今亡き私の母は、大正8年生まれでした。私の若い時に、度々聞かされた事を、今でも懐かしく思い出します。それは、母の実家の隣が教会で、讃美歌の美しい歌声をよく耳にしていたこと。その当時の模様を笑みを持って話してくれました。そして又母はクリスチャンではありませんでしたが、聖書を世界最高の文学書とも言っていました。

私もやがて婚期を迎えるようになり結婚相手に選んだ彼は、なりたてホヤホヤのクリスチャンでした。当時の私はクリスチャンではありませんでしたし、特別私は意識してクリスチャンの方を選んだわけではありません。偶然そうだったのです。その私達にも二人の娘が授かり、夫の意志で幼児洗礼を受けさせました。私に関しましては全く強制的な態度はとらず、自ら進んで受けたくなったら受ければよい、という考えでいました。この様に幸せな日々は過ぎ去っていき、私どもの家族に危機が訪れました。クリスチャンである夫は私よりも離婚という事に対して一層の罪悪感を抱いた事と思います。また私もこのアメリカという異国での離婚は、より一層厳しい状態へ追い込まれるのだという不安もありましたが、結局は離婚に踏み出しました。そのような中で、これからは後ろを振り向かず、たとえ茨の道であっても覚悟して突き進んで行こうという力は、不思議とありました。

それから私の子育て奮闘記が始まりました。その当時私は多くの生徒を抱え、とても忙しくしていました。でもそのような中で娘たちにもそれぞれピアノ、ヴァイオリンを勉強させました。精神的に余裕のない私は、娘達にとても厳しい練習を強いました。それはまた技術向上のためでもあったのですが、私は娘達にとりましたら、まるで「サタン」ママのようだった事と思います。勿論音楽的な事も教えましたが、それはあくまでも私の押し付けに過ぎませんでした。彼女たちが自然にわき上がるものではありませんでした。人々からはお褒めを頂ける程の演奏まで成長しましたが、彼女等の音楽の泉は干からびて行く方向に向かっていくように思われました。二人とも比較的素直な性格の子供達なので、それを受け止める力はとてはとても大変なものだったのではなかったかと思います。私も時々は反省する事もありましたが・・・。

そのような中、私の母の重い病気がきっかけでクリスチャンになる洗礼を受ける事になりました。その当時の私は「罪の赦し」という事をはっきりと理解していませんでした。しかし、異国で生活していました私の願い、気持ちを伝えて、受け止めて下さる方は神様以外にないという思いが自然と湧き上がりました。おぼろげに母から聞いていた教会、夫を通じてうっすらと感じていた神様の存在が、今、母の病気を通じて私にとって本当に必要なものになっていたのではないかと思いました。
よく人様から「二人の子供は素直にスクスクと育っているな」と言って頂きましたが、私の心の中は「親はなくても子は育つ」のだという思いと、姿形は目に見えぬ方に守られているのだという満足と感謝の念で一杯でした。しかし、その一方で私の心にはそれとは裏腹に依然自己中心的な考えがはびこっていました。娘達も年頃になり、私によく反抗するようになりました。もう私の言う事を聞く娘達の姿は其処にはありませんでした。二人の娘達は「同じ釜の飯を食った」という処から、とても仲が良く、お互い慰め合い、良き理解者であったようでした。しかし、事私に関しましては、赦せない部分が多くあったようです。その頃から私も娘達に対して反省する事が多くなりました。厳しい練習をすることにより多くの事を犠牲にさせ、苦しい思いを一杯させてしまったという後悔の念に苛まれ、もう一度子育てをやり直せるものであればやり直したい・・・という思いになりました。罪の意識を強く感じる様になり、つらい毎日が続きました。それは自分だけが辛いという事ではなく、娘達の辛さを感じ取って感じる辛さでした。しかし、人間の絆というものは不思議なもので、私が悔い改めの思いに至る中で、娘達との距離が縮まっていくように思われました。聖書からの聖句「さらに、私達が罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、私達の罪をご自分の身に負われた。その罪によって、あなたがたは癒されたのである」(ペテロ第一の手紙2章24節)イエスの十字架に心からひざまずく思いです。そして少しずつ少しずつでしたが、娘達の希望に叶えられる様に私も努力し、今では伸び伸びと好きな道へと進んでいるという満足感で一杯です。

私がつくづく「クリスチャンであって良かった」と思う事は「考え方」の面で、です。生きている間に、小さい出来事から大きい出来事の中で、紙一重の決断の選択次第で良い方向に向くか、悪い方向に向くかという事があります。そこでその人の人生観が伺われると思います。そのような時に、大きく影響を与えてくださる力は、神様を絶対と思う所から生まれてくるものではないでしょうか。神の御手の中で生かされ、心豊かに生きていく希望を与えてくださる神に心から感謝いたします。そして、一人でも多くの方々にこのような考えを伝えるものとして用いてくださる事を強く願います。

アーメン。

月報2004年4月号より