「先日、六ヶ月振りに車を運転しました。…」

先日、六ヶ月振りに車を運転しました。
理由は今さら隠しても仕方ありませんが、飲酒運転で免許を取り上げられていたからです。待ちに待った六ヶ月でしたが、正直なところ、いざ運転してみると、自分でも怖いぐらい六ヶ月のブランクはなかったかのように、違和感がなく、すんなり運転できてしまいました。世間的には自分の汚点となるようなことなので、まるで臭いものにふたをするかのように、このまま何事もなかった顔で、六ヶ月前の元の生活に戻ってしまうことは簡単ですが、私にとってこの六ヶ月は、神様が私を個人的に取り扱ってくださり、一緒に歩んで下さった貴重なときであったことを確信していますので、是非今日は皆さんにそのことをお証したいと思います。
まず、最初にショキングなことをお書きしますが、私は同じことで警察に捕まったのは、実は今回が3回目です。一回目は学生時代に、二回目は10年前、そして今回です。二回目の時は車を廃車にしてしまうほどの自損事故を起こしての結果、警察を呼ばざるを得なくなり発覚しました。
その他にも、警察沙汰にはなっていませんが、やはり自損事故で、右側両輪を歩道ブロックにぶつけてパンクさせ、レッカーされたこともありました。このように過去を思い返すと、私は今までに何度も問題をおこしてきたにもかかわらず、改めることができない自分であったことがわかります。毎回、その度に「もうやめよう、もうやめよう。」と思ってはきたと思うのですが、しばらくすると、その時のことを忘れてまた同じことを繰り返してしまう。自分では良くないことはわかっているけど止めることができない。これが私の中にある罪の現実でした。
聖書には罪についてこのように書いてある箇所があります。
「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それをおこなっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。」
ローマ7章19-20節
そして神様はそのたびに警察を通して、私に警告を発してこられてきていたのに、私はこれまで無視し続けていたのです。
今回問題となったのは今年4月の初めに、NJ州北部の町で仕事仲間の送別会を4人でした時でした。その日は11時ごろまで食事して、お開きになりましたが、翌日ふたを開けてみると、そのうち2人が警察にお世話になっていました。ただ、もう一人の方は、その送別会の主役で日本に帰国がまもなくだったのでなのか、何のお咎めもなく、「気をつけて帰りなさい」と言われただけで、免除されたそうです。結局、その日私一人だけが捕まったので、周りの皆んなは、そんな私のことを一様に「運が悪かったね。」と思ってくれていたようです。今までならば自分もそのように思っていたかもしれません。しかし今回は、わたしは「守られた」と心から思うことができました。というのも、私が警察に拘束されていて、身元引受人として家内に電話がかかった時、家内は家の電話のコールIDに「Ramsey 警察署」と出ていたのを見て、体が震えたそうです。夜の12時過ぎに警察から電話だと交通事故で人を傷つけたか、傷ついたか。もしくはそれ以上のことが私の身の上に起こったのではないかと思ったそうで、実際は事故ではなく、私が警察にお世話になっているので引き取りに来てほしいとの連絡に、内心ホッとしたと言っていました。確かに家内が言うようにこのままどんどん突っ走っていれば、その不安が現実のものになっていたかもしれません。飲酒運転においては何が起こっても不思議ではなく、一旦、事故となれば、運・不運の問題では片付けられないのです。「これは決して、不運ではなくて、自分で止めることができない私の弱さを神様が知っておられ、神様ご自身がこのような形でストップをかけて下さったんだ。」と思えたからです。
それから家内は夜中の1時頃、眠っていた2人の子供たちを起こして、迎えにきてくれました。私は眠そうな子供たちの顔を見たとき、なぜか涙があふれてきて、ただ、「ゴメンね、ゴメンね」と繰り返しました。後からお兄ちゃんの方には、どうしてお父さんが警察に捕まったのか彼にわかるように説明しましたが、その時彼は、「どうしてお父さんは、やっちゃいけないことをやったの。」と子供なりの素朴な質問をされ、私は返事につまりました。そして、その言葉がまるで、神様からのことばのように思え、私はハッと気付くことができたのです。
聖書にはこのようにも書いてあります。
「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」 ローマ8章11節
私は前の2回までは、まだクリスチャンではありませんでしたので、聖書を読んだこともなければ、神様の存在やその私に対する愛などは知りませんでした。しかし今回は明らかに、この聖書の御言葉通り、死に向かって突っ走りかけていた私の罪のからだを、主があわれみ、そこから救って下さったと身をもって体験しました。六ヶ月免許停止は私にとってこのように主によって取り扱われた大事な「聖め」の時となりましたが、しかし現実的には、この地においての私たちの生活を大きく揺るがす可能性を秘めたものでもありました。なぜなら、私にとって車は単に通勤だけではなくて、顧客周りの大事な足となっていましたので、車が運転できないならば、日本帰国は免れないだろうし、仮にこの地に残れたとしても、この車社会において物理的に六ヶ月を乗り切るのは至難の業と思えたからです。しかし、神様はそのことにも配慮して下さり、道を用意してくれていました。
会社の判断は、「周りの者が協力して助けるなら、特に問題は無し。」となり、車に代わる通勤方法を探すと、なぜか私は New Jersey Transit (鉄道)の最寄駅に歩いて5分の距離に住んでいて、朝6時半の電車に乗ると会社には9時前入ることができるようになっていたのです。幸い私は朝型人間でしたので、朝早いのは、全然苦にならなく、又夏の間だったので、冬のように朝晩暗く寒い中を歩いて行く必要もありませんでした。その他、この六ヶ月間にはいろいろな不自由を経験したり、その度たくさんの方の愛情に助けられてきました。しかしこのように無事乗り越えることができたのは、やはりそのすべてが主の御手のうちにあり、守られたからであったことは、今終えた自分の実感であり、紛れも無い事実として受け止めています。
思えば、今年の半分をこのことに費やし、気が付けば、残すところあとわずかとなりました。去年の今頃はこのような一年になるとは思いも寄らなかったですが、確かに主が私を取り扱ってくださった大事な一年となりました。そのすべてのことに感謝しつつ。
「主よ。まことにあなたはいつくしみ深く、赦しに富み、あなたを呼び求めるすべての者に、恵み豊かであられます。」 詩篇86篇5節
「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」 詩篇103篇2節

月報2003年12月号より

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