- 説教者 : S. Sawamura 牧師
- 聖書箇所 : ルカによる福音書9章23節
投稿者: jccnj
「神様にあって強くなる」
あなたは何に頼って生きていますか?神様ですか?自分ですか?親ですか?友人ですか?名声ですか?社会的地位ですか?頼っているものが崩れたらと不安になりませんか?
私は母に愛されて愛されて育ちました。親の愛、と言っても様々と思いますが、私は右にも左にもこんな愛をみたことがない、それ程にたくさんの愛を注いでもらったと思います。とても幸せでした。私も母が大好きでした。
小学校低学年の時に、私をかわいがってくれた祖母が死に、高学年になって祖父が死にました。私を愛してくれた人は死んでいく、一人になるのが怖い、そんな気持ちが私の心に起こり、無性に不安になりました。いつかはお父さんも、お母さんも死ぬの?、そしたらどうして生きていけばいいの?、私も死ぬの?、死ぬのに何故生きるの?、そんなことを子供の頃から考えていました。死後はどうなるの?、と問う私の疑問に答えてくれる人はいませんでした。
私の父も母も病気持ちでした。特に父は、入院、手術を繰り返していましたし、子供ながら、父の死後を心配し、準備する母の気持ちを感じ取っては、父はいずれか死んでしまう人、と漠然と思うようになっていました。私の心の中には、父は死ぬ人=母は死なない人、という方程式ができていました。母に、「お母さんはいつか死んでしまうの?」と聞くと、よく優しく、「直子が結婚するまでは死なない、死ねない」と言っていました。それを聞いては、早く結婚してはいけないなぁとよく思っていたものです。私の方程式も母の思いも完成されませんでした。父は今も元気に生かされていて、そして、母は私が13歳のとき、亡き人となりました。
母の死は、衝撃的でした。私は、母とは仲が良く、喧嘩をしたことも、また母に我が儘を言った覚えもないのですが、一度だけ母を困らせた記憶があります。それは、母の死ぬ前夜のことでした。あの日に限って私はいらいらしていて、急に体調を崩して横になっている母の前で、次の日の家庭科の授業の宿題を終わらせるために必要なアイロンの場所を教えてくれないと困る、と泣きました。今考えたら、その時は、きっともう母には何も聞こえてなかったのではと思います。それでも私が何かを言っているので、母はだるそうに目を開けて、私を見て、そしてまた目をつむりました。それが最期、次の朝、死んでいました。母がこの世で見た最期のものが、母が愛し愛した私のそんな醜い姿だったと思うと、私は辛くなりました。こうして私は自分の中に宿る罪を知りました。母の死後は、父に言いたいことを言わないように、喧嘩をしないように努めましたし、甘えない子供へと変わっていきました。私が結婚するまで死なないと母は何度も約束してくれましたが、人の言う事や約束は頼れない、一人でも生きていける力を身につけていかなければ、そう思うようになり、高校から単身で留学することを決めました。
私の罪は、イギリスに場所を変えても、私に再び迫ってきました。私は母に愛され、また私も誰よりも母を愛していると思っていましたが、日が経つにつれ、母のいない生活に慣れ、また母のことをを忘れるようになりました。今ではどんな風に母と会話していたのか、母がどのような仕草をしていたか、どんな表情をしていたか、どんな声だったのか、ほとんど思い出せません。顔だって写真がなければはっきりと思い出せなくなっていたかもしれません。母ほど私を愛してくれる人はもうこの世にはいない、その母を自分は裏切っているような気がしました。
18歳のとき、私は人間関係で苦しみ、自分の心に宿った醜い思いが、私が罪人であることを認めざるを得なくしました。そしてそんな中、教会に行けばいいのかもしれない、何とかなるかもしれない、何故かわからないけれどそんな切羽詰った思いが与えられました。日本に一時帰国した折に、親友が通っていた教会へ行きました。そして、その日のうちに、神様に触れられて、神様を信じました。ああ、この神様だ、この神様が唯一の神様、私の罪を赦してくださる、そして私を失望させない、そうわかりました。人は私を失望させるかもしれない、でも私を永遠に失望させることのない神様が存在する。「私は決してあなたを離れず、またあなたを捨てない。」(ヘブル13:5) 私は喜びに溢れ、私の人生は、がらっと変わりました。それ以来、神様を信じて歩んでいます。常に神様に喜ばれる信仰者でいられているとはとても思いませんが、神様を否んだことはありません。
