「私はもう大丈夫、といつの日か神様に背を向け、…」

私はもう大丈夫、といつの日か神様に背を向け、毎日慌ただしい生活を何年も過ごしていました。そんなある日(2008年8月)突然の母からの電話でした。その頃私は、すべてがうまく順調に行っているかのような生活(もちろん、悩み・問題は山ほどありましたが。)でしたので、父の事は、穏やかな海に突然襲う災害の様でした。私は娘たちを主人と義母に頼んで、すぐに帰国しました。ICU(集中治療室)に寝ている父は、幾つもの管が頭や体を通り、顔や体中は膨れ上がり、すっかり変わり果てていました。そしてその父の膨れ上がった手をしっかりと握りしめ、このまま父を失ってしまうのではないかという不安と恐れでいっぱいの母や兄妹と父に、この様な状況ではありましたが、会うことができたことを、忘れていたはずの神様に少しだけ心を向け、感謝しました。今まで長い間、神様を無視し、周りにあるこの世のものに満足し、自分の物事がうまく行かない時、ちょっと苦しいなぁと思う時、自分が必要な時だけの神様でした。アメリカに帰って、短かった2週間の滞在を振り返って、この様な悲しい状況ではありましたが、約5年ぶりに父や家族に会えたこと、そして家族をはじめ、周りの皆が人生の中で何かしら問題を抱え、心を痛め、悩み苦しみ、その解決が見つからず、他人には関係ないことだと一人で我慢して苦しんでいること、自分がその場に接した時に、自分の力ではどうしようもなく、何もできないものであること、そして、道行く人々の生活は慌ただしく、外面的な必要は満たされても、自分中心の自分勝手な悲しい生き方だなぁと思いました。まさにその姿は、私自身の姿なのでした。
「 顔が、水に映る顔と同じように、人の心は、その人に映る。」箴言27章19節

そして、病院に入れ替わり立ち代わり来る多くの人たちを見て、一人ひとりが何らかの理由を持ってこの病院に訪れていること、患者さんやその家族たちの信頼に懸命に働くお医者さんや看護師さん達、その背後で働かれている多くの人達、温かく見守る患者の家族達や見舞い客の人達、また中には、見舞いの来ない一人ぼっちの寂しそうな患者さんたちを見て、そこに来る一人ひとりが弱い人達(患者さんや病の人を持った家族に人達)の立場に親身に寄り添って人を思いやり、支え、慰め、励まし合う愛がそこに一番にあったこと、そしてその愛は、私が背を向けて無視していた神の愛なのでした。

「 世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」 ヨハネの手紙第1 3章17~18節
「 神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。」 ヨハネの手紙第1 3章23節

自分がいかに自分中心の身勝手な生活をしていたか、今まで周りを見る余裕もないほどに、自分は・・、自分が・・、自分の・・、自分に・・、の毎日だっただろうか。そして私はもう大丈夫なんだと高慢になり、人を見下げ、人を思いやることなど米粒一つほどもない情けない者でありました。

「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』」 ルカの福音書23章34節

と言われたイエス様が、十字架の上で、私の罪のために身代わりとなって死なれ、その流されたあがないの血によって、信じ、救われた恵みに感謝しました。

1994年4月には、恵みによって受洗に与り、神様があふれんばかりの恵みを与えてくださり、内側からの本当の喜びに満ち溢れていました。しかし、数え切れない恵みもいつの日か自分だけのもの、そしていつの日か神様の存在さえ忘れていました。その神様をどんなにか長く悲しませていただろうかと心の目が開かれ、その愛に埋もれ、立つことすらできず、子供の様に泣きじゃくり(迷子の子がやっとお母さんに会えて抱かれて安心して泣いているかの様に)悔い改めました。顔を上げると窓一面にどこまでも広がる青い空が眩しい位輝いていて、吸い込まれるように見上げていると、月報の表紙にあったあの御言葉が心いっぱいに広がるのでした。

「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」 詩篇46篇10節 (2008年御言葉)

わたしはここにいる。お前がいかに小さく弱いものであり、無力であるかを知れ、と、それは大変深く、大変重く、大変力強い語りの様な響きの様なささやきの声でありました。神様の目から見る私は、本当に小さな者であり、完全に弱く、無力である自分であることを認めずにはおられず、教え、知らされました。

「私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。」 伝道者の書 3章14節

どんな時にも決して変わらない愛で、こんな私をも愛し続けてくださっていた神様。また、あわれみ深い神様はすでにこの愛の教会をも備えてくださっていたこと、その背後にはイエス様が粘り強い忍耐を持ってこんな私のためにとりなしていてくださっていたこと、そして教会の愛する先生、愛する多くの兄弟姉妹達がずっと祈り、支え続けていてくださったことに心より感謝致します。

「門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。」 ヨハネの福音書 10章3~4節

毎週礼拝で先生を通して正しく、大胆に御言葉が語られ、その命の御言葉をいただき、いつも私の助けとなり、力となり、生きているのではなく、生かされていることに感謝致します。

「神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」 ヨハネの福音書 6章33節
「イエスは言われた。『わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。』」 ヨハネの福音書6章35節

自分一人でクリスチャンであること、教会を離れてクリスチャンであることはとても難しいことであり、神の家族の一員として常に主が共にいてくださっているこの愛の教会で、
お互いに温かさと光を分かち合い、また、こんな私を覚えていてくださり、祈っていただいて、今は色々な事情でお休みしている愛する兄弟姉妹の皆様方を覚え、お祈りさせていただき、共に分かち合い、共に神様を礼拝することができます様に。

「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」 コリント人への第1の手紙 12章27節

これからもイエス様の十字架の愛を覚え、これからも共にイエス様のことを少しでも多くの人々に伝え、神様が私たちのためにしてくださったすべてのことを人々に分かち合うことができますように、共に神様の御心に生きて従う小さな器として用いていただき、仕える者とさせていただきたいと日々、そのようなものに新しく変えられ、主に喜ばれる正しい歩みができます様に続けてお祈りください。

「しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。」 ローマ人への手紙 10章14節

月報2009年6月号より

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