来ました。子供は、まだ救われていないのですが、両親がクリスチャンになった影響もあってだろうと思うのですが、自ら、実家近くの別の教会(箕面国際教会、大阪大学に通う留学生や、外国人教授たちが中心となった教会)に時々通いだし、青年部の活動なども行うようになりました。そこで出会った教会員の方々にもアドバイスを貰いながら、何とか高校を卒業することが出来ました。主が働いてくださったものと感謝しています。

子供が苦労して高校を終えた後、生まれ育った米国でもう一度、学生生活を送りたいと望み、 親としては不安がありながらも、自立する必要性も認識し、再び、米国に送り出しました。それが、丁度2年前のことです。

我々夫婦は、もう二度と米国で生活することは無いと思い、家内は永住権を放棄しました。私は、子供の学費のことも考慮し、永住権をキープ、2 度再入国許可書を取得していました。2 度目の再入国許可書は今年の3月末が期限でしたが、渡米して手続きするのも面倒で、かつ、長期間休暇も無理なので、3月末で切れれば、その時点で永住権を放棄する予定でした。

ところが、昨年の9月にヘッドハンターから突然コンタクトがあり、ある会社が米国現地子会社の代表者を求めているが興味が無いかとの話が舞い込んできたのです。条件としては、来年3月末までに渡米し(再入国許可が失効する直前)、転職することでした。父親が90歳と高齢で、取引先、従業員含め、誰もが私が家業を正式に継ぐと思っていたので、その話に興味がありながらも相当悩みました。

ただ、子供たちが米国で生活し、日本に戻る意志が無いことを知っていたので、家族が一緒に 近くで生活出来ることを最優先に考えれば、この転職機会は、またとないベストの選択であることは確かです。しかし、そのためには、私が渡米する前に家業を処分することが必須で(父親の年齢を鑑み)、それが実行できる自信はなく、全てを主に委ねることにしたのです。10月にその転職話を取り敢えず受諾することにし、11月から急遽会社の売却を進めることになりました。そうしたところ、ある会社が私の条件、即ち、「3月までに売却手続きを全て完了させること」を承諾し、積極的に、かつ、友好的に売却手続きを進めることが出来たのです。通常、会社の売却には最低でも半年以上、こじれると1年程度は覚悟しなければならないのですが、無事、今年の2月(条件の3 月よりも一か月も早く)に売却が完了し、余裕を持って3月に渡米することが可能となりました。周りの誰もが、こんなにスムースに売却が進むのはあり得ないと言っていましたが、主に全てを委ねた結果の主のご計画によるものだと信じています。しかも、赴任地が、日本人があまり生活していない中西部ではなく(私の前職の自動車業界では、中西部地区に関連企業が多い)ニュージャージーで、この日本語教会に招かれたことも主のご計画の一つであることに間違いありません。

これから先の人生の歩みがどのようなものになるかは、全く想像がつきません。実に昨年の今頃は、子供たちのいる米国で再度生活するなど考えも及びませんでした。幸いにも子供のお陰で、家内と私は、救いを得て永遠の命を授かることが出来ました。これからも全てを主に委ね、主のご計画の下、信仰人生を歩んでいきたいと願っています。最後に私の好きな聖書の御言葉を記して、終わりにしたいと思います。

エレミヤ書29章11節

「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」

終わり

「コロナ禍の中でも」

2020年1月に海外での新型コロナウイルス感染症のニュースを知り、買い物に行くにも緊張の日々が始まりました。それは、私自身、喘息の既往があることや過去(2009年)のH1N1ウイルス(豚インフルエンザ)感染症の流行時にクリニックで仕事をしていた時の状況を思い出したからです。実際に街中で風邪の症状の人は多く見受けられましたが、アメリカでの新型コロナ感染者は2020年1月30日のニュースではまだ数人・・・と。でも、『世界を往来する多くの人々が住むニューヨークの側で感染者がいないはずはない!』と思いました。そして、当時、ワクチンや治療薬はもちろん、気軽な検査の手段もない状況下、私どもの教会は、感染症の予防を優先して、州政府などの規制が始まる前の2月の終わりから、礼拝以外の集会は中止にして、礼拝だけはYouTubeでビデオ配信をするようになりました。その後間もなく、近所や知人からの情報でも新型コロナ感染により悲しい知らせを耳にするようになったのです。ニューヨーク州、ニュージャージ州の感染者の数、重症者、死亡者の数が急激に増え、どうか、教会の方々が守られますようにと、皆で必死に祈りました。

そのような中、ニュージャージー日本語教会では、3月半ば頃からZoomにより集会や祈祷会も持てるようになりました。慣れるまで、中心になってご奉仕される方々はご苦労も多かったと思います。コロナ前は考えられなかったことです。Zoom祈祷会では安否確認と情報交換、聖書の学び、祈り会がとても励ましの時となってきました。悲しいニュースが多い中、Zoomでお会いすると、ホッとしました。普段教会に集まれるのはニューヨークとニュージャージー北部在住の方々ですが、Zoomでは遠方へ移られた方々とも画面上で顔を合わせて交わることができます。

インターネットを用いての礼拝も、YouTube、Facebook Live、Zoomなどを用いてささげてきましたが遠方からも数多くの方々が、参加し、私たちを励ましてくださいました。

このニュージャージーで、出会い、教会の交わり、奥様会など、一緒に大笑いしてのおしゃべり、聖書の学びや涙のお祈り、本当に励まされ、信仰の友として、私にとって大きな存在の方がおられました。そのご家族がご帰国されたことは、本当に寂しいものでした。ああ、もうここには居られない・とお住まいだったお家の側を通っても実感し寂しかったです。そんな時、なんとその方がZoomでの祈祷会に参加してくださいました。時差のため日本とアメリカは夜昼逆転ですが、参加してくださることによって、また顔を合わせて祈れるのです。また一緒に大笑いしたり、一緒に心を合わせて祈れるのです。ああ、信仰の友はどうしてるかな?またZoom祈祷会で会えるかな?私の考えを超えて神様は不思議なようにZoom祈祷会の喜びを与えてくださいました。正直なところ、夜の祈祷会で、Zoomの画面上でウトウトしてしまい、「のりこさーん起きてますかー?」と声をかけられ恥ずかしいこともあるのですが、それでも笑顔で見守ってくださる方々と一緒の時間が嬉しいのです。

今はワクチンが進み、教会堂を貸してくださっている現地の教会が滅菌フィルターを入れてくださったことによって、マスクをしながらですが、礼拝や集会が対面で持てるようになりました。主を中心とした交わりの喜びを再確認しています。

マスクを外して共に賛美したり、皆さんと愛餐会で交われる日が早くきますように、心から願います。

また、毎週の礼拝メッセージはYouTube で見ることができます。

しかし、木曜日の祈祷会に限ってはZoomです。

どうぞこの祈りの輪の中にいらしてみてください。

「ふたりまたは三人が私の名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。」                           (マタイ18章20節)

