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証し

日々導いて下さる主に感謝します。

去年からのコロナ禍の影響は大きく、この証を書いている時点でも新種株オミクロンが思いがけないスピードで私たちの生活を脅かし始めています。私自身も不安な日々を過ごしていますが、この度の教会への入会には主のお導きを強く感じています。

この5年近く聖書を読む会やクロッキー、カフェなどのお手伝いをさせて頂いているにもかかわらず、会員としてご奉仕したいという気持ちにはなかなかなれませんでした。日本の母教会を離れたくない気持ちもあり、Maywoodでの教会員としての生活が思い描けなかったのです。しかし、伝道という意思をはっきりと持って活動されている教会員の皆さんのご奉仕する姿を見て、サークル活動の延長のようなかかわり方であってはならないという気持ちが日々強まってきました。そんな時、ある会員の方から「そろそろ主にある家族になろうよ」と、声をかけていただきました。そうか、教会は「主にある家族」なんだということが強く心に響き、だからこそ信じあってともに祈ることが出来るのだと改めて思わされました。悟るに遅い自分の心が決まるよう少しずつ神様は備えて下さり、5年かかりましたが、この教会でご奉仕するように導いて下さったのだと思っています。

私がイエス様と共に歩むようになったのは、おそらく幼稚園の頃通い始めた教会学校からだったと思います。田舎の丘の上にある小さな教会でした。毎日曜日色々な絵がかいてあるみ言葉カードをもらうのが楽しみで、社宅の友達と喜んで通っていました。そのカードを入れた本は宝物でした。クリスマス会の劇やイースターのゲームなども楽しい思い出ですが、イエス様は心の清い人を喜ばれるという思いが、そこを離れてからも子供心にずっと残っていました。

我が家はおそらく祖父の代からクリスチャンだったようで、祖父は節(セツ)、父は羔三(こうぞう)という名をもっています。今は聖書には使われていませんが、羔は“こひつじ”という意味で、おまけに炎をあらわす4つの点の“レンガ”がついています。中学の頃、なんと“生け贄の子羊”ではないかと妙に感心したのを覚えています。祖父たちは明石のカソリック教会に所属していました。

母は、クリスチャンではありませんでしたが、色々な悩みがあるらしく救いを求めていました。PL教団に通っていたこともあり、私も変なお守り袋を首からつり下げさせられていました。しかし、母は東京に戻ってから父と二人で田園調布教会に通うようになり、いつしか洗礼をうけ婦人会でも積極的にご奉仕をしていました。婦人会の集まりもよく我が家で開かれ、私も一緒に牧師のお話を聞いたものでした。

毎日曜日仲良く歩いて教会に行く両親の後姿をみて、いつしか私も自然と教会に足が向くようになりました。大学4年の頃ヨルダン会という青年会に入り、修養会、文化祭など色々な行事をも通して聖書を学ばせていただきました。

ある年の12月、副牧師が洗礼希望者を募っておられました。この時、自分でも不思議ですが、私は迷うことなく手をあげクリスマスの日に洗礼をうけました。「あなたが私を選んだのではない。私があなたを選んだ」(ヨハネ15.16)というみ言葉が心にしめされ、洗礼を受けるということは主が私を選んでくださるということで、なんという光栄な事だろうと単純に思っていました。しかし、そこが主との交わりの出発点で、色々な試練を通して信仰について考えさせられる日々が続きました。

1982年に、夫がポストドクとしてカナダに2,3年の予定で勉強しに来たのですが、そのまま就職したため、来年で北米40年を迎えることになります。私は、しばらくカナダの日系新聞社で働いていましたが、合気道をやっていたときに腰を打ち動けなくなり、約2年はベッドで寝ていました。のちに病名が間違いだったとわかるのですが、当時はパーマネントの身体障害者として認定され5年は座る事もできず、夫が家事一切をこなしてくれていました。このときに重くのしかかってきたのが、「すべてのことに感謝しなさい」、というみ言葉です。この状況を感謝できるのか。痛みで体が硬くなり動けないまま人生が終わるのかどうかも分からず、頼れるのは主人のみという生活の中で祈っても祈っても不安が取り除かれることはありませんでした。幸い信仰を捨てようという思いには至りませんでしたが、長期にわたって癒されないことへの歯がゆさが、祈りとはなんだろうかという疑問を深めていきました。そんな私に、主は多くの信仰の友を与えて下さり、共に賛美をしたり聖書のお話をきいたり、彼女らに支えられて主を中心にした生活を送っていました。そして、いつしか自分の決断として、「この状況をも感謝していこう」、と思うことができるようになり、次に神様が何をして下さるかを期待しながら過ごすようになっていました。いつもイエス様が私とともに歩いて下さっていることにようやく気付いたのだと思います。

日本、カナダ、アメリカと生活の拠点が変わり、色々な試練がありましたが、行く先々でみ言葉から離れることなく祈りながら来れたことは本当に感謝です。今回は神様の導きにより準会員としてご奉仕できるようになり、新しい生活に希望と喜びをもって過ごさせていただけることに感謝しています。

第一テサロニケ5.16-18

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて、感謝しなさい。これが、キリストイエスにあって、神があなた方に求めておられることである。」

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証し

私は 1963年11月に奈良県の生駒市に生まれました。大学に入学して親元を離れて、東京で下宿生活するまで、生駒で育ちました。父は、私が小学生の頃にサラリーマンを辞めて自分で会社を興しました。所謂、脱サラで、それ以来、仕事に没頭する日々が続きます。週日は会社に寝泊まりし、土曜日の夜に帰宅、そして、月曜日の朝に出ていくという生活が、私が大学に入学するまで続きました。母は、専業主婦でしたが、父の母(祖母)の影響、そして、父が独立したこともあって、毎朝・毎夕、先祖への御祈祷と般若心経を唱えていました。父の事業の成功祈願がその目的であったと思います。

高校卒業までは、特に生活に困ることも無く、また、大きな失敗や挫折も無く過ごしてきました。大学受験には一度失敗したものの、浪人生活を経て希望の大学に入学し、予定通り4年間 で卒業、そのまま東京で就職することになりました。大学時代も、親から仕送りを貰いながらアルバイトもしていたので、特に勉学や、生活に困るということはありませんでした。将来何 となく海外で仕事がしたいと思って、四谷の英会話学校にも通い、当時海外進出が著しかった自動車会社に就職しました。当時はバブル経済の直前で、円高が急激に進んだため、特にメーカーは採用を絞っていたのですが、幸い就職活動もスムースで、すんなり就職できました。

入社後は、輸出営業に配属され、担当地域はアメリカとなりました。当時は、貿易摩擦が大きな問題となるほど、各社ともにアメリカ市場を重要視しており、仕事も充実していました。就職して4年後にお見合いをして、今の妻と結婚、そして、その3年後にロス郊外にある子会社に駐在派遣されることになりました。会社も勢いがあり、また、アメリカでの車の売れ行きも 良かったため、待遇面でも今の駐在員に比べて、かなり良く、大変恵まれていたと思います。 また、1999 年に長男がアメリカで生まれ、2001 年に帰国し、次男が日本で生まれました。帰国後のキャリアも順調でしたが、2005 年に業務命令で、再度、同じロス郊外の子会社に駐在派遣されることになりました。2005 年当時は、会社の経営が思わしくなく、アメリカの子会社を 立て直す必要があり、それを実行するために、再度派遣されたもので、1 回目の派遣とは異なって、かなり責任が重かったのですが、何とかやり遂げることが出来、その結果、昇進も得られました。2011年に任期終了となり、帰国命令が下ったのですが、子供の教育面のことを考え て、そのままアメリカに残ることを決断、ローカル社員として雇用の切り替えを会社にお願い し、上司、会社の幹部からの理解も得て、特例措置として認められることになりました。これは会社としては、初めて行う極めて例外的な対応で、かなり恵まれた待遇と言えます。

このように、昇進も順調で、待遇面でも恵まれていたこともあって、会社員生活としては、満足しうるものでした。会社の先輩からも「この会社で、お前ほどラッキーな奴はいない」とまで言われ、かなり傲慢な気持ちになっていたのではないかと思います。ただ、一方では、何もかも希望通り行くので、どこかで落とし穴があるのではないかとの気持ちも持っていました。

それが具体的な形となって表れたのが、子供の教育・学校生活の問題でした。子供が 11 年生に なった 9 月に突然、不登校になったのです。彼は、小学生の頃から、授業態度に問題があり、 何度も先生から呼ばれるなどしていたのですが、当時は、何となく気になりながらも、その内、態度も収まってくるだろうと思っていました。学校からの勧めもあって、カウンセリングを受けたりしていましたが、私自身はそれ程、真剣に問題を捉えておらず、相変わらず、大きくなっていけば、その内、問題行動も収まってくるだろうと、たかを括っていました。そして、子供の問題責任を妻のせいにし、徐々に妻との関係も悪くなっていきました。カウンセリングでは、夫婦関係を修復することが大切であると指摘されたのですが、私自身、青少年時代、父親との接触が殆ど無かったにも関わらず、特に大きな問題も起こさず、大学を出て就職し、経済的にも問題ない生活ができているのだから、夫婦関係が原因であるとも真剣に捉えていませんでした。また、子供が問題を起こす度に、学校から呼ばれるのが苦痛で、そのため、彼が問題を起こす前に転ばぬ先の杖として、私が子供の手助けを行うような始末でした。

妻は、2014 年に洗礼を受け、毎週礼拝に通っていましたが、私は特に興味もなく、かといって、反対するわけでもなく、妻が教会に通うのを眺めていました。私が通っていた高校が日本聖公会に所属する学校であったこともあって、特にクリスチャンや教会に対するネガティブな印象もなく、とは言っても、ポジティブな気持ちもありませんでした。ところが、子供の問題が大きくなってから、教会の牧師先生を始め、教会の信者の方々から色々なアドバイスを妻が得るようになり、しかも、それが通り一遍のものではなく、信者の方々の経験などにも基づく、我々夫婦に寄り添ったアドバイスばかりでした。特に、当地での日本人社会はせまく、他人の問題が噂話になるようなことを見聞きしてきた私にとって、身内の問題はあまり話したくないと思ってきたのですが、教会の方々との触れ合いが深まるにつれ、自分のプライドは捨てても、本当に助けて貰いたいという気持ちが高まってきたのです。

毎週通いだした礼拝での聖書朗読、牧師先生のメッセージに触れ、これまでの私の奢った態度、姿勢、気持ちが徐々に砕かれていくのがわかりました。マタイによる福音書11章28節の「すべて、疲れた人、重荷を負っているひとは、私のところに来なさい。私があなたがたを休ませてあげます」との一節に私は素直にすがりたいという気持ちで一杯となりました。

子供の不登校の問題が発生して以来、教会の礼拝に通うことが私の心の救いになったことに加え、夫婦で話す機会が増えました。これまでの私の奢った考え方を悔い改め、妻との関係ももう一度構築し直し、そして一致協力して子育てをやり直すことにしました。妻とはよく話し合った結果、長男を取り巻く環境や、彼の心身の状態を鑑み、彼を日本に帰国させ日本の学校でもう一度やり直す機会を与えることにしました。また、私の両親、妻の両親の健康状態も考え、2017年の夏に、我々家族も一度日本に帰国し、新たな生活環境の下で、家族、そして両親、みんなで助け合いながら生活することにし、仕事については、父親の事業をサポートすることにしました。そして、2017年5月14日に、アーバイン日本語教会の杉村牧師に導かれて、信仰告白を行い、帰国直前の同年7月19日に受洗しました。

日本に帰国後は、家内の実家近くの千里摂理教会(日本改革派教会)の客員会員となり、新たに日本での信仰生活を始めました。また、子供も実家近くの高校(インターナショナルスクール)に無事転校することが出来、新たに日本での学校生活を始めることが出来ました。子供は、まだ救われていないのですが、両親がクリスチャンになった影響もあってだろうと思うのですが、自ら、実家近くの別の教会(箕面国際教会、大阪大学に通う留学生や、外国人教授たちが中心となった教会)に時々通いだし、青年部の活動なども行うようになりました。そこで出会った教会員の方々にもアドバイスを貰いながら、何とか高校を卒業することが出来ました。主が働いてくださったものと感謝しています。

子供が苦労して高校を終えた後、生まれ育った米国でもう一度、学生生活を送りたいと望み、 親としては不安がありながらも、自立する必要性も認識し、再び、米国に送り出しました。それが、丁度2年前のことです。

我々夫婦は、もう二度と米国で生活することは無いと思い、家内は永住権を放棄しました。私は、子供の学費のことも考慮し、永住権をキープ、2 度再入国許可書を取得していました。2 度目の再入国許可書は今年の3月末が期限でしたが、渡米して手続きするのも面倒で、かつ、長期間休暇も無理なので、3月末で切れれば、その時点で永住権を放棄する予定でした。

ところが、昨年の9月にヘッドハンターから突然コンタクトがあり、ある会社が米国現地子会社の代表者を求めているが興味が無いかとの話が舞い込んできたのです。条件としては、来年3月末までに渡米し(再入国許可が失効する直前)、転職することでした。父親が90歳と高齢で、取引先、従業員含め、誰もが私が家業を正式に継ぐと思っていたので、その話に興味がありながらも相当悩みました。

ただ、子供たちが米国で生活し、日本に戻る意志が無いことを知っていたので、家族が一緒に 近くで生活出来ることを最優先に考えれば、この転職機会は、またとないベストの選択であることは確かです。しかし、そのためには、私が渡米する前に家業を処分することが必須で(父親の年齢を鑑み)、それが実行できる自信はなく、全てを主に委ねることにしたのです。10月にその転職話を取り敢えず受諾することにし、11月から急遽会社の売却を進めることになりました。そうしたところ、ある会社が私の条件、即ち、「3月までに売却手続きを全て完了させること」を承諾し、積極的に、かつ、友好的に売却手続きを進めることが出来たのです。通常、会社の売却には最低でも半年以上、こじれると1年程度は覚悟しなければならないのですが、無事、今年の2月(条件の3 月よりも一か月も早く)に売却が完了し、余裕を持って3月に渡米することが可能となりました。周りの誰もが、こんなにスムースに売却が進むのはあり得ないと言っていましたが、主に全てを委ねた結果の主のご計画によるものだと信じています。しかも、赴任地が、日本人があまり生活していない中西部ではなく(私の前職の自動車業界では、中西部地区に関連企業が多い)ニュージャージーで、この日本語教会に招かれたことも主のご計画の一つであることに間違いありません。

これから先の人生の歩みがどのようなものになるかは、全く想像がつきません。実に昨年の今頃は、子供たちのいる米国で再度生活するなど考えも及びませんでした。幸いにも子供のお陰で、家内と私は、救いを得て永遠の命を授かることが出来ました。これからも全てを主に委ね、主のご計画の下、信仰人生を歩んでいきたいと願っています。最後に私の好きな聖書の御言葉を記して、終わりにしたいと思います。

エレミヤ書29章11節

「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」

終わり

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「コロナ禍の中でも」

2020年1月に海外での新型コロナウイルス感染症のニュースを知り、買い物に行くにも緊張の日々が始まりました。それは、私自身、喘息の既往があることや過去(2009年)のH1N1ウイルス(豚インフルエンザ)感染症の流行時にクリニックで仕事をしていた時の状況を思い出したからです。実際に街中で風邪の症状の人は多く見受けられましたが、アメリカでの新型コロナ感染者は2020年1月30日のニュースではまだ数人・・・と。でも、『世界を往来する多くの人々が住むニューヨークの側で感染者がいないはずはない!』と思いました。そして、当時、ワクチンや治療薬はもちろん、気軽な検査の手段もない状況下、私どもの教会は、感染症の予防を優先して、州政府などの規制が始まる前の2月の終わりから、礼拝以外の集会は中止にして、礼拝だけはYouTubeでビデオ配信をするようになりました。その後間もなく、近所や知人からの情報でも新型コロナ感染により悲しい知らせを耳にするようになったのです。ニューヨーク州、ニュージャージ州の感染者の数、重症者、死亡者の数が急激に増え、どうか、教会の方々が守られますようにと、皆で必死に祈りました。

そのような中、ニュージャージー日本語教会では、3月半ば頃からZoomにより集会や祈祷会も持てるようになりました。慣れるまで、中心になってご奉仕される方々はご苦労も多かったと思います。コロナ前は考えられなかったことです。Zoom祈祷会では安否確認と情報交換、聖書の学び、祈り会がとても励ましの時となってきました。悲しいニュースが多い中、Zoomでお会いすると、ホッとしました。普段教会に集まれるのはニューヨークとニュージャージー北部在住の方々ですが、Zoomでは遠方へ移られた方々とも画面上で顔を合わせて交わることができます。

インターネットを用いての礼拝も、YouTube、Facebook Live、Zoomなどを用いてささげてきましたが遠方からも数多くの方々が、参加し、私たちを励ましてくださいました。

このニュージャージーで、出会い、教会の交わり、奥様会など、一緒に大笑いしてのおしゃべり、聖書の学びや涙のお祈り、本当に励まされ、信仰の友として、私にとって大きな存在の方がおられました。そのご家族がご帰国されたことは、本当に寂しいものでした。ああ、もうここには居られない・とお住まいだったお家の側を通っても実感し寂しかったです。そんな時、なんとその方がZoomでの祈祷会に参加してくださいました。時差のため日本とアメリカは夜昼逆転ですが、参加してくださることによって、また顔を合わせて祈れるのです。また一緒に大笑いしたり、一緒に心を合わせて祈れるのです。ああ、信仰の友はどうしてるかな?またZoom祈祷会で会えるかな?私の考えを超えて神様は不思議なようにZoom祈祷会の喜びを与えてくださいました。正直なところ、夜の祈祷会で、Zoomの画面上でウトウトしてしまい、「のりこさーん起きてますかー?」と声をかけられ恥ずかしいこともあるのですが、それでも笑顔で見守ってくださる方々と一緒の時間が嬉しいのです。

今はワクチンが進み、教会堂を貸してくださっている現地の教会が滅菌フィルターを入れてくださったことによって、マスクをしながらですが、礼拝や集会が対面で持てるようになりました。主を中心とした交わりの喜びを再確認しています。

マスクを外して共に賛美したり、皆さんと愛餐会で交われる日が早くきますように、心から願います。

また、毎週の礼拝メッセージはYouTube で見ることができます。

しかし、木曜日の祈祷会に限ってはZoomです。

どうぞこの祈りの輪の中にいらしてみてください。

「ふたりまたは三人が私の名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。」                           (マタイ18章20節)

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信仰及び受洗そして今回の転入会にあたっての証

努力するものは報われると信じて疑わず、子供時代から猪突猛進してきましたが、30歳直前のあるとき努力ではどうにもならないことが世の中に存在する、という初めての挫折経験をしました。それをきっかけに心身共に苦しい日々を送るようになりました。失敗やそれにまつわる全てを自分の中で消化できず許すこともできず、ただ後ろ向きな考えに満たされながら鹿児島に住む家族、心を許していた数少ない友人達に支えられながら過ごしていました。

その中の一人である、遠く離れたミラノで救われて、当時日本に一時帰国しクリスチャンとして過ごしていた高校時代からの友人が、時を間もなくして私と同様の困難にぶつかったのです。諸事情により、実家住まいであった鹿児島、そして彼女の家族から離れて、横浜で一人暮らしをしていた私の家にて、短期間だけ滞在することとなりました。

短い同居期間、彼女は私のように苦しみもがき同じ場所でじたばたせず「このことを受け入れて神様に委ねて行こうと思う」と話しながら、私から見ると明らかな失敗と思える状況を受け入れており、そのことについて話す際には感極まったり涙を流すこともなく、夜は聖書を開きながら静かに過ごしていて、私の目にはゆっくりと前進していく姿を見ることになりました。

なぜ同じことをこんなに違うように受け止められるのだろうかと、彼女の姿を通して探究心が芽生えながら、メールなどでやりとりする中にて、マタイによる福音書 7:3 『あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、何故自分の目の中の丸太に気付かないのか』 という御言葉があり、被害者意識で自己憐憫ばかりの重い気持ちでいたのに、ハッと目が覚める思いがしました。そして同時に視線が変わったことで心の重苦しいものが減ったように感じました。

もっと聖書のこと、神様のこと、愛とは何か知りたいと思うようになりました。

その友人を通じて帰省時に鹿児島市の丘の上にある単立鹿児島シティチャーチ(勝郁也主任牧師)の日曜礼拝へ足を踏み入れました。

エレミヤ29:11-12『わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。』

礼拝の中で神様は生きておられる、この方についていけばこの先大丈夫な気がする、と思うようになり横浜に戻ってから少しずつ聖書の言葉に触れるようになりました。

聖霊の働きかけと導きが備えられ、イエス様の十字架によって新しく生まれ変わりたいと思うようになり、2008年12月4日、故芳賀正牧師先生(東京フリーメソジスト小金井教会元牧師、当時イタリア・ミラノ賛美教会協力牧師)のもとイエス様を心にお迎えし共に歩んでいく決意をしました。

その後仕事のため住んでいた横浜市にあるアッセンブリー教団港南シオンキリスト教会にて受洗の道が備えられ2009年8月23日野川悦子牧師先生より洗礼を授けて頂きました。

野川先生には年の離れた姉のように信仰生活・教会生活を手取り足取りご指導いただき仕事でも絶好調、信仰・教会生活も大いに充実した生活を送っていましたが、時は流れ、夏休みにひとり旅で訪れていたNYの地にて夫と出会い結婚することになりました。

別居婚を続けていましたが主が奇跡を与えてくださり子を授かりました。祈りつつ歩む中で日本での仕事を辞め息子と3人で暮らすように道が一つずつ備えられていきました。

渡米後、夫と同じ教会に転入会することを話す機会があり主から授かった息子に信仰を継承してことが夫婦のミッションであることで一致し、親子クラスをきっかけとして通うようになったニュージャージー日本語キリスト教会へ、今回転入会を希望致しました。この新しい地にて気持ち新たに信仰の土台を固く築いてまいりたいと思います。

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「証し」

どのようにクリスチャンになったか

わたしは、1996年の1月11日にカリフォルニアのサンロレンゾで小嶺家の長男として生まれました。クリスチャンホームで育ち、サンロレンゾに住んでいる間は家族でSan Lorenzo Japanese Christian Churchに通っていました。物心がついたころには、教会学校に参加していて、両親や教会の先生と聖書を読み始めていました。夏休みになると、日本に遊びに行く機会もあり、祖母の家の近くの金沢中央教会にも訪れていました。

2006年の12月に父の転勤でカリフォルニアからバージニアへ引っ越し、地元のアメリカンチャーチに通い始めました。そこでも教会学校やバケーションバイブルスクールに参加し、2009年の10月に自分の意志で洗礼を受ける決断をしました。自分が罪深い人間であり、イエス様の救いが必要だと気付き、人生を捧げ一生をかけて神様の後をついて生きようと思いました。その後、高校の卒業と同時に教会の青年会に加わり、ユースプログラムや主日礼拝のオーディオ、ビデオ系のご奉仕もするようになりました。

どのようにJCCNJのメンバーになったか

去年の年末にToyota Motor North AmericaのNew York Region Officeに就職が決まり、他の二人の新入社員と連絡を取り、三人でルームシェアをする事になりました。オフィスの先輩方にニューヨークやニュージャージーの賃貸物件事情のアドバイスを聞き、ジャージーシティーやホーボーケンを勧められ、ジャージーシティーのアパートを借りる選択をしました。その後、ネットで「Japanese Churches in New Jersey」を検索し、ジャージーシティー近辺の教会の情報を集めたうえでJCCNJに行ってみたい!と思いました。

4月中旬には引っ越しの荷ほどきも終え、JCCNJに訪れてみました。その頃は、ジムでのin-person礼拝が再開して二週間目と伺い、教会のみなさんに会えてとても感激しまた。礼拝後は錦織先生をはじめ、かおるちゃんや咲ちゃん、萌子ちゃんや小林兄弟に暖かくウェルカムされ、安心と嬉しさでいっぱいだった事をよく覚えています。それからはJCCNJに続けて通いたいと思い、ご奉仕もしたいと考えていました。数週間前に錦織先生と教会員についてお話も聞かせていただき、教会員のセミナーに参加してからは正式にJCCNJのメンバーになり、教会のみなさんと信仰を深め、JCCNJを通して神様のために仕えたいと決めました。

「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」マタイの福音書5章16節

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「重荷」

我が家の姓を名乗る者は現在この世に11人しかおりませんが、歴史をたどると美濃の斎藤龍興の家臣に行きつくそうです。今現在も岐阜県本巣市真正町に「小柿」と言う名の集落があり、その南に居を構えたので「みなみこがき」との姓を授かったとのことです。安土桃山時代に斎藤家から姓を授かった証跡として家紋は今でも「下り藤」を使用しています。
この名字は江戸時代の間に訛ってしまって戸籍上では「みながき」と読むものの、漢字の「小」は残ったままとなりました。
江戸時代は医者の家系だったらしく、曽祖父の祖父は解体新書を翻訳した杉田玄白と同じ時代に生き、刑死人を解剖したデッサンを絵巻物に残して今現在も「解剖存真図」として原本が慶應義塾大学の図書館に保管されています。
曽祖父も元々は医者でありましたが、今を遡ること西暦1847年に洗礼を受け、その後に牧師となりました。それ以来途切れることなくクリスチャンホームが受け継がれてまいりました。
新島襄が現在の同志社大学を創立した当時になりますが、曽祖父も「教立学院・きょうりゅうがくいん」という名の学校を創立しました。残念ながら当時の会計にお金を持ち逃げされたとかで、大変な苦労があったとのことです。敬虔なクリスチャンの祖母は、この話になると『あの学校があれば今頃は・・・』とか『あの会計はろくな死に方をしていない』と言うものですから、私の心の中では食事の前に必ず祈りを捧げる祖母の姿とのギャップには驚いたものです。

クリスチャンホームに生まれると言う事は、私の父にとってみると『本人の意思とは関係なく幼児洗礼を受けさせられ、時機が来たら信仰告白させられる』と定義されるものだったらしく、息子たちには決して洗礼を受けさせようとはしませんでした。

私の母はもともと曹洞宗の檀家の家庭に生まれましたが、中学から大学までミッション系の学校に進み、自ら進んで信仰の道に入りました。所属する武蔵野教会(東京都豊島区目白)では最近まで長老職を務め、信仰を全うすると言う事は相応の覚悟が必要であるとの考えを持ち、これまた息子たちに洗礼を受けさせることに関してハードルを設けていたように思います。

ここまで書かせて頂くと、何故、題名が「重荷」なのかうっすらとお判りいただけますでしょうか。

まず、私がクリスチャンを初めて意識したのは親族が教会員である武蔵野教会そのものです。私自身にとっては「イースターとクリスマスにご挨拶に行くところ」でしたが、子供心には礼拝の1時間は長くつらいイメージを持っておりました。
いつの日でしたか、熊野義孝牧師の説教を録音されていた方がいて、その方が何かの拍子に録音機を床に落としてしまい、教会堂の中を大音響で怪しげな音楽が再生されてしまったことがありました。弟と二人で教会の席上、笑いをこらえるのに一苦労、母もその耐える姿を見て必死に笑いをこらえる…50年近く昔の話で、今でも母との思い出話に出て来ますが、私の教会に対する印象は「笑ってはいけない重い場所」でした。

改めてクリスチャンを意識したのは42年前の高校1年生の時です。
1年生時から第二外国語を学ぶ高校に進学し、私はドイツ語を選択しました。その高校は3年間クラス替えなし、かつ担任の先生も同じという学校でした。担任の先生はドイツ哲学の大学教授で高校ではドイツ語を受け持たれておりました。授業はその日の学習範囲のドイツ語和訳で始まります。担任の先生は和訳者をランダムに指名するのですが、偶然にも私が指名された時の和訳箇所が「主の祈り」のドイツ語でした。
予習の段階で迷うことなく「主の祈り」を丸暗記していましたので、突然に指名されても淀みなく訳すことが出来ました。訳し終えた途端に担任の先生から『ミナガキ君はクリスチャンか?』と聞かれ『家族はそうですが自分は違います』と答えたはずでした。しかし高校の3年間ずっと、担任の先生は(ドイツ哲学専攻ということもあり)ホームルームなどでなにかにつけ『ミナガキ君はクリスチャンとしてどう思う?』と聞かれました。今思えば、担任の先生が「主の祈り」を指名したのも、疑いもなくイエス様のお導きなのですが、当時の自分にとっては「重荷」を背負った始まりでした。

次に意識したのは31年前の結婚式の時です。
当時の結婚式は仲人を職場の上司にお願いする形式が主流でした。然し両親の希望もあり、披露宴の前に結婚式場に誂えられた簡易なチャペルにて、武蔵野教会の椿憲一郎牧師の前で誓いを立てました。何人かの友人は著名で立派な教会堂で式を挙げる者もおり、ホテルの一室で牧師先生に式をお願いしてしまったのは如何なものかと、思い続けてきました。これまた今思えば、信仰の心があれば場所はどこでも良いと気づきましたが、こんなことも「重荷」だったのかもしれません。

父方の伯父・伯母たちも皆クリスチャンでしたが、その配偶者は必ずしもそうではありませんでした。その血のつながっていない伯父の一人に、戦前の旧制中学でエースピッチャーとして甲子園でベスト4、準決勝で大連商業に敗れたという逸話を持つ伯父が居ました。その後、マスコミの世界では知られた存在となりましたが、今から20年前、亡くなる寸前に「病床洗礼」を受けたという話に驚きました。そんな方法もあるのか!と。
ところが、「自分は病床洗礼でいいや」との考えが強化されてしまったのが、2018年8月に参加した武蔵野教会の有志「オリーブの会」が主催する修養会に参加してからでした。本来であれば修養会を経験すると信仰への思いは強くなるのでしょうが、私の場合は逆方向に作用した様です。この修養会は例年、水上温泉にある日本バイブルホームにて2泊3日の日程で行われます。当初は、大学の夏休みでロンドンから一時帰国する私の長女の為に私の母が案内書を持って来たのですが、何故か私だけが参加することになりました。
修養会では小グループに分かれて「マタイによる福音書」を読み合せました。何のタイミングだったかは、はっきりと覚えていないのですが、『伯父が亡くなる前に病床洗礼を受けたのだが、もったいないと思う』と発言したところ、同じ小グループの中で企業人として先輩の方から『いやいや、今読んだばかりのマタイによる福音書の第20章のぶどう園の労働者の話にもあるように、最後に来た者にもイエス様は最初に来たものと等しく愛してくださる』とお聞きし、却って「病床洗礼」に安堵する、今思えば「重荷」をそっと地面に置いた未熟な自分が居ました。

2018年10月、現在勤務する会社からの命を受けてニュージャージーに赴任しました。通算して19年以上に亘ってシンガポールに2回、ロサンゼルスと上海に駐在しましたが、母からは必ず『現地で通う教会を探しなさい』と言われ続けておりました。過去の駐在員生活では業務多忙に加え、偶々会社の同僚に誘われた教会では、信者さんたちがずっと不思議な踊りを踊り続けている、等なかなか思い描く教会に通うチャンスを見出せませんでした。
ニュージャージー日本語キリスト教会を知るきっかけになりましたのは、銀行勤務時代の先輩と錦織学牧師とがFacebookで繋がっていたからに過ぎませんでした。2019年のクリスマス礼拝には、正直申し上げて習慣的に礼拝に参加させて頂きました。そして世界がパンデミックに陥り、Zoom礼拝という流れになるのですが、実はその直前にもう一つの「重荷」が私の目の前に現れたのです。
2020年2月2日の主日礼拝に参加、月初めなので聖餐式が持たれた時の記憶です。未成年が葡萄酒を飲んではならないもの、と子供の頃は勝手に心の整理を付けていましたが、洗礼を受けていなければ聖餐式に参加できない、と言う事実がこの礼拝時には改めて「重荷」として心に残ったのです。自分は「病床洗礼」の日までこのままでよいのだろうか、と。

Zoom礼拝は「イースターとクリスマスにご挨拶に行くところ」という私の固定観念を崩すには十分でした。とりわけ錦織学牧師の子供のための説教、まるで天から楽器が降ってくるかのような力強いお声が毎回楽しみでなりませんでした。ここで登場人物が何の野菜だったかはすっかりと失念しましたが、『自分が本当に洗礼を受けても良いのか?』というシーンがあり、バイブルおばさんの温かい回答に心が開かれるような気持ちになりました。これを契機にして「病床洗礼」ではなく「今でしょ!洗礼」に変わったのです。イエス様が私の「重荷」を共に背負ってくれると確信したのです。

洗礼を受けた後の心境ですが、以前から、欧米人や中華系の方がたと仕事をしていく中でキリスト教或いは聖書という共通の価値観を理解して付き合っていきたいと考えてました。そのために聖書の勉強の機会を探していましたが、英和辞典をAから暗記するのと同様、旧約聖書を最初から読んで挫折したことがあります。洗礼を受けた現在も引き続き課題ですので、錦織学牧師のご指導の下で勉強をして参りたいと考えております。そしてなによりも、これまでクリスチャンホームとして147年の歴史を次世代にもきちんとバトンタッチできるよう、信仰生活を大事にして参りたいと思います。

最後になってしまいましたが、錦織学牧師に9回にも及ぶZoomでの学びの場を設けて頂きましたこと、感謝いたします。そのなかで文章を読んだだけで心に光が差した思いがした聖句を書き記します。

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)
For God so loved the world, that He gave His only begotten Son, that whosoever believeth in Him should not perish, but have everlasting life. (John 3:16)

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自己顕示欲の絵描き、クロッキー教室 

23年前の個展がきっかけで渡米する事になった。その頃の国際電話の料金は高額だったし、日本のテレビ番組は朝夕に1時間づつだけの放映だった。インターネットは通じていても日本語でのコミュニケーションはなく、私が当時通っていた語学学校では「Only English」と英語での会話を推奨されていて、日常生活での日本語にとても飢えていた。ニューヨークに来て初めて見つけたアパートのすぐそばに偶然にも日米バイリンガルの教会があり、学生時代以来の日曜日に行くようになり、そして礼拝後は教会でランチを食べて帰るのが習慣になっていた。ランチはドーナッツの日もあるが時々手作りカレーの日もあり、とても嬉しかった。幼稚園の時に暗唱した「主の祈り」があったり、中学1年の時に通っていたクリスチャンスクールでの讃美歌を聞いた時は懐かしさもあり、涙が出そうになった。

私が、ニュージャージー日本語教会に来たのは新緑の美しい季節だった。ニューヨークへの無料送迎があると聞き、週末にお隣の州まで行くことが出来るという事も楽しみとなった。

ニューヨークでの生活もだいぶ落ち着いてきたと同時にこの刺激的な都会の生活をこの勢いで続ける現実の厳しさも実感できるようになった頃だった。ニュージャージーには充実した日本食スーパーがあると聞いても、一人暮らしの私にとってはマンハッタンの小さな日本食スーパーでの買い物で充分だったし、バスに乗って知らない土地に行くという事もおそろしかったので、川を渡ったニュージャージーという地域に行った事がなく4年が過ぎていた。

ニュージャージーの教会は私の中での教会とは全然違っていた。知っている讃美歌はひとつもなく、しかもギターや太鼓などの伴奏がつき、時には手拍子もでてきて愕然とした。しかも何曲も続く。今までは教会での讃美歌はオルガンかピアノでの静かな伴奏しか聞いたことがなかった。子供が多い地域だからしょうがないのかなあとも思いながら、歌詞を読みながら心を合わせようと努力していた。その頃にこの地域に住む男性と結婚をする事になり教会だけではなく私の知らない世界に飛び込む事になった。

結婚相手には中学生の娘さんがいた。どうやって会話が成り立つのかがわからず、英語で話してみると「日本語でいいよ」と短い返答がり、子供達は、お稽古事もお遊びもすべて親の送り迎えで移動している不思議な世界だった。お母さん達の会話には知らない単語が多く、パラマスパークがモールの名前でバンサンパークは公園だったり、8年生?シニア?ジュニア?サフモア?ベイビーシャワ?はじめて聞く言葉はどういう意味なんだろう。育児、セール、ダイエット、レシピ、お菓子、メイク、韓ドラ、その会話の中には私は入れなかった。スマホもないし慣れない土地での車の運転で買い物に出かけても道に迷い家に帰るのにもくたくたになった。

ぎこちない生活の中で気ままな独身生活が恋しくなり、月に一度はニューヨークの教会に行きたいと言い出して夫を付き合わせたりもした。自分の落ち着いた時間はどこにあるのだろうと地下のアトリエに籠る事が多くなっていた。

夫の仕事がどんなに遅くなっても娘は夕飯を食べるのを待つと言い、時には9時を過ぎても待つこともあった。そして毎日必ず夕飯の前には家族で「こうして3人で夕飯を食べれる事に感謝します。」と一緒に祈る。この祈りのおかげで少しづつ本物の家族っぽくなっていった。

母親らしい事は何もできない私が、教会の集まりに行った、奉仕をした、と娘に伝えるととても嬉しそうな顔をしてくれる。私だって皆様と交流はしたいのです。

教会にはイースター、感謝祭、愛餐会と色々な行事があり主婦の皆様はお得意の料理の持ち寄りで豪華な食事会になる。我が家は夫が料理担当なので私の出番はなくて良いのだが、家庭集会という平日の昼間にある集会にもレベルの高い手作りのご馳走とデザートがふんだんに並ぶ。もちろん持って来られない人は無くてもよいので、私は果物などを持参する事もあるのだが、だんだんと足が遠ざかっていった。

何か私にできる奉仕はないかと、牧師先生と相談して「絵のクラス」を初めてみるのはどうでしょうか?と提案してみた。牧師先生は自分は絵が苦手で子供の頃に評価された時の傷がまだあるという事だった。絵なんて面倒さくて描きたくない人が、楽しめるクラスを目指します。クロッキーとはフランス語で素描、短時間での描写ドローイングの事なのだが、抽象画あり空想画あり、色々な角度から絵を身近な楽しみとして生活に取り入れてもらいたいと思う。1時間ほどの実技の後には牧師先生による聖書のお話がある。午前中のクラスで昼に終わるのだが、昼食は基本持って来ないで下さい、私がサンドイッチを作りますと張り切って2008年の7月に「ぐるぐるっと線を描いてみましょう」と5人の生徒でクロッキー教室は始まった。その中にはちょうど学校の休みだった娘もいた。

私は「先生」というキャラクターではない。学生時代美術の教育実習の時にオートバイで中学校に行って教頭から激怒されたり、美大受験に何度も失敗した経験もある。個性が強すぎると会社をクビになった事もある。だから絵が思うように描けない気持ちはわかるし、それぞれの感性にあった絵を描く楽しさを伝えられるような気がした。そしてこの地域において育児に追われるお母さん達が気分転換になったり、転勤でアメリカ来て生活に慣れない人に交流の場所になったり、牧師先生の聖書の言葉で元気になったり、教会へ興味を持ってくれたら良いなあと理想は高くなった。自分が子供の頃転校ばかりしている時に「描く」という事で自分の気持ちと向かい合えた事や、教会に行き神様に出会い、そして素敵な人達に沢山出会えてこんなに世界が広がって楽しくなったよという経験をこの地域の皆様に伝えたいと思ったからだ。

小さい子供達と交わる機会が今までほとんどなかった私だが、クロッキー教室に子供達が来るのが楽しみになった。子供達はお母さんと一緒に絵を描くのもよし、寝ているのもよし、時には子供達がモデルになった。

赤ちゃんは首がしっかりするまでは抱っこする時に気をつけることや子供はよく熱を出すのだという事も知り、お母さんという仕事の大変さと尊さを身近に感じることができた。驚いたのはお母さんの中にはパスポートの更新の時にしかニューヨークへ行かない人もいた。こんな皆様にニューヨークの活気あるアートの世界美術館や画廊の話も伝えたいとも思った。

メンバーも変わりながら何年かが過ぎた。電車の中で知らない子供に向かって笑顔で話しかけたり、お母さんに向かって「おいくつですか?」なんて聞いている自分にびっくりした。以前の自分には想像もできない事だ。

そうは言っても週に2日はニューヨークの画廊に通い、行かない日には自宅で画廊のウェブ更新や事務仕事をして、時間を見つけて自分の制作作業をして個展や展覧会に出す絵を描く生活、主婦業はしていなくても時間に追われてイライラしてしまう事もあった。

仕事の帰りに空腹でスーパーでクラスの為のサンドイッチの食材を購入するために並んでいる時。15人前ものサンドイッチを用意しても3人しか現れなかった時、絵を学びたいと思っている人は誰もいないみたいだと感じた時、睡眠時間が欲しい時。

私は今まで作品を制作する為に色々な事を犠牲にして自分の事を中心に生きてきた。自己顕示欲のアンテナを鋭く磨き弱みを見せずに自分を肯定してきた。しかし共同生活や慣れない絵の先生業での中には壁やストレスを感じ、その感情に自己嫌悪や憤りを抱く事もあった。そんな時は真っ白なキャンバスを眺める事、そして祈る事にした。神様はそんな時こそたくさんのギフトを下さった。

クロッキークラスの参加者が素敵な作品を描きワクワクする時、絵を描くのが怖くなくなったと言われた時、抽象画が少し解ってきたと言われた時、お昼に提供していたサンドイッチが美味しいと褒められた時、手作りケーキの美味しさに感動した時、皆様と一緒に大笑いした時。神様は色々な個性的で素敵な人を送ってくださる。

昨年からクラスはオンラインになり、慣れない準備に時間がかかる事になった。久しぶりでワー大変だ!と思ったが、今まで以上の喜びも感じた。近くに住んでいても一度も来なかった人が来始めたり、ニュージャージーを離れた人が画面に現れたり、日本からの参加者もあったり、13年という経験も強みになった。オンラインでの一方通行を緩和させる為に1人づつ個人的にも声をかけたりしはじめた。何か好きな絵がありますか?なんで絵が嫌い?身体動かしてる?夕飯何作った?そんな会話は今ではとても楽しい。そして私の描く絵もカラフルになってきた。

 

「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」(詩篇55:22)。

 

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82歳で救われた母と神様のご計画

2017年のイースターに82歳で洗礼を受けた私の母は、戦時中に子ども時代を送り、教師になり、結婚してからも3人の子供を育てながら、退職するまでずっと、元気で頑張りよく働きました。”神様が本当なら世の中に病気や戦争や不幸なことはないわ“とよく言っていました。

私たちがニュージャージーに住み始めたころには退職しており、父も亡くなっていたので、一人で何度も来てくれました。私と娘はクリスチャンでJCCNJに通っていたので、日曜日には私たちと一緒に教会に来て、教会の皆さんとも仲良くなり、こちらに来るたび教会に行くのを楽しみにしていました。

あるとき自転車で出かけた母は、教会の前を通りがかり、教会の扉が開いていて中に牧師先生が立っていらしたので、中に入ってお話をした。これが母が自分で教会に行き始めたきっかけです。NJの教会がとても楽しくて、自分も教会に行きたくなったそうです。毎週自転車でまじめに通い、教会であったことなどよく電話で話してくれました。

そのうち自転車で通うのが難しくなってきたので、もっと近くにある教会に行くようになりました。そこは、母が子供のころに近所の子供たちと行ったことがある教会でした。昔はアメリカ人の牧師さんがいて、子供たちが行くとお菓子をもらえたそうです。その教会に昔の同級生夫妻が他県から転入して来たりして、再会を喜んでいました。

そんな中、80歳の夏に突然片目が見えなくなり手術を受けました。81歳の秋には、年の近い叔母を病気で亡くしショックを受け、自分も転倒で骨折、手術、入院と辛いことが続きました。牧師先生や教会の方たちが祈り励ましお見舞いしてくださいました。それまで、教会に行くけれど洗礼は受けないと言っていた母でしたが、クリスチャンの同級生夫妻にも勧められて、洗礼を受けることを決めました。洗礼を受けてからも、病気や手術、ケガなどいくどもありましたが、そのつど皆さんに祈られて守られてきました。昨秋介護施設に入りましたが、その少し前まで、母は毎週教会に通っていました。自力で教会に通えなくなってからは近所の教会員の方が車に乗せてくださいました。

86歳になった母は、つい最近も誤嚥性肺炎で病院に運ばれましたが、回復して退院しました。今はコロナ禍で介護施設も面会ができませんが、母がこうして守られているのも、神様が母をご計画の中に入れてくださっているからだと思います。

もう50年以上前のことですが、東京でクリスチャンとなっていた父方の伯父から、九州のミッションスクールに赴任するので、東京から九州に引っ越す途中で私たちと会いたい、と連絡があり、家族5人で名古屋まで会いに行ったことがあります。

伯父の勧めで、父は私と妹をカトリックの日曜学校に通わせました。小学校時代の1年半あまりの教会の思い出が、20年以上たって私を洗礼に導いてくれました。その9年後に娘、19年後に夫、そして23年後に私の母が、クリスチャンになりました。神様のなさることは私の考えや時間を超えて実現するのだと知りました。

伯父には一度会ったきりです。自分のまいた種がこうしていくつもの実を結んだことを知らないまま、伯父ももう天に召されているかもしれないと思いますが、私のイエス様との出会いの出発点は伯父です。

私の周りには、妹弟をはじめまだイエス様を知らない人たちがたくさんいます。その人たちに神様がどんなご計画を持っていらっしゃるか、私にはわかりませんが、一人でも多くの人がイエス様に出会い、重荷を下ろして平安をいただき、神の家族になるように、私も種をまいていきたいと思います。

 

“私は、あなた方のために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。”(エレミヤ書29:11)

“神を愛する者たち、つまりご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。”(ローマの信徒への手紙8:28)

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「生かされている意味」

2011年3月11日に発生したあの東日本大震災から10年という年月が流れました。津波や原発事故など、かつてない被害をもたらし、その痛みは10年を経ようとする今も、多くの被災者やご遺族らの生活や心に残っていることと思います。日本から離れて暮らす私も、毎年3月11日が近づくにつれ、様々なことを思い巡らしながら、心がざわざわするような気持ちで過ごしていました。10年前のあの日、実際にあの場所にいて震災を体験してはいませんが、ふるさとを、そして多くの友人や知人を仙台に持つ者として、痛みと悲しみを心の片隅にしまいながら歩んで来たように思います。特に今年は世間で言われている「区切りの年」でもあるからでしょうか、自分の心に深く迫ってくるものがありました。【震災当時の話は2011年5月号の月報(http://jccofnj.org/「今が救いの時」/)に書かせて頂きましたので、もし宜しければご一読下さい。】

東日本大震災を思う時に、いつも頭に浮かぶのが、自分が子どもの頃に体験した宮城県沖地震(1978年6月12日の17時14分に発生したマグニチュード7.4、震度5の地震)のことです。もう40年以上前の出来事なので、細かいことは忘れているとは思うのですが、それでも私の中で今でも鮮明に覚えている光景であり、おそらく初めて私が「神様は本当に生きておられる!」と感じた経験でした。

6月の初夏、まだ外は明るく、いつもなら近所の友達と外で遊んでいる時間帯でしたが、その日に限ってなぜか家の中で一人で過ごしていました。夕方5時を少しを回った頃、小さな揺れ(震度2)を感じ、急いで家のベランダの扉を開けました。仙台は地震の多い地域なので、それが習慣になっていたのだと思います。外を見ても何事もない様子でしたので、そのまま扉の側に寄り添いながら、当時流行っていた消しゴムで遊び続けました。それから8分後、地響きのような「ゴーーー」と言う音が床の下から聞こえてきたかと思うと、カタカタと電気の傘が音を立てて左右に大きく揺れ動き、瞬く間に家の中がぐわんぐわんと揺れ出しました。それはまるで船の中にいるかのよう(子どもの頃によく乗った青函連絡船が悪天候の中、大波を受けて大きく揺れる感覚)でした。そして、「あっ!」と思った瞬間には(スローモーションがかかったような長い時間にも感じられたのですが)目の前にあったタンスと直ぐ後ろにあった本棚が倒れ、私の上に覆い被さってきたのです。「下敷きになる!」と心の中で叫び、目を思いっきりつぶりました。おそらく揺れがおさまってからだと思うのですが、恐る恐る目を開けた私の前に見えたのは、タンスから出たいくつもの引き出しでした。そして、頭にも体にも物が当たっておらず、何の痛みがないことにも気がつきました。先に倒れたタンスの中から飛び出した引き出しがタンスを支え、その後に私の背後にあった本棚がタンスの上に倒れてきたのです。私は倒れたタンスと本棚の下にぽっかりとできた不思議な三角形の空間にうずくまっていました。まるで誰かが大きな腕を広げて私をすっぽりと包んで守ってくれたかのようでした。それから静かに体をねじりながら、開いていたベランダの扉から外に出ることができました。怪我と言えば、壁に掛かっていた鏡が割れて落ちてきた時に足を切ったくらいで、近所に住む友達のお母さんが直ぐに手当をしてくれました。近所の人達とも安否の確認をし合ったのですが、私が抜け出した三角地帯を何人もの人が見にやって来て、目を丸くして驚いていたことを思い出します。後から自分で見てもゾッとするような光景でした。「もしあの時に前震がなければ、ベランダの扉を開けることはなかっただろうし、扉に近い所に移動することもなかった。あの場所に移動していなければ、別の本棚が自分の目の前に倒れてきて下敷きになっていたかもしれないし、テレビや水槽が飛んできて大怪我をしていたかもしれない。扉が開かず、家の中に閉じ込められたままになっていたかもしれない。。。」などと様々な思いが次から次へと走馬灯のように私の脳裏を駆け巡って行きました。そして「すべて神様が導いて守ってくれたんだ。」と思いました。

