「僕の親は二人とも聖書学院卒業生だったので…」

僕の親は二人とも聖書学院卒業生だったので、僕は小さい頃から絵本になっている聖書など、神様、又はイエス様の存在は知っていました。小さい頃はイエス様が語った百匹の羊の話し、ノアの箱舟、イエス様の十字架等、僕はこう言うのは意味も、何の事を示しているのかも分からなく、只、毎日の様に母さんと父さんと一緒に読んでいたのを覚えています。

三歳になって初めてニュージャージーの教会に来ました(というより、連れて来られました)。最初はイエス様の事を学んだり、そう言う事が目当てで通っていたのではなく、友達と遊んだり、お菓子食べたり、遊びの場として通っていました。その頃もイエス様を信じていました。しかし、それはイエス様を本当に信じていたのではなく、祈りに答えてくれるから、そして、天国と言う所に行ける為に信じていたものでした。

十歳になったから、礼拝の話を聞こうと決心しました。これも神様からのメッセージが聞きたかったのではなく、褒めて欲しかった、又は「良い子だね」と言われて、自己満足を得るためにでした。最初の内はもの凄く眠くなる様な、「良く皆起きていられるな」と皆さんに聞いたい位、詰まらない物でした。
その一年後、ある高校生を始め、次々と僕に近い年齢の友達が洗礼を受けていました。これは僕にとってハッキリ言って悔しいものでした。僕は牧師の子供なのに、僕より友達の方が先に洗礼を受けたからです。ストレスがたまったのか分かりませんけど、何故か関係の無い家族、又は友達に八つ当たり等の罪を犯す回数が日に日に増し、ドンドンイエス様から離れて行き、そんな自分自身がまた嫌いになりました。しかし、少しずつですけど、その内に神様の導きによって絵本になっている聖書、又は漫画化された聖書を又真剣に読むようになり、普通の聖書も買ってもらって、読む様になりました。

二年前の11月、修養会が僕の教会でありました。教会学校の先生の提案、そして僕の自己満足という二つのきっかけがあって、(これも主の導きですけど)僕も大人の集会に参加することになりました。その時、ある集会後の分かち合いの時に、その牧師先生から色々教えてもらって、それから聖書だけじゃなく、メッセージも真剣に聞くようになりました。

それながらも、「人を傷つけ、嘘をつき、罪を犯して平気な顔でいられるクリスチャンなどいて良いのだろうか?」と自分に何度も聞き直しました。そこに、聖書にある聖句、「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちを清めます。もし、罪は無いと言うなら、私達は自分を欺いており、真理は私達のうちにありません。もし私達が自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私達を清めてくださいます。」(第一ヨハネ、一章 七―十節)がある方の証に出てきました。神様の光、そして罪の赦しを示している箇所です。この箇所を読んで、どのような人間でも、どの様な罪を犯しても、神様に自分の罪を言い表すのなら、神様は正しい方であるため、罪を赦し、イエスの十字架によりサタンから解放されることが分かりました。この箇所のおかげで、神様の愛を自分なりに理解出来ていた僕は洗礼を受ける決心が出来ました。

初めは自己満足の為に礼拝に出席し、遊びの為に教会に通っていました。しかし神様の導きによって、その方の証を聞けて、僕は救われました。「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。」 (箴言 19:21) 主に感謝します。

月報2004年5月号より

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です