「洗礼に導かれて」

私は明治生まれの父と大正生まれの母の元、2男4女の6人兄姉の末っ子として躾の厳しい家庭に育ちました。そんな私が家族の大反対を押し切って国際結婚をして2人の娘に恵まれました。言葉も習慣も育ちも違う二人ですから、喧嘩もよくしました。
私の家庭は仏教ですが、夫はカトリックだったので娘たちは生後3ヶ月で幼児洗礼を受けました。私と神様との出会いはこの時からです。しかしながら、私は親の反対を押し切って結婚したので、親不孝をしている思いから、国籍と宗教は親の生きている間は変えない方がいいと考えて居ました。
母は80歳を過ぎてから、胆石、胆管炎、腎臓結石と3回の手術をしました。86歳の時には動脈瘤が見つかり、手術をする筈だったのですが、若い人なら血管も弾力性があり、手術にも耐えられるけど、母は年齢的にも血管がおせんべいの様にバリバリになっている為に、体力と血管が手術に耐えられるか、五分五分だと主治医からお話がありました。選択肢は好きな物を食べて普通に生活をさせて上げて3~4ヶ月か、手術をして、万が一成功してもずっと病院で完治をするまで耐えられるかどうか、という話でした。そして父の下した判断は今のままで好きなようにさせて上げたいという事でした。そして兄から連絡が有り、最後のお別れになるかも知れないので直ぐに帰って来るようにと言われて、急遽、母の看病に帰りました。
その頃、夫はアメリカ空軍をリタイヤして教師をしていたのですが、横須賀基地の中にある軍人の子供達が通う学校に移動が決まっていました。9月には転勤になるのでそれまでは、母に頑張って居てほしいと思っていたのですが、7月末に母は亡くなり、父からは9月に帰ってくるのだからお葬式にはかえって来なくてもよいとの事でした。今も母を思い出すと亡くなった姿を見ていないので元気に笑っています。
父は70歳の時に大腸癌を手術してそれから20年再発もなく元気になって、陶芸に没頭して母が生きている時から二人で仲良くやっていましたが、母がなくなって、2年後に腸閉塞で亡くなりました。その頃、私は日本に居たにもかかわらず仕事をしていたので、父は元気だったし何時でも会えると思っていました。知らせを受けて病院に駆けつけた時には、手術中でした。それから2日後に目を覚ます事もなく亡くなりました。私は母の時はお別れが出来ていたのですが、父は突然だったので、悔いが残りました。
その頃、夫は横須賀基地内の学校を辞めて、日本の大学で講師として教鞭を取っていました。日本には2年の滞在のはずが11年も住んでいました。
その間には次女が結婚して、二人の孫が出来て、長女も結婚して、待望の赤ちゃん(ジャック)が生まれました。しかし出産して3日後に退院する直前に心臓に2箇所も欠陥が見つかり、直ぐに手術をしなければ命にかかわるということで、大手術を受けました。
私は、産後の手伝いに日本から来るはずだったので急遽日にちを変更して飛んで来ました。病院に直行してジャックを見た時には声も出ないくらいのショックでした。胸には大きな絆創膏が貼ってあり体中に管が着いていて、顔はパンパンに腫れあがり、可哀想で涙が止まりませんでしたが、それでも大きな泣き声ですごい生命力を感じました。娘はこの子は神様が授けてくれたんだから大丈夫だと気丈に看病をしていました。
ほんとに神様はこの子を助けてくれるのか半信半疑な気持ちでした。娘夫婦は朝に晩に病院内の教会で祈り、自分達が行っている教会の牧師さんや仲間には励まされ、お祈りをしてもらっていました。それから10日後、副作用もなく、傷口は痛々しいのですが、7ポンドの小さなジャックは家に帰ってきて、傷も日増しに完治していき、この時は、神様ありがとうってほんとに感謝しました。