2003年9月、神様の本当に不思議な導きによりニューヨークの地に足を踏み入れました。ニューヨークに来て、気付かされたのは、如何にそれまで私は、たくさんの友人に恵まれ、人に、仲間に頼って生きてきたかということです。ニューヨーク、アメリカにはあまり馴染みが無く、来た当初は、知り合い、頼れる人はいませんでした。仕事も私にとって全く新しいフィールドでした。私は、孤独、そして不安でした。恐れもありました。でも、当時の私には、他に行くところがなかったのです。私には、神様が私をここに導いたという信仰がありましたので、それだけに頼りました。時に、神様の意図が私たちにはわかりません。でも信仰というのは、私たちが理解できることを信じることではなくて、わかってもわからなくても信じることだと思っていますので、神様が与えてくださった仕事に、教会に、環境に、できる限り誠実でいよう、目の前のことを精一杯やろう、そう歩んできました。
4年半が経った今になってニューヨークに神様が置いてくださった意図が分かってきた気がしています。2008年年初より、錦織先生に薦められた「日々のみことば」を読んでいますが、1月3日の箇所で、御使いはマリアにイエス様の受胎を告知します。「どうして」と問うマリアに、御使いはこう言われました。「聖霊があなたに臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。」(ルカ1:35) この言葉が私を深く捉えました。私は本当に神様に全身覆われていると感じました。気が付いてみると、私はもはや孤独でも、不安でもありません。恐れもありません。まさに神様が常に私を覆って下さっているのです。私は以前の自分とは別人の如く、強くされていました。私は今、とてもハッピーです。悩みが無いわけではありません。すべての事柄がうまくいっているわけでもありません。でも神様が私を愛し、ご計画を持って、私を導き、強め、造り変えてくださっている、それで充分なのです。
「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(ヨシュア1:9)
私たちは大丈夫です。何があっても大丈夫です。神様の覆いがあるのです。神様の愛のゆえに感謝します。そして、神様の御名がもっともっとほめたたえられることを心から願い求めます。
月報2008年2月号より
「私は2歳半の頃から…」
私は2歳半の頃からお母さんとお姉さんと一緒に教会に行っています。なので、日曜日に教会に行くというのは当たり前のことでした。小さい頃は、日曜日には特にすることもないし、礼拝の間はいつも他の子供達と一緒にジムで遊んでいたので、教会に行くことをだんだん好きになってきました。子供達は、私より2 – 4歳ぐらい年上でしたが、その当時、気にしないで、遊んでいるうちに、友達になりました。
10歳頃から、私はちゃんと礼拝に出席することになりました。でもそれは先生のメッセージを聞きたいから礼拝に出たのではありませんでした。私が普段一緒に遊んでいる友達が礼拝に出ていて、私一人でジムで遊ぶのが嫌だったので、みんなと付いていきました。その理由で私はメッセージを聞き始めましたが、先生が言っていることは全然分かりませんでした。だが、11-12歳になると、だんだん分かってきて、先生の話を聞くのが楽しみになりました。そして、その時から私は神様を信じました。
その次の2-3年間、教会の友達がみんな中高科に入って、仲間の中で、私一人がまだ上級科に残っていて、まるで置いてきぼりにされたみたいでした。一年ぐらいたって、私もやっと中高生になって、「やった!」と思いました。でも、その後、中高生のメンバーが一人一人、洗礼を受けていきました。そして、やがて、年上の中高生はみんな受洗をして、次に洗礼を受けるはずの人が私になりました!そのことからすごいプレッシャーを感じて、その上に、ときどき教会の人から「菜美はいつ洗礼を受けるの?」と聞かれる時もありました。私も正直「いつ洗礼を受けるのかな」とか、「13年間も教会に行っているのに、なんでまだ洗礼を受けてないのかな?」とかいろいろ考えていて、いつもそのことで神様にお祈りしていました。
