「イエス様が一緒に」

私とイエス様との出会い、それは私から探したり生み出したものは微塵もありません、ただただ一方的に与えられたギフトでした。

私は新潟で生まれ、幼少期を過ごしました。両親は青年の時、それぞれが宣教師の集会に誘われ、信仰を持ってクリスチャンとなり、その後出会い結婚しました。真面目で信仰熱心な両親の元、私は兄妹とクリスチャンホームで育ちました。

朝早くから父は聖書を読み、私達のために祈っている。その後ろ姿を見ながら、目には見えないけれど神様は居られるんだと、私は神様の存在を特に疑うことはありませんでした。

また自営でいつも忙しくしていた母は、日曜日は教会に行くために店を閉めてこの日を分け、私達子どもも礼拝を第一にするよう教えられてきました。私が生まれた頃は教会のベビーブームで同世代の友達が沢山いたので、私は教会で遊び、教会で育ちましたし、教会学校では聖書のストーリーを聞き、御言葉を競っておぼえました。

教会生活をしながら、神様の中にいる平安を味わっていたのだと今思い返します。また、両親の信仰と祈りによって、神様は私の信仰生活を守ってくださったことがわかります。

小学生時代は毎夏、父が兄と私をバイブルキャンプに連れて行ってくれました。そこで子供達とアクティビティを楽しみ、子供達の信仰に触れ、またスタッフのお兄さんお姉さんが喜んで奉仕している姿に私は心動かされました。

本来、私はとても怖がりです。特に暗がりが苦手でした。夜に自分の部屋がある二階に上がるのもビクビクしていたのを思い出します。またお仕置きと称して、父に物置に入れられる時は本当に怖くて怖くて。(ちなみに父とは青年期に話し祈る機会が与えられました、感謝)

小2の時、キャンプで覚えて帰った曲「祈ってごらんよわかるから♪」は、沈みがちな私の心を灯してくれました。「きみは神様にね話したことあるかい心にあるままを打ち明けて。天の神様はね、きみの事なんでもわかっておられるんだ何でもね。だから空をあおいで、神様、とひとこと祈ってごらんよわかるから。小川のほとりでも人混みの中でも広い世界のどこにいても。本当の神様はいまも生きておられ、お祈りに答えてくださる」

賛美を口ずさんだり、簡単な祈りをしたり。その小さな祈りを神様は聞いてくださっていたのです。気づけばいつからか暗がりがそんなに怖くない。怖いと思う時に神様に祈ると、主の平安が私と共にあって、恐れに縛られることはなくなっていきました。

高学年の夏に行ったキャンプで、私は聖書のメッセージを聞いて信仰告白に導かれました。

当時クラスの中でいじめに合っていたクラスメートに対して、私は何もできずにいました。いじめをしていた加害者ではなく、一緒に無視をしていたわけでもありません。でもその友達に対して何もできなかったことに私は本当に苦しんでいたのです。何もしない事がまさに罪であると知りました。その私の罪のためにイエス様が十字架にかかり死んでくださった。お部屋のカウンセラーのお姉さんと一緒に神様に祈りながら、罪の告白とイエス・キリストの十字架を信じることにより罪から救われるという祈りをしたことを記憶しています。

わたし(本人訳イエス・キリスト)はぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたし(イエス)にとどまり、わたし(イエス)もその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたし(イエス)を離れては、あなたがたは何もすることができないのです。
ヨハネ15:5

強烈におぼえていることがあります。私は風邪を引き高熱でうなされた時、その度に見ていた悪夢がありました。火の燃える巨大な池の周りを無我夢中で自分が走っている、後ろから何者かが追いかけてくる、今にも捕まりそう。その瞬間ハッと我に返り起き、汗びっしょりな私は夢うつつでトイレに行き、その後現実に戻りホッとする。その度に憂鬱になるのです。でも気が付けば、いつのまにかこの悪夢を見ることは無くなっていました。

大人になって聖書の黙示録を読み、これは地獄の様だったと知るのです。 神様がイエス様を通して私を永遠の滅び、死から引き上げてくださり、神様のものとしてくださったと信じます。

その後、教会の方々が背中を押してくださって、中学2年のクリスマスに、同級生2名と一緒に洗礼を受けるよう導かれ、公にクリスチャンとして信仰のスタートを切りました。

臆病な私は、友達と一緒だったから洗礼を受ける決心ができたのです。今思い返すと、私はこの時点では聖書の真理をよく知らず、神様に信頼して日々歩むことがどんな事かもわかりませんでした。ただ信じる一歩を踏み出しただけです。でもその一歩によって、私の今までの歩みがどんなに神様に支えられ守られてきたか、振り返ると心が熱くなり感謝でいっぱいになります。

 

さて、その後は進学、仕事、結婚、出産と子育て。ライフステージが変化することで、私ももちろん沢山の問題と葛藤を経験しました。引越しの数々、国際結婚、義家での同居、家族の病気と転職、不妊、流産、3度の帝王切開による高齢出産と不調、家族の課題、そしてアメリカでの移住生活。

自らの愚かさによる失敗、知恵がないために起こる困難も多々あります。基本、石橋を叩いて渡るタイプなので、神様に聞きながら神様の御手の中にあると信頼して進んできました。ですがもちろん自分の力量はすでに超えていて、重すぎます。弱すぎます、私は。

あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。
ヨハネ15:7

イエス様を信じた人は、神様の子どもとされました。子どもの時に覚えた歌のように、イエス様の名前を通して神様に祈ることができます。何でも自分をさらけ出して、心にあるありのままを話すことができます。そして驚くべきことに神様はそれを聞いておられるということです。賛美したり御言葉を読む時、神様の愛が私を満たします。

また他人の言葉や状況を通して神様は語られる時もあります。私が求めるときに、そこに居て応えてくださるお方。これは信仰生活を送りながら知った神の子の特権です。そしてこの特権は、イエス様の死と復活によって完全なものとされた(完了)という真理は、本当の意味で私はまだ知らないと思います。

いいえ、環境や現状を見て恐れ、もうだめだと否定的になり、この事には救いはないのではと、信仰のかけらさえ奪われやすい者です。 なので今日も自分の思う方法を手放します。

また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。
エペソ1:19

私は家族が与えられて、自分の愛の乏しさを嫌というほど思い知りました。ユニークな子ども達の子育てを通して、こうでなければという私の枠が引き延ばされ続けています。これは、私自身が小さい頃から刷り込まれてきた、クリスチャンはこうあるべきという概念にも影響を与えましたし、すべては神様の愛の広さ高さを知るに至るのではないか、とさえ思うのです。いまは課題のすべては理解できませんが、そこにも神様のご愛があると想像できます。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。
ローマ8:28

神の子の特権は、私個人に与えられたもので終わらず、神の子達と共有することができます。

私は行く所行く所で、共に祈り合う仲間が与えられて来ました。教会の祈り場であったり、一緒に分かち合える信仰の友や先輩が備えられました。子育て中は子供を抱っこしながら。沢山の祈りの応答を見てきました。今は電話やメール、LINEでも分かち合い祈り合えます。御言葉と祈りによって癒されます。自分一人では祈れない時も、イエス様の名前で集まるところに神様が共にしてくださるので、祈りを通して働かれ、新しい力、出ていく力が与えられます。そして神様を信頼して行動することができます。

私が神様に聞くなら、神様は私に応えてくださる。私達が神様に聞くなら、神様は私達に応えてくださる。

神様、あなたは私に何をしてほしいですか。私達に何をしてほしいですか。あなたの御声を待ち望みます。

2025年6月号<牧師室より>「私が神を信じるわけ」

わたしは牧師の家庭に生まれました。気がついたらそこは教会だったのです。子どもの時から神さまの存在はあたり前、毎日聖書を読んでお祈りをして、日曜日は教会に皆さんが集まり、楽しく過ごす、良くも悪くもそれが当たり前の環境の中で育ちました。

 でも、学校に行くと、そんな生活をしているのは少数派。それでも、小学校低学年の頃は日曜日には教会に来る友達もいました。でも、小学校高学年から中学に行く頃にはそんな友達も減っていき、「神なんているわけない」「神がいるならば、証明してみろ」「神がいるなら、おまえんちの教会はなんであんなにボロいんだ」なんて言われることが増えてきました。高校くらいになると、そんな意地悪な言葉だけではなく、もっと真摯な問いかけを受けるようになりました。「どうして錦織君は神さまを信じているの?ホントに信じているなら、それを説明してほしいな」とか・・・。そんな環境に揉まれる中で、私も、一度だけ、「ホントは神はいないのかもしれない・・・」と思ったことがありました。

しばらく悶々と過ごしたのですが、ちょうど新緑の頃だったと思います、何の気なしに窓から見た木々の葉に走る葉脈に、これすごいな、と思いました。そして、自分の手を見たとき、その複雑な動きに、これは偶然ではないな、神が造られたんだろうな、と思わされたのです。

つい先日、教会の方が「これ見てくださいよ」とあるテレビ番組(2025年4月27日放送 NHKスペシャル 人体III 第一集 命の源 細胞内ワンダーランド)を紹介してくださいました。人間の小さな細胞の中に本当に多くの物質があって、それがそれぞれの役割を果たして、命が支えられている、という番組でした。小さな細胞一つの中でこんなことが起こっているなんて、ホントにすごいなあと思って見ていたのですが、番組のまとめのところで、IPS細胞の山中伸弥教授が「まあ、わたしも科学者なんですが、ちょっとその、やっぱり、神がいるんじゃないかとか、そういう気持ちになってしまうこともありますね」と言っておられました。科学者の先生がそう言われるとホントに説得力ありますが、高校生の錦織少年も、まさに、その素人・超初心者バージョンの気持ちになったわけです。

そして、歳を重ねる中で、自然界の中で神を感じることが増えてきたな、と思います。

天は神の栄光を語り告げ
大空は御手のわざを告げ知らせる。
昼は昼へ話を伝え夜は夜へ知識を示す。
話しもせず語りもせずその声も聞こえない。
しかしその光芒は全地に
そのことばは世界の果てまで届いた。
詩篇 19篇1~4節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

ニュージャージーも6月になって外で過ごすのが楽しい季節になってきました。教会もいくつか野外での集まりがあります。

まずは、6-9月の毎月第1土曜日の朝6時半からFort LeeのRoss Dockでの、早天祈祷会。ハドソン川のほとりで、マンハッタンのスカイラインを遠くに見ながら、共に聖書を開き祈る時を持ちます。

また、6月15日(日)の午前10時からはParamusのVan Saun Parkでの野外礼拝。緑いっぱいの公園の片隅で、礼拝とランチ、レクレーションの一時を持ちます。

水と緑と動物たちと一緒に、私たちを、そしてこの世界を
造られた神さまの素晴らしさと力を賛美しましょう!

