「一人の人のために立ち止まる」

この夏、私はIris Relief Japanというクリスチャン伝道チームのボランティア活動に2週間参加して、3月の地震と津波で大きな被害を受けた仙台と石巻に行きました。この体験は、私の人生において最もすばらしい体験と言っても過言ではないような、驚異的なものでした。

アイリス・チームの活動は、福音を伝えることを第一としています。毎日私たちは避難所や仮設住宅に出かけたり、仙台の街を歩き回って、多くの人々と話をして、傍らに座って話を聞き、祈り、御言葉を語り、時には癒しや奇跡も行いました。私達は聖霊に完全に覆われて、神様は常に私達の行動の中心にいてくださいました。

この2週間の間とても多くのすばらしい出来事が起こりましたが、その中から仙台の路上で伝道中に出会った一人の男性についてお証ししたいと思います。私達は2回、夜中の仙台の繁華街を歩き、酔っぱらいや売春婦達に伝道しました。少し怖い経験でしたが、2週間の体験の中で一番心に残るものになりました。

2回目に夜の繁華街に出ていった時のことです。私のチームが裏道に入ってパチンコ店の横を通り過ぎた時、メンバーのうち二人がそのパチンコ店に入るように神様から語られるのを感じました。正直なところ、私は怖くて中に入りたくありませんでしたが、通訳をしなくてはならないので、仕方なく彼らについて中に入って行きました。パチンコ店に入るのは初めてで、そこはまるで地獄のような情景でした。ずらりと並んだパチンコ台の前で、人々は催眠術にかかったかのようにスクリーンに見入っている。スクリーンには怪物や燃えたぎる炎などが次々と映し出される。そして凄まじい音!小さな金属の玉が機械からジャラジャラと流れでて、タバコの煙と体臭が混じってひどい悪臭が充満していました。

それでも私達は神様に「誰に話しかければいいのですか?」と問いかけながら進んで行きました。ぐるっと一周して入口近くに戻ってくると、そばに漫画が並んだ本棚があり、その横のソファーで一人の男の人が漫画を手に座ったまま眠っていました。私達が彼を見ていると、急にその手から漫画が落ちて彼は目を覚ましました。今から思えば、あれはきっと「この人に語りかけなさい」という神様からのGOサインだったのでしょう。

その人は、津波で自宅が全壊してしまい、自宅付近の避難所で2ヶ月生活した後、生活を立て直そうと仙台市内に出てきたのだそうです。私達が訪れた頃、仙台市の中心地はかなり平常に戻っていて、東京と同じようでした。しかし、彼は仙台で住む所を見つけられず、ただ市内を放浪していたのです。話を聞くうちに、私達3人は神様から同じようなことを語られました。それは、この人は行き場がなくてさまよっているだけじゃなく、心も魂も失ってしまっていて、何かを求めているのだということでした。彼は答えを探していました。どうしてあんな津波が起こったのか、何故善人が死んで悪人が生き残ったのか、何故自分は死ななかったのか。もし死んでいった人々を生き返らせることができるのなら、自分は死んでもかまわないと彼は話してくれました。

私達は彼に、神様は津波の被害に深く悲しんでおられる、決して津波が起こることを望んでおられたのではないと伝えました。神様が天地を創造された時、地震や津波は造られなかった。平和だった世界に罪が入ったことで、すべてが変わってしまったということ、そして、神様は私達に自由な意志を与えてくださったから、人は善と悪の両方を行うのだということも話しました。

彼に聖書を手渡してお祈りをして、近くの教会の連絡先を教えました。最後に彼はこう言いました。「電話するよ。この聖書読んで分からないことがあったら、この番号に電話するよ。」私は彼が、聖書を読んでみよう、電話してみようと思ったのだと信じています。

このパチンコ店の男の人の話は、災害に見舞われた多くの人々がたどってきた道と似ているのではないでしょうか。だからこそ、この話は私にとって一番思い出深い話なのだと思います。彼には神様が必要です。地獄のような状況で疲れ果て、心に深い傷を負い、多くの疑問を抱えているのです。仙台では多くの人々が同じような状況にあります。しかし、神様は働き手を送られます。イエス様を送られたように、人々を愛するようにと私達を遣わされます。そして、私達が人々を愛し、寄り添い祈る時、神様が私達のうちに働いてくださるのです。