今年の8月に私は毎年行っている中高生のB.I.G.キャンプに行きました。そこで、中高生の先生とone-on-one sessionで話した時に、先生が「神様を信じているなら、それだけでいいんだよ。信じているなら、洗礼を受けた方がいいよ」と言ってくれて、気付きました。私はいつも神様を信じていました。でも、信じるだけだと物足りなくて、もっと聖書を読んで、お祈りしたら、神の子供になれるとずっと思っていました。でも、中高生キャンプで学んだ通り、「 神様を信じているなら、それだけでいいんだよ。」本当に単純でobviousなことかもしれないけど、その一言で、私は洗礼を受けたいと思いました。
中高生キャンプが終わって、何週間後に、聖書を読んでいると、不思議にヨハネ1:12を開いて、こう書いてありました:「しかし、この方はご自分を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」私にぴったりの聖書箇所でした。神様は私の祈りに答えてくれました。
そういうことで、神様を信じて、洗礼を受けて、そして、神様から光をいただきました。そして、私はその光で、人生を生きたいと思います。私が好きな聖書箇所、エペソ5:8にかいてあります:「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。」これからは、光の子として、私が信じている神様といっしょに生きたいと思います。そして、もらった光を持って、2008年、新しい一年に私は飛び込んでいきます。
月報2008年1月号より
「ニカラグアの声となって」
半年前の5月、私は Messiah College の生徒達14人と、宣教のためにニカラグアの国に2週間行く機会が与えられました。Food for the Hungryの代表の人たちと一緒に協力し、色々な教会のプログラムや学校の授業を手伝い、建物の修理をしたり、そして地元の人の家を回ってニカラグアの人々のために祈りました。私達は出発する数ヶ月前から毎週会議をし、様々な計画をたてていましたが、旅の詳しい内容は全然分かっていませんでした。ただ祈り、神様がどのように私達を導いて遣わしてくださるかを待つだけでした。
最初からチームのリーダーに メマナ、スペイン語の通訳、頼むね。”と言われていたので、飛行場に付く前からものすごく緊張していました。でも出会えた地元の人々は、
ものすごく心の暖かい人たちばかりで、一生懸命私と話してくれました。初めの1-2日はオリエンテーションで、首都であるマナグアを観光し、歴史を学びました。
そして、2時間ほど離れたチナンデーガと言うスラム街に移動しました。その町の小さな教会の牧師さんと会って、子供たちのプログラムを手伝いました。
辺りの小学校は午前中しか授業がないため、その後はよく教会に来て皆で遊んで、短い礼拝に参加していました。ちょうど母の日の時期だったので、一緒に母のためのクラフトを作り、スペイン語で讃美の時間をリードしました。その後、辺りに住んでいる元ヤクザのメンバー達と一緒にサッカーも遊ぶ機会もありました。
でも私にとって、チナンデーガで一番印象に残ったのは、2グループに分かれて人々の家を回って祈りの時をもてたことでした。町を見歩いてみると、“こんなのでどうやって暮らしていけるの?”と思うぐらいボロボロで、台風に襲われたかの様な家ばかりでした。それなのに訪ねていくと、人々は皆“どうぞどうぞ、早く上がって! 私達の家にようこそ!わざわざ来てくれてありがとう!”と言い、喜んで家を案内してくれました。そして、“何か一緒に祈ってあげられる事はありますか?”と聞くと、出会ってから10分もたっていないのに、皆 私達に心を開いてくれて、色々な個人的な悩みを話してくれました。教会に通えない理由、家族内での問題、体の癒し。。。色々な祈りの課題が出ました。
なかでも一人の女性が次のように言ったひと言は一生忘れられません。
