「クリスチャンの夫と結婚して」

昨年11月、私はここNJ日本語教会で受洗させて頂きました。まだまだ歩み始めたばかりのベイビークリスチャンの私ですが、私がどのように信仰に導かれたか証させて頂きたいと思います。

私が育ったのは、キリスト教とは全く縁のない家庭です。大晦日には除夜の鐘を聞き、年が明けるとその足で神社に初詣に行く、そんなよくある典型的な日本の家庭で、信仰というよりも日本古来の慣習を大切にしてきました。ですから、夫と知り合い、彼がクリスチャンホームで育ったクリスチャンであることを知ったときも実感がわかず、「へー、なんかかっこいいね!」と軽く受け止め、まさかこのことが自分の結婚生活に大きな影響を及ぼすとは思いもしませんでした。
そんな私が初めて教会に行ったのは、夫との結婚が決まる前後のことです。ここで、私は、大きなカルチャーショックを受けます。勝手にヨーロッパ風(?)の厳かな礼拝をイメージしていたのですが、行ってみてビックリ。想像とは正反対のポップな賛美、真剣にメッセージに聞き入り祈りを捧げる人々。まるで異世界に連れてこられた感じ。すっかり圧倒され、礼拝が終わるとドッと疲れて教会を後にしました。それでも、結婚後は転勤先の愛媛県に住むし、夫も礼拝はインターネットで見るというし、たまにお付き合いで行くぐらい別にいいかなと、特に気にせず結婚生活をスタートさせました。
しかし事態が変わったのは、長男が1歳になる頃、再び転勤で、愛媛県から夫の母教会のある神奈川県に帰ってきた時です。主人の家族と共に教会に行く機会が増え、また子供を教会に連れて行きたい夫の意向もあり、気がつくと毎週のように礼拝に参加するようになりました。初めは私も嫁として教会に顔を出し、キリスト教のことを理解したほうがいいのかなと思い、教会について行っていたのですが、「私達は神がつくって下さった。」「神が我々の罪を赦して下さった。」「私達は勝利している。」「救い」「聖霊」そういった言葉ひとつひとつに強い反発を抱くようになりました。「私を生んで育ててくれたのは神様ではなく私の両親。」「自分は決していい人間ではないけれど、神様に赦しを求めるほどの悪人でもない。」「いったい何に勝利しているというのか。」「救われなくても私は十分幸せに生きているから大丈夫。」しかし、夫だけでなく夫の家族も通っている教会で、こういったことを口にするのは彼らの信仰を否定することになる思い、私はこれらの違和感や反発心を心の中にため込んでいきました。夫の家族はいつも私を温かく迎えてくれて、一緒に過ごす時間はとても楽しいのですが、「日曜日そのまま教会も一緒に行きましょう。」となると、私の心はずどんと重くなりました。教会に行くのが当たり前の夫の家族と、教会に行くのが憂鬱でしょうがない自分との間に大きな溝を感じ、次第に私の足は教会から遠ざかっていきました。
こうして、教会には主人と子供たちが通い、私は別行動をするという日曜日がスタートしました。私が教会に行かないことについて、夫も夫の家族も責めるどころか、むしろ「なかなか無い1人の時間。少しでもリフレッシュできるといいね。」という温かい言葉をかけてくれました。これで、問題解決!かと思いきや、私の心は全く晴れません。それどころか、心の中のモヤモヤは増すばかり。確かに子育てに追われバタバタする毎日の中で、1人の時間は貴重です。でもこれは本当に自分が求めていたものなのか。夫と家族になりたくて、一緒に家庭を築きたくて結婚したのに、なぜ自分は毎週日曜日に一人で過ごしているのか。私が一緒に教会に行けばいいのだろうけれど、これ以上無理をすると私の反発心が夫や夫の家族に向いてしまいそうで、どうしても礼拝に行くことが出来ませんでした。このままでは、私がクリスチャンになる日なんて来るはずないし、夫とも一生わかりえることなんてないだろう。そんな風に諦めかけていた時、神様は全く思いもしなかった方法で、私が教会に行くきっかけをつくって下さいました。主人が転勤になり、家族でアメリカに引っ越すことになったのです。これは我が家にとって大きなサプライズでした。