信仰及び受洗そして今回の転入会にあたっての証

努力するものは報われると信じて疑わず、子供時代から猪突猛進してきましたが、30歳直前のあるとき努力ではどうにもならないことが世の中に存在する、という初めての挫折経験をしました。それをきっかけに心身共に苦しい日々を送るようになりました。失敗やそれにまつわる全てを自分の中で消化できず許すこともできず、ただ後ろ向きな考えに満たされながら鹿児島に住む家族、心を許していた数少ない友人達に支えられながら過ごしていました。

その中の一人である、遠く離れたミラノで救われて、当時日本に一時帰国しクリスチャンとして過ごしていた高校時代からの友人が、時を間もなくして私と同様の困難にぶつかったのです。諸事情により、実家住まいであった鹿児島、そして彼女の家族から離れて、横浜で一人暮らしをしていた私の家にて、短期間だけ滞在することとなりました。

短い同居期間、彼女は私のように苦しみもがき同じ場所でじたばたせず「このことを受け入れて神様に委ねて行こうと思う」と話しながら、私から見ると明らかな失敗と思える状況を受け入れており、そのことについて話す際には感極まったり涙を流すこともなく、夜は聖書を開きながら静かに過ごしていて、私の目にはゆっくりと前進していく姿を見ることになりました。

なぜ同じことをこんなに違うように受け止められるのだろうかと、彼女の姿を通して探究心が芽生えながら、メールなどでやりとりする中にて、マタイによる福音書 7:3 『あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、何故自分の目の中の丸太に気付かないのか』 という御言葉があり、被害者意識で自己憐憫ばかりの重い気持ちでいたのに、ハッと目が覚める思いがしました。そして同時に視線が変わったことで心の重苦しいものが減ったように感じました。

もっと聖書のこと、神様のこと、愛とは何か知りたいと思うようになりました。

その友人を通じて帰省時に鹿児島市の丘の上にある単立鹿児島シティチャーチ(勝郁也主任牧師)の日曜礼拝へ足を踏み入れました。

エレミヤ29:11-12『わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。』

礼拝の中で神様は生きておられる、この方についていけばこの先大丈夫な気がする、と思うようになり横浜に戻ってから少しずつ聖書の言葉に触れるようになりました。

聖霊の働きかけと導きが備えられ、イエス様の十字架によって新しく生まれ変わりたいと思うようになり、2008年12月4日、故芳賀正牧師先生(東京フリーメソジスト小金井教会元牧師、当時イタリア・ミラノ賛美教会協力牧師)のもとイエス様を心にお迎えし共に歩んでいく決意をしました。

その後仕事のため住んでいた横浜市にあるアッセンブリー教団港南シオンキリスト教会にて受洗の道が備えられ2009年8月23日野川悦子牧師先生より洗礼を授けて頂きました。

野川先生には年の離れた姉のように信仰生活・教会生活を手取り足取りご指導いただき仕事でも絶好調、信仰・教会生活も大いに充実した生活を送っていましたが、時は流れ、夏休みにひとり旅で訪れていたNYの地にて夫と出会い結婚することになりました。

別居婚を続けていましたが主が奇跡を与えてくださり子を授かりました。祈りつつ歩む中で日本での仕事を辞め息子と3人で暮らすように道が一つずつ備えられていきました。

渡米後、夫と同じ教会に転入会することを話す機会があり主から授かった息子に信仰を継承してことが夫婦のミッションであることで一致し、親子クラスをきっかけとして通うようになったニュージャージー日本語キリスト教会へ、今回転入会を希望致しました。この新しい地にて気持ち新たに信仰の土台を固く築いてまいりたいと思います。

「証し」

どのようにクリスチャンになったか

わたしは、1996年の1月11日にカリフォルニアのサンロレンゾで小嶺家の長男として生まれました。クリスチャンホームで育ち、サンロレンゾに住んでいる間は家族でSan Lorenzo Japanese Christian Churchに通っていました。物心がついたころには、教会学校に参加していて、両親や教会の先生と聖書を読み始めていました。夏休みになると、日本に遊びに行く機会もあり、祖母の家の近くの金沢中央教会にも訪れていました。

2006年の12月に父の転勤でカリフォルニアからバージニアへ引っ越し、地元のアメリカンチャーチに通い始めました。そこでも教会学校やバケーションバイブルスクールに参加し、2009年の10月に自分の意志で洗礼を受ける決断をしました。自分が罪深い人間であり、イエス様の救いが必要だと気付き、人生を捧げ一生をかけて神様の後をついて生きようと思いました。その後、高校の卒業と同時に教会の青年会に加わり、ユースプログラムや主日礼拝のオーディオ、ビデオ系のご奉仕もするようになりました。

どのようにJCCNJのメンバーになったか

去年の年末にToyota Motor North AmericaのNew York Region Officeに就職が決まり、他の二人の新入社員と連絡を取り、三人でルームシェアをする事になりました。オフィスの先輩方にニューヨークやニュージャージーの賃貸物件事情のアドバイスを聞き、ジャージーシティーやホーボーケンを勧められ、ジャージーシティーのアパートを借りる選択をしました。その後、ネットで「Japanese Churches in New Jersey」を検索し、ジャージーシティー近辺の教会の情報を集めたうえでJCCNJに行ってみたい!と思いました。

4月中旬には引っ越しの荷ほどきも終え、JCCNJに訪れてみました。その頃は、ジムでのin-person礼拝が再開して二週間目と伺い、教会のみなさんに会えてとても感激しまた。礼拝後は錦織先生をはじめ、かおるちゃんや咲ちゃん、萌子ちゃんや小林兄弟に暖かくウェルカムされ、安心と嬉しさでいっぱいだった事をよく覚えています。それからはJCCNJに続けて通いたいと思い、ご奉仕もしたいと考えていました。数週間前に錦織先生と教会員についてお話も聞かせていただき、教会員のセミナーに参加してからは正式にJCCNJのメンバーになり、教会のみなさんと信仰を深め、JCCNJを通して神様のために仕えたいと決めました。

「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」マタイの福音書5章16節

「重荷」

我が家の姓を名乗る者は現在この世に11人しかおりませんが、歴史をたどると美濃の斎藤龍興の家臣に行きつくそうです。今現在も岐阜県本巣市真正町に「小柿」と言う名の集落があり、その南に居を構えたので「みなみこがき」との姓を授かったとのことです。安土桃山時代に斎藤家から姓を授かった証跡として家紋は今でも「下り藤」を使用しています。
この名字は江戸時代の間に訛ってしまって戸籍上では「みながき」と読むものの、漢字の「小」は残ったままとなりました。
江戸時代は医者の家系だったらしく、曽祖父の祖父は解体新書を翻訳した杉田玄白と同じ時代に生き、刑死人を解剖したデッサンを絵巻物に残して今現在も「解剖存真図」として原本が慶應義塾大学の図書館に保管されています。
曽祖父も元々は医者でありましたが、今を遡ること西暦1847年に洗礼を受け、その後に牧師となりました。それ以来途切れることなくクリスチャンホームが受け継がれてまいりました。
新島襄が現在の同志社大学を創立した当時になりますが、曽祖父も「教立学院・きょうりゅうがくいん」という名の学校を創立しました。残念ながら当時の会計にお金を持ち逃げされたとかで、大変な苦労があったとのことです。敬虔なクリスチャンの祖母は、この話になると『あの学校があれば今頃は・・・』とか『あの会計はろくな死に方をしていない』と言うものですから、私の心の中では食事の前に必ず祈りを捧げる祖母の姿とのギャップには驚いたものです。