地震発生後は電話が通じるはずもなく、両親と連絡を取ることはできませんでした。停電によって交通機関も乱れ、激しい交通渋滞が発生したため、両親が家に辿り着いたのはかなり遅い時間になってからだったと思います。殆どの家具が倒れ、あらゆる物が飛び散り、ぐちゃぐちゃになった真っ暗な家の中で、ろうそくの小さな火の元で両親から聞いたのは「神様が守って下さった。」という言葉でした。地震が起きた時、父は会社の倉庫に行っていたそうです。倉庫には何百個という重い機材が入った大きな箱が積み上げられていました。その箱の山が地震の揺れによって崩れ、倉庫の真ん中に立っていた父を目掛けるように四方八方から飛んできたのですが、父が立っていた所だけぽっかりと穴が空いたようになって、上から落ちてきたいくつもの箱が父の足の10センチ四方手前でピタッと止まったと言うのです。その同じ時刻に、仕事帰りの母は仙台駅近くのデパートに寄っていました。前震があった後にデパートから出ようとして正面玄関を通った時に大きな揺れがあり、高い天井から落ちてきた大きなガラスが割れる音を背中に聞きながら外に逃げ出すことができたそうです。あと1秒遅くあの場所を通っていれば、大量のガラスの破片を頭に浴びていたかもしれません。

「主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。」詩篇121篇5~8節(聖書)

人生において、誰もが「ただの偶然」とは思えないような出来事を経験することがあるかもしれません。私はあの日、自分自身の体験を通して、また両親が体験した話を聞いて「これは単なる偶然ではない。神様は本当に生きておられ、私達のことを心に留められ、導いて下さる方である。」ことを確信しました。そして、神様が私を守り生かされたことの意味、自分が生きていることの意味を考えるようになりました。

10年前の震災では本当にたくさんの方が命を落とされました。おそらく多くの方がそう思われたように「神様がいるのなら、どうしてあのようなことを許されたのだろう?」と私自身も幾度となく自問しました。私には100%の答えが与えられている訳ではありませんが、今わかることは、神様は人間が悲しむことを望んでおられないということ、私達の痛みをご存知であり(神様ご自身も愛する我が子を十字架の死に至らせるために、深い痛みと苦しみを経験されたのですから)その痛みを癒し慰めて下さるお方だということです。たとえ今、苦しみや試練の中を通っているとしても、神様はその重荷を共に背負って歩んで下さるお方です。そして、私達一人一人のために素晴らしい計画を持っておられ、すべてを最善へと導かれると約束して下さっています。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」ローマ人への手紙8章28節(聖書)

 「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」コリント人への手紙 第二1章4節(聖書)

私達が人生の歩みの中で様々な苦難に直面するのは、私達がかつて経験し、それらを通して神様の慰めを頂いた時と同じように、苦難の中にいる人々を慰めるためなのかもしれません。その慰めの中心には、主イエス·キリストがおられます。イエス様はあらゆる苦難をその身に負ってくださいました。私も主から慰めを受けた者として、周りの方々の心に寄り添い、慰め励ます者とさせて頂きたいと願っています。また、神様に助けられ生かされた者として、神様が自分に与えて下さった使命を全うするために歩み出して行きたいと思います。

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コロナで夫が重症化して受けた愛

 その日は突然やって来ました。2020年の年末も夫は建築の仕事に追われていました。

 夫の仕事場で2人体調が悪く休む様になり、年始早々に夫も咳が始まり、その後会った友人も具合が悪くなりました。そして私も熱が2日続き、次々に体調が悪くなるのを見て、これはコロナかもと思い1月4日の月曜日に私はコロナの検査を受けに行きました。行くのもしんどくて大変でしたが、Paramus BCC内のドライブスルーでやってる駐車場で、寒いのに年始から外でマスクと手袋をして、あちこちに立ってるスタッフ達を見て、何とも言えない感謝で感動しました。中にはご年配の方も働いておられました。リスクを追いながらー5℃の中、優しくテキパキと対応して下さり、Bergen County 在住者には無料で検査して下さいます。大家族には助かりました。帰って結果を家で待っていましたが、このしんどさはきっとコロナだと確信していました。身体中が悲鳴をあげる程痛かったのです。3時間後に電話がかかって来ました。予想通り陽性でした。

 家族6人をそれぞれの部屋で隔離させました。そして症状前に会っていた友人や義理姉夫婦に伝えてPCR検査に行ってもらいました。それがコロナの不安なところで、心配ばかりして精神的にも辛い日々でした。結果、次男と長女が陰性だったので、その日からグローブをし家族の食事を各ドア前に運んでくれ、薬を買いに行き、家事の全てをしてくれました。衛生上プラスチックフォークと紙皿を買って来てくれて一人でベッドの上で食べる食事。キッチンに行けばウィルスをまいてしまうので部屋にこもる2週間でした。家族に会えず最初はスープしか喉に通らず味覚と嗅覚を失い味気なく、まるで刑務所にでもいる様な気持ちになり涙が出て来ました。

 その週は毎日誰かのコロナ結果が出て、長男、末っ子、義理姉、友人2人も陽性結果でした。ものすごい感染力です。家族の中で同じ陽性でも咳が酷かったり、それぞれ症状が違い寝る時間も違ったので、主人、子供達4人共に各寝室から出ず、オンライン授業に切り替えてコロナ中も授業を受けていました。9歳の末っ子はママを1日に何十回、ハグもいっぱいしたい子なので良く一人で色々出来たなと思っていたのですが、彼自身もコロナが怖いというのをニュースで聞いていたので近づきませんでした。

 そんな中、主人がERに行きたいと言いました。咳が酷く40℃以上(105°F)の熱が3日続き、ドクターとのZoomで処方の薬を頂いていましたが、全く効きませんでした。救急車は高額なので長男と私でハッケンサック病院に連れて行き、付き添いはコロナで入れないので外で別れをしました。もう咳がひっきりなしに止まらない中、家族を頼むと言った夫の言葉にお互い涙ぐんでしまいました。待合室は真っ白でビニールが一面にかかり誰も入れず異様な雰囲気の写真が送られて来ました。コロナウィルスが目に見えたらいいのに、一人で心細いだろうな、と思いながら家に着くと他の子供達も心配して寝ずに待っていました。『とってもいい病院だから大丈夫だよ。もう寝よう。神様が守ってくれるよ』と言い聞かせて私も今夜は寝れそうだと思っていました。この1週間、自分も完治してない所に、主人を夜中2時間おきに様子を伺ったり薬の時間だったり、コロナにかかった友人達のことを思うと全く寝れてなかったのです。倦怠感もあり、動くのもやっとで自分も寝たきりでした。

 ベッドに入った所に主人から連絡があり『レントゲン撮った結果、返されることになった。迎えに来て欲しい』と。またすぐ車で迎えに行き、家でのコロナとの闘いとなりました。多くの入院患者がいて、かなり重症でないと入院させてもらえないのです。

 子供達が学校やスポーツに行ってなかったので、順番に知れ渡り、近所の人や教会の人が多くのメッセージ、励まし、手作りの大ご馳走、お花、果物、レストランのギフトカード等届けて下さり、祈って下さり、愛を沢山受けて辛い時期を助けて頂きました。必要以上のものを満たして下さり、誰も偏見の目で見ることはなく、それどころか、これほど多くの方に祈ってもらったのは初めてで、夫も自分自身も祈ることしか出来ないので神様と近い関係にいられて全てをお任せしていました。そしてその中で最も神様が働いて下さったのは、夫は10人兄弟でアイルランドに育ち22歳からアメリカに住んでるので長い間、疎遠になっていた兄姉や小さい頃遊んでた友人が連絡してくれました。きっかけを作って下さったのです。

 喜びもつかの間、更に事態は悪くなる一方でした。ERに行って戻って来た3日後の午後、呼吸困難になり、毎日測っていた酸素数値が82になり、救急車を呼びその時はあっという間に連れられ、お別れも出来ないまま入院になりました。もうコロナ症状発症から10日経っていました。今まで家族全員が風邪を引いてても元気な夫。疾患もなくタバコも私が長男を妊娠した23年前に辞めていました。身体資本の建築業で55歳。そんな夫が重症化するとは誰もが予想しておらず、ナースにもそれがコロナの怖い所だと言われました。入院次の日に抗体のある輸血をするとドクターから電話があり、驚きました。そこまで悪いのか?日本語で検索してもそんな新しい治療はされておらず、日本の従姉妹のナースに聞いてもやってないと言われ、また不安になる中、主人から輸血直前に連絡があり、ナースが『マッチングするのが難しい中、こんな大きなバッグが与えられて貴方は本当にラッキー』と言われたと聞いて、まさに多くの方の祈りが届いて神様が与えて下さったと思わされました。

 日本ではコロナになってから針を刺すのに抵抗があり、献血者が少ないとニュースを目にしました。それもそうです。コロナになった方が献血してくださった方がいたとは凄い事ですよね。友人のお父さんで抗体輸血plasma infusion受けた方が抗体輸血3日後には凄い成果が出て元気になって1週間後に退院したそうです。それを聞いて安心して期待していましたが、裏腹に、どんどんその後状態は悪くなり、2日目にはトイレに行ったら酸素数値が下がり、座るのも危険な状態で常にうつ伏せでいなければなりませんでした。酸素マスクは常に付けたままで周りには他の患者が咳やうめき声が聞こえ、ナースは走り回っています。コロナ病棟にいること事態怖かっただろうと思います。そしてこの日に主人は目を閉じたら明日は起きられるか分からないと思ったそうです。死はそこまで来ていました。3日目には丸一日連絡が途絶え、夜やっとメッセージが届いたと思ったら一言 “ tough day” ドクターからもこの日は連絡がありませんでした。

 私は寝ることが出来ず、明け方から物凄い恐怖に襲われました。夫や私の家族には心配かけるので言えず、錦織牧師先生に全ての状態を伝える事が出来て一緒に祈って下さったのが大きな支えでした。この朝ドクターと話すことが出来たものの、後2日この状態が続けばライフサポートが必要になる。人工呼吸器です。肺の全体にコロナがいるとの事でした。夫を失うかもしれない恐れ、不安、心配で胸が痛く、締め付けられ、余りにも早い展開に心がついて行けずうろたえるばかりでした。この日1月12日は結婚24周年記念日でした。うつしてしまった友人の誕生日でもありました。彼女は自分が感染したことで、小さな子どもたちも家からオンライン授業を受けなければならず大変そうでした。そして、もう一人のかかった友人も赤ちゃんがいて授乳と食事作りとで心苦しく申し訳ない気持ちでいっぱいでした。色々な想いがよぎり、辛く苦しい日になりました。そんな中、主人の姉も救急車で運ばれました。結局検査して5時間後にまた返されて夜中に迎えに行きました。もうこれ以上辛いことがないだろうと思うと次の日には更なる事が起こり、自分ではどうしようも出来ないので私のストレスはマックス。精神的に参っていました。助けられたのは『祈ってるよ』というテキストメッセージがアメリカだけではなく日本、アイルランド、イタリアから届いたことでした。神様に家族で祈る日々が続きました。そして祈りは天に届き、夫の命を救って下さいました。体がコロナに勝ち始めたのです!輸血もきき始めた様です。入院12日間後、ナースの拍手と共に車椅子で退院する事が出来ました。ナースの優しさ、素晴らしさは入院中も聞いていたので感謝で胸がいっぱいでした。

Welcome back サインが書かれた家族の待つ家に帰ってきました。7kg痩せて声も小さく弱々しくI am a survivor  と夫は涙しながら病院での事をゆっくり話してくれました。子供4人達もハグしてお父さんの居なかった間どうだったかの話をしました。娘は大泣きしていました。今までの緊張の糸が切れた様でした。驚く事にコロナ発症から8週間、肺のダメージを受けたので未だ完治はしておらず抗生物質を飲んで居ますが、ゆっくりと回復しています。他のかかったメンバーは皆、治りました。コロナの中も家族を強めて下さり、友人らの愛を教えて下さり健康の大切さを分からせて下さり感謝します。私達はコロナに負けない。明日はどうなるか分からない今日を大切にし、コロナの中、千羽鶴を折ってくれた友人夫婦の様に愛を行動で表わせる人になりたいです。

 

『恐れるな。私はあなたと共にいる。たじろぐな。私があなたの神だから、わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手であなたを守る。』(イザヤ41:10)

 

毎晩子供と一緒に手を合わせ世界中のみんなの心身の健康をお祈りしています。

 

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神さまからのプレゼント〜父との祈り〜

私の両親は典型的な日本の仏教徒です。

私は、両親の救いは、長い間、毎朝祈ってはいましたが、召される直前にでも、イエス様を受け入れてくれるか、私のとりなしの祈りによって、天国にいけたらいいなーと思っていました。

しかし、2018年7月、父が召されるひと月前に、私は父と心を一つにして祈ることができました。主が私の日々の祈りをお聞きになったのです。

父は、私を、生涯、とても可愛がってくれました。私も、父が大好きでした。

あの祈りがなければ、あっという間の、父の死は、私には、受け入れがたいものだったと思います。今、父が天国にいることを覚えて、平安でおります。

また、未知なる所だった天国は、愛する父との再会を期待する、親しみ深い所になりました。

そのお祈りのこと、加えて神様が私になさった善いこと、お計らいをお話ししたいと思います。

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両親は、80歳をすぎても、年齢に比べてとても健康だと言われていました。

旅行によく出かけ、日常は、電車に乗るより、自転車で用事を済ませるような夫婦でした。

しかし、父は、2016年に階段から落ちて、加えて、緑内障も進み、視界が狭まり、怖くて外出する機会が減り、筋肉が落ちて行きました。

そんな話を聞く頃、我が家の長女が2018年5月に大学を卒業する予定で、夫も何年も日本に行っていなかった為、私たち家族は、その正月に、アジアに旅行に行く計画を立てました。

私たちと20年近く、旅行をしていない両親とも、一緒に箱根に行くことにしました。

旅行が決まった後、気がついたのですが、その日は、偶然、父の誕生日で、私たち家族とともに旅行先で誕生日を祝うこととなりました。

―それが父の最後の誕生日となりました。

5ヶ月後、長女が大学を卒業し、友達と日本を旅行し実家を訪れると、父がとても弱くなったと、私に伝えて来ました。母と話すと要介護2になったということ、私はすぐに日本に行きました。

私はひと月強、実家に滞在しました。

初めの頃は、父は、自分でトイレに行き、ご飯を食べ、動けてもいました。

頭は、以前のままで、記憶力もしっかりしていて、体だけが弱ってしまっていたので、いつも、“情けないなあ”と、言っていました。私はその姿を見ては、心を痛めていました。

ある日曜日に、母たちに用事があり、私が父と2人で過ごすことになりました。

その日、教会礼拝に行けなかったので、私は、父と一緒にお祈りをしようと思いました。

両親が、昔、カリフォルニアの家に遊びに来たときに、Japanese Christian Church of Walnut Creekの礼拝に出席したり、信仰の友らの家族と、食事を何度かした際には、お祈りを一緒にしましたが、父と2人で祈るのは初めてです。

もし、一緒に祈ることを断られたらどうしよう、と思いながらも、勇気を出して、“今日は日曜日で、普段は、私は、教会に行くのだけれど、今日は行かないから、一緒にお祈りをしてくれる?”と聞きました。

父は、“はい”と答えました。

“お祈りの最後には、一緒にアーメンと言ってね“と言い、シンプルな祈りを始めました。

父は、始めはただ、聞いていました。

少し経つと、父が大声で”アーメン“と叫び出しました。

普段は穏やかで、大きな声を出すタイプではありません。

また、この頃には、声はか細くなり、普段は、父の顔の近くに耳を寄せて、彼の話を聞くようにしていました。

その父が、言葉の合間合間に、”アーメン“と大きな声で叫び、父の部屋の中は、不思議な空間になりました。

私は、涙がぼろぼろ出てきて、膝に落ち、祈り終わった後は、何も言うことができませんでした。

私が部屋から出終わるまで、その後で父が、”アーメン、アーメン、アーメン“となんども繰り返していました。

私は自分の部屋に戻ってから、しばらく呆然としました。

聖霊様のご臨在を実感しました。

何を祈ったのか、全く覚えていません。

ただそれは、まさしく、父と、心を一つにして、神様に祈りを捧げたときでした。

延命治療はしない、点滴もしない(手から試みたのですが、血管が細くなりすぎて、体の中に入っていかず、病院で、首から入れると言われて、父が断りました)、自分の口から、普通にご飯を食べて、自分の家で最後を迎えるーと言う、父の意思を尊重して、日々、過ごしていきました。

私が帰国する頃には、自分で食事は取れず、食欲もかなり落ち、体もとても細くなっていました。

これからしばらくは、寝たきりの状態になるのかなと思いながらも、おしゃべりもしっかりしていましたし、まさかこれが最後の別れになるとは思わずに、私は、父に、“また来るからね、元気でね”と言って、アメリカに帰りました。

―――――――――

一月後、お昼ご飯に、大好きなスイカを、食べようとして、そのまま意識不明になりました。

母は、本当に突然だったと言っていました。

母が、主治医に電話をすると、先生はお昼休み中で、たまたま実家近くにご飯を食べにきていたので、すぐに駆けつけてくれました。先生が看取ってくださったので、自宅での死亡でしたが、解剖の必要もありませんでした。

父の死後の顔は、とても穏やかで綺麗でした。最後まで平安だったのだなと思いました。

どこまでも憐れみ深く、愛のお方、全てを最善へと導かれるお方、その主の御手の中に守られながら、主の元へと発って行った父は、本当に、本当に、幸いです。

詩篇236

命のある限り恵と慈しみはいつも私を追う。

主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。

アーメン

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イエス様の大きな恵み

神様に出会う前の私は、神様がこの世に存在しているなら、何故自分の人生には辛いことが起こるのかと、目には見えない神様の存在を否定していました。そればかりか、自己中心的でプライドの塊、不平不満ばかりで心の中には大きな荒地が広がっていました。外面ばかり気にしていましたので、人の視線がいつも気になり、周りのことに振り回されて自分を見失い、満たされない何かがいつも心の中を渦巻いていました。

自分の人生をどうにかして変えたくて、1996年、先輩がニューヨークに2、3ヶ月滞在するということを聞き、私はその時の仕事を辞めてニューヨーク滞在に便乗することにしました。当時のボスは私に「仕事を辞めて今更何を考えているんだ」と反対しましたが、私は「今しかない」との思いでニューヨーク行きを決断しました。滞在中は思っていたより大変なことがたくさんあり、楽しいことよりも辛いことの多い滞在でしたが、何故か一度帰国してから、再度、今度は一人で渡米しました。その後ニュージャージーで私の専門である幼児教育の仕事が見つかり、現在の夫とも出会いました。彼はクリスチャンでしたので、私と会う度にイエス様の話をしました。でも「もうイエス様の話は聞きたくない」と拒否したことも度々ありました。時にはマンハッタンの教会にも一緒に行きました。そこで出会った日本人の方に、ニュージャージー日本語キリスト教会を紹介されました。なかなか一人では行けませんでしたが、ある韓国人の女性との不思議な出会いを通して、ついにニュージャージー日本語キリスト教会に行く日が来ました。

初めて足を踏み入れたニュージャージー日本語キリスト教会には、何かとても温かい安心できるものを感じました。そして毎日曜日教会に行くようになり、その年2000年12月10日に錦織牧師から洗礼を授かりました。ただただ嬉しかったのを覚えています。「この私がクリスチャンになった」と。私はミッションスクールを卒業していて、日本では教会付属の幼稚園に勤めていました。神様はその時から私をずっと待っていてくださったのです。

その翌年2001年12月に現在の夫と結婚しました。その年の9月11日の世界を揺るがす大惨事で夫は失業していましたが、「山の上での結婚より谷での結婚は上に上がって行けますからね」との、笑顔いっぱいの錦織牧師のお言葉に「それもそうだ」と納得して結婚しました。でもそれは上り坂ではなく、もっともっと深い谷底に降りて行く下り坂だったのです。私は夫の仕事が数ヶ月で見つかると思っていました。でも1年経っても2年経っても見つかりません。ようやく4年目に仕事が与えられ喜んだのも束の間、1年程で失業しました。結婚して今年で19年、その間夫が働いた期間は5年程です。男性は働くのが当然と思って育って来た私にとって、自分の夫に仕事がないことは信じ難い事実で、簡単には受け入れられませんでした。大変感謝なことに私の仕事は順調に途切れることなくありましたが、夫には仕事がないばかりか、家でブラブラしているという状況に耐えられず、頻繁に喧嘩をしました。何度も離婚を考えました。

でも、19年間、多くの問題を抱えながらでも生活できたのは、神様の大きなご愛と恵み、そして守りと支えがあったからです。食べるものがなくて困ったり、家賃が払えずに苦労したことは一度もありません。神様が全ての必要を満たしてくださいました。神様を知らなければ、私はこの試練から逃げ出していたでしょう。神様を知らない人から見れば、私の人生はとても奇妙で不思議に写っていたと思います。そうです。神様は人知を超えた不思議をなさるお方です。「神には、なんでもできないことはありません。」(ルカによる福音書1章37節)  自分の人生は何なのか。何故生きているのか。何故試練が続くのか。とずっと悩み彷徨って来た私を慰め助け出してくださったのは、天地創造主なる全能の神様だけです。この試練は父なる神様からの愛なる訓練だったのです。

 

「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる」ヘブル人への手紙12章11節

 

私は神様に心からの感謝をささげます。この神様の訓練がなければ、神様の大きな、深い、天よりも高いご愛を知ることはありませんでした。どんな境遇の中にも神様は共にいてくださいます。試練に耐え脱出する力と道を備え与えてくださいます。

2000年12月に洗礼を受けて浮かれていただけの私は、イエス様の十字架と復活の意味が全く理解できていませんでした。この神様の愛なる訓練を通して、イエス様が私の罪のために十字架にかかり私の罪を赦してくださった。そして3日目に復活されて今も生きてとりなしてくださっていることを聖霊様を通して教えていただき、悔い改めに導かれました。イエス様はご自分の命を私のために捨ててくださり、天の父はひとり子を惜しまずに私の罪のために十字架に差し出し、そして永遠の天国の国籍と永遠の命をくださったのです。

 

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」ヨハネによる福音書3章16節

 

COVID-19の影響で、2020年6月に、私が11年間勤めていた幼稚園が閉園しました。ショックでした。言葉になりませんでした。夫に仕事がないばかりか、私までも仕事を失い、この先どのように生活していったらいいのかと悩み苦しみ、神様に祈りました。形あるものは全てなくなることを実感しました。でも非常事態宣言が解除後、閉園した幼稚園の多くの保護者の方からご連絡をいただき、現在フルタイムの仕事はありませんが、引き続き私の専門である教育の仕事に携わることができています。神様がこのように仕事をくださり、養ってくださっていますことを心から感謝しています。

 

今も私の信仰は途上にありますが、これからも主を信頼して、真実なる神様の御言葉が記されている聖書に従って歩んで行きたい、この素晴らしい神様のご臨在と恵みに感謝し、喜んで主を賛美して行きたい、そして神様の福音を人々に伝えていくことができますようにと日々祈っています。このアメリカに来たことも神様の導きです。神様にお会いするための神様のご計画だったと確信しています。ニュージャージー日本語キリスト教会に行くために不思議な形で出会った女性も、神様が備えてくださいました。教会では牧師先生始め、牧師夫人、そして愛する兄弟姉妹方のお祈りに支えられていますことに感謝します。

今日も神様が私を生かしてくださり、罪だらけの不完全で弱い小さな者にも力を与え、永遠に変わることのない大きな愛と恵みを日々注いでくださっていますことに心より感謝申し上げます。

 

「イエスキリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変わることがない」ヘブル人への手紙13章8節

 

「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない」哀歌3章22節

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「祈りが与えられている恵み」

昨年11月24日、洗礼を受けさせていただきました。洗礼までに導かれた証を書かせていただきましたが、また機会を与えてくださりありがとうございます。

昨年2月信仰告白に導かれ、10月錦織先生に受洗したいと伝え、11月24日洗礼を受けさせていただきました。クリスチャンになって一年になりました。私が、思い描いていた一年後とは現在の状況は大きく異なっていました。COVIDー19が突然現れ、全世界に影響を与えました。多くの方が病に苦しみ、そして亡くなる方の数も私達の想像を遥かに超えました。目に見えないウィルスへの不安、私達の日常生活は大きく変化し、当たり前だったことができなくなったこと、特に家族以外の人と会うことができないことは大きなストレスともなりました。そして、個人的には、日本への本帰国が延期となったことでした。しかし、このような状況下の中で、神様は私に多くのことを気づかせていただき、そして与えてくださいました。感謝です。

洗礼後、私はクリスチャンとして、これから神様とともに歩めることに嬉しさを覚えていました。それと同時に不安も持ち合わせていました。それは、2020年夏に本帰国の予定があったため、日本へ帰国しても教会が見つかるだろうか、このNJにいるときのように信仰生活が守られていけるかなどでした。ですから、本帰国までの間に、イエス様と出会ったこのNJの地で、兄弟姉妹との交わりや、スモールグループでの学び、また私にとってチャレンジでしたが、聖歌隊やハンドベルなどのご奉仕を通して、クリスチャンとしての歩みを学べる機会を増やしていけたらと考えていました。

しかし、3月、COVIDー19で私達の生活は突然変化しました。No school、Stay home。買い物へ行くにも大変な状況になってしまいました。そして、教会もオンライン礼拝、スモールグループもZoomとなり、何もかも初めてのことで戸惑い、不安を抱える毎日となりました。私は本帰国までにクリスチャンとして色々なことを学びたい気持ちでしたので、このような状況になり、どのように歩めばよいかわからなくなりました。

Zoomを通して、以前より参加していた子育て中のお母さんたちのスモールグループであるJoy Joy奥様会やRidgewood聖書を読む会などに続けて参加し、神様の御言葉より力をいただき、Joy Joy奥様会で皆さんと共に祈りを続けていましたが、なかなかCOVIDー19の状況は良くならず悲しいニュースばかりの毎日に、私の心が落ち着くことはありませんでした。しかし、皆さんと共に祈りをささげているときは、神様から平安を与えられ、祈りがもつ力を改めて思わされました。私は、毎週木曜日、朝晩祈祷会が行われているのを知り、参加したい思いがあるものの、なかなか参加することができませんでした。それは、祈ることが苦手で、Joy Joy奥様会など知っている方たちの中でやっと祈ることができる私にとって、お会いしたことのない方たちの中で、祈ることは難しいと感じたからです。家族以外の誰とも会うことのできない毎日、一日中家族が家にいることで家事も増え、自分の時間をとることが難しくなり、日に日に少しずつストレスを感じていく自分がいました。この状況の中で平安を与えてくださる方はただ一人、私が信じている、主である神様で、祈りが苦手でもいい、どうしてもこの祈祷会に参加をしたいと強く思いました。この思いが強くなったのは、聖霊様が働いてくださり、導いてくださったからだと思います。そして、この祈祷会を通して、神様は多くのことを私に教え、気づかせて下さり、力を与え、平安を与え、慰め、助けを与えてくださいました。

絶えず祈りなさい。(第一テサロニケ 5:17)

  あらためて、私達クリスチャンには、祈りがあたえられていること、そして、祈りを聞いてくださる方、神様がわたしたちと共にいてくださることに、感謝を覚えました。

そして、共に祈る兄弟姉妹を与えてくださったことも、神様からいただいた恵みでした。参加する前は、お会いしたことのない方たちやお話しをしたことのない方たちと、ともに祈ることが、私にはできるだろうかと不安でしたが、なかなか人と会えない中で、オンラインを用いて、遠くに住んでいる方たちや普段お話しをしたことのない方たちと交わる機会、祈る機会を与えてくださいました。

祈ることが苦手な私に、神様はCOVIDー19という厳しい状況下を用いて、祈祷会に参加するように招いてくださいました。そして、この祈祷会を通して、ゆっくりゆっくりと私の歩幅に合わせて神様は私を洗礼まで導いてくださったように、祈りについて…神様はゆっくりゆっくりと今も私に教えて下さっています。祈りとは、神様との対話、神様との親しい交わりであり、そして、神様は特に私に足らなかった、とりなしの祈りについて教えて下さいました。今までの私は、自分の願い、思いを中心にお祈りをしていました。祈祷会で、創世記を皆さんと読みすすめている中で、創世記18章の、ソドムとゴモラのために、神様の前に立ち、熱心に神様と向き合う、アブラハムのとりなしの祈りをする姿に思わされました。

創世記28章で、ヤコブは、父イサクから祝福を受け、母リベカの兄ラバンのところへ向かう旅を始めました。しかし、ヤコブは旅の途中、不安を覚えているところに、神様はヤコブに「わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守る。」と語ってくださり、ヤコブは「私はそれを知らなかった。」と応える姿に思わされました。私は日本での信仰の歩みに関して、先が見えない不安ばかりに目を向けている自分であることに気付かされました。この聖書の箇所から、弱さや困難を覚えているとき、私達は神様がそばにいて下さっていることに気づくことができないことがあり、そのような時、神様は私達の前にあらわれ、力強い言葉を語りかけてくたさる方で、主は、私がどこに行っても、守ってくださり、信仰が歩める場所に導いてくださる方、

あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。(詩篇37:5)

神様に目を向けること、そして、神様を信頼し、神様に委ねることを、祈祷会を通して、あらためて教えていただきました。

何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いを、キリスト·イエスにあって守ってくれます。(ピリピ4:6-7)

私の大好きな御言葉です。神様に感謝を持って祈りと願いをささげる。このCOVID-19が落ち着いたあと、神様は今までとは違う新しい道を作ってくださることを期待し、神様の御心を尋ね、神様に委ね、これからもゆっくりゆっくり信仰の歩みをすすめていけたらと思います。

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聖霊様に導かれて

私が洗礼に導かれて行った時のお話をさせて頂きます。

私の若い頃から、クリスチャンではなかった母が、しばしば、聖書は世界最高の書物だと言っていました。また、母は、教会や賛美歌を美しいものとしてとらえていたように思います。しかし、残念ながら私の日本での生活では殆ど教会に行くチャンスはありませんでした。

しかし、アメリカの生活が始まった頃からは少しずつですが教会に足を運ぶチャンスに恵まれる様になりました。何故ならば、元夫がカトリックのクリスチャンであったからです。夫の行動には素直に従って付いて行っていましたし、彼からの特別の強制も無かったので、自然な感じで教会に足を踏み入れていました。それから年月が経ち私達夫婦にも色々な試練が起こりまして、細かな話は致しませんが離婚に至る迄になりました。

そうこうしているうちに、子供達との三人の新生活にも大分慣れてきていた頃に、あるクリスチャンのピア二ストの友達の誘いで教会の礼拝前の音楽奉仕に参加させて頂く事になりました。そこは現地の教会でした。奉仕の後、すぐ帰るのも失礼な様な気がしまして、英語の弱い私でしたが、解らないながらも、どうにか礼拝の終りまで出席するようになりました。唯々牧師さんの素晴らしい人柄が滲み出ていたお説教に聞き入っていました。勿論英語なので理解する事は難しかったのですが、それなりに不思議な世界に浸っている自分がいました。そして、何時しか聖書の世界を知る上でも日本語の教会に行きたいという思いになっていました。

その様な矢先、別のクリスチャンの友人から、「私の行っている日本語教会に来ないか」との誘いがありました。「実は私も日本語教会に行きたかった」という事を告げ、直ぐOKの返事を致しました。彼女は祈りのハンナ(聖書のサムエル記に出てくる熱心に祈った女性の名前)と言うあだ名が付いている位祈りを大切にしていました。多分祈りの中に私を見たのでしょう。突然の誘いに不思議さも感じない訳では有りませんでしたが。

そこの教会の場所はニュージャージー日本語キリスト教会がお借りしているザイオン教会の様に立派な建物ではなく、一人の教会員の家でした。私にとっての「教会」のイメージは、外目に見ても教会だとわかるような建物だったので最初は少し驚きました。このような所でも教会として成り立っていけるのだろうか、と思いましたが、友達がいたので大丈夫という安心感はありました。私にとってのそこでの最初の礼拝で心に留まったのは、説教以外の話で、牧師さんが「来週は日本に行く前の最後の週なので洗礼を受けたい方のチャンスですよ!」と言われたことでした。勿論それは私にとっては全く無縁の世界という思いで聞いていました。

その同じ週に、私に思いも寄らない事が起きました。日本からの姉の電話で、母が半年もつかどうか解らない状態である事を医師から告げられた事を知らされたのです。その電話口で二人で暫く時間も忘れ、泣き崩れていた事を覚えています。
それから直ぐに、祈り方も知らない私は生まれて初めて手を合わせ、「神さま」という言葉を口にし、私の思いを神様に聞いて頂きました。その祈りの中で、礼拝のときに牧師さんの言っていた事が思い出されました。洗礼を受けるという事の意味も、何も知らない私は、直ちに洗礼を受けて、神さまに、私の思いを母に告げるパイプ役、橋渡しになって頂こうと思いました。
聖書の勉強もした事が無く、中身も全く解らず、心の準備も十分に与えられずの洗礼でしたが、牧師は心から喜んで授けてくださいました。この牧師は、洗礼を受けたいという気持ちが先ずは大切で、それから聖書の世界を知る方が深く理解出来るのだという御考えをお持ちの方でした。
でも本当に何も知らなかった私には学びもとても大変なものでした。しかし、洗礼を受けた後で振り返ってみた時に、人にはそれぞれ洗礼を受けるタイミングがあって、私にとってはこの様なスタイルが相応しい形だったのだと、思いました。

いよいよ迎えました洗礼式は涙涙でした。全く泣く事を予想していなかった私は人前で大泣きした恥ずかしさで一杯でした。人前で泣く事は当時の私には実に恥ずかしい事でした。お願いだから私の涙を止めて下さいと、洗礼中ずっと願っていました。その当時の私は、流した涙がどういうものなのか、どこから来たのか、全く理解出来ませんでした。その涙を通して、私は不思議なものを見ました。勿論聖霊という言葉、存在すら知らない私だったので、目に気流の様なものが見えましたが唯の目の錯覚という思いでいました。今から思えば全てが聖霊様に導かれていた私の洗礼式迄の行程ですが、十字架によって贖われた私の罪を示す涙だったのだいうことがわかります。涙で終わった洗礼式も、今では、私の罪がきよめられた喜びの証しとなっています。不思議な事に、それから半年と言われた母の命も、三年の時間を与えて頂く事が出来ました。感謝の喜びでいっぱいです。
聖霊の働きは、陰の力、縁の下の力と目立たない存在です。私の日々の祈りの中でも、神さま、イエス様と頻繁に呼ばさせて頂いておりますが、聖霊様をこれからも沢山お呼びして、祈りの中心になって頂きたく思っています。
聖霊様有難うございます。この様に聖霊様によって今回の証しを書けるこの時にも感謝致します。これからも宜しくお願い致します。

「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない。」

コリント第一の手紙12章3節

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振り返って神の祝福を実感する – 福音と共に成長した証し-

わたしは子どもの頃、神の言葉と福音のメッセージを聞きながら育ちました。両親はクリスチャンで、私と弟を毎週欠かさず教会に連れて行きました。そこで私は、神が人間を創造されたこと、罪がどのようにしてこの世に入ってきたのか、そして私たちを地獄から救うためにイエス様が犠牲になられたことを学びました。子どもの頃,わたしたちは永遠の命と永遠の苦しみについて常に思い知らされていました。教会の長老たちが口癖のように言っていたのは「もし今夜死んだらあなたはどこに行くのか?」という言葉でした。自分がこのままでは地獄に行くのだと知っていましたが、小さな子どもだったわたしにとって、死はとても抽象的に思えたので、あまり深く考えたことはありませんでした。母は病院で薬剤師として働いていたので、家にいない夜が多かったのですが、父は母が働いていた病院の前を車で通ると必ず 「さあ、おかあさんに手を振って!」と言っていました。ある日、母の働いていた病院の前を車で通り過ぎた時、「ここがママの職場 」とは思わず、「ここは病気の人がいる場所 」と思ったのです。わたしの祖父はその何年か前に亡くなっていたのですが、亡くなる数日前に両親に連れられて、もう一度祖父に会いに病院へ行きました。ベッドで寝ている祖父を見て、なぜいつものように起きて私たちに話しかけてこないのだろうと不思議に思ったことを今でも鮮明に覚えています。それが祖父だとはわからないほどでした。帰りの車の中で、これらの記憶や考えが頭の中を駆け巡り、死はとても現実的で怖いものだと気付きました。教会の日曜学校で、先生が「天国に行く唯一の方法は、あなたの罪を背負って十字架で死んだイエス・キリストを信じることです」と言っていたことを思い出しました。両親に毎日怒られていたので、自分が罪人であることを知っていました。そして、両親に対して、何度も「ごめんなさい」と謝ったのと同じように、自分は罪人であり、自分ではどうすることもできないことを神様に悔い改めなければならないと思いました。そして、その夜、私はキリストを受け入れたのです。私はとても幸せな気持ちになりました。その時はまだ8歳でしたが、それくらい幼くても、救いの喜びを味わうことができたのです。

ここまでは、私がどのようにしてキリストのもとに来たのかということを書いてきました。しかし、正直なところ、私のライフスタイルが変わるようなことは何もありませんでしたし、一人の人がイエス様を信じる時に経験するような試練は一つもありませんでした。これは神を中心とした家庭で育った者の特権だと思います。しかし、キリストを受け入れた後に私の試練は始まりました。私はクリスチャンになったことをすぐに両親に話しましたが、私の行動は何も変わらず、あまり簡単に信じたように見えたのでしょう、両親は信じてはくれませんでした。このことにとても傷つき、私は自分がクリスチャンであることを隠して学校生活を送っていました。クラスメートは、私が通っていた教会が他の教会に比べてとても厳しいことを知っていたので、いつも私のことを「良いクリスチャンの女の子」と思っていたり、私がどうやって楽しんでいいかわからないとか、私がとても頑固者だと思っていたりしました。そのため、自分がこの教会の一員であることが恥ずかしくて、恥ずかしくて、クリスチャンであることは、ルールを守らなければならないので、私の人生はつまらないものになってしまうのではないかと思いました。それに加えて、私は学校で唯一のアジア系の生徒だったので、自分の文化を楽しむ機会もありませんでした。学校に馴染むために、クラスメイトと同じように話したり、同じ音楽やテレビ番組に興味を持とうとしたりして、「クールなアメリカ人の女の子 」と思われるようにしていました。大学に入ると、また状況が変わりました。私が所属していた教会の正式なメンバーとなったので、私が守らなければならないルールはより厳しくなりましたが、それに従うのではなく、それとは正反対に生きようと思いました。その中には、女性はスカートを履いて頭を覆わなければならない、クリスチャンではない人と付き合ってはいけない、礼拝の中では楽器は使ってはいけない(全てはアカペラでした)、一切の例外なく日曜日の礼拝には出席しなければならない、そうでないならば、献身的なクリスチャンとは言えない、などのルールがありました。私はこれらの教えの多くには同意できず、反抗的になっていきました。聖書にはこれらの規則についての説明がなかったからです。大学では、教会の教えに反していたとしても、自分のやりたいことは何でもやり、自分が正しいと思うことは何でもすることを選びました。そして、私は自分が、共同体の一員であるという感覚や、さばかれないで愛される体験することを切に求めているのだとわかりました。私とは異なる霊的背景や文化的背景を持つ友人ができましたが、彼らは私が教会で生涯を共にしてきた人たちよりも優しさを見せてくれたのです。悲しいことですが、この時、私は強い信仰を持ったクリスチャンは、自分たちとは違っている人たちに対しての心を持っていないのだと信じるようになり、「良いクリスチャン」にはなりたくないと、神様から離れ始めていました。私は、教会と学校の二重生活をしていて、とても葛藤していました。私の両親、特に父は、この時期に私が幸せではなく、自分の霊的な成長に苦労していることに気がついていました。私たちは家族としても、教会と同じ価値観を受け入れるのに困難を感じるようになり、閉じ込められているように感じていました。このような状況は、家族でその教会を去ることを決意するまで4年間続いたのです。

私の弟は、子どもの時からニューヨークのディスカバリーキャンプという日本人クリスチャンのサマーキャンプに毎年通っていました。そこで彼は同じ日本人の友達と出会い、その友達の多くが私たちの近くに住んでいることがわかりました。そのキャンプの仲間のうち、弟と特に仲良くなった一人の子が、ニュージャージー州メイウッドにある教会に来てみないかと弟を誘ったのです。弟と父は、2017年の11月にニュージャージー日本キリスト教会(JCCNJ)を訪問しました。父はJCCNJの自分たちを歓迎してくれる雰囲気とそこでの人々との交わりにとても満たされて、数週間後に母と私を連れて行ってくれました。私は、それまでの教会を去ることについて父と同意するのに時間がかかりました。ずっと共に歩んできた仲間たちのところを去ることについて、私たちは口論になり、私は3日間泣き続けました。しかし、父の言葉が私にその教会を去る決意を与えてくれました。「あなたは、幸せかい?幸せならここにいてもいいが、神はあなたに賜物を与えたのだから、ここにいてもその賜物を使うことはできない。神は私たちが成長するためにはここを離れる必要があると言っているのだと思うよ。」一ヶ月後、私は初めてJCCNJの礼拝に行きました。最初の頃は、私が育った教会とは全く違っていたので、JCCNJを受け入れるのがなかなかできませんでした。しかし、少しずつですが、想像以上に日本の教会が好きになりました。JCCNJに来たことで、私は本当に新鮮な空気を吸うことができました。私は自分らしくいられるようになり、神様から与えられた関係を通して神様の愛を学び直すことができました。

「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。」エレミヤ29:11

これらの経験は、私の想像をはるかに超えた素晴らしい未来を神様が準備してくださっているということを確信させてくれました。生涯の友だちもでき、生まれて初めて、教会だけでなく、自分の人生全体に神様を受け入れたいと思いました。今では、家族や仕事、そして友人たちと生きていく私の人生を神様が祝福してくださっているのだという確信を持って歩んでいます。そして、心から喜びをもってイエス様への愛を宣言できます。アーメン

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Looking Back and Realizing God’s Blessings – A Testimony About Growing Up with the Gospel

As a child, I was surrounded by the word of God and the gospel message. My parents were both Christian and brought my brother and I to church every week without fail. There, I learned about God created man, how sin was brought into the world, and Jesus’s sacrifice to save us from Hell. As kids, we were constantly reminded about eternal life and eternal suffering. A big phrase all the elders used was “if you died tonight, where would you be?” and I knew that I would be going to Hell, but death for a small child seemed like a very abstract concept so I never thought about it too much. My mom worked as a pharmacist in the hospital, so there were many nights when she was not home. Every time my dad drove us past the hospital where she worked, he would always say “wave to mom!” One day, when we drove past her hospital, instead of thinking “this is where mom works,” I thought, “this is where sick people live.” My grandfather passed away a few years before and a few days before he died, my parents brought me to the hospital to see him one more time. I still have a very distinct memory of seeing my grandpa sleeping in the bed and wondering why he wasn’t waking up and talking to us like he always does. I did not recognize him at the time. So in the car, on the way home, these memories and thoughts ran through my head and then did I realize that death was a very real and scary thing. I remembered that in Sunday School, the teacher would say that the only way to go to Heaven is to believe in Jesus Christ who died on the cross to bear all your sins. My parents would yell at me everyday so I knew that I was a sinner, and just like I repent to my parents many times, I had to repent to God that I was a sinner and could do nothing to help myself. I received Christ that night and was felt very happy. I was only 8 years old at the time, but I was able to enjoy the joys of salvation even at a young age.

This testimony of how I came to Christ but honestly, nothing life altering to my lifestyle and I did not have to face any trials a child to believe in Jesus. This comes with the privilege of growing up in a God-centered household, however, it was the time after I received Christ where my trials began. I told my parents right away that I became a Christian, but they were skeptical because my behavior didn’t change and it seemed too easy. This hurt me very much and I would go through my school days just keeping it to myself that I was Christian. My classmates knew the church I went through was very strict compared to other churches so they always pictured me as “the good Christian girl” or that I didn’t know how to have fun or I was very stuck up. This made me shameful and embarrassed that I was part of this church and that being a Christian would mean that my life would be boring because I must stick to the rules all the time. In addition to that, I was one of the only Asian students in my school so I didn’t have an opportunity to enjoy my culture either. As I went through school, in order to fit in, I would try to talk like my classmates and be interested in the same music and TV shows as my classmates so I could be seen as a “cool American girl.” When I went to college, things changed again. I joined as an official member at my church so the rules became more strict, but instead of following, I decided to live in the complete opposite way. Some rules were that women had to wear a skirt and head covering at all times, no dating non-Christians, no instruments during worship (everything was acapella), and you must attend Sunday worship without exception in order to be seen as  devoted Christian. I did not agree with many of these teachings and went through a rebellious stage because there were no explanations to these rules in the Bible. In college, I did whatever I wanted and chose to do whatever I felt right to do, even if it was against the teachings of the church. I realized that I craved a sense of community and experience love with no judgement or conditions. I have made friends who come from different spiritual and cultural backgrounds than me, but they have shown me more kindness than people I have known for my whole life in the church. As sad as it sounds, at this time, I created a belief that Christians with strong beliefs lack heart for others created differently from them, so I started to push myself away from God because I did not want to become that person of a “good Christian.” I was very conflicted living this double life, one for church and one for school. My parents, especially my dad, could see that I was unhappy and struggling with my spiritual growth during this time. Our family as a whole, were having a difficult time accepting the same values the church did and feeling like we were trapped. This progressed for 4 years until we decided as a family to leave that church.

My brother, went to a Japanese Christian summer camp in New York called Discovery Camp every year when growing up. There, he met many friends who were also Japanese and we found that many of these friends live close to us. One camper who was particularly close with my brother offered him to come visit his church in Maywood, New Jersey. My brother and dad visited the Japanese Christian Church (JCC) of New Jersey in November 2017. My dad was very pleased with the welcoming atmosphere and fellowship at JCC and brought my mother and myself weeks later. It took a long time for me to agree with my father to leave our church. We argued and I cried for 3 days thinking about leaving certain friendships. But it was what my dad said that gave me the determination to leave – “Are you happy? If you are, you can stay, but God gave you a gift and you will not be able to use your gift staying here. I believe God is telling us that we need to leave in order to grow.” A month later, I went to my first JCC worship. I was very stubborn to accept JCC in the beginning because everything was so different from the church I grew up in. Slowly, though, I have come to love the Japanese church more than I could every imagine. Coming to JCC has really given me a huge breath of fresh air. I was able to be myself happily and relearn God’s love through the relationships He gave me. In Jeremiah 29:11 it says “For I know the plans I have for you, declares the Lord, plans for welfare and not for evil, to give you a future and a hope.” These experiences of my life really affirmed my belief that God has a wonderful future waiting for me that is far beyond my imagination! I have made lifelong friends and for the first time in my life, I want to incorporate God into my whole life, not just at church. Now I live with certainty that God has blessed my life with family, work, and friends and I can declare my love for Jesus with joy from my heart!! Amen!