この他にも病気やケガの癒しや奇跡など、もっとすごいことも体験しました。でも、このパチンコ店でのでき事のような体験のほうが、私の心には強く響いています。私達がIris Reliefでしたこと、人々と話をしたり寄り添うこと、それは2000年前にイエス様がされたことを思い出させてくれました。マタイ、マルコ、ルカ、そしてヨハネの福音書にはイエス様が一人の人のために立ち止まり、その人の横に座り、苦しみ悩みを聞き、祈り、その人を愛したという記述がたくさんあります。これこそが、神様が私達一人ひとりに求めておられる務めなのだと思います。一人の人のために立ち止まり、その人と話をするためならパチンコ店にでも入っていく、そしてその人を愛して救いへと導く。

Irisのメンバーは確信をもってこの方法で活動しています。一人ひとりのために立ち止まり、ハグして、神様の愛を降り注ぐ。もう一度繰り返しますが、その人を私達が愛した時、神様が私達のうちに本当に働いてくださるのです。最後にIris Reliefのリーダー、Yonnieが私達に教えてくれた言葉で締めくくりたいと思います。

「私達の仕事は人を愛すること、その人を癒すのは神様のみわざ」

月報2011年9月号より

「11年前、私が家族と共に…」

初めての礼拝
 11年前、私が家族と共にアメリカの西海岸のサンノゼに着いたばかりの頃でした。私の父の知り合いのTさんに台湾系キリスト教教会へ連れていってもらったのが、教会との付き合いの始まりでした。Tさんが、「誰でも外国へ来たばかりの時は、知り合いも無くとても不安なものだ。そういう時、教会というコミュニティで仲間を見つけたり情報交換や情報収集をする場でもあるから来たらいいよ。」と教えてくれました。なるほど、お祈りや礼拝以外にも、教会にはそんな利用方法もあるんだと知りました。不慣れな外国生活でしたので、毎週礼拝にも家族で参加をしました。そのついでに情報を仕入れることも出来ました。その教会では中国語での礼拝、中国語の聖書しか置いていなかったので、私は数回でギブアップしてしまいました。始めて教会に足を踏み入れた私にとっては、未知の世界に等しかったのです。唯一のより所である聖書が無くてはと思いました。サンノゼでの1年は過ぎ、その間私の妻は洗礼を受けました。主がわれわれ家族をこの地を目指すよう、導いてくれたことに感謝します。

聖書
サンノゼでの生活も1年を迎える頃、日本でも仕事で4年間生活をした経験のある、Sさんから1冊のポケットサイズの日英対訳の新約聖書をプレゼントされました。この聖書はSさんが日本に滞在していた頃に購入したものとの事。これでやっと私も自分の聖書を持つことが出来たと大変喜んだのですが、新約聖書はマタイの福音が冒頭にあります。たいていの人は誰でも、書物は1ページ目から開いて読もうとするでしょう。しかしこのマタイの第一章の17節までを読んで理解することは、至難の業のように思えてなりませんでした。こんな系譜のような長い文章を暗誦するなんて出来るわけが無い。最初から大きな高い壁にぶつかったような気持ちでした。何の予備知識も無い私が読むのはやはり無理がありました。いつか読むぞと、常にコートのポケットには入れて持ち歩いてはいました。しかしニュージャージーの教会へ行くまでの数年間、聖書を開いて読むことは稀でした。

ニュージャージーで再び
メリーランドで1年半を過ごした後、8年前にニュージャージーに越してきました。ここの生活にも慣れ、暫くは移動も無いだろうと、5年程前、ニュージャージーの北部で私の妻が教会を探していたところ、付近の中国系のスーパーであるクリスチャン同士の会話を耳にし、問い合わせたところWyckoffにキリスト教教会があることを聞き出しました。中国語での礼拝だったので、当初は私の妻だけが礼拝に参加をしていました。暫くの後、英語の礼拝もあるからと妻に誘われました。少しでも英語が解るなら行った方がいいと、私も娘と共に英語の礼拝に参加するようになりました。私も一生懸命集中して聞いていると、メッセージの輪郭がぼんやりとだけですが伝わってきました。また、メッセージを聞き終えた後“心地よさ”のようなものも感じました。