クリスチャンホームに生まれると言う事は、私の父にとってみると『本人の意思とは関係なく幼児洗礼を受けさせられ、時機が来たら信仰告白させられる』と定義されるものだったらしく、息子たちには決して洗礼を受けさせようとはしませんでした。

私の母はもともと曹洞宗の檀家の家庭に生まれましたが、中学から大学までミッション系の学校に進み、自ら進んで信仰の道に入りました。所属する武蔵野教会(東京都豊島区目白)では最近まで長老職を務め、信仰を全うすると言う事は相応の覚悟が必要であるとの考えを持ち、これまた息子たちに洗礼を受けさせることに関してハードルを設けていたように思います。

ここまで書かせて頂くと、何故、題名が「重荷」なのかうっすらとお判りいただけますでしょうか。

まず、私がクリスチャンを初めて意識したのは親族が教会員である武蔵野教会そのものです。私自身にとっては「イースターとクリスマスにご挨拶に行くところ」でしたが、子供心には礼拝の1時間は長くつらいイメージを持っておりました。
いつの日でしたか、熊野義孝牧師の説教を録音されていた方がいて、その方が何かの拍子に録音機を床に落としてしまい、教会堂の中を大音響で怪しげな音楽が再生されてしまったことがありました。弟と二人で教会の席上、笑いをこらえるのに一苦労、母もその耐える姿を見て必死に笑いをこらえる…50年近く昔の話で、今でも母との思い出話に出て来ますが、私の教会に対する印象は「笑ってはいけない重い場所」でした。

改めてクリスチャンを意識したのは42年前の高校1年生の時です。
1年生時から第二外国語を学ぶ高校に進学し、私はドイツ語を選択しました。その高校は3年間クラス替えなし、かつ担任の先生も同じという学校でした。担任の先生はドイツ哲学の大学教授で高校ではドイツ語を受け持たれておりました。授業はその日の学習範囲のドイツ語和訳で始まります。担任の先生は和訳者をランダムに指名するのですが、偶然にも私が指名された時の和訳箇所が「主の祈り」のドイツ語でした。
予習の段階で迷うことなく「主の祈り」を丸暗記していましたので、突然に指名されても淀みなく訳すことが出来ました。訳し終えた途端に担任の先生から『ミナガキ君はクリスチャンか?』と聞かれ『家族はそうですが自分は違います』と答えたはずでした。しかし高校の3年間ずっと、担任の先生は(ドイツ哲学専攻ということもあり)ホームルームなどでなにかにつけ『ミナガキ君はクリスチャンとしてどう思う?』と聞かれました。今思えば、担任の先生が「主の祈り」を指名したのも、疑いもなくイエス様のお導きなのですが、当時の自分にとっては「重荷」を背負った始まりでした。

次に意識したのは31年前の結婚式の時です。
当時の結婚式は仲人を職場の上司にお願いする形式が主流でした。然し両親の希望もあり、披露宴の前に結婚式場に誂えられた簡易なチャペルにて、武蔵野教会の椿憲一郎牧師の前で誓いを立てました。何人かの友人は著名で立派な教会堂で式を挙げる者もおり、ホテルの一室で牧師先生に式をお願いしてしまったのは如何なものかと、思い続けてきました。これまた今思えば、信仰の心があれば場所はどこでも良いと気づきましたが、こんなことも「重荷」だったのかもしれません。

父方の伯父・伯母たちも皆クリスチャンでしたが、その配偶者は必ずしもそうではありませんでした。その血のつながっていない伯父の一人に、戦前の旧制中学でエースピッチャーとして甲子園でベスト4、準決勝で大連商業に敗れたという逸話を持つ伯父が居ました。その後、マスコミの世界では知られた存在となりましたが、今から20年前、亡くなる寸前に「病床洗礼」を受けたという話に驚きました。そんな方法もあるのか!と。
ところが、「自分は病床洗礼でいいや」との考えが強化されてしまったのが、2018年8月に参加した武蔵野教会の有志「オリーブの会」が主催する修養会に参加してからでした。本来であれば修養会を経験すると信仰への思いは強くなるのでしょうが、私の場合は逆方向に作用した様です。この修養会は例年、水上温泉にある日本バイブルホームにて2泊3日の日程で行われます。当初は、大学の夏休みでロンドンから一時帰国する私の長女の為に私の母が案内書を持って来たのですが、何故か私だけが参加することになりました。
修養会では小グループに分かれて「マタイによる福音書」を読み合せました。何のタイミングだったかは、はっきりと覚えていないのですが、『伯父が亡くなる前に病床洗礼を受けたのだが、もったいないと思う』と発言したところ、同じ小グループの中で企業人として先輩の方から『いやいや、今読んだばかりのマタイによる福音書の第20章のぶどう園の労働者の話にもあるように、最後に来た者にもイエス様は最初に来たものと等しく愛してくださる』とお聞きし、却って「病床洗礼」に安堵する、今思えば「重荷」をそっと地面に置いた未熟な自分が居ました。

2018年10月、現在勤務する会社からの命を受けてニュージャージーに赴任しました。通算して19年以上に亘ってシンガポールに2回、ロサンゼルスと上海に駐在しましたが、母からは必ず『現地で通う教会を探しなさい』と言われ続けておりました。過去の駐在員生活では業務多忙に加え、偶々会社の同僚に誘われた教会では、信者さんたちがずっと不思議な踊りを踊り続けている、等なかなか思い描く教会に通うチャンスを見出せませんでした。
ニュージャージー日本語キリスト教会を知るきっかけになりましたのは、銀行勤務時代の先輩と錦織学牧師とがFacebookで繋がっていたからに過ぎませんでした。2019年のクリスマス礼拝には、正直申し上げて習慣的に礼拝に参加させて頂きました。そして世界がパンデミックに陥り、Zoom礼拝という流れになるのですが、実はその直前にもう一つの「重荷」が私の目の前に現れたのです。
2020年2月2日の主日礼拝に参加、月初めなので聖餐式が持たれた時の記憶です。未成年が葡萄酒を飲んではならないもの、と子供の頃は勝手に心の整理を付けていましたが、洗礼を受けていなければ聖餐式に参加できない、と言う事実がこの礼拝時には改めて「重荷」として心に残ったのです。自分は「病床洗礼」の日までこのままでよいのだろうか、と。

Zoom礼拝は「イースターとクリスマスにご挨拶に行くところ」という私の固定観念を崩すには十分でした。とりわけ錦織学牧師の子供のための説教、まるで天から楽器が降ってくるかのような力強いお声が毎回楽しみでなりませんでした。ここで登場人物が何の野菜だったかはすっかりと失念しましたが、『自分が本当に洗礼を受けても良いのか?』というシーンがあり、バイブルおばさんの温かい回答に心が開かれるような気持ちになりました。これを契機にして「病床洗礼」ではなく「今でしょ!洗礼」に変わったのです。イエス様が私の「重荷」を共に背負ってくれると確信したのです。