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「今までの歩み」

私は兵庫県朝来市という田舎の出身で、小学生の私が学校から家に帰るときよく目にしたものといえば酪農家、又は肉牛を育てているおじさんが牛を散歩しているところでした。そんな田舎ですから、クリスチャンは周りにはほとんどいません。その私がなぜ神様を知るようになったかお話します。

私は幼いころから地元にある少年少女のためのオーケストラに所属しており、打楽器を1 0歳ぐらいからそこで始めました。本当はピアノが大好きでピアニストになりたかったのですが、中学校の先生に「ピアニストなんかなれるわけない」と言われてピアノの道はあきらめました。でもクラシックが小さいころから大好きで音楽の道へすすむことになり、打楽器だったらなんとかなるかも、と言われ、当時はほとんど嫌いになっていた打楽器で先に進むことになりました。今思えば、このときから全部神様の御手の中にあったんだなあと思い感動しています。

大学は京都市立芸術大学へ進みました。そこで出会った先生が京都芸大の教授兼、牧師先生でした。先生は日曜になると家で礼拝をされます。学校でも神学の授業をされていたので、私もその授業を受けていましたが、その時はなんとなくいい話だなぁとは思いましたが、キリスト教自体には全く興味をもちませんでした。聖霊様のお働きなしには、神様の事は理解できないんだということを身をもって体験しました。先生はとても厳しかったですが、学校に真面目に来ない生徒にも、留年した生徒にも、また優秀な生徒にもいつも平等に接されていて、知らない間にとても尊敬していました。周りにもクリスチャンになった先輩や後輩がたくさんいました。 キリスト教には関心がなかったのですが、クリスチャンってみんな親切だなあという印象を抱いていました。

日本での大学生活は苦しみの連続でした。一番私を苦しめていたのはボーイフレンドとの関係だったと思います。私は彼氏という存在にひどく依存し、私を助けてほしい、救ってほしい、そんな思いがいつもありました。その気持ちがいつも暴走して、結果いつも相手を傷付けてしまい、最終的には嫌いあって別れるということばかりを繰り返していました。今では、こうなってしまった原因がなんとなくですが想像できます。私は13歳の時に父を胃ガンで亡くしました。その時、父親という絶対的な存在だと思っていた人が弱っていく姿を目の当たりにしました。急に細くやせこけて、自分で瞼も閉じられなくなった父、床に伏せって泣く母。もしかしたら私は家族から得られる心の土台的な何かをどこかに忘れてしまったのかもしれません。母には自分の悩みなどはほとんど相談しなくなりました。母が私の悩みをひとりで受け止められるか分からなかったのです。そして、ボーイフレンドの中に心の支えを見出そうとしていたのだと思います。でもそんなことがうまくいくはずもないことにずっと気づかず、結局は寂しさを積み重ねることを繰り返していました。

大学4回生になり、就職の時期が来ました。そのころすべてのダメージが体に表れていた時期で、よく体調を崩していました。夢とか目標とか何にもなかった私は人に勧められて自衛隊の音楽隊のオーディションを受け、なぜか落ちました。近所の高校生が受かっているのになぜ、と思いましたが、それもそのはずです、私は楽器の練習を全然していませんでした。何をするべきなのか、道が全く見えなくなっていました。実家に帰ってバイトしようと思いましたが、その道を選べば音楽はやめることになります。牛が散歩するほどの田舎に音楽の仕事はほとんどありません。私はそれでも良いと思いました。自分が演奏することに価値があるとは思えませんでした。でも私の先生だけがいつも励ましてくださいました。本当に尊敬する先生から「続ける事が大事」と言われたので、そうですか、じゃあ続けます、そのぐらいの軽い気持ちで続けることになりました。とはいえ、大学院に行くお金は一切ありませ ん。ちょうどその時、シンガポールに全額奨学金がでて、生活費ももらえる大学がある、ときいてシンガポールに行くことにしました。 シンガポールに行ってからもまだ同じ問題を抱えていましたが、ある夏休み、日本へ帰った時にクリスチャンの友達にこのことを相談しました。そうすると、「瑞生ちゃんの悩みは教会でしか解決できんと思う」と言われました。その言葉にすぐ従いました。本当に変わりたかったのです。そして自分の打楽器の先生が牧師をされている教会へ行きました。牧師の奥さんが「何か祈ることある?」と聞かれたとき、とっさに父親がいないことがたまに寂しいといいました。そうするとその方が「そっか、お父さんのことも神様に預けようね」とおっしゃいました。その言葉が自分にはとても衝撃でした。仏教の考え方では死んだ父を礼拝する感覚が強かったのですが、死んだ父よりその上の存在がいるとは考えたことがなかったのです。神様はあなたを愛しています、とはよく聞くけど、神様が私も、そして私の家族も愛している、と聞くことが本当にうれしくて涙がでました。

シンガポールに帰ってからしばらくは当時のボーイフレンドと付き合っていましたが、その人はヒンドゥー教徒であったため、 イエス様だけが道だということが納得できず、何回も大げんかをしました。私もほぼ知識がなかったのでかなり流されかけ、そして教会でも異教徒の彼をあまり歓迎する雰囲気でなかったのでかなり苦しみました。でも神様に「真実を教えてください」と祈っていくとき、 やっぱり逃れられない真実、「イエス様だけが道であり、真理であり、いのちである」をいろいろな方法で示されました。

 

「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)

 

そしてその人と別れてから、そのことをまっすぐ受け入れることができました。今思えば、神様は本当に私のことを離さずにいてくださって、いつも守ってくださっていたのです。そしてイエス様の十字架で示された愛をもって神様は私たちを愛してくださっていて、こんな小さなものを贖ってくださったことを感謝しています。

私のような田舎の出身者が、ジュリアード音楽院まで来ることができたのは、奇跡としか言いようがないと思います。小さい頃から英才教育を受けたわけでもなく、なにより田舎に住んでいたのでコンサートもほぼ聴きに行ったことがなかったです。私は正直今でもなんでこんな人生になったのかよく分かりませんし、特に名をあげたいとか、有名なオーケストラで働きたいと思ったことも一度もないです。周りの人と比べると経歴も情熱も知識も明らかに欠けていたので、なんでここにいるんだろうといつも不思議でした。でも、そんな私だということは神様は百も承知でここまで導いてくださったと思うので、神様のご計画の1パーツとして栄光をあらわすことができたらと、小さいながらに願っています。

これからの予定は、半年ほどは日本に帰ってオンラインで授業を受けようと思っています。日本に帰っても、ニューヨークに戻ってきても、イエス様をもっと知っていけますようにと願っています。イエス様を知る事が私の人生に大きな喜びをもたらすこと、そしてなによりも神様がそれを喜ばれることを確信しています。

最後まで私の証を読んでくださってありがとうございました。

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「想定外の高校生活を通して神様に気づかされたこと」

病気をしていた長い間、皆様にお祈りいただいたことを感謝します。高校時代、いろいろな体調不良が続き、Sophomore(高校4年のうちの2年生)だった2018年春ごろから体調を崩し、学校を休みがちになり、手術や、何人ものドクターによる治療を受けても痛みがとれず、夏はほとんど薬により眠り続け、2018年秋のJunior (高3)になっても初日しか登校できませんでした。回復しない不安、同い年の子に遅れを感じる焦りが日に日に強くなり、精神的にも追い詰められていました。

そのような中、出席日数が足りないと、当時通っていた高校に呼び出され、ドクターズノートを複数の担当医師から入念に書いてもらって家庭学習を受けていたにもかかわらず、テストは指定時間に受けるようにとか、冬休み返上で課題を提出するようになど、学校側の正しい理解と協力が得られず、体力的・精神的な限界もあって転校することを決意しました。

当時は体の薬への拒否反応か、夜飲んだ薬も次の日の昼までうなされる程の通常より強い副作用の症状に悩まされました。しかし、午後から夕方にかけては、どうにか机に向かうことができたので、それまでの現地校のようにベルが鳴ったら次の教室に向かう時間割でなく、自由な時間帯に学習できる学校を求めていました。その結果、兄の友人が卒業した、TIHSという日本の通信制の高校に転入することができました。

TIHSは、日本の高校卒業、アメリカの高校卒業、またその両方を選ぶことのできる、リモート(コンピュータを通じて)のみでも卒業できるという最新型の学校でした。本校はワシントン州にあるのですが、私は日本で治療を受けることになる可能性もあったので、東京にある日本校に2019年2月に編入しました。ニュージャージーの自宅から一歩も出ずに高校の学習が続けられるという、当時の私にベストの環境を神様が備えてくださったことを感謝しています。TIHSは「オンラインスクール」とも少し違い、ワシントン州認定の高校カリキュラムに基き、週1度のスカイプ面談でラーニングコーチの指導があり、各教科の勉強を基本的には生徒が自主学習で進めるシステムです。学習目標の設定、自習、成果物の提出、単位審査を通して、各自に合ったペースで単位制学校だったので、私の健康状態による学習の遅れに対してもすごく理解があり、薬が変わって1週間動けなくても、体調の許すときにぶっ通しで勉強したりできたので、私にはうってつけでした。この画期的な学校システムは、周りに説明が難しいこともありましたが、未開拓地を切り開くパイオニアになれた気がして、体調が優れず部屋でうずくまっている私にも、コンピュータからアクセスできる数時間により世界が広がりました。今振り返ると、このレアな体験こそ、神さまが私に、「ネットの可能性」と「現場に執着しない」という、2つのことに気づかせるために導いてくださったのだと理解しています。

神様を通して気づかされたことの1つは、私がいるこの時代は、テクノロジーを使いこなせば可能性は思っているよりも広い、ということです。TIHSに転入する前も、別段コンピュータに疎いわけではありませんでした。しかし、一度も対面したことがない先生の元で学習をしディプロマを取得できる時代だとは、TIHSと出会うまで本当の意味で意味がわかっていませんでした。リモート学習とは、例えば、物理は解説ウェブサイトなどを通し動画や練習問題を解き、提出物はグーグルプラットフォームを通して日本へ数秒で提出でき、質問はメールで日本やワシントン州などと無料でやりとりができ、ビデオ通話で学習のアドバイスなどを受けるということです。実際学習を始めると、スペイン語でも、物理でも、自分のペースで教科書や解説動画を理解しようとするので、現地校で授業を受けていた頃よりも自分の勉学に責任を持ち、理解できていない学習範囲の動画をくり返し見て、わからないまま次の範囲へ進まないようになりました。そして、残り2年分の単位を1年弱で履修し終わり、同級生よりも半年早く卒業にこぎつけたのです。このように、ネットはもはや新しいツールとしてこの時代にあるだけでなく、使い方によれば学校制度や地理的制約といった社会のシステムまで変えているのだということをTIHSで身をもって体験しました。そして、この新たなネットの可能性を知った私は、テクノロジーを正しく理解し、使いこなせる人になりたい、と強く思うようになりました。(TIHSで学習していた頃は、数年後にはこのネット学校が普及するのだろう、と感じていましたが、2019年12月に卒業してから半年も経たずに現実にこのCOVID19状況下でリモート授業が社会に浸透した今、リモート教育を使いこなせる先生方に出会え、教えてもらえたことに感謝しています。)もちろん、新しいテクノロジーに飛びつくのでなく、どう使いこなせば可能性が広がるか等、必要性を見極める力も重要であることを充分理解しつつ、これから開発されるであろう新たなツールに柔軟に対応できる能力をつけたいと思うようになりました。

そして体調が次第に回復し教会へ行けるようになった頃、「今できること」の一つとして、教会の中高生たちと賛美動画を作成しYouTubeで配信する「B.I.G. Praise House」のプロジェクトを始めたい、という思いに導かれました。JCCNJに通うユースは、日本語と英語を使えるので、賛美歌を2か国語で歌い、アメリカにいる日本人、日本にいるクリスチャン、世界中の日本とアメリカに興味がある人に届けたい、とそれなら療養中の私にも出来るのではないか、と思ったのです。初めは中高生グループに動画作成に協力してもらえるかの不安、動画編集への不安、著作権への不安、発信した反響への不安など、色々と不安を抱えていたのですが、

「ですから、わたしの愛する兄弟たちよ。
堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。
あなた方は自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているのですから。」
コリントへの手紙第一15章58節

Therefore, my brothers, stand firm. Let nothing move you.
Always give yourselves fully to the work of the Lord,
because you know that your labor in the Lord is not in vain.”
1 Corinthians 15:58

のみことばに後押しされ、教会の仲間たちにこの企画を提案したら、思いの外、好意的に受け止めてもらえ、ピアノが得意なメンバー、ギターが弾けるメンバー、ボーカルで参加してくれるメンバーなどに恵まれ早速プロジェクトが動き始めたのです。著作権も、賛美したい曲の権利を持ついくつかの団体から返信をしてもらい、金銭の発生がないならと、承諾していただけました。動画編集も、友達からソフトへのアクセスアカウントを貸してもらえて、YouTubeで編集の仕方を少しづつ勉強し、なんとか1本目の賛美動画が作れました。いざアップロードしてみると、初めはメンバーの知り合いが視聴者のほとんどでしたが、1年が経った今、初期の動画は3千回の再生回数を突破していて、アメリカや日本に加え、最近は台湾やタイなどからも多くアクセスされているようです。このように、当初願っていたよりも広い地域から反響があり、直接面識のない方から「God Bless all of you!! God Bless Japan!! Greetings from Brazil!」とコメントしていただけたことにより、このプロジェクトを通して世界に賛美を届けることは格別大げさなことではないのだと実感し、心からの喜びを感じました。(COVID19で自粛している間、何年も会えていない遠くに住んでいるクリスチャンの友達にも多く参加していただけたり、礼拝堂で共に賛美できなくなった教会メンバーと賛美するなど、賛美動画も進化し続けています。最新の動画は、東京、アムステルダムとニュージャージーからの歌声が1つになりました。https://youtu.be/cmDcOu7uZCg

私が神様を通して気づかされたことの2つ目は、私がいるこの時代は、「場所にこだわらなくてもいい」ということです。TIHSは完全にオンラインの学校だったので、2019年12月の卒業後、年末の日本への旅行で学校を訪問するまでは、担当の先生を含め学校の先生方と画面上でしかお会いしたことがありませんでした。また、行ったことがないワシントン州の高校ディプロマ(卒業証書)が家に届いたときは、頭では理解していたにもかかわらず、驚きました。元気なころの私は、教室で先生から教わらないと熱心な指導は受けられない、各教科を深く理解するには学校へ通わないといけない、という固定概念を持っていたのです。しかし、TIHSの、校舎に執われないシステム実体験したことにより、今後は学校以外のことでも「場所」にこだわらなくてもいいのではないかと考えるようになりました。例えば1年ほど前、大学で何を学ぶかを考えていた際に国連の日本スタッフ募集のガイダンス説明会へ話を聞きに行ったのですが、難民キャンプに医師は必要だが、歯科医は送っていない、今のところ必要ないと言われました。その頃、近所の歯科医院で働かせてもらっていて、将来歯科医になる夢を持ち始めていた私は、歯科が国際機関でさえ後回しにされていることを知りショックでした。難民キャンプで腕から血を流している少年の傷口を治療する方が、虫歯だらけの歯を治療するよりも優先順位が高いことは分かっていても、国連スタッフから聞いた歯科は国連で必要とされていないという言葉が私の中から消えませんでした。なぜなら、いくら難民キャンプの少年の腕の傷を治しても、歯の健康が保たれていなければ、栄養を摂取できず、せっかく治療した傷口も、自己修復機能が衰えた影響で、雑菌などが完治しない傷口から入り悪化する可能性や、骨に栄養が届かず、折れやすくなる可能性も十分考えられるからです。そして、このCOVID19の影響で、医師さえも自由に現場へ行けなくなった今、歯科は感染リスクが高いため、私が勤めている地元の歯科医院も2ヶ月以上の閉鎖が続きました。考える時間が増えたこの自粛期間中に、私は、COVID19が解決したとしても歯科の弱点と向き合いたいと思うようになりました。私が思う歯科の弱点とは、内科医はリモートで診察ができ、薬を処方することが可能になったのに比べ、歯科はリモートで診察しようにも口の中を写す高性能の機材が必要だったり、虫歯の色が見えにくかったりすることに加え、虫歯を遠隔で治療するのは難しいということです。しかし、治療が必要な歯を何ヶ月も放棄していると、その歯は想像以上に悪化し、神経にまで進行してしまうと、痛いだけでなく、脳卒中を引き起こす原因になると言われており、このCOVID19で緊急事態宣言明けを待たざるを得なかった歯科の現状をこのままにしておきたくないと思ったのです。遠隔でも治療する方法や予防する方法を見つけられたら、次のパンデミックまで待たずとも、難民キャンプにいる患者さんの力になれるのでは、と考えています。このリモートと歯科の融合を模索する中、最近普及しつつある「イビザライン(Invisalign)」という新しい歯科矯正技術に今後の歯科の可能性をすごく感じました。それは、初めの診察時にペン型の小さな3Dスキャンナーを使い、患者さんの歯のデータを、えずくことなく型取りし、コンピュータに3Dの模型を作り、従来の矯正では2週間ごとにワイヤーを締めに矯正専門医のオフィスへ通わないといけなかったのが、この技術では3D模型を使い、微妙に違う形のプラスチックのマウスピースを3Dプリンターで作り、1週間ごとに新しいマウスピースを装着し、歯が徐々に動き、綺麗な歯並びに変わる仕組みになっています。このInvisalignは、診察の回数を減らすことができ、経過が順調であれば夜のみの装着でも効果が期待でき、ワイヤーがないので歯磨きやフロスも普段通りできる、画期的な技術だと私は捉えました。歯ぎしりする癖がある人は奥歯の噛み合わせが合わなくなってしまうこともあるようですが、歯科の世界でのこの進歩が遠隔治療へつながっていくのではないかと期待でき、ワクワクするのです。まだ遠隔で虫歯を治療する方法は見つかっていませんが、TIHSで「場所にこだわらない方法を見つければ良い」という新しい概念に気づけたおかげで、歯科も現地へボランティアに行くことが全てではなく、ニュージャージーからでも力になれる方法があるはずだと思い、今後の歯科の可能性を模索しながら歯科医になる道を歩みたいと今は願っています。

具体的に歯科医になる第1歩として、この秋からの大学進学することが決まりました。TIHSへ編入した頃は、大学進学の目処が立っておらず、学校の特殊性から興味がある各大学に問い合わせをしなければならず、受験できる大学も限られてしまいました。

Delight yourself in the LORD and he will give you the desires of your heart.
Commit your way to the LORD; trust in him, and he will act.”
Psalm 37:4-5

「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」
詩篇37篇4-5節

のみことばの通りに、大学進学の準備に間に合って体調の回復が与えられ、大学の門戸が開かれたことに感謝しています。Agnes Scott College というジョージア州のアトランタ郊外にある女子大に進学することに決心しました。そこで4年後デンタルスクール受験の準備をする予定です。しかし、歯科医になることは私の自己満足でなくVocationなのか、神様の私へのコーリングは歯科医になることなのか、まだはっきりとわからないでいます。しかし、確実に言えるのは、私がニュージャージーに生まれ、日本語と英語の能力を身に付けられる環境を与えられ、日米両国の文化の中で育って双方の「良い所どり」ができる視野を養ってくださったことは、全て神様のご計画だった、ということです。私は、この与えられた生い立ちを活かし、グローバルスタンダードを目指す一人として歩みたいと願っています。歯科で言えば、先進国と呼ばれる日本やアメリカでも、現状はお金がある家庭は歯ブラシやフロスなどが使え、虫歯になれば治療ができる一方、貧困に悩まされる地域では歯ブラシの習慣がない家庭もあり、40代で全部の歯を失う人も多くいます。私が目指したい歯科のグローバルスタンダードとは、格差がなく歯科予防の指導を受けることができ、歯科医院が身近な存在になり、生涯入れ歯を作らなくていい人が、どの国でも普通になることです。(しかし、グローバルと、世界を目指す前に、私はニュージャージーのBergen Countyという偏った地域にいる限り、アメリカさえ知らないのだと、トランプが当選した時や、最近のBlackLivesMatterの運動を通じて、これまで以上に思うようになりました。)これまでと違う世界を知るため、私はこれからの4年間、住み慣れた地元を離れ、景色の違うアトランタへ行く決意をしました。アメリカ南部の経験したことがないので、今心の準備をしているところです。さらに、健康不安を抱きながら初めて親元を離れ、感染が拡大している州へ行くので、守られますように、4年間の学びが全うできますように、教会が与えられますように、そして、経済的な支えがありますように。これまでも沢山お祈りで支えていただきましたが、これからもお祈りしてください。

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誠実なる神様に守られて

NYでコロナウィルスの感染が拡大し始めた3月2日の仕事帰りの地下鉄の中、ルームメートから今月末でアパートを出ようと思っているので、契約を引継ぐか出ていくか決めて下さいというメールが入っていて呆然としました。一か月を切っている中で、仕事をしながらのアパート探し、片付け、引越し、しかもコロナウィスル感染が拡大しつつあるこの環境下で。

頭が真っ白になる中で「神様、助けて下さい!!!」と祈りました。NYでのアパート探しは簡単ではなく今月中に見つけて引越せるのか。。。不安な気持ちでいっぱいでした。でも「神様に不可能はない!必要を満たして下さる神様が絶対素晴らしいことをしてくださる!主よ、あなたが栄光を現して下って御業を成して下さったら証を書きます!」と祈り、ふっとよぎるマイナスな思いを口にはしないようにして「必ず主が栄光を現して下さるから大丈夫!」と自分自身に言い聞かせ祈りました。

錦織先生、SGメンバーに連絡をしてお祈りをお願いし、知り合いの方々に不動産屋さんを聞いたり、教えてもらったウェブサイトをチェックして連絡をしたりと行動を起こしましたが、すぐには動きがなく、更なる祈りのサポートの必要性を感じ、祈り手の皆さんへのリクエストも出させて頂きました。皆さんのお祈りに支えられながら行動していく中で、会社の同僚経由で知り合ったブローカーの方が物件を紹介してくれることになりました。私の希望はクイーンズのアストリアかフォレストヒルズでした。フォレストヒルズのお隣のレゴパークで紹介できる物件があるということで内見の約束をしました。

3月5日内見に行く日の朝、内見を予定していた部屋は決まってしまったとの連絡がありました。同じビルに家賃は少し高くなるけれども空いてる部屋があるので興味があれば今日見せられると言われ、丁度その週末にフォレストヒルズにあるアパートのオープンハウスに行く予定にしていたので、そのアパートを見に行った後、フォレストヒルズのアパートに行って祈ってこようと思い、バジェットを超えていて興味のない物件ではありましたが内見に行くことにしました。

他にハーレムやブルックリンのアパートも紹介されましたが、私の希望はアストリアかフォレストヒルズであることを再度伝えたところ、その後、電話があってフォレストヒルズの物件が出てきたので興味があればレゴパークのアパートを見に行った後、紹介できると言われ、二つ返事でOKしました。

その新たな物件についての詳細をメールで送ってもらい、内容を見た時に「あっ、これだな」っという思いが来ました。そして実際にアパートを見た時に「ああ、ここだ!」っと思いました。今回はアパートの希望のリストを書き出して祈ってはいなかったのですが、私が思っていた条件をクリアしていました。まだリノベーション中で完成するのが3月中旬頃とのことでした。私の中では心は決まっていましたが即答はしませんでした。その翌日、メールを送っていた不動産屋さんの1つから1件アストリアで紹介できる物件があるとのメールがありました。もう遅いんだけどなぁと思ったのですが、そこを見ることでフォレストヒルズのアパートが神様が備えて下さっている場所だというコンファメーションになるように感じ、翌日内見に行くことにしました。

思った通り、アストリアの部屋を見ることでフォレストヒルズのアパートが神様からのものだと確信し決断することが出来ました。今回は御言葉を頂くことはありませんでしたが、アパート探しを始めた時からいつも「神様の御心の場所だと私にはっきり分かるようにしてください!」と祈っていて、まさにその祈りは聞かれ、「ここだ!」と迷うことなく決断することができ、主に感謝します。

信じられない速さでアパートは見つかりましたが、その後引越すまで祈りの課題は次から次へと出てきました。まずは審査です。コロナ感染拡大の影響でアジア人に対する差別も増えている中で審査が通るのか不安でしたが無事に通り感謝でした。次はリノベーション。当初3月18日に完成、19日に契約、21日に引越しの予定でしたが、リノベーションが延びて、契約が23日の週前半頃になるとの連絡がありました。NYで外出禁止令が出るのも時間の問題という状況の中で、さらにリノベーションが延びたらどうしよう。。。と不安を感じ祈りました。次は引越しの日。23日の週前半に契約が出来たとしてその週後半の天気予報はほぼ雨。晴れの日に引越しが出来るように祈っていたところ、20日に連絡があり、翌日21日に契約、22日に引越しをすることになりました。そして引越し。コロナ感染拡大で自粛が進む中、2人で来る予定の引越し屋さんがもしかしたら1人になるかもしれないという話を契約直後に聞いて、「えっ、明日引越しできるの?明日の夜から外出禁止令出るけど・・・」と最後の最後まで祈らされ、また祈って頂きました。当日は無事2人で来てくれて、天候も晴れ、外出禁止令が発効される3時間前に引越しが完了しました。本当にギリギリ間に合って引越しができ、主のタイミングの凄さに畏れつつ感謝しました。

神様がなして下さったことはこれだけではありません。いきなり1ヵ月以内に引越さなくてはならなくなって呆然とする私に追い打ちをかけるようにルームメートからインターネットは13日で切るのでその後は自分で対応して下さいという連絡がありました。コロナの影響で在宅勤務となりネット環境は必須です。切れる日が近づいてきてモバイルWiFiを買わないといけないなぁと思っていたところ、丁度大家さんの息子さんが電話をくれたので、今回の経緯を話し相談をすると隣人にインターネットを使わせてもらえるよう交渉してくれることになり、切れる前日から使わせてもらえるようになりました。更にもし3月中に引越し先が見つからなかったら4月も今払っている分の家賃で住めるように大家さんであるお父さんに交渉してくれるとも言ってくれました。助け人を与え、万が一のバックアッププランをも備えて下さった主に感謝でした。

「神様が素晴らしい御業をなして下さったら証を書きます!」っと神様に約束してスタートしたアパート探しでは「神様助けて下さい!」と祈る度に神様は祈りに応え、御業を成して下さいました。そんな誠実な神様に対して、日々の忙しさや体調が良くないことを言い訳に約束を守れていなかったことをここに悔い改めます。引越しをして2か月が過ぎましたが、やっと神様がなして下さった素晴らしい御業についてお分かちできること、そして祈りでもって支えて下さった兄弟姉妹に心から感謝します。

最後に、リノベーションが延びて不安を感じていた時に祈り与えられた御言葉をシェアします。

主は、あなたを守る方。
主は、あなたの右の手をおおう陰。
昼も、日が、あなたを打つことがなく、
夜も、月が、あなたを打つことはない。
主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、
あなたのいのちを守られる。
主は、あなたを、行くにも帰るにも、
今よりとこしえまでも守られる。(詩編121:5-8)

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「勲(いさお)なき我を」

以前、高校生の私がどのよう救われたかについて、20189月の月報に「地のちりにひとしかり」と題して証しさせていただきました。今日はその後どのようにしてNYに来たかをお話しさせていただきます。

私は中学3年の時に福音に触れ、高校1年で洗礼を受けました。その後、泉州から株別れした心斎橋キリスト集会では、20名ほどの高校生が救われ、私は若い信仰の仲間たちと、バイブルサークル、ムディー映画会、バイブルキャンプと忙しい毎日を過ごし、大学生になっても、礼拝、福音集会、トラクト配布や路傍伝道など、大阪市内を忙しく駈けずり回っていました。ところが、4回生の春に信仰の大スランプ?が訪れました。

神の愛を伝えながら、人々への愛が冷めていくこと。全能の神を信じながら、人を恐れること。日本語だけで聖書は理解できるのか。ユダヤ人を知らずして、旧約の神を理解できるのか。平和な日本で信仰は成長するのか。それは自分の信仰への疑念にはじまり、やがてクリスチャン・コミュニティーのぬるま湯の中で生きてきた自分への自己嫌悪に変わりました。迷いと不安と焦りの中で私が出した答えは、ニューヨークでした。

1981年の秋、23歳の私はJFK空港に降り立ちました。所持品はダッフルバッグ2つと200ドルだけ。2年間は大学のESLで英語を学び、長期滞在を望んで永住権を申請しました。NY商工会議所の事務局長にスポンサーをお願いし、3年で永住権を取り、その後すぐ日系の証券会社へ転職を企てました。ウォール街に行けばユダヤ人と出会えると考えたからです。経済の知識も金融の経験もない私でしたが、とにかく某大手証券会社に履歴書を送付し、証券業務の知識を即席で詰め込んで、面接に望みました。

面接官は30代の某国立大学出のエリート駐在員でした。彼にとって私の履歴書はただの紙切れです。証券業務への熱意を必死でアピールしましたが、反応はいまいち。するとなぜかその場に、金色のネクタイをした体格のいい怖そうな人が現れました。新設の営業部の部長でした。私の履歴書を一瞥するや、「なんやおまえも大阪か。」そして若い面接官に向かって一言。「こいつ取ったれ。」これで採用が決まりました。

配属は新設の営業部で、日系の機関投資家へ日本株を売り込む7人の営業マンを補佐する仕事でした。株式の約定の仕組み、為替の決済方法、配当金の支払いや税金と手数料の計算など、知らないことだらけです。取り扱う金額は億単位で、毎日が緊張の連続でした。金融バブル期で朝8時から10時まで残業続きです。ユダヤ人との接触は皆無でしたが、財務分析の基本、景気指標の読み方や証券取引法など勉強になりました。

 

そんな中、1987年10月19日、株が大暴落しました。ブラックマンデー「暗黒の月曜日」と呼ばれます。NYダウ平均が508ドル下落しました。それは歴史的な暴落で、たちまち全業務が縮小され、営業部も解体されました。私は会計管理の事務に回され、そこで1年間ほど退屈な業務を強いられました。そんなある日、一本の電話がかかってきました。転職を斡旋するヘッドハンターでした。

紹介されたのは、金融システムの開発と販売を業務とする米系の会社でした。金融の自由化で、日本の銀行はリスクの高い金融商品を扱いはじめていました。それはデリバティブと呼ばれる金融派生商品で、その複雑な取引には運用管理システムが必要でした。その会社は自社の金融システムを邦銀に販売する営業を求めていました。私は英語も金融の知識も中途半端でしたが、とにかく日本語のプレゼンができるという理由で、面接後すぐに採用されました。

幹部も社員も若く、ほとんどがシステムとファイナンスの専門家でした。上司は大手銀行出身の30代後半の金髪碧眼の超イケメンの営業マンでした。ドイツ系アメリカ人らしい結果第一主義者で、ノルマを達成できない年上の部下を5人解雇しました。それでも私にはマーケティングの基礎や効果的なプレゼンの方法を丁寧に指導してくれました。この人物が、後に私の信仰の転機になろうとは思いもよりませんでした。

入社して2年間、ロンドン、パリ、フランフルト、香港、シンガポール、邦銀の海外支店を回り、出張続きの営業で多忙を極めました。そんな中、イケメン上司のお姉さんが3人の幼い子供たちを残して乳がんで亡くなりました。社員全員が葬儀に参列することになりました。葬儀会場は、見上げるような荘厳な建物でした。中央の祭壇の両端にはには大きな巻物があり、正面の壁には、なんと十字架でなく、巨大なダビデの星が刻まれていました。

それは教会堂ではなく、シナゴーグでした。上司はドイツ系ユダヤ人でした。そればかりか、参列した30名余りの社員のほとんどが、胸ポケットからヤマカを取り出して、頭に被りはじめました。開発部のマイクも、テクニカルサポートのダグも、みんなユダヤ人でした。私は2年間も、ユダヤ人の上司に指導され、ユダヤ人と仕事をし、ユダヤ人と交流していたのです。まるで狐につままれたようでした。 

その時、私が今まで抱いていたユダヤ人への神がかった憧憬が消え去りました。みことばが心に迫りました。「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。」(ヨハネ539)パウロの証言が胸をつきました。「わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。」(ピリピ3:8)

自分が知るべきお方は、主イエスであったこと。渡米して10年。神さまが示してくださった単純な真理でした。私は主イエスを知る知識と知恵を求めて父なる神に祈りました。やがて、旧約聖書の霧が晴れ、新約聖書の真意が明確に示されました。私のために御子をお与えになった父なる神の愛が、そして、私のために命を捨てられた御子イエスのあわれみが、再び私の心を満たし、賛美と感謝が溢れ出ました。

いつからか、神の前に善きしもべであろうと努力し、教会の中で善き兄弟であろうと奮闘し、人の前で善きクリスチャンを演ずるあまり、はじめの愛から離れてしまった自分。自己改善と自己修養ために費やしてしまった10年間。そんな私に、主イエスは優しく語りかけてくださいました。「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ2232

放蕩息子(ルカ15:11-32)を喜びの涙で抱きしめた父親のように、神さまは私を迎えてくださいました。あれから、妻が信仰を告白し、洗礼を受け、2人の子どもが与えられました。父親は最上の着物と指輪と靴と肥えた子牛を放蕩息子のために用意していました。同じように、神さまも受けるに値しない私に善きものすべてを備えておられました。この父なる神と御子イエスに、栄光と賛美が帰されますように。アーメン。

勲(いさお)なき我を、かくまで憐れみ、イエス愛し給う、み許に我ゆく。

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主を待ち望む

私は、2017年9月、約2年半前に、アメリカ、ニュージャージー州での生活を終え、日本の小さな地方都市に本帰国しました。覚悟をして帰国したにも関わらず、私にとって、約20年ぶりの日本での生活は、想像以上に厳しいものとなりました。

日本社会で
アメリカと比べると、日本では、色々な価値観や常識が違うことはある程度知っていたつもりでしたが、予想していなかったのは、その違いのレベルの深さでした。アメリカでも日本でも同じだと、私が思っていた「基本的なこと」さえ共通ではなく、日本の価値観が、私が想像していた以上に違うことに次第に気づき始めました。

この違いの大きさに、ひどく戸惑いましたが、もっと大きな問題は、その違いの「理由を理解できない」ことでした。日本で見聞きする言動の背後にある「考え方」が、私には全く見当がつかなかったのです。
さらに悪いことに、誰も私に理由を説明してくれません。そのような「価値観」は、同じ社会の中で暮らしていく中で、自然と習得されるものであり、わざわざ説明することではないからかもしれません。そして、そもそも、周りの人々は、私が「違う価値観」を持っているとは思わないのだと思います。私は日本で生まれ育ち、見た目も一般的な日本人、日本語だって難なく話すことができます。私が日本の「一般的な価値観」を理解・共有することを、彼らが期待し、その前提に基づいてコミュニケーションを取るのは、当然と言えば、当然でした。

その私の「見た目」とは裏腹に、どのように、この社会が回っているのか、私にはよくわかりません。不安と緊張が途切れなく続く毎日となりました。いつ私の価値観が拒絶されるかわからないことに怯え、言葉にされない「ルール」を学ぶために、人々の言うことすることを注意深く観察し、また私に対する人々の反応の一つ一つから、私の言動が「常識」から逸脱していないかどうかを読み取るのに、私は必死になりました。この、誰にも知られることのない、孤立無援の戦いは、ずっと続きました。

こうして、人との接触が増えれば増えるほど、むしろ私の孤独感・疎外感は増していき、苦しい日々が長くなるにつれて、私はただ受け入れられたいと願うようになりました。私を受け入れてもらうためには、日本社会で「うまくやっていく」ためには、私自身の価値観を捨てなければならない。つまり私は全くの別人にならなければ、少なくとも、別人のように「ふるまわなければ」ならないのだと、私は結論づけました。でも、心に平安はやってきませんでした。無理矢理、周りに合わせても、私の中の「本当の私」とのギャップがだんだん大きくなり、心が引き裂かれるような思いで、孤独感に苦しむのと同じくらい、苦しくなるだけでした。

教会で
私のアメリカ生活において、教会は、家族が実質的にいなかった私にとって、家族のように、愛され、受け入れてもらえる、唯一の場所でした。日本で孤独にあえいでいた私は、「安心できる場所」を当然のように教会に求めました。社会の「価値観」は、社会によって違います。でも、教会は、文化や時代を超えた神様、聖書という、普遍的な価値観に基づいているのだから、社会で感じる価値観の違いによる孤独から、私を「救って」くれると思ったのです。しかし、教会でも、状況はあまり変わらないどころか、むしろ、私の期待が大きかった故に、私の痛みはより一層大きなものとなりました。

当初、「教会の違い」とは、目に見える違い、例えば礼拝や賛美のスタイルの違い、や、神学上の解釈や強調点の違いぐらいなのだろうと、私は思っていました。たしかに、それらの違いは存在します。そして、その違いは時に大きいこともあるでしょう。でも、私にとって、もっと深刻な事実は、アメリカで得た価値観が日本社会で通用しなかったのと同じように、アメリカの日本語教会で当たり前のように享受してきた多くの事が、日本の教会では「当たり前」ではなかったことでした。

私は、渡米後に救われ、アメリカの日本語教会しか知りません。私が知っているアメリカの日本語教会の「普通」が、私にとっての「教会の普通」であり、「教会とはこうあるものなのだ」と無邪気に信じていました。
日本で、いくつかの教会に通ってみて初めて、アメリカの日本語教会のあり方は、アメリカの文化や価値観、集うメンバー、与えられた使命等、教会が置かれている状況に大きく影響されており、また、それに伴い、私自身の「教会観」も同じように影響を受けているのだと気付きました。
同じように、日本にある教会も、「日本社会」の中に存在するという事実に大きく影響されていると思います。そして、私はその「日本社会」について、ほとんど知らないのです。日本での、それも小さな地方都市での、一般的な人間関係の持ち方、文化・慣習、価値観を理解できていないのはもちろん、教会の立場やその課題が何であるかも知りません。

私はだんだんと、自分の「信じていること」に自信を失っていきました。「普遍的」だと私が思っていた真実は、本当に「唯一の」真実なのか、それとも、置かれた状況によって変化すべきことなのか、私にはだんだん判断がつかなくなっていきました。
私が信じることと違うことを教会で見聞きすることがあっても、「これが日本では「普通」なのかもしれない。私にはわからないのだから、すべてを受け入れるべきだ。」と、自分に言い聞かせました。でも、教会に行くたびに、傷つき、また違和感や疑問を持つようになり、最終的には教会を去るという選択をせざるを得ませんでした。

再び歩み始める
その後、別の教会に行き始めてからしばらくした頃、私は祈り、御言葉に従い、次の二つの事を決心しました。本当に大切なものが何かを見極め、それだけを守ること、そして、あとはすべて捨てること。

「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。
あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』
これらよりも重要な命令はほかにありません。」(マルコ12:29-31)

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従って来なさい。」 (マタイ16:24)

私にとっての「当たり前」がすべて奪われる中で、自分の「常識」、やり方や好みを捨てることは、必要に迫られた決断でもありました。でも、私は、自分の「居場所」を失うことへの恐れから、周りの価値観をむやみに受け入れようとしていただけでした。私自身が孤独から逃れるためでした。その結果、私は、最後まで守るべき大切なことさえも見失い、教会を出ていくことになったのです。神様はそんな私に改めて、正しい理由のために、つまり主を愛し、そして主が愛する人々を愛するために、「自分を捨てる」ことを求められました。

教会の方々を愛するために、自分なりに誠実に祈り考え、小さな事をひとつずつ淡々と行っていく中で、自分の「やり方」や「期待」を手放すこと、理解できないことだらけの中で主に委ねることを求められる時もありました。そのたびに、私は「仕える」ためにこの教会に遣わされているのだと、自分を納得させました。
ところが、日が経つにつれて、だんだんと苦しくなっていく自分に気付きます。何かのきっかけで、抑圧していた「怒り」が自分の中で爆発することもありました。「なぜ私ばかり、相手を受け入れなければならないのか?どうして誰も私の価値観を尊重してくれないのか?」
そして、その思いを私自身の内に留めることが出来ず、教会に対する批判として、表に出してしまうこともありました。私の発言は聖書的に正しかったかもしれません。でも、私が自分の本当の動機を知るのに、自分の心を深く探るまでもありませんでした。私はただ、「私のための」快適な場所へと、教会を作り変えたかっただけなのです。もっともらしいことを言いながら、行いながら、私は教会に集う方々を愛するどころか、実際には自分以外の人のことなど、気にもかけてないのだと認めざるを得ませんでした。

私が人を愛そうとする時、自分さえ気づかない、心の奥底に隠された思いが多く潜んでいることを思います。「私がクリスチャンなら、人を愛するべき」という義務感、罪悪感。「愛せない自分を許せない」というプライド。「私は正しいことをしている」という満足感、優越感。そして、「見返りとして、私が愛されたい。」という、切なる願い。フォーカスは、あくまでも「自分」であり、神様でもなければ、相手でもない、自分本位な愛です。救いようのない人がいるとしたら、まさに私のことだと思いました。
私はいったい何をしに、教会に行っているのだろうと、涙が出ました。どんなに誠実に真実に歩もうとしても、「偽り」にすぎない自分自身に疲れました。パウロが言っているとおり、私は自分でしたいと願うことさえ行うことのできない、本当にみじめな人間です。

これから
この地で、神様は私に教会を与え、こんな私を忍耐し、愛そうとしてくださる方々を与えてくださいます。それでも、正直に言うと、教会で苦しいと思うことは今もあります。私の「普通」と違う時、私の価値観を受け入れてもらえない時、心が締め付けられる思いがします。私は、「自分を捨てる」ことがどうしても出来ません。

帰国して最初の冬、クリスマスのイルミネーションどころか、夜景の光さえないような田舎道を走りながら、思い起こした詩編の一節があります。

「私のたましいは 夜回りが夜明けを
まことに夜回りが夜明けを待つのにまさって
主を待ちます。」(詩編130:6)

当時、自分の置かれた状況の暗さに、私は打ちのめされていました。そして、帰国して3回目の冬を迎えた今、私自身の罪という闇の暗さに、それに対する自分の無力さに、絶望します。でも、暗闇が深ければ深いほど、私は、より一層、何にも勝って主を待ち望むこともできるのだと教えられます。
いつの日か、神様が、私の心を砕き、造り変えてくださり、「自分の思い通りにしたい」という欲望や、「自分が一番正しい」という傲慢さ、「自分の願い」を神様の御心にすり替えてしまうような愚かさ、自分の傷や悲しみへの執着、自分中心な愛から、私を解き放ち、私が軽やかに自由に、神様と、私の人生に与えられたすべての人を、イエス様が愛されたように愛することができるようにしてくださることを待ち望みます。

最後に
日本に帰国後、順調に問題なく教会生活を送っている人もいるかもしれません。それは本当に神様からの祝福です。一方で、私がそうであったように、様々な理由で教会に行けなくなってしまう帰国者もいるでしょう。でも、その試練もまた、神様からの恵みだと思います。私達それぞれの葛藤の中で、神様は銀を精錬するように、私たちを錬られ、私たちを豊かなところへと導きだしてくださる(詩編 66)と信じます。
とはいえ、決して簡単な、楽な歩みではありません。私たちの、帰国者としての孤独感・疎外感は決してなくならないかもしれません。すべてを諦めたくなる時があるかもしれません。神様への信仰が何か遠い過去の事のようにしか思えない時もあるかもしれません。でも、私達自身や状況がどのようであったとしても、神様は約束されたことを果たされる方であることを信じます。私たちの信仰を、日本でも、神様がきっと守ってくださると信じ、祈ります。

「主は すべてのわざわいからあなたを守り
あなたのたましいを守られる。
主はあなたを 行くにも帰るにも
今よりとこしえまでも守られる。」(詩編121:7-8)

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昨年11月、洗礼を受けさせていただきました。

昨年11月、洗礼を受けさせていただきました。
どのようにして、私が信仰に導かれたか、今の気持ちを証したいと思います。

2013年夏、突然、主人がアメリカへ転勤となり、その三ヶ月後主人が先に渡米しました。当時2歳の息子と共に、アメリカで生活することは不安でしたが、どうにかなるだろうと思っていました。
私の人生は今まで希望通りに進む事はほとんどありませんでした。大学進学、就職活動も第一希望ではありませんでした。結婚、出産も遅く、自分の望むように人生は進みませんが、与えられた環境、状況の中で、どうにか過ごしていました。そのため、アメリカ駐在もどうにかなるだろうと考えていました。
2014年3月、家族三人のアメリカ生活がスタートしました。
あれ?何か違うぞ? 思い描いていたアメリカ生活では、ありませんでした。
日本では、一人でできていた自分。しかし、このアメリカでは、主人の協力無しではできないことが多すぎました。何でもできるような器用な人間ではないとわかっているのに、自分の無力さ、弱さに直面し、悩み、もがいていました。主人も新しい職場で多忙な毎日、また出張も多く、私が不安である日々を過ごしていることを主人に伝えることができません。日本にいる体調の悪い父、その看病をしている母や姉にも心配をかけられず、私が大変だと言うことは出来ませんでした。
子供の健康状態も私を悩ませました。日本にいる時から花粉症、アトピー性皮膚炎の息子はこちらに来てから一気に症状がひどくなってしまいました。花粉の季節はアレルギーの症状がひどいため十分なケアが必要でした。なかなか良くならないため、検査したところ、春、夏、秋のほとんどの季節に反応するアレルゲンと食物アレルギーも見つかり、とうとう喘息にもなりました。ほぼ毎月発作を起こすため、子供の健康を第一に考える生活を送ることになりました。まだ幼かった息子の辛そうな姿を見るたびに、この地で生活を続ける必要があるのか、なぜNJに来てしまったのか、主人が出張の時に息子の症状がひどくなったらどうしよう、ドクターに英語で上手く伝えることができるだろうか…全てのことに思い悩む日々でした。

アメリカへ来て一年半ほど経ち、私達家族は引っ越しをすることになりました。まさかアメリカで引っ越しするとは…、まだまだアメリカ生活に慣れない私はまた苦労することが増えたと正直思いました。
引っ越しをしてしばらく経ち、家族で庭にいたところ、突然、「日本人の方ですか?」
と車の運転席で大きく手を振りながら日本語で尋ねてくる女性の方がいらっしゃいました。その方は近くに住んでおられる錦織牧師の奥様、範子さんでした。今思うと、この家への引っ越しは神様のご計画だったのです。
範子さんから『Joy Joy キッズクラブ』を教えていただき、参加した子供は「楽しかったよ!また行きたいよ!」と笑顔で言ってきました。アメリカに来てから、子供の喘息や皮膚炎が悪くならないように、私は色々な所に子供を連れていくのをためらうことが多かったのですが、『Joy Joy キッズクラブ』は子供の希望通り、参加させてあげたいと思いました。これが教会へ行くキッカケになりました。
また、子育て中のお母さんたちのスモールグループ『JOY JOY 奥様会』に声を掛けていただきました。クリスチャンでない私が参加してもいいのかと思いながらも、皆さんと共に子育てや家族、夫婦について分かち合いました。私は妻である自分、母親としての自分がこれでいいのだろうか?子供の健康管理も十分に出来ない私、忙しい主人となかなか分かり合えない私に嫌になっていました。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書 43:4)
この御言葉を知り、こんな私に、神様は高価で尊い、愛していると言っているのか…本当なの?一体神様とは何だろう、神様は御言葉を通して、私達人間に何を語っているのだろう。私は知りたくなり、『Ridgewood 聖書を読む会』に参加しました。
神様は少しずつ少しずつ、私を導いてくださいました。

ミッション系大学に進学したので、一年生、三年生とキリスト教概論など必修で、聖書も持っていました。が、記憶にあるのは、パンとぶどう酒、最前列でクリスチャンの男子学生が一人、熱心に牧師先生に質問している姿です。
聖書をしっかり読むのはほぼ初めてでした。
全く初心者の私が参加しても大丈夫かと不安でしたが、毎回とても楽しい学びでした。そして、この年齢でも新しいことを学べることは喜びでした。イエス様は素晴らしい方であるのはわかるけど、なかなか罪や十字架、聖霊などを理解するのは難しく、錦織先生から聖書を学ぶ基礎コースを提案してくださいました。神様は、聖書を学ぶ機会、そして、一緒に学ぶ友もご用意してくださいました。
錦織先生は丁寧に私達に神様の愛を語り、そして、どんな質問にも真剣に答えてくださいました。学びを通して、神とは、罪とは、十字架とは、復活とは…今までぼんやりしていたものが少しずつ少しずつクリアになります。聖書のメッセージが心に響き、御言葉に励まされ、癒される自分がいました。私の中で素晴らしい神様のことをもっと知りたいと、どんどん神様の存在が大きくなっていきました。神様を求めている私に、このままではクリスチャンになるのでは…喜びよりも不安でした。なぜ不安だったのか?自分がイメージするクリスチャンと私は掛け離れていたからです。こんな今まで適当に生きてきた私でもいいのだろうか?
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。」(ヨハネによる福音書 15:16 )
神様がまず私を選んでくださったなら、私は悩む必要などないのです。
私たちの罪のためにイエス様は十字架にかかってくださった、それほどまでに神様は私たちを愛してくれる方。私たちの存在自体を神様は愛してくれている、無条件に私たちを愛してくださっている神様とこれから共に歩みたい…
2019年2月、信仰告白に導かれました。
これからの信仰生活を歩むにあたり、主人の理解は私には必須でした。今までの結婚生活において、私の決断に主人はいつも理解を示してくれました。主人は私が礼拝に行き、聖書の学びやスモールグループに参加していることを知っていたので、私は今までのように、私の決断に賛成してくれると思っていました。しかし、主人から理解を得ることは出来ませんでした。お互い、眠れない日々を過ごすことになりました。神様、私があなたを求めること、それは、私たち家族の祝福にもつながるのではないですか?私はどのように歩めば良いのかわからなくなりました。
「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」(ピリピ人への手紙 4:6-7)
主人の理解が得られるようにと祈りました。ある日、子供に一緒に礼拝へ行こうと声をかけました。子供の答えば「パパが行ったら行くよ」主人は一度も礼拝に参加したことはなく、まだ理解も得てなかったので、私一人で教会へ行く準備をしてました。すると突然、主人が子供に「パパも行くから出かける準備して。」家族で礼拝に参加することを祈っていた私でしたが、突然の出来事でした。それから主人は何回か礼拝や教会で行われる子供向けのイベントにも顔を出すようになりました。しばらく経ち、もう一度主人と私の信仰について話す機会を神様は与えてくださいました。また反対されるのではと不安な気持ちでしたが、主人からもう少し時間が欲しいと言われました。今回、主人はしっかり私の話をきいてくれました。少しずつ変わっていく主人の姿に、私は神様に感謝をもって祈る日々が続きました。

10月の礼拝、錦織牧師から、秋の季節になり、今まで蒔いてきた種が実になり収穫する季節になりましたねというお話がありました。思わずその話を聞いて、私の信仰の実が収穫される時だと強く感じました。その後主人は賛成してくれました。祈りが聞かれた瞬間でした。
2019年11月24日、洗礼式を迎えることができました。主人、子供も立ち会ってくれました。息子から何度も「ママ洗礼おめでとう。」とハグされ、主人から「今日は幸せな一日だったね。」と。まさか主人からこの言葉を聞くとは…。
「神のなされることはすべてその時にかなって美しい。」(伝道者の書 3:11)
神様は、時間をかけて、私自身を変えてくださいました。私が神様を求めたあの日から、あなたは御言葉をとおして力強く私を導いてくださいました。神様、あなたと共に歩めること本当に感謝します。あなたを見上げ、どんな時もあなたを信頼し、感謝する歩みができるよう私を導いてください。

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「凹んだボール」

2014年2月から2017年7月まで、私は会社より派遣されて妻と2人でニューヨークに赴任をしていました。

もともと、海外勤務の希望を出していたこともあり、私自身はニューヨークでの仕事・生活を楽しんでいたのですが、帯同してきた妻は、日本で長年やりがいをもって務めてきた仕事を辞め、知り合いもいないなかで日々を一人で過ごさなくてはいけないという状況でした。

そのような状況の中、ニューヨークでの赴任が1年過ぎたころ突然妻から「ニュージャージーに日本語の教会がある。マンハッタンへの送迎もしてくれるようなので日曜日に教会に行かせてほしい。」と言われました。

自分のやりたいことを通してついてきてもらった妻への申し訳ない気持ちと、せっかくの週末を別々に過ごすこともないだろうという思いから、一緒にニュージャージー日本語キリスト教会に行くことにしました。

妻はもともと、クリスチャンホームに生まれ洗礼を受けておりましたので、礼拝に行くことが普通の生活でありましたが、結婚後は訳あって教会からは離れた生活になっていましたので、礼拝に定期的に参加すること、他のクリスチャンの方と交わりを持つことはニュージャージー日本語キリスト教会が私にとっては初めての経験でした。

それまで、キリスト教、クリスチャンというと(日本人の大半がそうだと思います)よくわからない、特殊な人たちの集まりといったあまりポジティブではないイメージを持っていたのですが、教会の方との交わりを持つ中で、クリスチャンの人々というのは「普通」の人たちであり、否むしろ非常に魅力的で尊敬のできる人々がたくさんいらっしゃることを知りました。私よりも経験を積んだ年上の方、元気いっぱいの10代の若い中高生と世代を超えて1つ同じ価値観を共有して集う時間は他では感じることのできない心地よさがありましたが、特に同年代のクリスチャンの家族との交わりは私の中でキリスト教、クリスチャンに対する印象を大きく変えていきました。たくさんの素晴らしい方々に囲まれながら非常に充実した米国生活をおくることができ、日曜日に教会に通うことが日常になっていきました。

そのような満たされた生活が続いていた2017年、私は社内の大規模なプロジェクトを任され、日本に帰任することとなりました。

帰国後に参加したプロジェクトはすぐに佳境を極め、昼ご飯を食べる時間もろくに取れず、連日終電で帰宅する生活が1年半も続き、精神的にも肉体的にも疲労が蓄積していきました。

一方で教会生活においては、日本に帰任となった後もニュージャージーで知り合った方々との親交は続き、また日本での教会にも恵まれて引き続き教会につながる生活を送っておりましたが、洗礼を受ける決心はなかなかつかない日々が続いていました。

帰国してから2年目となっていた2019年の2月17日、私は担当していたプロジェクトに関して、役員向けの重要な会議での発表を前にプレッシャーに押しつぶされていました。案件の見積もりは数百億円にもなり、プロジェクトに参加するメンバーは100人を優に超える状況。私のプレゼン次第でこの案件が止まってしまうかもしれないという、18年にわたる社会人生活において経験したことのないプレッシャーの中にあり、初めて誰かに助けてほしいという気持ちでした。

そのような状況だった私に、会議が開始する直前、妻が1通のメッセージを送ってくれました。

「大変な仕事、本当にお疲れ様です。プレゼンうまくいくようにお祈りしてるね。時間があったら、イザヤ41:10開いてみて。God be with you」

すぐにトイレに駆け込み、イザヤ書41章10節を読みました。

“恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。”

この御言葉を読んだ瞬間、それまで疲労とプレッシャーでつぶれたボールのようになっていた私の中に何かが入ってきて、私の心は内側から支えられ、もとのボールの形に戻るような感覚を感じました。

こんなにも力強く、私を励まし支えてくれる神様が妻を通して、本当に必要としているときにその姿を現し私に力を与えてくれたことに、ただただ感謝の思いとともに涙を流しました。

結果、私はプレゼンを無事に終わらせることができ、プロジェクトは無事に先に進めることに関して承認が与えられ、現在はロンドン(ニューヨークの次に経験を積むならロンドンと思っていたので、こちらの願いも聞いていただいた神様はなんと太っ腹なんでしょう)にて、日々発生する問題に対峙しながらも貴重な経験を積ませていただいています。

教会生活としては、1歳の娘を連れて通える教会が多くの方の助け、祈りのもとに与えられたことにも感謝しております。

今回、ニュージャージー日本語キリスト教会にて洗礼を受けるにあたって、多くの方の支え、導き、お祈りがあったことに改めて気が付きました。

ニュージャージー、東京、ロンドンそれぞれの場所で聖書の学びの時間を与えてくださった、錦織先生、福田先生、清水先生。また、同じようにそれぞれの地で交わりを持たせていただいた教会の方々。そして何より、3回の聖書の学びを一緒に受け、日々の生活においては第一ペテロ3:1-2をそのままにそばで支えてくれた妻。

ちょうどうちの子供がヨチヨチ歩き始めたのと同じように、私自身は未熟なクリスチャンですが、ひびだらけの土の器である私からこぼれる神様の光を通して、少しでも周囲の人々に影響を与えられるものとなりたいと思います。

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As a child, I always had so many questions

As a child, I always had so many questions about the world and I was always thinking about deep concepts like how things were made and what life is about. I loved thinking about the 5 senses and was so amazed at how everything in the human body functioned. I remember when I was in the car, I would look out the window and think Why did God create me? How did he create me? Is there more to life than just… life? It amazes me now, how much I questioned deep things like this at such a young age. But because I had so many questions, I found faith at a young age too, as the Bible had answered a lot of my questions particularly about creation and heaven vs hell. I was baptized at age 9 and I remember how strong my faith was. I was eager to learn more about God and with God because I thought it would help me understand and make more sense of the world.

