元メンバーで今は横浜にお住まいの中上祐子姉のお母様が、今年の10月3日に天に召されました。お母様はNJに住んでおられた中上姉のご一家を訪ねて、JCCNJにおいでになったこともあります。今回、お願いして中上姉のお母様の召天に際してのお証を頂きましたので、ここに掲載させていただきます。

「主に信頼する者は祝福される」

「主に信頼する者は祝福される」 これは母が最期に残したメッセージです。
去る10月3日、母が天に召されました。
「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」_テモテ4:6,7
この御言葉を思い浮かべることのできるような天への凱旋でした。私が10歳のときに父が天に召されてから女手一つで育ててくれた母は、私にとって最愛の人であり頼りにしていた存在であったと今さらながら気付かされます。

母は父と結婚してまもなく岐阜県瑞浪市で開拓伝道をスタートさせました。牧師夫人として陰で支えていましたが、父が召されて後、今から13年前に母が牧師として仕えるように導かれました。2005年からは名古屋にあるホープチャーチの牧師として仕え始め、今年でちょうど5年目に入るところでした。
今年の初めに母はこの1年の主への決心として「信頼」という言葉を掲げました。「今年は何があっても主に信頼します」そのような決意でいました。
今年、主が自分に何をしてくださるのだろう、という期待をもって歩み始めた1月の半ばに突然の腹痛で病院に行きました。検査の結果、末期の大腸がんで転移もしている、即入院となりました。原発となっている大腸がんの手術がすぐに行われましたが、この手術は成功し、比較的早く退院することができました。
体力が回復してきた頃から、次はリンパに転移しているがんの進行をおさえるための抗がん剤治療が始まりました。それは同時に母の信仰の戦いの始まりでもありました。
苦しい副作用で寝たきりの状態が続くなか、母は主の前に祈り求めていました。
この治療を受けることは本当に主の御心でしょうか?
たくさん、たくさん祈ったことでしょう、今年の初めに主に決心した「信頼」という言葉を通して主からの語りかけをいただき、主と母のあいだで母は抗がん剤治療を受けない、という決心をしました。これは他の人にはなかなか理解されにくいことであったかもしれませんが、私は母自身が祈ってそのように導かれたことだとなぜか容易に受け入れる事ができ、不思議な平安がありました。主が母のその決心をサポートするようにと私の心までも準備していてくださったと信じます。
そして母はその後の抗がん剤治療をやめました。めきめきと体力も回復し、母は牧師としての働きに戻りました。メッセージを語らせていただけること、学びの準備をすること、また平日に教会に行って仕事をすること、また食事ができること、すべてにおいて喜んでいました。
余命は医師から宣告されていたようです。でも自分のいのちは主の御手のなかにあり、主が良し、とされたときには主のもとに行くし、主がまだ、と言われるならばこの地上で主のために働かせてください、というのが母の祈りでした。
母が抗がん剤の治療で苦しいときに、少しでも母の励ましになれば、と思って、今示されていることなど何でもいいから形にしてCDに残してみない?と提案したことがありました。「今はとてもそんな気になれない」、当然ながらそんな断りの返事でしたが、抗がん剤治療を止めてしばらくしたったある日「やっぱりあかしを録音してもらいたいな」、と言ってくれて4月に横浜での録音が実現しました。これが本当に末期のがん患者かと思うほど元気で顔色も良く、何より喜びと活力に満ちていて、娘ながら圧倒されるほどでしたが、心のどこかでこれが最期の録音になるかもしれない、と思いつつ臨みました。
6月には母の念願であった父の召天30周年記念礼拝をすることができ、大きな役割を終えたとホッとしていました。その会は祖父である父のことを全く知らない孫たちに、信仰者としての祖父の姿を知ってほしいという母の祈りに満ちていました。
一つ一つ身のまわりの整理をし、準備して行く母。最期はホスピスで過ごしたいと、こちらも自分で準備していたおかげで、希望通り最期のときをホスピスで過ごしました。
そのホスピスは2009年3月に開院するにあたってボランティアを募集したことがあったのですが、実は母はそのボランティアになるべく研修をしばらく受けていたことがありました。母はもし導きならばこのボランティアの働きを通して、人生の最期を迎える方に福音を少しでも語る機会が与えられれば、という願いもあって研修を受けていたのです。しかし研修を受けて行く毎に、ボランティアの身では語ることは許されない、ということがわかりその研修はやめました。そんなことがあったので、母にとってこのホスピスに入ることはとても不思議な導きであったでしょう。ボランティアの身では語ることが許されなくとも自分が病人としてこのホスピスに入った今、自分には他の病室の方やお見舞いに来てくださる方に自由に語る事が許されている、私は何と幸いなんだろう、と母は喜んでいました。