洗礼を受けた後の心境ですが、以前から、欧米人や中華系の方がたと仕事をしていく中でキリスト教或いは聖書という共通の価値観を理解して付き合っていきたいと考えてました。そのために聖書の勉強の機会を探していましたが、英和辞典をAから暗記するのと同様、旧約聖書を最初から読んで挫折したことがあります。洗礼を受けた現在も引き続き課題ですので、錦織学牧師のご指導の下で勉強をして参りたいと考えております。そしてなによりも、これまでクリスチャンホームとして147年の歴史を次世代にもきちんとバトンタッチできるよう、信仰生活を大事にして参りたいと思います。

最後になってしまいましたが、錦織学牧師に9回にも及ぶZoomでの学びの場を設けて頂きましたこと、感謝いたします。そのなかで文章を読んだだけで心に光が差した思いがした聖句を書き記します。

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)
For God so loved the world, that He gave His only begotten Son, that whosoever believeth in Him should not perish, but have everlasting life. (John 3:16)

自己顕示欲の絵描き、クロッキー教室 

23年前の個展がきっかけで渡米する事になった。その頃の国際電話の料金は高額だったし、日本のテレビ番組は朝夕に1時間づつだけの放映だった。インターネットは通じていても日本語でのコミュニケーションはなく、私が当時通っていた語学学校では「Only English」と英語での会話を推奨されていて、日常生活での日本語にとても飢えていた。ニューヨークに来て初めて見つけたアパートのすぐそばに偶然にも日米バイリンガルの教会があり、学生時代以来の日曜日に行くようになり、そして礼拝後は教会でランチを食べて帰るのが習慣になっていた。ランチはドーナッツの日もあるが時々手作りカレーの日もあり、とても嬉しかった。幼稚園の時に暗唱した「主の祈り」があったり、中学1年の時に通っていたクリスチャンスクールでの讃美歌を聞いた時は懐かしさもあり、涙が出そうになった。

私が、ニュージャージー日本語教会に来たのは新緑の美しい季節だった。ニューヨークへの無料送迎があると聞き、週末にお隣の州まで行くことが出来るという事も楽しみとなった。

ニューヨークでの生活もだいぶ落ち着いてきたと同時にこの刺激的な都会の生活をこの勢いで続ける現実の厳しさも実感できるようになった頃だった。ニュージャージーには充実した日本食スーパーがあると聞いても、一人暮らしの私にとってはマンハッタンの小さな日本食スーパーでの買い物で充分だったし、バスに乗って知らない土地に行くという事もおそろしかったので、川を渡ったニュージャージーという地域に行った事がなく4年が過ぎていた。

ニュージャージーの教会は私の中での教会とは全然違っていた。知っている讃美歌はひとつもなく、しかもギターや太鼓などの伴奏がつき、時には手拍子もでてきて愕然とした。しかも何曲も続く。今までは教会での讃美歌はオルガンかピアノでの静かな伴奏しか聞いたことがなかった。子供が多い地域だからしょうがないのかなあとも思いながら、歌詞を読みながら心を合わせようと努力していた。その頃にこの地域に住む男性と結婚をする事になり教会だけではなく私の知らない世界に飛び込む事になった。

結婚相手には中学生の娘さんがいた。どうやって会話が成り立つのかがわからず、英語で話してみると「日本語でいいよ」と短い返答がり、子供達は、お稽古事もお遊びもすべて親の送り迎えで移動している不思議な世界だった。お母さん達の会話には知らない単語が多く、パラマスパークがモールの名前でバンサンパークは公園だったり、8年生?シニア?ジュニア?サフモア?ベイビーシャワ?はじめて聞く言葉はどういう意味なんだろう。育児、セール、ダイエット、レシピ、お菓子、メイク、韓ドラ、その会話の中には私は入れなかった。スマホもないし慣れない土地での車の運転で買い物に出かけても道に迷い家に帰るのにもくたくたになった。

ぎこちない生活の中で気ままな独身生活が恋しくなり、月に一度はニューヨークの教会に行きたいと言い出して夫を付き合わせたりもした。自分の落ち着いた時間はどこにあるのだろうと地下のアトリエに籠る事が多くなっていた。

夫の仕事がどんなに遅くなっても娘は夕飯を食べるのを待つと言い、時には9時を過ぎても待つこともあった。そして毎日必ず夕飯の前には家族で「こうして3人で夕飯を食べれる事に感謝します。」と一緒に祈る。この祈りのおかげで少しづつ本物の家族っぽくなっていった。

母親らしい事は何もできない私が、教会の集まりに行った、奉仕をした、と娘に伝えるととても嬉しそうな顔をしてくれる。私だって皆様と交流はしたいのです。

教会にはイースター、感謝祭、愛餐会と色々な行事があり主婦の皆様はお得意の料理の持ち寄りで豪華な食事会になる。我が家は夫が料理担当なので私の出番はなくて良いのだが、家庭集会という平日の昼間にある集会にもレベルの高い手作りのご馳走とデザートがふんだんに並ぶ。もちろん持って来られない人は無くてもよいので、私は果物などを持参する事もあるのだが、だんだんと足が遠ざかっていった。

何か私にできる奉仕はないかと、牧師先生と相談して「絵のクラス」を初めてみるのはどうでしょうか?と提案してみた。牧師先生は自分は絵が苦手で子供の頃に評価された時の傷がまだあるという事だった。絵なんて面倒さくて描きたくない人が、楽しめるクラスを目指します。クロッキーとはフランス語で素描、短時間での描写ドローイングの事なのだが、抽象画あり空想画あり、色々な角度から絵を身近な楽しみとして生活に取り入れてもらいたいと思う。1時間ほどの実技の後には牧師先生による聖書のお話がある。午前中のクラスで昼に終わるのだが、昼食は基本持って来ないで下さい、私がサンドイッチを作りますと張り切って2008年の7月に「ぐるぐるっと線を描いてみましょう」と5人の生徒でクロッキー教室は始まった。その中にはちょうど学校の休みだった娘もいた。

私は「先生」というキャラクターではない。学生時代美術の教育実習の時にオートバイで中学校に行って教頭から激怒されたり、美大受験に何度も失敗した経験もある。個性が強すぎると会社をクビになった事もある。だから絵が思うように描けない気持ちはわかるし、それぞれの感性にあった絵を描く楽しさを伝えられるような気がした。そしてこの地域において育児に追われるお母さん達が気分転換になったり、転勤でアメリカ来て生活に慣れない人に交流の場所になったり、牧師先生の聖書の言葉で元気になったり、教会へ興味を持ってくれたら良いなあと理想は高くなった。自分が子供の頃転校ばかりしている時に「描く」という事で自分の気持ちと向かい合えた事や、教会に行き神様に出会い、そして素敵な人達に沢山出会えてこんなに世界が広がって楽しくなったよという経験をこの地域の皆様に伝えたいと思ったからだ。

小さい子供達と交わる機会が今までほとんどなかった私だが、クロッキー教室に子供達が来るのが楽しみになった。子供達はお母さんと一緒に絵を描くのもよし、寝ているのもよし、時には子供達がモデルになった。

