「地のちりにひとしかり」

今年の3月に妻と共に日本語教会に転入しました。錦織先生をはじめ、教会員の皆様に愛をもって受け入れていただき、感謝でいっぱいです。今日は私自身がどのようにして主イエス・キリストを信じ、救われ、クリスチャンとしての歩みをはじめたのかを証しさせていただきまます。

1970年、私は大阪のカトリック系ミッションスクールに進学しました。それは中高一貫の男子校で、大阪城の南、大阪冬の陣で真田幸村が徳川家康の東軍に対峙して布陣した真田山にありました。校舎の屋上には大きな聖母マリア像が建ち、そのやさしい目が校庭を見下ろしています。当時の公立の中学生の男子は丸坊主が一般的でしたが、私たちには短髪がゆるされ、大阪では「ボンボン学校」として有名でした。月に一度、全校生がステンドグラスの講堂に集められ、ミサに参加させられます。ステージに祭壇が設けられ、豪華なガウンに身を包んだ祭司が、一列に並んだ会衆の口に丸くて小さい煎餅を入れいきます。また銀のカップを高々に持ち上げるや、それを一気に飲み干します。キャンドルと香の香りに満ちたその儀式は厳粛な雰囲気に満ちていました。ただ、学校生活といえば、カトリックの教育方針のもと、厳格な校則と膨大な量の宿題に追われる多忙な毎日でした。成績は中の下、スポーツも取り立てて得意でなく、目立たない平凡な生徒でした。人前では従順で真面目な生徒を装いつつ、その心の中は、何の取り柄もない平凡すぎる自分への不満でいっぱいでした。

クラスメートは裕福な家庭に育つ「ええとこの子」ばかりでした。親が心斎橋を中心に関西割烹を数店も経営していたり、白浜の豪華なリゾートホテルを所有していたり、都銀のエリートバンカーであったり。それにひきかえ、私の父は輸出用のサングラスを生産する小さい町工場で経理として働いていました。母は自宅を洋裁店に改装して、四国や山陰地方から住み込みで上阪する若い娘たちに洋裁を教えながら、地元のおばちゃんを顧客にして洋服のリメイクやリペアで収入を得ていました。ところが、中学2年の夏ごろから、父の勤めていた会社が傾きはじめました。アメリカが電撃的に新しい金融政策を発表したのです。それはドルと金の交換を停止し、10%の輸入課徴金を導入するというものでした。これで固定相場制が終焉し、1ドル360円の時代が終わり、ドルは暴落しました。ニクソンショックです。この円高によって、日本の輸出業者の収益が激減し、ほどなく父の勤めていた会社も倒産しました。私の学費に加え、四天王寺にある私立の仏教系スクールへ進学した妹の学費も加わり、もはや父の収入をあてにできなくなった母は、洋裁店で稼いだ資本を元手にアパート経営をはじめました。食べるに困ることはありませんでしたが、家計に余裕はありませんでした。そんな経済状況の中、親の苦労も努力も知らない世間知らずの私は、裕福な家庭環境にあるクラスメートが妬ましく、失職した父や懸命に働く母を見下しはじめていました。

中学時代は吹奏楽部でフレンチ・ホルンを吹いていました。全国大会に出場することを目指し、土日を返上して練習する毎日でした。中学2年の時に大阪大会で優勝し、有力候補と期待されながら、近畿大会では3位に終わりました。私が大事なパートで失敗したのが原因でした。先輩部員たちからは冷遇され、コンクールでの失敗に責任を感じて退部せざるを得ませんでした。その後、目標もなく、ぶらぶら暇をもてあましている時、福音集会の看板を目にしました。大阪南部の泉州にある和泉キリスト集会(プレマス・ブレザレン)が、大阪市内ではじめて開く特別伝道集会でした。それはカトリックのミサとは対照的で、小さい公民館の会議室で行われた50人ほどの集会でした。ただ、そこではじめて聞く聖書のメッセージは衝撃的でした。はじめて聖書を手にしました。読まれた聖句は創世記の1章1節でした。「はじめに神が天と地を創造された。」そこで宇宙を創造された方の存在を聞きました。自分はこの方に生かされていること。自分の人生には目的と意味があることを知りました。

もはや自分の取り柄のなさとか、クラスメートの裕福さとか、すべてがどうでもよくなりました。天地創造の神がいるという事実に心踊りました。その日から2年間、毎日聖書を読み、福音集会に通い続けました。ところが、クリスチャンとの交わりと聖書の知識が増えるに従って、神の存在に対する喜びと感動が徐々に薄れて来ました。聖い神と汚れた自分の心に大きな隔たりを感じ始めたからです。虫歯程度に考えていた自分の罪が、神の前には癌以上の深刻な問題であると教えられていきました。自分のわがままさ、自己中心、ねたみ、両親を見下す傲慢な心など、自分は神の怒り以外に何も値しない人間であることに気づきました。そこで一大決心をして、神の怒りを静めるために善行にも励みました。過去に犯した罪のリストを作成し、善行によってその罪をひとつずつ償おうとしたのです。ところが、努力すればするほど、新たな罪に気づかされ、自分の罪が累積債務のように増えていきました。

そんな重い心に沈んでいた高校時代、岐阜県高山市での二泊三日のバイブルキャンプに参加しました。それは若いクリスチャンたちが乗鞍岳の自然の中に集い、賛美あり、ゲームあり、証しありの楽しいキャンプでした。でも、私はひとり罪の重荷に押し潰されて、どんなプログラムも楽しむことができません。自分は神に嫌われている。自分はいつか神に裁かれ、神の手によって滅ぼされてしまう。もはや救いをあきらめ、疲れ果てた私は、人目を避けて、誰もいない場所を見つけて一人跪いて祈りました。「神さま、もういいです。今すぐ私を裁いてください。自分は罪だらけです。頭の上からつま先まで。もうどうにもなりません。」それは救いではなく、裁きを求める祈りでした。しかし、その祈りに対する応答はなく、しばらく静寂の時が続きました。すると自分のあわれな姿が、癒しをもとめてイエス様の足元に跪く全身をツァラトに冒された病人と重なりました。その瞬間、耳を疑うようなイエス様の言葉が心に届きました。―イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「私の心だ。清くなりなさい。」

涙がとめどなく溢れ出ました。父なる神とイエス様の思いは、私の罪に対する激しい怒りではなく、私の無力さに対する深いあわれみでした。溢れる涙を手で拭いながら、私は祈りつづけました。「こんな罪人をどのようにして清められるのですか。」次の瞬間、すべてが理解できました。「父よ。彼らをお赦しください。」これは自分を十字架に釘付けた者たちのために、イエス様が十字架で捧げられた祈りです。あの十字架の祈りこそ、私の罪を赦すためのとりなしでした。流された血潮は、私の魂を贖うための代価でした。そして、暗闇の苦しみは、私が受けるべき永遠の裁きの身代わりでした。私の悔い改めを待たず、神は赦しを用意し、惜しまずご自分の御子を犠牲にされました。赦しは神のあわれみであり、救いは神の一方的な恵みでした。心にのしかかる罪の重荷がすべて取り除かれ、平安と喜びで心がはじけそうでした。あの日から40年余りの年月が流れました。今、日本語教会に導かれ、あの日と同じ喜びと感動で主の愛を賛美できる恵みを感謝しています。

「地のちりにひとしかり、なにひとつとりえなし、今あるはただ主の愛にいくるわれぞ。御救いを受けし、罪人にすぎず、されどわれ人に伝えん、恵み深きイエスを。」

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