「イエス様に会うために」

親愛なる天のお父様、私を受洗に導いてくださいましたことを感謝申し上げます。
私をこれまで助けてくださいました、錦織牧師をはじめ多くの兄弟姉妹に感謝いたします。

第1章 だまされて、愛されて

どこにでもいる、フツーの日本人のサラリーマンとして、私はキリスト教を全く知らなかったと言ってよいと思います。宗教なるものを理解していなかったと言った方が当たっているかも知れません。そんな私が、何故、洗礼を受けてクリスチャンになったのか。そもそも、イエス様に会う前に、どうやって教会に来るようになったのか・・・。
きっかけは、これもよくあることなのですが、友人の教会員の「Oさん」が修養会に誘って下さったことでした。「こんどの週末、空いてる?」「えー、別に予定ないですけどぉ」「じゃ、修養会いかない?」「しゅー、よー、かい???」「そ、教会の人たちが2泊で行くんだけど、午前中少し先生の話聞いて、午後はテニスしたりソフトボールしたり。結構楽しくやってますよ。子供達もいっぱい来るし」「そー、じゃ、行ってみるかな?」という訳で、完全に「だまされて」教会の方たちと、お知り合いになる1歩を踏み出しました。
参加してみたら、修養会は予想と全く違う。「やられたっ!」
でも、そこで、本当に良い経験をしました。こちらは、何方の顔も知らないのに、多くの方たちが私のことをご存知で、にこやかに声をかけてくださる。「ようこそ、いらっしゃいました」「どうぞこちらへ」「一緒にお食事いただきましょう」等々。ピアノバーでもないのに、こんなに居心地の良い思いをしたのは初めて。皆さんが本当に自分達のことを愛し、相手のことを愛し、すべての人々を愛し、そして、すべてのことに感謝をして生きておられる。人前でこんなに涙を流したのは初めて。こんなに清々しい思いをしたのも初めてでした。「なんで、こんなにいい人ばかり集まってんだ?」
今では、誘ってくださったOさんに心から感謝しています。
「よくぞ、だましてくださいました。ありがとう!」(感謝)

第2章 聖書を「教科書」として

それからは、ほとんど毎週、礼拝に伺うようになりました。修養会で涙をながして感動しておいて、翌週から知らん顔することはできなかったし、やはり、初めて読んだ聖書の御言葉にとても興味を持ったからだろうと思います。礼拝中に、前夜の「罪」のため居眠りをしてしまうことも多かったのですが、それでも週に一度、錦織先生のメッセージに感動して涙を流すのも清々しい思いでした。
「聖書って意外といいこと書いてあるじゃない」という気持ちで、格言や、四文字熟語を覚えるような感覚で、心に感じる御言葉を探しながら読んでいました。
生き方として、学ぶべきこと、感動する御言葉に多くぶつかり、知識としては、充実感が持てましたが、教会でお会いする方達のような、いかにも幸せそうな、あるいは、とても満足そうな生き方が、感覚としてつかめませんでした。
「神様は先生ではありません」「聖書は教科書ではありません」と錦織先生はおっしゃるのですが・・・・

第3章 祈ってみても

聖書を読むことは、神様の御言葉に耳を傾けること、お祈りは神様との対話、と言われます。
聖書を読んでもだめなら、お祈りをしてみよう。という訳で、聞きよう聞き真似で「お祈り」なるものをやってみました。人に聞かれたら恥ずかしいので、通勤途上の車の中で。それもご丁寧にカーステレオでWorship Songなど鳴らしながら。この、Worship Songというやつも、なかなかの代物で、涙もろいオジサンは、これを聞いているだけで、もう涙が出てしまう。それこそ、誰かが見てたら、こんなおかしな光景はない。なにしろ、いいオジサンが一人で涙をボロボロ流しながら、Garden State Parkwayを突っ走っているのですから。それでお祈りしているんだから、どう見ても「あぶないオジサン」。涙で前方も良く見えないし、ほんとに危い。
しかし、そうやって祈ってみても、自分の「罪」は大いに反省するのですが(単に反省するタネが多いだけかもしれませんが)、したがって、日常の行動としては、もしかしたら、やや改善されていたのかも知れませんが、先輩の兄弟姉妹のように、はつらつとした幸福感には導かれないのです。
真剣さが足りないのだろうか? 病気をしたときや、大怪我で死にそうになったとき、本当に苦しみのどん底に陥ってしまったときなどに、イエス様が現れた、イエス様に会えた、などというお話をよく伺います。ギリギリの状況に追い込まれないと祝福は与えられないのかしら? いくら、涙ながしてお祈りしても、毎晩、旨いもん食べて、ワイン飲んでたんじゃ、やっぱりだめかなぁ?

第4章 「信じる」ということ

聖書の御言葉に耳を傾けても、自ら罪を悔い改めようとしても、あるいは悔い改めたと思っても、イエス様が現れてくださらない。どうしても「イエス様が我々の罪のために十字架にかかてくださった」という1点を「信じる」ことができませんでした。(そして、よくしたもので、洗礼式の時に質問されるたった1つのこと、がこの点なのです)。
ある時、ふと、とても簡単な「答え」にぶつかりました。
ただ、イエス様を「信じる」ということをすれば良い。自然に信じられないのなら、先ず自分から「信じ」ればよい。「信じない」という最も大きな罪を先ず悔い改めよう、と。
簡単に、「信じる」、「信じない」などと言うけれど、「信じる」ってどういうことだろう?「私は地球は丸いと信じています」と言うことができます。でも、これは「信じる」というより、「知っている」に近い。「イエス様を信じる」というのは、全く次元の違うことではないだろうか?「私は、お金しか信じない」という人がいます。ことの善し悪しは別にして、そういう人は、お金の存在そのものを信じているわけではない。お金の持つ目にみえない力を信じ、それに従って生きているのです。ある人は、「そのとおり」と言い、また、ある人は、「もっと大切なものがある」と言う(信じている)。「信じる」って、自分の心を自分で動かして、そのものに従って生きてゆくことではないだろうか?
ならば、イエス様に付いて行こう。まず、自分から心を動かしてイエス様に付いて行こう。待っているだけでは、病気になろうが、事故に遭おうが、イエス様は現れない。
まず、私から信じて付いて行こう。

