私は、幼いときから誰よりもこの自分を知りたいという強い願いがありました。一生懸命勉強をしたら、いずれかこの願望が叶うと信じていましたし、その為努力を一杯積んできました。だから、大きくなってから、私は生命科学の道を選びました。
それと同時に、自分も自然に幸せになれると思っておりました。
しかし、その考えに大きな落とし穴があると言う事に最初に気づいたのは、大学にいた頃、私の同級生が一時成績が最良でなかっただけの理由で、自殺をした事でした。
自分をを知るため勉強をしたのに、なぜその途中で自分を死に追い込まなければならないのか。それは、幸せを感じなかったではないのか。
そう思いながら、私は、そもそも幸せが何かを、考え始めたのです。
自分の肉体のことをいくら知っても、心が幸せじゃなければ、それは自分が自分を知るということにはなってない。
卒業の後、私は臨床と研究とビジネスの道を歩み、二十年を過ぎました。その間も、自分自身も色々な人生の難関に出会いました。
心の安らぎを求める為、私は一時期いろんな“心豊かな“人と友達になり、そして成功した人が書いた書物も一杯読みました。心の教養レベルがこれで上がると信じたわけです。
名声ということに興味が沸いた時があります。他の人たちの“リーダー”となって有名になることさえできれば、心豊かな有意義な人生を送れるのではないかと思ったのです。その名声というのは、なにも学問とか能力とかにこだわらなくてもいいと思ってました。
それに大きな疑問をかけたのは、去年夏ごろ故郷中国上海に帰ってからでした。その時、私は昔の中学校の同級生達の同窓会を参加しました。気づいて悲しくなったのは、彼らの多くが、自分が他人より優れてることに凄くこだわっている事でした。彼らは、ひたすら自分がどれだけ裕福なのか、どれだけ事業に成功してるのか、どれだけ会社で高い位置についてるのかを見せびらかし、他の人たちの“リーダー”になりたがってました。彼らは、明らかに、高度発展の社会の悪の誘惑に負けたのです。人間性は生まれながら弱い、それに抵抗するために高い霊性を持たなければならないと私はその場でふっと思ったのでした。
アメリカで、私の以前からの親友にこの感想を持ち出して話したところ、クリスチャンであるその方からクリスチャンへの信仰を勧められました。今までの十年間、私は以前も何度も行ったり行かなかったりクリスチャンの礼拝に参加した事もありましたが、この時はじめてイエス・キリストを信じる決意をしました。『あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。』(詩篇119:105)
人間はみな弱みを持ってます。その弱みを克服するためには、肉体と心を知るだけでは足りません。信仰によって、より高い霊性を養わなければいけません。その霊性とともに、自分を愛し、そして他人も愛する。それは、まさに、イエス・キリスト自身の歩みではないでしょうか。。『愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで心理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。』(コリント人への第一の手紙13:4-7)
主イエス様。私はあなたを必要としています。あなたが私の罪のために身代わりとして十字架にかかって死んで下さったことを感謝します。私の罪を赦し、私を清めてくださったことを感謝します。私は今あなたを、私の救い主、人生の主としてお迎えいたします。私の人生を導き、私をあなたが望んでおられるようなものに変えてください。アーメン。
月報2016年3~4月号より