2025年5月号<牧師室より>「天国の希望に生きる」

3月の最後の日曜日の礼拝が終わった後、車でノースカロライナ州の息子の一家のところを訪問してきました。第一の目的は、息子のお嫁さんが歯医者なので、1年ぶりに診てもらうためでした。月曜日に到着して検診とクリーニング、虫歯が見つかったので、火曜日に治療。それで水曜日から木曜日ににかけて、ノースカロライナ州にいる他の知り合いの方々を何人か訪ねて回りました。

最初に訪問したのが、2月半ばまでNJにおられたご夫妻。こちらのご夫妻の息子さんのご一家もノースカロライナにおられて、息子さんのそばにしばらく滞在する、ということだったのですが、出発前後に90歳のご主人が弱ってこられて、あまり歩けない状態になってしまっていました。私がお会いしたときにはもうほぼ寝たきりの状態でしたが、とても輝いた顔をしておられて、「このようなときが与えられて、人生を振り返って、神さまの恵みを思い巡らしています」と言っておられました。元々、ご主人は昔からのクリスチャンで、奥さんが3年ほど前に洗礼を受けられた方です。おそらくこれが最後にお会いするチャンスだろう、と思っていましたが、このように輝いて最期の時を過ごせるのは何という幸いかと思わされました。(ご主人は4月28日に主の御許に召されていかれました)

その後にご訪問したのが、28年前、私がまだこの教会の牧師になる前にお嬢さんを天に送られた方です。ご主人がまだご健在の頃、お証しを伺って2009年の10月号でご紹介させていただきました。https://jccofnj.org/akashi200910 で読むことができます。今回もお一人で施設に入っておられるこのご婦人が、天国の希望を持って、先に天に行かれたお嬢さんとご主人との再会を待ち望みながら、でも、この地上に生かされるならば、できることをしていこうと、新しいことに挑戦しておられる姿に励まされました。

私はキリスト教が「死んだ後に天国に行く」ということばかりに集中して、余りにも彼岸的になってしまって、「この世のことはどうでもいい」と、世界で紛争が起こってもなんとも思わなかったり、環境問題に無関心になってしまうのは間違っていると思います。ですから、「死んだ後の天国」のことよりも、「私たちがどう生きるか」「神と共に生きる幸い」を主に語ってきました。しかし、今回、天国の希望を持ちながら、この地上で平安をいただいて歩んでおられる皆さんにお目にかかって、この天国の希望は、この地上での歩みをも豊かにするのだと思わされています。

「私たちの国籍は、天にあります」(ピリピ3:20)

「赤い小さな聖書」

私は1995年の8月第1週からJCCNJの礼拝に出席するように導かれ、同年の12月17日に前任の池原牧師から洗礼を受けました。今年で30年になるとは、時の経つのはなんと早いのでしょうか。

その頃、JCCNJにはクラーク先生が協力牧師としてジェーン夫人と毎週のように礼拝に出席されていました、クラーク先生はhi-b.a.の宣教師として、1951年から長年にわたって日本で主に高校生を対象に伝道されてこられました。いつからNJにお住まいだったのかは分かりませんが、当時はジェーン夫人のご実家だったWestwoodにお住まいでした。

お二人は1996年にJCCNJでスタートした「子育てクラス」(主に子育て中のお母さん達を対象にしたプログラム)で、20分程の聖書の時間を担当してくださいました。お二人のお話は、聖書を読んだことがない参加者にも分かりやすく、その時間はいつもとても和やかなひと時でした。

その後一年くらい経ってからでしょうか、何人かの女性教会員からのリクエストに応えて、ご夫妻によるバイブルスタディがスタートしました。これは教会の主催するプログラムではなかったのですが、月に1回くらい金曜日の午前中にParamusやRidgewoodの教会員宅に3~5名くらいの女性が集まっていました。確か1度、クラークご夫妻のご自宅に招いていただいたこともありました。

ある時クラーク先生は、日本でのご奉仕時代に出会った一人の女子高校生のお話をされました。彼女は熱心な求道者で「イエス様を信じて歩みたい、教会の日曜礼拝に出席したい。でも両親がとても反対していて、どうしたらいいのか分からない。」と泣きながら先生に話したそうです。そこで先生は彼女に「これをポケットに入れてトイレに持って行って、そこで読みなさい。」と一冊の赤い小さな聖書を渡したそうです。余談になりますが、この女子高校生はその後教会に通い、受洗し、やがて牧師夫人となったそうです