“長い間、私がどんなに辛い思いをしているのか、誰かに分かって欲しかったけど、話をこうして真剣に聞いてくれる人は、今まで誰もいなかったわ。本当にこんな私のことを思ってくれてありがとう・・・“
私たちが出来るのは話を聞いて一緒に祈ってあげることだけでしたが、チナンデーガの人たちにとっては、それだけでも励ましになったことが私には驚きでした。
もう一つの私達の大きなプロジェクトは、ボアコと言う山のど真ん中にある小さな村の辺りの幼稚園と小学校で歯の手入れの授業、そして讃美と聖書の時間をを手伝う事でした。マナグアとチナンデーガとは違い、ボアコの人々は、小さな馬小屋のような家に住み、床は全部土、トイレは外に掘った穴だけ、水も全部何キロも離れた井戸から毎日運ぶ、と言うような生活をしていました。そして学校ではほとんどの子供達は歯ブラシや歯磨き粉を見たこともなく、ちゃんとした歯磨きの仕方も知りませんでした。一度も歯医者に行ったこともなく、かなり歯が痛んでいた子もいました。
そのような状態だったので、私達は先生方と協力し、歯磨きのポスターや、子供たちが分かるように劇も作りました。外国人を見るのが初めてだった子供たちは大喜びで、私たちがアメリカからプレゼントとして持ってきた、歯ブラシと歯磨き粉のセットも笑顔で受け取ってくれました。そしてその後は子供たちと讃美をし、“よきサマリヤ人”の劇を発表しました。ものすごくシンプルで、たいした劇ではありませんでしたが、子供たちは目を真ん丸くしながら真剣に見てくれました。子供たちが大好きだった一曲の歌詞の一部を紹介したいと思います:
“Eres todopoderoso, eres grande y majestuoso. Eres fuerte, invincible, y no hay nadie como tu”
(あなたはは全能の神、威厳のある素晴らしい方。あなたの様に強くて
征服できないお方はいない)。
この旅に行って一番驚いたのは、あんなに貧しく暮らしているニカラグアの人たちが、どんなに私達を厚くもてなしてくれたか、と言うことでした。牧師の家、教会、そしてホストファミリーの家に泊まりましたが、皆私達のために素晴らしいごちそうを作ってくれたり、洗濯をしてくれたり、本当に家族の一員として受け入れてくれました。そして私たちが何か少しでもしてあげたら(例えば家の掃除や料理の手伝いをしたら)その十倍のものを私達に与えてくれました。それから、出会えた人たち一人一人と個人的に話をして、どういう重荷を抱えているのかを少しでも理解できた事が感謝でした。私のあまり上手でもないスペイン語を本当に辛抱強く理解しようとしてくれ、私を信頼し、悩みや祈って欲しい心配事を涙を流しながら語ってくれました。
今振り返って “なんであんなに貧しくて苦労一杯の生活をしている人たちが、毎日笑顔で私達を出迎えられたのだろう?どうして出会ったばかりの私達に色々な話をしたがり、やさしくしてくれたのだろう?”と思うと、それは人間関係を通して神様の愛に満たされていたからだと思います。アメリカでよく見る物質主義な考え方とは違って、ニカラグアの人たちにとって信頼できるのは、お互いの励ましと神様の支えでした。今の時代では自分がどんな家に住んでいて、どんな車を持っていて、どんなにお金を持っているかが一番のプライドと言う人が多いかもしませんけれど、そのような物がないニカラグア人は人との出会いと交わり、そして信仰を第一にしていました。
あと、もう一つ感じたことは、もしかしたら、大学生14人がニカラグアに行けるために集めたお金を大きな小切手にして、色々な団体にドネーションとして送った方が、簡単で役に立ったかもしれませんが、実際に現地に行って人々と出会って、顔を見ながら話をしたり、心から話に耳を傾けたりする交わりに、どれほど価値があるかと言う事が分かりました。
ボアコで出会った牧師さんが私たちが帰る直前にこう言いました:
“You are the voice of Nicaragua nowモ. 私たちが見て経験した事をアメリカに持って帰り、ニカラグア人の物語を伝えてほしい・・・ニカラグアの声となって・・・”
それが牧師さんの願いでした。
本当にこのような経験が出来た事を神様に感謝します。また、私がこの旅に行けるようにサポートしてくださった教会の皆さんに心から感謝しています。
