先日大学の卒業式に出席しました。残念ながら両親は来る事ができませんでしたが友達が一緒に来てくれ、お祝いをしてくれました。実際の卒業よりは5ヶ月遅れではありましたが、始めて例の黒いガウンと四角い帽子に身をまとい“卒業できたんだなぁ(涙)”という実感と“いつまでも学生気分ではいられないな”という身の引きしまる思いとがしました。 アメリカに来たばかりのガソリンの入れ方もわからなかったころのこと、Examに追われてベーグルとピザばかりに嫌気がさした日々、そしてなによりも神様に出会いイエス様を受け入れた事。今の自分がこうしてあるのはまさにみ言葉通り、“しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。”(1コリント15:10)と心から思います。
始めて日本の大学で友人に誘われて聖歌隊に入った頃、まさか自分が神を信じるようになるなんて、クリスチャンとして洗礼を受けるなんて夢にも思っていなかったことでした。自分はそんなところから程遠い人間だし、もしもなにかを信じるならそれはいわゆる“宗教”について自分なりのなんらかの納得のいく理解、そして結論が出た時だ、とおこがましくも思っていました。そもそも一般的な日本人の思うように、なにかを信じる=宗教=危ないという図式がわたしの中にもできあがっていましたし、それでも選べというならば、もっとも怪しくなく(!?)、そして自分にいちばん利益のある宗教だとも思っていました。 しかし、“宗教”ではなく“神(イエス キリスト)との個人的な関係”を体験している今、まさに神を選んでやろうと思っていたわたしが神様によって選ばれていて、自分で切り開いていってると思った道が実は神様によってすべて導かれていたのだと思うとき、気恥ずかしさすら覚えます。
数学者で哲学者で有名なパスカルの言葉に“人間の心の中には神の形をした空洞(=God shaped vacuum)がある。”という言葉があります。潜在的に人はその空洞をなにかで埋めようとしますが、それは私達人間が生きていくために不可欠なものを得るために与えられている動物的本能と同じだと私は思います。無意識のうちに私達が飲んだり食べたり息をしていることは、私達の内なる存在が神によって満たされたいと欲求することと同じではないでしょうか。ただそれは物質的な欲求とは違い目には見えませんが。
私は小さい時からの家庭環境からか、知らず知らずのうちにとても厭世的な考えを持つようになっていました。人間は一人で生まれて一人で死ぬんだ、人の心なんてわかりあえるはずがない、と。誰かに頼りたいけど誰にも自分の本当の心の内を打ち明けることはありませんでした。それでいいと思っていましたし、どうせそんなものだという諦めのような気持ちでもありました。自分の心の内に目を向けようとせず、上手くごまかして、無感情になっていました。それでも持ち前のこの性格でそれなりに楽しく過ごしていましたが、やはり私の内なる存在は安らぎを求めて、100%頼れるものを求めていたように思います。 そんな時アメリカに来て何の気なしにルームメイトに連れられていった教会で出会ったクリスチャン達を通して生きた神との関係を見ることになりました。私が彼らに対して一番最初に抱いた印象といえば、“こんなにフツーの人達が神様信じてやってんだー。”というものでした。今思えば偏見も甚だしいところですが私にとっては自分とおなじようないわゆる普通の若い子達が普通の格好をして、当たり前のように“神様?いるにきまってんじゃん!”といわんばかりに礼拝している姿は相当の驚きだったのです。(私のクリスチャンに対するイメージは相当悪かったみたいですね、、!)これがアメリカ人か、と驚きながらも一体この人達の信じているものはなんなんだろうと、興味が沸いてきました。が、しかし聖書を読めば難しい人の名前やら、イエスキリストの言う事の突拍子のなさに(“右の頬を打たれたら左の頬も差出しなさいー?一発殴られたら眼をとばして倍にして返すのが常識でしょう!!”みたいな、、。)つまずくし、自分があっさりとなにかを信じることに抵抗があったのです。単に周りに影響されているだけなら意味が無い、アメリカに来ました、はいクリスチャンになりましたではあまりにも話しが単純じゃないか、とも思ったのです。なんとか納得のいく理解をと、聖書を読み、他の宗教と比較してみたりしました。しかしそうやって、たいしてありもしない頭で理解しようともがく私に神様はただ単純なしかし大きな愛をもって迫ってきました。