『信じない者にならないで、信じる者になりなさい』ヨハネによる福音書 第20章 27節

主の恵みに感謝します。 アーメン

月報2002年8月号より

「前略 父上、母上」

前略 父上、母上
日本は蒸し暑い日が続いていると聞いています、いかがお過ごしですか。僕は相変わらず、元気です。仕事、趣味、遊びにと毎日、充実した日々を過ごしています。最近はラグビーも再開しました。
留学から始まったアメリカ生活は、先月でちょうど10 年が経ちました。空港で見送られた日が昨日のように思い出されます。ボストンでの語学学校から、ハートフォードでの勉学と修士号取得、そして、ニューヨークにある保険会社への就職、ニューヨークからロスアンジェルスへの転勤、IT ベンチャービジネスへの転職、さらに、ロスアンジェルスからニューヨークへの移動、と文字通り「アット」言う間の10 年でした。
その10 年間に、尊敬すべき人々や大切な友達との出会い、それに伴う貴重な経験、やりがいのある仕事、そして、さらなる大きな夢への歩みなど、本当に多くのものを与えられたアメリカ生活でした。もちろん、その中には嫌なこと、辛いこともありましたけれど・・・。
アメリカ留学という機会を与えてくれたことに改めて、感謝します。ありがとうございました。これからの生活も今まで以上に、より充実したものになると確信していますので、ご安心下さい。
さて、この10 年間での最も大きな出来事を伝えたく、ペンを取りました。それは、昨年5 月にイエス・キリストを救主とする信仰を受け入れ、今年3 月24 日にプロテスタントの教会にて洗礼を授かったことです。僕がクリスチャンになったことを、お二人に喜んでもらえれば幸いです。ここからは、そこに至る経緯を書いています。
僕が、自ら聖書を開くようになったのは、今から3 年半前です。ちょうど、当時勤めていた保険会社で転勤になった時でした。ニューヨークから異動になったロスアンジェルスで、任された仕事は、北はシアトルから南はメキシコ(ティファナ)までの西海岸全地域の日系ビジネスを管轄するという、大役でした。しかも、約300 人働く赴任先のオフィスには日本人スタッフが僕以外にいない環境でした。
そのような状況下で会社から与えらたミッションは「西海岸における日系ビジネスを成功させる」でした。正直言って、その時は悩みました。初めての土地、知っている人はいない、頼るツテも無し。全てが、「はじめまして」の挨拶で始まる生活でした。まさに、孤軍奮闘でしたね。
何をすべきなのか考えました。あれこれ、考える中で到達した結論が「ここで、成功するには一緒に働く米国人の助けが必要になる。助けてもらうには彼らのことを知らなければならない、米国人を理解するために、聖書を読んでみよう!」でした。つまり、この国またはこの国の人々の根底には、腐ってもキリスト教的な考え方が流れている、それを学べば、米国人の考え方、習慣を理解でき、ひいてはビジネスを実践する上で役にたつのでは?という仮説に基づく、考え方でした。
主の導きはこの時から働いていたようです。そのように、僕が独りで、聖書を開き始めた頃ちょうど、新しく友だちになった一人が、ある牧師先生を紹介してくれました。その先生が、それから2 年後に僕を信仰へと導いてくれた、ぶどうの木国際教会、英語部牧師の楠秀樹先生でした。その友人に「牧師らしくない牧師がいるから、毎週土曜日にある聖書勉強会に遊びにおいでよ」というのが、誘い文句でした。牧師らしくない牧師?いったい、どんな人なんだろうと興味本位に、出かけて行ったのです。
牧師らしくない牧師、まさにその言葉通りでした。牧師とは堅物な人、もの難しい人と、僕が勝手に決めつけていたイメージとは、全く正反対で、楠先生はとても気さくな、楽しい、親しみやすい方でした。なんと、初めて勉強会に行った日、突然、ギターを弾き始め、作詞作曲の賛美の歌を聴かせてくれたのです。このパフォーマンスにはびっくりしました。それが、僕の抱いていた牧師のイメージを壊すきっかけとなりました。それから、時間の許す限り、毎週土曜日の午後から行われる、楠先生宅での聖書勉強会に2 年間通いました。
横道にそれますが、勉強会の後は、楠先生の奥さんが夕食を用意してくれていて、家庭料理に飢えていた僕にとって、奥さんのおいしい手料理はいつも楽しみでした。もしかしたら、胃袋で信仰へと導かれたのかもしれません。楠先生はクリスチャンでなかった僕に、いつも、温かく親切に分かりやすく、聖書の御言葉を教えてくれました。また、勉強会に集まってくる数多くのクリスチャン達との交わりも持つようになり、少しづづでしたが、主の御言葉が僕の心に響いてきました。
不思議なもので、独りで聖書を読み、週一回聖書勉強会に通うことで、今まで、見えなかったアメリカの仕組みが見えたり、一緒に働く米国人の考え方が手に取るように理解できたり、また、ビジネスで米国人との交渉が問題なく進むなど、僕の仮説に基づく行動はまんざら間違っていないようでした。聖書を学ぶことで知らず、知らずのうちに恵みを受けていたのですね。
その様な中、一年ほど経ったある時期、仕事において、大口顧客の契約を成立させることが出来ました。それは自他ともに高く評価される業績でした。その嬉しさを楠先生に伝えた時、私に教えてくれた次の聖書の御言葉はとても衝撃的なものでした。
「おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くするものは高くされるであろう」(ルカによる福音書第14 章11 節)の一節は、深く考えさせられるものでした。また、はじめて畏れを感じました。しかし、聖書の御言葉に畏れを感じても、結局、信仰を持つには至らず、その後一年経ち、仕事の関係で再度、ニューヨークに戻ることになりました。
ニューヨークに発つ数日前に、お世話になった楠先生のお宅に挨拶に伺いました。奥さんのおいしい手料理を頂き、思い出を語り合い、楽しく時間を過ごしました。それから、時間も遅くなったので、楠先生宅をお邪魔しようとした時に、先生から、「倉田君、なにをためらっているのかね?」と突然、言われました。それは、信仰を受け入れるということでした。それまで、何回かやんわりと勧められていたものの、何か踏み切れない気持ちがあり、お茶を濁していました。
しばしの別れの言葉として、「なにをためらっているのかね」には少々面食らいましたが、その時、先生のその言葉を素直に受け取ることが出来、その場で信仰告白をしました。今から、考えれば、僕はきっかけを求めていたのかもしれませんね。そして、その場にいた、楠先生夫妻、クリスチャンの友達から祝福の祈りを受け、信仰を受け入れてロスアンジェルスを離れました。
クリスチャンになってから、僕のアメリカ生活を振り返ってみると、それは「影踏みごっこ」でした。常に心は乾き、何かを求めて、自己実現という目標に向かって、見ていたものは結局、自分の影だったのです。今まで神に背を向けていた僕が、神の光の前に映されて見ていたものは自分自身の影でした。その自分自身の影を踏もうとして、掴もうと、がむしゃらに生活を送っていました。
踏めそうで踏めそうでない、掴もうとして掴めないのが、「影踏み」です。そして、自分の影を踏む試みほど、愚かで虚しいものはありません。クリスチャンになって、それに気づきました。そして、自分の影を踏む必要もなくなり、神に背を向けることを止めて、今では神に向き合えることで満たされています。その後、ニューヨークに移ってから、通える教会を探していましたが、なかなか良い教会が見つからずにいました。その時、先述ぶどうの木国際教会、日本語部牧師の上野五男先生より、ニュージャージーにある日本語キリスト教会を教えてもらい、今年からその教会に通い始めました。
ニューヨーク、ニュージャージーに住む日本人の集まる教会です。親切で温かい人ばかりで、とても素敵な教会です。そこで、当教会の錦織学牧師先生の導きを受け、3 月24 日に洗礼を授かりました。
と、言っても、まだ初心者クリスチャンで、信仰を受け入れた新しい生活は、葛藤の毎日です。おまけに、自分自身の罪深さが曝け出されて、嫌になることも日常茶飯事ですね。でも、「神が僕の側にいつもいてくれる、イエスキリストの十字架の死によって、罪が贖われている」と信じることで、救われています。
その他に話したいことは多くありますが、それは次回、会った時に話をします。お二人とも体には十分気をつけて、いつもまでも健康でいて下さい。最後になりましたが、お二人、そして兄夫婦、また、親戚一同の上に主の恵みがあることをお祈りしております。
それでは、また連絡します。
草々