“主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。モ -詩篇18:2
月報2007年12月号より
「待ちつづけてくださった神様」
私がどのようにイエス・キリストを救い主として受け入れたか、書きたいと思います。
私の家はクリスチャンホームで、物心ついた時は、すでに神様の存在を信じていました。小学校時代は近所の子に聖書の話をしたり、教会へ誘い、連れて行ったり、積極的でした。特に「みことばカード」をもらうのがうれしくて、もらったカードを大切にし、暗唱していました。
しかし、中学校くらいから、友達の誘いを受けることも増え、映画や他校の学校祭、試験の前の勉強等があると、教会を休みたい、と思う気持ちも出てきました。母に聞くと、「日曜日は神様に礼拝をささげる日。神様には余った時間をささげるのではなく、第一にしなければならないんだよ」と許されませんでした。「お父さんやお母さんは自分で選んでクリスチャンになったからいいけど、私はキリスト教を選んだわけじゃないのに・・・」とふくれながら教会へ行ったこともありました。
18歳の時、私は進学のため、札幌で一人暮らしをすることになりました。我が家はけっこう厳しい家庭だったので、私は不安よりも期待と解放感でいっぱいでした。
でも、日中は私の行っていた教会の開いていた救世軍の保育園で、見習いとして働き、夜は学校で3年間学び、保母と幼稚園教諭の資格を取るという生活で、午後9時に授業が終わって、ピアノの練習、バドミントンのサークル、そしてお風呂屋さんへ10時半頃駆け込み、本当に枕に頭が着くともう眠っているという毎日でした。それでも日曜日は、毎日顔をあわせる園長が教会でメッセージなので、もちろん休むことなく、毎週教会に行っていました。(これは一人暮らしの条件として両親との約束でもあったのです)
しかし、私の気持ちは、神様は信じているけれど、イエス様の十字架は遠い昔の物語のようであり、自分と繋がっている実感がありませんでした。
そんな21歳のある特別集会の夜、イエス様が私たちの罪のために十字架で死なれたことが語られていました。いつもは「またその話か・・・」という気持ちでいるのですが、その時は、心の中で「神様、あなたがわたしを求めておられるのは、わかっています。でも勇気がありません。K先生を遣わしてくださったら、私は前へ踏み出します。」と祈ってみました。
すると、離れた所にいたK先生が、私の隣に来ていて「私と一緒にお祈りしませんか?」と声をかけてくださいました。
「神様は私の祈りを聞いてくださっている!!」と心が打たれ、素直な心でK先生から話を聞きました。そして、私の罪のためにイエス様が十字架で死なれたこと、私の罪が赦されたということを信じることができました。
その時、与えられたのは、ヨハネによる福音書15章4-5節の
「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。もし、人がわたしにつながっており、わたしが、その人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」との御言葉でした。
神様はなんと気が長いお方でしょう。21年もわたしがしっかり神様に向き合うのを待っていてくださったのです。
それまで神様は私にとって、いつも見られている、厳しい、息苦しい存在でした。でも、それからは、赦された、愛されている喜びでいっぱいになりました。
神様が私を新しくしてくださったのです。
今、私は教会学校の教師の一人に加えて頂いています。子供たちに聖書が語られ、御言葉を暗唱しているのを見ながら、今、まかれているこの種が、いつ、この子たちの人生で花を開くのかと思うと、希望でいっぱい、うれしくなります。
テモテへの第2の手紙3:15
「幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。」
神様は生きておられ、豊かに私たち一人一人に働きかけ、日々、つくり変えてくださることに感謝しつつ、神様と共に歩んでいきたいと思います。
月報2007年11月号より