私は日本の小さな田舎の町で、無宗教、冠婚葬祭にだけ仏教をつかうような家庭で育ちました。私が神様と出会うきっかけとなったのは、3歳のとき。近所に引っ越してきたセブンスデーアドベンチスト(SDA)というキリスト教団の婦人伝道師のK夫人です。
自分たちの家を、家庭集会所とし、そこでは毎週礼拝が行われ、子供のための神様のお話もたくさんしてくださいました。子供が好きなK夫妻は、自宅を近所の子供たちのために開放し、誰でもいつでも遊びにこれるような環境を提供していました。テレビもトランプもおもちゃもない家でしたが、K夫妻の家は近所の子供たちの人気の場所でした。学校から帰ると多くの子供たちが、K婦人の家に行き、おやつをもらったり、紙芝居をみせてもらったり、オルガンにあわせて賛美歌を歌ったり。礼拝学校の教材を一緒に作ったり、家庭菜園をお手伝いしたり、お料理を一緒にしたり。K婦人の家は、私の家にはない暖かさや穏やさがありました。私はK婦人が大好きで、子供のいないK婦人も私を実の娘のように可愛がってくださいました。
小さいころは、そうは思っていなかったのですが、今考えると、私は、少し複雑な家庭環境の中で育ちました。両親はそれぞれ、とてもいい人なのですが、ふたりとも、親兄弟からひどい虐待を受け、愛のない環境で育ちました。お互いに不幸な家庭で育ったので、理想を持ち、いい家庭を築こうと一生懸命で、それは子供の私たちにも、とてもよく伝わってきました。でも、愛されたことのない人は、人をどのように愛していいのかわからないというのは、本当です。子供に対する接し方も、また、夫婦関係も、とてもぎこちないものでした。
妹たちのように、両親のいうことを素直にきければよかったのですが、私は生まれつき、桁外れのおてんばで、あばれんぼうでした。悪いことをしようとしてるつもりはないのですが、自分でも気がつかないうちに、結果的にそういうことになっているのです。今思うと、多動症かなにかの病気だったのかもしれません。とにかくスーパーアクティブで、落ち着きがなく、授業中はうわのそらで先生のいうことを聞いていないので、学校の忘れ物グラフでは、だんとつ一位。小学生の低学年のときは「どもり」もあり、最初の言葉が足踏みを何回も何回もしないとでてきません。学校の友達に笑われ、だんだん人前で話すことが好きではなくなってしまいました。学校では借りてきた猫のようにおとなしくすごし、その反動で、家に帰ると、とたんに元気になって、近所を走りまわるのです。
この生傷の絶えない近所のガキ大将は、母にとっては目の上のたんこぶ、頭痛の種でした。あちこちでいたずらをするので苦情が絶えないのです。親から愛されたことがない母にとって、こんな問題児を愛すことはどんなに大変だったでしょう。私がいたずらをするたびに叱られますが、言っただけではきかなかったのでしょう。時々押入れや倉庫に閉じ込められたことを覚えています。やっと出してもらっても、懲りずに大声で泣くので「うるさいから外で泣きなさい」と、また玄関のとびらを閉められました。
このようなことが起こるたびに、泣く泣く、いつも足が向かうのは、数軒先にあるK婦人の家でした。K婦人は、私がどんなに大きな声で泣いていても、いつでも両手を広げ「ここで好きなだけ泣きなさい」と、私を抱きしめてくださいました。これは、一度や二度のことではありません。いつも、いつもです。私が泣いていても、怒っていても、またK婦人がどんなに忙しくても、自分の手を休め、私を受け止めてくれました。
K婦人の愛と信仰に支えられ、15歳、私は神様を受け入れ、バプテスマを受けました。そして、その後、高校時代をSDAのキリスト教全寮制の学校ですごしました。その3年間の寮生活のあいだ、K婦人から毎日のように葉書が届きました。書かれているのは、日常のたわいもないことがほとんどなのですが、その文の最後に、必ず「あなたのことを、いつも祈っている。恵里ちゃんが、一番可愛い」と書かれていました。
その学校で、私は信仰に燃え、あんなに授業中、集中力がなかったのに、勉強が面白いと思うようになりました。何かに没頭することを覚え、一生懸命すれば、私にも何かができるという自信がつきました。内側から、自分自身が造りかえられていくような感じがしました。
高校3年生のとき、聖書にあるいろんな性格をとりあげ、クラスメートの誰がそれに近いか投票するという企画がありました。私はそのなかで「柔和な人」に選ばれ、びっくりしました。高校生活、毎日忙しく夢中で過ごしましたが、気がつくと、私を「暴れん坊」と呼ぶ人は、もういなくなっていました。