Sinと罪
私が英語の礼拝で特に興味を示したキーワードが“SIN”という句でした。礼拝ではSINまたはSINNERという言葉が頻繁に出ていたのを覚えています。それからそれが“原罪”と日本語で訳されていることを知りました。日英対訳の聖書でも”Sinは罪”と訳されているので注意をすれば解るのですが、私の知っているレベルの英語では、罪人はCriminalという言葉しかありませんでした。Sinには私の知っているCriminalとは別の意味があるんだと。私の持っていた新約聖書だけでは物足りなく感じました。そもそもコンサイス聖書などは、聖書を読んだことのある人が旅行用に持参するのには便利だが、礼拝では旧約をよく参照することがあるから、旧約の無いこの聖書は私にはとても不便でした。どうしても日英対訳の新旧約聖書でしかもNIV版の訳がいいと、オンラインでその聖書を買い求めました。自分で聖書を買ったぞという満足感がありました。手元に届いた時、真っ先に読んだのが、“伝道者の書“でした。聖書の内容にもこんな文学的な箇所があるんだと感動しました。
ニュージャージーに来てから、われわれ家族にとって教会はすでに情報収集の場としてではなく、神様に祈りをささげられる教会としての神聖な場所でした。

聖書の読み方
以前ハーベストタイムと言うテレビ番組がありました。フジサンケイニュースのあと、テレビをつけっぱなしにしていると、次がこの番組であったのを覚えています。私が実際に観たのはそのホームページにあるルカの福音を扱った19回から成る放送でした。聖書の内容について、どのように聖書を読んだらよいのか、解りやすく説明がしてありました。その頃は英語の礼拝にも行かなくなりました。しかし、妻は私に、日本語の教会に行くことを勧めてくれました。インターネットで検索した結果、付近のいくつかの教会のホームページが掲載されていました。教会の中にはカルト集団もあると聞かされていました。何度もそれらの教会の主旨を読み返しました。私の目にとまったのが“福音主義信仰に立つ単立教会”と書いてあった本教会のホームページでした。この教会へ行ってみようと決心したのはこの一言に尽きます。いや、それ以前にも何度もここの教会のホームページは開いていたのですが。

決心
実は今年の春、中国語教会のL牧師のお母様が天に召されました。私もよく知っているL牧師でしたので、葬儀から帰ってきた妻に私は、「どうだった?」と何気なく聞きました。私の質問自体が妙な質問でしたが、「満面幸せそうな微笑をたたえてたよ」と私の思惑を察したように妻は答えました。私は信じました、そして感じました。この方も主を信じ、主にすべてを委ね、生死をも越えて主と共に歩んでおられるんだと。今でもこの一件は強く私の脳裏に焼きついています。私の曖昧な気持ちを打ち消して、新たな生まれ変わりを決心するエピソードでありました。「信じるものには永遠の命がある」ヨハネ6:47
今年の3月の第一日曜に私の聖書と決断を持って、この教会の礼拝に参加しました。心の霧が拭き取られたようにすっきりしました。毎週の礼拝で語られる御言葉が静かに私の中に染み入り、魂の渇きが癒される思いがしました。3月中旬から錦織牧師宅での聖書入門コースを受講、最後の受講が終わった時点で私は錦織牧師に信仰告白と洗礼のお願いをいたしました。受講以前から洗礼を受ける決心は固まっていましたが、錦織牧師へ告白した時はかなり緊張をしていたのを覚えています。
6月12日晴れて洗礼を受けることが出来ました。主イエスキリストを信じ、主と共に歩むことは、生まれ変わった私にとってのよろこびであります。この証しを通して私は“自分の魂は生かされているんだ“という実感と共に、私に信仰への導きと生命を授けてくれた神様へ感謝いたします。「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない」ルカ21:33

月報2011年8月号より