私が一日で一番好きな時間は、夜寝る前の数分間です。体を横たえ、枕に頭を沈めて目を閉じると、ふわっと疲れが取れていきます。すると、頭の中をいつも同じ歌がめぐります。「今日も一日、主から受けし多くの恵み・・・たたえても讃えても、たたえ尽くせない♪」。
感謝できることを数えて一日を終えるのは、心安らぐひとときです。良いことがあったから感謝する。願い事がかなったら感謝する。ではなくて、感謝できることは日々たくさんあります。眠る場所がある。朝から無事に過ごせた。家族がいる。小さいことから大きいことまで、探せば溢れるほど出てきます。毎日、同じことでもいい。それだって、取り去られてみると、どれ程、ありがたいことだったかと思うものです。
私にとって一番感謝すべきことは、クリスチャンとして歩ませていただいていることです。信仰がなければ、独りよがりな生き方をしていたでしょう。信仰がなければ、迷ってばかりで心休まらず、何かを選んだとしても後から悔いる人生を送っていたことでしょう。世の中の不条理をなげき、不平不満をいつも抱いていたかもしれません。
私がクリスチャンになったのは、アメリカに来て5年目の冬のことです。かれこれ25年以上も前になります。それまでは、宗教とは全く無縁の生活。仏壇も神棚もない家に生まれ育ち、興味も持たないまま成長しました。そんな私に何が起こったか。今、思い返すと本当に不思議です。
当時、私は学生でした。冬休みに一時帰国する日本人の知人がいて、その人のアパートに寝泊まりして猫を世話することになりました。寒い冬。休みで退屈な毎日。アパートにこもりきりになって、部屋にある日本語の本を読み漁りました。文学専攻だった知人は数多くの本を持っていて、日本の書籍は値段が高くで買えなかった私は、この時とばかり片っ端から読んでいきました。
その中でひときわ心に残った本が一冊ありました。女流作家、三浦綾子さんが西村久蔵という人の生涯を描いた本でした。北海道に暮らし、十代のころクリスチャンとなり、のちに洋菓子店を創業した主人公は、事業に失敗したり裏切りにあっても、人を憎まず神を恨まず、人と神を信じ続けたのです。しかし私を圧倒したのは、愛娘を亡くしてもなお、神様への信仰を捨てないでいる姿でした。事業は失敗しても建て直せる。金銭は失っても取り戻せる。でも、いったん死んでしまった人間は生き返らない。戻ってこない。もう会えない。それなのに、どうして、この人はまだ神様を恨まずにいられるのだろう。神様に背を向けずにいられるのだろう。何が、この人を支えているのだろう。その日から、私の神様探しが始まりました。
ほどなく、近くの神学校に通う日本人留学生と知り合いになり、聖書の学びがスタートしました。他州から月に一度きてくださる日本人の牧師先生の聖書メッセージを聞きに出かけることもありました。読めば読むほど難解な聖書。湧き上がる疑問の数々。とくに、聖書に出てくる数多の奇跡はキリスト教を私から遠ざけました。死んだ人が生き返るなんてあり得ない。十字架にかかって墓に葬られ、3日後に蘇ったとされるイエス・キリストは架空の人物としか思えない。非科学的で非常識な考えと決めつけ、到底受け入れることはできませんでした。
もうひとつ、私がひっかかっていたのはクリスチャンの捧げる祈りでした。なにかあると「祈りましょう」、事あるごとに「祈っています」。聞くたびに、心の中がもやもやっとしました。「棚からぼた餅」ではないけれど、苦労しないで好運を得ようと願っているような、他人にたよって物事を成そうとする「他力本願」のような、虫のいい態度に見えました。
それがある日、聖書に出てくる何百歳まで生きたという人々の年齢を「あり得る」と思えた瞬間から、「聖書に書いてあることは全て真実」と信じられるようになりました。オセロゲームで黒いコマを一つひっくり返すと、パタパタパタ、、、とあっという間に白いコマが広がっていくように、小さな“真実”を認めた瞬間、私の聖書観は一転しました。イエス・キリストは実在した。聖いお方なのに、私たちの罪を背負って十字架にかかられた。人はみな生まれながら罪がある。キリストの死によって人間は神様との関係を回復できた。キリストは復活して今も生きておられる。そのお方を信じると永遠のいのちを受け、クリスチャンとして歩みだせる。
あれから四半世紀。人生の半分以上をクリスチャンとして歩むうちに、祈りは呼吸となり、祈りはわたしの命綱となりました。祈りは決して、神様に「おんぶに抱っこ」する行為ではありません。私は祈りを、例えて言うなら「人事を尽くして天命を待つ」ことだと考えます。人にはそれぞれ与えられた仕事があります。一人ひとり違い、その時々で変わります。小さいころは遊ぶのも仕事、学校に上がれば勉強が大切、就職したら責任をもって仕事に打ち込む。結婚したら女性は妻になり、出産すれば母親となる。どの段階においても、すべきこと、大切なことがあります。神様が授けてくださっている自分のお役目をきちんと果たした上で、あとはお任せする。全幅の信頼を寄せてお預けするのが祈りの真髄だと思っています。
私の好きな詩に「ニーバーの祈り」があります。
「神よ、変えられないものを静かに受け入れる力を与えてください。
変えるべきものを変えていく勇気を、
そして、この2つを見分ける知恵を、私たちにお与えください。」
祈ったあとは安心して先行きを静観できるのです。静観どころか、神様のしてくださることを想ってワクワクします。神様は最高・最良のものを最善の時に下さると知っているからです。
先日、市民権を取るための手続きを始めました。順調にいけば来年6月にはアメリカ市民になれるそうです。迷うことも気負うこともなく、すうっと始めた手続き。神様が用意してくださっている道なら次々と扉が開かれていくし、そうでなければ不思議と閉じられる。一歩踏み出すのは自分の仕事だけれど、あとは神様にお任せ。ひとたびお任せすると、あとはどっしり腰を据えていられます。むしろ、「この時期に市民権を取ることになったのは、どうしてだろう。」「この先に神様がなにを用意してくださっているのだろう。」先のことを楽しみにしながら次の段階を待っています。
市民権がとれたら、自分が何者であるかを表す言葉がひとつ増えます。アメリカ国籍を取得した日本人。日本は二重国籍を認めていないそうなので、私の日本国籍は事実上なくなります。そういえば、市民権の申請用紙に名前変更の欄がありました。おもに、結婚や離婚で苗字が変わる人のため欄だと思うのですが、一瞬どきっとしました。かつてアメリカに移民してきたユダヤ人の方々が、その出自を隠すために名前や苗字をアメリカ風に変えたと聞いたことがあります。ここで名前を変更したら、なんだか自分がまったく別人になるように感じられました。その時、私には決して取り去られることのないアイデンティティがあると強く意識しました。それは「私はクリスチャンです。」ということ。それは、私が今もこれから先も、一番大切にしたいアイデンティティです。