夏休み、冬休みと帰省で家に帰るたびに、両親が、私がみちがえるように変わったと、目を丸くし、驚いていたことを覚えています。中学時代は親への反抗がひどく、父は私が不良になるのではないかと、本当に心配していたようです。
SDAと今の教会では、神様、イエス様と私との関係、神様の愛、悔い改め、十字架の許し、そのようなキリスト教の中心的な教えの部分については、なにも違いを感じることはありません。でも、SDAは旧約聖書にもとづいた生活上の規則がたくさんあり、その部分に、私は、高校卒業後から疑問を持ち始め、葛藤が始まりました。その後、色々なことがありましたが、神様は、様々な出来事を通し、サンフランシスコにあるフリーメソジスト派の榊原先生の教会に導いてくださいました。そしてまた、その先生の紹介で、この教会に来る事ができました。
その榊原先生の教会では、SDAの中にあったような様々な規則はなく、自由に神様を信仰できる教会で、こんな教会があったのかとびっくりしました。その開放感からか、それまでクリスチャンである自分を隠す傾向にあったのですが、堂々と「私は教会に行っている」と、言えるようになりました。礼拝のメッセージが、とても素直に心に響き、賛美をしていると涙があふれました。礼拝に出席するたびに、漠然と悩んでいたこと、どうしたらいいか迷っていたことへの答えが与えられました。教会に義務感で行っていた私が、教会に行きたくてしかたない自分に変えられました。
様々な理由から離れることにしたSDAの教会ですが、私にとっては、信仰の土台を築くことのできたふるさとのようなところで、忘れることはできません。3歳のとき、あの婦人伝道師K婦人に出会い、神様が私に働きかけてくださっていなければ、またその後の導きがなければ、今の私はなかったと思うからです。当たり前のように受けてきたK婦人の愛ですが、今、自分がその年になって、よその子をあのように愛すことができるかと考えると、本当によくしてくださったと、感謝の気持ちで一杯になります。
錦織先生が、私に示してくださった聖句があります。ガラテヤ人への手紙、3章の23節から26節です。「しかし、信仰が現れる前には、私たちは律法の下で監視されており、やがて掲示される信仰の時まで閉じ込められていた。このようにして律法は、信仰によって義とされるために、私たちをキリストに連れて行く養育係となったのである。しかし、いったん信仰が現れた以上、私たちは、もはや養育係のもとにはいない。あなたがたはみな、キリストイエスにある信仰によって、神の子なのである。」 先生ありがとうございます。私は今、まさにこのような心境です。
この年末年始に名古屋の実家に帰り、5年ぶりくらいに両親兄弟の集まりに参加しました。久しぶりで懐かしく、楽しいときでした。でも、それと同時に、自分がどんな家庭環境で育ったのか、改めて実感する機会となり、胸が痛くなりました。それは、実家の家族が、精神的にとても病んでいるように見えたからです。彼らにとってはそれが当たり前の状態なので、それを問題とは思っていません。でも「彼らが信仰を持ち、神様のある家族関係になれたら、どんなに心穏やかに暮らせるだろう」と強く思いました。
あんなにおてんばで落ち着きのなかった私を、変えてくださった神様ですから、熱心に祈れば、きっと私の家族をも救ってくださるでしょう。でも、私の実家は、K婦人がもう数十年ごしに働きかけても、誰も「神様の話に全く耳を傾けなかったつわもの」たちです。
家族のことを祈り始めて気づいたことがあります。自分が忘却のかなたにおいて忘れてしまった方が楽だと思うほどの人のことを祈ると、いろんな過去の出来事や感情がよみがえってくるということ。そして、嫌な気持ちが多くなってくると、真剣に祈る気持ちが弱くなっていくということです。自分の好きな人のために祈ることは比較的簡単ですが、そうでない人のために祈ることは、未熟な私にとっては簡単なことではありません。
この祈りの経験を通して私は、問題は母よりも私の方にあると気づかされました。母が聖霊によって変えられることを祈るよりも前に、まず私自身がもっと信仰的に成長し、この気持ちを克服しなければ、祈ることすらできません。
私は、今まで自称「隠れクリスチャン」で、伝道なんて、とてもできないと思っていました。でも今は、神様によって造りかえられた喜びと信仰による心の平和を私のまわりの人に伝える器になれたらと、心から思うようになりました。
すばらしい信仰の先輩がたくさんいるNJ教会に導かれ、神様のみわざに感謝します。少しでも多くのことを学びたいです。どうぞ、よろしくお願いします。
月報2007年2月号より