去る4月27日午前0時14分、我家に次男が誕生しました。予定日より3週間以上早かったにも拘わらず、体重は2700グラムを超えて健康で、外に出る日を待ち切れずに生まれて来たようでした。
日本では妊娠のことを「おめでた」と言います。アメリカでも妊婦さんに対して必ず「Congratulations!」と声をかけるように、妊娠は喜ばしいこと、幸せなこととされています。私の場合も例外なく、親しい方はもちろん、外出先で出会う見ず知らずにも祝っていただきました。その度に笑顔を作った私ですが、その実、どうしても素直に「ありがとう」と言えずにいました。私にとって、二番目の子供を授かったことは全くのハプニング(思いがけない出来事)だったのです。
我家には8月でやっと2歳になった男の子がいます。こちらは待ち望んだ子供で、胎に宿ったと知った時の喜びといったらありません。しかし、初めての子育ては慣れないことばかりです。試行錯誤の連続で、喜びも吹き飛ぶほど忙しい毎日が続きました。それが1年過ぎてようやく一息つけるようになり、これから始まる楽しい毎日――遠くへのお出掛けに図画や工作――を思い描いていた矢先、ハプニングは起きました。
これまで、私は比較的思い通り生きてきたように思います。両親は私を自由に育ててくれた分、責任も自分で取るように教えてくれました。そのためか、何事にも慎重で、行動を起こす前には入念な準備を欠かさないようになりました。しかし、裏返して言えば、予想外の事態に弱く、一度計画が狂うと軌道を修正するのに時間がかかるのでした。今回の出来事はまさにそれでした。買った物を要らないからと返品するように胎の子を戻すわけにはいかず、自力でどうにもならない事態に腹立たしく悔しい思いが募りました。
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」
(伝道者の書 3章11節)
私のあまりの落胆ぶりに、友人達はいろいろな方法で励まそうとし、クリスチャンの友人は聖書の中からふさわしい言葉を語ってくれました。しかし、私の心は頑なで、「そんな言葉は知っている。知っているけれども受け容れられないから辛いのよ」と心の中で叫んでいました。事実、「時にかなって…」の一節は、聖書の中で最も好きな箇所の一つです。クリスチャンになる前は優柔不断で後悔ばかりしていた私を前向きな人間に変えてくれた一節でした。ところが、今回ばかりはその言葉すら跳ね除けてしまうのです。やるせない気持ちを抱える日が続きました。
そんな私も、月が過ぎてお腹が大きくなるにつれ、中にいる子供に愛情が湧いてきました。胎動が始まると、まだ見ぬ子への愛おしさは一段と強まり、さすったり話しかけたりするようになりました。お腹の子供もそれに応えるようによく動き、胎動をあまり感じない日は、かえって心配なぐらいでした。
そして9ヶ月を過ぎたある日――それは突然やってきました。朝から腹痛を覚えていたのですが、すぐに治るだろうと考えて、上の子供を遊ばせたり買い物に出たりしていました。しかし痛みはなかなか消えず、夕方、あまりの痛さに、お医者様に電話をかけると、初めはのん気に構えていた先生も暫くして異常を察知し、「すぐに病院へ来て下さい」ということになりました。とは言え、主人はまだ会社ですし、入院の荷造りも整っていません。上の子供を寝かしつけてもおらず、準備は何ひとつ出来ていませんでした。
慌てて親しい友人のご主人に病院までの足をお願いし、荷造りを進め、上の子供には寒くない格好をさせて待ちました。その間、腹痛――今思えば立派な陣痛――は強まるばかりで、何度もうずくまって待ちました。迎えが来た時は立って歩けないほどの痛みに顔がゆがみ、支えられるようにして車の中に乗り込みました。
上の子供も車に乗せてもらい、「さあ、病院へ」というその瞬間です。主人がいつもは約1時間かかる道のりを30分ほどで帰ってきました。すぐに車を出して2台で病院へ向かい、私は分娩室へ、子供はそのまま友人宅へ連れて行って貰いました。いつもなら親から離れて大泣きする息子がこの時はおとなしく、初めてのお泊りを難なくこなしてくれたから不思議です。
一方、病室に入った私は主人の付き添いを得て安堵していました。ただ、腹痛が治まれば帰宅できると考えていたところへ、お医者様から「今晩中に産みましょう」と言われ狼狽しました。入院準備はおろか、心の準備もできていません。そこへきて、希望していた無痛分娩の注射はタイミングを逸して打ってもらえず、予定外の生みの苦しみを味わうことになりました。そんなことは知る由もなく、お腹の子供は準備万端だったと見え、力強く生まれてきました。
何一つ思い通りにならなかった出産ですが、今振り返ると、ひとつひとつのことが偶然とは思えないほど良く準備されていたのが分かります。友人の助けや主人の帰宅、長男の様子などなど――そこに、神様が用意して下さった完璧な御計画をはっきり見ることができるのです。
退院した後も、神様は良くして下さいました。家の中は、慌てて飛び出したまま出産に突入したわけですから、赤ん坊を迎える準備など整っているはずがありません。両親が助っ人に来てくれるのは1ヶ月も先のことです。しかし、オムツ替えや授乳の時間は容赦なくやってきて、てんてこ舞いの毎日がスタートしました。
周囲の知人や友人は、そんな私を見兼ねてか、上の子供を預かったり食事を差し入れて下さいました。この時ほど、周囲が差し伸べて下さる助けに感謝したことはありません。あの時期を乗り切れたのは、こうした支えのお陰だと心から感謝しています。
時には、こちらからお願いすることもありました。私にとって、他人に物事を頼むのは、とても勇気の要る行為でした。親元を離れて生活するようになってから、いつしか自分だけを頼みに生きてきました。もちろん、キリストに出会って頼れるお方を得たわけですが、やはり何かして貰うと感謝するより恐縮する気持ちが強いのでした。それが、今回を通じて、人様の好意を素直に受け取ることの大切さを知り、お返しには、自分のできることをできる範囲ですればいいという心持ちになりました。
ハプニング続きの次男の誕生は、安穏とクリスチャン生活を送っていた私の目を醒ましてくれる出来事でした。あれから5ヶ月――おかげ様で丸々と太った我が子は、愛くるしい笑顔で育児疲れを忘れさせてくれます。これからも、子供2人を育てていく上で、いろいろなハプニングに出遭うことでしょう。でも、どれも神様によって丹念に練り上げられ、準備されたものだと分かっているから心配ありません。
「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である」
箴言16章9節
月報2001年10月号より