When I went into middle school however, I looked to the world and became more confused with how broken and terrible it can be. At this point, most of my questions were why does God let terrible things happen? I thought God was good. I didn’t have a relationship with Him, but the little bit of faith in my heart was telling me that God was still good. I knew that he was real and that he was good, but I didn’t have any reasons; I just believed because it was all I knew.

In high school I developed a mindset that a relationship with Christ is one that is an exchange of obedience and reward. I wanted to please him by being a good person because I was afraid of what he would do in my life if I did something bad or committed sin, so I disciplined myself thinking God would love me and give me what I want if I’m good. So when I didn’t get the college results I anticipated, I thought God where is my reward? I have studied and done well in school, why aren’t you giving me the opportunities that I dreamed of? Many friends moved away, and I hated God for it, telling him God you give me wonderful people in my life for just a little bit and then you take them away! What did I do wrong? I became frustrated with God about things that hadn’t gone as I planned, and my prayers became selfish and resentful, blaming God for how miserable I felt when he wasn’t giving me what I wanted. The world didn’t make sense and the Bible didn’t make sense to me anymore. I hated that the world was so broken and terrible and I no longer saw any answers in the Bible that answered my questions of why the world was this way. My life was good, but my faith was almost nonexistent because I walked away from God, thinking my life didn’t make sense with Him in the picture.

Then I went to college where I came across a program called YoungLife, and I walked away from it thinking, I know about God, I don’t need an outreach program to tell me things I already know. But God transformed my heart by sending me to YoungLife camp. The speaker at this camp told a story about his relationship with his 4 year old daughter. He took her to a Disney on Ice show as a surprise for her birthday, dressed up, drove for hours, and bought her overpriced popcorn. During the show he whispers to her daughter, “Guess what?… I love you”. She whispered back, “Guess what?… I want more popcorn!”.

This expresses how my relationship with God had been for 10 years. God had repeatedly told me in my life through his blessings, “I love you”. And the only times I prayed were when things weren’t going the way I wanted. I was ignoring the thousands of times he has told me “I love you” in the events of my life, through nature, through people, and especially through the Bible. I didn’t understand the Bible because I never understood the power and the depth of God’s love. That night I went outside after the meeting and prayed under the stars in the middle of the night and for the first time in my life I went on my knees and I wept to God and prayed to Him for the first time in a long time– a true prayer. And that night I heard Him whisper in my ear, “I love you… you can either choose to live with the world or live with me.”

Choosing to live with God meant that I would live differently than what I desire for myself, but I know that it is better to live for God because I am serving the one who has saved the world! And there is no greater joy than knowing His love and living to share it with others for Him. What humanity wants to hear is that someone loves us, and we are looking for love through other things which results in the brokenness of the world. The world is broken because the world does not know about Jesus! I love Jesus because He loves me, and I want to share that love by loving them the way Jesus did. (1 John 4:19 We love because he first loved us)

I think people get so caught up in how we ourselves and other people are obedient or disciplined based on “religion”, which is what I was guilty of. But in times like this I catch myself and think, Jesus would love them above judging, and God is the only one who knows the condition of anyone’s heart. So I need to love them too, like Jesus does. The Bible is not a book about rules and discipline, but rather about LOVE and what stems from true love.

I was selfish to think that God would reward me for being obedient and disciplined, but now I live in a way that glorifies Him because HE is good, and without Him, I am nothing. I now see God through everything in my life because I have finally given it to Him. He is constantly moving people like He has moved me. He has given me and continues to give me endless opportunities that show His goodness, and it is truly indescribable how much He is capable of doing. I still have little faith, but I am eager and excited to see what God is able to do in my life and to those around me. All my life I had been searching for the world to make sense… and I finally can say with confidence that the world only makes sense when you let God take over your life and show you.

Galatians 2:20: I have been crucified with Christ and I no longer live, but Christ lives in me. The life I live in the body, I live by faith in the Son of God, who loved me and gave himself for me.

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私は子どもの頃、この世界についてたくさんの疑問を持っていました。

私は子どもの頃、この世界についてたくさんの疑問を持っていました。そして、いつもそのことについて考えていました。例えば、「この世のものはどのように造られたのか」とか、「人生ってなんだろうとか」。自分の五感について考えることも好きでした。そして、人間の体の一つ一つの部分がどのように働いているのかを考えて、感動していました。ある時、車の中で、窓の外を見ながら、「神様はどうして私を造られたんだろう?」「どうやって、私を造られたんだろう?」「生きていること以上に人生にはなにか意味があるんだろうか?」そんなことを考えていました。今、考えてみても、そんな小さい時に、深いことを考えていたんだなあ、と驚きます。でも、私がそんなにたくさん疑問を持っていたからこそ、私は幼い時に、この世界がどのように造られたかとか、天国と地獄のこととか、聖書から答えをもらって、信仰を見出すことができたんだなあと思います。私は9歳の時に洗礼を受けました。そして、私の信仰がどれほど強かったかと思い出します。神様についてもっと知りたいと思っていました。そして、もっと神様と共に歩みたいと思っていました。それによって、この世について、もっと多くのことを知り、もっと納得できると思ったのです。

でも、中学生になった時に、世の中を知っていく中で、それがどれほど壊れて、どんなにひどいものかを見ることによって、混乱してきました。この時点では、私の疑問は「どうして、神様はこんなにひどいことが起こることを許されているんだろうか?神様は良い方だと思っていたのに。」ということでした。私は神様との関係を持っていませんでした。ただ、心の中のちょっとだけの信仰が、私に神様は良いお方だと教えていました。私は神様が本当にいてくださることを知っていました。そして、神様は良いお方だと知っていました。ただ、その理由は何も知りませんでした。ただ、私は全て知っているということだけで信じていたのです。

高校生になって、私はキリストとの関係を「従ったら報われる」という考えで受け取るようになっていきました。良い人間になって、神を喜ばせようと思ったのです。もしも、私が悪いことをしたり、罪を犯したりしてしまったら、神は私の人生にどんなことを与えるだろうか、と恐れ、自分が良い人間ならば、神が私を愛して私が欲しいものをくださると思って、自分を律するようになったのです。ですから、私が大学進学について、願っていたような結果が出なかった時は「神様、私への報いはどこにあるんですか?」「私は勉強も一生懸命やったし、他のことだって頑張りました。どうして、あなたは私が夢見ていたものを与えてくれないのですか?」また、たくさんの友達が引っ越して行ってしまった時にも、私は神様を憎みました。「神さま、あなたは私に素敵な友達を与えてくれました。でもそれは一瞬だけ。すぐに取り上げてしまうんですね!私は何か悪いことをしましたか?」物事が私の考えたように進まないことで、私は神様にイライラするようになっていきました。私の祈りは自分勝手な、反抗的なものになっていきました。自分が欲しいものが与えられない時には、どれだけ自分は惨めかと神を非難するものになっていきました。この世の中には意味はないと思うようになり、もう聖書も納得できるものではなくなってしまいました。このひどく混乱した世界を憎みました。この世界がこうなった理由を答えてくれていたはずの聖書は、もう何も答えを与えてくれないと思いました。生活はうまく行っていました。でも、私の信仰はもうほとんどないも等しいものになってしまっていました。神様から離れて、神様と共に歩む人生には意味がないように思っていました。

そして、大学に進みました。そこで「YoungLife」という働きを知りました。しかし、それに関わろうとは思っていませんでした。「私神を知っている。もう私が知っていることについて教えてくれるプログラムなんて私には必要ない」と。しかし、神は私の心を動かしてくださって、私を「YoungLife」のキャンプに導いてくださいました。そのキャンプで、メッセンジャーが4歳の娘との関係を話してくれました。彼は、誕生日のサプライズで娘をディズニーのアイスショーに連れて行ったそうです。綺麗な洋服を着せて、何時間も運転をして、ばか高いポップコーンを買って・・・。ショーを見ている時に、彼は娘の耳元でささやきました。「パパの気持ちわかる?・・・パパはお前を愛しているよ!」と。そうしたら、娘がささやき返しました。「私の気持ちもわかる?・・・もっとポップコーンちょうだい!」

この話は、まさにここ10年間の私と神様との関係を表していました。神は何度も私の人生で神様からの祝福をもって「私はあなたを愛しているよ」と語ってくだいました。私が祈ったのは、物事が願ったように行かなかった時だけでした。神様は、人生の中のいろんな出来事を通して、自然界を通して、人々を通して、そして、特に聖書を通して、私に何千回も「私はあなたを愛しているよ」と言ってこられたのに、私はそれを無視してきたのでした。私は神の愛の力も深さもわかっていなかったので、聖書のことを理解できないでいたのでした。その夜、集会の後、私は外に出て、夜空の星の下、祈りました。人生で初めて、ひざまずいて神に泣いて祈りました。久しぶりに心からの祈りを神にささげました。その夜、神は私の耳にささやかれました。「私はあなたを愛しているよ・・・あなたは、この世と共に歩むか、私と共に歩むか、選ぶことができるよ」と。

神と共に歩むのを選ぶことは、私が自分が願ったものとは違った生き方をすることです。しかし、神様のために生きることの方がいいことはわかっています。それは、この世を救ってくださった方に仕えることなのですから。そして、神様の愛を知って、それを他の人々に分かち合っていくことよりも大きな喜びはありません。人はみんな、誰かが自分を愛してくれている、ということを聞きたいものです。そして、私たちは壊れてしまったこの世界の中のものの中に愛を探しています。この世界はイエスを知らないが故に、壊れてしまっているのです。イエスが私を愛してくださっているが故に、私はイエスを愛しています。そして、イエスが私を愛してくださった愛で、この愛を伝えていきたいのです。「わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。」(第一ヨハネ4:19)

人々にとって、自分や他人が「宗教」に従うことや、戒めを守ることが大切です。私もそうでした。しかし、イエスは人々をさばくよりも愛してくださったのです。そして、人の心を知っておられるのは神だけです。ですから、私もイエスが人々を愛したよう愛するのです。聖書は規則や戒めについて書いている本ではなくて、愛についての本であり、本当の愛から生まれたものについての本なのです。

私は神に従って戒めを守っていれば、神は私に報いてくださるのだと勝手に思っていました。しかし、今は、神は良いお方だから、神の栄光のために生きたいと思っています。そして、神抜きでは私には何もありません。今、私は人生を神様にささげて、人生の全てを通して神を見ています。神様は私を変えてくださったように、人々を変えてくださいます。神様は、神様が良いお方であることを表す機会を私に与えてくださっています。与え続けてくださっています。神様の全能の力は語り尽くせません。私の信仰はまだまだ小さいです。しかし、神様が私の人生や周りの人々の人生にどんなことをしてくださるのか、楽しみです。ここまでの人生の中で、世界にはどんな意味があるのか、それを求めてきました。そして、今、自信を持っていうことができます。あなたが神に人生を明け渡す時に、その意味が見えてくるということを。

ガラテヤ2:20
わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。

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「私はクリスチャンです。」

私が一日で一番好きな時間は、夜寝る前の数分間です。体を横たえ、枕に頭を沈めて目を閉じると、ふわっと疲れが取れていきます。すると、頭の中をいつも同じ歌がめぐります。「今日も一日、主から受けし多くの恵み・・・たたえても讃えても、たたえ尽くせない♪」。

感謝できることを数えて一日を終えるのは、心安らぐひとときです。良いことがあったから感謝する。願い事がかなったら感謝する。ではなくて、感謝できることは日々たくさんあります。眠る場所がある。朝から無事に過ごせた。家族がいる。小さいことから大きいことまで、探せば溢れるほど出てきます。毎日、同じことでもいい。それだって、取り去られてみると、どれ程、ありがたいことだったかと思うものです。

私にとって一番感謝すべきことは、クリスチャンとして歩ませていただいていることです。信仰がなければ、独りよがりな生き方をしていたでしょう。信仰がなければ、迷ってばかりで心休まらず、何かを選んだとしても後から悔いる人生を送っていたことでしょう。世の中の不条理をなげき、不平不満をいつも抱いていたかもしれません。

私がクリスチャンになったのは、アメリカに来て5年目の冬のことです。かれこれ25年以上も前になります。それまでは、宗教とは全く無縁の生活。仏壇も神棚もない家に生まれ育ち、興味も持たないまま成長しました。そんな私に何が起こったか。今、思い返すと本当に不思議です。

当時、私は学生でした。冬休みに一時帰国する日本人の知人がいて、その人のアパートに寝泊まりして猫を世話することになりました。寒い冬。休みで退屈な毎日。アパートにこもりきりになって、部屋にある日本語の本を読み漁りました。文学専攻だった知人は数多くの本を持っていて、日本の書籍は値段が高くで買えなかった私は、この時とばかり片っ端から読んでいきました。

その中でひときわ心に残った本が一冊ありました。女流作家、三浦綾子さんが西村久蔵という人の生涯を描いた本でした。北海道に暮らし、十代のころクリスチャンとなり、のちに洋菓子店を創業した主人公は、事業に失敗したり裏切りにあっても、人を憎まず神を恨まず、人と神を信じ続けたのです。しかし私を圧倒したのは、愛娘を亡くしてもなお、神様への信仰を捨てないでいる姿でした。事業は失敗しても建て直せる。金銭は失っても取り戻せる。でも、いったん死んでしまった人間は生き返らない。戻ってこない。もう会えない。それなのに、どうして、この人はまだ神様を恨まずにいられるのだろう。神様に背を向けずにいられるのだろう。何が、この人を支えているのだろう。その日から、私の神様探しが始まりました。

ほどなく、近くの神学校に通う日本人留学生と知り合いになり、聖書の学びがスタートしました。他州から月に一度きてくださる日本人の牧師先生の聖書メッセージを聞きに出かけることもありました。読めば読むほど難解な聖書。湧き上がる疑問の数々。とくに、聖書に出てくる数多の奇跡はキリスト教を私から遠ざけました。死んだ人が生き返るなんてあり得ない。十字架にかかって墓に葬られ、3日後に蘇ったとされるイエス・キリストは架空の人物としか思えない。非科学的で非常識な考えと決めつけ、到底受け入れることはできませんでした。

もうひとつ、私がひっかかっていたのはクリスチャンの捧げる祈りでした。なにかあると「祈りましょう」、事あるごとに「祈っています」。聞くたびに、心の中がもやもやっとしました。「棚からぼた餅」ではないけれど、苦労しないで好運を得ようと願っているような、他人にたよって物事を成そうとする「他力本願」のような、虫のいい態度に見えました。

それがある日、聖書に出てくる何百歳まで生きたという人々の年齢を「あり得る」と思えた瞬間から、「聖書に書いてあることは全て真実」と信じられるようになりました。オセロゲームで黒いコマを一つひっくり返すと、パタパタパタ、、、とあっという間に白いコマが広がっていくように、小さな“真実”を認めた瞬間、私の聖書観は一転しました。イエス・キリストは実在した。聖いお方なのに、私たちの罪を背負って十字架にかかられた。人はみな生まれながら罪がある。キリストの死によって人間は神様との関係を回復できた。キリストは復活して今も生きておられる。そのお方を信じると永遠のいのちを受け、クリスチャンとして歩みだせる。

あれから四半世紀。人生の半分以上をクリスチャンとして歩むうちに、祈りは呼吸となり、祈りはわたしの命綱となりました。祈りは決して、神様に「おんぶに抱っこ」する行為ではありません。私は祈りを、例えて言うなら「人事を尽くして天命を待つ」ことだと考えます。人にはそれぞれ与えられた仕事があります。一人ひとり違い、その時々で変わります。小さいころは遊ぶのも仕事、学校に上がれば勉強が大切、就職したら責任をもって仕事に打ち込む。結婚したら女性は妻になり、出産すれば母親となる。どの段階においても、すべきこと、大切なことがあります。神様が授けてくださっている自分のお役目をきちんと果たした上で、あとはお任せする。全幅の信頼を寄せてお預けするのが祈りの真髄だと思っています。

私の好きな詩に「ニーバーの祈り」があります。

「神よ、変えられないものを静かに受け入れる力を与えてください。
変えるべきものを変えていく勇気を、
そして、この2つを見分ける知恵を、私たちにお与えください。」

祈ったあとは安心して先行きを静観できるのです。静観どころか、神様のしてくださることを想ってワクワクします。神様は最高・最良のものを最善の時に下さると知っているからです。

先日、市民権を取るための手続きを始めました。順調にいけば来年6月にはアメリカ市民になれるそうです。迷うことも気負うこともなく、すうっと始めた手続き。神様が用意してくださっている道なら次々と扉が開かれていくし、そうでなければ不思議と閉じられる。一歩踏み出すのは自分の仕事だけれど、あとは神様にお任せ。ひとたびお任せすると、あとはどっしり腰を据えていられます。むしろ、「この時期に市民権を取ることになったのは、どうしてだろう。」「この先に神様がなにを用意してくださっているのだろう。」先のことを楽しみにしながら次の段階を待っています。

市民権がとれたら、自分が何者であるかを表す言葉がひとつ増えます。アメリカ国籍を取得した日本人。日本は二重国籍を認めていないそうなので、私の日本国籍は事実上なくなります。そういえば、市民権の申請用紙に名前変更の欄がありました。おもに、結婚や離婚で苗字が変わる人のため欄だと思うのですが、一瞬どきっとしました。かつてアメリカに移民してきたユダヤ人の方々が、その出自を隠すために名前や苗字をアメリカ風に変えたと聞いたことがあります。ここで名前を変更したら、なんだか自分がまったく別人になるように感じられました。その時、私には決して取り去られることのないアイデンティティがあると強く意識しました。それは「私はクリスチャンです。」ということ。それは、私が今もこれから先も、一番大切にしたいアイデンティティです。

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「私の主、私の神。」

私が2~3歳の頃に両親が救われ、家族で教会に通い始めました。教会には同じ年代の子どもたちが大勢いました。当時の記憶は沢山はありませんが、ひとつはっきりと覚えていることがあります。教会学校で先生がイエス様のお話をして下さった後、質問をしました。「イエス様のことが大好きなおともだちー?」次の瞬間、周りの子どもたちが皆「はーい!」と元気よく手を挙げたのです。私はびっくりして戸惑いました。…聖書からイエス様の話をきいて、聖書もイエス様も本当だとは思う。イエス様は神様の子であり、よいお方で、すごいお方だとも思う。でも…“大好き”? 私はその時、自分がイエス様のことを毎週学んでもイエス様に「大好き」という感情を持っていないことに初めて気づかされました。急にまわりのお友達がまぶしく見えました。どうしたら、他のお友達のように「イエス様を大好き」になれるのだろう、イエス様を信じているなら大好きになるはずだし、なるべきなんだ。ならなくては…。でも、聖書のお話をいくら聞いても読んでも、心に残る箇所といえば、弟を殺してしまうカインとか、妬みと恐れに駆られるサウル、神の箱を触ってしまうウザ、群衆の声に押されてイエス様を十字架につけるピラト、そしてイエス様を裏切ったことを後悔して絶望するユダなど…。子どもながらに彼らの物語はとても残念で切なく、彼らが今頃は暗い黄泉で「泣いて歯ぎしり」しているのかなと想像し恐ろしく思いました。一方でダビデやマリヤなどは幸運な人だなと思いました。教会学校の先生方の意図に反して、自分もダビデやマリヤのように神様に愛される神の家族になれるとは思えず、将来には泣いて歯ぎしりしているような予感がしてなりませんでした。

小学校に上がると、夏のキャンプなどをきっかけに同年代の子どもたちは次々に神様との関係を深めているようでした。さっきまで一緒にふざけていたお友達が、夜のキャンプファイヤーで聖書のメッセージをきいた後に涙を流して悔い改め、イエス様の十字架を喜んで「もっとお祈りしたい」「まだまだ賛美したい」と先生にせがんでいる姿にショックを受けました。…私もこんな風に神様に出会わなければならないんだ。でもどうしたら神様と「出会える」のか分かりませんでした。お友達のほとんどは小学生のうちに受洗し、私も先生に受洗を勧められましたが、受ける気持ちになれません。…先生は私をクリスチャンとして見てくれている。でも神様の目から見て、私はどうなのだろう。私は神様を信じているのか、愛せているのか、そう神様は認めて下さっているのか自信がありませんでした。学年が上がるにつれて自分の罪がたくさん見えるようになり恐ろしさやふがいなさでいっぱいになる一方で、さらにその罪深さにいくらでも開き直れてしまう心、私のための十字架や復活という言葉も心を素通りするような、神様を畏れられない自分の心をどうしたらよいか分からず、先生にも説明できませんでした。

こうして「洗礼準備クラス」を3~4年程も受け続けたある日、ヨハネ20章のイエス様とトマスのやりとりの箇所が目に留まりました。…トマスもイエス様に呼ばれ弟子として共に長く過ごしていたのにイエス様が分からなかったのかな。ヨハネのようにイエス様に寄りかかったり、ペテロのように積極的にイエス様に近づこうと水の上を歩こうと思いつかなかった。12人の最前列ではなく他の弟子達の背中越しにイエス様を見ることが多い人だったかもしれない。でも、復活のイエス様に出会い損ねた時、やっぱり人越しではなく自分でイエス様と出会うことの必要や勇気、出会いたいと願う気持ちが爆発したのではないか。トマスがそうでなくても私はそうだと気づきました。私も他の誰かの背中ではなく、イエス様の前に行き、イエス様と向き合わなければならない、イエス様が私に与えて下さった信仰で、イエス様が私に与えて下さった道を歩み始めなければならないと思いました。そうして中学2年の時に洗礼を受けました。

その後も、時に同年代の教会の友人達の姿がまぶしく見えることはたびたびあり、聖書の約束が自分だけうまく実を結ばないと焦っては努力したり失敗したり、委ねてみたりあがいてみたり…を繰り返すような不信仰生活でしたが、やがて成人し、今や宣教師や牧師などそれぞれの場所で神様に仕えるようになった友人達と共に子ども時代を過ごせたことは神様からの大きな祝福だったと思えるようになりました。また、私を造られた神様は、私が本当は何が好きで心地良いかを知っておられ、実際にその道へと導いてくださっていることを実感し始めました。一度きりの人生、クリスチャンたるもの一生独身で宣教の働きに、などと若い決心で意気込んでも、いざ岐路に立たされるとその道を捨てて結婚を選んだ時は神様にうしろめたい思いがありましたが、結婚式の次の日に新居から外に出たときに、目の前に見える比叡山にくっきりとした半円の虹がかかっているのを見て、ふと、神様がこの道も許されておられること、この道を確かに用意され、共にいてくださると感じました。次の日曜に初めて主人の教会の礼拝に一人で出席する時も、前の教会との宗派や雰囲気の違いに戸惑いもあり不安な気持ちで向かっていましたが、行きの電車の窓から琵琶湖にかかる鮮やかな虹を通して、神様はもう一度私を励まして下さいました。

数年後、不思議な導きでアメリカに滞在することになり、そこでの3年間で神様は私のひそかな願い、神様の益になるものではなさそうなので祈りもしなかったような願いをことごとくかなえて下さいました。学生時代から憧れていたNJ日本語キリスト教会に通うこともそのうちの一つで、兄姉とのお交わりや学びもただただ楽しく、私は次第にこの神様のお計らいに何か意味や意図を見出さなくてはならないのではと思うようになりました。ただ感謝していて大丈夫だろうか、この滞在期間中にどんなことを学んで成長すべきなんだろう、などと楽しさと焦りが入り混じる日々が続きました。そんな帰国の迫るイースターの礼拝で、錦織先生がイエス様とトマスの描かれた絵を見せて下さいました。トマスを見ると自分に重ね合わせるクセのある私は、その絵の中でトマスがイエス様の十字架の傷にずっぷりと指を差し込んでいるのを見て、私の姿だと思いました。

信じないものにならないで、信じるものになりなさい、と今まで導いて下さった神様は、さらに、恐ろしくも十字架の事実を聞くだけでなく十字架の刺し傷までさわらないと分からないような私に、心ゆくまでと向き合って下さっているんだ。ことばによって信じられないのならわざによって信じなさいと、私の不信仰や愛のなさ、鈍感さと傲慢さをご存じの神様は、私の成長を上からご覧になっていたのではなく身をかがめてでも私がさわれるように付き合って下さっていたのだと感じました。自分の出来のなさを受け入れていないのは自分だけで、神様はあらゆる方法で私を「信じる者」の人生へと導いて下さり、そのための必要を満たし、愛を私に分からせようとして下さっているのだと思いました。トマスがあの時告白したようにイエス様は「私の主、私の神」なのだと分かりました。

アメリカ滞在中の3年間、特に教会の兄姉のご親切や交わりを通して神様が下さった大きな恵みを、どれだけ今後の人生でお返しできるのか自信がありませんが、神様の一方的な愛をたくさん経験することができて、ただただ感謝です。感謝しつつ、きっとまた時々行きつ戻りつしながらも…、神様が用意して下さる道を神様と共にこれからも歩んでいたいと思います。

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「人生を導かれる主」

「蒔かれた信仰の種」

第2次世界大戦が終わり、数年が経ち、復興途中にあった京都にヨーロッパから2人の女性宣教師が来日しました。祖国での優雅で便利な生活を捨てて、日本人へ福音を届けたいという二人の熱い思いと祈りによって京都で伝道が始まりました。最初は高級住宅街の集まる北区で伝道が始まったのですが、より市民の集まるところへという思いから、下京区に拠点を移し、そこで開かれた土曜学校に父が導かれ、信仰を持ちました。

数十年後滋賀県の大津で家庭集会を始めた父はやがて母と結婚し、両親は地域の人を招いては伝道を続けてきました。私は、クリスチャンホームで育ったため、子どものころから「聖書は神の言葉であること」、「イエス様が私の罪のために十字架にかかって下さった」ことを信じて疑いませんでした。素直に、聖書の御言葉を受け入れることができたのも、多くの兄弟姉妹からの祈りの支えがあったからだと思います。

毎年クリスマスの時期になると、京都での働きを終えイギリスへ帰国した宣教師に手紙を送っていました。いつも丁寧な返信をくれ、そこには私たちのことを覚えて祈っていると書いてくれました。その言葉が子ども心に私の信仰を支えてくれました。

「聖地旅行」

小学校5年生になった冬休み、教会のメンバーと一緒にイスラエル旅行へ出かけました。初めての海外旅行。ドキドキワクワクしながら関西国際空港から出国しました。イギリスまで12時間、空港で6時間待ち、イスラエルへ6時間。合計24時間のフライトでした。長距離移動&時差ボケで、テルアビブ空港に着いたときは入国審査を待つ列で思わず座り込んでしまったのを覚えています。しかし、現地は朝の6時。ホテルで休むわけもなく、すぐにバスに飛び乗ってイスラエル各地を見て回りました。ガリラヤ湖、エルサレムなど、小さいころから聞いてきた聖書の舞台が次々に現れ、今もその光景が目に焼き付いています。この経験を通して、聖書の御言葉がより具体的で現実的なものへと変わりました。

「受洗」

中学・高校はソフトテニス部で活動しました。心は神様から離れていたわけではありませんが、中高の6年間は試合などで教会に行かない時が増えていた時期でした。周りはスポーツで勝つこと、よい成績を獲ることが大きな価値観である中、自分の人生にはどんな意味があるのか。信仰を持つとはどのようなことかをぼんやり考えていました。高校3年の時に大学受験に失敗した私は、高校卒業後、浪人をしました。それまで次の目標、次の目標と追い回されるように過ごしてきた人生で初めて。自分とじっくり向き合い将来についてじっくり考える大切な一年となりました。当時はクリスチャンとして歩むことの窮屈さや教会生活への反発から、洗礼を受けていませんでした。一人で毎日聖書を読み、信仰生活を守れば良いと考えていた私に、神様は「神の群れの中に入り、私に仕えなさい。」と語り、次の御言葉を与えてくださいました。

『何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」ピリピ4章6-7

受洗することは、神様に従う第一歩だという確信が与えられ、受験勉強渦中でありましたが、同時に洗礼準備クラスをお願いし、数か月の準備期間を経て、洗礼にあずかることができました。

「従弟からの一通のメール」

大学に入学し、私のクリスチャン生活もスタートしました。私の周りには、信仰に命を懸けている信仰の篤い先輩が多く、聖書の読み方や教会への仕え方、メッセージの仕方など、ビシバシとトレーニングしてくださいました。そんな大学生活も一年が終わろうとしていた頃、従弟から一通のメールが入ります。
「プロテスタントのクリスチャンが集まる全国集会があるらしいけど一緒に行かへん?」
それまで、自分の教会のグループのキャンプしか参加したことがなかったので、クリスチャンが多く集まる集会には興味がありました。
そこで「いいけど、申し込みの締め切りはいつ?」と返信すると。
「締め切りは今日!!今日中に〇〇の口座に33000円振り込んで!!」
おいおい、振り込め詐欺かと思いましたが、まだクリスチャンになっていなかった従弟がせっかく誘ってくれているので、その足でATMへ向かいキャンプ代金を支払いました。

この日の振り込みが、その後の人生を大きく左右することになります。実はこのキャンプが3年に一度行われるキリスト者学生会(KGK)の全国集会でした。5日間行われたキャンプで従弟ははっきりと信仰告白をし、洗礼を受けることができました。また私にとっては、このKGKとの出会いを通して、その後KGKと強く関わっていくこととなります。初めて、他の教団の人と一緒に聖書について話をすることは、とても新鮮な体験でした。熱く語り合い、共に祈り合う仲間が与えられ、出会った信友との交流は今も続いています。

「就職」

大学卒業後は教員になることしか考えてなかったので、大学3・4年生になっても就職活動は一切せず、また受験生のように教員採用試験勉強をしていました。そんな中、KGKの主事からの薦めもあり、金沢にあるキリスト教学校へ就職します。初めての仕事と一人暮らしとで最初は慣れませんでしたが、同僚や北陸地区のKGK友人、教会のみんなに助けられて楽しく仕事をスタートしました。

就職した学校は毎朝礼拝から始まる一日でした。生徒と一緒に御言葉を聞き、一日を始められるのはこの上ない幸いなことでした。また毎月講壇から全校生徒へ御言葉を語ることができることもすばらしい経験でした。「多くの子どもたちに福音を伝えたい」という、その夢がかなった瞬間でした。教科を教えることの他、キリスト教も中心になって仕事をさせてもらい、充実した日々を送ることができました。

「京都へ」

金沢での生活が3年目を迎えた頃、母親が体調を崩し長期入院しました。これをきっかけに、実家に戻ることを考え、京都の公立の教員採用試験を受け直し、京都の公立へ再就職しました。金沢を去るときは後ろ髪をひかれる思いでしたが、神様はこのことを通して新たなステージを開いてくださいます。

関西に戻った私は、学生時代にKGKで共に過ごした信友たちと再会します。その一人に妻の優子がいました。数年後、結婚に導かれ、京都での新しい生活が始まりました。

比叡山がよく見える部屋で、毎朝聖書を読んで一日をスタートする結婚生活が始まりました。私たちが住んでいたのは、地球温暖化防止京都会議で京都議定書が制定された国立京都国際会館のすぐ近くでした。

数年後、2013年10月、国際会館でエンパワード21全日本大会という大きなクリスチャンの大会があると聞き、大会の最終日に部活が終わったあと、ちょっと寄ってみるかと軽い気持ちで訪ねてみました。

https://www.christiantoday.co.jp/articles/12147/20131014/news.htm

会場には2000人ほどのクリスチャンが集まっていました。あまりの人数に驚かされると共に、伝統的な教会で育った私にとっては、聖霊派の先生方のメッセージや祈りはとても新鮮で心にストレートに伝わってくるものでした。賛美と祈りと熱いメッセージで燃やされた後は、派遣集会が持たれました。全員が1列に並び、一人一人メッセンジャーから額に油を注がれ、それぞれの場へと再派遣されていったのです。

その時は何も感じませんでしたが、後から振り返ると、この時をきっかけに私たち夫婦は新たな導きの波に乗りました。

「滋賀に引越」

エンパワード21が終わると、不思議と滋賀の不動産情報がたくさん手元に集まるようになりました。当時京都から滋賀の教会へ通っていたので、ちょうどよい機会だと思い滋賀に家を探し始めます。そして、通っていた教会の近くによいマンションが見つかり、そちらへ引っ越すことに決まりました。

引越をして半年後、子どもが誕生し3人での新たな生活がそこで始まりました。忙しくも楽しい日々でした。私たちのマンションは教会から近いこともあり、いろんな教会員の方との交わりや相談の機会を持つ場所を提供することができました。

「アメリカへ」

当時、滋賀の教会は試練の時を迎えていました。開拓から10年ほど経ち様々な問題が教会内で起こり、教会員の愛と信仰が試される時期となっていました。私たちもその渦中で心身共に疲れ切り、どうにもできないことにただ祈り、待つしかできませんでした。そんなときに不思議にアメリカ行きが決定します。

バタバタと準備が始まり、2016年3月に家族3人で渡米しました。渡米先には妻がずっと行きたかったニュージャージー日本語教会が家からすぐ近くにあるということがわかり、渡米3日後から教会に通わせていただきました。アメリカでも主にある兄弟姉妹と日本語で礼拝できる機会に恵まれたのは、本当に感謝なことでした。またスモールグループでは錦織先生を通して、どのように生活の中で神様を知り、神様との関係を深めていくかについて学びをしました。日本でずっと奉仕に追われてきた私たち夫婦にとっては、大切な学びであり、その後の信仰生活にとって大きな財産となりました。

Perspective World Christian Movementという非宣教地域、他宗教への伝道の学び会に参加しました。そこでは、50人ほどの参加者と共に、聖書に基づいた福音とは何か、異文化へのアプローチ方法、教会形成など実践的な学びをしました。そこで気づかされたことは、日本は世界で最も福音伝道の進んでいない地域の一つだということです。世界宣教について共に学ぶ中で多くのアメリカ人が真剣に、熱く日本のために一緒に祈ってくれました。アメリカから日本を見ることを通して、日本への福音の必要性を再認識することができました。

「日本へ」

3年間のアメリカ滞在を経て日本へ帰国しました、改めて思うことは、これまでもこれからも私の人生は主が導いておられるということです。主はご自身の計画の中で私を生かし、訓練し、導いてくださいます。どのような導きに対しても、主が共におられるので、ただ私は信頼して歩むことができます。これから日本で主に仕えていくなかで、ただ主の栄光だけが輝くことを祈りつつ歩めたらと思います。

ニュージャージーでの主にある兄弟姉妹との愛の交わりを感謝します。教会のお働きが益々祝福され、多くの方が主に出会うことができますように。

『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。』詩篇119篇105

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第二の放蕩息子

アメリカ、フロリダの地であなたは愚かで汚れきっている私を一番近くで見ていたのにもかかわらず、私をこれでもかと愛し、優しく包んでくださいました。あなたの愛をこの世界、そして日本に伝えるために私のからだを用いてください。

自分がどれほど愚かで無知であったかを思い知らされたのです。ああ神よ。私は獣のように見えたことでしょう。しかし、それでもあなたは私を愛し、私の右手をしっかりつかんでくださっています。 詩篇73:22~23(リビングバイブル)

去年の6月から今年の1月まで、アメリカのフロリダにあるディズニーワールドで約6ヶ月間のインターンシップに参加していました。これは、当時大学3年生の世界一流のホテルマンを目指していた私にとって素晴らしい機会であると同時に、親元を離れられる最高の機会でもありました。親が嫌いであった訳ではありません。むしろ大好きです。問題だったのは、私の信仰が神様を信じる信仰ではなく、神様を熱心に信じる親に対する信仰だったということです。クリスチャンファミリーに生まれ、物心つく前から教会にいました。洗礼は10才の時に受けて、高校生活が終わるくらいまでは特につまずくこともありませんでした。しかし、大学に入ると、徐々に自分の中でたくさん疑問が湧いてきました。「なぜ私は毎週日曜日に教会にいるのか」「この世界にはたくさん神様がいるのに、なぜ私はこの神様を信じているのか」――このような問いが自分の中にたくさん湧いてくる時に、立ち返る信仰という土台が私はしっかりしていなかったため、すぐに崩れてしまいました。この時は、教会に行かないと親に言ったら親を悲しませると思っていたので、しかたなく行っていました。そして、教会に行ったら熱心なクリスチャン両親を持つ息子として自分なりに良いクリスチャンのフリをすることをいつも考えており、偽りの自分で教会にいるのが嫌でしょうがなかったです。このタイミングで親元を離れて行く6ヶ月のインターンシップは、自分の中で大きな意味がありました。それは、自分自身の神様に対する信仰を自分で見つけられるかもしれないという期待の意味でした。

大きな期待を胸にアメリカに行きましたが、そんな甘くありませんでした。池田恵賜先生に勧められた日本人教会はタクシーで往復8000円かかり、日々を過ごすお金を稼ぐのにやっとの私は、教会にそれほどのお金を払って行く価値が見出せませんでした。そして持っていった聖書は一度も開かず、祈りもしなくなりました。週三回くらいのペースで同僚と夜のダウンタウンに行き、二日酔いになるまで遊んでいました。どんどん神様から離れていきます。かつて自分がアメリカに来る前に抱いていた期待を楽しさと酔いで忘れようとしていました。

帰国1ヶ月半ぐらい前になり、私は二つのことをずっと考えていました。一つ目は、日本に帰ったら親と違う教会に行こうということです。なぜなら、また偽りの自分でいなければいけないと思ったからです。二つ目は、こんな汚れきっている自分は教会に戻る場所すらないということです。自分のしていることが愚かで、もう神様に合わす顔がないと逃げていました。

そんなある日、「恵賜先生とマーティ宣教師がアメリカのフロリダにスポーツミニストリーの会議で来ているので、もし都合が合うなら会いなさい」と母からメールがありました。私は、この時正直「恵賜先生は帰国したらいつでも会えるし、マーティ宣教師って誰やねん!」と思っていました。しかし、ここでの出会いが私と神様の関係を大きく変えました。最初に恵賜先生と少し話し、そのあと初めて会うマーティ宣教師に、忙しい会議と会議の間の時間をとって頂きました。会話を始めるとすぐに、マーティは「君のスピリットはすごい!」と私に言い、マーティがすごく興奮していたのを覚えています。私は、彼がなぜこんなに興奮しているのか、そしてスピリットがなんのことを指しているのかもわからない状態でした。しかし、私が覚えているのは、こんなに明るくて楽しそうな人をディズニーでも日本でも今まで見たことがないということです。次のミーティングが始まるとのことでお別れすると思いきや、次のミーティングにぜひ参加してほしいと、参加費も払っていない私に対して言ってくださいました。そして飛び入りで参加したミーティングでは、オーストラリアのサーフィンミニストリーを代表する方がオーストラリアでのミニストリーの現状やこれからの課題を共有してくださいました。ずっと教会や神様から離れていた私としては、久しぶりに聞く神様の話でした。とても新鮮で神様のことをサーフィンで伝えたいという熱心な思いが、私には輝いているように見えました。そのミーティングに参加している皆が眩しかったです。

ミーティングが終わると、マーティは「私は今、フェスティバルを通して神様を伝える働きをしていて、日本全国を回っている。君に通訳をしてもらいたいから、早く戻ってきなさい」と言ってくれました。なぜか涙が止まりませんでした。もう帰る場所すらないと思っていたのに、神様はこんな私でさえも、とりこぼすことなく帰る場所を用意してくれました。すべてを知っている神様は、汚れていてもう自分ではどうしようもできない私に手を差し伸べてくださいました。マーティは泣いている理由も聞かずにただ自分を抱きしめ、「神様はあなたを愛しているよ」と言ってくれました。神様の愛は偉大です。私は神様の深い愛によって変えられました。今は、神様によってホテルマンへの夢が完全に取り去られ、献身する道に導かれています。神様がどのような計画を私に持っているか、まだしっかりわかりませんが、主に期待して歩んでいきます。

高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主イエス・キリストにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。 ローマ8:39(新改訳第三版)

2019年3月28日本郷台キリスト教会木曜祈祷会での証し:ご本人と教会の許可をいただき転載

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「平安、愛、そして歓びを、洗礼から」

救い主のお導きに、心から感謝します。

JCC of NJ関連の諸先輩、及びこれから信仰を目指す皆さんへ!