赤ちゃんは首がしっかりするまでは抱っこする時に気をつけることや子供はよく熱を出すのだという事も知り、お母さんという仕事の大変さと尊さを身近に感じることができた。驚いたのはお母さんの中にはパスポートの更新の時にしかニューヨークへ行かない人もいた。こんな皆様にニューヨークの活気あるアートの世界美術館や画廊の話も伝えたいとも思った。

メンバーも変わりながら何年かが過ぎた。電車の中で知らない子供に向かって笑顔で話しかけたり、お母さんに向かって「おいくつですか?」なんて聞いている自分にびっくりした。以前の自分には想像もできない事だ。

そうは言っても週に2日はニューヨークの画廊に通い、行かない日には自宅で画廊のウェブ更新や事務仕事をして、時間を見つけて自分の制作作業をして個展や展覧会に出す絵を描く生活、主婦業はしていなくても時間に追われてイライラしてしまう事もあった。

仕事の帰りに空腹でスーパーでクラスの為のサンドイッチの食材を購入するために並んでいる時。15人前ものサンドイッチを用意しても3人しか現れなかった時、絵を学びたいと思っている人は誰もいないみたいだと感じた時、睡眠時間が欲しい時。

私は今まで作品を制作する為に色々な事を犠牲にして自分の事を中心に生きてきた。自己顕示欲のアンテナを鋭く磨き弱みを見せずに自分を肯定してきた。しかし共同生活や慣れない絵の先生業での中には壁やストレスを感じ、その感情に自己嫌悪や憤りを抱く事もあった。そんな時は真っ白なキャンバスを眺める事、そして祈る事にした。神様はそんな時こそたくさんのギフトを下さった。

クロッキークラスの参加者が素敵な作品を描きワクワクする時、絵を描くのが怖くなくなったと言われた時、抽象画が少し解ってきたと言われた時、お昼に提供していたサンドイッチが美味しいと褒められた時、手作りケーキの美味しさに感動した時、皆様と一緒に大笑いした時。神様は色々な個性的で素敵な人を送ってくださる。

昨年からクラスはオンラインになり、慣れない準備に時間がかかる事になった。久しぶりでワー大変だ!と思ったが、今まで以上の喜びも感じた。近くに住んでいても一度も来なかった人が来始めたり、ニュージャージーを離れた人が画面に現れたり、日本からの参加者もあったり、13年という経験も強みになった。オンラインでの一方通行を緩和させる為に1人づつ個人的にも声をかけたりしはじめた。何か好きな絵がありますか?なんで絵が嫌い?身体動かしてる?夕飯何作った?そんな会話は今ではとても楽しい。そして私の描く絵もカラフルになってきた。

 

「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」(詩篇55:22)。

 

82歳で救われた母と神様のご計画

2017年のイースターに82歳で洗礼を受けた私の母は、戦時中に子ども時代を送り、教師になり、結婚してからも3人の子供を育てながら、退職するまでずっと、元気で頑張りよく働きました。”神様が本当なら世の中に病気や戦争や不幸なことはないわ“とよく言っていました。

私たちがニュージャージーに住み始めたころには退職しており、父も亡くなっていたので、一人で何度も来てくれました。私と娘はクリスチャンでJCCNJに通っていたので、日曜日には私たちと一緒に教会に来て、教会の皆さんとも仲良くなり、こちらに来るたび教会に行くのを楽しみにしていました。

あるとき自転車で出かけた母は、教会の前を通りがかり、教会の扉が開いていて中に牧師先生が立っていらしたので、中に入ってお話をした。これが母が自分で教会に行き始めたきっかけです。NJの教会がとても楽しくて、自分も教会に行きたくなったそうです。毎週自転車でまじめに通い、教会であったことなどよく電話で話してくれました。

そのうち自転車で通うのが難しくなってきたので、もっと近くにある教会に行くようになりました。そこは、母が子供のころに近所の子供たちと行ったことがある教会でした。昔はアメリカ人の牧師さんがいて、子供たちが行くとお菓子をもらえたそうです。その教会に昔の同級生夫妻が他県から転入して来たりして、再会を喜んでいました。

そんな中、80歳の夏に突然片目が見えなくなり手術を受けました。81歳の秋には、年の近い叔母を病気で亡くしショックを受け、自分も転倒で骨折、手術、入院と辛いことが続きました。牧師先生や教会の方たちが祈り励ましお見舞いしてくださいました。それまで、教会に行くけれど洗礼は受けないと言っていた母でしたが、クリスチャンの同級生夫妻にも勧められて、洗礼を受けることを決めました。洗礼を受けてからも、病気や手術、ケガなどいくどもありましたが、そのつど皆さんに祈られて守られてきました。昨秋介護施設に入りましたが、その少し前まで、母は毎週教会に通っていました。自力で教会に通えなくなってからは近所の教会員の方が車に乗せてくださいました。

86歳になった母は、つい最近も誤嚥性肺炎で病院に運ばれましたが、回復して退院しました。今はコロナ禍で介護施設も面会ができませんが、母がこうして守られているのも、神様が母をご計画の中に入れてくださっているからだと思います。

もう50年以上前のことですが、東京でクリスチャンとなっていた父方の伯父から、九州のミッションスクールに赴任するので、東京から九州に引っ越す途中で私たちと会いたい、と連絡があり、家族5人で名古屋まで会いに行ったことがあります。

伯父の勧めで、父は私と妹をカトリックの日曜学校に通わせました。小学校時代の1年半あまりの教会の思い出が、20年以上たって私を洗礼に導いてくれました。その9年後に娘、19年後に夫、そして23年後に私の母が、クリスチャンになりました。神様のなさることは私の考えや時間を超えて実現するのだと知りました。

伯父には一度会ったきりです。自分のまいた種がこうしていくつもの実を結んだことを知らないまま、伯父ももう天に召されているかもしれないと思いますが、私のイエス様との出会いの出発点は伯父です。

私の周りには、妹弟をはじめまだイエス様を知らない人たちがたくさんいます。その人たちに神様がどんなご計画を持っていらっしゃるか、私にはわかりませんが、一人でも多くの人がイエス様に出会い、重荷を下ろして平安をいただき、神の家族になるように、私も種をまいていきたいと思います。

 

“私は、あなた方のために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。”(エレミヤ書29:11)

“神を愛する者たち、つまりご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。”(ローマの信徒への手紙8:28)

「生かされている意味」

2011年3月11日に発生したあの東日本大震災から10年という年月が流れました。津波や原発事故など、かつてない被害をもたらし、その痛みは10年を経ようとする今も、多くの被災者やご遺族らの生活や心に残っていることと思います。日本から離れて暮らす私も、毎年3月11日が近づくにつれ、様々なことを思い巡らしながら、心がざわざわするような気持ちで過ごしていました。10年前のあの日、実際にあの場所にいて震災を体験してはいませんが、ふるさとを、そして多くの友人や知人を仙台に持つ者として、痛みと悲しみを心の片隅にしまいながら歩んで来たように思います。特に今年は世間で言われている「区切りの年」でもあるからでしょうか、自分の心に深く迫ってくるものがありました。【震災当時の話は2011年5月号の月報(http://jccofnj.org/「今が救いの時」/)に書かせて頂きましたので、もし宜しければご一読下さい。】