私の夢は、将来は夫と孫の面倒を見たり、ホリデーには家族で集まったりして、みんなで楽しく、そして老後はあちこち旅行などして、ゆっくりと過せたら、なんて思っていました。子育ても夫の転勤先にも付いて行って、仕事もして、慣れた頃には又移動でしたが、その夢に向かっていました。
でも、夫の夢は、私とは同じ方向に向いてなく、残り少ない人生で、もう一度青春を取り戻したい、その思いが年齢を重ねる事に大きく膨らんでいったようです。
それから、私の苦悩の日々が幕を開け、5年間は精神的にズタズタになっていました。娘達にも心配を掛けてしまい、疲れ果てて、40年間の結婚生活に幕を降ろしました。親の離婚は大人になった娘達にも深い傷を負わせてしまいました。私は親の反対を押し切って結婚したのだし、夫も離婚なんて絶対しないと言っていたので、一人になってこれからどうしたらいいか、日本に居る兄姉たちは日本で暮らしたほうがいいと言ってくれたのですが、とにかく長女の居るニューヨークに行こうと決心をして、今まで両親の位牌を置いて、毎日朝のお参りは欠かさずしていた私が、心機一転、位牌を兄に頼んで、私は孫の命を救ってくれた神様のところへ、娘の教会に行きたいと思っていました。
ところが、娘たちはもう完全なアメリカ人であって、日本のように親との同居なんて、考えないし、有り得ない事。そこへ私がボロボロでやって来たのだから、青天の霹靂です!「しかし、今は母を受け入れなくては・・・。来てしまったのだから。」というところだったのでしょう。
それからは私と娘と婿殿の葛藤の日々が続きました。娘達の教会に行っても英語なので分らず、パスターも教会の方々も、私のお友達探しをしてくれるなど、優しい方ばかりでしたが、毎週行っているうちに、自分にあった教会を探したいと思うようになりました。2箇所ばかり行ったのですが、なかなか、「ここだ!」という教会にめぐり合えませんでした。離婚の手続きのために、娘が親の間に入って苦しんで傷ついて、気の毒な事をしました。娘はパスターや教会の皆様にお祈りしてもらっていました。そのときにはわかりませんでしたが、私もその祈りの中で、神様に助けていただいたのだと思います。
そして、月日は一年以上も過ぎて、娘夫婦と私の間の溝が大きくなっていく中で、神様にニュージャージー日本語キリスト教会に導かれました。あの時の感激は今も思い出します。やっと出会えた・・・と思いました。ほんとに嬉しかったです。
そして錦織先生との面談、バイブルの勉強、礼拝、一日も欠かさずに楽しくて仕方がありませんでした。そんなある日、初心者のためのバイブルの勉強をしていた時です。終わりに近付いてお祈りをする頃に、二人の若い女の子が入って来て先生と挨拶をしました。その瞬間、私はこの一人の女の子が別れた夫の新しい奥さんだと気づいたのです。
それは、夫が新しい人と住んでいた所から、ニュージャージーに引っ越して来ているのを娘達にメールで知らせて来ていたからです。娘とミツワや美容院、ドクターに行くたびに「会わなければいい」と何時もヒヤヒヤしていたのに、教会で出会うなんて・・・。私は礼拝堂に入り、彼女が前の方で座っている姿を見ながら、夫に対しての悔しさとか未練とかではなく、やっと好きな教会に出会えて、神様に助けを求めて来ているのに、何で、こんな事が起きるのか、私は直ぐに席を立って教会を出ようと思いました。でも、何で私が出て行かなくちゃいけないの?神様が導いてくれたんだから、何故?こんなひどい出会いを神様は私にさせるのか?涙が止まりませんでした。
そして先生のお話を聞いてるうちに、逃げない。ここは私が救われる教会だから。そして、神様が助けてくれました。この日から私の洗礼を受ける決意が固まったように思います。
今思えば、あの時の出来事は、神様が何時もヒヤヒヤして毎日を送っている私に、「私を信頼しなさい」と、荒治療をして下さったような気がします。そして10月21日に洗礼を受ける事が出来、感謝してます。

これからは迷う事無く神様の導いて下さる道を歩んで行きたいと思います。

“The Lord will watch over your going out and coming in from this time and forever.” Palms(詩篇)121:8