海外引越しのダメージは想像以上に大きく、私はアメリカに到着した時、すっかり疲れきっていました。慣れない運転に、子供達の学校の手続きや病院探し、今まで当たり前に出来ていたこと1つ1つにつまずき落ち込み苛立ちました。また子供達が、赤ちゃんの頃から過ごしてきた町や幼馴染と離れ、誰も知らない、それどころか言葉も通じない学校に通うことを考えると、胸が痛くてしょうがありませんでした。そんな中、本当に不思議なのですが、先に渡米していた夫がすでに通っていた教会に、私も行きたい!という気持ちがむくむくと湧いてきたのです。日本ではあんなに拒否していた教会。でも、この押しつぶされそうな不安から逃れたい。まさに藁をもつかむ思いでした。夫に付き合ってあげるのではなく、嫁としてのいい顔をするためでもなく、本当に自分の意思で、心から教会に行きたいと思ったのです。この時、私が初めて教会に行ってから9年が経っていました。
初めてこちらの教会の門をくぐり、皆さんが「よく来たねー!」と笑顔で迎えてくれた時、私は心がすっと軽くなるのを感じました。今思えば、「アメリカによく来たね。」という意味だったと思うのですが、私には「教会によく来たね。」と言ってもらっているように聞こえました。神様を信じられない自分でも、私は私のままでここに居てもいいのだと思うことが出来ました。
教会やスモールグループでは、先生やクリスチャンの皆さんが、今まで私が心情的に受け入れられなかったこと、そして新生活への不安について親身に話を聞き、一緒に祈って下さいました。すると、私の中の不安やモヤモヤが消え、心が温かくなっていきました。教会に通いだしてから短い間に、様々な出会いや体験をさせて頂きましたが、中でも私に大きな影響与えたのはジョイジョイキャンプです。当初、子供達の送迎だけするつもりだったのですが、友人に「一緒にキッチンスタッフをやろう。」と誘ってもらい、急きょスタッフとして参加することになりました。暑い夏の盛り、元気いっぱいの子供達を相手にする5日間は、体力的にとても大変だと思うのですが、スタッフの皆さんが本当に心からの笑顔で、子供達を喜ばせるために楽しそうに奉仕する姿は、私にとって衝撃でした。私は自分の子供がお世話になっている小学校のPTAですら参加するのが億劫なのに、みんなを動かしているものは一体何なのだろう。みんなの信じている神様はどんなことを言っているのだろう。それが知りたくなり、私は生まれて初めて聖書を手にとりました。

聖書を読み進めていくうちに、自分の内面が少しずつ造りかえられていくのを感じました。もちろん、難しくて納得できない箇所もありました。しかし、一つ気がついたことがあります。それは、私がずっと求めても得られないと思っていた愛は、神様から頂くべきものだったということです。私は子供の頃から今まで、誰かに評価してもらうことをモチベーションに生きてきました。「音楽やスポーツが苦手な分、このテストで良い点を採ったら親はほめてくれるかな。」「良い学校に入ればみんなはスゴイといってくれるかな。」「この資格を取れば、私は自分に自信を持つことが出来るかな。」成果が出ると一瞬は満たされるけれども、また周りと自分を比較しては物足りなくなるという繰り返し。そんな生き方に疲れ、今度は「自分は頑張らないと愛してもらえないのか」、「頑張れない自分も受け入れてほしい。」そんなことを、身近にいる家族に期待しては、自分の思ったものが得られず、怒り悲しみ落ち込んできました。私はずっと、自分には罪はないと思っていたけれど、神様の存在を否定し、わが身を信じ、それによって不安定になることで、どれだけ大切な人達を振り回してきのか、それこそが私の罪であると気がつきました。
そして、ルカ5:1~11に目が留まりました。漁師だったシモンに対してイエスは「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい。」と言われます。それに対して、シモンは「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を下ろしてみましょう。」と答え、そのとおりにしたところ沢山の魚がとれるのです。このシモンはまるで私のようです。心を頑なにして、神様を受け入れようとしない私を、神様は思わぬサプライズでこの教会に導いてくださり、沢山の出会いや居場所を与えて下さいました。そして私にも、「もうここで網を下ろしなさい」と言っているように感じたのです。今まで9年間、教会に行ってあげているという気持ちでいた時には、どんなに素晴らしいメッセージを聞いても全く心に響いてきませんでした。しかし、心を開き、本当に自ら求めて教会に行った時、神様は聖書を通じて、また礼拝のメッセージを通じて、私に語りかけて下さるようになったのです。

「地上の平和をもたらすために、わたしが来たと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。」

(マタイによる福音書10章34節)

先日、この箇所についての先生のメッセージ(2017年2月12日「本当の平和」)を聞いた時、まるで自分のことを言われているような気持ちになりました。クリスチャンの夫に出会い結婚したことで、イエス様は、私自身の人生に、家庭生活に、また人間関係に、つるぎを投げ込まれました。そのつるぎによって、私が今まで必死にたもとうとしてきた見せかけの平和は見事に壊されました。夫とは信仰や教会のことで言い争いもしましたし、教会と関わることで自分の親に対して後ろめたい気持ちになることもありました。「夫がクリスチャンでなければ、こんなモヤモヤした気持ちを抱えながら生きなくてすんだのに。」と思うことが何度もありました。けれども、私が自ら心を開き、本当に渇き求めた時、神様は、夫がクリスチャンだから、夫の家族がクリスチャンだからではなく、私自身にむかって救いの手を差し伸べ、本当の心の平安を与えて下さいました。結婚して9年。夫とは一生わかりあえることはないだろうと諦めていましたが、わたしが神様を受け入れた時、やっと本当の家族になれた気がしました。今まで、憂鬱だった日曜日。今は一週間で一番幸せな日にかわりました。夫と出会わせてくださった神様に、心から感謝します。

 

月報2017年3~4月号より

「「クリスチャンの夫と結婚して」」への2件のフィードバック

  1. ノンクリスチャンの彼氏と付き合っています。結婚の話になり、彼からクリスチャンの生活になり、子供達をどうしたらいいかわからないと別れ話になりました。
    しかし、私は彼と結婚がしたいです。

    1. コメントありがとうございます。クリスチャンではない方がどんな風に感じられるのか、このお証しを通しても知られることができればと思います。また、最後にあるように、「剣が投げ込まれて、表面的な平和が壊された後に生まれる、本当の平和」が与えられますように、お互いにとって最善の道が示されますようにお祈りしております。牧師 錦織学

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