東日本大震災を思う時に、いつも頭に浮かぶのが、自分が子どもの頃に体験した宮城県沖地震(1978年6月12日の17時14分に発生したマグニチュード7.4、震度5の地震)のことです。もう40年以上前の出来事なので、細かいことは忘れているとは思うのですが、それでも私の中で今でも鮮明に覚えている光景であり、おそらく初めて私が「神様は本当に生きておられる!」と感じた経験でした。

6月の初夏、まだ外は明るく、いつもなら近所の友達と外で遊んでいる時間帯でしたが、その日に限ってなぜか家の中で一人で過ごしていました。夕方5時を少しを回った頃、小さな揺れ(震度2)を感じ、急いで家のベランダの扉を開けました。仙台は地震の多い地域なので、それが習慣になっていたのだと思います。外を見ても何事もない様子でしたので、そのまま扉の側に寄り添いながら、当時流行っていた消しゴムで遊び続けました。それから8分後、地響きのような「ゴーーー」と言う音が床の下から聞こえてきたかと思うと、カタカタと電気の傘が音を立てて左右に大きく揺れ動き、瞬く間に家の中がぐわんぐわんと揺れ出しました。それはまるで船の中にいるかのよう(子どもの頃によく乗った青函連絡船が悪天候の中、大波を受けて大きく揺れる感覚)でした。そして、「あっ!」と思った瞬間には(スローモーションがかかったような長い時間にも感じられたのですが)目の前にあったタンスと直ぐ後ろにあった本棚が倒れ、私の上に覆い被さってきたのです。「下敷きになる!」と心の中で叫び、目を思いっきりつぶりました。おそらく揺れがおさまってからだと思うのですが、恐る恐る目を開けた私の前に見えたのは、タンスから出たいくつもの引き出しでした。そして、頭にも体にも物が当たっておらず、何の痛みがないことにも気がつきました。先に倒れたタンスの中から飛び出した引き出しがタンスを支え、その後に私の背後にあった本棚がタンスの上に倒れてきたのです。私は倒れたタンスと本棚の下にぽっかりとできた不思議な三角形の空間にうずくまっていました。まるで誰かが大きな腕を広げて私をすっぽりと包んで守ってくれたかのようでした。それから静かに体をねじりながら、開いていたベランダの扉から外に出ることができました。怪我と言えば、壁に掛かっていた鏡が割れて落ちてきた時に足を切ったくらいで、近所に住む友達のお母さんが直ぐに手当をしてくれました。近所の人達とも安否の確認をし合ったのですが、私が抜け出した三角地帯を何人もの人が見にやって来て、目を丸くして驚いていたことを思い出します。後から自分で見てもゾッとするような光景でした。「もしあの時に前震がなければ、ベランダの扉を開けることはなかっただろうし、扉に近い所に移動することもなかった。あの場所に移動していなければ、別の本棚が自分の目の前に倒れてきて下敷きになっていたかもしれないし、テレビや水槽が飛んできて大怪我をしていたかもしれない。扉が開かず、家の中に閉じ込められたままになっていたかもしれない。。。」などと様々な思いが次から次へと走馬灯のように私の脳裏を駆け巡って行きました。そして「すべて神様が導いて守ってくれたんだ。」と思いました。

地震発生後は電話が通じるはずもなく、両親と連絡を取ることはできませんでした。停電によって交通機関も乱れ、激しい交通渋滞が発生したため、両親が家に辿り着いたのはかなり遅い時間になってからだったと思います。殆どの家具が倒れ、あらゆる物が飛び散り、ぐちゃぐちゃになった真っ暗な家の中で、ろうそくの小さな火の元で両親から聞いたのは「神様が守って下さった。」という言葉でした。地震が起きた時、父は会社の倉庫に行っていたそうです。倉庫には何百個という重い機材が入った大きな箱が積み上げられていました。その箱の山が地震の揺れによって崩れ、倉庫の真ん中に立っていた父を目掛けるように四方八方から飛んできたのですが、父が立っていた所だけぽっかりと穴が空いたようになって、上から落ちてきたいくつもの箱が父の足の10センチ四方手前でピタッと止まったと言うのです。その同じ時刻に、仕事帰りの母は仙台駅近くのデパートに寄っていました。前震があった後にデパートから出ようとして正面玄関を通った時に大きな揺れがあり、高い天井から落ちてきた大きなガラスが割れる音を背中に聞きながら外に逃げ出すことができたそうです。あと1秒遅くあの場所を通っていれば、大量のガラスの破片を頭に浴びていたかもしれません。

「主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。」詩篇121篇5~8節(聖書)

人生において、誰もが「ただの偶然」とは思えないような出来事を経験することがあるかもしれません。私はあの日、自分自身の体験を通して、また両親が体験した話を聞いて「これは単なる偶然ではない。神様は本当に生きておられ、私達のことを心に留められ、導いて下さる方である。」ことを確信しました。そして、神様が私を守り生かされたことの意味、自分が生きていることの意味を考えるようになりました。

10年前の震災では本当にたくさんの方が命を落とされました。おそらく多くの方がそう思われたように「神様がいるのなら、どうしてあのようなことを許されたのだろう?」と私自身も幾度となく自問しました。私には100%の答えが与えられている訳ではありませんが、今わかることは、神様は人間が悲しむことを望んでおられないということ、私達の痛みをご存知であり(神様ご自身も愛する我が子を十字架の死に至らせるために、深い痛みと苦しみを経験されたのですから)その痛みを癒し慰めて下さるお方だということです。たとえ今、苦しみや試練の中を通っているとしても、神様はその重荷を共に背負って歩んで下さるお方です。そして、私達一人一人のために素晴らしい計画を持っておられ、すべてを最善へと導かれると約束して下さっています。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」ローマ人への手紙8章28節(聖書)

 「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」コリント人への手紙 第二1章4節(聖書)

私達が人生の歩みの中で様々な苦難に直面するのは、私達がかつて経験し、それらを通して神様の慰めを頂いた時と同じように、苦難の中にいる人々を慰めるためなのかもしれません。その慰めの中心には、主イエス·キリストがおられます。イエス様はあらゆる苦難をその身に負ってくださいました。私も主から慰めを受けた者として、周りの方々の心に寄り添い、慰め励ます者とさせて頂きたいと願っています。また、神様に助けられ生かされた者として、神様が自分に与えて下さった使命を全うするために歩み出して行きたいと思います。

コロナで夫が重症化して受けた愛

 その日は突然やって来ました。2020年の年末も夫は建築の仕事に追われていました。

 夫の仕事場で2人体調が悪く休む様になり、年始早々に夫も咳が始まり、その後会った友人も具合が悪くなりました。そして私も熱が2日続き、次々に体調が悪くなるのを見て、これはコロナかもと思い1月4日の月曜日に私はコロナの検査を受けに行きました。行くのもしんどくて大変でしたが、Paramus BCC内のドライブスルーでやってる駐車場で、寒いのに年始から外でマスクと手袋をして、あちこちに立ってるスタッフ達を見て、何とも言えない感謝で感動しました。中にはご年配の方も働いておられました。リスクを追いながらー5℃の中、優しくテキパキと対応して下さり、Bergen County 在住者には無料で検査して下さいます。大家族には助かりました。帰って結果を家で待っていましたが、このしんどさはきっとコロナだと確信していました。身体中が悲鳴をあげる程痛かったのです。3時間後に電話がかかって来ました。予想通り陽性でした。