(於:ニューヨーク)

月報2002年7月号より

「先日大学の卒業式に出席しました…」

先日大学の卒業式に出席しました。残念ながら両親は来る事ができませんでしたが友達が一緒に来てくれ、お祝いをしてくれました。実際の卒業よりは5ヶ月遅れではありましたが、始めて例の黒いガウンと四角い帽子に身をまとい“卒業できたんだなぁ(涙)”という実感と“いつまでも学生気分ではいられないな”という身の引きしまる思いとがしました。 アメリカに来たばかりのガソリンの入れ方もわからなかったころのこと、Examに追われてベーグルとピザばかりに嫌気がさした日々、そしてなによりも神様に出会いイエス様を受け入れた事。今の自分がこうしてあるのはまさにみ言葉通り、“しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。”(1コリント15:10)と心から思います。

始めて日本の大学で友人に誘われて聖歌隊に入った頃、まさか自分が神を信じるようになるなんて、クリスチャンとして洗礼を受けるなんて夢にも思っていなかったことでした。自分はそんなところから程遠い人間だし、もしもなにかを信じるならそれはいわゆる“宗教”について自分なりのなんらかの納得のいく理解、そして結論が出た時だ、とおこがましくも思っていました。そもそも一般的な日本人の思うように、なにかを信じる=宗教=危ないという図式がわたしの中にもできあがっていましたし、それでも選べというならば、もっとも怪しくなく(!?)、そして自分にいちばん利益のある宗教だとも思っていました。 しかし、“宗教”ではなく“神(イエス キリスト)との個人的な関係”を体験している今、まさに神を選んでやろうと思っていたわたしが神様によって選ばれていて、自分で切り開いていってると思った道が実は神様によってすべて導かれていたのだと思うとき、気恥ずかしさすら覚えます。

数学者で哲学者で有名なパスカルの言葉に“人間の心の中には神の形をした空洞(=God shaped vacuum)がある。”という言葉があります。潜在的に人はその空洞をなにかで埋めようとしますが、それは私達人間が生きていくために不可欠なものを得るために与えられている動物的本能と同じだと私は思います。無意識のうちに私達が飲んだり食べたり息をしていることは、私達の内なる存在が神によって満たされたいと欲求することと同じではないでしょうか。ただそれは物質的な欲求とは違い目には見えませんが。

私は小さい時からの家庭環境からか、知らず知らずのうちにとても厭世的な考えを持つようになっていました。人間は一人で生まれて一人で死ぬんだ、人の心なんてわかりあえるはずがない、と。誰かに頼りたいけど誰にも自分の本当の心の内を打ち明けることはありませんでした。それでいいと思っていましたし、どうせそんなものだという諦めのような気持ちでもありました。自分の心の内に目を向けようとせず、上手くごまかして、無感情になっていました。それでも持ち前のこの性格でそれなりに楽しく過ごしていましたが、やはり私の内なる存在は安らぎを求めて、100%頼れるものを求めていたように思います。 そんな時アメリカに来て何の気なしにルームメイトに連れられていった教会で出会ったクリスチャン達を通して生きた神との関係を見ることになりました。私が彼らに対して一番最初に抱いた印象といえば、“こんなにフツーの人達が神様信じてやってんだー。”というものでした。今思えば偏見も甚だしいところですが私にとっては自分とおなじようないわゆる普通の若い子達が普通の格好をして、当たり前のように“神様?いるにきまってんじゃん!”といわんばかりに礼拝している姿は相当の驚きだったのです。(私のクリスチャンに対するイメージは相当悪かったみたいですね、、!)これがアメリカ人か、と驚きながらも一体この人達の信じているものはなんなんだろうと、興味が沸いてきました。が、しかし聖書を読めば難しい人の名前やら、イエスキリストの言う事の突拍子のなさに(“右の頬を打たれたら左の頬も差出しなさいー?一発殴られたら眼をとばして倍にして返すのが常識でしょう!!”みたいな、、。)つまずくし、自分があっさりとなにかを信じることに抵抗があったのです。単に周りに影響されているだけなら意味が無い、アメリカに来ました、はいクリスチャンになりましたではあまりにも話しが単純じゃないか、とも思ったのです。なんとか納得のいく理解をと、聖書を読み、他の宗教と比較してみたりしました。しかしそうやって、たいしてありもしない頭で理解しようともがく私に神様はただ単純なしかし大きな愛をもって迫ってきました。