この話をされた時にクラーク先生はこの聖書のことを、”当時多くの受験生が持っていた赤い表紙の英単語集くらいの大きさのもの”というように説明してくださったんだと思います。私はそれを聞いて「赤尾の豆単ですか?私の母が、外国人宣教師からそういう聖書をもらったことがあります!」と、興奮気味に先生に言ったことを今でも記憶しています。先生によると、当時hi-b.aの集会では参加した高校生にこの赤いポケット版の新約聖書を配っていて、その聖書を毎日読み、いつも携えることを決心した参加者は、内表紙に自分の名前と日付を書いて、聖書を配った宣教師が贈呈者として署名することになっていたのだそうです。私は母から「宣教師から”赤尾の豆単”みたいな聖書をもらったことがある」とは聞いていましたが、実際にその聖書を見せてもらったことはなかったので、その時先生から「私のサインはありましたか?」と聞かれても「見たことがないのでわかりません」としか答えられませんでした。

その晩、母に電話をして件の聖書のことを聞いてみました。母が貰った聖書はまだ存在していたのですが、母の所属する教会に展示コーナーが新設されたので、戦後の日本での宣教活動の記録品として寄贈したので、母の手元にはないという答えでした。

私の母は中学の頃から教会に通い、中学卒業前に洗礼を授かりました。高校生の時、教会の友人に誘われて渋谷で行われていた集会に参加して、宣教師から聖書をもらったそうです。母は集会の名前も宣教師の名前も覚えてはいませんでした。母に内表紙のサインについて聞いてみましたが、母はそのことも覚えていませんでした。今のように携帯電話で写真を撮ってメールで送ってもらうなど普及していない頃ですし、内表紙に宣教師(願わくばクラーク先生)のサインがあるかどうかを母に確認してもらうのは無理だと諦め、次回の一時帰国の時に自分の目で確認することに決めました。

夏の一時帰国中の最初の日曜日、娘達2人を伴って母と教会に出かけました。その前日から期待と不安で落ち着かず、教会に着くと牧師への挨拶もそこそこに、会堂地下にある展示コーナーへひとり急ぎました。ガラスケースの中には、数点の展示物と並んで赤い表紙の小さくて薄い本が飾られていました。ケースを開けて手に取ってみると、古びて折れ線が入った表紙には「新約聖書」とありました。そっと表紙を開けると、母の名前が見慣れた筆跡のローマ字で書かれているのが目に入って来ました。そしてその下には、きれいな筆記体でKenneth W Clarkと記されていました。それだけを確認して、聖書をガラスケースの中に戻して、「神様、ありがとうございます!」と一言祈って礼拝堂に向かいました。

礼拝後、牧師にそれまでの経緯を話して、この聖書を私が譲り受けることを承諾していただきました。こうして、この”赤尾の豆単みたいな赤い小さな聖書” (ポケット聖書連盟刊 新約聖書)は私の宝物となりました。

私は感謝します。
あなたは私に奇しいことをなさって
恐ろしいほどです。
私のたましいは それをよく知っています。
私が隠れた所で造られ
地の深い所で織り上げられたとき
私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。
あなたの目は胎児の私を見られ
あなたの書物にすべてが記されました。
私のために作られた日々が
しかも その一日もないうちに。 (詩篇139: 14-16)

聖書の内表紙には、クラーク先生の字でその日の日付 2/24/52 そして I Cor. 2:2と記されています。母はその年の3月に高校を卒業していますので、恐らくこの時が母にとっては最初で最後のhi-b.a.集会であったのでしょう。受洗して数年、ほぼ毎週のように教会に通っていた母にとっては、その日受け取った聖書はそれほど意味があるものではなかったのかもしれません。それが45年を超える年月を経て、次の世代の宝物となる。神様だからこんなことができる、しかもこの私の琴線に触れるようなストーリーで。

今回この証を書くように導かれ、準備のためにhi-b.a.の歴史と働きについて、また、戦後の連合軍占領下にあった日本におけるキリスト教宣教についてなど、いろいろと知ることができました。また、2021年にオンラインでもたれたhi-b.a. 70周年記念本大会のビデオで、クラーク先生のスピーチを聞くことができたのも感謝でした。

イエス・キリスト及びその十字架に釘けられ給ひし事のほかは、汝らの中にありて何をも知るまじと心を定めたればなり。(コリント前書2:2文語訳)

2025年4月<牧師室より>「共に歩まれる方」

先月の月報でのホームレスの方との関わりのこと、個人的に何人かの方から、「その後、どうなりましたか」と質問を受けています。皆さんが心にかけて、祈ってくださっていることに感謝します。実はそれから会えていないのです。毎週、彼のいるところを訪問しているのですが、暖かくなってきて、歩き回っているのでしょうか?サポートしてくださっている方々いるのでしょうか?荷物はあるのですが、私が行くときには、本人はそこにいないのです。でも、一回は、「いないなあ」と思って、帰ろうとUターンできるところまで行って戻って来たら、そこにいて、「あ、いた!」と思って今度はまた車をパーキングして、戻って来たら、またいなかった、ということもあったので、まだ、そこで生活をしておられると思います。車で片道30-40分かかるところなので、1週間に何度も行くことはできないのですが、例えば、朝早い時間とか、夕方遅い時間とか、ご訪問できればと思わされています。

前回の月報では書かなかったのですが、彼と最後に会ったときのことを思い出します。その日は冷え込みが緩んで、前の週は寝袋の中に潜り込んでいた彼が、少し起き上がって、座ることができたので、私も横に一緒に座って、持ってきたホットココアを一緒に飲んで話をしていました。ほんの10分ほどの時間だったのですが、歩道に座ってそこから見える風景が、立って話をしていたときとは全然違っていました。歩道に落ちているごみや彼自身か他の誰かが吐いた唾。立って見下ろしていたときには気がつかなかったものが、目に入ってくるのです。ああ、分かっていなかったな、と思いました。いや今も分かっていないと思います。