 家族6人をそれぞれの部屋で隔離させました。そして症状前に会っていた友人や義理姉夫婦に伝えてPCR検査に行ってもらいました。それがコロナの不安なところで、心配ばかりして精神的にも辛い日々でした。結果、次男と長女が陰性だったので、その日からグローブをし家族の食事を各ドア前に運んでくれ、薬を買いに行き、家事の全てをしてくれました。衛生上プラスチックフォークと紙皿を買って来てくれて一人でベッドの上で食べる食事。キッチンに行けばウィルスをまいてしまうので部屋にこもる2週間でした。家族に会えず最初はスープしか喉に通らず味覚と嗅覚を失い味気なく、まるで刑務所にでもいる様な気持ちになり涙が出て来ました。

 その週は毎日誰かのコロナ結果が出て、長男、末っ子、義理姉、友人2人も陽性結果でした。ものすごい感染力です。家族の中で同じ陽性でも咳が酷かったり、それぞれ症状が違い寝る時間も違ったので、主人、子供達4人共に各寝室から出ず、オンライン授業に切り替えてコロナ中も授業を受けていました。9歳の末っ子はママを1日に何十回、ハグもいっぱいしたい子なので良く一人で色々出来たなと思っていたのですが、彼自身もコロナが怖いというのをニュースで聞いていたので近づきませんでした。

 そんな中、主人がERに行きたいと言いました。咳が酷く40℃以上(105°F)の熱が3日続き、ドクターとのZoomで処方の薬を頂いていましたが、全く効きませんでした。救急車は高額なので長男と私でハッケンサック病院に連れて行き、付き添いはコロナで入れないので外で別れをしました。もう咳がひっきりなしに止まらない中、家族を頼むと言った夫の言葉にお互い涙ぐんでしまいました。待合室は真っ白でビニールが一面にかかり誰も入れず異様な雰囲気の写真が送られて来ました。コロナウィルスが目に見えたらいいのに、一人で心細いだろうな、と思いながら家に着くと他の子供達も心配して寝ずに待っていました。『とってもいい病院だから大丈夫だよ。もう寝よう。神様が守ってくれるよ』と言い聞かせて私も今夜は寝れそうだと思っていました。この1週間、自分も完治してない所に、主人を夜中2時間おきに様子を伺ったり薬の時間だったり、コロナにかかった友人達のことを思うと全く寝れてなかったのです。倦怠感もあり、動くのもやっとで自分も寝たきりでした。

 ベッドに入った所に主人から連絡があり『レントゲン撮った結果、返されることになった。迎えに来て欲しい』と。またすぐ車で迎えに行き、家でのコロナとの闘いとなりました。多くの入院患者がいて、かなり重症でないと入院させてもらえないのです。

 子供達が学校やスポーツに行ってなかったので、順番に知れ渡り、近所の人や教会の人が多くのメッセージ、励まし、手作りの大ご馳走、お花、果物、レストランのギフトカード等届けて下さり、祈って下さり、愛を沢山受けて辛い時期を助けて頂きました。必要以上のものを満たして下さり、誰も偏見の目で見ることはなく、それどころか、これほど多くの方に祈ってもらったのは初めてで、夫も自分自身も祈ることしか出来ないので神様と近い関係にいられて全てをお任せしていました。そしてその中で最も神様が働いて下さったのは、夫は10人兄弟でアイルランドに育ち22歳からアメリカに住んでるので長い間、疎遠になっていた兄姉や小さい頃遊んでた友人が連絡してくれました。きっかけを作って下さったのです。

 喜びもつかの間、更に事態は悪くなる一方でした。ERに行って戻って来た3日後の午後、呼吸困難になり、毎日測っていた酸素数値が82になり、救急車を呼びその時はあっという間に連れられ、お別れも出来ないまま入院になりました。もうコロナ症状発症から10日経っていました。今まで家族全員が風邪を引いてても元気な夫。疾患もなくタバコも私が長男を妊娠した23年前に辞めていました。身体資本の建築業で55歳。そんな夫が重症化するとは誰もが予想しておらず、ナースにもそれがコロナの怖い所だと言われました。入院次の日に抗体のある輸血をするとドクターから電話があり、驚きました。そこまで悪いのか?日本語で検索してもそんな新しい治療はされておらず、日本の従姉妹のナースに聞いてもやってないと言われ、また不安になる中、主人から輸血直前に連絡があり、ナースが『マッチングするのが難しい中、こんな大きなバッグが与えられて貴方は本当にラッキー』と言われたと聞いて、まさに多くの方の祈りが届いて神様が与えて下さったと思わされました。

 日本ではコロナになってから針を刺すのに抵抗があり、献血者が少ないとニュースを目にしました。それもそうです。コロナになった方が献血してくださった方がいたとは凄い事ですよね。友人のお父さんで抗体輸血plasma infusion受けた方が抗体輸血3日後には凄い成果が出て元気になって1週間後に退院したそうです。それを聞いて安心して期待していましたが、裏腹に、どんどんその後状態は悪くなり、2日目にはトイレに行ったら酸素数値が下がり、座るのも危険な状態で常にうつ伏せでいなければなりませんでした。酸素マスクは常に付けたままで周りには他の患者が咳やうめき声が聞こえ、ナースは走り回っています。コロナ病棟にいること事態怖かっただろうと思います。そしてこの日に主人は目を閉じたら明日は起きられるか分からないと思ったそうです。死はそこまで来ていました。3日目には丸一日連絡が途絶え、夜やっとメッセージが届いたと思ったら一言 “ tough day” ドクターからもこの日は連絡がありませんでした。

 私は寝ることが出来ず、明け方から物凄い恐怖に襲われました。夫や私の家族には心配かけるので言えず、錦織牧師先生に全ての状態を伝える事が出来て一緒に祈って下さったのが大きな支えでした。この朝ドクターと話すことが出来たものの、後2日この状態が続けばライフサポートが必要になる。人工呼吸器です。肺の全体にコロナがいるとの事でした。夫を失うかもしれない恐れ、不安、心配で胸が痛く、締め付けられ、余りにも早い展開に心がついて行けずうろたえるばかりでした。この日1月12日は結婚24周年記念日でした。うつしてしまった友人の誕生日でもありました。彼女は自分が感染したことで、小さな子どもたちも家からオンライン授業を受けなければならず大変そうでした。そして、もう一人のかかった友人も赤ちゃんがいて授乳と食事作りとで心苦しく申し訳ない気持ちでいっぱいでした。色々な想いがよぎり、辛く苦しい日になりました。そんな中、主人の姉も救急車で運ばれました。結局検査して5時間後にまた返されて夜中に迎えに行きました。もうこれ以上辛いことがないだろうと思うと次の日には更なる事が起こり、自分ではどうしようも出来ないので私のストレスはマックス。精神的に参っていました。助けられたのは『祈ってるよ』というテキストメッセージがアメリカだけではなく日本、アイルランド、イタリアから届いたことでした。神様に家族で祈る日々が続きました。そして祈りは天に届き、夫の命を救って下さいました。体がコロナに勝ち始めたのです!輸血もきき始めた様です。入院12日間後、ナースの拍手と共に車椅子で退院する事が出来ました。ナースの優しさ、素晴らしさは入院中も聞いていたので感謝で胸がいっぱいでした。