ホスピスに入ったのは9月の初め。7月頃に「4月に録音したあかしとは違うあかしになっているからまた録り直したい、9月には横浜にまた行くから」と言っていましたが、実現することはありませんでした。その代わりに病室で母のあかしを録音しました。転移したがんのために喉の詰まりがひどく水はもちろん唾も飲み込めないほどでしたが、一度語り始めたら聖霊に油注がれて言葉が溢れ出し、主に導かれるように語りだしました。今でもそのときの姿は目に焼き付いています。母のリクエスト通り告別式にお渡しする物としていつ来るのか分からない、けれど確実に近づいている最期のときのために準備していきました。
9月も終わりに近づこうとしていたある日、いつものようにホスピスにいる母に電話をかけたら、「あと一つだけあかしに付け加えて欲しいことがあるから代読してほしい」と頼まれました。その内容を聞いたとき、私は涙が溢れ出ました。なぜならば、その一言には母が最期に主からいただいた大事な大事なメッセージが詰まっていたからです。次に会いに行くときにわかるようにメモしておいてね、と涙ながら伝えましたが、その次に母に会ったのは母の意識がなくなったという知らせを受けてからでした。メモはちゃんとありました。手に力が入らなくなったような字で最期のメッセージが書かれていました。
「私は今まで高慢な自分であることに気付かなかった。ホスピスに入ってなおも、自分を用いていただきたい、イエス様の働きをもっとさせていただきたいと思っていた。でも主が私にさせたいことは、私が何もできない者であることを教えるためであった。」
このような病になってもなおホスピスでも用いていただけるのなら用いていただきたい、と願っていた母でしたが、現実は日々倦怠感のため病室から出ることさえもできなかった。痛みは緩和されても体力的に談話室に行く事もできなかった。自分が思い描いていた姿とはほど遠かったこの現実に、母はきっと落胆の思いで涙の谷を通ったことでしょう。自分のいのちが尽きるその時まで私を用いてください、そのような祈りが決して間違っているとは思いません。しかし、過酷な幼少時代を過ごした母にとっては、自分ががんばれば何でもできると今まで人一倍がんばって生きてきた、いや、そのように生きるしかなかった母に、主はこのようなところを通してでも最期の最期にどうしても伝えたい大きな大きなメッセージがあったのだとわかりました。
「私の恵みはあなたに十分だよ、何もできなくてもあなたの存在自体を愛している、それで良いのだ」
この主からの語りかけに母は本当の意味で初めて主のみつばさのもとで身を休めたことでしょう。それを現すかのように、丸2日意識がなくなって深い眠りに入っていたときの母は、痛みも全くない状態で実に安らかな顔をしていました。まるで今までの眠りを取り戻すかのように深い息で呼吸し、病室内は何とも言えぬ主の平安で満ちていました。そしてついにこの地上での最期のときには、主からのこの愛のメッセージをにぎりしめながら主の御腕に抱かれ主のもとに行ったことと思います。
決して平坦ではなかった闘病生活、信仰も毎日毎日が戦いであったことが後に母が記した日記からわかりました。それでも「私は後悔は一つもないのよ、大丈夫、主が最善をなしてくださるから」と言っていた母。何もできなくとも母のその信仰の姿こそが多くの人を励まし力づけました。そして何よりも、母が最期に主から受け取ったメッセージは、後に連なる私たちの信仰に大きな祝福と励ましを与えてくれました。たとえ思い描く姿が自分が願っていたようではなくても、なお主の語りかけに耳を傾け続けた、そのような母の主に対する信仰を少しでも受け継げたら、そのように思います。
「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」_テモテ4:8
私たちは皆、いつしかその時を迎えます。その時が来るまで、主に信頼し、勇敢に戦い、走るべき道のりを走り、信仰を守り通すことができるように、互いに祈り合い、愛し合い、励まし合う者とされたいと願います。
堪え難い現実から逃れたいような時があったとしても「あなたの存在自体を愛している」と語ってくださる主がおられるなら、私たちはきっと走るべき道のりを勇敢に走り終えることができる。主を見上げて歩んで行きたいと思います。
全てを主に感謝して。

月報2010年12月号より