よく、JOYJOYキャンプのヘルプをしてくれる中高生に「子どもたちの視線で話せよ。君たちと子どもたちは全然視線が違うんだからね」と話をするのですが、自分もそれができていないことを思い知らされました。

今年もイエスの復活をお祝いするイースター(復活祭)がやって来ます。復活されたイエスと出会った弟子たちの証言の一つに、「エマオへの途上」と言われる記事があります。2人の弟子たちがエルサレムから郊外のエマオへの道を歩いていました。彼らはイエスが神から遣わされた救い主だと信じて、イエスが彼らをローマ帝国から解放してくれると期待していたのです。そのイエスが十字架で処刑されて、自分たちの夢が破れて、トボトボと歩いていたのです。そこにイエスが共に歩まれました。聖書はその時の様子をこのように語っています。「話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。」(ルカの福音書 24章15節)そして、イエスは彼らの言葉に耳を傾け、その心の叫びに耳を傾け、そして、「救い主は人々の罪のために死んでよみがえることは聖書に預言されていたじゃないか」と彼らを諭すのです。

復活のイエスは私と同じ歩調で歩いてくださる方です。全く違った視野を持っておられるのに、私たちの視線で見てくださる方です。私たちの弱さや愚かさもすべて受け止めて、共に歩んでくださる方です。しかし、それだけで終わらずに、私たちの心を燃やし、力を与えてくださる方です。この復活のイエス様の愛と力をいただいて、歩んでいきたいと思わされています。

4月20日にはイースターの礼拝と愛餐会(食事会)が持たれます。今年のイースターが、皆さんにとって、そのイエス様の復活の愛と力を知って歩み始めるときとなりますように。

<集会紹介>「The BRAVE(教会学校)」(2025年4月)

私たちは教会学校を“The BRAVE”と呼びます。アメリカで暮らす日本人の子どもの多くは、月曜日から金曜日までを現地の学校で学び、土曜日は日本語学校に通います。それに加えて日曜日まで“学校”と名の付くところへ行くのは可哀そう・・・という思いから、当時の教会学校教師たちで話し合い、名前を変更しました。

The BRAVEという名前は、信仰生活に大切なものを英語で表記し、その頭文字を組み合わせて作りました。B=Bible(聖書)、R=Rock of Salvation(救いの岩)、A=Awesome God(すばらしい神様)、V=Victory(勝利)、E=Empowerment(神様から力を受ける)です。名前にちなんだテーマ聖句も選びました。ヨシュア記1章9節の「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにいるのだから。」です。へブル書12章2節から着想したテーマソングも作り、「♪イエスさまから目を離さないでいなさい~♪」と当時は毎週のように歌ったものです。(是非また復活させたいです!)

The BRAVEは小学生以下のグループと中高生のグループ(B.I.G.)に大きく分かれます。現在、小学生以下のグループは大人の礼拝と並行して開き、中高生グループは大人の礼拝前に開いています。

教会学校には様々なスタイルがありますが、小学生以下のグループではこの時間を“礼拝”と位置付け、大人の礼拝と同じように、お祈りで始め、賛美をささげ、献金をし、それから聖書のお話という構成にしています。聖書のお話を年齢相応にするため、小学校3年生以下を下級科、4~6年生を上級科とさらに2つのグループに分けています。

昨今の傾向として、教会学校に集うこどもの数は決して多くはありませんが、「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」(伝道者の書12章1節)とあるように、心が柔軟な頃に神様と出会い、神様を信じることはとても大切だと考えます。聖書の価値観が受け入れられ、大切にされ、教会学校に通わせたいという保護者の方々や、通いたいというお子さんが増えることを願い、The BRAVEではいつでも新しいお友だちを歓迎しています。

 

証し

 2025年2月23日、私は準会員としてニュージャージー日本語教会に転会致しました。そこに至るまでの神様の導きを証させていただきます。

 

「お父さんの母親がカトリック信者で、お母さんの両親はプロテスタントのクリスチャン。母方で数えると、私は四代目。それで、お父さんは私が中学に入る時に脱サラして牧師になったんだー。」「実家が教会だからさ。私もクリスチャンなの。教会の二階が家なんだよねぇ。」そう言うと、びっくりしながらもほぼ全員が納得した顔をしてくれるので、いつからか家族のことを聞かれると、そう答えるようになっていました。

 両親は熱心に奉仕する信徒で、私は小学六年生まで埼玉県の大きな教会で育ちました。朝から夕方まで奉仕で忙しい両親を待つ間、世代や性別を問わず多くの方に可愛がってもらったことを覚えています。教会は小学校以外の大切な居場所であるのと同時に、自分が愛されていることを実感できる場所。私は教会も、神様も大好きな子供として育ちました。