Welcome back サインが書かれた家族の待つ家に帰ってきました。7kg痩せて声も小さく弱々しくI am a survivor  と夫は涙しながら病院での事をゆっくり話してくれました。子供4人達もハグしてお父さんの居なかった間どうだったかの話をしました。娘は大泣きしていました。今までの緊張の糸が切れた様でした。驚く事にコロナ発症から8週間、肺のダメージを受けたので未だ完治はしておらず抗生物質を飲んで居ますが、ゆっくりと回復しています。他のかかったメンバーは皆、治りました。コロナの中も家族を強めて下さり、友人らの愛を教えて下さり健康の大切さを分からせて下さり感謝します。私達はコロナに負けない。明日はどうなるか分からない今日を大切にし、コロナの中、千羽鶴を折ってくれた友人夫婦の様に愛を行動で表わせる人になりたいです。

 

『恐れるな。私はあなたと共にいる。たじろぐな。私があなたの神だから、わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手であなたを守る。』(イザヤ41:10)

 

毎晩子供と一緒に手を合わせ世界中のみんなの心身の健康をお祈りしています。

 

神さまからのプレゼント〜父との祈り〜

私の両親は典型的な日本の仏教徒です。

私は、両親の救いは、長い間、毎朝祈ってはいましたが、召される直前にでも、イエス様を受け入れてくれるか、私のとりなしの祈りによって、天国にいけたらいいなーと思っていました。

しかし、2018年7月、父が召されるひと月前に、私は父と心を一つにして祈ることができました。主が私の日々の祈りをお聞きになったのです。

父は、私を、生涯、とても可愛がってくれました。私も、父が大好きでした。

あの祈りがなければ、あっという間の、父の死は、私には、受け入れがたいものだったと思います。今、父が天国にいることを覚えて、平安でおります。

また、未知なる所だった天国は、愛する父との再会を期待する、親しみ深い所になりました。

そのお祈りのこと、加えて神様が私になさった善いこと、お計らいをお話ししたいと思います。

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両親は、80歳をすぎても、年齢に比べてとても健康だと言われていました。

旅行によく出かけ、日常は、電車に乗るより、自転車で用事を済ませるような夫婦でした。

しかし、父は、2016年に階段から落ちて、加えて、緑内障も進み、視界が狭まり、怖くて外出する機会が減り、筋肉が落ちて行きました。

そんな話を聞く頃、我が家の長女が2018年5月に大学を卒業する予定で、夫も何年も日本に行っていなかった為、私たち家族は、その正月に、アジアに旅行に行く計画を立てました。

私たちと20年近く、旅行をしていない両親とも、一緒に箱根に行くことにしました。

旅行が決まった後、気がついたのですが、その日は、偶然、父の誕生日で、私たち家族とともに旅行先で誕生日を祝うこととなりました。

―それが父の最後の誕生日となりました。

5ヶ月後、長女が大学を卒業し、友達と日本を旅行し実家を訪れると、父がとても弱くなったと、私に伝えて来ました。母と話すと要介護2になったということ、私はすぐに日本に行きました。

私はひと月強、実家に滞在しました。

初めの頃は、父は、自分でトイレに行き、ご飯を食べ、動けてもいました。

頭は、以前のままで、記憶力もしっかりしていて、体だけが弱ってしまっていたので、いつも、“情けないなあ”と、言っていました。私はその姿を見ては、心を痛めていました。

ある日曜日に、母たちに用事があり、私が父と2人で過ごすことになりました。

その日、教会礼拝に行けなかったので、私は、父と一緒にお祈りをしようと思いました。

両親が、昔、カリフォルニアの家に遊びに来たときに、Japanese Christian Church of Walnut Creekの礼拝に出席したり、信仰の友らの家族と、食事を何度かした際には、お祈りを一緒にしましたが、父と2人で祈るのは初めてです。

もし、一緒に祈ることを断られたらどうしよう、と思いながらも、勇気を出して、“今日は日曜日で、普段は、私は、教会に行くのだけれど、今日は行かないから、一緒にお祈りをしてくれる?”と聞きました。

父は、“はい”と答えました。

“お祈りの最後には、一緒にアーメンと言ってね“と言い、シンプルな祈りを始めました。

父は、始めはただ、聞いていました。

少し経つと、父が大声で”アーメン“と叫び出しました。

普段は穏やかで、大きな声を出すタイプではありません。

また、この頃には、声はか細くなり、普段は、父の顔の近くに耳を寄せて、彼の話を聞くようにしていました。

その父が、言葉の合間合間に、”アーメン“と大きな声で叫び、父の部屋の中は、不思議な空間になりました。

私は、涙がぼろぼろ出てきて、膝に落ち、祈り終わった後は、何も言うことができませんでした。

私が部屋から出終わるまで、その後で父が、”アーメン、アーメン、アーメン“となんども繰り返していました。

私は自分の部屋に戻ってから、しばらく呆然としました。

聖霊様のご臨在を実感しました。

何を祈ったのか、全く覚えていません。

ただそれは、まさしく、父と、心を一つにして、神様に祈りを捧げたときでした。

延命治療はしない、点滴もしない(手から試みたのですが、血管が細くなりすぎて、体の中に入っていかず、病院で、首から入れると言われて、父が断りました)、自分の口から、普通にご飯を食べて、自分の家で最後を迎えるーと言う、父の意思を尊重して、日々、過ごしていきました。

私が帰国する頃には、自分で食事は取れず、食欲もかなり落ち、体もとても細くなっていました。

これからしばらくは、寝たきりの状態になるのかなと思いながらも、おしゃべりもしっかりしていましたし、まさかこれが最後の別れになるとは思わずに、私は、父に、“また来るからね、元気でね”と言って、アメリカに帰りました。

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一月後、お昼ご飯に、大好きなスイカを、食べようとして、そのまま意識不明になりました。

母は、本当に突然だったと言っていました。

母が、主治医に電話をすると、先生はお昼休み中で、たまたま実家近くにご飯を食べにきていたので、すぐに駆けつけてくれました。先生が看取ってくださったので、自宅での死亡でしたが、解剖の必要もありませんでした。

父の死後の顔は、とても穏やかで綺麗でした。最後まで平安だったのだなと思いました。

どこまでも憐れみ深く、愛のお方、全てを最善へと導かれるお方、その主の御手の中に守られながら、主の元へと発って行った父は、本当に、本当に、幸いです。

詩篇236

命のある限り恵と慈しみはいつも私を追う。

主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。

アーメン