私の体験談が、何かの好影響になれば幸いと念じ、拙い情報を思い出し、まとめてみました。

 

実は私、13ヶ月前、当教会にて、錦織牧師のご采配を得て、晴れの席で “受洗”を致しました。75歳の老齢であるにも係わらず、当日は、一寸感情の高振りがあったのを、今でも覚えておりますが、洗礼に至る背景は、こんなものでありました。

 

東京ベースの家電関連企業の駐在員として、米国本社にて業務に専念し、私なりに成果も出せたので 引退しました。しかし、仕事オンリーで有ったが為か、退職後、交じりあう人も少数で、暇でしょうがない現実に遭遇し、寂しさを感じ、ガッカリしていました。

(皆さん、仕事以外で交じえる人を、常に確保しておいたほうが宜しいですよ、天のお父さん[=神さま]と会話出来れば最高でありましょう)

 

問題解決には人の紹介で、シニアーセンター参加が実現しました。日本人主体で集まる会。そこでは毎回聖書解説と礼拝が、教会の牧師方の派遣で開催されています。何回かの集いに参加して、聖書に対する興味が湧いて参りました。錦織牧師を始めとする、数名の先生方の懇切丁寧な指導に依る影響があっての事だと思います。

 

当初は無知の世界ゆえ、とっつきにくく、モヤモヤの状況が続きましたが、幸い音楽が好きなので、賛美の歌には好感を持ち、その内容を理解すると楽しくなる経験を踏んでおりました。そのうちに、創世記が理解出来るようになり、天地の創造、人が造られる等々、読み進むにつれ、私は救いの主を 「これだ!絶対信ずるに値する!」と感じ、驚きと感動に浸りました。新たな世界が開かれたのです。

 

更にその他に経験した事も併記せねばなりません。

引退後、健康上の諸トラブルについてです。加齢からと想像致しておりますが、こんな病を次々と経験しました:

Dental Surgeries

Open Heart Surgery

Prostate cancer

Cataract Surgery

Pacemaker Implant 等であります。

 

これらの病への治療が開始される頃、教会の先生、教会の兄弟姉妹(教会では互いのことを神の家族として「兄弟姉妹」と呼ぶことがあります)らが、天のお父様へ祈って下さっていました。私も祈りました。そして家族も祈りも加わった為か、次々と無事、療養を終了致しました。医療関係の諸先生方に依る尽力も含められますが、忘れられないのは、主への真摯な祈りが多くささげられたことです。そして、私が今でも私なりに生存している事実を、誠にありがたく思います。

 

祈りを捧げてくれた 結果 今日になった次第です。

初期に於いては、私に対する親切なお祈り行動をありがたいと思いつつも、心にピーンと来るものではなく、むしろ混乱気味でした。しかし、今では皆さんのお祈りに、天のお父様が応えてくださった結果と心から思うようになりました。

 

3年前に、私は家族とマイアミに移住しましたが、そこでも、サウルさん(牧師先生)と彼の奥さんに懇意にして頂け、土曜日の集まりに、日本、米国、ラテン系信徒さん達と共に集い、聖書の学びをしてきました。そして、その中で、神さまとの関係が、更に深くなっていると信じさせられます。

 

このような経過によって、昨年の誕生月、4月には自分のこれからの生き様を“余生をお祈りで感謝、感激”と位置付け、神さまを受け入れるに至りました。聖書から、

1)創世記第一章の我々が生きる場としての、天地創造に感銘したこと。

2)総じて、福音書に散りばめた多々なる言葉、(4つの福音書の全てにイエス様が十字架にかけられ、 三日後に復活されたということが書かれていますが、神秘的で驚くべきで、信じるに充分、と私の心に収まったこと。

3)詩篇150篇等に感化を受け、そうだ!そうだ!と神さまに同調したこと。

それらが信仰の決め手になりました。

 

そして、NYに短期滞在で前立腺癌の治療に専念している時、神様に私の罪の悔い改め、昨年の5月13日にバプテスマを受けました。

 

以来、私が明るくなったと周囲から言われたりするので、皆さんの親切なる応援の祈りの力が作用したと信じ、主の御言葉を深く、広く、理解し、福音を更に深く理解することに専念しようと思っています。

只今はマイアミに住んでおりますが、JCC of NJを大切な拠り所として、皆様の懇意で接触を続けていければと期待しております。

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「神の業が現れるため」(ヨハネ9-3)

317日はセントパトリックデーでした。今まで「アイルランドのお祭り」と、あまり気に留めていませんでしたが、4世紀末から5世紀にかけて働かれたパトリック宣教師の辛い少年期を知りました。そして彼が残した言葉に目が止まりました。
Christ beside me.  Christ before me.  Christ behind me.  Christ within me.
Christ beneath me.  Christ above me. (St. Patrick)

目の前が真っ暗になったあの日から、全く変わってしまった状況の中に封じ込められてもがく中で 、神の存在を喪ったかの様な時にも、パトリック宣教師の言われるように、確かに私を支える存在は、一番近くで囲み守り抱えてくださって、深い慰めを持って立ち上がらせて下さろうとしておられたと、その足跡を振り返る毎に感謝に溢れます。

2017年後半、私達は多くの友人を天に送る不思議な年でした。12年間病と闘い続けた親友を含め10人の友を失いました。しかし最後に健康な主人が召されるなど?思いもしない事でした。「私達は明日のことはわからないのです。」(ヤコブ4:14)の通りです。

11月15日、どの位心臓マッサージが続けられたのでしょう? 救急医の「残念ですが。。」と言う声に、映画のシーンを見ている様な錯覚を覚え、主人の死に一人直面しました。まるで 生きている様な顔に思わず声をかけていました。「ね〜Aki—–     当たり前ですが、
返事が返ってこない、静けさの中に涙も出ずに立ちつくしていました。
主人が横たわるベッドと私の間の距離は僅かなものなのに、でもそこは全く声の届かない断絶の隙間でした。取り返すことのできない真っ暗闇「死」の壁がありました。
ヘンリー・ナウエンの慰めの手紙の中には、「死は私達のコントロールや影響が及ぶ領域から完全に外れたところにある。死は決定的な終わり、見たこともない終止符、完全な破壊。」と書かれていますが、そんな壁の前に立たされました。

「人間には一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが決まっている」(ヘブル9:27)
神の言葉が迫りました。  これが? 神の言われる、全ての人間が迎える「肉の死」なのですか?   元気だった主人が突然迎えた命の終わりという現実を突きつけられて、答えを求めるようにつぶやきました。
全く聖い神の前に立つことが出来る人はいるだろうか?
裁きの前に、この世での多くの立派な働き、功績や財産などは何の力もないのでは無いか?

その時、十字架にかかられて血潮で真っ赤になったイエス・キリストの姿が、リアルに目の前に何度も迫って来ました。イエス様、わたしたちでなく、なぜ聖いあなたが、罪のないあなたが? 人間が掛かるべき十字架にかかられたのですか? 何故そこまでしてくださったのですか?言葉で表現出来ない程の重みを持って、十字架のあがないのすごさを受け取りました。

「私を通してでなければ、だれひとり神のもとに来ることはありません」(ヨハネ14:6b)
突然の主人の死でしたが、この一方的な御愛を信じ受け止めていた主人が、ただ恵みによって神のもとへ帰って行ったことをハッキリと感じました。      聖なる神の前に立つ時も、
このイエスご自身が執り成して下さる方であることも。
🎶 
ああ感謝せん〜  、ああ感謝せん〜 🎶 不思議に静かに賛美が心に響き始め、
断絶の闇だと思っていた死の絶望の中に、希望の光が圧倒的な力で迫り覆いました。
「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。
やみはこれに打ち勝たなかった」(ヨハネ1:4~5)

十字架にかかられて死に、3日後に復活された主、死に勝利された方の約束が響きます。
「私は蘇りです命です。私を信じる者は死んでも生きる、あなたはこれを信じるか」
「これを信じるか?」 はい信じていました、でも今はっきりとわかりました。
主人からの別れの言葉はありませんが、この約束が残された言葉であると感謝します。

召天から1年5ヶ月。 彼は最高の場所に帰ったことが段々とクリアに信じられるようになりましたが、当初、主人に頼りきっていた私は、空虚さ喪失感から抜けきれない毎日が続き、眠れず、運転も出来ず、聖書も読めず、祈れない、ただひたすら主の憐れみの中に弱さを留める時間でした。主人に何回か「アメリカで、貴方が居なくなったらどうするの」と聞いたことがありました。主人の答えは何時も「イエス様がいるから心配ない」でした。
全てを主にお委ねする状況に追いやられました。

「主の祈り」が私の祈りとなりました。「御心の天になるごとく 地にもなさせたまえ」!
寂しくなると、「Pray」という賛美を主に叫ぶように歌いました。
In time of sorrow, season of pain.
When all seems hopeless
One thing Remains
Our God is Faithful
His word is true, He said call on his name
And He will answer you.  Pray
  Pray
He has promised He will answer when you pray
Jesus is answer when you pray

詩篇を声を出して読みました「私のうちで、思い煩いが増す時に、あなたの慰めが、私の魂を喜ばせてくださいます様に。」詩篇94:19
「我が助けは天と地を造られた、主から来る」(詩篇121) 強められて行きました。

11/18=ハワイでお葬式。3/24 =主人の誕生日にNJでの記念会。5/30=日本の大和カルバリー教会での召天記念礼拝、沢山の皆様のお祈りとサポートによって無事に終えることが出来たことを感謝いたします。主人の死を知らせた時、父親っ子だった娘はどんなに辛かった事かと思いますが、あれからズーと私を支え続けてくれています。ありがとう!
「私は私を強くして下さる方によって」又歩み出しました。 お祈り有難うございます。
主人は「神の栄光の中で」、私はこの世で「神の業が現れるために」生きて行きます。
聖霊様どうぞ宜しくお願いします。   

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「人智をはるかに越える神様の御計画を見るとき」

私の名前、“日和(ひより)”には二人の名付け親がいます。

一人は私の両親の共通の親友である“ひより”さんという方です。ひよりさんはクリスチャンではなく、両親が主の招きがあるよう祈っていた友人の一人でしたが、私が生まれる10年ほど前にグアム旅行でスキューバダイビング中に現地のインストラクターに海中に置き去りにされ、行方不明となったまま、帰ってきませんでした。母はその頃たまたま読んでいた本の中で、ある宣教師が海で難破に遭い水底に沈んでいく体験をした時、非常な恐れよりも神様の大きな御手の中に包まれていくような平安を感じた、と書かれていたのだということをひよりさんがグアムへ出発する前日に彼女に話したのだそうです。ひよりさんが最期、海の中で何を思っていたのか私たちには知るすべもありませんが、きっと母が伝えた宣教師の話と平安を思いながら願わくば主の御光の中天に上げられたことを両親は信じています。

もう一人の名付け親は母方の祖母である和子さんです。和子さんはクリスチャンとなった私の母である娘に連れられ教会へ行き、自身もクリスチャンとなりましたが、私が生まれる1年前に兵庫県を直撃した阪神大震災の後、地震による酷い粉塵で肺炎に侵され亡くなりました。私は阪神の震災の翌年、1996年2月22日の午後2時22分に2220gで生まれました。2の羅列という驚きも去ることながら、和子さんも昭和2年2月22日生まれで、両親は祖母をなくした悲しみがこのような形で喜びに変えられたことに神様の壮大な御計画を見、祖母の名前から“和”の字を、また天での再会を願いひよりさんから名前を借りて、私を“日和”と名付けてくれました。

そんなわけで、神様のユーモア溢れる御計画のもと10年間子どもに恵まれなかったクリスチャンの両親の間に一人娘として生を受けた私は、自分を認識するよりも前に神様の存在を教えられ、祈ること、御言葉を読むこと、聖日(日曜日)の日に教会へ行くこと、が当たり前として育ちました。両親は私を諭す時も、祝福する時も、励ます時も、いつも御言葉をもって語りかけました。父も母も共に芸術系の仕事をしていた為、私も物心ついた頃には既に紙とペンさえあれば幾時間も過ごせてしまうような子どもで、振り返ってみると、私の周りにはいつも祈りと御言葉と、そして芸術が寄り添っていたことに気づかされます。母は厳しかったですが、早生まれで他の同年代の子どもたちよりも要領の悪い上のんびり屋な私に忍耐強く付き合ってくれました。芸大で若い芸術家の卵たちを教えていた父はとても頭の柔らかい人で、私が昆虫に興味を示せば林に虫捕りに連れて行ってくれ、私が道端のカラスノエンドウの弾ける様子に見入っていれば気が済むまで一緒にしゃがんで見てくれ、私が絵を描きたいと言えば床一面に紙を敷いて広々と描かせてくれました。私は他の子どもたちよりも鈍いところがあったので、幼少期はよくいじめられ悲しい思いをすることも多かったですが、“芸術”という吐き出し口を与えられていた私はのびのびと育ったと思います。ただ、幼少のその頃植えつけられた他の子たちよりできないことが多いという劣等感は年齢が少しずつ上がってもなかなか拭えず、その不安をかき消すように勉強もクラブ活動の練習も人の倍以上頑張って取り組んでいた子ども時代でした。教会にも楽しく通っていて、神様という目に見えない存在を幼い頭を一生懸命働かせて理解しようとしていましたが、ある時は大洪水を起こして全人類を滅ぼす恐ろしいお方、またある時は子どもたちをその膝の上に乗せ愛でられる優しいお方、そしてまたある時は右頬を打たれたら左頬を差し出しなさいと諭され自ら十字架の道を歩まれる苦しみと忍耐のお方、とそのイメージが時にいろんな形に変わっていき、迷走していたように思います。しかし、一人っ子で紙とペンが友達のようなところがあった私は、周りの子どもたちと関わるにあたって自己主張の全然できない子どもで、大抵の場合“我慢”して自分を押し殺すところがありました。その分を両親が大きな愛情を持って受け止めてくれていたのですが、自分の性質上、神様というのも“忍耐”を強いる方だというイメージが次第に強くなっていきました。

時は進んで高校2年生の頃、中高一貫校に進学した私は中学の頃から弓道部に所属し、“文武両道”を掲げて友だちと遊ぶこともなくただひたすら勉強と部活動に打ち込んでいました。自由と自主性を重んじる、日本の教育機関にしては珍しいリベラルな学校であったので勉強のプレッシャーを生徒に与えない長閑な雰囲気でしたが、勉強好きな生徒たちが多いのか進学校に類される学校でした。私も周囲の空気に押されるように、国公立大学への推薦入学を目指して勉強に励みつつ部活動も精力的に取り組み、部内の誰よりも練習をして副部長の任も務めていましたが、そのあまりの熱心さ故に同学年の部員たちとの間に熱の差が生じ部活動でトラブルを抱えてしまいました。部活に行けなくなった私は、勉強への意欲も失せ家に引きこもりがちになり、授業の欠課時数は貯まり、担任の先生からもこのままでは進級も危うい、と言われました。当時の私は頑張って積み上げてきたものが全て崩れどん底に落とされたような心地で、どうして神様はこのような残酷なことをなさるのだろうと絶望しました。小さい頃から共に教会学校に通っていた子たちはみな中学へ進学する頃には教会を離れた中、私は毎週教会にもきちんと通っていたし、部活動も勉強も誰よりも真面目に一生懸命に頑張っていたのに、そして何より聖書の教え通り“忍耐”を実行していたのに、なぜ神様はそれに報いてくださるどころか全部奪われたのだろう、と。自分の置かれた状況への不満や怒りはそのうち、いつまでもそうして八方塞がりの中惨めにうなだれている無気力な自分に対する不甲斐なさと失望に変わり、クリスチャンなのにこんなにもたくさんの負の感情に覆われていることに自分はこの世界で一番情けない者だ、ととても落ち込みました。教会にはかろうじて行っていましたが、兄弟姉妹にかけられる「祈ってるよ。」の言葉はその時の私にとっては重荷で、自分のみっともない姿を周りから、そして神様からも隠してしまいたい、とさらに引きこもるようになってしまいました。

そんな時、母は私に旧約聖書に出てくるヨブの話をしてくれました。神様の前にも正しく、富も地位も家族にも恵まれたヨブがその全てを奪われた上酷い皮膚病も患い、妻からも「神を呪って死になさい」とまで言われた時、ヨブは自分の生まれたことを呪うほど苦しみましたが神を決して呪わなかった、

そして神様はその後ヨブに以前持っていた物以上の祝福をお与えになったこと。

私が自暴自棄になって大泣きしながら自分の体を傷つけた時、母は涙を流しながら私の隣で静かに祈ってくれました。日和は生まれた時から神様に守られているから、必ずこの先に神様の御計画があるよ、と。ひたすら沈む娘の姿をどんな気持ちで支えてくれていたことか、と今振り返ります。母があの時流した涙は、私には小さな者たちのために主が流してくださった清い涙と重なるのです。それまでは神様との祈りにおいても“いい子”でいようと努めて本心を出さないままでいた私でしたが、その頃初めて、神様に悪態をつきました。神様ひどいです、私はもうこれ以上忍耐なんかできません、と、どうしようもない自分のままで祈りました。

転機となったのは、弓道部を辞め先生から誘われるがまま美術部に入ったことでした。酷い落ち込み方をしていた私を見兼ねてだったのか、美術の先生が余っている50号の大きなキャンバスに絵を描いてくれないか、と声をかけてくれたのです。前述した通り、美術の溢れる環境で育った私だったので、もちろん絵を描くことは変わらず好きだったのですが、美術というフィールドにいるとどうしても芸術家である父の存在が大きく、「親の七光りだ」とか「サラブレッド」だとか評されることに抵抗感があったため、しばらく美術から敢えて遠ざかっていたところがありました。久しぶりにじっくり制作する時間を与えられて、始めこそキャンバスの前に呆然と座っていたものの一度筆を下ろすと時間も忘れて描き続けていました。その頃は、教室には相変わらず行けないことが多かったですが、美術室には夜まで入り浸っているような生活でした。

次第に、散らかって何も見えなくなっていた自分の心が美術を通してクリアーになってきていることを感じました。私の前にも後ろにも左右にも道はない、八方塞がり、と思い込んでいたけれど、それならいっそうのこと真上に飛び上がってしまってもいいのではないか、と思った時、逆に言えば今私はとても自由なのだ、と気づいたのです。神様は私が固執していたこの世的なもの、良い大学へ進学して安定した将来を築くことだったり部活動で良い成績を納めて周囲からの賞賛を得ることだったり、そういうものを一度全て取り除けてくださったのだと思いました。また多くの立派な信仰と称される聖書の中の人物たちも、多くの場面で困難に頭を抱え、苦しみ悶え、そして神様に叫び、その弱さを神様に明け渡しながら歩んでいる様子が聖書にはたくさん書かれていることにも気づきました。人間である以上、苦しみの中で情けない自分の本性にうなだれるのは共通で、そこで神様に全身全霊で叫び呼ばわった時、神様は視界の霧を晴れさせそのビジョンを示してくださるのだ、と教わりました。

 

“私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行き詰ることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。〜たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。”

コリントII 4:8-9,16

高校3年生に進級できるかどうかも怪しかった私でしたが、側でずっと祈り支えてくれた両親や教会の方々と、私を信じて励まし続けてくださった学校の先生方、心配してたくさん話を聞いてくれた友人たち、そして愉快で無邪気な感性で疲弊した私の心を癒してくれた美術部の後輩たちに救われて、なんとか高校最後の学年を迎えることができ学校にも通常通り通えるまでに回復したどころか、その頃私は神様から新たな道を示されたのでした。美術の力を改めて身をもって経験したことで、将来は美術を媒体として誰かの心に寄り添うことがしたい、という思いが私に与えられました。特に、子どもと大人の間で大きなうねりにさらされる10代の若者たち、将来への限りない可能性に勇み歩もうとする一方、未知の世の中に踏み込む手前の不安で揺れる時期、私自身がそうであったように多くの10代の青少年たちが不安定な心の浮き沈みと格闘していることに私は心を砕くようになりました。私は幸いにも良い大人の方々に囲まれて立ち直ることができましたが、悲しいことに、多くの若者がそういう機会に恵まれていないというのが現実です。アートセラピーという、美術制作を通して自分自身と対峙し、対話し、そして整理する機会を提供しその過程をサポートするというお仕事があります。日本では未だほとんど認識すらされていない分野ですが、美術を通して青少年の心に触れることのできるアートセラピーを勉強したいという思いが私に与えられました。しかしながら、日本では勉強できないということで、それなら勉強できる国へ行こう、と自分でも拍子抜けしてしまうくらい私はあっさり異国の地での学びを決めたのでした。

 

“あなたは口のきけない者のために、また全ての不幸な人の訴えのために、口を開け。口を開いて正しくさばき、悩んでいる人や貧しい者の権利を守れ。”

箴言31:8-9

周りの同級生たちが大学受験に向けて必死な形相で勉強に励む中、私は担任の先生に「大学受験しません。アートセラピーが勉強できるアメリカの大学に行きます。」と大胆に宣言しました。それまでの慎重派な私だったらこんなリスキーな道を選択しなかっただろうと思いますが、なぜかそう目標を掲げた途端、普通の生活を送ることすらままならなかった空っぽの私の中にみるみる力が湧いて、高校卒業後はアメリカの大学へ進学するための英語の勉強やVISAの取得、渡米に当たっての資金調達のためのアルバイトの掛け持ちや派遣の仕事など、積極的に動くことができるようになりました。辛かった高校2年の大きな挫折はここに繋がっていたのかと思うと、本当に神様の御計画の素晴らしさを覚えずにはいられません。

“あなたがたは、さきの事を思い出してはならない。また、いにしえの事を考えてはならない。見よ、わたしは新しい事を成す。やがてそれは起こる、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、砂漠に川を流れさせる。”

イザヤ43:18-19

顎関節の不調のため2度ほど手術を受けなければならず、直ぐにはアメリカに来ることができなかったのですが、高校卒業から2年半の準備期間を経て、満を持して20歳の夏、2016年の秋学期からロングアイランドのコミュニティカレッジでの学生生活をスタートしました。念願叶ってのアメリカでの大学生活でしたが、文化も仕組みも右も左も全く分からず、言語の壁もまた大きく、幾度となく心を挫かれました。未知の土地での暮らしは、どんなに頑張っても自分一人の力ではどうにもならないことばかりで周りの方々に助けを仰がなければ生活できず、一丁前に自立して努力して進んでいると驕っていた自分を省みました。そして、自分の力で解決しようとする前に、まずは神様に委ね祈ることの大切さをレッスンされました。また、今まで当たり前のように近くにあった家族や友人たちという“支え”から離れたことで、これまで以上に聖書の言葉が私の拠り所となるようになったのです。

昨年末まで住んでいたロングアイランドの地元の教会にパラパラと足を運んだりはしていたものの、やはり英語で執り行われる礼拝では霊的な満たしが得られず、母国語でメッセージを聞き、賛美をし、交わりをしたい、との気持ちが次第に高まっていきました。正直なところ、生まれた時から教会に通い、小学生の頃に洗礼も受け、聖書の言葉も祈りの文句も諳んじれるというのに、私はこれまで心の底から神様を求めたことがありませんでした。気づいたら当たり前のごとくそこに神様の存在があったからこそ、その御恵みと本質を見失っていたのです。昨年末、個人的なことでいろいろと不安や悩みを抱え、かつてない霊の渇きを覚えた時、日本の教会の宣教師の先生から繋げていただいて、昨年のサンクスギビング特別礼拝の際初めてNJ日本語教会の礼拝に参加する恵みに預かりました。ロングアイランドから電車と地下鉄を乗り継ぎ、送迎の車に乗せていただいて教会の建物の前に降り立ったとき、私の霊が震えたのを感じました。聖霊様が働いてくださったのだと思いますが、なぜだか「私はこの場所をよく知っている」と思ったのです。確かにここには霊の癒しがあると感じ、教会の建物を見ただけだというのに、涙が止まりませんでした。久しぶりに日本語で歌う賛美、語られるメッセージ、全てがとてつもない勢いで私の渇いていた霊を潤していき、これまでのクリスチャンとしての歩みの中で一番恵まれた礼拝の時となりました。その時、錦織先生を通して語られたメッセージは導きについてでした。神様は私たちが気づいていなくてもいつも導いてくださっていて、私たちが“涙の谷を過ぎるときも、そこを泉の湧くところとし”てくださるというのは、その苦しみの渦中にあっても潤いと慰めを与えてくださるのだ、ということ、その時非常に心を悩ませていた私に直に響くメッセージでした。

神様の御力はこれだけに留まらず、NJの教会へ足を運んだのを合図にしたかのように次の数週間はものすごい恵みの連続でした。NYクリスチャンユースのバイブルスタディのVineへの参加で同世代のクリスチャンの仲間との出会いに分かち合いの機会が与えられ、高額なアメリカの大学の学費に頭を悩ませていたところに日本の教会の姉妹から学費援助の申し入れを受け、またその姉妹からの提案を聞いた同日に編入の願書を出していた数校の大学のひとつであったCUNY Hunter Collegeからの合格通知…恵みと驚きのドミノのような日々でした。Hunterはマンハッタン市内にある大都会の学校なので、マイペースに勉強したい私のような者にはあまりに忙しなく、合っていないだろうと願書を出した当初は第2〜3志望くらいに考えていました。第1志望であったアップステイトの私立校からも合格通知と高額な奨学金のオファーをその1週間後に受け取りましたが、NJの教会へ行けたこと、新たなクリスチャンの兄弟姉妹と出会ったこと、そして日本の姉妹からの学費援助の申し入れ、サンクスギビング礼拝の時に語られた神様からの“導き”を私の霊がそこに感じていました。このまま続けてNJの教会へ行きたい、兄弟姉妹との分かち合いに足を運びたい、今神様により与えられたこの場での繋がりを大事にしたい、その思いが募り2週間ほど祈った後、続けてNJの礼拝も守れる上バイブルスタディなどにも参加できる市内付近での生活を選び、第1志望を断ってHunterに進学することを決めました。

“あなたの道を主に委ねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。”

詩篇37:5

こうして新しい学校での学びと共に、新しく与えられた多くのクリスチャンの兄弟姉妹との分かち合いを毎週持つことのできる生活が始まり、今私はこれまで感じたことのない霊の喜びを感じています。毎週礼拝の中で神様からの課題や問いかけを与えられ、毎朝のディボーションの中でさらにその問いかけに対する神様からの追求があり、その日その日を聖霊様からの語りかけに自分の思いを寄せながら過ごし、週に何回か参加させていただいているスモールグループやバイブルスタディなどの場で兄弟姉妹とその週自分と神様との間で持たれた対話について分かち合うという、とても霊において充実した日々を送ることができています。この度、正式にNJ日本語教会への準会員としての転入を承諾していただく恵みにまた預かり、兄弟姉妹とともに主に仕える機会が与えられたことにさらなる喜びと感謝に溢れています。振り返ってみると、出生時から主の祝福はいつも私の上にあり、私が塞がって主の光も声も届かなかった重たい時期においても神様は私に必要な助けと慰めを常に側に置いてくださり、私の思いやその先に見ていたビジョンをはるかに超えた素晴らしい御計画と道へ誘ってくださいました。そしてその導きにようやく私の霊も気づいた時、これまで経験したことのない満たしと喜びを受け取ることができました。アメリカでの生活はまたチャレンジで闘いの日々ではありますが、神様に全てを委ねて共にゆく道は、人智をはるかに越えた神様の御計画に期待し歩む喜びの道である事を私は今確信しています。

“それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。”

ローマ5:3-5

私たちの前に絶え間なく試練こそあれ、それによってさらに主との関係が強められ祝福されるのであれば、それは私の喜びです。昔のようにただ自分を押し殺す忍耐ではなく、主に全てを明け渡して、主に手を引いていただいて挑む日々に、希望を寄せて歩みたいと思います。

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「Trust God Always」

家族の歴史
私の父は1920年に日系二世として東海岸で生まれました。その後、子供時代に家族と共にニュージャージー州南部に移り住みました。第二次世界大戦が起こった時は、父は祖父の足跡をたどるようにメディカルスクールで学んでいる最中でした。そして、父は戦争に協力するために医学生としての歩みを諦めなければなりませんでした。父はアメリカ軍に加わろうとしましたが、父の兄がすでに陸軍442部隊(日系アメリカ人部隊)に入隊していて、母が一人残されることになるため、それは許されませんでした。父は大学を中退して南ニュージャージーの実家に帰り、農園を手伝うことになりました。日本軍による真珠湾攻撃が起こってからは、日系アメリカ人を隔離するため、多くの強制収容所が造られました。それらのほとんどが西海岸に造られたと思われていますが、実際はニュージャージーのシーブルックにもあったのです。父も日系アメリカ人ではありましたが、強制収容所に送られることは免れました。教会が彼をクリスチャンとして保証したからです。
戦争の後、父はメディカルスクールに戻ることはありませんでした。家族を養うために、週7日、24時間働く農園の仕事を続けることにしたのです。農夫としてなすべきことは多くあったのですが、父はいつも神のために時間を使い、安息日を安息日として守っていたのです。私たちきょうだいが生まれてからも、父は神に仕え続けて、クリスチャンホームを築きました。農家の子どもとして、兄も私も妹も農園を手伝い、教会や日曜学校を、日々の雑用から解放される「ミニバケーション」のように思っていました。私は、子どもの頃に教会に通っていたこと、教会のクリスマス劇での私たちの「飼い葉の桶で」の歌の調子外れの録音を、母が何度も繰り返し聞いていたことを思い出します。夏には「Vacation Bible School(夏季聖書学校)」に通い、高校に入ってもユースグループで出かけたりすることを楽しんでいました。しかし、高校を出てからは全てが変わってしまったのです。

大学時代
人生には色々なチャレンジがありますが、大学生活には、それが自分で生活することの第一歩であるがゆえの特別な困難があるものです。私の問題は大学に進んで学生としてバランスをとった生活することと、青年期を迎えることの難しさでした。それはどうしようもない、ということではなかったのですが、ドレクセル大学でエンジニアリングを学んだ5年間、わたしは全く信仰的ではない生活を送りました。教会には行かず、何か信仰的なものに参加するのは、ただ、超教派の集まりくらいでした。いうまでもなく、私は人生を真剣に考えることもなく、ただ、学位を取って、仕事を見つけることだけを考えていました。卒業した後、日本で1年ほどインターンをしたのですが、その後、アメリカに戻って、他の会社で働くことにしました。全てが仕事ばかりで、神からは離れる一方でした。そして、ついには完全に信仰を失ってしまったのです。それはその頃の自分にとって、大きな問題ではありませんでした。しかし、間違った道に進んでいることはわかっていました。

人生これだけなの?
仕事上の能力を向上させてはいましたが、何年も同じことを繰り返していました。朝起きて、運動をして、仕事に行って、家に帰って・・・その繰り返しでした。何かが足りないような気がして、自己啓発を学び始め、仕事以外の自分に投資をするようにしました。ITエンジニアとして働きながら、色々なことを学び、最後には金融関係のビジネスを始めるための勉強を始めました。この努力をしている中で知り合いになった人々の中には成功したビジネスリーダーもいました。驚いたことに、その成功したリーダーたちの共通項は神に忠実な人々であり、皆、神を中心とした価値観を持っているということでした。
私は一つの大きな決断をしました。それは教会に帰るということです。この時、私はホーボーケンに住んでいたのですが、ニューヨークのアッパーイーストにある教会に通うようになりました。電車を乗り換えて、歩いて合計1時間かかりましたが、もう一度教会に通うことが楽しくて、人生の意味を見つけたようでした。良い友人に恵まれ、人生は良いものでした。しかし、2001年の世界貿易センタービルへのテロ攻撃の後、ニューヨークの教会に集う人々の生活は変わってしまい、以前のようではありませんでした。のちに妻になるKayoと私はホーボーケンから引っ越して、教会に行くこともやめてしまいました。
9-11の1ヶ月後、私のITエンジニアとしての仕事はなくなり、ほんの少しの解雇手当が与えられ、私は一夜のうちに失業者となりました。私の生活のルーティーンは全て変わってしまいました。その時はITの世界は混乱していて、ITの世界に帰ることはとてもリスクの高いことでした。ですから、私は思い切って、金融の仕事にかけることにしたのです。これはたやすいことではなく、チームをトレーニングすることはとても難しいことでした。何ヶ月かの後、私の貯金は減り始めました。ビジネスを立ちあげようとすることは多くの歪みを生み出していきました。借金は増えていく中で、自分に「あと何ヶ月か経てば軌道にのる」と言い聞かせていました。
経済的にストレスがさらに大きくなっていく中で、のちに妻となるKayoと私はどうしても必要なもの以外をどんどん捨てていきました。ビジネスを立ち上げていこうという中で、とてもシンプルな生活をするようになっていったのです。ある夜、私はあまりのストレスの大きさに、膝をついて、泣きながら神の助けを求めました。おそらく祈りは応えられたのでしょう。あるビジネスの集まりで、最後に登場した講師がFrank Bolellaという名の成功したコーチであり、牧師である人でした。私は彼のメッセージを聞き、とても良い印象を受けました。私が彼のメッセージを聞くということは神のご計画の中にあったのでしょう。二週間後に、他のビジネスのイベントで再度彼に出会うのです。私は彼の教会に行きたいと思いました。そして、同僚の一人がそこに連れていってくれました。そこで、彼のメッセージを聞いた後、私はイエス・キリストを私の主、救い主として受け入れたのです。
ついに私は霊的な土台を据えることができました。しかし、私たちは仕事もなく経済的な困難は続いていました。その時に、私はその教会に何人かいる牧師のうちの一人に霊的な賜物を持つことの祝福について説明してもらいました。彼はそのために祈るようにと勧めてくれました。そして、私はそのことを心に留めていました。この頃、それまで本当に苦しい時に共に歩んできたKayoと私は結婚することにしました。これからも一緒に歩んでいけば、大丈夫だとわかっていたのです。日本に引っ越すことも考えました。しかし、それほど大きな決断をする心の準備はできていなかったのです。

方向転換
私たちの状況を聞いて、義理の両親は私たちを日本に招いてくれました。そして、驚くことに、タイ行きの航空券も準備してくれたのです。その旅行は、私の頭がクリアになって、物事を整えるために助けになるように、というものでした。タイに着いた時、全てのストレスが体に出てしまたのでしょう、私は体調を崩し、計画していた各地を回ることは一切できずに、バンコクでじっとしていなければならなくなりました。妻は私に旅行者がよく行くような観光地巡りはやめて、ストレスなしに周りをゆっくり歩こう、と提案してくれました。
ワットポー寺院のそばに滞在していたので、私たちは、リラックスするために、そこでなされているタイ式マッサージを経験してみることにしました。マッサージで私は気分がよくなりました。そこを出る時に「7日間でタイ式マッサージをマスターしよう」という看板が目に入りました。私たちにはあまりお金がなかったのですが、妻がそこでタイ式マッサージを学んでみるようにと強く勧めてくれたのです。
そのカリキュラムの一環として、タイの大学の一つを訪問したのですが、そこで人体の解剖の展示がなされていたのです。私は圧倒されてしまいました。そして、しばらく感じていなかった感動を覚えたのです。一週間の学びでタイ式マッサージの免許をもらったのですが、旅行をする体力はまだなかったので、足のリフレクソロジーのコースも受けました。このコースが終わった時には、私はすっかり元気になり、3日間の観光をした後に、新しく得たインスピレーションを心にアメリカに帰ってきました。
私たちはトンネルを抜けました。しかし、次に何をするかを見極めるのはまた簡単なことではありませんでした。住んでいたところの近所に病院がありましたので、そこでボランティアをしながら、医療の現場がどのようなものかを学ぶことにしました。看護の道も考えましたが、それは私の望んでいたことではないことはすぐにわかりました。ボランティアをまとめるディレクターはフィジカルセラピー(物理療法)科に尋ねるようにと勧めてくれました。その頃、私はそれが何であるかを全く知りませんでした。そこで、私はセラピストが患者に対してしている治療を見、それが多くの患者にどれほど大きな効果をすぐにもたらしているかを見て、とても感動しました。

正しい方向への一歩
この時の私にはまだ仕事がなかったので、ボランティアとして、4時間働けば食べさせてもらえる無料の食事が給料のようなものでした。ですから、できるだけボランティアをすることにしました。そして、そこで出される食事だけが私たちにとって、食事と言える食事であるようなこともしばしばありました。タイミングがいいことに、受付の責任者の方がバケーションで留守にするので、私に電話に出たり、スケジュールを作ったりする仕事をしてほしいとディレクターが言ってきたのです。私は2週間一生懸命働きました。そして、自分で稼いだ収入が入った時にはとても嬉しかったです。ディレクターは私のことをパートタイムで雇ってくれました。そして、彼女の部署のスタッフで入れるようにポジションも作ってくれたのです。何ヶ月かが経って、人生は良い方向に向いていきました。
ディレクターは私が大学院に進むようにと勧めてくれました。最初はそれに抵抗していたのですが、神に祈って、願書を送りました。大学院からは合格通知が来ましたが、9ヶ月入学を延ばして、入学のために必要な基本的なヘルスサイエンスのコースの勉強をしました。
大学院への道は簡単ではありませんでした。大学院に入る6ヶ月前、いとこが大腸癌であることがわかり、義母が胃癌になりました。妻は日本に義母の世話に日本に行かなければならず、私はいとこをできるだけ訪問するようにしました。妻が不在の間、私は一人でこつこつ頑張っていましたが、今度は私の父が、大学院のクラスの始まる1ヶ月前に亡くなったのです。私は打ちのめされました、しかし、目標に向かって、神の力を求めて、この困難な時を通り抜けさせてください、と祈ったのです。そのあとの3年間の大学院での学びにも困難がありましたが、神は日々、私の祈りに応えてくださり、一日一日乗り越えさせてくださったのです。そして、ついに大学院を卒業しました。このあとのことはご想像がつくと思います。多くの犠牲とサポートによって、この転職は私の人生で最高の決断になりました。

学んだこと
この旅路を通して、多くのことを学びました。自分の力でしようとしていたことはすべて失敗しました。神に信頼して祈ったことに対しては、神は私を導き、私に知恵を与え、より良い決断ができるようにと助けてくださいました。もちろん、日々困難はあります。しかし、聖霊様と神の恵みによって、罪ある人間の本質に打ち勝つ人生を生きるように努めています。
人生はパーフェクトではありません。そして、私は妻が救われて、神の恵みを受けることができるようにと祈っています。私に今できることは、できる限り、神と共に生きる人生を生きることです。
それは完全な人生ではありません。神様はいつでも必要な答えを与えてくださるとは限りません。しかし、それによって私は忍耐することを学びます。日々、神が私のような者に与えてくださる豊かな愛と溢れる恵みを教えられています。私は、なんの恥ずかしい思いもなく、証しをしたり、クリスチャンとしての自分の人生について話をすることができてとても幸せです。ある会社ではそのようなことができなくなっていますが、私は自分の職場で、何のためらいもなく誰かのために祈ることができます。私たちは神に仕え、イエスの大宣教命令にお応えし、他の人々が救いを求めるのを助けるようにと招かれているのだと私は信じています。それこそが、そして、やがて天国に入れていただく時に「よくやった」と言っていただけることこそが、私たちすべての者にとっての究極的な目標なのだと信じています。

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“Trust God Always” Original English Version

Family History
In 1920, my father was a first generation born (Nisei) on the East Coast US and at a young age his family migrated over to southern New Jersey right outside of Atlantic City. When WWII broke out, my father was attending medical school following his own father’s footsteps, but he was forced to abandon his life as a student to help with the war effort. My father tried to enlist in the U.S. military, but was denied due to his widowed mother, and an older brother who had already joined the US Army under the 442nd (Japanese American US Army). He left college and came home to help the family farm down in Southern Jersey. After the Imperial Japanese army’s attack on Pearl Harbor, many internment camps were established to segregate Japanese Americans. It’s common to think that these internment camps were mostly along the West Coast, but there was also one in Seabrook, New Jersey. Despite being a Japanese-American, my father was spared from being sent to the internment camp when the war broke out because his church vouched for him for his Christianity.
After the war, my father never returned to medical school and remained living a life as a farmer to support his family, a life of never ending work 24/7. Despite the amount of work demanded as a farmer, my dad always made time for God and was wise in his ways to keep a Sabbath a Sabbath. After my siblings and I were born, my father remained committed to God and raised us successfully in a Christian home. As children of a farmer, my older brother, younger sister and I also helped with managing the farm and even viewed church and Sunday school as a “mini-vacation” to briefly get away from our daily chores. I remember attending church at a very young age and remember my mom playing a tape recording of a church Christmas show of us singing “Away in A Manger” totally off key! We continued with Summer VBS (Vacation Bible School) and youth group outings until we were well into high school, but things were to change after high school.

College Years
Life has its own challenges, but college life introduces in it own unique set of obstacles and for most the first big step on trying to live on your own. My problems occurred once I started to attend college, trying to balance a life as a student and also experiencing the challenges of becoming a young man. It was not unmanageable, but I was never really spiritual throughout the 5 years I studied engineering at Drexel University. I never attended church, and the only time I participated with something spiritual was a nondenominational get-together. Needless to say, I was not taking life seriously, only focusing on obtaining a degree to graduate and getting a job. After graduating, I had the opportunity to move to Japan for about a year for an internship, but returned to the U.S. to work with another company. Everything was about work, and I became distanced from God more and more; eventually I completely lost my spiritual faithfulness. I wasn’t in trouble, but I knew I was heading down the wrong path.

Is this all there is to life?
While improving my skills professionally, years would go by living a life of routine: getting up, working out, going to work, and coming home…repeat. I felt something was missing so I started to learn about self-improvement and started to invest in myself outside of work. While still working as an IT engineer, one thing led to another and ultimately I started learning about building a business in financial services. The professional relationships I made pursing this endeavor allowed me to meet some very successful business leaders. I stumbled upon common denominator with all these successful leaders; all were faithful to God, and all had God-based values.
I made one of the biggest decisions in my life and decided to go back to church. At this time, I was living in Hoboken and started to regularly attend church up in the Upper East Side in NYC. Despite the hour commute with all the transfers and walking, I enjoyed once again attending church and life started to have some meaning. I was making really good friends and life was good. However, after the World Trade Center Terrorist Attack in 2001, life changed for everyone and attending church in NYC was not as easy as it used to be. Kayo, my wife-to-be and I decided to move out of Hoboken and ultimately I stopped going to church.
A month after 911, my job as an IT engineer was eliminated and overnight I was unemployed with only a small severance package. My life of routine was forever changed. During this time, the IT world was in turmoil; returning to IT was very risky, so I decided to go “all-in” and try and build a full time income stream with financial services. This was not easy at all and training a team was rather difficult. After many months, my savings began to dwindle and the stress of trying to build a business caused a lot of strain. My debt began to rise as I tried to convince myself that I was only a few months away from becoming successful.
Despite the ever-growing financial stress, my wife-to-be and I started cutting out non-essentials. We lived a very simple life, while still trying to build a business. I remember one night that stress got so bad that I actually got down on my knees and began to cry and prayed for God ‘s help! Perhaps my prayers were answered. I was attending a business event in the city and in the audience was a special guest, the closing speaker, Frank Bolella, who was a success coach and pastor. I listened to his message and was very impressed. Listening to his message must have been God’s plan all along, because within two weeks, I met him once again at another business event. I became very interested in going to his church and one of my co-workers invited me to go there. After his sermon, I accepted Jesus Christ as my Lord and Savior.
While I was finally getting spiritual grounding, we were still having financial challenges as I was still without a job. During this time, I spoke to one of the other pastors at this church who explained to me the blessings of spiritual gifts. He told me to pray about it and I kept that in the back of mind. By this time, Kayo and I decided to get married as we had already stuck by each other through some very bad times. I knew that we would make it if we stuck together. Conversations of moving to Japan crossed our minds, but we were not ready yet to make that drastic decision.

Changing of the Guard
Hearing of our situation, my mother and father-in-law invited us to visit Japan, and then surprised us with a ticket to Thailand. The vacation was supposed to clear my mind and help to organize things out. When we arrived in Thailand, all the stress must have gotten to me as I fell very ill and unable to backpack as planned; instead we were stuck in Bangkok. My wife suggested that rather than sightseeing tourist hot spots, it would be better to go around locally with nothing stressful.
We happened to be near Wat-Po, and in one of their temples we decided to try Thai massage to help me relax. The massage made me feel better. As we were leaving, I saw a sign that read “how to learn Thai massage in just seven days”. We didn’t have a lot of money, but my wife insisted for me to stay and at least learn Thai massage.
As part of the curriculum there was a field trip to one of the universities in Thailand, where an exhibition of the human anatomy was on display. My mind was blown away, and I felt inspired, an emotion that I’ve lacked for so long. I completed my training in a week and was now certified in Thai massage, but I was still too ill to travel so instead I took another course in foot reflexology. After taking the course, I finally was strong enough to travel and we completed a short 3-day exertion and then headed home to the States with newfound inspiration.
We were both exited, but I was challenged trying to figure out what to do next. There was a local hospital not too far away from where we lived, so I tried to volunteer there to learn more about working in the healthcare field. I tried looking into nursing, but I quickly realized that nursing was not the kind of work I wanted to do. The volunteer director offered a special suggestion that ultimately would change my entire life. She recommended for me to go check out the physical therapy department; I had no idea what it was back then. I was impressed by the treatment the therapists provided for the patients and the immediate positive impact expressed by many satisfied clients.

A Step in the Right Direction
I was without a job during this time, so as a volunteer I was allowed to “earn” a free meal for every four hours of time. I decided to volunteer as much as I could and sometimes it was the only “real” food we had for the week. Timing couldn’t have been more perfect, when miraculously the primary receptionist was going away for vacation, and the director asked me to fill the role to cover phones and scheduling. I worked hard for the next 2 weeks and was so proud to actually have “earned” income. The director decided to hire me part-time and created a special position for me just to stay on staff with her department. Months would go by and life was starting to turn around.
Ultimately, the director convinced me to go back to graduate school. I was at first resistant to her suggestion, but I prayed about it and submitted my application anyway. After getting accepted to graduate school, I had to first complete pre-requisites that delayed my start for about 9 months; having to go back to school to fulfill basic health sciences courses.
The road to graduate school was not easy. About 6 months before graduate school, my cousin discovered he had colon cancer and my mother in law fell ill with stomach cancer. My wife had to return to Japan to take care of her and I checked in on my cousin as best as I could. I kept plugging away alone while she was away, but then my own father passed away one month before the start of classes. I was a wreck, but I had to stay focused and prayed for God’s strength to get through some tough times. The next 3 years of graduate school had it’s own challenges, but every day God answered my prayers to get through another day! Ultimately, I graduated and as they say the rest is history. All the sacrifices and support made this career change the best decision of my life.

Lessons Learned
This journey is full of many lessons learned. Whenever I tried to accomplish things on my own, it always failed. Whenever I trusted God and prayed, he guided me and provided the wisdom that helped me to make better decisions. Of course, conflicts still routinely occur daily, but through the Holy Spirit and the Grace of God, I am working towards trying to live a life rejecting the sinful nature of man.
Life is not perfect, and I am continuously praying for my wife’s salvation to be saved and receive the grace of God. The only thing I can do right now is live a life with God the best as I can.
It’s not a perfect life. He doesn’t provide me the answers I need every time, but I am learning to be patient. I am learning every day of his abundant love and his full grace for a man like me. I’m lucky that I was able to give my testimony, to be able to speak of my life as a Christian without any shame. I am not bothered to pray for someone where I work, as some companies today shy against that. I believe we are called to serve God and complete the great commission and help others seek their salvation. I believe that’s the ultimate goal for each and every one of us, and to enter heaven hearing the words , “Well done”.