 中学受験を終え、晴れて第一志望のミッションスクールへの入学が決まった冬、父は私に「牧師になろうと思うんだけど・・。」と切り出しました。正直驚いたし、その言葉は具体的にどんな未来を示しているのか、当時の私には想像もできませんでした。けれども「サラリーマンとしてではなく、クリスチャンとして生きる方が父に似合っているのではないか。」そう強く思えて、「いいんじゃない?」と答えました。ふいに涙があふれて、不思議に感じたのが印象的でした。幸い祖母からの支援もあり、春からは希望の中学に進学が許され、6年間温室のような環境でぬくぬくと過ごしました。高校卒業と同じくして父も神学校を卒業し、千葉で開拓伝道を始めることとなりました。

実家=教会となった後も、両親と教会員の皆さんの優しさから「のんちゃんは礼拝に出ているだけでいい。」と甘やかされ、奉仕もろくにしなかったように思います。いえ、しませんでした。たまに、PK(牧師の子供)の方と出会い、「子供の頃から奉仕が当たり前だった。」などと聞くと、非常に恥ずかしく、肩身の狭い思いをしています。

 「礼拝に出ているだけでいい。」の後には、続きがありました。「まずは神様の愛に養われなさい。心の器が愛であふれるように、今は神様に向き合い、愛を思い切り味わおう。」父の説教で繰り返し聞いた言葉は、小さな教会に浸透しているようでした。

大学に進学し、社会の荒波に揉まれ、時に味わう挫折や、様々な人との出会い。私は神様に向き合うどころか、遠く離れては泣きついてを繰り返していました。『涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。(詩編126:5)』私の信仰は赤ちゃんレベルも同然でしたが、神様はどんな時も私を離さず、いつの間にか涙を静かな喜びに変えて下さるお方なのだ。私は少しずつ気づき始めました。

 

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩編103:2)』

ニュージャージー州は、私たちが子育てする4番目の地です。転勤の多い夫について、家族友人知人がいない地に引っ越すのはいつも不安です。子ども達が新しい環境になじめるのかを考えると尚更でした。しかし、東京・ロサンゼルス・神奈川のどこへ行っても、私は多くの助け手に出会い、喜びや悲しみを分かち合うことが許されてきました。それぞれの地に、神様の家族が増えていくのは何とも言えない喜びです。私は姉妹たち(※)の生き様からキリストの香りを感じています。感謝し尽くせないほど、祈り支えられてきました。そして、クリスチャンとして、新米母として、育てていただきました。

だから私は今回も「良い教会に繋がれたらきっと大丈夫。」という思いを与えられ、新居に到着してすぐの日曜日、ニュージャージー日本語教会の礼拝に出席しました。牧師先生ご夫妻・教会員の方々に温かく迎えられ、渡米直後の不安が少し晴れたのを覚えています。

ニュージャージーでの生活の中でも、神様は今までと同じように恵みを用意して下さっていました。寂しさや不安がある中でも、エッグハントのように日常の中に見つかるのです。振り返ってみればずっとそうでした。神様の愛と恵みは一度きりではなく、長い時間をかけて、私がわかる形で、私が気づくまで続いている。毎週教会に集うなかで、私の心に喜びと感謝があふれるようにと、長い間愛を注ぎ続けて下さった神様の姿に気づかされていきました。本当に『主は良いお方』です。

 

『しかし、弟子たちはイエスに言った。「ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません。するとイエスは言われた。「それを、ここに持ってきなさい。』(マタイ14:17-18)」

そんな時、錦織先生の説教でこの御言葉に出会いました。長い間愛だけ注いで待っていて下さった神様が、ついに招いてくださったのだと感じました。そのときの気持ちを言葉にするのが難しいのですが、自分の心に届いた神様からのメッセージが、あまりにタイミング良く、まっすぐだったので、「はい。」と応えるのが自然でした。もしも去年どこかの教会で「準会員になりませんか?」と訊かれたとしたら、断っていたかもしれません。今が、神様の完璧なタイミングであったと確信しています。神様は、良い意味で用意周到で、本当に粋なことをされると思います。

これが、転入会しようと思い至るまでの出来事です。私が持っているものはほんの僅かですが、神様の愛に応えようと思わされています。今は、神様が用意してくださった親子クラスでの奉仕に関わることができて、とても嬉しいです。これから、教会に集う皆様と交わり、一緒に祈り、神様を賛美して過ごせたら感謝です。

(※教会では同じ信仰を持つお互いを神のもとにある家族として、「兄弟姉妹」と呼ぶことがあります)

2025年3月<牧師室より>「神様からのチャレンジ」

先月の半ば頃、私たちの教会のHPを通して、一人の方から英語での問い合わせがありました。

「私が仕事に行く途中の道で、ホームレスの方を見かけます。こんな寒い中、何かできないかと思って、ある日、声をかけたら、英語が通じなくて、どこから来たのか聞いたら、日本からだと言っていました。それからスマホの通訳アプリで話をしているのですが、コミュニケーションが難しいので、日本語の分かる皆さん、助けてくれませんか」

世の中には、そういう話でお金をせびる詐欺を働く人もいるので、少しだけ疑いながら、その方にお会いすることになりました。教会に来られたその方は40代の女性。医療関係の仕事をしている、ポルトガルからの移民だと言っておられました。そして、その日本のホームレスの方のところに連れて行くから、ついてきて、というのです。その女性にお会いして、少しガードが下がりましたが(これがまた危ない可能性もあるのですが・・・)、実際に自分が行って何ができるだろうか、と思いながら、でも、少なくとも通訳はできるなと思いながら、現地に向かいました。