十字架の意味について、救いについてすこしずつわかってくるにつれてクリスチャンになりたい、イエスキリストをもっと知りたいという欲望が増してくるのがわかりました。しかし私はまだもがいていて、そして自分がもしクリスチャンになったら人からどう思われるかということを心配していました。キリスト教に対する疑問ももちろんまだたくさんありました。神が愛ならば今この世で起こっているすべてをどう説明するのか、何故救いはもっと簡単でみんなに開かれていないのか、、。 あるとき私はクリスチャンの友人につっかっかって言いました。神は愛といいながら、“救いにいたる門は狭く、滅びにいたる門は大きく広い(マタイ7:13)なんてどうしてこんなに排他的なことが書いてあるわけ?”とつきつけました。その友人は悲しそうに、でも一生懸命にこう言いました。“その門を狭くしてるのは僕たち人間側の問題なんだよ、神はすべての人に一人も漏れることなく入って欲しいと必死の思いで招いているんだよ。”と。そして“罪”について話してくれました。そのとき始めて神様ばかりを見ていて責めていた私が自分の問題に、いわゆる聖書でい言う罪について向き合ったのです。 ここまでくるともう一歩という感じですがそう簡単にもいきませんでした。始めて“自分にも罪がある”という認識が生まれ始めた私はそれをどうにかしたい気持ちになっていましたが、神の存在自体は信じられるとしてもそれがどうしてイエスキリストでないといけないのかという思いになっていました。しかし聖書ではっきりと、“わたしは道であり、真理であり、命である。だれもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。”(マタイ14:6)と言いきるこの人物は、はったりかます大嘘つきか、もしかしてまさかの本物しかないんじゃないか、そしてわたしは今どっちに賭けるか問われているんだ、と何故か人生の一大選択を迫られているような感覚にとらわれてきました。そして始めて心から祈ってみました。“神様、ほんとうにいるなら証明して!”と。そのころの私は自分の内なるイエスを受け入れたいという欲求に一生懸命理性でブレーキをかけていたように思います。そんなとき、私の行っていた教会の牧師がこう言いました。“みき、今君はJesusに恋をしているんだよ、そしてこの人と結婚していいのか一生懸命悩んでいる。大事なことだからもちろん悩んでも仕方が無い。人間は考える能力を、知恵を与えられてい

あるとき、ふとなにがあったという訳でもなくもうGiveUpしようと思った瞬間がありました。素直に心から、イエスは神だ、と。聖霊の押しに感謝! 自分がクリスチャンになったら親との問題はどうするんだ、友達にはどう説明するんだ、日本人としてクリスチャンとして生きることをどう両立するのか、そんないろいろな思いを遥かに超えるイエスキリストへの欲望が勝った瞬間だったと思います。今考えるとそれらのすべての問題は私がイエスを受け入れた瞬間に私がすることではなく神様が解決してくれる問題だったのです。友人の導きにより、なんと人のごったがえす学校のカフェテリアで信仰告白の祈りを捧げた私ですが、祈っている最中にも不謹慎ながら“どうせならもうちょっと思い出に残るような場所でお祈りしてもらいたかったなぁ。”という思いを裏切って神様は私の心のなかの空洞をバッチリ埋めてくれました。パズルの最後のピースがカチッと音を立ててはまるような気分の良さでした。それまで味わったことのない安心感と喜びに満たされてわたしのクリスチャン生活が始まったのです。イエスキリストに恋に落ち、この人に賭けたことを後悔することは決してないでしょう。わたしばかりか、去年の春にはわたしがクリスチャンになったことをあんなに戸惑っていた母までがイエス様にひっかかって!?しまいました。私が母を電話で祈りに導く恵みに預かった時、母の祈りの第一声は“イエス様、今までずうっと私のこころを覆っていたものが今一気に晴れていくようです!”でした。晴れるや!もとい、ハレルヤ!!私達はイエスキリストという色男にひっかけられてとっても幸せ者です。これだからクリスチャンはやめられませんね、みなさん!

月報2002狽6月号より

「こんなすばらしいことを、なぜ独り占めにしていたの?…」

「こんなすばらしいことを、なぜ独り占めにしていたの?なぜもっと早く教えてくれなかったの!?」
これが翌日の彼女の挨拶の言葉でした。アーサー先生が洗礼式でドアのノッブは内側にしかないのです。イエスさまはドアの外側でたたいているが開けられないのですと言ってたことを思い出し、「本当ですね!!」と洗礼の感激と感謝を体一杯にあらわしながらの挨拶に一瞬反省しながら、「おめでとうEsther!!」(Estherは彼女のアーサー先生よりいただいた洗礼名です)「いい名前だね!!洗礼を受けられて良かったね!!」と私も挨拶をかわしました。

1年程前に私達の職場に入社した彼女に、職場では立場上(経理・財務のManagerで、総務人事も守備範囲にはいる程の小さな職場なので)あまりイエスさまの話しをしにくい環境が昨年の夏頃までつづいていましたが秋ごろから、昼休みなどに私の「証」をする機会があり、それを切っ掛けにして「塩狩峠」のビデオを貸したり、信仰の書や、キリスト者の伝記などを貸したりして、だんだんとそのすばらしさを語りはじめていました。そして教会へおさそいしたら、ご夫婦で1度礼拝に出席してくださいました。ご主人はクリスチャンで、彼女に何時かは同じ信仰を持って欲しいと祈っていたとのことですが、あまり強く話してはいなかった様です。それっきりで教会も殆ど行かない生活が続いておりました。

今年に入ってから、VIPの徹夜の祈り会でも、彼女の救いの為、職場の同僚や先輩の救いの為に名前を上げて祈り始めました。そしてRBC Ministryの「デイリーブレッド」の日本語版を彼女に、そして英語版をご主人へと3月1日からのものを手渡すことが出来、また春に日本へ一時帰国した時に単行本サイズの新約聖書を買い求めて来て彼女へプレゼントをすることが出来ました。そしてその聖書を手渡し乍ら、3月19日と20日のアーサー先生の集会に参加してみないかとさそっていました。そしてアーサー先生は型破りな「不良牧師」であることを紹介しながら、なんとすばらしいTimingでアーサー先生が来られるのかと思いました。

ところが彼女は前日の3月19日には風邪で1日休暇をとり体調が最悪の状態で20日を迎えました。朝から体調が悪く、午後にはDoctorのアポイントが取れたら行くという状態で夕方の集会に出れるかどうかは午後の体調で決めると言っていました。午後になりDoctorのアポイントが取れないが、午前よりは多少体調が良くなって来た様子で「集会に出たら絶対体調が良くなるよ、アーサー先生の話を聞き祈ってもらったら!!」と5時少し前に声を掛けると「行ってみる」ということになりマンハッタンへ向かいました。少し早く会社を出て途中でラーメンでも食べて行こうということになりました。彼女は久しぶりのラーメン屋でご機嫌で食欲も回復し、大分体調も回復してきているようでした。

