「しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・
イエスにおいて、キリストの血によって近いものとなったのです。」
(エフェソの信徒への手紙 一章十三節)
何年か前にことになるが、アメリカ留学を終え、その帰途にイスラエル旅行をしてきたある姉妹の証を聞いた。いくつかの話の中で特に印象に残ったものは、主イエスが十字架を背負いながらゴルゴタの丘まで歩いて行かれたと言われている道を訪れた時の話だった。群衆からの罵声を浴びながらも人々の救いのために重い十字架を背負って歩いていくイエス様の姿を思い浮かべ、彼女は涙が止まらなかったと言う。自分もそんな光景を想像し、心を打たれる思いがした記憶がある。
当時は信仰生活が十余年目くらいの時期だったろうか。受洗後、しばらくして教会を離れ、その後また戻って来てからやっとまた教会に馴染みはじめ、信仰的にも再度充実してきた時でもあったように思う。翌年には母教会の青年会の会長職も勤めることにもなった。そんな時ではあったが、ある日人間関係の縺れからひどく落ち込むことがあった。その後何日間か、怒りとむなしさで辛い日々を過ごすことになる。
しかし、悪いことばかりではない。そのような中にあっても、物事が不思議とうまく運んだり、ふと心を静めて考えにふける時間が与えられたりもした。また、心からの祈りもできたのはなかっただろうか。ある日、「ああ、神様はこんな時でも自分のそばにいてくれるのだなあ」と本当に感じられる瞬間があった、と同時に聖書の言葉が与えられる。神が共にいてくださるのは、主イエスの十字架があったからなのだ、イエス様が人間の罪のために死んでくださったからなのだと。
あの時が初めてイエスの十字架が自分にとって身近に感じだ時だったと思う。確かにその出来事は約二千年前に起こった事である。しかし、先にあげた姉妹の話に出てきた、十字架を背負いながら歩くイエス様に対し、罵りの言葉と石を投げつける群衆の中に、自分自身の姿を見たような気がした瞬間でもあった。そして、そんな自分の罪のためにイエス様が命を捧げられたことを思った時、やはり涙が止まらなかった。
それから何年か経って、日本を離れアメリカにやって来たが、本当にクリスチャンであるがためにいろいろな場面で助けられ、また勇気づけられてきた。良き友たちとの出会いは本当に掛替えのないものであった。その度に主が共にいてくださるのだということを身をもって感じた。それらがイエス様の十字架によってもたらされていると思う時、やはり心から感謝せずにはいられない。
今年になって、この教会に導かれたが、また良き交わりの場が与えられたと本当に感謝している。今の自分にとって愛妻が導かれることが第一の課題であるけれど、クリスチャンホームの末っ子として生まれ育ち、祈られることはあっても大切な人の導きのために祈ったり、何かをしたりすることの少なかった自分にとって、これは途轍もない大課題である。そんな無力な自分がまずできることが、良き交わりの場としての教会を探すことであった。
今も主が共にいることを心から感謝している。近い将来、夫婦共にその喜びを心から分かち合える時があることを信じて・・・。
月報1999年11月号より