今月は浅野容子姉がお証しを書いてくださいました。浅野ご夫妻は以前、JCCNJのメンバーであり、日本にご帰国後も、住んでおられたその場その場で教会に通い、主に仕えて来られました。今回、原発の事故で山口に避難しておられますが、そのような中で、今回、原稿の依頼を引き受けてくださいました。感謝いたします。祈りつつご紹介します。

「福島から避難して」

懐かしいNJ日本語教会の皆さま、いつも私たちのためにお祈りくださりありがとうございます。震災後一年以上過ぎた今も、私たちは第二の故郷・福島県を離れ、山口県で避難生活をおくっています。
私たち夫婦は退職後、自然の中で自給自足を目指した生活をおくりたい、子どもたちや孫たちにはいつでも来てのんびり過ごしてほしいと願い、福島県葛尾村に移住しました。阿武隈山系に囲まれた人口1500人余り、福島第一原発から約30kmの小さな村です。夫がほぼ独力で建てたログハウス、畑を耕し、鶏を飼い、ささやかな自給生活を楽しんでいました。
昨年3月11日午後2時46分。私は村の加工所仲間の家で、試作のパンをつまみながらお茶飲みしていました。突然、携帯電話の緊急地震警報がウィンウィンと鳴りだすと同時に強い揺れが襲ってきました。横の自動車整備工場の頑丈な建物も倒れるのではないかと思われるほどでした。揺れが少しおさまり自宅に戻るまで、カーラジオ(仙台発)は高い所に避難して下さい!とずっと叫んでいました。道路には大きな石が転がっていて、これは大変なことになった、神さま助けて下さいと祈り続けました。
自宅の建物には損害はありませんでしたが、台所の棚や冷蔵庫はひっくり返り足の踏み場もありません。二階への階段は落ち、薪ストーブもピアノも数十cmずれていました。強い余震がずっと続くなか、ただただ気持ちを静めるために、台所の床に散らばった食器類を片づけ、夫の帰りを待ちました。
郡山市内に通勤していた夫は夜9時過ぎにようやく帰ってきました。JRが不通となったため、会社の車を借り渋滞のなかを戻ってきたのでした。電気は通じていたので沿岸の津波の惨状をテレビで見、私たちはまだ生きているし、家も大丈夫だと感謝しました。一晩中強い余震が続き、眠れないまま朝を迎えました。
翌12日は津波の被害にあい沿岸部から村の福祉センターに避難してみえた方々に毛布や冬物衣類を届け、その後一番近いスーパー(車で30分)まで食糧の買い出しに出かけましたが、すでに商品棚は品薄でした。午後、テレビで福島第一原発が爆発したというニュースが流れました。その時は電話とネットがつながらなくなっており、情報はテレビからしか得られません。夕方の政府発表は曖昧な内容で鵜呑みにしてはいけない、これはまずいことになっているのではないかと直感し、とりあえずの荷物だけを積んで郡山に向かいました。ところが郡山市内も断水、建物の崩落など予想外に被害が大きくどこにも泊まれず、避難所になっていた開成公園という野球グラウンドにやっとたどり着きました。原発近くの市町村からの避難者を待ち受けていたのは、緊迫した雰囲気の中で行なわれるガイガーカウンターによる放射線量検査でした。原発の状況はやはり大変なことになっているのだと、この時、肌で感じました。
その夜から三日間、体育館で過ごしました。津波に追いかけられ泥だらけでやっと逃げおおせた方や、四世代の家族が寝たきりのお年寄りを囲んでいたわりあう姿もありました。原発は安全だと言われて信じていたのに…という声が体育館のあちらこちらから聞こえてきました。娘たちとも連絡が取れず心配をかけてしまいましたが、無事を確認しあえた時は皆、涙、涙で感謝しました。
その後、郡山の会社独身寮、浜松の次女の家、再び会社借り上げのワンルームマンション(郡山)と転々としました。その間に村は「計画的避難区域」に指定されてしまい、全村避難となりました。原発から二十キロメートル圏内の警戒区域と違い自宅への出入りは許されていますが、家の周囲の放射線量は比較的高く、さらに爆発があればもう二度と戻れないのではないかという喪失感に押しつぶされそうで、かつて村で過ごした日々の何気ない一コマ一コマも思い出され、不安な眠れない日々を過ごしました。この間、日本へボランティアに駆け付けて下さった範子姉ともお会い出来たのは何よりうれしい出来事でした。放射線量が高い郡山から避難すべきかどうか悩んでおられる姉妹を訪ね、実際にお聞きし共に祈ったことも忘れ難いことでした。その後、私たちは6月末に下関の実家近くに大移動し、ようやく気持ちが落ち着きを取り戻し始めました。
私は以前から原発の危険性について知ってはいましたが、反対の声を大きく上げることはしてきませんでした。建設後四十年経った古い福島第一原発が廃炉にもならず、それどころか危険なプルサーマル燃料を使用する方針が決まった時にも大丈夫だろうかと疑問に思いましたが、うかつなことに福島県で原発事故は起こらないものと決めてかかっていたのです。でも、こうして事故は起こってしまい、 森林と里山がひろがる緑豊かな村の風景は震災前と何一つ変わらないのに、里山の財産ともいうべき豊かな森、雑木林、水、空気は目に見えない放射能に汚染されてしまいました。原発事故の当事者となって初めて、原子力発電がいかに危険なものか、どれほど人の心をむしばんできたのか、そして、この日本という国は私たち国民のいのち、そして一人ひとりの生活を大切にしない国だということに思いいたりました。私たちが経験した悔しさと怒り、将来への不安を次世代に負わせないために、二度とこういう事故を繰り返さないために、当事者として声を上げ続けていくことも私たちの責務だと思います。手探りですが、このことも主が最善のことをなして導いて下さると信じ、祈りつつ歩みたいと思います。
政府はこの春にも避難区域の見直しを行い、村への帰還を勧めてくるでしょうが、子どもたちや孫たちが遊びに来られない生活は、私たちの望む生活ではありません。今は山口県内で落ち着き先を求めて祈っているところです。今後の生活がどうなるのか、不安がないといえば嘘になりますし、神さま、この状況はいつまで続くのですかとつぶやくときもあります。でも、天に希望をおく私たち夫婦には平安があります。
「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」
コリントの信徒への手紙一10章13節(新共同訳)

津波と原発事故により、今も苦しんでおられる福島の方々のことを忘れないでいてください。忘れないでいることも、原発事故を小さく見せようとする勢力に対する一つの抵抗だと思います。そして覚えてお祈りください。祈りの輪の中に神さまはおられ、その祈りを聞き届けてくださいます。神さまは祈られている者たちを覚えていてくださり、いつか立ち上がらせてくださると信じています。

「泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌とともに希望の朝をむかえさせてくださる。…あなたはわたしの嘆きを踊りに変え 粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました」
詩篇30篇(新共同訳)

月報2012年5月号より