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「クリスチャンになるということ」

「クリスチャンになるということ」

2018 年が暮れようとするこの時、静まって多くの恵みを数え、神様がどれ程素晴らしい方であるかをもう一度覚えて、主のみ名を崇めます。 振り返ってみると、なんと多忙な一年を過ごしてきたか、その 中にあった主の御手による支えと励まし、慰め、またどれ程の祈りに支えられてきたかを思う時に、感謝の思いで一杯です。今年はただ神様の前にひれ伏して、その力にすがることを通して、クリスチャンとなることを一から学び直した年でありました。

『とこしえにいます神はあなたのすみかであり、下には永遠の腕がある。』 (申命記33:27)

教会においては、今年初めて代表役員をさせていただきました。昨年末に神様から召命とビジョンをいただき、どうすべきかと数日間悩み抜いた末、ある人に相談しようとを決心しました。その日の夕方、 私が電話をする前にその方からメッセージが残っており、かけ直してみると、”あなたが思い悩んでい ることを示されたので、励まそうと思った。勇気をもって皆に話をしなさい。”と言われました。

その後神様から、『私は全能の神である。あなたは私に従って歩み、全きものとなりなさい。』 (創世 記 17:1)という聖書の言葉が与えられて、神様を信頼する姿勢において全き者でありなさい、と語られ ました。 昨年 12 月の役員会では神様に示されたことを全て語りました。そして、役員会のメンバーた ちは信仰を以てそれを受け入れてくれました。各世代から選ばれ、信仰面でも尊敬できる有能なメン バーに恵まれました。

しかし、自分の力量を越えるご奉仕を担っていく上では、上からの知恵、また、不足する愛と忍耐を増 し加えていただく必要があります。近くには、いつも”祈ってます。”と愛をもって声を掛けて下さる祈り 手たちが備えられていました。神様からの助け手でした。『あなたがたの父は、願う前から、あなたが たに必要なものをご存じなのだ。』 (マタイ6:8)

主イエスのサーバント・リーダーシップに倣って、神様と教会、そして地域に仕えていくことを目標とし ました。教会運営に関しての多くのビジョンが与えられ、一つひとつを祈りながら進めてきました。

教会では、一年の後半に選挙や次年度予算など、多くの重要議題を取り扱います。それを前に、教会 内外を取り巻く様々な状況を分析しようとしていた私に対して、神様は、『神と、恵みの、み言葉に委ね る』(使徒 20:31)、『(主イエスから)白い衣を買う』(ヨハネ黙示録 3:18)、そして、『己れ自身と群れ全体 に気を配る』(使徒 20:28) との聖書の言葉を与えて下さいました。そして状況分析ではなく、み言葉を 土台に、祈りと聖霊様の導きで教会運営を進めていくことを示して下さいました。悔い改めて、方向転 換をしました。 『私のことばを聞いて行なう者は、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。』 (マタイ7:24)

様々な議論や結論が自分の思いとは異って進むことも多くありました。しかし、いつも最善をされる神 様を信頼し、決まったことには委ねて従うことも学ばされて来ました。 『人の心には多くの計画がある。 しかしただ主のみ旨だけが堅く立つ。』 (箴言19:21)

来年のご奉仕に関しては、昨年のような強い召命感は与えられず、ただ状況的には継続することが 良いように思われるだけで迷いがありました。しかし、ギデオンは召命が与えられているにも関わらず、 何回も神様から印を求めた(士師記 6:36-40)ように、私自身も神様にある事を通して印を求め、コンフ ァメーションをいただく形になりました。 『主は今からとこしえに至るまで、あなたの入ると出るとを守 られるであろう。』 (詩篇 121:8)

来年は神様の前に静まることと、教会の力のベクトルは内側ではなく、もっと外側に向けて使うべきで あることを示されています。

職場においても変化があり、今年は、駐在員の人事異動により、量的にも質的にも自分がハンドルで きるとは思えない企画業務を担当することになりました。従来から違う仕事をしたいとの願いがありま したが、いざそれが実現すると、喜びが戸惑いと恐れに変わるのに時間はかかりませんでした。

プロジェクトマネージャーとして、イベントや新規プログラムの企画・調整をいくつか担当しました。社内 外には多くの関係者がおり、一体どういうタイミングで、誰と何を進めていったらよいのだろう?誰かに 背中を押されるように、プロジェクトがスタートしました。しかし、最初の打合せでは見事にリードを失敗 し、“上司は、私には出来ないと思っているだろうな。”と失望感が溢れました。もう辞めたい、でももう 少しはやるべきでは・・・?その狭間を回り決心がつかない中、翌日も、翌週も次々とミーティングを進 めていかねばなりません。“イエス様、この仕事を与えて下さり、有難うございます。でも、私にはこれ をやり切る力はありません。どうぞ助けて下さい” と毎日神様の憐れみにすがっていました。一緒に スモールグループで聖書を読み祈り合っている教会の女性たちにも伝えて、祈っていただきました。

特に、社長などエグゼクティブとの打合せが入っている時の緊張感は大きく、入念に準備をしても前日 から心がそわそわしました。直前には小部屋かトイレに行って、祈りました。『イエス様、分かりやすく プレゼンすることが出来ますように。言うことがアホに聞こえないように助けて下さい。』 と、主イエス の御名で祈りました。彼らとの打合せが終わった後はどっと疲れましたが、忘れる前に、『イエス様、 有難うございます。終わりました!』と感謝の祈りを捧げました。ただただ神様の憐れみにすがるのみ で、一年生のようにクリスチャンになることを日々学びました。 『主は、ご自分を恐れる者を憐れまれる。主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。』 (詩篇103:13-14)

大成功ではありませんでしたが、数か月かけて何とか最初のイベントを終えることが出来ました。そう すると、もうこのような仕事はやりたくない、やらないぞ、という気持ちになりました。そして上司にもそ のように言い放ちました。その時の彼の悲しげな顔が忘れられません。しかし、その日の夕方には、 聖霊様から “感謝の気持ちがない”との責めを受けました。私は何と罪深いのだろう、と一晩眠れず、 翌朝早く出勤して、朝一番で傲慢非礼であったことを上司に謝罪しました。彼は、”そう言ってくれてあ りがとう。”と寛大にも許してくれました。 『真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き 入れます。』 (ヨハネ16:13) そして、今も続けて同じ業務を担当しています。

今、クリスマスで語られたメッセージに思いを巡らせています。ベツレヘム近くで羊たちと野宿していた 羊飼いたちに天使の軍団が現れ、救い主イエスの誕生を知らせました。飼い葉おけに寝かされている ことが印です。羊飼いたちは直ぐに出発して赤子を探し出し、礼拝を捧げ人々にも伝えました。(ルカ2:8-17) “信仰とは神様からの語りかけへの応答です。神様のメッセージを聞いて自分のものにする には、心にゆとりが必要です。” と語られましたが、私は真逆で、自分の限界を探るような歩みをして きました。息もつけない忙しさの中、ゆっくりと神様の声を聴き応答することなど出来ない一年であった ことを主イエスの前に悔い改めています。

しかし、主イエスの恵みは十分であり、その御手による支えがいつもありました。私が知らないところ で、イエス様がくびきを押してくださるので、イエス様にお任せして、ただついていけば良いのです。“His york is easy and his burthen is light.” (私(イエス)のくびきは負いやすく、私の荷は軽いか らである。マタイ 11:30) 先週、マンハッタンの教会で、この賛美を心から歌いました。

全てのご栄光が主イエスの上にありますように。

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「あなたの若い日に・・・」

今年の4月に主人と共に日本語教会に転入してから半年余り、錦織先生をはじめとして、主にある兄弟姉妹との嬉しい出会いをたくさん経験させていただきました。決して模範的なクリスチャンではありませんが、私がどのようにしてイエス様を救い主として受け入れたのかを証しさせていただきます。
私の両親は台湾人です。私には2歳年上の姉と2歳年下の弟がいます。私は次女として3人兄弟の真ん中に生まれました。私が5歳の時、家族で台湾から日本に引越しました。当時、父の兄が神奈川県の平塚市で中華料理店を経営していました。父はその縁で日本に招かれ、料理人として働くようになりました。20代だった母は、日本語が不自由ながら仕事をして、3人の幼い子供を育てました。父は仕事がら夜遅くまで帰宅せず、私たち3人が同じ公立小学校に通いはじめた頃も、顔を合わせない日も少なくありませんでした。家でも学校でも使うのは日本語だけで、中国語も台湾語も忘れました。学校では友達やクラスメートといっしょに楽しく勉強したり、遊んだり平凡な子供時代を過ごしました。ところが、私が中学1年を終えた時、家族全員で渡米することになりました。ブルックリンに在住する知人の薦めに父が独断で決めたことでした。ただ私にとっては迷惑な話しで、日本の友達とも別れ、英語もわからぬまま、現地の公立中学校に編入させられてしまいました。英語も話せず、友達もできず、大学に進学するまでの6年間は、ただ学校と家を往復するだけのつまらない毎日でした。
なぜか小さい頃から、母の愛情は学校の成績がよかった姉と弟にだけ注がれていたようです。台湾では男の子の方が女の子よりも望まれていたからでしょうか、2番目の女の子として生まれた自分は、母にとっては期待はずれのやっかい者だったのかもしれません。日本にいた時から父は仕事で忙しく、日本の生活に戸惑う母は、3人兄弟の中で一番成績が低かった私に、その鬱憤と不安に荒れた心をぶつけました。優秀な姉や弟と学校の成績を比べられ、ささいなことで叱られる毎日。私はヒステリックな母の怒りから逃れることばかり考えていました。小学校時代の自分のバイブルは少女マンガでした。「ベルサイユのばら」のオスカルに憧れ、「生徒諸君」のナッキーを目標に、正義感と友情に厚い人間を目指していました。そんな少女時代に「自分は何のために生まれてきたのか。」といつも考えていました。
ようやく高校を卒業し、私は母から離れて自立するために、看護師を目指してマンハッタンにある市立大学に進学しました。後に看護師の勤務が不規則で、おまけに夜勤まであることを知り、2年生の時に専攻を薬学に変えました。自分には看護師よりも薬剤師の方が合っていると考えたからです。姉と弟は私立の有名大学に進学しました。私は親の経済的な援助を一切受けまいと心に決め、学費の割安な市立大学に進学し、アルバイトで学費を稼ぎながら、自力で大学を卒業して薬剤師の免許を取りました。私が大学3年の時に両親はルイジアナに引越して、レストランをオープンしました。私は母と顔を合わせずにすむようになりほっとしました。そんな時、アルバイト先で今の主人と知り合いました。彼は日本から語学留学でニューヨークに来たばかりでした。大学を卒業して5年後に彼と結婚し、ニュージャージに引越しました。主人は米系の金融システム会社に就職し、私も病院の勤務に多忙な日々でした。
その頃、勤めていた病院で知り合ったフィリピン人の医者夫婦に誘われて、はじめて超教派の福音集会に参加する機会がありました。ホテルのボールルームに設置さえた会場は2000人ほどの人で埋まり、コンテンポラリーな賛美歌と聖書メッセージが続き、まるでコンサートのような雰囲気でした。メッセージの内容は、今まで思っていたキリスト教の教えよりも、ポジティブで現実的でした。そこで母との長年の確執によって、生きることの意味をずっと考えてた私の心が、伝道者の書の12章1節の言葉を捕らえました。「あなたの若い日にあなたの造り主を覚えよ。」自分は母ではなく、神に造られ、神に生命を与えられ、神に生かされていることを知りました。母の批判的な言葉に心傷ついていた私には、それは大きな救いであり慰めでした。同時に、母を赦せない心、姉と弟を妬む心も教えられました。それは神の愛と聖さからほど遠い自分であり、贖いきれない自分の罪でした。その罪のためにイエス様が十字架で死なれたことを知った時、私はこの方を救い主として受け入れました。その後、主人といっしょに教会に集いはじめ、1993年10月に洗礼を受けました。イエス様を受け入れたとは言え、心は寛大さに欠け、人を赦すことさえ難しいのです。それでも神さまはそんな自分をありのままに受け入れ、見放すことなく、見捨てることなく、ずっと導き続けてくださいました。これからも家族といっしょに愛なる神と恵み深い救い主なるイエス様に従っていきたいと思います。

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「この世に、命を授けて頂いてから半世紀・・・」

この世に、命を授けて頂いてから半世紀以上、そしてその半分以上をクリスチャンとして生活している私ですが、洗礼を授けて頂いたボーンアゲインの頃の、純心な主への思いは、様々な困難により、強まる様でもあり、ゆるんで行く事も、多かれ少なかれ・・・のようです。
人生は、バラ色だの、楽しむものだのと、若い頃は夢多き日々を送っておりましたが、辛い日々の方が多いのでは?でも、その中で鍛えられているのです。

両親がクリスチャンだった母ですが、クリスチャンではない父と結婚をして、その父が肝癌で亡くなる2年前に、二人はアメリカに来て、NJ日本語キリスト教会の初代牧師から洗礼を授かりました。その後、母は晩年をアメリカで私と一緒に過ごして天国へ召されました。

私には、歳の離れた3人の兄がおり、兄弟みんな東京の玉川学園で、小学部からキリスト教の礼拝を受け、賛美歌を賛美し聖書を学びながら、青春時代を過ごしておりました。
ところが私はどうした事か、高等部卒業後、友達の反対をもおしきり、大阪のPL女子短大へ進みました。寮生活で、リーダー的な立場で、異教の教えにどっぷり浸かり、なんとも、変った宗教人生の、スタートを歩んで来ました。日本人の多くの方は、色々な様々な宗教や、教育を受けられて、こんなに柔軟な考え方、教育経験を持っておられる人種は、少ないのではと思います。

そんな中で、私がクリスチャンになれたのは、アメリカに元夫と来て、息子も生まれ、贅沢な人生を送っていた時でした。そんな生活だったのですが、親離れが出来ていない、お互いの生活に危機が起こり、近所に住んでいたNJ日本語キリスト教会の方に救われました。

そこで、家族3人で、洗礼を授かり、めでたしメデタシ・・・とは終わらず・・・。

元夫も、新品クリスチャンになった頃は、日本語教会の初代牧師のカバン持ちをするなど、熱心な教会活動をしていました。でも、何が起こるか、人知では計りしれません。その後、マンハッタンの日米合同教会に移籍する事になりました。
その時も、熱心に家庭集会を開いて、近所のクリスチャンでない方も招いたり、有名な、アーサー・ホーランド先生や、森祐理さんも、家に宿泊して頂いたりした事もあるほどの、信仰に恵まれていたファミリーだったのですが、その後、離婚、息子との別離が続きました。洗礼を授かりクリスチャンになって、イエス様を主として、愛の家族として生まれ変ったはずなのに・・・今の私には、全てを善き事にして下さる神様の御業は、まだまだ先が見えません。

私の証しでつまずく方も、おられるかもしれませんが、いまだに、クリスチャンではない方とキリスト教の話をすると、「だからクリスチャンって・・・」と言われると、抵抗出来ずに、なんと頼りない不信仰な私です。

でも、試練と共に祝福もあります。カルフォルニアに住んでいる兄家族が全員、義姉とお母様、娘と新婚でコリアンの夫5人全員もが、同時にクリスチャンに、なれたのです。また日本に居る一番上の兄も、強力な母の願いで、日本で洗礼を授かりました。残るは、真ん中の兄だけですが、来年の母のメモリアルに、カルフォルニアで集合する時をチャンスにと、祈り願っております。

今年は、カルフォルニアで、NJ日本語教会の牧師が講師で、「生きる」という事をテーマにリトリートがもたれました。素晴らしいリトリートでした。日本から一番上の兄も来て本当に恵まれた集会でした。
そこで、今までアメリカ人教会と日本語教会とフタマタで、ご奉仕を両教会から避けていて、ただ、礼拝と賛美の栄光だけを、毎週頂くという、なんとも、ズウズウシイ教会生活をさせて頂いていた事を、悔い改めさせて頂きました。気が変らないうちに、すぐに、転入届けを出させて頂き、又、元の古巣へ、戻って来る事が出来ました。

このきっかけになった事の一つをご紹介します。

私の住んでいる部屋はコンドの8階にありますが、元々、母が日本から持ち込んだ家具や、荷物が満杯で身動き出来ない状態でした。ところがクーラーを直しに来た人が栓を閉め忘れるという考えられない事件が起き、ほとんどの物が水びたしになり、ダメージを受け、カーペットも全て取り外しとなりました。費用は相手の保険が殆んどカバーして下さいました。それは、母が亡くなってから、半年たってからの事でした。
多くのものを処分してガラガラになった部屋に、スペースが出来たところに、日本語教会の聖歌隊リーダーが、ルームメイトとなってくださいました。その方と行動を共にする事が増え、礼拝だけではなく、家庭集会や他の集会にも、顔を出すようになりなりました。この事も、主のご計画の一つでしたのでしょう。

色々様々な出来事を通して、主は導き又、たまには、試されるのです!

私には、「キリスト教の教えを伝える」というよりも、「イエス様の愛を感じて頂く様に伝える」方が、平安で居られます。イエス様が、「わたしのくびきを負ってわたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に、休みが与えられるであろう。わたしの、くびきは負いやすく、荷は軽いからである。」(マタイ11-29~30)私のために準備されたカスタムメイドのくびきは、なんと有難い事でしょう。無理する事は無い。全て疲れている人は、イエス様の所に来なさい、とも言って下さっている安心感はなんとも言えない喜びです。

再び洗礼を授けて頂いた教会に戻り、聖歌隊にも入れて頂き、新しく又生まれ変わった私のこれからの歩みは、まだまだベビーの様に危なっかしいですが、皆様の御協力を得て、一歩ずつ進歩している様ですので、宜しくお願い致します。

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「地のちりにひとしかり」

今年の3月に妻と共に日本語教会に転入しました。錦織先生をはじめ、教会員の皆様に愛をもって受け入れていただき、感謝でいっぱいです。今日は私自身がどのようにして主イエス・キリストを信じ、救われ、クリスチャンとしての歩みをはじめたのかを証しさせていただきまます。

1970年、私は大阪のカトリック系ミッションスクールに進学しました。それは中高一貫の男子校で、大阪城の南、大阪冬の陣で真田幸村が徳川家康の東軍に対峙して布陣した真田山にありました。校舎の屋上には大きな聖母マリア像が建ち、そのやさしい目が校庭を見下ろしています。当時の公立の中学生の男子は丸坊主が一般的でしたが、私たちには短髪がゆるされ、大阪では「ボンボン学校」として有名でした。月に一度、全校生がステンドグラスの講堂に集められ、ミサに参加させられます。ステージに祭壇が設けられ、豪華なガウンに身を包んだ祭司が、一列に並んだ会衆の口に丸くて小さい煎餅を入れいきます。また銀のカップを高々に持ち上げるや、それを一気に飲み干します。キャンドルと香の香りに満ちたその儀式は厳粛な雰囲気に満ちていました。ただ、学校生活といえば、カトリックの教育方針のもと、厳格な校則と膨大な量の宿題に追われる多忙な毎日でした。成績は中の下、スポーツも取り立てて得意でなく、目立たない平凡な生徒でした。人前では従順で真面目な生徒を装いつつ、その心の中は、何の取り柄もない平凡すぎる自分への不満でいっぱいでした。

クラスメートは裕福な家庭に育つ「ええとこの子」ばかりでした。親が心斎橋を中心に関西割烹を数店も経営していたり、白浜の豪華なリゾートホテルを所有していたり、都銀のエリートバンカーであったり。それにひきかえ、私の父は輸出用のサングラスを生産する小さい町工場で経理として働いていました。母は自宅を洋裁店に改装して、四国や山陰地方から住み込みで上阪する若い娘たちに洋裁を教えながら、地元のおばちゃんを顧客にして洋服のリメイクやリペアで収入を得ていました。ところが、中学2年の夏ごろから、父の勤めていた会社が傾きはじめました。アメリカが電撃的に新しい金融政策を発表したのです。それはドルと金の交換を停止し、10%の輸入課徴金を導入するというものでした。これで固定相場制が終焉し、1ドル360円の時代が終わり、ドルは暴落しました。ニクソンショックです。この円高によって、日本の輸出業者の収益が激減し、ほどなく父の勤めていた会社も倒産しました。私の学費に加え、四天王寺にある私立の仏教系スクールへ進学した妹の学費も加わり、もはや父の収入をあてにできなくなった母は、洋裁店で稼いだ資本を元手にアパート経営をはじめました。食べるに困ることはありませんでしたが、家計に余裕はありませんでした。そんな経済状況の中、親の苦労も努力も知らない世間知らずの私は、裕福な家庭環境にあるクラスメートが妬ましく、失職した父や懸命に働く母を見下しはじめていました。

中学時代は吹奏楽部でフレンチ・ホルンを吹いていました。全国大会に出場することを目指し、土日を返上して練習する毎日でした。中学2年の時に大阪大会で優勝し、有力候補と期待されながら、近畿大会では3位に終わりました。私が大事なパートで失敗したのが原因でした。先輩部員たちからは冷遇され、コンクールでの失敗に責任を感じて退部せざるを得ませんでした。その後、目標もなく、ぶらぶら暇をもてあましている時、福音集会の看板を目にしました。大阪南部の泉州にある和泉キリスト集会(プレマス・ブレザレン)が、大阪市内ではじめて開く特別伝道集会でした。それはカトリックのミサとは対照的で、小さい公民館の会議室で行われた50人ほどの集会でした。ただ、そこではじめて聞く聖書のメッセージは衝撃的でした。はじめて聖書を手にしました。読まれた聖句は創世記の1章1節でした。「はじめに神が天と地を創造された。」そこで宇宙を創造された方の存在を聞きました。自分はこの方に生かされていること。自分の人生には目的と意味があることを知りました。

もはや自分の取り柄のなさとか、クラスメートの裕福さとか、すべてがどうでもよくなりました。天地創造の神がいるという事実に心踊りました。その日から2年間、毎日聖書を読み、福音集会に通い続けました。ところが、クリスチャンとの交わりと聖書の知識が増えるに従って、神の存在に対する喜びと感動が徐々に薄れて来ました。聖い神と汚れた自分の心に大きな隔たりを感じ始めたからです。虫歯程度に考えていた自分の罪が、神の前には癌以上の深刻な問題であると教えられていきました。自分のわがままさ、自己中心、ねたみ、両親を見下す傲慢な心など、自分は神の怒り以外に何も値しない人間であることに気づきました。そこで一大決心をして、神の怒りを静めるために善行にも励みました。過去に犯した罪のリストを作成し、善行によってその罪をひとつずつ償おうとしたのです。ところが、努力すればするほど、新たな罪に気づかされ、自分の罪が累積債務のように増えていきました。

そんな重い心に沈んでいた高校時代、岐阜県高山市での二泊三日のバイブルキャンプに参加しました。それは若いクリスチャンたちが乗鞍岳の自然の中に集い、賛美あり、ゲームあり、証しありの楽しいキャンプでした。でも、私はひとり罪の重荷に押し潰されて、どんなプログラムも楽しむことができません。自分は神に嫌われている。自分はいつか神に裁かれ、神の手によって滅ぼされてしまう。もはや救いをあきらめ、疲れ果てた私は、人目を避けて、誰もいない場所を見つけて一人跪いて祈りました。「神さま、もういいです。今すぐ私を裁いてください。自分は罪だらけです。頭の上からつま先まで。もうどうにもなりません。」それは救いではなく、裁きを求める祈りでした。しかし、その祈りに対する応答はなく、しばらく静寂の時が続きました。すると自分のあわれな姿が、癒しをもとめてイエス様の足元に跪く全身をツァラトに冒された病人と重なりました。その瞬間、耳を疑うようなイエス様の言葉が心に届きました。―イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「私の心だ。清くなりなさい。」

涙がとめどなく溢れ出ました。父なる神とイエス様の思いは、私の罪に対する激しい怒りではなく、私の無力さに対する深いあわれみでした。溢れる涙を手で拭いながら、私は祈りつづけました。「こんな罪人をどのようにして清められるのですか。」次の瞬間、すべてが理解できました。「父よ。彼らをお赦しください。」これは自分を十字架に釘付けた者たちのために、イエス様が十字架で捧げられた祈りです。あの十字架の祈りこそ、私の罪を赦すためのとりなしでした。流された血潮は、私の魂を贖うための代価でした。そして、暗闇の苦しみは、私が受けるべき永遠の裁きの身代わりでした。私の悔い改めを待たず、神は赦しを用意し、惜しまずご自分の御子を犠牲にされました。赦しは神のあわれみであり、救いは神の一方的な恵みでした。心にのしかかる罪の重荷がすべて取り除かれ、平安と喜びで心がはじけそうでした。あの日から40年余りの年月が流れました。今、日本語教会に導かれ、あの日と同じ喜びと感動で主の愛を賛美できる恵みを感謝しています。

「地のちりにひとしかり、なにひとつとりえなし、今あるはただ主の愛にいくるわれぞ。御救いを受けし、罪人にすぎず、されどわれ人に伝えん、恵み深きイエスを。」

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「何故またこのような時なのだろうか?」

何故またこのような時なのだろう か?

仕事や出張続きで忙しく、時間が 無い訳では無いのですが、物事が思ったように進まず「神様何故?」と思っている時に限ってこ のような原稿の依頼を受けました。 このまま忙しいのを理由に断ろうか、とも思いましたが、信仰が揺らいでいる(?)からこそ、神様が 「もう一度信じようと思った時の事 を思い出してごらん」とまだ地盤が緩い私に手を差し伸べてくれたのかも知れません。

私は生まれたのはスペイン・バルセロナ、育ったのはアルゼンチン・ブエノスアイレスと18 歳までずっとカトリックの国に住んでいたので、キリスト教は非常に身近なものでした。憧れのサッカー選手もピッチに入る時には十字を切っていました し、タクシーの運転手も教会の前を通る度に十字を切るのを 目にしていました。当時は「なんか格好良いなぁ」と思いながらも、自分以外の事に目を向ける事ができず結局キリストを 信じるには至りませんでしたが、健全な学生生活を日本で過ごし、社会人になりアメリカに赴任した頃に、妻と出会い、その時に再びキリスト教に出会いました。
ただ今回は憧れではありませんでした。
結婚当初、妻と意見が合わなかったりで色々と喧嘩が絶えな かった時期があったのですが、その際に妻が教会に連れて行ってくれと私に言ったのです。運転に自信が無かった彼女が喧嘩している相手である私にそこまでお願いするという事は相当に切羽詰まっているに違いない、と嫌々ながらもメイ ウッドの教会に来た事を覚えています。当時は、「中に入って しまったら二度と出して貰えなくなるのではないか?」「中に 入ったら全員が妻の味方で私は敵としてやっつけられてしま うのではないか?」と恐れ、一人駐車場で本を読みながら礼拝が終わるのを待っていた事を思い出します。

雪解けのきっかけは教会メンバー主催のバーベキューでした。 まさに花より団子なのですが、美味しいお肉につられて参加 してみると、とても面白い方々と知り合う事ができました。お 酒が進むにつれ色々な話になり、有名大学の卒業生や某宇 宙研究所の元研究員といった聡明な方々と「いかに神様は 存在せず、聖書は律法のために作られただけの書物である か」を熱く議論したりしました。酒宴は遅くまで続く事もありま したが、議論は尽きず、更には次回の議論のネタのために、 あえて聖書を開いてみたりするしまつでした。「神はわれらの 避け処 また力である。詩篇 46:1」の「さけどころ」って「酒処」 としか見えていなかった時代です。今となっては酒のツマミの 為に聖書を読んでいた、と非常に申し訳ないのですが。。。 そのような私でしたが、次第に変化が起こってきました。
クリスチャンの方々と深く関わるにつれ、非常に辛い(?)大 変(?)な思いをするようになりました。それは聖書に書かれている「生き方」を知れば知るほど、いかに自分が理想から 遠い、「なっていない人間」という事を突きつけられる事です。 もし聖書やキリスト教と出会っていなければ、神様はおろか、 隣人を愛そうともしないだろうし、まして自分を嫌う人の為に祈ろうなんて考えつきもしないと思います。しかし、それを知 ってしまったがために、自分がどれほど「嫌な奴」なのかが事 あるごとに突きつけられるようになってしまったのです。一方 で、私の身近にいるクリスチャンの方々と接していると、羨み、 憧れのような感情が出てきたのです。どのようにしたら、あの ように強く、優しく、愛に溢れて生きていけるのだろうか?答えはわかっていたのかと思いますが、それでも目を逸らし続けていました。心のどこかで、クリスチャンになったほうが大変、ならない方が良いのではないかと思っていました。
しかし、やはり私は弱い人間ですし、突っ張りながらも神様に頼り、祈らずにはいられない時が多くありました。切羽詰まっ ている時には、「この祈りが通じれば信じます」と禁断の取引 までしていました。しかも、何度もです。もちろん全ての祈り は通りませんでしたが(特に飛行機のアップグレード)、それでも多くの祈りは神様に届き、祝福を得る事ができたように思います。ただ、私はズルく、それでも色々と「言い訳」をして 約束を反故にしていました。

「門を叩けば開かれる」と聖書に書かれていますが、毎回神様へのピンポンダッシュをしていた訳です。
それでも神様は機会あるごとに、私に「勇気を出す」、つまり「信仰告白」のきっかけを与えて下さいました。
中でも最も大きなのは、妻ですが(そう書けと言われた訳で はありません)、2 番目は NJ に戻って来た事です。「それで もやっぱり神様を信じない言い訳シリーズ」の中に、まさかまた NJに仕事で戻る事は無いだろうと思って、「僕は洗礼を受 けるなら錦織先生からしか受けない」と公言していました。誤解なきよう改めて書きますが、もちろん、先生から授かりたか ったのですが、ただ、状況的には不可能なのだから洗礼は 受けれない、という言い訳でした。でも実際神様はそんな難しいと思った状況も簡単に覆されました。そして、自分が最も慣れ親しんだ教会に戻ってきて、素直に皆さんと色々な会話 をする事ができて、疑問をぶつけられたり、色々と後押しをし て頂いたり。修養会に参加するキッカケを作って頂いた妻や友人も、参加がキッカケで色々と会話・考えた事も、帰ってか ら夢で神様から直々に「さぁ、そろそろなるか!」と言われた事も。今考えれば、全て「勇気を出しなさい」「そろそろ突っ張るのはやめなさい」という優しい後押しだったのです。
今まで散々突っ張って来ましたが、それでも見放さず、愛を持って色々と与えて下さった事にしっかりと目を向けて感謝し、 自分一人の力では何一つできていなかったと、降参!と思わされました。
こうして私は「ただの罪人から、目指すべき姿を見つけてしまった罪人」に、「ただの迷い人から、行くべき場所を見つけて しまった迷い人」になったのです。

クリスチャンになってみて

すっきりしました(笑)。やっと聖餐式でまわってきていたあの 白い物体と赤い液体を味わう事ができました。初回は不謹慎ながら、乾杯までしたくらい待ち望んだ瞬間でした。また、今まではコソコソとお祈りしていましたが、堂々とお祈りできるようになりましたし、もごもごと「ァメン」と呟いていたのも、「アー メン」と言えるようになりました。
しかし、人間的にはどうなのでしょうか。変われている実感、 自信はまだ無いのが本音です。「前より輝いている」と仰ってくれる方もいらっしゃいますが、あれ?前頭部が後退?はた また脂ぎっしゅになってる?と傷つきますし、「柔らかくなって る」とか言われても、ん?顔が太ったから?お腹??とへこ みます(お腹とは裏腹に)。毎朝通勤時にアプリで聖書朗読を聴いているのですが、その後にある短いメッセージを聞きながら、歩きスマホをしている人に舌打ちしたり、タイミング的に譲れば良いのにあえて自分の歩調を緩めなかったりして、 やった瞬間に後悔しています。折角の有難いメッセージも効 果 0.1 秒しかもたない嫌な奴です。

しかし先日の上海出張の最終日の事です。朝 3 時まで仲間 と飲んでしまったのに早朝ランニングに出たのですが、そこで初めて「あーなんて素晴らしいんだろう!神様に感謝!」と 自然に出て来たのです。PM2.5 の中を前日 3 時まで飲んで走った身体の細胞が勝手にそんな事思うはずがないと思いませんか?
こういう幸せな体験が起こったり、常に拠り所(さけどころ)が ある事で思考に余裕が出て来ました。感謝できるようになりました。また、例えば仕事で偉くなりたい、もっとお金を貰いたい、みんなに誉められたい!とかしか考えられずに他人の せいにしていた事も、今はこれがご計画で、このご計画には意図がある。この中にある私の使命・役割は何なのか?と考えられるようになりました。これが出来る事で、怒る事が大分少なくなりました。もちろん稀に、怒る事が私の使命だ!と怒って後悔する事もありますが、私がどう喜ぶか、上司が喜ぶか、という単純な尺度では無く、神様が喜んでくれる私の役割は何か?を基準に動けるようになりました。これはすごく大 切な事だと思うのです。自分が与えられるものを与える。言葉にするとすごく簡単ですがとても難しい事です。しかも、人類のためにとか、地球のために、とかそんな小さな次元じゃ ありません。宇宙をも超えた、神様のためにです。

そしていつかは、かつて自分が感じたように、「あの人は何故あんな素敵なんだろう?」と、私を引きずりこんで(導いて)くださった皆様のように、神様を信じて生きていく事の素晴らし さを言葉ではなく生き様で伝えていく事ができたらと思ってい ます。

妻、そして皆様との出会いと神様の導きに感謝します。

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「ヨナと私」

皆さんは、聖書の登場人物の中で、誰がご自分に一番近い、あるいは、最も共感できると思っていらっしゃいますか?私だ ったら、旧約聖書のヨナ書に出てくるヨナを選びます。あの、ニネベの町に行きなさいと主にいわれ、行きたくないと別の 船に乗ったあげく、魚に飲み込まれ、ニネベの海岸に打ち上 げられたヨナです。

私は、代々のクリスチャンホームに生まれました。日々、聖書 が開かれ、祈り、讃美歌も四つのパートで歌うそんな家庭でした。両親はお互いを深く尊敬し、私達三人兄弟の個性を尊 重しつつ、見守り育ててくれました。後に、自分が母親になり、子育ての困難にぶつかった時に、「こんな時、両親だったらど う対処しただろうか。」と思うと必ず解決策が見つかり、そのことをどんなにか、幸せに思ったことでしょう。
ただそんな中でも、私はマイペースというか、こうと決めたら、てこでも動かない所があって、幼稚園に来ていく洋服一つとっても、真冬でもズボンは嫌!というような子供でした。母は 仕方なく、私に二枚重ねのタイツをはかせ、厚手のウールでスカートを縫ってくれました。そんな様子を見て父は決まって溜息混じりに「空の鳥を見るがよい。」とマタイ 6 章の聖句を唱えるのでした。まだ世の中全体が貧しく物不足の時代でしたから、欲しいものがすべて手に入る訳ではなかったのです が、それでも「神と人とに愛されるように」との願いを持って育 てられたお蔭で、神様の存在を疑うこともなく、豊かな子供時代でした。

最初の挫折は大学受験でした。浪人に反対され、母の出身 校のキリスト教主義の学校に入れて貰いました。卒業後は、 アメリカの UCC(United Church Of Christ)の招へいでノース カロライナで一年を過ごしました。その町は大学も教会も UCC の系列で、聖歌隊で歌い、教会学校のヘルプ、チルドレ ンズホームのボランティアと、授業以外にも恵まれた毎日で した。帰国後は欧州の会社に勤務。海外との往復で、教会へ の出席は難しくなっていた頃に出会ったのが、ノンクリスチャ ンの夫で、結婚。長女出産後も仕事は続け、夫の海外駐在 を機に退職し、次女出産後サンフランシスコに赴きました。その後ニューヨークに転勤になり、SMJ(Special Ministries for Japanese:NY地区で、日本語を使う方々のためになされているクリスチャンの働き)の存在を新聞広告で知り、そこにあ った番号に電話して Fort Lee での家庭集会を教えて頂いたことが、この地でのキリスト者の交わりに加えて頂いた最初 でした。

駐在員家庭の常で、殆ど母子家庭という状況の中、私は、何とか子供達に宗教教育を、と真剣に考えていました。浄土宗 の夫に、マンハッタンの仏教会に子供達を連れて行きたいか問うたところ、返事はノー。私が教会に連れて行くならどうぞと言うので、近所の合同メソジスト教会に通い始めました。私自身も様々な学びや奉仕の機会を与えられる中で、子供達3 人が洗礼を受け、教会ファミリーの中で育てて頂けたことは何よりの喜びでした。

ここまでの道のりは、今から考えるとすべて主の導きの中、 守られて最善の道が開かれたように思えますが、その時々の私は「なんで私が?」「こんなのあり?」「もっと違う道があ ったかも?」というつぶやきを、神様、イエス様に投げかけていました。実際、別の道を歩きかけて、神様に引っ張り戻されたこともありました。また絶対無理と思うご用も、不思議にやり遂げられて、これは、もう私の力ではないと確信したことも度々ありました。

さて、最初のヨナの話に戻ります。ヨナは仕方なく、ニネベの 人達に「悔い改めなさい。さもないと神様に滅ぼされます。」 と伝え歩いたらこれが大成功、全員悔い改めてしまったので、 主が「せっかく悔い改めた人達だから助けてあげる。」とおっ しゃったとたん「それだったら、何で自分をニネベになんかに 連れて来たの?」と文句を言ったのです。私の信仰生活を振り返ると、このヨナの気持ちがよくわかって、思わず「そうそう、そうなのよねえ。」と手を握り締めたくなります。

ヨナには最初から全知全能の神の声がしっかり聞こえていま した。でも自分の力不足も知っていたし、後は神様が何とかするでしょうからという気持ちもあって、自分の意思で反対の方向に向かいます。でも神様はこの役目を果たすのはヨナ以外にないと敢えて選ばれたのです。その後のヨナの仕事ぶりは目覚しく、神様は当初の予定を変更されます。神様のご計画は、ヨナの行動次第で路線変更ありというのも嬉しく、勇気付けられる思いがします。

もうひとつ私とヨナの共通点があります。それは、ヨナが嵐の吹き荒れる海で、騒ぎをよそに熟睡し、どうも自分のせいで 船が沈みそうとわかった時に「あの~、どうぞ私を海に投げ込んで下さい。そしたら、嵐は静まりますから」と伝える時に、 恐怖よりも「神様はどこまでも自分と共に居て下さる」と疑わなかったことです。私もこの思いに同感です。夜中にふと目を 覚まし、あ、今から神様の声を聴こうと思った時、心の底から楽しい気持ちになり、神様の声が聞こえないうちに、またすっ と眠りにつくことが何度もあります。反対に、全く予期していない車の運転中に神様の声が聞こえてきて、びっくりすることも あります。人生の分岐点では、「神様、これがもし御心でなければ、何とか、邪魔を送ってそっちに行かせないようにして下 さい。」とか、「神様、本当に大事なことを忘れないように優先順位が狂ったら、突っついて下さい。」というのが多くなります。 神様は私達と繋がるライフライン(命綱)にかけた手をご自分からは決して外さない方だとわかっているからです。

私の日々の課題は、神様、イエス様の声を聞き逃さないようにする事、そして、それを実行に移す事です。お祈りが「家内 安全、無病息災、商売繁盛」にならないように、主が私に何をさせようとなさっているか、そのアサインメントを見極め、歩ん でいくことです。イエス様はあの宗教的政治的圧力の中、社会の価値、常識を覆し行動されました。私の次のニネベ行きがいつになるか分かりませんが、その時が来たら、きっとま たぶつぶつ文句を言いつつ、それでも不思議な力が湧いてきて、神様のご用が達成できますようにと願っております。

 

月報2017年5~6月号より

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「クリスチャンの夫と結婚して」

昨年11月、私はここNJ日本語教会で受洗させて頂きました。まだまだ歩み始めたばかりのベイビークリスチャンの私ですが、私がどのように信仰に導かれたか証させて頂きたいと思います。

私が育ったのは、キリスト教とは全く縁のない家庭です。大晦日には除夜の鐘を聞き、年が明けるとその足で神社に初詣に行く、そんなよくある典型的な日本の家庭で、信仰というよりも日本古来の慣習を大切にしてきました。ですから、夫と知り合い、彼がクリスチャンホームで育ったクリスチャンであることを知ったときも実感がわかず、「へー、なんかかっこいいね!」と軽く受け止め、まさかこのことが自分の結婚生活に大きな影響を及ぼすとは思いもしませんでした。
そんな私が初めて教会に行ったのは、夫との結婚が決まる前後のことです。ここで、私は、大きなカルチャーショックを受けます。勝手にヨーロッパ風(?)の厳かな礼拝をイメージしていたのですが、行ってみてビックリ。想像とは正反対のポップな賛美、真剣にメッセージに聞き入り祈りを捧げる人々。まるで異世界に連れてこられた感じ。すっかり圧倒され、礼拝が終わるとドッと疲れて教会を後にしました。それでも、結婚後は転勤先の愛媛県に住むし、夫も礼拝はインターネットで見るというし、たまにお付き合いで行くぐらい別にいいかなと、特に気にせず結婚生活をスタートさせました。
しかし事態が変わったのは、長男が1歳になる頃、再び転勤で、愛媛県から夫の母教会のある神奈川県に帰ってきた時です。主人の家族と共に教会に行く機会が増え、また子供を教会に連れて行きたい夫の意向もあり、気がつくと毎週のように礼拝に参加するようになりました。初めは私も嫁として教会に顔を出し、キリスト教のことを理解したほうがいいのかなと思い、教会について行っていたのですが、「私達は神がつくって下さった。」「神が我々の罪を赦して下さった。」「私達は勝利している。」「救い」「聖霊」そういった言葉ひとつひとつに強い反発を抱くようになりました。「私を生んで育ててくれたのは神様ではなく私の両親。」「自分は決していい人間ではないけれど、神様に赦しを求めるほどの悪人でもない。」「いったい何に勝利しているというのか。」「救われなくても私は十分幸せに生きているから大丈夫。」しかし、夫だけでなく夫の家族も通っている教会で、こういったことを口にするのは彼らの信仰を否定することになる思い、私はこれらの違和感や反発心を心の中にため込んでいきました。夫の家族はいつも私を温かく迎えてくれて、一緒に過ごす時間はとても楽しいのですが、「日曜日そのまま教会も一緒に行きましょう。」となると、私の心はずどんと重くなりました。教会に行くのが当たり前の夫の家族と、教会に行くのが憂鬱でしょうがない自分との間に大きな溝を感じ、次第に私の足は教会から遠ざかっていきました。
こうして、教会には主人と子供たちが通い、私は別行動をするという日曜日がスタートしました。私が教会に行かないことについて、夫も夫の家族も責めるどころか、むしろ「なかなか無い1人の時間。少しでもリフレッシュできるといいね。」という温かい言葉をかけてくれました。これで、問題解決!かと思いきや、私の心は全く晴れません。それどころか、心の中のモヤモヤは増すばかり。確かに子育てに追われバタバタする毎日の中で、1人の時間は貴重です。でもこれは本当に自分が求めていたものなのか。夫と家族になりたくて、一緒に家庭を築きたくて結婚したのに、なぜ自分は毎週日曜日に一人で過ごしているのか。私が一緒に教会に行けばいいのだろうけれど、これ以上無理をすると私の反発心が夫や夫の家族に向いてしまいそうで、どうしても礼拝に行くことが出来ませんでした。このままでは、私がクリスチャンになる日なんて来るはずないし、夫とも一生わかりえることなんてないだろう。そんな風に諦めかけていた時、神様は全く思いもしなかった方法で、私が教会に行くきっかけをつくって下さいました。主人が転勤になり、家族でアメリカに引っ越すことになったのです。これは我が家にとって大きなサプライズでした。

海外引越しのダメージは想像以上に大きく、私はアメリカに到着した時、すっかり疲れきっていました。慣れない運転に、子供達の学校の手続きや病院探し、今まで当たり前に出来ていたこと1つ1つにつまずき落ち込み苛立ちました。また子供達が、赤ちゃんの頃から過ごしてきた町や幼馴染と離れ、誰も知らない、それどころか言葉も通じない学校に通うことを考えると、胸が痛くてしょうがありませんでした。そんな中、本当に不思議なのですが、先に渡米していた夫がすでに通っていた教会に、私も行きたい!という気持ちがむくむくと湧いてきたのです。日本ではあんなに拒否していた教会。でも、この押しつぶされそうな不安から逃れたい。まさに藁をもつかむ思いでした。夫に付き合ってあげるのではなく、嫁としてのいい顔をするためでもなく、本当に自分の意思で、心から教会に行きたいと思ったのです。この時、私が初めて教会に行ってから9年が経っていました。
初めてこちらの教会の門をくぐり、皆さんが「よく来たねー!」と笑顔で迎えてくれた時、私は心がすっと軽くなるのを感じました。今思えば、「アメリカによく来たね。」という意味だったと思うのですが、私には「教会によく来たね。」と言ってもらっているように聞こえました。神様を信じられない自分でも、私は私のままでここに居てもいいのだと思うことが出来ました。
教会やスモールグループでは、先生やクリスチャンの皆さんが、今まで私が心情的に受け入れられなかったこと、そして新生活への不安について親身に話を聞き、一緒に祈って下さいました。すると、私の中の不安やモヤモヤが消え、心が温かくなっていきました。教会に通いだしてから短い間に、様々な出会いや体験をさせて頂きましたが、中でも私に大きな影響与えたのはジョイジョイキャンプです。当初、子供達の送迎だけするつもりだったのですが、友人に「一緒にキッチンスタッフをやろう。」と誘ってもらい、急きょスタッフとして参加することになりました。暑い夏の盛り、元気いっぱいの子供達を相手にする5日間は、体力的にとても大変だと思うのですが、スタッフの皆さんが本当に心からの笑顔で、子供達を喜ばせるために楽しそうに奉仕する姿は、私にとって衝撃でした。私は自分の子供がお世話になっている小学校のPTAですら参加するのが億劫なのに、みんなを動かしているものは一体何なのだろう。みんなの信じている神様はどんなことを言っているのだろう。それが知りたくなり、私は生まれて初めて聖書を手にとりました。

聖書を読み進めていくうちに、自分の内面が少しずつ造りかえられていくのを感じました。もちろん、難しくて納得できない箇所もありました。しかし、一つ気がついたことがあります。それは、私がずっと求めても得られないと思っていた愛は、神様から頂くべきものだったということです。私は子供の頃から今まで、誰かに評価してもらうことをモチベーションに生きてきました。「音楽やスポーツが苦手な分、このテストで良い点を採ったら親はほめてくれるかな。」「良い学校に入ればみんなはスゴイといってくれるかな。」「この資格を取れば、私は自分に自信を持つことが出来るかな。」成果が出ると一瞬は満たされるけれども、また周りと自分を比較しては物足りなくなるという繰り返し。そんな生き方に疲れ、今度は「自分は頑張らないと愛してもらえないのか」、「頑張れない自分も受け入れてほしい。」そんなことを、身近にいる家族に期待しては、自分の思ったものが得られず、怒り悲しみ落ち込んできました。私はずっと、自分には罪はないと思っていたけれど、神様の存在を否定し、わが身を信じ、それによって不安定になることで、どれだけ大切な人達を振り回してきのか、それこそが私の罪であると気がつきました。
そして、ルカ5:1~11に目が留まりました。漁師だったシモンに対してイエスは「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい。」と言われます。それに対して、シモンは「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を下ろしてみましょう。」と答え、そのとおりにしたところ沢山の魚がとれるのです。このシモンはまるで私のようです。心を頑なにして、神様を受け入れようとしない私を、神様は思わぬサプライズでこの教会に導いてくださり、沢山の出会いや居場所を与えて下さいました。そして私にも、「もうここで網を下ろしなさい」と言っているように感じたのです。今まで9年間、教会に行ってあげているという気持ちでいた時には、どんなに素晴らしいメッセージを聞いても全く心に響いてきませんでした。しかし、心を開き、本当に自ら求めて教会に行った時、神様は聖書を通じて、また礼拝のメッセージを通じて、私に語りかけて下さるようになったのです。

「地上の平和をもたらすために、わたしが来たと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。」

(マタイによる福音書10章34節)

先日、この箇所についての先生のメッセージ(2017年2月12日「本当の平和」)を聞いた時、まるで自分のことを言われているような気持ちになりました。クリスチャンの夫に出会い結婚したことで、イエス様は、私自身の人生に、家庭生活に、また人間関係に、つるぎを投げ込まれました。そのつるぎによって、私が今まで必死にたもとうとしてきた見せかけの平和は見事に壊されました。夫とは信仰や教会のことで言い争いもしましたし、教会と関わることで自分の親に対して後ろめたい気持ちになることもありました。「夫がクリスチャンでなければ、こんなモヤモヤした気持ちを抱えながら生きなくてすんだのに。」と思うことが何度もありました。けれども、私が自ら心を開き、本当に渇き求めた時、神様は、夫がクリスチャンだから、夫の家族がクリスチャンだからではなく、私自身にむかって救いの手を差し伸べ、本当の心の平安を与えて下さいました。結婚して9年。夫とは一生わかりあえることはないだろうと諦めていましたが、わたしが神様を受け入れた時、やっと本当の家族になれた気がしました。今まで、憂鬱だった日曜日。今は一週間で一番幸せな日にかわりました。夫と出会わせてくださった神様に、心から感謝します。

 

月報2017年3~4月号より

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妻が受洗に導かれたことへの感謝

<はじめに>
妻が受洗に導かれたことへの感謝を証させて頂きます。

<クリスチャン4世>
私はクリスチャンホームに生まれ、物心ついた時から日曜 学校に通っていました。
クリスチャンが少ない日本で、友達 と違うことに違和感を感じることもありましたが、祖父母が神棚・仏壇に手を合わせるのを見ていたため、異なる神様を信じていても家族は円満に過ごせると信じていました。小学 5 年生で受洗の恵みに導かれた後も、(思春期特有の?) 寄り道をしたり、(青年特有の?)万能感に酔ったりと、奥底にしまって置きたい記憶もありますが、神様が人生の伴走 者として守ってくれているという安心感を持って、歩んでこら れたことに感謝しています。

<結婚、避けたい話題>
妻との結婚に際し、信仰の有無が大きな障害になるとは考えていませんでした。インターネットのおかげでメッセージ を聞く時間・場所の自由度は増し、週末は家族の時間(実 際には仕事で潰れる日も多くありましたが)として新婚生活 を過ごしました。子供が生まれ、母教会に通える距離に転居してからは、子育てに追われる妻のリフレッシュと、教会に行きたい私の希望を叶えるために、子供達と私が日曜日は教会に通うスタイルも確立し、Win-Win の関係が実現できているかのように見えました。 地元のキリスト教系幼稚園に入園し教会学校にも通う息子らの口からは、次第にキリスト教的価値観が出るようにな ります。そんな息子達を見て安心する私、他方の妻は息子達が知らない考えに染まっていくことに不安を感じたり、疎外感を感じたことと思います。親の信仰と子供の信仰、葬儀やお墓のことなど、宗教にかかわる点での衝突が増えてきました。私はこの状況で妻がクリスチャンになることなど不可能だと決めつけ、祈りの課題はクリスチャンとして模範的な夫になり家族の和を保つことになりました。日常生活は上手くいっていても、信仰に関わる話題では妥協点を見出す ことが難しくなり、次第に私はその種の話題を避けたい気持ちが強くなりました。

<転機の訪れ>
海外赴任の地がアメリカだったことは家族にとってもサプ ライズでした。赴任が決まってからはバタバタで、子供の学校、家などの押し寄せる課題を夫婦で協力してこなしてきま した。しかし、教会に妻が来てくれることなど夢にも思わなか ったため、アメリカに行ってからの教会探しは秘密のミッショ ンです。折角だから、ガッチリと現地の人々と交流するのも良いと思い、家探しと並行して英語の教会を探していまし た。メイウッドの教会の存在を知ったのも自宅候補付近の教会をグーグル検索した時で、英語と日本語の教会の違いを見てみようと思う程度の気持ちで訪ねてみました。行って みると日本で通っていた教会員の縁がある教会であり、ま た皆さんの暖かい歓迎を受ける内に、私と子供で通おうと決意しました。妻を誘う勇気は持てていなかったのです。ア メリカ生活に妻が慣れるまで、日曜日の過ごし方について 話すことは避けたいという思いを抱きつつ、引越しのために日本行きフライトに乗り込みました。 息子らの友達作りという大義名分で申し込んでいた Joy Joy Camp が始まります。送迎だけお願いするつもりだった 妻がキッチンスタッフを申し出たところから神様のご計画は私に見える形で始まりました。妻は初めて家族・親族と全く 繋がりのないクリスチャンに接し、キリスト教に興味を持ち 始めてくれました。心地よい雰囲気に抱かれながら、家庭集会で出会った人・メッセージの意味を会話することが増え、 信仰について会話するときのファイティングポーズは要らな くなりました。