アーサー先生のMessageの間、一言ももらさぬ様に聞いていた彼女に、終わってから、「どうだった?良かった?」と聞くと「すっごく良かった!!」という返事に、だめ元で私が『洗礼受ける?』と聞くと『うん。いいの?』と答えたので、アーサー先生に相談したところ、即座にOKということになりました。聖霊充満の非常に厳かな、感激的な洗礼式となりました。
『赤ちゃんは、ミルクを必要としますね。私達のミルクは聖書の御言葉です。祈ってから毎日聖書を読んでください』とアーサー先生が言われ、実際、彼女は翌日から熱心に聖書を読み始め、ご主人を驚かしているそうです。

みことばを述べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。(第二テモテ4章2節)

月報2002年5月号より

「洗礼を受けてから四年が…」

洗礼を受けてから四年が経とうとしています。その間主の恵みは本当に大きなものでした。全知全能なる主の愛の中にあって日々強められ喜びを与えられました。これからもそうであることを信じています。しかし一時期私は神様の事が分からなくなっていました。

この前、私は神様が悲しまれることをしてしまいました。それが罪だと分かっていて、悪いことだと知っていて、このくらい大した事はないと自分を正当化していました。そしてその事によってそれまで親しくしていた親友をなくしました。何でも話せて自分のことを理解してくれていて、彼のことも理解しているつもりでした。自分のした罪によってその親友を傷つけ、それによって私から離れていったことを赦せなくなっていました。

私は自分のそんな汚い部分を見て落ち込みました。こんなに自己中心的だとは思ったこともなく、どちらかというと人を思いやることの出来るタイプだと思っていました。自分は偽善者だったと思わされました。その事を認めたくなくて、心の隅に隠して逃げていました。その問題に立ち向かうことのできない自分を見て自分の弱さを思い知りました。

頭の中では、そのことを主の前で告白しなければいけないと分かっていましたが、実際にこの問題を目の前にして何もすることができず、誰にも話すことが出来ませんでした。その問題から逃げようとすればするほど自分を苦しめていました。仕事も忙しい時期にあり、そして資格の試験の受験日も近いこともあり、仕事と勉強の毎日で、教会に行けない日々が続きました。一度に色々なことが起こり、心に平安はなく、私は渇ききっていました。

その後身体にいくつか異変が起こりました。まず初めに蕁麻疹が毎日のように出ました。身体中が真っ赤になってかゆくなり何も手につかないときが一ヶ月くらい続き、その後、鼻血が毎日のように一ヶ月以上続きました。

「神様なんなんですか...」と、心の奥底からその言葉が出てきました。

どうしてこんな事になるのかと、神様に疑問を抱きました。でもそんな時も神様は、共にいてくださいました。背を向けていた私を、祈ることもできないほど渇ききった私を、去年の夏に行われたJCFN (Japanese Christian Fellowship Networkという団体) の修養会に導いてくださいました。そこで神様は私の心にダイレクトに語ってくれ、罪意識に苦しんでいた心に入ってきて下さいました。その修養会のテーマが 「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい...」 (ローマ人への手紙12章1節) だったのですが、聖い、生きた供え物のことを思ったときに自分の罪を神様の前で告白しなくてはいけないと思わされました。自分のどろどろとした汚い部分を全部さらけ出して、神様の前に出て祈らなければと強く思わされ、その修養会で同室だった友人にすべてを話し、彼も今まで誰にも言えなかったことを話してくれ、二人で祈りました。

「神様、赦してください」と。

そして主は、大きな愛をもってそれまで隠していた罪を赦して下さり、苦しんでいた心を癒して下さいました。赦されたことによって、それまで赦せなかった友人を赦せるようになりました。今まで私を苦しめていたものから解放して下さったのです。イエス様はこの罪のためにも十字架にかかって下さったのだと思わされました。主は進む道を、頼るものを見失っていた私を捕まえ、またもとの所に、本来あるべき所に私を導いてくださったのです。これから歩む人生の中で、このかたがいつも共にいてくださることに感謝です。

もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しい方であるから、その罪を赦し、すべての不義からわたしたちをきよめてくださる。(ヨハネ第一の手紙1章9節)

月報2002年3月号より

「私は31歳の時に…」

私は31歳の時にまだ結婚する前の家内を通して、イエス様に出会いました。

今振り返れば、小学校のYMCAのキャンプや、高校の予備校もYMCA、また大学もミッション系でしたので、本人がその気になれば、もっと早くからイエス様を知り得たのかもしれません。しかし当時の自分にはずっと、天の父なる神様の存在は、よく言う「苦しい時だけの神頼み」でしかありませんでした。

逆に、肉親である父親の存在は私の成長に大きく影響しました。父は地元のPTAの会長を長い間務め、私への躾やモラルの教育には大変熱心でした。そして「人様には絶対迷惑をかけるな、そして社会の役に立つ人間になれ」と口ぐせの様に私にいっていたのを今でもおぼえています。そんな比較的恵まれた家庭でひねることなく育てられた私でしたが、社会人になり、資本主義の競争社会の波に飲み込まれていくと、父親から教わった事とは全くちがう社会の現実が待っていました。 名古屋で営業部に配属になると、「競争社会では食うか食われるかのどちらかだから、お人好しでは負ける、図太く生きろ。」とか、「他人の事よりはまず自分、仕事相手は信用する前にまず疑ってかかれば、だまされることはない。」などと先輩や上司に教わりました。自分自身では、疑問をもちながらも、当時、出世意欲旺盛だった私はいつしかそれを受け入れ、染まっていきました。

家内との出会いは、そんな人間社会の欲の中にどっぷり漬かってしまって、もうすっかり昔の自分を忘れてしまっている時でした。

彼女は学校を卒業して、私と同じ会社に入ってきたのですが、入社早々のあいさつで、いきなり「わたしはクリスチャンです。」と信仰告白をしていました。でも当時の私は、そんな彼女のことも 「何がクリスチャンや。」と取り合わず、むしろ その明るく天真爛漫ぶりに疑いの目を持っていました。

その後、何年間も親しく会話することはなかったのですが、ある仕事をきっかけに、話をする機会を持ち、彼女が幼くして、お父さんを亡くし、お母さんひとりの手で育てられた事を聞き、その逆境での生い立ちにもかかわらず、真っ直ぐな心を持っている彼女に自分の心の歪みを気付かされました。

