私は18歳の時、初めて日本に行った。
香港の高校を卒業して、イギリスやアメリカに留学した同級生たちをよそに、人と同じになりたくない、という思いと、テレビで青春ドラマなどを見て憧れていた日本に行きたいという漠然とした思いだけで、ひとり東京へ行った。
東京に住んでみると、言葉はほとんどしゃべれないし、狭いアパートで、夢見ていたことと現実は違った。当時は留学生ビザを取るにも身元保証人を見つけるかブローカーを通すしかなかったので、「自分は自力で何とかするのだ」という思いで、正規な留学生ビザも取らずに語学学校へ入った。そして毎日ひたすら日本語を勉強した。
日本の大学に入るには身元保証人の近辺に住むという条件だったので、おじの知り合いが愛知県におり身元保証人になってくれたが、留学生ビザのない私を受験させてくれたのは岐阜大学だった。なぜあの時岐阜大学が受験させてくれたのか今でもよくわからないが、事情を知った受験係の事務の人が手紙をくれて、「普通の試験を受けてみないか」と言ってくれたので、一般の日本人高校生と同じように日本語で試験を受けて工学部に合格した。すぐに友達が出来、先生たちにも良くしてもらい、留学生としてロータリークラブから生活費に相当する額の奨学金をもらい、充実した大学生活を送ることが出来た。いつもいつも一生懸命前向きに勉強し、家庭教師のアルバイトもして、トップで卒業。自分の道を切り開いていった。ドイツにも憧れ、大学でドイツ人の先生に一生懸命ドイツ語を習い、ドイツ留学をも計画した。
大学院に進む時は、日本政府とドイツ政府から奨学金オファーがあり、ますます自分の努力と運の強さに自信を持った。尊敬する教授のいた東北大学を選び、日本国文部省の国費奨学金もたくさんもらえたので、博士課程の途中で結婚して、新しく出来たばかりの留学生会館に住んだ。昼も夜も研究に没頭し、研究成果が何度も全国版の新聞に取り上げられたので、ますます自分のがんばりに自信を持ち、「運命は自分の力で開ける」、と思った。
博士課程を終えるころ、スタンフォード大学やNASAから博士研究員のオファーがあった中でNASAでの研究を選び、日本から見れば憧れの研究所ですばらしいスタートだと、意気揚々とアメリカに渡った。メリーランドのNASA Goddard Space Flight Centerでの研究生活をはじめとし、フロリダの大学、コロラドの国立海洋大気局を渡り歩いて研究実績を積んだ。
コロラドで妻が教会に行くようになり、結婚9年目にして娘が与えられた。
このころ、アメリカでの研究生活は8年目となっていたが、職場の人たちを見ながら、「アメリカで生まれ育ったわけでなく学校教育を受けたわけでもない、アジア人の自分がこの国でどれだけやっていけるのだろう」、と疑問や違和感、不安を感じるようになっていた。ちょうどそんな時に、東北大学の教授がコロラドまで来て、「新しく産官学連携事業として研究所を作るので来てほしいと」言ってくださったので、「これはアメリカでつけた実力を発揮して活躍する機会だ」と、故郷に錦を飾るような気持ちで日本に戻った。研究分野も今までの宇宙と大気の光イメージング計測から生体光計測に広がった。
はじめ仙台郊外に出来ると思っていた研究所が山形市内にできることになり少しがっかりしたが、蔵王と月山の間に広がる自然豊かな山形市に、「こんなところで子育てできるなんて幸せ」と妻は喜んだ。田んぼや畑、果樹園、美しい山河、人情豊かな山形の人たちに囲まれて、娘は伸び伸びと育った。妻は山形南部教会に娘と一緒に毎週礼拝に通っていたが、私は気の向いた時についていって、お客さんとして、みんなに親切にしてもらうのがうれしかった。普段は忙しいこともあり、神経がもたないので、子どもの世話も家のことも何もしなかった。特に、娘と接する時間を大切にしなかったことは、今でも悪かったと思っている。
アメリカ帰りで皆に期待されていると思っていたが、国のプロジェクトはなかなか自分の思うようにいかないことが多く、数年ごとに切り替わりそのたびに状況が変わったり、日本経済も悪くなったりして、困難もたくさんあったし、日本流のやり方や職場の状況に不満や怒りもあった。思い通りに行かない不満やイライラを妻にぶつけたり、教会に行っても「つまらない」と思うようになり行かなくなった時期もあったが、教会の人たちや牧師先生はいつも変わらず親切だった。でも、それは「自分がいい人だから相手も良くしてくれるのだ」と考えていた。「あなたは罪びと」などといわれるのはいやで、自分が退職して現場から離れるまで、神様と距離をおきたいと考えていた。
このような研究にかかわる政策と体制に限界を感じ、共同研究していた会社に、「今の研究をアメリカで進めようじゃないか」と持ちかけたところ、会社も賛同して採用してくれたので、東京本社のメンバーとともに、2007年春、ニュージャージーに赴き、会社の研究所を立ち上げた。 山形を去る前に、山形新聞が特集を組んで3日連載で、私の13年間に亘る山形での研究と大学指導の歩みを「産官学連携の実例」として紹介した。それをもって、自分が山形でやったことの意義が明確になり、自分の足跡を残したことに気持ちの整理がつき、心残りなくアメリカに旅立てると思った。
ニュージャージーでは優秀な部下に恵まれ会社の信頼を得て、世界最高機能の眼科診断イメージング装置の開発に成功したことで、日本の国際競争力を高めることに貢献したと喜びを感じている。
いつもいつも自分は試練と闘っていると思ってきたが、その後ろにどれほど多くの人たちの助けがあったか、今わかる。コロラドで妻と娘を温かく受け入れてくれたFirst United Methodist Churchの人たち、山形を出発するその日の朝までお世話になった山形南部教会の人たち、ホテルの玄関まで見送りに来てくれた友人と隣人たち、仕事先の長野で高速道路のインターチェンジまで見送りに来てくれた教会員のことは忘れない。妻と娘を送り迎えするうちに温かく仲間に入れてくださったニュージャージー日本語教会の皆さん。2013年の元旦礼拝でついに洗礼を受けるに至ったのも、背中を押してくれた人たちのおかげであるし、私をたくさんの人が祝福してくださったことは本当に感謝である。「私がいい人だから」「私が何か良いことをしたから」でなく、ただただ私のために祈り助けてくださったたくさんの人たち、その人たちを通して働いてくださった神様の恵みがようやくわかった気がする。私を今まで祈り支えてくれた妻にも感謝している。
今まで数々の試練があったが、それと同じだけの恵みがあったのだと今は思える。試練はその時は苦しいが、時がたてば記憶の中の一部として遠ざかっていく。しかし恵みは遠ざかることないばかりか、記憶の中の一番近くに残って常に自分に喜びと勇気を与えてくれる。今まで知らずに沢山の神様の恵みを受けてきた私、今まで人に与えることを考えもしなかった私であるが、このみ言葉に出会って、このようになりたいと思うようになった。
「受けるよりは与える方が、さいわいである。」
使徒行伝20:35
感謝します。
月報2014年1~2月号より