<妻の受洗>
妻の信仰告白は突然訪れます。結婚以来、乗り越えることの出来なかった障壁はいとも簡単に崩されました。喜び踊りたい気持ちよりも、神様が整えて下さった環境の完璧さへの驚きが上回り、「いったい今までの言い争い、そしてこの スピード展開は何なのだろう?」とポカンとしてしまいました。

「神は、神を愛する者たち、すなわちご計画に従って召さ れた者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ローマ人への手紙8・28)

私が試練に遭った時、妻と信仰について意見が食い違い 途方にくれた時にも励ましてくれた御言葉です。神様を愛する方々の真ん中に我が家を移して下さり、妻が受洗に導かれたご計画を目の当たりにし、益々この御言葉への信頼が強められました。 日曜日を何となく妻に対して後ろめたい気持ちで過ごして きた日から、最も幸せな日に変えて下さったことに感謝します。
今後も家族揃って主の下で歩んで参りたいと思います。

 

月報2017年1~2月号より

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「燃える柴のように」

私は、6月に大好きなニュージャージー日本語キリスト教 会に転入会しました。
この度はご挨拶も兼ねて、神様がい かに私の人生に関わって下さっているかをお証をする機会 を頂きました。ニューヨークに来て一年経ったこの生活を振 り返って、お証致します。

私が昨年、ピアノの勉強のためにこの地に来ることができ たのは、神様が与えて下さった奇跡でした。自分の能力や 努力ではどうすることもできなかったところに、主が働いて 下さり、明らかに道を開いて下さいました。「神様はやっぱり 凄いお方だ。この神様に信頼していけば何も怖くない!」と 実感できる奇跡だったのです。それなのに、来てからは試 練の連続で、何度も心に恐れを抱いては「大丈夫」と自分に 言い聞かせる日々でした。特にピアノの練習は不安で、競 争の激しい環境に圧倒され、思うように集中できない自分に イライラし、「本当に神様は私をここに呼んでいたのだろう か」と疑うこともあったのを思い出します。

そんな生活の中、ニュージャージー日本語キリスト教会で の毎週の礼拝は酸素吸入のようでした。賛美とメッセージ、 また皆さまの優しいお心遣いに、いつも励まされました。ど んなに沢山の心配事を抱えていても、礼拝に来ると、いつも 「神様に信頼しよう」と新たに思わされました。今も、よい教 会に導かれて本当に感謝だと痛感しています。

そうして数か月が経ち、2月から3月頭にかけて、博士課 程を受験しました。そもそもこの地で勉強をしていたのも受 験準備のためだったので、大きなプレッシャーを感じていま した。怖気づく中、イザヤ14:1「主はヤコブをあわれみ、イ スラエルを再び選んで、これをおのれの地に置かれる」とい う御言葉に励まされ、挑みました。しかし結果は惨敗で、受 けた三つの学校どれも落ち、賛美の歌詞にもありますが、 目の前が暗くなりました。「神様、あなたが私をここに置きま した。明らかにこの道を示して下さいました。なぜですか。次 はどうしたらいいのですか。」しかし神様は何も答えて下さい ません。

次のステップは、二つの選択肢がありました。帰国する か、OPT(Optional Practical Training と言って、留学生がビ ザを延長して働くことができる制度)で残るか。そしてOPTを するのだったら、どこで働くのか:以前いたイリノイ州に戻る か、この地にとどまるか。私の中では、導かれて来たこの地 に残って、もう一度受験に挑戦したいという思いが強くあり ました。しかし、経済的にも、帰国するかイリノイに戻ったら どうか、と親は言います。どうすることもできない状況だった ので、神様に切に祈り、委ねました。すると、神様はまたも や私を憐れんで下さり、全ての必要を満たして下さいまし た。OPT の申請も全てスムーズに済み、こんな恵みは相応 しくない私に、主はもう一度チャンスを下さったのです。行先 の答えを下さらないと思っていた神様は、一歩一歩、暗闇の 中で私の手を引いて下さっていたのだと今になって気づき ます。

もう一年はここにいられるとわかり、錦織先生に転入会の お話を頂きました。とてもお世話になっているこの教会にも っと関わって何かお返しできたらという思いと、自分の信仰 の成長のためにも奉仕を通して神様の働きを拝見したいと いう思いで、喜んで転入会させて頂きました。BIG(中高生の 集まり)のスタッフ、通訳、奏楽の奉仕の機会を頂けている のは大きな恵みです。 特に BIG での奉仕は、始めることができてよかったです。 最初にこの奉仕をやってみないかと聞かれた時、とても躊 躇いました。日本の教会学校での奉仕は小さい子ども相手 だったので、高校生と接する自信がなかったのです。「この 子たちのこの大事な時期に、躓かせてしまったらどうしよう。 こんな私が高校生にお話なんてできない」と、尻込みしてい ました。でも、やった方がいい、と聖霊様に突かれる気持ち がありましたし、OPT のため時間にも余裕があったので、引 き受けました。当初の恐れも、第1コリント3:6「わたしは植 え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、 神である」という御言葉で和らぎました。大事なのは私が頑 張って何かを語ることではなく、神様がこの子たちの心に働 かれることなのだと気づかせて頂けたのです。

BIG の奉仕を通して、私自身、今のところ二つの面で変化 させられています。一つ目は、祈りです。私は自己中心的な ので、自分のことはよく祈っていました。でも、9月に教師任 命式で前に立たされた時、このままではいけない、毎日彼ら の名を挙げて祈ろうと思い立ちました。これまで、誠実に継 続して誰かの祝福を祈ったことはあまりなかったのですが、 神様がその思いを与えてくださったので、変わることができ ています。すると不思議なことに、今まで名前もあまり知ら なかった高校生達に(勝手に一方的に、ですが……)興味 が湧き、もっと関わりたいという思いが与えられました。ま た、祈りの習慣が変えられたことから、他の様々な悩みの 種も、毎朝神様の前に持っていって、委ねて平安を頂く経験 をさせて頂けています。

二つ目に変えられたのは、神様をもっと知りたいという渇 きです。ある日の BIG でリーダーから「今神様から何を頂き たいか」という質問がされました。勇気や力という答えも挙 がり、信仰と答えた子も何人かいたのを覚えています。「神 様への信仰をもっと強く持ちたい」という言葉を聞いた時、私 は「神様がどんなお方で、どれだけ信頼できる方なのか伝 えたい」という思いを与えられました。すると次に心に浮か んだのは、「私自身はどれだけ神様のことを知っているのだ ろう」という疑問です。ずっと教会に来て、聖書を読んでいた 気になっていましたが、何も知らないのだと気づかされまし た。神の属性に関する本を何冊か読み、祈り求めるうちに、 ますます神様の素晴らしさ、私の理解を超えたその深く大き な愛を思い知らされ、もっとこの方を知りたい、そして私の人 生ももっとお委ねしたいと渇きを頂くことができました。

この二つの変化は、BIG の奉仕を引き受けていなかったら 得られませんでした。そして、受験に失敗し、OPT による時 間の余裕がなかったら奉仕を引き受けることはなかったと 思います。神様は私の失敗を用いて、私の弱さを示して下 いました。さらに、失意のモーセのもとに燃える柴の中で現 れたように、主は奉仕を通してご自身を私に現してくださり、 よりすがる渇きを与えて下さったのです。まだまだ変化の過 程の中にいますが、これから神様がどのように私を導いて 下さるのか、全ての面で主に信頼して、期待しつつ歩んでい きたいです。

「すべてはキリストのためであることを知っているので、そ の『とげ』も、侮辱も、苦しみも、迫害も、困難も、大いに喜ん でいます。なぜなら、弱い時にこそ、私は強いからです。― 無力であればあるほど、それだけキリストによりすがるよう になるからです。」 (第2コリント12:10)

月報2016年11~12月号より

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「The Brave教師に導かれて」

ニュージヤージー日本語キリスト教会で「主にある家族」としてお付き合いくださり、数え切れないほどの祈りと助けと励ましをくださった皆様へ、心より感謝申し上げます。

7月初めにカリフォルニアへの引越しを無事に終え、今ニュージャージーでの教会生活を振り返り、特に強く神様の導きと訓練を感じました「The Brave (教会学校)」の教師というご奉仕についてお証しさせていただきます。

「受けるより与えるほうが幸いです。」(使徒行伝20章35節)このみ言葉に励まされ、2009年の9月からThe Brave教師の奉仕に立ちました。しかし当初は、私の中に教師としての「自信」などは全くなく、聖書のお話やみ言葉の意味をどのように子供たちに伝えたらよいのか、毎回悩みの連続でした。

聖書の中に、イエス様のもとに5千人が集まるシーンがあります。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」と問うイエス様に対し「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」と答えた弟子の言葉はそのまま私のつぶやきでした。「この小きき者に一体何ができますか?」と。このような信仰が浅かった私に対しても、主は「それをここに持ってきなさい」(マタイ14章18節)と言われ、忍耐強く私を導いてくださいました。

月1回のThe Brave&BIG教師のミーティングである「教師会」に集い初めた頃を思い出します。みことばシェア(お証)、祈りの時、カリキュラム確認と続き、子供達のための様々なイベントについて毎回真剣に話し合い、神様の導きを求めつつ、意見を交わす、その確立した体制や熱意ある先生達の祈りに「教会の子供達は実に恵まれている」と感心したことを覚えています。

教会学校の教師がひたすら祈ることは、教会へ来ている子供達が神様の普遍の愛—無限であり無償でいただける、優しくて強い「神の愛」を知ることです。聖書にはこう書かれています。

「愛は神から出ているのです。…私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」  (第一ヨハネ4章7—10節)

さらに現代の複雑な社会の中で、思春期の子供達が不安・混乱・矛盾、心の葛藤などを経験していく時にも、神様に依り頼み、善悪を見極めて誘惑をはねのける力、問題を解決していく力、希望を失わず生きる力が神様から与えられていくことです。

「見いだす者には、それはいのちとなり、その全身を健やかにする。力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」  (箴言4章22-23節)

この「いのちの泉」とは、決して渇くことのない水があふれる所ですが、ある日ふと「教師会」が私にとっての「いのちの泉が湧く所」になっていることに気付きました。毎日3歳と5歳の子供の世話で忙しくしていた私に「教会学校教師」という奉仕が与えられたのは、実は「神の前に静まり、祈りの時を持ちなさい」との主の招きだったのです。聖書を開き、み言葉に親しみ、心を一つにして祈り合うことこそ、当時の私にとって必要なことでした。主を身近に感じながら、私はいつも平安を得ることができました。

教会学校では一年を通して様々な活動があります。毎週日曜日のThe Braveの礼拝に加え、主の復活を祝うJoy Joy イースター、主の御降誕を祝うJoy Joy クリスマス、夏の一大イベントであるJoy Joy キャンプ etc…。これらを担っていくため、プログラムを組み、準備に時間を割き、人々に仕えていく、それはまた自分を犠牲にすることでもあります。体と心が疲れた時に、繰り返し私の心に響いていたのは「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6章33節)というみ言葉でした。

そしてこのみ言葉は、ニュージャージーの教会での最後の礼拝で我が家の子供達が洗礼を授かった瞬間に成就したのです!同時にこの洗礼の恵みは「奇跡」でもあります。子供達の「神様の子とされて歩みたい」「錦織先生から洗礼を受けたい」との思いが現実にされたからです。一年前にも6ヶ月前にもこのようなことは考えられませんでした。今、子供達の心の中に確かに教会で培われた神様の愛、聖書の一つ一つのお話やみ言葉、神様の子供とされた喜びが着実に育っています。錦織先生、教師の皆様、教会の皆様の愛とお祈りに深く感謝するとともに、主が与えてくださった恵み、み言葉の確かさを覚え、救い主、主をほめ讃えます。

「教会学校の教師」という重荷を用いて、主は確かに私の霊性を整え、信仰を鍛え、教会に来る子供達への愛情を増してくださいました。そして子供達の中にある純粋さ、素直さをみるたびにいつも心に語られたのは、イエス様のこのみ言葉でした。

『子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。』  (マタイ 19章14節)

 

月報2016年9~10月号より

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「苦しみを祝福に変えてくださる神様」

2010年、私の結婚生活は夫の実家で義母と一緒にスタートしました。

結婚という未知の生活、慣れない土地、義母との同居、様々な不安がありましたが、そこに至る経緯に不思議な出来事が重なっていたことに神様の導きを感じ、祈り、決断してのスタートでした。

しかし、数カ月後、義母と大きな衝突が起きました。それからは義母の意に反することが何よりも恐ろしく、常に義母が何をしたら怒るかばかりを考えるようになりました。今振り返ると、夫とも家族になりきれておらず、お互いの信頼関係もなかった中で、私にとって義母の存在は絶対に逆らえない重圧でした。小学校1年生の時に父を亡くした夫にとって、女手一つで一生懸命育ててくれた義母がどれ程影響力があるかを考えると、私たちの結婚を壊せる恐ろしい存在に思えたからです。義母から言われた言葉が頭から離れず、夜も眠れず、食事も喉を通らず、嘔吐する中で、「自分を認めてもらうためには『一点の非もない人間』でならなければならない」「ふさわしい嫁にならなければ」と思い込み、夫に自分の弱さを相談することもできず、家にはなるべく遅く帰るために残業をしたり、駅や近くの公園で夫の帰りを待ったりする日もありました。徐々に心の中で義母に対する不信感が芽生え、義母の粗探しをすることで義母が非難したものを正当化するようになりました。すでに心に愛や平安はなく、恐れと憎しみで渇ききっていました。義母から解放されることだけが私の希望であり、そのためには離婚すら考えるようになりました。

結婚から1年、夫と2人で夫の実家を出て新居に引っ越しました。義母から絶縁され、私は完全に教会に行けないと思いました。夫から義母を奪ってしまった私が、自分だけ自分の実家の家族が集まる教会に行くなんてできない、義母と良い関係を築けなかった私がクリスチャンとして夫に証なんてできないという思い、そして、私がいない間に義母が夫を離婚するようにと説得したら…夫が実家に帰ってしまったら…という恐怖心から私は教会と自分の実家の家族から離れ、仕事以外のほとんど全ての時間を夫と過ごすようになりました。

しかし、離れれば解放されると思っていたのに、優しく思いやりのある夫の姿に義母に対する感謝が起こり、夫のしぐさや口癖に義母の影響を感じて嫌悪感が起こり、義母の言葉を思い出して許せない気持ちが再燃し、最愛の息子に会えず寂しく暮らしているであろう義母を想像して涙し、どんなに蓋をしたりコントロールしようとしても義母を思わない日は一日もなく、むしろ自分の汚い泥沼の感情の中でもがき苦しみ続けました。

そんな中で、私は生まれて初めて心の底から神様を求めるようになりました。考えてみたら、それまでの私は受動態の信仰でした。クリスチャンの両親のもとに生まれ、物心つく前から教会に通い、小学校6年生で受洗し、中高はミッションスクールに通い、必要な御言葉、メッセージは常に求める前から与えられてきました。祈りに応えてくださる神様が大好きで、イエス様も聖霊様も信じていました。しかし、どうにもならない自分の醜い感情、弱さ、愛のなさを嫌というほど思い知らされ、それでもなお自分を正当化しないと生きていられないような苦しみの中で、言葉にならない言葉で神様を求めました。初めて自分から「生きる指針」を探し、神様とのつながり、神様の御心、聖書をもっと知りたいと願うようになり、ネット配信されている中川健一先生の「ハーベストタイム」を聞くようになりました。毎日の通勤や帰宅後、ひたすら創世記、出エジプト記、ローマ人への手紙、福音書の講解メッセージ(毎回一章ずつ順番に解説するもの)を聞き続けました。それまで知ってるつもりになっていた聖書への理解が全く変わっていきました。

別居から2年後、義母との交流が再開し、その半年後に夫の転勤でNYに引っ越し、NJ日本語キリスト教会に導かれました。礼拝堂に入った瞬間、初めての教会なのに、何とも言えない懐かしさ、喜びが溢れました。ほぼ4年ぶりの牧師先生の生の説教、賛美、クリスチャンの方々との交わり、全てが嬉しくて感謝と感動で心が震え、「帰ってきた…」と感じました。しかもずっと願っていた夫と一緒に。それから1年、素晴らしい主にある家族との交わり、先生を通して必要なメッセージを語ってくださる神様のもと、感謝に溢れる毎日を過ごさせて頂いています。

先月、義母をNYに迎えました。約2週間の滞在でしたが、義母に遊びに来てもらおうと提案したものの、日が迫るにつれ過去の記憶がよみがえり、不安になっていた私に、「好きは感情、愛は行動」「好きという感情は持てなくても、愛するという行動はできる」とメッセージ(2016年2月28日「敵意を超える生き方」)を与えてくださり、「愛をもってお義母さんと接することができますように」と祈りました。義母と一緒に過ごす中で、ふと義母の背中の小ささに気づかされました。驚きました。私にとって義母は絶対に動かすことができない大きな大きな存在だったからです。義母の手の白さに「あぁ、この手で一生懸命夫を育ててくれたんだ」と胸が熱くなり、過去のことも「義母も必死だったんだ」と分かった瞬間、慣れない外国で驚いたり喜んだりしている義母の笑顔が愛しくなり、「夫の」ではなく「私の」母と思うことができたのです。「何事もなく無事に」と願っていた母の帰国日は、母への愛情と寂しさと神様への感謝で涙が溢れました。神様は私の人生最大の奇跡、私の心に義母に対する愛情を与えてくださったのです。

夫の実家を出たあの日、こんな日が来るなんて誰が想像できたでしょうか。あの頃、夜中に起きては聖書を開き、「神様なぜですか」と泣きながら問い続けました。「何かの報いでしょうか」「神様は本当に今も私の側にいてくだるのでしょうか」と。

今回、この証を書きながら、あの頃の苦しみが今の私への祝福だったと分かりました。

義母、実家族との遮断を通して、私自身も精神的に「父母を離れ」、夫にどんなことも相談し、強い絆と信頼関係をもった夫婦になれました。夫を失いたくない一心でしたが、夫を愛し、夫に仕えることを学びました。何より、義母とのことで自分の中の悪、どうにもならないに醜さ、弱さ、渇きを知りました。「罪を犯すから罪人」ではなく「罪人だから罪を犯す」とメッセージで聞いた時、まさに自分の事だと胸に衝撃が走りました。イエス様がゲッセマネで血の汗を流されたほど恐れた“父なる神との断絶”は、本当は私が永遠に味わうはずの恐怖だったのだと気が付き、心から悔い改め、イエス様の十字架に感謝し涙が溢れました。

「同居さえしなければ」「私がもっと違ってたら」「結婚しなければ」…「たられば」で頭がいっぱいだった長い年月の一つ一つ、全て何も欠けては成り立たない神様のご計画でした。義母とのことがあったから、自分の罪を知りました。神様を求め聖書を学びました。教会に行けなかったから、教会に集える喜びを知りました。結婚したから、夫との愛を通して神様の愛が分かるようになりました。本当の平安は、復讐や憎しみからは得られない、また、自分の努力でも得られない、神様からの愛だけが苦しい心に平安を与えるのだと心から信じることができました。

『神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。』(伝道者の書3章11節)

神様が私にどのような未来を準備されているか私はまだ知りません。より大きな困難があるかもしれません。より長い時間苦しみの中を通るかもしれません。けれど、どんな困難な時も、満たされている時も、どんな時も神様に喜ばれる生き方を選ぶ知恵と勇気が与えられますよう、神様を信頼して希望をもって進んでいけますよう、祈りつつ生きていきたいです。

 

月報2016年7~8月号より

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「私の人生が変えられた理由」

私は、幼いときから誰よりもこの自分を知りたいという強い願いがありました。一生懸命勉強をしたら、いずれかこの願望が叶うと信じていましたし、その為努力を一杯積んできました。だから、大きくなってから、私は生命科学の道を選びました。

それと同時に、自分も自然に幸せになれると思っておりました。
しかし、その考えに大きな落とし穴があると言う事に最初に気づいたのは、大学にいた頃、私の同級生が一時成績が最良でなかっただけの理由で、自殺をした事でした。

自分をを知るため勉強をしたのに、なぜその途中で自分を死に追い込まなければならないのか。それは、幸せを感じなかったではないのか。
そう思いながら、私は、そもそも幸せが何かを、考え始めたのです。
自分の肉体のことをいくら知っても、心が幸せじゃなければ、それは自分が自分を知るということにはなってない。

卒業の後、私は臨床と研究とビジネスの道を歩み、二十年を過ぎました。その間も、自分自身も色々な人生の難関に出会いました。

心の安らぎを求める為、私は一時期いろんな“心豊かな“人と友達になり、そして成功した人が書いた書物も一杯読みました。心の教養レベルがこれで上がると信じたわけです。

名声ということに興味が沸いた時があります。他の人たちの“リーダー”となって有名になることさえできれば、心豊かな有意義な人生を送れるのではないかと思ったのです。その名声というのは、なにも学問とか能力とかにこだわらなくてもいいと思ってました。

それに大きな疑問をかけたのは、去年夏ごろ故郷中国上海に帰ってからでした。その時、私は昔の中学校の同級生達の同窓会を参加しました。気づいて悲しくなったのは、彼らの多くが、自分が他人より優れてることに凄くこだわっている事でした。彼らは、ひたすら自分がどれだけ裕福なのか、どれだけ事業に成功してるのか、どれだけ会社で高い位置についてるのかを見せびらかし、他の人たちの“リーダー”になりたがってました。彼らは、明らかに、高度発展の社会の悪の誘惑に負けたのです。人間性は生まれながら弱い、それに抵抗するために高い霊性を持たなければならないと私はその場でふっと思ったのでした。

アメリカで、私の以前からの親友にこの感想を持ち出して話したところ、クリスチャンであるその方からクリスチャンへの信仰を勧められました。今までの十年間、私は以前も何度も行ったり行かなかったりクリスチャンの礼拝に参加した事もありましたが、この時はじめてイエス・キリストを信じる決意をしました。『あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。』(詩篇119:105)

人間はみな弱みを持ってます。その弱みを克服するためには、肉体と心を知るだけでは足りません。信仰によって、より高い霊性を養わなければいけません。その霊性とともに、自分を愛し、そして他人も愛する。それは、まさに、イエス・キリスト自身の歩みではないでしょうか。。『愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで心理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。』(コリント人への第一の手紙13:4-7)

主イエス様。私はあなたを必要としています。あなたが私の罪のために身代わりとして十字架にかかって死んで下さったことを感謝します。私の罪を赦し、私を清めてくださったことを感謝します。私は今あなたを、私の救い主、人生の主としてお迎えいたします。私の人生を導き、私をあなたが望んでおられるようなものに変えてください。アーメン。

月報2016年3~4月号より

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ランディ・ホンゴー牧師による証

今回の証は、私たちの教会を東海岸の母教会と呼んで懇意にしてくださっているChristian Visionのランディ・ホンゴー先生が書いてくださいました。
(http://www.rghongo.com)

私は1947年7月1日、ハワイのビッグアイランドと言われるハワイ島のヒロという町で生まれました。私の父は日系人で、母はハワイ人と中国人のハーフでした。2歳下にルツという妹がいます。両親はランの栽培をしていました。私は子供の頃は農園で花を摘む手伝いをしていました。大きくなって車の運転ができるようになると、私はランを花屋に届けたり、世界中に出荷するために、空港まで配達したりしていました。私の両親は、ずっと、私が家の仕事を継ぐことを期待していました。

しかし、ハイスクールの時に、私はクリスチャンになり、人生が変わりました。私はユース・フォー・クライストというクリスチャンクラブに参加するようになり、そこで、クリスチャンの友達がどのように信仰を持つようになったのかという証しを聞いたのです。初めて聖書を読みました。クリスチャンの賛美歌を知りました。4ヶ月その集まりに通ううちに、私はイエスがどんなに私のことを愛してくださっているかを知りました。イエスを私の個人的な主、救い主として受け入れる準備ができたのです。そして、1963年12月22日、私はイエスを受け入れました。

それから、私は神様に、自分にどんな仕事をして欲しいと思っておられるか、見せてください、と祈るようになりました。私は10歳からピアノを始めていましたが、ピアノを弾くのが大好きでした。また文章を書くのも好きでした。ですから、私は神様に祈りました。「私は家を継いでランの農園をすべきでしょうか?それとも、英語の教師でしょうか?それとも、音楽の教師でしょうか?」

1965年にハイスクールを卒業すると、私はオアフ島に出てきました。ホノルルのハワイ大学に入学したのです。私は英語の先生になろうと英語を勉強することにしました。でも、私は音楽が大好きだったので、音楽のクラスも取りました。その音楽のクラスでキュートな女の子に会いました。彼女の名前はゲイ・シンサトといいました。彼女と私は最初は良い友達となり、やがて恋に落ちたのです。

ゲイはとても美しい歌声をしていました。そして、時々は私も一緒に歌を歌いました。それまでの私はシンガーというよりもピアニストでしたが、彼女と一緒に歌うことによって、シンガーとしても上達したようです。彼女は私に会う前の年にクリスチャンになっていました。彼女は私を教会に誘ってくれました。私は他の島からやってきたので、ホノルルの教会については何も知らなかったのです。ゲイのおかげで、私はカリヒ・ユニオン・チャーチに通い始めました。

英語で学位を取って、私は大学を卒業しました。卒業してすぐ、ゴスペルを歌うチームの一員として、アメリカ本土に招かれて、1年間、アメリカ中を回りました。そして、ハワイに帰って、1971年7月31日にゲイと結婚しました。

結婚する頃には、ゲイと私はチームとして、自分たちの教会や他の教会でも、一緒に歌うようになっていました。ゲイはハイスクールで音楽を教え、私は小学校の4年生を教え始めました。そんな時、神様は、私に音楽の仕事をするようにと語り始められたのです。3年ののち、1975年に私たちはケンタッキーのルイビルに引っ越しました。そこで神学校に通い、教会音楽の修士号を取るためです。このころの私の計画はハワイの教会で音楽主事として働くということでした。このルイビルで1978年の4月3日に息子のアンドリューが生まれました。ルイビルでは多くのバプテスト教会が私たちを招いてくださって、賛美の歌を歌うチャンスを与えてくれました。この期間は、ハワイの文化や音楽、そして、クリスチャンとしての証しを分かち合う働きを始めるための準備の時として、神様が私たちを訓練してくださる時だったのだと思います。

私たちは1980年にハワイに戻りました。そして、カリヒ・ユニオン・チャーチで音楽主事として働き始めました。同時に、いくつもの教会から「歌って欲しい」との依頼が入るようになりました。私たちは神様の導きを感じて、1982年に教会の音楽主事の職を辞し、独立して「Christian Vision」という団体を作って働きを始めることにしました。それから、Christian Visionを通して、ハワイや、アメリカ各地、そして全世界で、音楽を通して神様の良き知らせを伝える働きをさせていただいてきました。ゲイの故郷である日本では24回、そして、他にも、韓国、中国、ベトナム、カンボジア、マレーシア、ブラジル、ドイツ、オーストリア、スイス、イングランド、スコットランド、ウェールズ、カナダなど各地を回って、コンサートをさせていただきました。19枚のCDを出しました。1998年にはアメリカの大統領のお招きをいただいて、朝食祈祷会で賛美をさせていただきました。神様は神様のための私たちの音楽の働きを豊かに祝福してくださったのです。

2011年に、私は多発性骨髄腫という、血液のガンと診断されました。私たち家族は2011年12月からしばらく南カルフォルニアに滞在することになりました。それは、私がシティー・オブ・ホープがん研究センターで治療を受けるためにです。そこで5ヶ月間のキモ・セラピーを受けた後、2012年7月に幹細胞移植を受けました。2012年8月の末にはハワイに戻り、そして、2014年の11月に私のがんの担当医はガンが寛解していると診断を下しました。神様が癒してくださったのです。ハレルヤ!

しかし、ガンの治療を受けている間に、私の腎臓はダメージを受けて、人工透析を始めなければなりませんでした。また、2014年の6月には中程度の心筋梗塞を起こしました。その後、心臓は強められていますが、休息は必要ですし、スケジュールもあまり忙しくならないように気をつけています。コンサートは続けていますが、休息のために十分な時間を取らなければならなくなっています。

今、私は健康について多くの戦いを感じています。しかし、神様が私を強めてくださって、続けて神様を愛し、神様に仕えることができるようにしてくださっています。私は、日々、私のことを心にかけてくださり、私に目をとめてくださっている神様に感謝しています。私は、日々、イザヤ書41:10のみ言葉に立たせていただいています。

「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。」

私の人生の中で、健康な時も病の時も、神様はいつも私と一緒におられました。

神様は、高校生だった私にご自身を示してくださって、私はクリスチャンになりました。

神様は私のところに美しい日本人の女性を連れてきて、今日まで44年間連れ添う私の妻として与えてくださいました。

神様は私に、今はニューヨークに住んでいる素晴らしい息子アンディーを与えてくださいました。

神様は私の人生の仕事は神様のために音楽の働きをすることだと示してくださいました。

神様は私に世界に広がる音楽の働きを与えてくださいました。

神様は私にたくさんの歌を書かせ、たくさんのCDを録音させてくださいました。

そして、私の病の時には、私を支え、強くし、神様が私を愛してくださっていること、心にかけてくださっていることを示してくださいました。

神様が与えてくださった素晴らしい人生のゆえに、また神様がしてくださったすべてのことのゆえに、私は神様をほめたたえます。私は命の日の限り神様を賛美する歌を歌い続けます。

月報2016年1~2月号より

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「先日、娘が結婚しました。…」

先日、娘が結婚しました。

10 歳のころから、教会に、教会の皆さんに、いえ神様に育てていただいた一人娘です。本当に、神様に出会っていなかったらどうなっていたかと思うと、この不思議なご計画に、ただ、ただ感謝です。

「絶対泣くよ」、「大泣きだよ」、「大きなタオル持って出席しないと」、などという皆さんの暖かい?お言葉に送られて、日本での結婚式に臨みました。日頃から涙もろい私は、自分でもきっと涙が止まらないだろう、号泣しちゃうかもしれないな、でもこの日ばかりは許してもらおう、と覚悟していました。

式を明日に控えた前日、家族で夕食を共にしました。食事の前のお祈りで、娘を神様から与えられたことに感謝しようと口を開いた途端に、今までのすべてのシーンが、頭の中に次々に現れてきて、涙が噴き出し嗚咽で口がきけなくなっ
てしまいました。家族から(娘からも)笑いがこぼれる中、何とか感謝とアーメンを言うことができました。明日はどうなることか、、、でも、仕方ないよね、という感動の一夜を過ごしました。

さて、いよいよ当日。おとなしく花嫁の父を演じていては、ただのむさくるしい涙ジィさんになってしまうことは容易に想像がつきましたので、趣味を生かし、カメラマンをやることにしました。「花嫁の父がカメラマンするのぉ?」という周囲の声もありましたが、何かに集中していないと、やっぱり泣いちゃうような気がして・・・・それに、赤ん坊のころから何千枚も撮り続けた娘の写真を今日撮らないでどうする、という思いがありました。従って、準備には気合が入っていました。優しい奥様の許可を得て、ちょっといいカメラと高級レンズを購入。いつもは持たない予備の電池もアマゾンで購入。新しいカメラには修養会のカメラマンで慣れ、準備万端でした。何しろ私にしてみれば、今までの思いの集大成とも言える「時」なのですから。

式が始まり、目頭が熱くなって前がよく見えなくなること数回。やっと花嫁の父役から解放され、モーニング姿のカメラマン登場です。ファインダーの中で、娘の花嫁姿と赤ん坊の頃の娘の姿が重なり、夢中でシャッターを押し続けました。前半快調に撮ったおかげで、アマゾンの安い電池は早くもアラーム点灯。やっぱり予備があってよかったねと、電池を換えようと思った瞬間、背筋がゾォ?っとして、心臓バクバク。「予備電池失くした!!」なに?っ!!これからいい所なのに・・・新郎新婦入場は?ケーキカットは?家族の集合写真は?

「何のために、カメラ買ったんだ??っ!」

結局、しばらくして、失くした電池が見つかり、モーニングカメラマンは復帰したのですが、その間の写真は数枚しかないということになってしまいました。

そして、その日最後のクライマックスシーン。花束贈呈の後、私が両家を代表してご挨拶をすることになっていました。私の筋書きでは、この時点で、持参したタオルはグチャグチャで、泣きはらした目で感動的な挨拶をする予定でした。もちろん、そういう状況下でのスピーチの原稿は、誰にも言っていませんが、頭の中で何度も練習していました。ところが、、、、

この時まで、不思議なことに全然泣いていないんです。私の心の中の原稿は、自分でも良い話だと自負していたのですが、泣いてないと話せない内容でした。急遽、スピーチの内容変更。泣いてもいないのに、しどろもどろのご挨拶にな
ってしまいました。

実は、少し前から、娘の結婚が近づくにつれ、神様が絶えず私に語りかけているような、実際神様の声が聞こえるような、ふとそんな気持ちになることが幾度もありました。

娘が巣だって行くことはやはり寂しいことで、気がつくと涙がこぼれていることがあるのは事実です。しかし一方、とても喜ばしいことでもあります。何しろ、この人生という、決して楽しいばかりではない、長い道のりを共に歩く伴侶が与えられたのですから。けれども、親として、若い、幼いカップルを離れて見ていると、本当に危なっかしい。些細なことで喧嘩したり、メソメソしたり。親から見るとこうすればいい、ああすればいいと教えてあげたいことが山ほどあります。できることなら行って、忠告したり、なだめたり、何かしてあげたい。そういう思いが何度も心の中に湧いてきます。

でも、それは若い2 人が望むことでもないし、本当に本人たちのためになることなのかわからない。第一、地球の反対側に居ては、実際そんなことができるわけがない。結局、直接には何もできないんだなぁと、親の無力さに、また寂しくなっていました。そんな時、その思いの中に、神様が、「私がいる。私が2 人のそばに居て良くするのだから、何も心配しないで、ただ祈っていなさい。」そう語っていました。

そして、結婚式をも用いて、主は、

「自分の力ですべて良くしようと思っても、お前には何もできない。いくら万全の準備をしたつもりでも、娘の写真1 つ思うように撮れず、自分の感情すら思いと異なるのだから。ただ、私に依り、祈りなさい。」

そのように、語ってくださいました。私の、何でも自分が頑張れば良くなる、自分が何とかしなくては、という思いの限界をお示しになり、神様の愛に頼る生き方を教えて下さっているかのようでした。

まだまだ長い残りの人生を、喜びにあふれ、しっかりと歩むうえで常に見上げて行くものは何か。娘の新しい門出に、人生の道しるべを与えられたのは、この私でした。

私の心には、次の御言葉がこだまのように響きわたっていました。

「力を捨てよ、知れ/わたしは神。」(詩篇46: 11)

アーメン。感謝します。

月報2015年11~12月号より

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「私の生まれた地は、現在のロシア…」

私の生まれた地は、現在のロシアのサハリン(旧樺太、戦前は日本の領土)です。戦後、昭和23年11月に日本人として最後となった船で、親戚を頼りに大家族11人と共に引き揚げて、北海道紋別郡生田原町に落ち着きました。数年後、奇しい出来事が起こり、岩見沢市郊外に住み、小学から高校まで過ごしました。やがて、社会人として札幌に移り、数年後には結婚、長女出産、その後、室蘭市に仕事の関係で移り住みました。
ある日、近くで開拓伝道をしておられたスウェーデンミッション白鳥台キリスト教会のアナニア・トシエル宣教師が訪ねて来られ、一枚のトラクトを渡されました。以前、中学校で歴史の教科書で学んだキリスト教は、「自由、平等、博愛」の精神が根底に流れていると感じていて、宗教は嫌い、私には必要無いと常に思っていた私の心にその時何かが響いたような気がして、直ぐに祈祷会に出席し、礼拝へと導かれました。また、吸い込まれるように聖書をむさぼり、通読する日が続くようになりました。礼拝とは云っても、トシエル師と若い女性の伝道師と私の三人だけでしたが、私にとって恵みの時、救いの時だったと、後になり神様のご計画であったことを主から知らされました。間もなく、聖書の冒頭にある「初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。創世記1:1-2」という御言葉に圧倒され、神様に捕らえられてしまいました。
そのような中にあって、人目にはわからなかったようですが、主人との関係が悪い状態に陥っていました。こんな時こそ神様にすがるしか道が無いと追い込まれました。すると、数々の御言葉が与えられ、祈られ励まされて、神様の愛がどれ程に深く絶大であるかを示されました。そして、何よりも神様の御名を冒涜し、傲慢な私の心が罪であることを知らされました。
二千年前にこの私の罪のために、父なる神は愛する独り子イエス・キリストを人として地上に送り、イエスは私だけでは無く全人類の罪を担い、苦しみの十字架の上で打ち砕かれ、血を流して死んでくださり、その血潮のゆえに罪赦されたことを知りました。また、三日目によみがえり、弟子たちに現れ、神の国を語り教え、天に昇り、父なる神の右に座し、今も私たちのために執りなしてくださっている事を知りました。永遠の命が与えられる希望を固く信じ、イースターにその教会の初穂として洗礼を受けました。洗礼の日、礼拝の始まる前より、涙が止まらず二時間ほど続き、洗礼式に臨んだ事は忘れられません。聖霊が私の体、霊の中に圧倒的に臨んでくださった事を後で確信しました。ハレルヤ!!  私の人生はこれからすべてバラ色、元の幸せな家庭生活が送れるのだと神様に感謝を捧げておりました。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。使徒16:31」
しかし、主人は私たちの前から姿を消したのです。受洗二週間後、主人から丁重な手紙が届き、帰る事は出来ない、死を選ぶとの内容に驚き、地球が180度回転したような、頭の上では真っ黒な雲が渦巻いている幻を見てしまったのです。幸い、近くに教会がありましたので、1日に何度も祈りに行き、トシエル師には「ご主人は必ず生きていますよ」と励まされましたが、どこかの教会に飛び込んで、神に助けを求めてほしいと泣きながらの日々でした。
やがて、室蘭で住む事が困難になり、札幌に移り、OMF(国際福音宣教会)の教会に集い、祈りと励ましを受けました。興信所に足を運び、主人の行方を依頼する事になったのが、娘が5才の時でした。その時、何よりも力となり、私を支えたのは聖書の御言葉でした。
8ヶ月後、祈りが答えられ、その年のクリスマス・イブの日に仙台で再会し、数知れずの厳しい現実と向き合いつつ再出発しました。仙台で私が行き始めていた仙台国見教会のイースター礼拝に主人は約束通り出席し、礼拝のメッセージと聖霊の助けにより、イエス様を信じ救われました。礼拝後、赤裸々に罪を告白し悔い改めました。そして、ペンテコステの日に洗礼を受けました。
その主人が5年前にスキルス性の胃癌と宣告され、10日間の入院の間、お会いする方々に感謝の言葉を言い続け、イエス様が共に闘ってくれた事を語り、最後には神様の御手に捉まるようにしながら、身許に凱旋しました。葬儀には私の姉妹や甥たちも遠くから駆けつけてくれて、「キリスト教の葬儀はとても良いね。感じる事が多くあった」と言ってくれ、私も十字架の出来事を語る事が出来ました。錦織先生とは以前から再会の約束をしていましたが、ちょうど日本を訪問されていた先生が来られたのが前夜式の時となり、先生からも慰めの御言葉をいただき、神様の愛と憐れみを感じました。
翌年3月11日に東日本大震災が発生し、3分43秒の地震に自然界の恐ろしさを体験しました。私のしていた仕事の関係から、多くの被災者と向き合い、現場にも接し、その苦しみと悲しみを微力ながら共に分かち合いました。
その後、アメリカに住む娘たち家族と生活をするように導かれ、人生で一番長く時間を過ごした仙台を離れ、2012年11月にアメリカにやって来ました。翌年にNJ日本語キリスト教会のメンバーとして加えさせていただきましたことに感謝しています。はや3年を過ぎようとしています。
私が今思う事は、この世の厳しい時代に生かされた者として、この地上では残された時間は少ないかも知れないと感じています。しかし、私たちの国籍は天国にあり、そこには住む家を用意していてくださると約束されている希望のゆえに、患難さえも喜び、忍耐を持って祈り従う者となりますように。これ程までに愛して下さるお方を一人でも多くの人達が信じ、救われますように。そのために約束の御言葉を宣べ伝える事が出来ますように助けて下さいと祈る日々です。再びイエス様がこの地上に来られる事を固く信じます。主イエスよ、来て下さい!! アーメン

月報2015年9~10月号より

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「結婚前は自分のことを…」

結婚前は自分のことを愛情深い人間だと思っていました。
人生の価値はいくら貯金をしたかとか、高い地位に就いたとかではなく、どれだけ人を愛し愛されたかにあると公言するほどでした。

主人と私は2009年1月にNJで新婚生活をスタートさせました。ドラマのように甘く幸せな新婚生活を描いていましたが、実際は、初めての共同生活、初めて暮らす土地、言葉の壁、様々なストレスが一気に押し寄せ、口から出るのは不平不満ばかり。
主人は精一杯やってくれているのに、常に心を占めるのは「こんなに頑張っているのに、主人は分かってくれない」というつぶやきでした。
愛を持って穏やかに主人に接したいという思いとは裏腹に辛くあたってしまう毎日でした。

11歳で洗礼を受けたものの、神様から遠く離れた生活を十何年も続けていた私でしたが、その時は不思議と教会へ行こうと思い立ち、すがるような気持ちで毎週教会に通い、涙ながらに祈りました。
自分ではどうすることもできずにいた時、バイブルクラスでサマリヤの女の箇所が開かれました。
「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」ヨハネ4章13・14節

その時、自分の心がカラカラに干涸びた井戸のように思えました。
干涸びた井戸から、なんとか愛を絞り出そうとする自分の姿が見え、ハッとしました。

「神は愛なり」という御言葉は聖書をあまり知らない人でも聞いたことがあると思います。その箇所にはこう書いてあります。

「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」 第1ヨハネ4章8節

神様は愛情深いとか、愛に満ちているというのではなく、「愛そのもの」だと言うのです。
そして愛とは、
「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。」第1コリント13章4~8節
だと言うのです!

愛して結婚したはずの主人に労りの言葉をかけることも惜しみ、求められるものも与えず、欠点を暴き出しては責め立てる・・。聖書が言う愛とは真逆の自分の姿に、私の心には元々愛など存在しないとはっきりわかりました。
そして、愛の源泉である神様に繋がって愛を頂きながら生きたい!と強く思いました。

愛が神様のものだとわかってからは、自分の力で愛をひねりだそうと自分自身に寄り頼んでいた私の傲慢さが浮き彫りになりました。
それと同時に、そんな私に無償の愛を注ぎ、許し続けて下さる神様の哀れみを感じ、私も主人を無償の愛で愛し、許したいという思いが与えられ、もう一度イエス様に従って歩む決心をしました。

この「二度目の救い」とも言えるような信仰のリバイバルから6年が経ちました。
雷に打たれたように、神様を信じたその日から劇的な変化が!という救いもありますが、私の場合、ノロノロと牛歩のごとくここまできました。
疑い深くなかなか納得しない私の性格に合わせ、神様はゆっくり時間をかけ、一歩一歩階段をのぼる様にわからせて下さいました。

数年前までの私には「何かを成し遂げなければ!」という焦りがありました。
駐在生活で仕事はできないにしても、それに代わる特技のような物を見つけて、いずれは教室が開けるぐらいに極める。というのが、私の生きる目的であったように思います。
それを実現している人を見ては、自分と比べ、焦ったり嫉妬する日々でした。
今思えば、やりたいことが決まっているわけでもないのに、極めたいと思う深層心理には、自分の存在意義を証明したいだとか、誰かに認めてほしいという欲求があったのだと思います。
でも、二つの御言葉に出会い、このような強迫観念が消えてしまいました。というか、生きる目的がすっかり変わってしまいました。

「主を賛美するために民は作られた」 詩編102:19
「全世界に出て行きすべての造られたものに福音を述べ伝えなさい」 マルコ16:15

「神様を賛美する。」「福音を述べ伝える。」それが神様が私の人生に望んでおられる使命だとわかってからは、自分で自分に背負わせていた重圧から解き放たれ、空を飛べそうなくらい自由で楽しい気分でした。
ありのままの私を愛して下さる神様を前に、誰かと比べて落ち込む必要もなければ、躍起になって自分の存在意義を証明する必要もなく、「自分」の栄光を現すことよりも、ただただ自然体で神様に従って生きて「神様」の栄光を表す方が、何百倍も喜びがあるということを知ってしまいました。

死んだら天国に行けるという約束はもちろん素晴らしいですが、神様に従って生きる時、この地上で天国を一足先に味わえるというのはもう一つの素晴らしい約束であり、クリスチャンの特権です。
先に救いを聞いた者の責任として、福音を伝えること。特にかつての私と同じように苦しんでいる方々に、神様にあっての本物の自由と楽しさを伝えたいという願いが与えられ、それと同時に次々に新しい出会いが与えられています。
神様がどのような大きな御業を見せて下さるのだろうと期待し、わくわくしている今日この頃です。

月報2015年7~8月号より

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「私は両親共にクリスチャン…」

私は両親共にクリスチャンの家庭に生まれました。というと小さい頃から教会の子供として育って来たのだろうと思われるかもしれませんが、実は家族揃って教会に行くというクリスチャンホームではありませんでした。父はクリスチャンスクールの校長を長くしておりましたので、学校と教会はほとんど一体で学校では生徒さんたちにお話もすることも多く、家ではよく聖書を広げていました。母は日曜日も祖母や子供達のクラブ活動などのお世話で、ほとんど教会には行きませんでした。兄は野球少年で日曜は不在、私は小学生の時は父と教会に行くこともありましたが、中高生になるとクラブ活動でほとんど教会には行かなくなりました。
大学生の時に韓国研修旅行で現地の礼拝に参加する機会がありました。その時に韓国の学生さんに両親がクリスチャンだと話すと、なぜ教会に行かないの?是非行ってみてと言われました。
いままで誰かに教会に行ったらと勧められた事がなかったので、その時の言葉が強く心に残り、また教会に通うようになりました。それでも自分は小さい頃からお祈りもしてきたし神様が守ってくれているという勝手な自信があり、洗礼を受けようと思った事はありませんでした。
社会人になり将来結婚して新しく家庭を持つことを意識するようになったとき、私は、両親の信仰により今まで守られていただけで、自分で都合の良い神様を作り上げ、本当の神様と直接つながっていなかったことに初めて気がつきました。
『私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。』(ヨハネ15章5節)誰しも一人一人が自分の信仰で神様とつながっていなければならない。結婚を意識した相手がクリスチャンでなかったこともあり(今の夫ですが)、私は自分の中にしっかりとクリスチャンの柱を立てて生きて行きたいと願い横浜の蒔田教会で洗礼を受けました。
結婚と同時(1995年)に駐在で上海に行きました。当時の中国ではキリスト教の集まりを宣伝することができず、どこに行ったら日本人のクリスチャンの方に出会えるのかも全くわかりませんでした。しかし本当に神様の導きとしか思えないように、すぐに家庭集会に出会うことができ、その後小さな礼拝に参加することができるようになりました。そこでは香港の日本語教会から送られてくる説教テープを流しながら礼拝を持ちました。中心になってくださっていたのはある銀行の駐在員の方でしたが、のちに牧師となられました。
日本に帰国後は、子供達が教会の幼稚園に通うようになると教会学校に通い始め、子供達はたくさんの聖句を覚え、私も励まされました。
『いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、どんな事にも感謝しなさい。これこそ、キリストイエスにおいて、神様があなたに望んでおられることです。』(テサロニケの信徒への手紙一 16-18)日々の生活の中で、また困難やトラブルの中にある時、弱い私には実行するにはとても難しいのですが、私が常に忘れてはいけないと思っている神様からのメッセージのひとつです。

私たちの家族(実家)に変化があったのは、父が9年前に亡くなった時です。ガンと宣告されてから2ヶ月、本当に短い時間で父は天に召されました。父の葬儀での教会員の方々の励ましや勤めていた学校での追悼礼拝などによって、家庭では見えなかった父のクリスチャンとしての歩みを垣間見ることができました。また、家庭ではいつもおだやかで優しく、よく勉強しよく働き、時にユニークで、でも反抗できないような毅然とした態度の父でしたがそれは教会や学校でも同じでした。そして天国で父が神様に『よくやったね』と喜ばれて迎えられているであろうことを心から感じました。
それから母は教会に行くようになり、教会を中心に皆さんに支えられて今は一人暮らしをしています。そして兄は父の死から1年後家族で洗礼を受けました。私は子供達がお世話になり通っていた大森めぐみ教会に転会しました。天国で父はとてもびっくりしているのではないでしょうか。それとも父は祈りが叶えられ、こうなることをちゃんと知っていたのかもしれません。
今思えば、父と神様のことを話たり、もっと色々と教えて欲しかったと悔やまれます。でも父はただ、私たちが自らの意志で聖書を読み、教会に足をむけ、聖霊の呼びかけに気がつくことを待っていてくれたのだと思います。
そしてこの度、孫娘の佳帆が洗礼を受けたことを誰よりも天国で喜んでくれていることと思います。

このニュージャージー日本語教会に来て、本当にたくさんのことを学びました。
礼拝で先生が語ってくださること、グループや様々な学びを通して、そして教会の活動を通しての教会の意味、大切さに改めて気付かされました。
『教会はキリストの体、一人一人はその器官である。』(コリント信徒への手紙一 12章27節)
それぞれが神様からいただいた賜物を用いて教会に仕える。人と比べて得意なものなど何もないと思っていた私ですが、こちらの教会での賛美の歌の奉仕、子供達のキャンプのお手伝いを通して、私にも教会で役に立てることがあるのではないかと思えるようになりました。そして自分が与えられている賜物をつまらないものであると思うのは神様に対してもとても失礼なことであることを知りました。
7月に4年の滞在を終え帰国することが決まりました。
日本の教会は転会後間もなく渡米してしまい、牧師先生も変わってしまいました。
懐かしいけれど新しい教会にいくような、そして私自身も変えられた今では、どんな教会生活になるのか期待と不安があります。新しくクリスチャンとなった娘と、まだクリスチャンではない夫と息子と共に、神様に期待してキリストにしっかりつながり、私を導いてくださるほうに歩いて行きたいと思います。

月報2015年5~6月号より

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「私は小さい頃から教会…」

私は小さい頃から教会に行っていました。母がクリスチャンで、教会の幼稚園に通っていたからです。
このニュージャージー日本語キリスト教会に来たのは、小学四年生の時です。父の転勤で突然アメリカにやってきて、最初は英語もまったくわからず学校の宿題に追われる毎日で、母は教会を探す余裕もありませんでした。
そんなある日、母が聖書の会で、錦織先生と出会いました。そして、錦織先生が母と私を教会へ誘ってくださいました。それから2年が過ぎ、私は錦織先生の元で、洗礼を受ける決心をしました。
きっかけは去年の夏、「ひがきゃん」にいったことです。ひがきゃんとは、東海岸にある日本人教会に通っているユース(中高生)のキャンプです。私はここで神様と向き合う経験をして、たくさんの事を学びました。
一つは、栗栖先生が教えて下さった「神様がいるという証拠は神様によって、変えられた自分なんだ。」と言うことです。私は昔から教会に行ってはいても、神様は本当にいるのかどうかと信じられなかったり、疑ったりする事がありましたが、ひがきゃんに行って、自分が神様によって変えられたと感じました。
二つ目は、友達と大声で肩を組んで泣きながら、笑顔で心から神様を賛美するのがどんなに素晴らしいかを知りました。
そして、神様を信じると決めたのですが、なかなか洗礼を受ける気にはなりませんでした。なぜなら私はあと一、二年で日本に帰るので、洗礼は日本で受けようと思っていたからです。
でもある日、BIG(中高生の分級)で「なぜ教会に行っているのに洗礼を受けないのか」というワークシートをもらいました。その中に「先延ばしにしている人」という題があり、それはまるで私の姿だと思いました。先延ばしにしていると逃すものが多く、損をするだけだというところがすごく印象に残り、早く洗礼を受けたいと思い始めたその日の礼拝後、錦織先生が「クリスマス礼拝に受洗する?」と声を掛けて下さったのです。私はこれは絶対偶然ではなく、神様が受けなさいと私に告げているのだと思い、洗礼を受ける決心をしました。そして、昨年のクリスマス礼拝で洗礼を受けました。
私はもう先延ばしにする人ではなく、神様を受け入れ、これからたくさんのめぐみを受けることができます。この夏、日本に帰り新しい生活がスタートしますが、ここで出会った兄弟姉妹との交わり、たくさんの学び、「神にできないことは何一つない。」(ルカによる福音書1章37節)と言う御言葉などを忘れずに神様と共に歩んでいきたいです。

月報2015年5~6月号より

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「支援の中で感じたこと」

今月は元ニュージャージー日本語キリスト教会のメンバーで、今は日本におられる天野潤さんに、東日本大震災の後に支援活動をされた経験の中で、思わされたことを書いていただきました。

「支援の中で感じたこと」
         
NJ日本語キリスト教会の皆さま、本当にご無沙汰しています。

東日本大震災の時に、サマリタンズ・パース(2011.11~2013.8)の一員として復興について関わってきたので、今日、この記事を書くことになりました。

「なぜ神様はこれを許されたのだろう?」、「なにを見せたかったのだろう?」、「罰が下されたのだろうか?」などと自問します。しかし、まだ答えは見つかりません。この震災については、皆さまも思うところ多いと思うのですが、今日は支援をとおして、私なりに感じ、残しておきたい記憶をつぎの3点にまとめておきたいと思います。

1.終わりの日に備える
この震災では、「そのときは、ユダヤにいる人は山へ逃げなさい。屋上にいる者は家の中のものを持ち出そうと下に降りてはいけません。畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。だがその日、哀れなのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。ただ、あなたがたが逃げるのが冬や安息日にならないよう祈りなさい。」(マタイ24:16-20)というみ言葉が現実となってしまったということを感じました。生き残った人の話でも、家に戻った人がそのまま帰らなかったという証言を多く聞きました。もういちど災害について、あるいは終わりの日に向かって、こころを引き締めましょう。

この大災害をとおして、●自然の災害は人間の想定を超えることがある、●電気のない生活がどんなものか、●石油がない時どうしたか、●食べ物が不足するときの生活、また、●放射能の被害とはどんなものか…など、これまでの各種報道で何度も見てきたと思いますが、来るべき困難な時代がどんなものか、そのサワリを示してくれたように思います。現代は、Proxyの時代だと言われているとおり、電気も、石油も、食べ物も、誰かに(どこかに)依存して暮らしています。実に子供の教育から、親のお世話まで委託に頼りお金で買う時代ですから、委託先がこけると悲惨な目に会います。高層マンションでは、エレベーターの故障・停電だけでも、生活できなくなってしまうでしょう。

もちろん、苦難の日の前に、クリスチャンは携挙(天にあげられること)されるので、信じていればよいというクリスチャンも多いのですが...皆さんはどうでしょうか?この災害が来るべき艱難時代(多くの災いが起こると聖書に預言されている時代)の、神様からの警告だと思われる方はいますか?