それから、彼女との交際がはじまり、その天真爛漫ぶりが、どうやら彼女がクリスチャンであることに関係しているを知り、そこで、イエス様の事にはじめて興味を持つようになりました。以来私は進んで、「はじめてのキリスト教」とか、「キリスト教入門」など聖書以外のキリスト教書籍を読んだりしました。でも聖書は辞書みたいでとても読書嫌いの私には読む気にはなれず、何とかインスタントにキリスト教を知ろうとしたのです。また同時にデートの時には、キリスト教のことばかり話しするようになりました。

夕立ち後のデートで、虹の出現に、いきなり神様との約束を思い出すと言っておどろいた逸話が私たちにはありますが、それはこの頃の事です。幸い会社のすぐ横に教会があったので、日曜日以外にも金曜夕拝に仕事の終わった後、積極的に足を運ぶようになりました。でも既に自我と先入観念を確立していた私には、どうしても理解できないことや、一般常識では受け入れ難いことが多々あり、教会には行くけれども、全て納得できないととても洗礼を受ける気持ちにはなれなかったので、洗礼は一生受けないかもしれないと思っていました。

例の虹の事についても、虹は雨が降った後の大気中に残った水分に太陽光線が反射して虹ができると科学的に証明されているので、神様の意志で作ったものではなく単なる自然現象だとしか考えられませんでした。しかし神様は、そのような私の事もご存知でちゃんと私の為に特別な導きを用意していてくださいました。

皆さんは偶然が3回立て続けに起こることがあると思いますか。

私への神様の救いの導きは、そのような起こり得ない3回の偶然を用いて、はじめて人知を超えた神の意志もしくは計画の存在を教えて下さいました。

1つ目はあるキリスト教系の病院への通っていた教会からの献金でした。その病院とは、わたしの妹がまだ幼くして亡くなった病院です。大阪にあるのですが、医療ミスにより亡くなった疑いがあった為、その病院の名前は家族の中では、暗黙のうちに禁句となっていましたが、突然礼拝中にその名前がわたしの耳に飛び込んできました。私は「何で名古屋の教会がわざわざ大阪のしかもわたしの家族に少なからず関係するこの病院に献金をするのか。」と驚きました。それから、今度は1週間後の礼拝で、実家のすぐ近くにある教会で牧師が礼拝奉仕をするという報告。「また何で、名古屋の教会の牧師がわざわざ大阪のしかもその中で私の実家に一番近い教会なのか。」と思いました。聞けばその牧師がまだ駆け出し頃(私が中学生の頃)、その教会で伝道師をしていた関係で、会堂新築の記念礼拝で説教をなさるということでした。

その教会は中学校に行く途中にあったので、もしかすると、その牧師とは、以前ニアミスをしていたのかもしれません。わたしは、だんだん偶然の連続が恐ろしくなってきました。

そして、極め付けの3つ目は、それからまた1週間後に起こりました。それは、その年のイースターに向けての受洗希望者の案内が週報に載っていたことです。それだけでは、普通はあまり驚くことではないのですが、わたしにとっては、非常にインパクトがありました。それはその年のイースターは私の誕生日と重なっていたのです。

その前からの2週続きの偶然と、このことは、すべて自分に個人的に関わっており、この3つのことはとても偶然とは思えず、自分の過去を振り返ると、神様は私が生まれる前から計画をもって、この時に至るまでのあらゆること全てをもって、救いに導いてくださっていたと信じることができ、今までの迷いを振り払いこのタイムリーな神様の導きに洗礼を決意しました。

聖書の中にも、詩篇139篇には、このように書いてあります。

「あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」

そして、ヨハネ15章16節には、「あなた方がわたしを選んだのではありません。わたしがあなた方を選び、任命したのです。」とも書いてあります。

このように、普通の人とは違い、非常に短期的に救われた私でしたので、人の罪やイエス様の十字架という意味では当時信仰はまだ薄かったように思います。

でも、わたしの場合、この受洗をきっかけにもっと神様を求めるようになり、そこから本当の信仰生活がはじまったような気がします。イエス様の事がどうしても信じられないと悩む日々もありましたが、信じられないではなく、祈って信じたい、信じようと思えば、神様は御手を差し伸べてくださいました。先ほどの虹の話にしても、今では、それができるプロセスは科学的には確かにそうかもしれないが、雨を降らすことも、その後に太陽を出すことも神様の意志により、簡単にできると思えば、虹を架けることも意志をもって契約のしるしとしてそれを作ることはできるんだと思えるようにかえられました。

 

月報2002年2月号より

「今思うと私の家族は…」

今思うと私の家族は人への思いやりという意味では決して豊かに与えることのできる家庭ではなかったように思います。やさしいけど無口な父を、気の強い母は頼りないと言い、私が高校生の頃に叔父の家からわが家に移ってきた祖母は、以前、自営ですが会社を経営していたこともあり、わが家の中心に居る人でした。

私は早く自立したかった思いもあり、学校を卒業するとすぐに仕事に就き、家から離れました。しかし、一人からの出発は苦労の連続です。私は次第に「最後に頼れるのは自分しかいない」と思うようになりました。イギリスへ留学、そして日本に帰ってきても再び東京で仕事に就き、前のように時々実家に帰るものの、家族とは離れて暮していました。

ちょうど大学の勉強を始めた頃から、ある人の勧めで教会へ行くようになりました。最初はやはり半信半疑、全く聖書の意味が不明でした。しかし大学で知り合う人達、そして私に教会を勧めてくれた人、教会の方々の不思議な導きで、私は次第に神様のことを考えるようになっていきました。

ある日いつものように西洋史のレポートの文献として選んだマルティン・ルターの宗教改革までを追った、ルターの伝記のような本の中でルターの「神の恩ちょうのみ」と言う言葉に出会いました。その意味自体わからないのにその時なぜか心にひっかかり、数日その言葉の意味を考えていました。しかし、ある日ふとその意味がわかったのです。と同時に今までずっと心の迷いの中にあった、神様の愛とは何か、がわかったのです。それは私にとって衝撃的な出来事でした。そして以前よりも熱心に聖書のみことばに耳を傾けていた時、神様は私にこの聖書のみことばを語ってくれました。

「わたしを強くして下さるかたによって、何ごとでもすることができる。」

(ピリピ 4章13節)

