「先日、娘が結婚しました。…」

先日、娘が結婚しました。

10 歳のころから、教会に、教会の皆さんに、いえ神様に育てていただいた一人娘です。本当に、神様に出会っていなかったらどうなっていたかと思うと、この不思議なご計画に、ただ、ただ感謝です。

「絶対泣くよ」、「大泣きだよ」、「大きなタオル持って出席しないと」、などという皆さんの暖かい?お言葉に送られて、日本での結婚式に臨みました。日頃から涙もろい私は、自分でもきっと涙が止まらないだろう、号泣しちゃうかもしれないな、でもこの日ばかりは許してもらおう、と覚悟していました。

式を明日に控えた前日、家族で夕食を共にしました。食事の前のお祈りで、娘を神様から与えられたことに感謝しようと口を開いた途端に、今までのすべてのシーンが、頭の中に次々に現れてきて、涙が噴き出し嗚咽で口がきけなくなっ
てしまいました。家族から(娘からも)笑いがこぼれる中、何とか感謝とアーメンを言うことができました。明日はどうなることか、、、でも、仕方ないよね、という感動の一夜を過ごしました。

さて、いよいよ当日。おとなしく花嫁の父を演じていては、ただのむさくるしい涙ジィさんになってしまうことは容易に想像がつきましたので、趣味を生かし、カメラマンをやることにしました。「花嫁の父がカメラマンするのぉ?」という周囲の声もありましたが、何かに集中していないと、やっぱり泣いちゃうような気がして・・・・それに、赤ん坊のころから何千枚も撮り続けた娘の写真を今日撮らないでどうする、という思いがありました。従って、準備には気合が入っていました。優しい奥様の許可を得て、ちょっといいカメラと高級レンズを購入。いつもは持たない予備の電池もアマゾンで購入。新しいカメラには修養会のカメラマンで慣れ、準備万端でした。何しろ私にしてみれば、今までの思いの集大成とも言える「時」なのですから。

式が始まり、目頭が熱くなって前がよく見えなくなること数回。やっと花嫁の父役から解放され、モーニング姿のカメラマン登場です。ファインダーの中で、娘の花嫁姿と赤ん坊の頃の娘の姿が重なり、夢中でシャッターを押し続けました。前半快調に撮ったおかげで、アマゾンの安い電池は早くもアラーム点灯。やっぱり予備があってよかったねと、電池を換えようと思った瞬間、背筋がゾォ?っとして、心臓バクバク。「予備電池失くした!!」なに?っ!!これからいい所なのに・・・新郎新婦入場は?ケーキカットは?家族の集合写真は?

「何のために、カメラ買ったんだ??っ!」

結局、しばらくして、失くした電池が見つかり、モーニングカメラマンは復帰したのですが、その間の写真は数枚しかないということになってしまいました。

そして、その日最後のクライマックスシーン。花束贈呈の後、私が両家を代表してご挨拶をすることになっていました。私の筋書きでは、この時点で、持参したタオルはグチャグチャで、泣きはらした目で感動的な挨拶をする予定でした。もちろん、そういう状況下でのスピーチの原稿は、誰にも言っていませんが、頭の中で何度も練習していました。ところが、、、、

この時まで、不思議なことに全然泣いていないんです。私の心の中の原稿は、自分でも良い話だと自負していたのですが、泣いてないと話せない内容でした。急遽、スピーチの内容変更。泣いてもいないのに、しどろもどろのご挨拶にな
ってしまいました。

実は、少し前から、娘の結婚が近づくにつれ、神様が絶えず私に語りかけているような、実際神様の声が聞こえるような、ふとそんな気持ちになることが幾度もありました。

娘が巣だって行くことはやはり寂しいことで、気がつくと涙がこぼれていることがあるのは事実です。しかし一方、とても喜ばしいことでもあります。何しろ、この人生という、決して楽しいばかりではない、長い道のりを共に歩く伴侶が与えられたのですから。けれども、親として、若い、幼いカップルを離れて見ていると、本当に危なっかしい。些細なことで喧嘩したり、メソメソしたり。親から見るとこうすればいい、ああすればいいと教えてあげたいことが山ほどあります。できることなら行って、忠告したり、なだめたり、何かしてあげたい。そういう思いが何度も心の中に湧いてきます。

でも、それは若い2 人が望むことでもないし、本当に本人たちのためになることなのかわからない。第一、地球の反対側に居ては、実際そんなことができるわけがない。結局、直接には何もできないんだなぁと、親の無力さに、また寂しくなっていました。そんな時、その思いの中に、神様が、「私がいる。私が2 人のそばに居て良くするのだから、何も心配しないで、ただ祈っていなさい。」そう語っていました。

そして、結婚式をも用いて、主は、

「自分の力ですべて良くしようと思っても、お前には何もできない。いくら万全の準備をしたつもりでも、娘の写真1 つ思うように撮れず、自分の感情すら思いと異なるのだから。ただ、私に依り、祈りなさい。」

そのように、語ってくださいました。私の、何でも自分が頑張れば良くなる、自分が何とかしなくては、という思いの限界をお示しになり、神様の愛に頼る生き方を教えて下さっているかのようでした。

まだまだ長い残りの人生を、喜びにあふれ、しっかりと歩むうえで常に見上げて行くものは何か。娘の新しい門出に、人生の道しるべを与えられたのは、この私でした。

私の心には、次の御言葉がこだまのように響きわたっていました。

「力を捨てよ、知れ/わたしは神。」(詩篇46: 11)

アーメン。感謝します。

月報2015年11~12月号より

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