「911を振り返って」

ちょうど10年前の今日9月11日、忘れもしない雲ひとつない真っ青な秋空でした。私はちょうど第一機めが突っ込んだ世界貿易センターノースタワーの道を挟んで西側のワールドファイナンシャルセンターの20階、世界貿易センターに面した東向きの窓の近くの席で働いていました。
第一機目が突っ込んだとき、朝7時から働いていた私は、自分の席を離れて仕事を一緒にしていた一人のアナリストの個室にいましたが、ビルの上の階が吹っ飛んだのかと思うくらいの爆発音と激しい振動を感じました。驚いて窓をみたところ、燃えている瓦礫が滝のように降ってきていたのが見えました。これはただ事ではない。とっさにそう思いました。窓側に座っていた人達の顔が引き攣り真っ青になって“Get out!!”と叫び、一斉にみんなが非常階段に向かって走り出しました。自分のカバンを席まで取りに戻るかを一瞬考えましたが、走り出した人達のただならぬ雰囲気に圧倒され、一緒に流れに吸い込まれるように非常階段に向かいました。
非常階段から降りて外に避難したのは、私たちのビル南側のロータリーのところで、ちょうど世界貿易センターサウスタワーと同じストリート上にいました。ノースタワーからまっ黒な煙が大きく南へ流れているのが見えました。少し経って誰かが飛行機が突っ込んだらしいと言っていましたが、最初は商業用セスナ機かヘリコプターか何かだと思い、テロだとは夢にも思っていませんでした。
爆発音と同時に逃げた私たちは、何が起こったのかの事実も情報もわからないまま、ただ為す術もなくボーっと煙を見ていたのですが、そのうち何かがパラパラと落ち始めました。誰かが「あれは人だ!」と叫びました。それは紛れもなく飛び降りている人間の姿でした。信じられない光景でした。
あの人は朝、地下鉄で隣に座っていた人かもしれない。信号で止まっていたとき、前にいた人かもしれない。前を歩いていた人かもしれない。もしかしたら私が知らないだけで同じ時間に通勤してすれ違っていた人かもしれない。その人達が私となんら変わらないこと、その人を自分の生活の一部に見たように思えて見るに耐えられなくなり、ハドソンリバーの方に目を背けました。ちょうどその時対岸のNJ側で、ニューアークに行くには低い高度で飛んでいる飛行機が一機見えました。それが、後ほどマンハッタンに向きを変えサウスタワーに突っ込んだ2機目の飛行機になるとは、その時私は思いもしませんでした。
周りにいた人達は、口に手を当てながら“Oh my god!”“Oh shit!”思い思いに叫びながら見ていましたが、2機目が突っ込んだとき、サウスタワーのほぼ真下にいた私達の誰一人、声を発することができないほどの衝撃でした。一瞬の不気味なまでの静まり返った静寂、そして次の瞬間、人々は絶叫しながら南に向かって一斉に逃げ始めました。それは対岸の火事だと思っていたことが、自分の身に危険が及んでいることを感じ取った瞬間でした。かわいそう、大丈夫なの?あの人達はどうなるの?と思っていたことが、他人事ではなく、まさに今、自分に降りかかっていることなんだと認識した瞬間でした。
転ぶ人もいました、かばんを投げ捨てる人もいました。靴も散乱していました。逃げている最中は何がなんだか分かっていませんでした。しかし、ある程度南に逃げてグラウンドゼロから少し離れたところに行けば、そこはまるで何もなかったかのように穏やかなバッテリーパークシティーの住宅地域で、公園と川辺にプロムナードがあり、快晴の青空の下、暖かい日光を浴びてプロムナードの石の上に腰を下ろしていると、30分も経った頃でしょうか、落ち着きを取り戻して、明日どうやって会社に行けばいんだろう?とか、このまま家に帰ってもいいかな?とか、アパートの鍵も財布も携帯も置いてきたしどうしよう?などと呑気な事を考えていました。
その時です。ゴォーという地響きみたいな音に気づき、目を上げてみると目の前でサウスタワーは上から押し潰されるように崩壊し始めました。崩壊して行ったそのサウスタワーの80階で少しだけ私は働いていたことがありました。私はあそこに居たかもしれないと思いながら、これって本当のことですか?目の前で起こっていることが現実だとどうしても思えず、ショックで突っ立っていました。足が動きませんでした。もくもくと煙がこちらに向かって押し寄せてくるのが見えました。まるで映画のようでした。「戦場みたい。」戦争をしらない私が言うのも変ですが、何故かそう思えました。
そこに居た知らないチャイニーズアメリカンの女の子と、気がつくと手を繋いで一緒に走って逃げていました。どちらが言葉をかけたわけでもなく話した記憶もなく、たまたまそこに居合わせて、でも思うにきっと、同じ思いを無意識のうちに感じ取っていたのかもしれません。一人で逃げても二人で逃げても死ぬときは同じで状況は変わらないのですが、不思議と手のぬくもりが恐怖を和らげ、一人じゃないと感じることができて、そのぬくもりに何故か涙が出そうなほど励まされ勇気付けられました。
人間は一人では生きていけないものですね。実は2機目が突っ込む前、私はノースタワーから手を繋いで2人で飛び降りている人達を見ました。とてもショックでしたし、もし自分だったら、とは思いましたが、それでも全く自分のことのようには思えませんでした。なぜなら肉眼であっても、私は安全なところで見ていたからです。一人で飛び降りても二人で飛び降りても地面に叩きつけられて死ぬのは同じですが、その時、私はその人たちの気持ちがすこし分かったように思いました。どんなに怖かったでしょうか。2度のタワー崩壊の灰を2度被り、その後私はCNNのレスキューボートでチェルシーピアまで無事戻ってくることができました。