十字架の意味について、救いについてすこしずつわかってくるにつれてクリスチャンになりたい、イエスキリストをもっと知りたいという欲望が増してくるのがわかりました。しかし私はまだもがいていて、そして自分がもしクリスチャンになったら人からどう思われるかということを心配していました。キリスト教に対する疑問ももちろんまだたくさんありました。神が愛ならば今この世で起こっているすべてをどう説明するのか、何故救いはもっと簡単でみんなに開かれていないのか、、。 あるとき私はクリスチャンの友人につっかっかって言いました。神は愛といいながら、“救いにいたる門は狭く、滅びにいたる門は大きく広い(マタイ7:13)なんてどうしてこんなに排他的なことが書いてあるわけ?”とつきつけました。その友人は悲しそうに、でも一生懸命にこう言いました。“その門を狭くしてるのは僕たち人間側の問題なんだよ、神はすべての人に一人も漏れることなく入って欲しいと必死の思いで招いているんだよ。”と。そして“罪”について話してくれました。そのとき始めて神様ばかりを見ていて責めていた私が自分の問題に、いわゆる聖書でい言う罪について向き合ったのです。 ここまでくるともう一歩という感じですがそう簡単にもいきませんでした。始めて“自分にも罪がある”という認識が生まれ始めた私はそれをどうにかしたい気持ちになっていましたが、神の存在自体は信じられるとしてもそれがどうしてイエスキリストでないといけないのかという思いになっていました。しかし聖書ではっきりと、“わたしは道であり、真理であり、命である。だれもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。”(マタイ14:6)と言いきるこの人物は、はったりかます大嘘つきか、もしかしてまさかの本物しかないんじゃないか、そしてわたしは今どっちに賭けるか問われているんだ、と何故か人生の一大選択を迫られているような感覚にとらわれてきました。そして始めて心から祈ってみました。“神様、ほんとうにいるなら証明して!”と。そのころの私は自分の内なるイエスを受け入れたいという欲求に一生懸命理性でブレーキをかけていたように思います。そんなとき、私の行っていた教会の牧師がこう言いました。“みき、今君はJesusに恋をしているんだよ、そしてこの人と結婚していいのか一生懸命悩んでいる。大事なことだからもちろん悩んでも仕方が無い。人間は考える能力を、知恵を与えられてい
あるとき、ふとなにがあったという訳でもなくもうGiveUpしようと思った瞬間がありました。素直に心から、イエスは神だ、と。聖霊の押しに感謝! 自分がクリスチャンになったら親との問題はどうするんだ、友達にはどう説明するんだ、日本人としてクリスチャンとして生きることをどう両立するのか、そんないろいろな思いを遥かに超えるイエスキリストへの欲望が勝った瞬間だったと思います。今考えるとそれらのすべての問題は私がイエスを受け入れた瞬間に私がすることではなく神様が解決してくれる問題だったのです。友人の導きにより、なんと人のごったがえす学校のカフェテリアで信仰告白の祈りを捧げた私ですが、祈っている最中にも不謹慎ながら“どうせならもうちょっと思い出に残るような場所でお祈りしてもらいたかったなぁ。”という思いを裏切って神様は私の心のなかの空洞をバッチリ埋めてくれました。パズルの最後のピースがカチッと音を立ててはまるような気分の良さでした。それまで味わったことのない安心感と喜びに満たされてわたしのクリスチャン生活が始まったのです。イエスキリストに恋に落ち、この人に賭けたことを後悔することは決してないでしょう。わたしばかりか、去年の春にはわたしがクリスチャンになったことをあんなに戸惑っていた母までがイエス様にひっかかって!?しまいました。私が母を電話で祈りに導く恵みに預かった時、母の祈りの第一声は“イエス様、今までずうっと私のこころを覆っていたものが今一気に晴れていくようです!”でした。晴れるや!もとい、ハレルヤ!!私達はイエスキリストという色男にひっかけられてとっても幸せ者です。これだからクリスチャンはやめられませんね、みなさん!
月報2002狽6月号より