そこには、寝袋とバックパックだけで生活している男性がいました。私よりもずっと若く、背も高く、がっちりとした体格。髪がボサボサとか、服が汚れているとかを別にしたら、普通のホームレスの方のイメージとはかけ離れた感じでした。日本語で話しかけると、うれしそうに返事をしてくれました。アルコールやドラッグの中毒になっている様子もありません。でも、「どこから来たの?」と聞いても、何も覚えていないとのこと。「寒いから暖かいところに行こう」と言っても、「いや・・・」と言葉を濁します。その時は「また来るからね」と「これでいいのかな・・・」と思いながらその場所を後にしました。

それから、週に1回のペースで、温かいものを手に3回ほど訪問させていただきましたが、本人は「何も覚えていない」「自分の身元につながるようなものは何も持っていない」との話。もちろん、本当のことは何も知られたくなくて、とぼけているのかもしれません。そして、もっと心が通うことができてきて、何かが分かっても、私たちには何もできないかもしれません。でも、これも、この地域で生きていく私たちに神様が与えてくださった出会いだと思わされて、何ができるだろうかと自分に問い続けています。

その中で、この聖書の言葉が心に響いています。

私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。兄弟か姉妹に着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言っても、からだに必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう。同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。

ヤコブの手紙 2章14~17節

この地域社会とのつながりを持って歩んでいくということは、私たちに与えられている使命です。日々チャレンジです。神様が助けを与えてくださいますように。この使命に忠実に歩んでいくことができますように。

「ECでの恵みと振り返り」

私は今回初めて年末年始のEquipper Conference(EC)に参加しましたが、その中で経験したことを、分かち合いたいと思います。

Equipper Conferenceは、海外でキリストに出会った日本人クリスチャンたちが、キリストによって遣わされる者として、日本に帰国する前に、彼らをequipすることを目的としたカリフォルニアで行われるキャンプです。実を言うと今年のECはあまり行く気がありませんでした。知っている人が多くいるわけでも無く、講師もあまり知らない人ばかりでした。

もともとは去年のEC2023に参加するはずでしたが、新しい職場で体調を崩し急遽いけなくてなりました。去年のECは朝岡先生が講師としておいでになるはずでした朝岡先生の話は、ポッドキャストWTP(What The Pastors!!)で、よく家族で聴いていたので、去年はすごく参加を楽しみにしていたのに諦めざる得ませんでした。しかし、なんと、その朝岡先生も直前に体調を崩し、今年再チャレンジとのことだったので、これは神様が与えてくださったチャンスなのでは、と思い行くことを決意しました。今回のECの参加のために祈ってくださった皆様に感謝します。

ECとその後のカリフォルニアでの時間を通して、神様の働きをすごく実感できました。今回の部屋は一番年上の部屋で、26歳から23歳までの、異なる経歴を持った男性たちと一緒でした。東京から来ている音楽業界の韓国人、マサチューセッツ州の大学ミニストリーの奉仕者、カルフォルニアからの中国系のハーフ、テキサス州のバイブルカレッジの生徒達、そこのOB,とあまりにも共通点がない人達が集まっていました。そのような7人でしたが、ECでは、毎回スモールグループの終わりに手を取り合い輪になって祈りあう、また礼拝ではお互いのために泣きながら祈るなど、あまり日常生活では経験することのない、言葉では表せない愛と恵に溢れた時を過ごせました。最近の教会での学びとして、日曜日の礼拝と個人での礼拝について学んできましたが、ECではいわゆる日曜日の礼拝、心許せる信徒達との礼拝がいかに大事なのか、というのを実感しました。

カルフォルニアでの時間を通し懐かしい出会いもありました。ニュージャージーの教会に集っていたメンバー達、またその人達を通しての新しい出会い、多くの出会いにも恵まれました。何も知らない地で、このように新しく、また懐かしい出会いがありえたのは、神様という共通点が我々をめぐり合わせてくれたからだと思いました。

第一 歴代誌 16:10

主の聖なる御名を誇りとせよ。主を慕い求める者たちの心よ、喜べ。

今回のECのテーマは「誇人」でした。5日間の中でバプテスマのヨハネ、エパフロデト、そしてパウロ、朝岡先生が言うには「神様の働きを助ける人たち、脇役」について学びました。彼らを通して学んだのは我々が今何を誇りに思い、クリスチャンとして本当に何を誇るべきなのかを考えさせられました。簡潔にいうと、クリスチャンとして、誇るべきものはクリスチャンとしての完璧さ、ではなく、人間としての欠点、愚かさを誇るべきものだと伝えられました。我々は自分の信仰深さ、神様の前での謙虚さという「偽りの誇り」を掲げるのではなく、キリストの十字架を誇るべきだと学びました。神様は我々に必要なものはすべて与えてくれ、弱さの中で力を与えてくださいます。キリストの十字架を誇りとできるから、人間としての弱さを誇るべきなのです。