多分多くの方々は、リアルタイムで奇跡的に助かった生存者と、亡くなられた方々の話をニュースで聞いていらっしゃると思いますが、私が働いていた野村證券も2名の日本人の方が亡くなられました。皮肉なことにその2名の方は、NY支店で働いている方ではなく、世界貿易センターのノースタワーであるセミナーに参加するために、前日東京からこられた出張者のお二人でした。当日彼らは朝7時に私と同じフロアーでセールス、アナリストの人達と会っています。そしてその後、セミナー前に最上階にあるウィンドーアンダーザワールドに朝食を食べに行かれ亡くなられました。嫌な言い方を許されるとすれば、わざわざNYに死にに来られたとも取れるこの皮肉な運命に、なんとも納得できない気持ちでいました。普段なら居ない人がなぜか被害に遭われた。いつもなら居る人なのに、子供がぐずったから、出掛けに何かが起こったから、下にベーグルを買いに行ってたから等、偶然とは片付けられないようなエピソードを山ほど聞きました。一体これは何なのだろう?私たちには考えも及ばない何かがあるように感じてはいましたが、それは「運命」とか「宿命」とか、そういうもののように思っていました。
その当時の私は、宗教と政治、お金は切り離せないものだと思っていました。自分の宗教をリスペクトしないから相手を殺す。そういう宗教も存在していますし、日本で宗教とされる神道や仏教は、冠婚葬祭など伝統的な儀式的な意味合いが主であって、政治色の強い過激的なものは感じられず、宗教なんてそれでいんじゃないの程度に思っていました。ジョンレノンのイマジンの歌詞のように、天国や地獄がないと思えば、宗教がなければ、人は殺し合い死ぬこともない。戦争や飢餓、貧しさをなくす為に、すべての人類が国や宗教を超え兄弟として世界がひとつになることが、宗教より大切で必要なことではないだろうかと当時は思っていました。
しかし、10年経った今、その時と今の私の大きな違いは、私はクリスチャンであり、神様の存在を信じていることです。この世には、神様が本当にいるの?と思うようなことがあります。天災、戦争、テロ、虐待、いじめ、飢餓、貧困等があり、この先もなくならないでしょうし、人間の残虐さ、身勝手さを見る度に、この人のためにも神様は死んだの?と疑問を感じることもこれからもあるだろうと思います。自然の恐ろしさに何故こんな惨いことが起こるの、神様がいるのに?と何度もまた同じところに戻り、立ち止まることもあるだろうと思いますが、それでもクリスチャンになった今、私は信じない者ではなく信じる者になりたいと思っています。
聖書を学ぶようになってこの世が本番ではなくリハーサルのようなもの、この世が全てではないことを学びました。キリスト教とされる私たちが信じている神は、宗教ではなく真実であることを知りました。
何故信じる者になりたいと思うようになったかというと、それは、礼拝のメッセージを通して繰り返し繰り返し聞く神のみ言葉と、真実で正直なクリスチャンの証の中に、ただの知識や絵空事ではないものを感じ取ることができたからだと思います。
人は他人を100%理解することはできません。相手の立場に立つことも難しいです。同じものを見ても聞いても、人それぞれ感じ方も心に残るポイントもリアクションもそれぞれです。しかし、テロリストも含め亡くなった全ての人に共通していることは、その一人ひとりに生きてきたストーリーがあり、一人ひとりの思いがあり、産んでくれた母親がいて父親がいて家族友人がいること、神様から命を受けこの世に存在していたこと。正義と悪だけで単純に片付けられないひとりひとり命の重みがあったこと。を思います。生も死も私たちの理解を超えて、神のみの領域のように思えてなりません。洗礼を受けるまで多くの疑問をぶつけては、納得できないと神を信じられないと思っていた私ですが、私たちの理解や納得自体が、すごく小さなことで、私たちの理解を遥かに超えた大きなものがいっぱいあることを、自分の理解力をどれだけ過信していたのかも思うようになりました。
アブラハムのように行き先(将来)が見えなくても、ノアのように何の兆しが見えなくても、自分が何ができるわけでもなく何も変えられなくても、自分が願っていることが叶わなくても、それを超えてもっとずっと先にある、神様が用意してくださっているものを信じて、神様と共に働く者になりたいと思いました。信じること(信仰)にしか得ることができない希望を、私も持ちたいと思いました。

最後に、イマジンではなく、このマザーテレサの祈りを911と震災で亡くなられた方々と遺族に捧げます。911と震災を通して私たちがさらに神様に近づけますように、私たちが愛ある人へ導かれますように、そして、神様と共に働く者とさせていただきたいと願いを込めて、お読み致します。
『兄弟姉妹の中にあなたを』マザーテレサ
主よ、私たちの目が
兄弟姉妹の中にあなたを見出しますように。
主よ、私たちの耳が
苦しむ人々の叫びを聞き取りますように。
飢えと寒さ、恐怖と抑圧に
さいなまれる人々の嘆願を。
主よ、私たちの心が
互いに愛し合うことを学びますように
あなたが私たちを愛されたようにその同じ愛で。
主よ、あなたの“霊”を
今日も私たちにお与えください。
あなたの名において
私たちがひとつの心
ひとつの魂となれますように。アーメン。

月報2011年10月号より

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