2.クリスチャンは必要なとき一致する 
サマリタンズのキャンプでは、復旧・復興・支援とフォローアップについて、教会を超え、教派・役職にかかわらずみんなが協力していました。(起床)(朝食)(全員でディボーション)(現場でお祈り)(作業)(家主さんとの会話)(作業)(片づけ)(お祈り)(キャンプでシャワー)(食事+分かち合い)(就寝)というルーチンでしたが、アメリカ、カナダ、ドイツ、オーストラリア、韓国、ブラジルなど、国を超え、ことばの壁を超えて協力し働きました。この一体感はとても心地よく、充実していて、天国の様子を垣間見た心持でした。僕たちクリスチャンは、必要な時に一致できるというのは、大きな励ましです。

使徒の働き2:44-47には、「毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった」とあります。神様はこのことについても神の国の予告編を教えてくださったように思います。

3.愛は実践
ルカ福音書に記述されたサマリヤ人の例は実践です。旅路の途中、サマリヤ人は傷つき倒れた人に手を差し伸べ介抱しました。イエス様は、「あなたも行って同じようにしなさい」と語られました。ここにサマリタンズ・パースの原点があります。サマリタンズの働きで救われた人の証を聞くと、泥出しをする人・大工さんたちの働く姿、祈る姿を見て信じたという人が大変多く、実践は説得力であるというのが、僕の実感です。

フロリダの大工さんが言った言葉が耳に残っています、「Sweat & tears only change their hearts!」 汗を流してその人のために働くこと、また涙を流して祈ることが必要だというのです。同様に、子供は親の「やる」ことはまねるが、「言う」ことは聞かないと言われていますよね。

被災者に触れる時、イエスを信じてほしいけれど、自発的でなければ意味がない!その人のため働いていても、「どうせ ”string attach”だ」などと思われたくない!ほんとうの神さまに触れて欲しい!

「エルサレムの娘たち、私は、

かもしかや野の雌鹿をさして、誓っていただきます。

揺り動かしたり、かき立てたりしないでください。

愛が目ざめたいと思うときまでは。」 雅歌 2:7

人を愛するって、忍耐でしょ!? (祈り)日本の魂にほんとうの救いが訪れますように。

(終わりに)  東北の各地で、この4年間にいままで教会のなかったところに、新しい教会が建てられてきました。今でも石巻では、サマリタンズで働いた若い人たちが残って、ボランティア活動を行っています。2月―3月の作業内容は、海苔の収穫や牡蠣の種付け、仮設の訪問、各種フェローシップなどです。

息子(亮)は(めでたく結婚し)、公立の小中学校では宗教的な「賛美」を教える事は認められないのに「ゴスペル」は、OKというので(笑)、石巻の学校でのゴスペル・クワィアーを通じて子供たちに関わっています。ご存知かもしれませんが、仙台で2014年11月3日、ゴスペルフェスティバルに参加した時、延べ、1500人のミュージシャンが仙台の街9ヶ所でのライブで、朝から晩まで賛美していたのを見ました。1ヶ所で一日中賛美があるのは聞いても、一つの都市で同時に9ヶ所で賛美が歌われたというのは、驚くべきことで、♪御国の心地す♪の祝福でした。また、復興に関わった牧師たちの連絡網は今も生きています。

いまは、わたしは直接は復興の現場に関わっていないのですが、”Food”がキーワードだと聞いたので、農とコミュニティーに関することを始めたいと考えています。フランスのColibris(ハチドリ)運動(南米エクアドルの先住民族の言い伝えで、森火事に一滴ずつ水を運ぶハチドリのこと)にならって終わりの日、または、愛の実践のために、自分にできるひとしずくですね。

賛美主♪天野潤

月報2015年3~4月号より

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「私の証」

現在、私はスペインのジローナという地中海に面したところに住んでいます。アメリカのニュージャージーに2007年から5年半住んでいました間は、ニュージャージー日本語キリスト教会に参列させていただきました。
アメリカ勤務時代は、日本の大企業の北アメリカ拠点経営責任者をしていました。その私が、2013年4月にアメリカでの荷物をまとめ、全てを捨ててスペインに渡り、現在は、こちらのバプテスト教会の教会員です。そしてJTJ(Jesus To Japan)宣教神学校の2年生です。

一体何が私にこの変化をもたらしたのか、私の決断に至るまでの経緯、今の私の人生の目標は何かについて少しお話しさせていただきます。
アメリカでは、コンシューマ部門の経営責任者でした。日本との時差が13時間ありましたので、いつも2台のパソコン、そしてスマホ、タブレットも使い、いつでも、どこでも24時間、365日、日本の事業場、本社、そして北米のお客様とコンタクト出来るようにしていました。

ご存知のように、アメリカ、カナダは広大な面積の国ですので、アメリカにいる時は国中を飛び回り、そして日本へは5年半で50回ほどニューヨークと大阪の間を飛びました。毎朝、目を覚まして最初に考えるのは「今どこで寝ているのだろう?ホテル?飛行機の中?それとも家?」でした。

このように私の生活は、超多忙で、かつ一見すると華やかに見えましたが、華やかな外見とは別に実際心の中はかなりかけ離れてすさんでいました。数ヶ月先までスケジュールが埋まっており、毎日毎日それをこなすので精一杯で、抜け出すことができない螺旋階段を登っているようでした。

そしていつも頭の中では、同じ疑問がどこに行っても、誰と会っていてもつきまとってきました。

「神様から与えられた人生で一体私は何をしているのだろうか?」「私は誰に仕えているのだろうか?」「いつまでこのような生活を続けるのだろうか?」そして「私の人生の意味は何なのか、この世での人生の後には何が来るのか?」そして大きな目に見えない「空しさ」に何もできない自分に気づくのです。

私たちはこのような状態になることがわかっていても、人生の中で立ち止まって自分の価値が誰に対してあるのかを考えることもしません。人生の意味を考えることなどをタブー視するからです。ですからどうして良いかわからない時、空しさを覚えるのだと思います。私たちは、自分では一人で生きている、自分の考えで生きていると思いがちですが本当は自分の人生の意味を考えることを避け、みんなと同じように生きようとします。何故なら、信仰のない人にはこれらの質問には答えがなく、真っ暗な空しさは結果として不幸せを呼ぶような気がするからです。しかし、年と共に必ず、私が持ったような質問はその姿を現します。そしてその空しさはドンドン大きくなるのです。

私が学んでいる神学校の先生はいつも、「その空しさは神様だけが豊かに満たしてくれます」と言われます。

これを読まれている皆様の中にもこの「空しさ」を感じ、同じような質問、体験を持たれた方がおられると思います。もしそうであれば、それはとても良い体験をされていると思います。何故なら、皆さんも気づかないうちに神様を求めておられるからです。私は、心からお勧め致します。一回立ち止まって、「神様から与えられた人生で一体私は何をしているのだろうか?」「私は誰に仕えているのだろうか?」「いつまでこのような生活を続けるのだろうか?」「私の人生の意味は何なのか、この世での人生の後には何が来るのか?」を考えて見ることをお勧め致します。

さて、私の体験に戻ります。

忙しい生活を続けている内に、私は健康の問題がおき、生検の結果、手術を受けるべく入院することになりました。先生によると手術はとても簡単で、一日入院でよいとのことでした。ところが、実際は、全く予想と違いました。血圧が急激に下がり、めまいがしてついには気を失ってしまいました。また、体が急速に冷たくなるのが分かりました。頭の中では「もしかしたら」と思いました。特別看護室に妻と一緒に入れられました。看護師がひっきりなしに部屋に来て血圧を測っていました。ところが、周りの緊張した雰囲気とは別に私は落ち着いていました。「久しぶりにこんなに寝たなあ。これも悪くないなあ。」などとトンチンカンなことを思っていました。しかし、だんだん頭の中で、「これから私はどうなるのだろう?」と考えていました。

その時です。身動きできない私に何か声がしたような気がしました。「もういい加減にしないか、いつまで自分の力で生きていると思っているのか?なぜ私を無視するのか?」という内容でした。意識朦朧の中でこれは夢かしら、それとも・・・・と考えました。と同時に、ヨハネによる福音書21章1ー15節に出てくるペテロの話の光景が浮かんできました。

ペテロは、キリストのために一旦は、網を捨てた人でした。彼は献身していました。そして彼は多くの弟子が離れ去っても、従い通してきました。ところが、キリストが十字架にかかるために囚われたと分かると、彼はキリストを捨てたわけです。そして、キリストの処刑前に「キリストを知らない」と3度も否定するのです。そして元の生活に戻っていたのです。彼はイエス様に対する言葉を裏切ったのです。それでも、イエス様はペテロを受け入れ、赦されたのです。そして信頼されたのです。そして、彼に福音宣教を委ねようとされたのです。「火を起こして、朝食を取りなさい」と言われた時に、ペテロは、神様の絶対的な愛、裏切り者をも愛する愛が分かったのです。

私は、会社生活の中で、洗礼を受けていながら、何回も、何回も「キリストを知らない」と言ってきました。本当に後悔し、悔い改めるべきことです。「もうそろそろ私の声を聞きなさい」と言われた時に、私も本当にイエス様の愛が分かりました。

私たちの生活では様々なことがおきます。たとえこれまで何の問題もなく生きてきた人でも、誘惑、交通事故、突然の病気、家族の不幸、失業、麻薬、依存症などがいつ起きてもおかしくないと思います。そして最後に登場するのが「死」です。
ところが、この世の中で、唯一死に打ち勝ったお方がおられます。主イエス・キリストです。そしてその方を自分の救い主として受け入れた時にこの世での死はキリストと共に天国いる永遠の命を与えてくださると聖書は言っています。

さて、退院してからも私はずっとあの時の「声」のことを考えていました。「あれは、夢だったのかしら?」「意識朦朧の中だったので明確にはわからないなあ」と思っていました。退院後、1ヶ月が過ぎ、日本の本社から電話がありました。それは、私に現在の仕事を全て退き、顧問になってほしいという内容でした。この時、私ははっきりとあの病室での「声」の主がわかったのです。主がベッドで動きの取れない、最悪の状況の私に現れたのです。私のそれまでの過去は全く意味をなさず、主が私に新しい人生のチャンスを与えてくださったのです。

神様により近づき、たとえこれから大きな試練が来ても主は私を満たしてくださる、ここに私の人生の意味があると確信しました。私は主の召命を受け入れ、献身の決意をしました。早速、私の思うところを家内、息子、そして母親に説明しました。驚いたことに彼らは、安心したように私の思いを支持してくれました。

入院から2ヶ月後には神学生になるべく申請書を提出しました。どうしても主のことをもっと学び、真理を学びたいと思ったのです。そして主を近くに感じながら、主のために働きたいと思いました。

ほぼ同タイミングで、アメリカからスペイン(私の家内の国)に荷物を送り、入院して2カ月半後にはスペインでの生活が始まりました。今は、Rosesというところにある教会に参列し、教会のために奉仕しています。また、毎日、神学校の勉強も楽しみながら励んでいます。現在の私はとても充実しています。主がいつも一緒におられることを実感しながら信仰生活を送っています。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

ヨハネ3章16節

月報2015年1~2月号より

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「東海岸日本語教会合同ファミリーキャンプ」

キャンプから早1ヶ月が過ぎ、もう秋が駆け足で忍び寄る今日この頃です。今回は8月30日から9月1日の3日間、いつもの広大なNew York upstateにある美しい山間のホテルにて行なわれました。「まことの豊かさを求めて」というタイトルで、著名な川崎の招待キリスト教会主任牧師の趙南洙牧師から4度のメッセージをいただき、賛美は透明感と力強い声の持ち主、向日かおりさんをお招きしての至福の時間でした。
全体集会の始めの賛美は、今年は各教会の担当、大勢が主にあって心をひとつにして、賛美するのはキャンプならではの恵みです。中では2日目夜のNew York の日米合同教会によるゴスペルは聞かせる賛美で、さすがでした。
集会の合間々々には、あちこちでなつかしい他教会の仲間との再会、無事を喜び合う嬉しい会話と笑顔が飛び交いました。こんな恵みって、合同ファミリーキャンプ以外にありましょうか。
ここで私は充実したプログラムの中から、特に趙先生の説教を主に書きたいと願っています。

1.サムエル上1:17~18

初日の説教で内容に入る前に趙牧師は20代始めに韓国で苦労のうちに奥様と牧会を始められたこと、自宅のアパートで礼拝を始めたもののだれも来ず、3ヶ月たって主に“もう止めます”と泣いて訴えたら、お婆さんがひとり見えたこと。その後序々に受けた数々の大きな恵みのこと、そしてこの日の説教の締めくくりに30代で日本に宣教に行くようにとの神から召命を受け来日、今日があると締めくくられた。
祭司達によって預言書が書かれたずっと以前に、エフラムという所に住んでいたエルカナの妻、ハンナは子がないことで2番目の妻に苛められつらい日々を過ごしていたが、そのことで必死に主に男の子を授けて下さるように、授かったらその子の髪に決してカミソリを当てません、そして一生その子を主に捧げます、と祈った。傍らでハンナのこの必死の祈りを聞いていた祭司エリは、「イスラエルの神があなたの願いを聞き入れられますように。 安心して行きなさい。」と声をかけた。 その後ハンナはみるみる元気になり、やがてサムエルを授かり、彼が乳離れするのを待って、「主は私の願いを聞いて下さったので、私もこの子を神に捧げます。」と夫と共に宮に行き、主を礼拝した。
このたった2節の聖書箇所に、それまでの苦しいハンナの物語がこめられていて、サムエル記の見事なスタートになっている。 ハンナほど必死になって主に祈ることが出来るだろうか。これまでなにかを主に祈って大きな恵みをいただいた人々は,どれ程必死の祈りを捧げたのだろうか。 主に頼み祈る大切さをまざまざと見せ付けられる箇所である。

2. サムエル上 2:25~35

祭司エリが、主に罪を犯す息子たちに“何故か”と問いただすが、一向に直らない息子たち。それは確かに私達の姿。(こういう私達の為にイエスは自らを犠牲になさった。)神は我々に何度も礼拝のメッセージや、聖霊を通して必要なことを気付かせて下さろうとしている。 その神の時を見過ごしてはならない。
不良の息子達の故に決してよくはないエリの環境の中でも、サムエルは立派に神にも人にも愛される若者に成長した。 必ずしも人は環境によって左右されない。 罪のある者は今ここで神に悔い改めることが必要だ、と趙牧師は述べられる。

3.サムエル上 3:1~10

目の前に情景がはっきり浮かんでくるような、私も大好きな個所である。 わらべサムエルが神の契約の箱のある主の神殿で休んでいた時、「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれ、サムエルはエリが呼んだと思って行くと呼んでない、と言う。 それが3度繰り返された時、エリはそれが神と悟り、サムエルに「今度呼ばれたら、ハイ、ここにおります、とお答えするように」と諭す。 主がサムエルに語られたことは11節以下に書かれているのだが、主のみ声を聞く、聞こえる、ということは最高の祝福である。 その後もサムエルは、神さまに見守られてすくすく成長し、やがてイスラエルの全ての人々にサムエルが主の預言者と定められたことを知らしめた。
人は上からの大きな神の助けによって恵みを受け、霊的に成長できる。大きな大きな神と小さな少年との出会い、それがイスラエルの歴史をここに変えようとしている。私達は日々全身全霊で主に祈り、聞き仕えていくことを、ここから気付かされる。

4. サムエル上 16:13~14

修養会最後の説教は、これまでから下がって16章から。 13節は、主の命によってサウルの次の指導者を求めに出たサムエルが、ベツレヘムで羊飼いをしていたダビデを探し当てた所。14節は主の霊が離れたサウルに悪霊がとりつき、苦しむサウルにダビデが得意の竪琴を聞かせて、悪霊を追い払うシーンに続く。聖霊に満ちていたサウル王が何故変わってしまったのか。それは彼自身が神に十分聞かなくなってしまった。そして祭司の役までやるようになってしまった事が原因。 一方ダビデ王も周知のように、たくさんの悪いことをしては後悔し悩み多い人生を送ったが、そんな時でも今我々が多くの詩篇にみるように、主の前に即必死で詫び、狂おしくも神に救いを求めている。
主から語られる人になるには、このダビデのように失敗したら、言い訳をせずにすぐに神に悔い改めること、そして“私からどうぞ、離れないでください”とお願いすること。 聖霊に満たされて日々生活すること、それがまことの豊かさだ、と趙牧師は纏められた。
さて新旧2巻の聖書は、全て聖霊によって書かれたものです。 だからこの膨大な神の物語は、全てが真実であり、一貫してイエス・キリストの誕生の予言と言われています。旧約は神々や英雄たちの物語、あるいは預言者達の話が主なので、どうしても筋だけを追って楽しんで終わってしまうことが多いのですが、本当の中味を理解するには聖書全般からの引用と、解き明かし、リードがどうしても必要です。
旧約からのメッセージが少ないとの意見がある中で、今回趙先生からじっくりサムエル記からの解き明かしをお聞きできて、参加者は最高の恵みをいただいて、各々帰宅できたことと確信しています。 特に趙先生のユーモアを交えたにこやかな語り口は、私達の気を削がずに引き止めておくのにも最高でした。
5,6年前までの私は、旧約をそれこそ物語として読んでいたものですが、最近は旧約の凄さを実感し、自分だけでは読めないもどかしさを感じています。そしてこれに気付いたのをわずかでも成長したと言えるならば、この私達の教会で長年に渡って、熱心に聖書の通読、勉強を指導してくださっている錦織牧師のお蔭と言わざるを得ません。 その土台が私にあって、今回の趙牧師のメッセージからより多くの恵みを受けられたのだと思います。聖霊に満たされて生活することは、常に祈り求めることから始まると思いますが、教会にいる時以外は常にこの世的な目まぐるしい状況の中にいて、時には周りとの調和に気を遣いつつ、過ごしているのが私達です。日々時間を取り分けて、静かなときを必ず持つことの必要性をしみじみ思います。 神様の御用をなさる聖霊さまの力なしには、なにもできないことを私も知っていますから。
今回この大きな群れを導くために、企画・準備からこれら修養会のすべてを導いてくださった主と牧師先生方に、心から感謝いたします。 ありがとうございました。
「神よ、私のために清い心を作り、わたしのうちに新しい正しい霊を与えてください。」
詩篇 51:10
「主よ、私のくちびるを開い「神よ、私のために清い心を作り、わたしのうちに新しい正しい霊を与えてください。」
詩篇 51:15
キリストに近ずき、探り求めた者達は皆等しく、豊かさと完全さと究極の満足とを間違いなくキリストの内に見出したのである。
(Dr. D. M. ロイドジョンズ、1947年)

月報2014年11~12月号より

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「御言葉を行なう人になりなさい」

夏の大イベントであるJOY JOY Campが終わった直後にこの原稿を書いています。本当に多くの方々の祈りとご協力によって、51名の子供たちを受け入れて、神様の話をしてきました。楽しい一週間でした。元気な子供たちの笑顔に励まされた一週間でした。
その一方で、「ちゃんと私たちの伝えたいメッセージは伝わっただろうか?」という思いも持っています。今年のテーマは「ジョイジョイキングダム~地球は神様のテーマパーク」でした。神様は熱い情熱をもってこの世界を作り、私たち人間とともに歩もうとしておられて、一人一人は神様にとって大切な存在であり、また、神様に背を向けてしまった人間と、もう一度共に歩むために、一人子イエスを与え、その十字架の死によって、私たちはあがなわれたのだ、というメッセージを伝えたかったのです。
言葉としてはそれを伝えました。劇をやったり、お話をしたり、子供たちにわかるように一生懸命に伝えました。多くの方々が時間をささげ、労力をささげて、このことをしてくださいました。子供たちも一生懸命聴いてくれました。そして、中には、その内容について応答をしてくれた子供たちもいました。しかし、その一方で、私たちは、いや、もっと言うならば、私自身は、本当にそのように生きているだろうかと、問われているように思わされたのです。
中には傷を負って歩んでいる子供たちもいるかもしれません。「一人一人は神様にとって大切」と言われても、それが本当にわからない、という環境の中にいる子たちもいるかもしれません。言葉で伝えるだけでは、伝わらないし、もしも言っていることとやっていることがチグハグだったら、子供たちは本当に混乱するだろう、聖書のメッセージを伝える私たちが、その姿、態度、行動でそれを表していかないといけない、と思います。
「そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。」ヤコブの手紙1 章22節
このことは、決して、単に子供たち対する姿勢だけではありません。教会のあり方、また自分の人間としての生き方に関わる問題です。本当に聴くだけ、語るだけではなく、そのように生きるものとならせていただきたいと思います。

月報2014年9~10月号より

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「石賀睦美先生の思い出」

ニュージャージー日本語キリスト教会に導かれて、4年目に、正木先生の後任として来てくださった石賀先生ご夫妻にお会いした時、とても親しみを覚えました。というのも、私達夫婦と年齢も同じ、特に、お二人が兵庫県の能勢から来られたことに、私の子供時代を思い出したからでした。私の父は兵庫県能勢村出身で、姓も、結婚前は能勢だったこと、子供のころ、ちかくの猪名川で遊んだ思い出などがあったからです。
石賀先生ご夫妻はNJの教会では2年間の御奉仕でしたが、御言葉の学び、祈り会など、本当に充実した楽しい2年間でした。礼拝前の睦美先生からの信仰の基礎の学びでは、信仰を持ってまだ短かった私には、本当に必要な学びでした。礼拝後、牧師館にお邪魔しては、食事まで頂いて、さぞ睦美先生も忙しかったと思います。
2年間はあっという間に過ぎて、私達ももっといて頂きたい、との願いもありましたが、帰国されることになりました。私達も日本に帰国の都度、先生が新しく始められた教会での礼拝に参加し、ご一緒に温泉に連れて行って頂いたり、先に帰国された信仰の友たちとの再会も楽しみの一つでした。
2012年の夏に、突然の睦美先生の入院、それも肺がんの末期だと聞き、本当に驚きました。教会の祈祷会でも皆さんにお願いして、祈って頂きました。そして素晴らしい癒しの奇跡を見せて頂き、どんなにうれしかったことでしょう。主の御業をあがめて、ただ感謝でした。癒されて、輝いて、ただただ主の御業を御証して日本の各地、またアメリカにも来られて元気に飛び回っておられるお姿に、これからも長く、生涯、主のために用いられる、と信じていました。
昨年の11月に4年ぶりに日本に帰り、どうしても先生ご夫妻にお会いしたく、ご自宅での礼拝に参加しました。睦美先生がお元気にメッセージされているのに、本当に主の御業を崇めて感謝しました。お元気で、輝いて、若返られたように見えました。そして、それから何ヶ月もたたないのに、再び入院、そして間もなく召された、との知らせにはただ信じ難く、何故?あの癒しは何だったの?と呆然としてしまいました。でも私達は知っています。主がなさることは最善だということを。睦美先生は命をのばされた1年余りを全力で、主の素晴らしさを伝える為に走りぬかれて、主から、「よくやった、忠実な僕よ。」と、栄光の冠を受けて、イエス様にお会いした喜びいっぱいの笑顔が目の前に浮かびます。イエス様が本当に大好きで、イエス様に喜ばれることだけを考えておられた睦美先生は、御言葉を身をもって実践された、と本当に感慨深く思わされます。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって、神があなたがたにのぞんでおられることです。」(I テサロニケ5:16~18) この御言葉をそのまま実践された睦美先生の信仰と、生き様を見せて頂きました。主に心から感謝します。病の苦しみの中でも、ただ主に信頼し、感謝と喜びで一杯だった睦美先生の言葉は、召される時も「感謝、ハレルヤ」だった、と伺いました。
私達には天国での再会の希望があります。一足先に御国に行かれた睦美先生、多くの人達に励ましを与え、また、主に信頼し切る信仰を見せてくださったことを心から感謝します。
(4月25日に主の下に召されました石賀睦美先生の思い出を、元当教会のメンバーで、今はホノルルキリスト教会で信仰を守られておられます加藤慶子姉に書いて頂きました。)

月報2014年7~8月号より

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「Joy2 Camp」

「この迷路かんたんだよ!」 巨大迷路の出口から出てきた5歳のぼくは、息を弾ませながら得意そうに叫んでいたのをよく覚えている。2005年の夏、(ぼくは初めてニュージャージー日本語キリスト教会の夏のキャンプに参加した。その年のキャンプのテーマは「カラダだからだ」、人間の体についてだった。キャンプスタッフたちの寸劇やお話から、人間の体がいかに不思議かを学んだ。初参加のぼくには何もかも新しく、教会ジムに所狭しと張り巡らせられた段ボールの巨大迷路はものすごくインパクトがあった。行っても行っても出口が見えない巨大迷路。怖さをこらえながら何とか闇の中を突き進み、出口に近づいて明かりが見えてきた時は達成感でいっぱいになった。一度完走できるとあとはすっかり自信満々、その後ぼくは何回も何回も迷路を制覇した。もう一つ気に入ったのはテーマソングとダンスだ。早いテンポの曲と早い振付についていこうと必死になって踊りまくった。ぼくは、日本語で自分と年の近い子たちとともに神様のことを学べる、今までにないこのキャンプがすっかり好きになって、その年から毎年、ジョイジョイキャンプが待ち遠しい夏の一大イベントとなった。
ぼくは幼いころから教会っ子だった。母親が熱心なクリスチャンであるため、毎週日曜日、生まれた時から教会に行っていた。ぼくの通っていた教会はウェストチェスターの英語の教会だったので、当時日本語しか分からなかったぼくは、何のことを話しているのか、どんなお話なのかさえも分からないまま、ただ教会にいた。礼拝後のコーヒーアワーのおいしいクッキーが唯一の楽しみだったかもしれない。3歳になる3日前、ぼくは家族とともにニュージャージーの今住んでる町に引っ越して来た。教会も同じ町の教会に変わった。この地元の教会もまた英語の教会だったのでよく話が分からずにいたが、物心もついてきて、母親が家でいろいろ日本語で神様、イエス様、教会のことを話してくれるようになった。また小学一年生になって現地校にも行き始め、英語がだんだん分かるようになってくるにつれ、英語でも神様のことについて徐々に理解することができるようになってきた。ちょうど同じ頃、ぼくは日本語教会の存在を知った。キッズクラブやシンガーズ、ジョイジョイイースターやジョイジョイクリスマスなど日本語教会に行く機会も増えた。生まれた時から日本語環境で育ったぼくは、やはり日本語の方が得意で、楽で、楽しい。すぐさま日本語で神様のお話を聞ける日本語教会が気に入った。
ぼくが小学一年生の時のジョイジョイキャンプのテーマは「ジャングルぐるぐる探検隊」、ジャングルに隠された秘宝を探しに行くというお話だった。壁の様々なカラフルな飾りが印象的だった。教会ジムにジャングルのように青々とした木が茂り、動物の姿や手作りの洞窟もあって、まさに本物のジャングルのようだった。その年は特に工作が楽しかった。自分でブーメランを作ったり、作ったものでほかのキャンパー達と競争したりして盛り上がった。来年も絶対来る!そう思っていたが、残念ながら、その翌年と翌々年は、一時帰国などがあり参加できなかった。
その頃のぼくは、表面的にはいい子でも、本当の自分はそうではないことに気づいていて苦しんでいた。それに、いくら「ごめんなさい」と謝って心を入れ替えても、すぐに同じ間違いを繰り返してしまい全然いい子になれない自分に対して、ものすごく落ち込むことがあり、小学1年生にして死んでしまいたい、消えてしまいたいと思ってしまうこともあった。そんな中、ジョイジョイキャンプで教えてもらった「神様がぼくのそのままの存在を『高価で尊い』と思って下さっている」ことがぼくの心を支えてくれていた。英語が分かるようになっていたぼくは、英語の教会の教会学校やVBS(Vacation Bible School)を通して、また3つの日本語教会合同の2泊3日のキャンプジーザスを通して、日本で牧師をしていた祖父のバイブルクラスを通して、神様の愛とイエス様による救いを教えてもらい、ぼくが死ななければいけない代わりにイエス様が十字架で死んでくださったことを知り、イエス様をぼくの救い主として心にお迎えして2008年8月10日に洗礼を受けてクリスチャンになった。
2回目のジョイジョイキャンプ参加から3年後、2009年のキャンプにぼくは久しぶりに参加した。その年のテーマはHard Rock Caf_ならぬ「Heart Rock Caf_」だった。 テーマソングが格好良く、すごく気に入った。その年のもそれまでのも、ジョイジョイキャンプのテーマソングは全て教会オリジナルであるという事実にも初めて気づき、改めて感動した。その年は初めてキャンパーもスタッフも全員男の高学年グループに入ったので、お互いにちょっとじゃれてふざけあったり、ランチの時には誰が一番早く多く食べれるかを競争して急いでお替わりをしに行ったりもした。毎日の男クッキングは、実に楽しかった。また、ランチの後は、高学年キャンパー限定の外グラウンドでのサッカーにも行けるようになって、友達やスタッフと一緒に汗を流し、久しぶりのキャンプは前回、前々回とはまた一味違うとても楽しいキャンプとなった。
翌年はマタイ7章7節 (“Ask and it will be given to you; seek and you will find; knock and the door will be opened to you.” Mathew 7:7) にちなんで「A.S.K.」という題で探偵のテーマで、2011年小6のぼくにとって最後のキャンプは「Joy2 Factory」だった。その頃のぼくは、高学年になり反抗期が始まっていた。口うるさい親のことも嫌ではあったが、ぼくはついつい反抗的な態度をとってしまう自分のことに嫌気がさしていた。学校での勉強も量が増え難しくなり、楽器の練習やスポーツ、日本語学習の時間のやりくりが大変でイライラすることも多くなった。それぞれに関して自分の理想や目標を掲げていたが、遊びやテレビや漫画の誘惑に負けてしまう精神的な弱さと、やりたいことがいっぱいありすぎて疲れてしまう肉体的な弱さにいつも負けてしまい、目標には程遠い自分が悲しかった。そんなふうに360日闘いの日々が続き、夏になって5日間のジョイジョイキャンプに戻ってくると、このままの自分でいいんだ、このままのぼくを神様は愛してくださっているんだという安心や平安が与えられた。落ち込んでうつむいていた自分が、神様の愛に包まれてまた顔を上げて前に進むことができる、どん底から引き戻される強い神様の愛の力、愛の支配を感じる充電の時、ジョイジョイキャンプはいつしかぼくにとってそのような、ただ楽しい時を過ごす以上の存在になっていた。
「神様はいつも、どこでも、いつまでも、そばにいてくださる」「神様がいるから大丈夫だ!」「求め続けることが大事」これがぼくがジョイジョイキャンプで学んだ、ほかのキャンパーたちにも知ってほしいことだ。キャンパーを卒業しスタッフになったが、ぼくはこれからもすべてを満たして下さる神様に心の必要を求め続け、ほかのキャンパーや愛が必要なすべての人に、ぼくがキャンプのスタッフに教えてもらったように、この神様の最強の「愛」のことを知ってもらいたいと思う。

月報2014年7~8月号より

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「『中風の癒し』と救いの恵み覚え続けるために」

マルコによる福音書2章1~12節には、4人の友によって、イエス様のもとに運ばれてきた中風の者が、癒され、起きあがる記事があります。ここでイエス様は、まず「子よあなたの罪はゆるされた」と、「罪の赦しの宣言」をされました。「病よなおれ」より先に赦しでした。私は、高校生のときに、友人関係で悩み、人を心から愛せないでいる、自分の心の醜さや罪に苦しんでいました。でも、教会でこのメッセージを聞いたとき、『ここに罪を赦してくださるお方がいらっしゃる』と知ったのです。自分の力で動くこともできず、長い間の孤独と悲しみに闘う日々の中風の姿は、まるで私の心の状態と重なるようでした。イエス様の罪の赦しは、言葉だけではない、やがて十字架を背負い、罪の身代わりとなって、ご自身の命を与えるということでした。私は、イエス様の十字架が私の罪の身代わりと知り、そしてこの赦しの宣言を信じ、救いの恵みにあずかりました。こんな私を十字架にかかるほど愛してくださるお方、神様の愛に目が開かれ、解放され、大きな喜びと感謝の賛美があふれ、生きる力が湧いてきました。それは脱線した電車が、本来走るべきレールに戻され、真に自由に走れるようになったような経験でした。
またこの記事で、イエス様が癒されたのは、4人の友の「彼らの信仰を見て」と記されています。彼らが立派だからというのではなく、ただ、イエス様なら立ち上がらせてくださるという信頼でした。またその熱意は常識を超えるような愛の行動、4人が一つ思いになってもがく魂に仕える姿でした。しかし、私たち人間の愛の力は、ほんのわずかであることを、認めざろうえません。3年前、奥田先生という、ホームレスのケアーをされておられる牧師を囲んで、語り合った日のことが、私の心に残っています。「先生、でも裏切られることもありますよね。」と語りだす人がいました。愛する行為の中で疲れた姿のようでした。先生は「うん、でも・・・僕もたくさん裏切ってきたからな・・・」と語るのでした。私はその対話の中から、ペテロのことを思わされました。
ペテロが「どこまでもイエス様について行きます。」と告白しながら、イエス様が十字架にかかられる直前に3度も「イエスを知らない」と否んだ出来事、それは人間の弱さそのものです。そんなペテロが立ち直ったのは、限りなく赦してくださる、イエス様の十字架の愛の力でした。著者マルコはこのペテロと親しく、メッセージの通訳もされていたようです。ペテロの失敗談も聞いていたことでしょう。その中から「イエス様の完全な赦しと愛の力」を知り、信頼すべきお方がイエス様であることを正に伝えたかったのでしょう。「彼らの信仰を見て」と記しています。
昨年のこと、働き者で、どこへでも自転車で出かけるほど元気だった私の母は、3月に心臓病と呼吸不全で倒れ、緊急入院しました。幸いにも神様に守られ、やがて酸素も点滴も取れ、リハビリをし、1ヶ月後には退院、自宅療養となりました。姉夫婦が毎日のように母を見舞い、食べられそうな食事を作り、共に祈って、本当に良く支えてくれました。
私が5月の末に母の看病のために一時帰国した時、食事と排泄以外布団に伏す母は、今までとは全く違い、小さく、弱く見えました。姉と一緒に、時には教会に行っていた母でしたが、いろいろな理由と戦争で深く傷つき、苦労を重ねた母にとって、受洗の決心は簡単なものではありませんでした。私は母のためにひたすら祈る中、「彼らの信仰を見て」との言葉が私の心をとらえました。同じときに水郷めぐみ教会の平山牧師夫人もその言葉が心に示されたそうです。母の様子を見ながら、しかし、今のこの時を逃しては、遅すぎてはいけないのでは・・・と思い、平山牧師に訪問をお願いしました。すると以前は訪問を拒んでいた母の心が不思議と解かれ、驚いたことに、布団から這うように進み出、身を低くし牧師夫妻の導きで、病床洗礼にあずかることができました。5月29日が長い間祈っていた母の受洗日となりました。
母は、恐れや、心配から、解放されたからでしょうか、布団の中でもまるで幼子のような笑顔を見せてくれました。また、「お母さん、受洗おめでとう」「祈っています。」のお便りを頂き、多くの方に祈られていることに「ありがたいね。」と、何度も繰り返し、幸いな時を共に分かち合うこともできました。また、母は長男である兄のために祈り、久しぶりに家に戻った兄を迎えては、布団の中でもそれはそれは大きな喜び様でした。まるで「嘆きを踊りにかえてくださった。」詩編30編20節のみ言葉の約束を見たようでした。
8月に病院で検査後急変し、昏睡状態となり、姉と私は毎日泣きながら、葬儀の相談をすることもありました。その1週間後、意識を回復したものの、電話の母の声は、ろれつが回らず、全身から力を振り絞るように「が・ん・ば・る・よ」と答えが返ってきました。8月半ば、教会の皆様からのご理解とサポートを頂き、母の病院に付き添う時が与えられました。弱った母は、ゆっくりと、「イエス様・信じてるから・大丈夫。最高の人生だった。」と、ベットの中でにこっと笑みを浮かべるのでした。真夜中に「イエスさまの歌、歌ってよ」と嬉しい我がままも言ってくれました。多くの方に祈られていること、愛されていることを「あ・り・が・た・い・ね。」と何度も繰り返す母の言葉や顔は、平安そのものでした。「点滴を刺す血管ももう限界です」と告げられ、牧師夫妻の面会とお祈りを頂き、その夜には、姉と3人で賛美し祈る中、母は天に召されて行きました。イエス様の十字架が母を救い、心の傷を癒し、永遠の命を与えて、天国へと導いてくださいました。
神様の愛にそして皆様のお祈りに心から感謝致します。
月報2014年5~6月号より

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「覚え続けるために」

ニュージャージー日本語キリスト教会の皆さん、震災以来の継続的なご支援に心より感謝申し上げます。未曾有の危機に直面し、戸惑い、疲労しながら必死で堪えてきた松田牧師とオアシスチャペルにとって、錦織先生およびニュージャージーの皆さんとの出会いは、何より大きな助けとなりました。9.11と3.11。違いがたくさんありますが、似ているところもたくさんあります。ニュージャージー日本語キリスト教会とオアシスチャペルは、大きな被害を受けた地域のただ中に置かれた教会として、同じような痛みや困難、悩みや葛藤を分かち合える『友』とされたのだと思います。松田牧師が錦織先生と出会った頃に語っていたことばが、私の胸に印象深く刻まれています。
「被災した今の自分の状況、大変さをぜんぶ分かってくれたように感じた。そのような人にはじめて出会った。とても有り難かった。」
現在の東北の状況を知り得る範囲でお分かちしたいと思います。
震災当時47万人にのぼった避難者の数は、2014年1月現在、約27万4千人となりました。仮設住宅にいまだに約10万人の方々が生活されています。災害公営住宅の着工・完成が遅れています。ある地域では3年、別の地域では4、5年かかるとも言われています。津波により生じた瓦礫が、いまだに片付いていない地域もあります。宮城、岩手では2014年の春、福島では2015年の春が政府発表による完全撤去の目処となっています(復興庁www.reconstruction.go.jp 「復興の現状と取り組み」参照)。
震災から3年。大きな支援団体が働きをどんどん縮小して撤退していきました。メディアに取り上げられる頻度は下がり、被災地を訪れる人々の数も減りました。震災前からの課題である「過疎」に拍車がかかっている沿岸地域もたくさんあります。「忘れられてしまうのでは・・・」という新たな不安が被災地を覆っています。
様々な領域における「ギャップ」が広がっています。被災地と被災地「外」のギャップ。沿岸部と内陸部のギャップ。復興が進んでいる地域とそうでない地域のギャップ。活動が活発な仮設住宅と、そうでない仮設住宅のギャップ。在宅の被災者の方々と家を失った方々のギャップ。復興プロセスの中でも様々なギャップが生じ、広がっているように思います。
また、あれほどの大災害でしたから、被災した方々は心に深く、大きな傷を負いました。生活も一変しました。経済や環境、状況に余裕があるときには感じなかったようなストレスや悪感情に苛まれている方々がたくさんおられます。上述の「ギャップ」も苦しみを大きくします。人間関係の破壊が起こりがちです。これから先、5年、10年を生きていくための希望や力をどこから見いだせばよいのか? 心すこやかに生きていくこと自体が、大変なチャレンジです。
ニーズ、課題が多様化しています。物資に困っているところもあれば、心のケアを必要としている人々もいます。経済立て直しの知恵が必要とされているところ、コミュニケーションや人間関係に助けが必要なところ、教育の課題、住宅の課題、原発エネルギーの課題、復興遅延ストレスの広がり・・・。
小さな私たちに出来ることは限られていますが、神様が私たちにどのような実を実らせたいと考えておられるか、注意深く求めながら歩ませていただきたいと考えています。
復興への歩みは10年単位、まだまだ先の長い道のりとなります。これから先、特に遠方にいらっしゃる皆様には「東北を覚え続けていただくこと」が大きな助けになると考えています。『覚え続ける』取り組みです。大きなインパクトをもたらした東日本大震災ですが、情報過多の時代に『覚え続ける』ことは至難のわざで、気を抜くとあっという間に風化してしまうのではないかと感じます。風化防止のために5年、10年といった長いスパンで『覚え続ける』ことが大切なのですが、たくさんの方々に息の長い関わり方を模索していただくために『資源ベースの支援』をお勧めしています。
震災発生当時はニーズがシンプルでした(生き延びるための水や食料、衣服や毛布、避難する場所、医療環境など)。緊急支援の期間であり、自衛隊や救援団体、医師や技術者などの専門技術を持った方々が活躍しました。被災地、被災者からのニーズを中心とした要請とそれを受けた支援活動がマッチした期間です。世界中からたくさんの感謝なご支援をいただきました。このような支援を『ニーズベースの支援』と呼びたいと思います。すばらしい助け方です。しかし、こうした支援状況はやがて終息していきます。支援したいと考えている人たちが山ほどおり「どのような支援をするか」がより重要だった時期は過ぎ、「どのような支援でもいいから、継続すること」の価値が高まっていきます。これからは、たとえ専門技術を持っていなくても、あきらめずに関わりを継続しようとする人々が求められます(教会がより力を発揮できる時がやって来たと感じています)。
さて、そのような「継続すること」に主眼を置いた支援を行うために、『資源ベースの支援』がとても有効です。支援する側の人々が元々持っているものや強みを活かした支援です。どこかから手に入れてきたり、新しく勉強したりしなくても出来る支援です。
一例を挙げますと、音楽が盛んでトップクラスの実力を誇るクワイアを擁するアメリカのある教会は、震災を受けて、そのクワイアを10年間、日本に派遣し続けることを決めたそうです。外国からの歌の支援は、震災発生当初はあまり大きな効果を期待出来なかったかもしれません。しかし音楽を用いたこの支援は現在も継続されていますし、今後も続いていきます。この息の長い支援の価値は、これからどんどん高まっていくはずです。彼らならではの資源を活かしたすばらしい支援です。
神様がニュージャージー日本語キリスト教会にお与えになった資源には、どのようなものがあるでしょうか? 冒頭に錦織先生と松田牧師の出会いについて記させていただきましたが、9.11を巡る貴重な経験や痛みは、多くの人々を助けるために備えられた皆様ならではの貴重な資源のひとつなのではないかと思います。
あの震災から3年が経ちました。皆さんが経験された9.11からの3年後はどのような日々を送っておられたのでしょうか? ちょうど10年前(2004年頃)、皆さんは何を感じ、どのような生活をしておられたのでしょうか? どのようなことから慰め、励ましを受けておられたのでしょうか? 時が経つにつれて、心や体、霊的な領域にどのような変化が起こってくるものなのでしょうか?
大変な危機的状況に置かれ、しかし立ち上がり、立ち続けてきた皆さんのご経験や証しに、私たちは大きな関心を持っています。成功も失敗も、恵みも痛みも分かち合ってくださるならば、大きな助けになると感じています。
善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。(ガラテヤ 6:9-10)
今後とも、信仰の家族としてのお付き合いをどうぞよろしくお願いいたします。神様が結び合わせてくださった皆さんとの関係を感謝いたします。皆さんの存在は、私たちの励ましであり、希望です。心からの感謝を込めて・・・。

月報2014年3~4月号より