少し政治的な話になりますが、今のアメリカの政治環境はキリスト教が根強くなってきています。クリスチャンが正しいと言い、迫害を正当化する光景が多くなってきてます。クリスチャンであることの「誇り」を大々的に宣伝し、そうでない者を脅し、軽蔑し、傷つけ、陥れます。聖書に言及されてないから否定的になることもあります。これがクリスチャンとしてあるべき姿なのでしょうか?これは自分も含め、クリスチャンの多くが「誇り」を自己満足と履き違えてるのではないでしょうか。救われたから、謙遜でいるから、一方的に神様から愛と恵みをもらい、それだけで満足しているのではないでしょうか。本当にすべきことなのは、静かに神様の愛に応え、用いられるべきなのでは、と思いました。クリスチャンとして、自分の愚かさを受け入れ、誇りの原点となるべきものは自分の信仰の強さではなく、神様であるべきだと思わされました。

今、自分は進路選択で戸惑っています。今後のキャリアを考え、どのような選択をしていけばいいのか、と迷ってしまいます。自分の中で何度も何度も色々と考え、模索しています。ただ、自分の知恵と力だけで人生を左右しようとしてもうまくはいきません。

コリント人への手紙第一 1章 25 節

25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

コリント人への第二の手紙12章9, 10節

9 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。10 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。

このように、人間の限界や、人間の不完全さをはるかに超えるのが神様です。それを自分で解釈しようとし、自分で自分の道を作り替えようとするのはあまりにも難しすぎます。逆に、我々はその人間の限界や、人間の不完全さをクリスチャンだから克服しようとするのではなく、クリスチャンだからこそ誇るべきなんだと学びました。

今回古き信仰の友たちとも進路選択の話ができました。彼らもまた、進路選択で迷っていた、迷っている人たちですが、神様の愛に応えそれぞれいるところへと行きました彼らがこうできたのはやはり、自分の弱さを誇り、自分の力では成しえないことを神様がしてくださると信じているからです。神様の愛を一方的に受けるのではなく、それに応え、行った先々で神様に仕えに行ったのです。今回もNJの教会の元メンバーが、ECでの奉仕を通しまた一人救いへと導きました。また、新しい地で伝道開拓の一環として、新しい教会を立ち上げました。また、もうひとりのメンバーは西海岸へ行ったことで仕事だけでなく、人間関係、信仰の恵みの実感を伝えてくれました。神様がともにいてくれるから、どこにいても祝福してくれると知っているからこそ、不安の中でも選ぶことを恐れず、その選択を神様は祝福しました。このようにキリストを誇り、神様の愛に応えて用いられるキリストに従う人々に教会を通して会えたことに感謝しています。

今振り返ると、自分は神様の愛に応えられていたのでしょうか。大学、インターン、職場、自分で選んでおきながらも全て自分では想像もしてなかったように神様は祝福してくださいました。それに対して自分は神様のために仕えていたのでしょうか、その呼びかけに応えられていたのでしょうか。振り返りの時間をこのECは与えてくださいました。ECを通し、クリスチャンとしてあるべき誇り、また生き方を改めて学びました。この先何があるかわかりませんが、神様はどれをとっても祝福してくれます。それに対し自分もまた、キリストを誇り、どこに行っても静かに神様の愛に応えて用いられるることが与えられますように。今回EC のために祈ってくださった人々、出会えた人々の今後も恵まれ、守られますように祈ります。

2025年2月<牧師室より>「それを、ここに持って来なさい」

「それを、ここに持って来なさい」(マタイ14章18節)

私たちの教会は、この言葉をいただいて、2025年をスタートしました。

その日、イエスの周りには、男だけで5000人、女性や子どもを入れると1万人とも1万5千人とも言われる人々が集まっていました。日が傾き始めたとき、イエスの弟子たちは「もう夕方です。この群衆を解散させて、それぞれで食物を買いに行かせてください」と進言しました。しかし、それに対するイエスの答えは信じられないものでした。イエスは言われたのです。「あなたがたの手でこの人々に食物をあげなさい」と。「そんなこと言われても・・・」と、自分たちの手の中にあるものを見て、弟子たちは「私たちには5つのパンと2匹の魚しかありません」と答えます。それに対してイエスが言われた言葉が、その言葉でした。

「それを、ここに持って来なさい」

日本の企業の競争力が落ち、また円安が進む中で、駐在や留学のために来られる方々が減っている中で、私たちの教会に集う方々も減ってきています。また、長年にわたり教会を支えて来られた皆さんも、また私自身も10年、20年前のような動きができなくなってきています。そんな現状を見るときに、「私たちにはこれしかありません」と言いたくなります。しかし、そんな私たちに対して、今日も、イエス様は同じように言われているのではないかと思ったのです。

「それを、ここに持って来なさい」

私たちの手の中にあるものは何でしょうか?「これっぽっちでは・・・」「何もできませんよ・・・」そう言わないで、神様のために用いていただくのです。

「あなたがたの手で食物をあげなさい」とイエスは弟子たちに言われたのですが、実際に起こったことを見ると、弟子たちは自分の手の中にあるものを、ただイエスのもとに持って行っただけでした。イエス様はそれを受け取って、神様に感謝して、弟子たちに渡して、人々に配らせられました。その時に人々は満腹したというのです。人々を満腹させたのは弟子たちではなく、イエスご自身でした。

「それをここに持ってきなさい」といわれたイエスは、私たちの手の中にある小さなものを喜んで用いてくださり、人々の心をいっぱいに満たしてくださるのです。イエスの招きに応えて歩んでいきたいと思います。

2025年の皆さんの歩みにも神様の祝福をお祈りしています。