強がってきた今までの私に、神様は弱くてもいいことをずっと教えてくれていた、そしてそれが神様の恩ちょうから、無償の愛からであることに気付いたのです。神様を初めて信じ、受け入れた瞬間でした。教会を勧めてくれた人にそのことを話すと涙を流して喜んでくれました。そして数ヵ月後に洗礼を受け、私は今までの自分勝手さを悔い改めたのです。

あれから数年後、昨年の夏から今年にかけて、大きな困難にぶつかりました。暗く果てしなく長いトンネルを一人きりで歩いているような辛い時期でした。しかしそんな時、West Covina Japanese Christian Church牧師、そして義父である大川道雄先生がこの言葉をもって沈んでいた私を励まして下さいました。

「神は愛する者に試練を与える、それは愛する者が試練を通してでなければ訓練されることがないからです。」

愛する者ー私は神様に愛されている、そう思った瞬間喜びが、力が溢れました。その時、神様に全てを委ねることを学びました。そして数カ月後、神様は私達夫婦を再会させて下さいました。

今振り返るとその貴重な時間も、実は頑固な私の家族に、家族とは何か、そしてこれまであまり話せなかった神様や教会、教会の兄弟姉妹のことなどを語り会えた良い機会だったのだと、全ては神様の不思議な導きだったのだと思えるのです。

新しい命を得たこと、素晴らしい教会と多くの兄弟姉妹、そして夫とともに祈ることのできる日々を与えられたことに、またそれまでの不思議な神様の導きに感謝しつつ、これからも主の愛を、福音を語るものとして主の道を歩ませていただこうと思っています。

月報2002年1月号より

「International VIP Club との出会いと祝福」

1997年11月主の導きにより東京に仕事を与えられ12年振りに日本で働くことになり、単身帰国しました。長年の妻の祈りと教会の諸兄姉の祈りによって奇跡のように、1988年にアメリカで救われた私は日本での信仰生活は初めてでした。教会もJCCNJしか知らない私にはなかなか馴染めませんでした。与えられた職場でも、案の定クリスチャンは私だけ。時間の経過とともに信仰の火が消えて行く様に思え、寂しさをひしひしと感じておりました。その様な時に五賀兄弟(JCCNJのOB)を通してInternational VIP Clubを紹介されました。初めて出席したのは丸の内のパレスホテルでの朝食祈祷会でした。そこでInternational VIP Clubの創設者である佐々木弁護士、市村師を紹介頂きました。職場が有楽町で日比谷公園のそばでしたので、帝国ホテルの朝食祈祷会(毎週水曜日)を紹介され、それ以来再びアメリカに戻るまで、この由緒ある(同クラブの最初の集会が開かれた場所であったのです)帝国ホテルの朝食祈祷会へ出席する様に導かれました。そしてVIP Clubがイザヤ書43章4節の「私の目には、あなたは高価で尊い」(You are Very Important Person in God Eyes)からであり、その御言葉通り一人一人が神の目にはVIPであるとの理念で運営されていること、ビジネスマン、専門職の異業種交流の場であり、福音伝道の場であること、会員制クラブであり、どの宗派にもどの教会にも所属していないこと等が分かりました。

帝国ホテル朝食祈祷会を通してInternational VIP Club の色々な集会(昼食会、夕食会、オアシス祈り会等)を紹介され、お茶の水の夕方集会に出席したのをきっかけに、その「祝福の秘密」を知りたいと思うようになりました。「なんでこんなに祝福された集会なのだろう?」、「なぜ祝福されるのだろう?」と不思議に思い、全ての集会に出席して見ようとの思いが与えられました。およそ半年掛けて殆ど全ての集会に出て見たのですが、残念乍らその秘密はわかりません。そして出席していない集会は、オアシス木曜祈り会と月1回のオアシス徹夜祈り会だけ残りました。仕方なく(祈りが苦手だったので)木曜の夕方の祈り会へ出席しましたが、それでもまだ秘密はわからないままでした。そして最後に残った徹夜祈祷会へ、一大決心をして出席したのです。そして眠い目で朝を迎え、最後に全員で賛美している時に、その「祝福の秘密」がついに分かったのです!!そうです、「祈り」だったのです。決して渇くことのない「生命の泉」(ヨハネ4章14節)を体験した瞬間でした。

その後、多くの主にある祈りの友が与えられ、多くのビジネスマン・専門職の方々に生きて働かれるイエスさまの御業、「証」(あかし)を聞き、良き交わりをさせて頂き、正に日本の生活のオアシス(泉)となって、弱い私の信仰の火を絶やすことなく燃え続けさせて下さったのです。

VIP Clubでの奉仕(「証」、司会役など)も、いつも生きて今も働かれる「イエスさま」が支えてくださり、「語るべき言葉を教えよう」(出エジプト4章12節)と示してくださり、奉仕を終えて見ると何時も「私ではない、私には出来ない」と祝福で満たしてくださったのです。

会社のリストラにより、1999年4月末で突然解雇され、たった1年半で又仕事を失いました。本当に驚きましたが、祈りで支えられ、全く動揺することはありませんでした。秋の修養会までにアメリカに戻ることにし、それまでの5ヶ月をInternational VIP Clubの祈りの友に、祈りで支えられ励まされ、特にNew YorkでのVIP Club開催の為に祈って下さいました。最後のオアシス徹夜祈り会で、私の滞日2年程を振り返り乍ら、VIP Club との出会い、主の導きにより徹夜祈祷会の「生命の泉」(上述)の体験を「証」(あかし)する恵みを頂きました。

2000年2月初旬、大雪の朝、第1回目の朝食祈祷会(現在のJCCNJの朝食祈祷会のマンハッタン45丁目のマクドナルドにて)と、徹夜祈祷会(42丁目のGrand Central Station前の友達のOfficeにて)が同時にスタートすることが出来ました。

失業中であったので、「リストラ・ミニストリー」だね!と苦笑し乍らも、VIP Club の為、Mid Townで仕事が与えられる様に毎週、真剣に祈り続け、JCCNJの皆様の熱い祈りに支えられて、現在の仕事が与えられましたが、何故かNew Yorkの郊外の職場が与えられました。「すべてのことを働かせて益としてくださる」(ロマ書8章28節)主に期待しています。

現在のInternational VIP Club の集会は、毎週水曜日夕方集会(午後7時15分~午後9時)と毎週金曜日徹夜祈祷会(午後11時~翌午前5時)を左記住所にて開催中です。ともに「生命の泉」に預かりたいと願っています。主の御名を心から賛美します。

211 East 43rd Street, Suite 1201

New York, NY (43rd Street, Between 2nd and 3rd Avenue)