月報2011年11月号より

「911を振り返って」

ちょうど10年前の今日9月11日、忘れもしない雲ひとつない真っ青な秋空でした。私はちょうど第一機めが突っ込んだ世界貿易センターノースタワーの道を挟んで西側のワールドファイナンシャルセンターの20階、世界貿易センターに面した東向きの窓の近くの席で働いていました。
第一機目が突っ込んだとき、朝7時から働いていた私は、自分の席を離れて仕事を一緒にしていた一人のアナリストの個室にいましたが、ビルの上の階が吹っ飛んだのかと思うくらいの爆発音と激しい振動を感じました。驚いて窓をみたところ、燃えている瓦礫が滝のように降ってきていたのが見えました。これはただ事ではない。とっさにそう思いました。窓側に座っていた人達の顔が引き攣り真っ青になって“Get out!!”と叫び、一斉にみんなが非常階段に向かって走り出しました。自分のカバンを席まで取りに戻るかを一瞬考えましたが、走り出した人達のただならぬ雰囲気に圧倒され、一緒に流れに吸い込まれるように非常階段に向かいました。
非常階段から降りて外に避難したのは、私たちのビル南側のロータリーのところで、ちょうど世界貿易センターサウスタワーと同じストリート上にいました。ノースタワーからまっ黒な煙が大きく南へ流れているのが見えました。少し経って誰かが飛行機が突っ込んだらしいと言っていましたが、最初は商業用セスナ機かヘリコプターか何かだと思い、テロだとは夢にも思っていませんでした。
爆発音と同時に逃げた私たちは、何が起こったのかの事実も情報もわからないまま、ただ為す術もなくボーっと煙を見ていたのですが、そのうち何かがパラパラと落ち始めました。誰かが「あれは人だ!」と叫びました。それは紛れもなく飛び降りている人間の姿でした。信じられない光景でした。
あの人は朝、地下鉄で隣に座っていた人かもしれない。信号で止まっていたとき、前にいた人かもしれない。前を歩いていた人かもしれない。もしかしたら私が知らないだけで同じ時間に通勤してすれ違っていた人かもしれない。その人達が私となんら変わらないこと、その人を自分の生活の一部に見たように思えて見るに耐えられなくなり、ハドソンリバーの方に目を背けました。ちょうどその時対岸のNJ側で、ニューアークに行くには低い高度で飛んでいる飛行機が一機見えました。それが、後ほどマンハッタンに向きを変えサウスタワーに突っ込んだ2機目の飛行機になるとは、その時私は思いもしませんでした。
周りにいた人達は、口に手を当てながら“Oh my god!”“Oh shit!”思い思いに叫びながら見ていましたが、2機目が突っ込んだとき、サウスタワーのほぼ真下にいた私達の誰一人、声を発することができないほどの衝撃でした。一瞬の不気味なまでの静まり返った静寂、そして次の瞬間、人々は絶叫しながら南に向かって一斉に逃げ始めました。それは対岸の火事だと思っていたことが、自分の身に危険が及んでいることを感じ取った瞬間でした。かわいそう、大丈夫なの?あの人達はどうなるの?と思っていたことが、他人事ではなく、まさに今、自分に降りかかっていることなんだと認識した瞬間でした。
転ぶ人もいました、かばんを投げ捨てる人もいました。靴も散乱していました。逃げている最中は何がなんだか分かっていませんでした。しかし、ある程度南に逃げてグラウンドゼロから少し離れたところに行けば、そこはまるで何もなかったかのように穏やかなバッテリーパークシティーの住宅地域で、公園と川辺にプロムナードがあり、快晴の青空の下、暖かい日光を浴びてプロムナードの石の上に腰を下ろしていると、30分も経った頃でしょうか、落ち着きを取り戻して、明日どうやって会社に行けばいんだろう?とか、このまま家に帰ってもいいかな?とか、アパートの鍵も財布も携帯も置いてきたしどうしよう?などと呑気な事を考えていました。
その時です。ゴォーという地響きみたいな音に気づき、目を上げてみると目の前でサウスタワーは上から押し潰されるように崩壊し始めました。崩壊して行ったそのサウスタワーの80階で少しだけ私は働いていたことがありました。私はあそこに居たかもしれないと思いながら、これって本当のことですか?目の前で起こっていることが現実だとどうしても思えず、ショックで突っ立っていました。足が動きませんでした。もくもくと煙がこちらに向かって押し寄せてくるのが見えました。まるで映画のようでした。「戦場みたい。」戦争をしらない私が言うのも変ですが、何故かそう思えました。
そこに居た知らないチャイニーズアメリカンの女の子と、気がつくと手を繋いで一緒に走って逃げていました。どちらが言葉をかけたわけでもなく話した記憶もなく、たまたまそこに居合わせて、でも思うにきっと、同じ思いを無意識のうちに感じ取っていたのかもしれません。一人で逃げても二人で逃げても死ぬときは同じで状況は変わらないのですが、不思議と手のぬくもりが恐怖を和らげ、一人じゃないと感じることができて、そのぬくもりに何故か涙が出そうなほど励まされ勇気付けられました。
人間は一人では生きていけないものですね。実は2機目が突っ込む前、私はノースタワーから手を繋いで2人で飛び降りている人達を見ました。とてもショックでしたし、もし自分だったら、とは思いましたが、それでも全く自分のことのようには思えませんでした。なぜなら肉眼であっても、私は安全なところで見ていたからです。一人で飛び降りても二人で飛び降りても地面に叩きつけられて死ぬのは同じですが、その時、私はその人たちの気持ちがすこし分かったように思いました。どんなに怖かったでしょうか。2度のタワー崩壊の灰を2度被り、その後私はCNNのレスキューボートでチェルシーピアまで無事戻ってくることができました。
多分多くの方々は、リアルタイムで奇跡的に助かった生存者と、亡くなられた方々の話をニュースで聞いていらっしゃると思いますが、私が働いていた野村證券も2名の日本人の方が亡くなられました。皮肉なことにその2名の方は、NY支店で働いている方ではなく、世界貿易センターのノースタワーであるセミナーに参加するために、前日東京からこられた出張者のお二人でした。当日彼らは朝7時に私と同じフロアーでセールス、アナリストの人達と会っています。そしてその後、セミナー前に最上階にあるウィンドーアンダーザワールドに朝食を食べに行かれ亡くなられました。嫌な言い方を許されるとすれば、わざわざNYに死にに来られたとも取れるこの皮肉な運命に、なんとも納得できない気持ちでいました。普段なら居ない人がなぜか被害に遭われた。いつもなら居る人なのに、子供がぐずったから、出掛けに何かが起こったから、下にベーグルを買いに行ってたから等、偶然とは片付けられないようなエピソードを山ほど聞きました。一体これは何なのだろう?私たちには考えも及ばない何かがあるように感じてはいましたが、それは「運命」とか「宿命」とか、そういうもののように思っていました。
その当時の私は、宗教と政治、お金は切り離せないものだと思っていました。自分の宗教をリスペクトしないから相手を殺す。そういう宗教も存在していますし、日本で宗教とされる神道や仏教は、冠婚葬祭など伝統的な儀式的な意味合いが主であって、政治色の強い過激的なものは感じられず、宗教なんてそれでいんじゃないの程度に思っていました。ジョンレノンのイマジンの歌詞のように、天国や地獄がないと思えば、宗教がなければ、人は殺し合い死ぬこともない。戦争や飢餓、貧しさをなくす為に、すべての人類が国や宗教を超え兄弟として世界がひとつになることが、宗教より大切で必要なことではないだろうかと当時は思っていました。
しかし、10年経った今、その時と今の私の大きな違いは、私はクリスチャンであり、神様の存在を信じていることです。この世には、神様が本当にいるの?と思うようなことがあります。天災、戦争、テロ、虐待、いじめ、飢餓、貧困等があり、この先もなくならないでしょうし、人間の残虐さ、身勝手さを見る度に、この人のためにも神様は死んだの?と疑問を感じることもこれからもあるだろうと思います。自然の恐ろしさに何故こんな惨いことが起こるの、神様がいるのに?と何度もまた同じところに戻り、立ち止まることもあるだろうと思いますが、それでもクリスチャンになった今、私は信じない者ではなく信じる者になりたいと思っています。
聖書を学ぶようになってこの世が本番ではなくリハーサルのようなもの、この世が全てではないことを学びました。キリスト教とされる私たちが信じている神は、宗教ではなく真実であることを知りました。
何故信じる者になりたいと思うようになったかというと、それは、礼拝のメッセージを通して繰り返し繰り返し聞く神のみ言葉と、真実で正直なクリスチャンの証の中に、ただの知識や絵空事ではないものを感じ取ることができたからだと思います。
人は他人を100%理解することはできません。相手の立場に立つことも難しいです。同じものを見ても聞いても、人それぞれ感じ方も心に残るポイントもリアクションもそれぞれです。しかし、テロリストも含め亡くなった全ての人に共通していることは、その一人ひとりに生きてきたストーリーがあり、一人ひとりの思いがあり、産んでくれた母親がいて父親がいて家族友人がいること、神様から命を受けこの世に存在していたこと。正義と悪だけで単純に片付けられないひとりひとり命の重みがあったこと。を思います。生も死も私たちの理解を超えて、神のみの領域のように思えてなりません。洗礼を受けるまで多くの疑問をぶつけては、納得できないと神を信じられないと思っていた私ですが、私たちの理解や納得自体が、すごく小さなことで、私たちの理解を遥かに超えた大きなものがいっぱいあることを、自分の理解力をどれだけ過信していたのかも思うようになりました。
アブラハムのように行き先(将来)が見えなくても、ノアのように何の兆しが見えなくても、自分が何ができるわけでもなく何も変えられなくても、自分が願っていることが叶わなくても、それを超えてもっとずっと先にある、神様が用意してくださっているものを信じて、神様と共に働く者になりたいと思いました。信じること(信仰)にしか得ることができない希望を、私も持ちたいと思いました。

最後に、イマジンではなく、このマザーテレサの祈りを911と震災で亡くなられた方々と遺族に捧げます。911と震災を通して私たちがさらに神様に近づけますように、私たちが愛ある人へ導かれますように、そして、神様と共に働く者とさせていただきたいと願いを込めて、お読み致します。
『兄弟姉妹の中にあなたを』マザーテレサ
主よ、私たちの目が
兄弟姉妹の中にあなたを見出しますように。
主よ、私たちの耳が
苦しむ人々の叫びを聞き取りますように。
飢えと寒さ、恐怖と抑圧に
さいなまれる人々の嘆願を。
主よ、私たちの心が
互いに愛し合うことを学びますように
あなたが私たちを愛されたようにその同じ愛で。
主よ、あなたの“霊”を
今日も私たちにお与えください。
あなたの名において
私たちがひとつの心
ひとつの魂となれますように。アーメン。

月報2011年10月号より