詳細は、http://vip-club.tv/ 又は、E-mail: katoh7316@worldnet.att.net まで。

月報2001年12月号より

「去る4月27日午前0時14分、我家に次男が誕生しました…」

去る4月27日午前0時14分、我家に次男が誕生しました。予定日より3週間以上早かったにも拘わらず、体重は2700グラムを超えて健康で、外に出る日を待ち切れずに生まれて来たようでした。

日本では妊娠のことを「おめでた」と言います。アメリカでも妊婦さんに対して必ず「Congratulations!」と声をかけるように、妊娠は喜ばしいこと、幸せなこととされています。私の場合も例外なく、親しい方はもちろん、外出先で出会う見ず知らずにも祝っていただきました。その度に笑顔を作った私ですが、その実、どうしても素直に「ありがとう」と言えずにいました。私にとって、二番目の子供を授かったことは全くのハプニング(思いがけない出来事)だったのです。

我家には8月でやっと2歳になった男の子がいます。こちらは待ち望んだ子供で、胎に宿ったと知った時の喜びといったらありません。しかし、初めての子育ては慣れないことばかりです。試行錯誤の連続で、喜びも吹き飛ぶほど忙しい毎日が続きました。それが1年過ぎてようやく一息つけるようになり、これから始まる楽しい毎日――遠くへのお出掛けに図画や工作――を思い描いていた矢先、ハプニングは起きました。

これまで、私は比較的思い通り生きてきたように思います。両親は私を自由に育ててくれた分、責任も自分で取るように教えてくれました。そのためか、何事にも慎重で、行動を起こす前には入念な準備を欠かさないようになりました。しかし、裏返して言えば、予想外の事態に弱く、一度計画が狂うと軌道を修正するのに時間がかかるのでした。今回の出来事はまさにそれでした。買った物を要らないからと返品するように胎の子を戻すわけにはいかず、自力でどうにもならない事態に腹立たしく悔しい思いが募りました。

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」

(伝道者の書 3章11節)

私のあまりの落胆ぶりに、友人達はいろいろな方法で励まそうとし、クリスチャンの友人は聖書の中からふさわしい言葉を語ってくれました。しかし、私の心は頑なで、「そんな言葉は知っている。知っているけれども受け容れられないから辛いのよ」と心の中で叫んでいました。事実、「時にかなって…」の一節は、聖書の中で最も好きな箇所の一つです。クリスチャンになる前は優柔不断で後悔ばかりしていた私を前向きな人間に変えてくれた一節でした。ところが、今回ばかりはその言葉すら跳ね除けてしまうのです。やるせない気持ちを抱える日が続きました。

そんな私も、月が過ぎてお腹が大きくなるにつれ、中にいる子供に愛情が湧いてきました。胎動が始まると、まだ見ぬ子への愛おしさは一段と強まり、さすったり話しかけたりするようになりました。お腹の子供もそれに応えるようによく動き、胎動をあまり感じない日は、かえって心配なぐらいでした。

そして9ヶ月を過ぎたある日――それは突然やってきました。朝から腹痛を覚えていたのですが、すぐに治るだろうと考えて、上の子供を遊ばせたり買い物に出たりしていました。しかし痛みはなかなか消えず、夕方、あまりの痛さに、お医者様に電話をかけると、初めはのん気に構えていた先生も暫くして異常を察知し、「すぐに病院へ来て下さい」ということになりました。とは言え、主人はまだ会社ですし、入院の荷造りも整っていません。上の子供を寝かしつけてもおらず、準備は何ひとつ出来ていませんでした。

慌てて親しい友人のご主人に病院までの足をお願いし、荷造りを進め、上の子供には寒くない格好をさせて待ちました。その間、腹痛――今思えば立派な陣痛――は強まるばかりで、何度もうずくまって待ちました。迎えが来た時は立って歩けないほどの痛みに顔がゆがみ、支えられるようにして車の中に乗り込みました。

上の子供も車に乗せてもらい、「さあ、病院へ」というその瞬間です。主人がいつもは約1時間かかる道のりを30分ほどで帰ってきました。すぐに車を出して2台で病院へ向かい、私は分娩室へ、子供はそのまま友人宅へ連れて行って貰いました。いつもなら親から離れて大泣きする息子がこの時はおとなしく、初めてのお泊りを難なくこなしてくれたから不思議です。

一方、病室に入った私は主人の付き添いを得て安堵していました。ただ、腹痛が治まれば帰宅できると考えていたところへ、お医者様から「今晩中に産みましょう」と言われ狼狽しました。入院準備はおろか、心の準備もできていません。そこへきて、希望していた無痛分娩の注射はタイミングを逸して打ってもらえず、予定外の生みの苦しみを味わうことになりました。そんなことは知る由もなく、お腹の子供は準備万端だったと見え、力強く生まれてきました。

何一つ思い通りにならなかった出産ですが、今振り返ると、ひとつひとつのことが偶然とは思えないほど良く準備されていたのが分かります。友人の助けや主人の帰宅、長男の様子などなど――そこに、神様が用意して下さった完璧な御計画をはっきり見ることができるのです。

退院した後も、神様は良くして下さいました。家の中は、慌てて飛び出したまま出産に突入したわけですから、赤ん坊を迎える準備など整っているはずがありません。両親が助っ人に来てくれるのは1ヶ月も先のことです。しかし、オムツ替えや授乳の時間は容赦なくやってきて、てんてこ舞いの毎日がスタートしました。

周囲の知人や友人は、そんな私を見兼ねてか、上の子供を預かったり食事を差し入れて下さいました。この時ほど、周囲が差し伸べて下さる助けに感謝したことはありません。あの時期を乗り切れたのは、こうした支えのお陰だと心から感謝しています。

時には、こちらからお願いすることもありました。私にとって、他人に物事を頼むのは、とても勇気の要る行為でした。親元を離れて生活するようになってから、いつしか自分だけを頼みに生きてきました。もちろん、キリストに出会って頼れるお方を得たわけですが、やはり何かして貰うと感謝するより恐縮する気持ちが強いのでした。それが、今回を通じて、人様の好意を素直に受け取ることの大切さを知り、お返しには、自分のできることをできる範囲ですればいいという心持ちになりました。

ハプニング続きの次男の誕生は、安穏とクリスチャン生活を送っていた私の目を醒ましてくれる出来事でした。あれから5ヶ月――おかげ様で丸々と太った我が子は、愛くるしい笑顔で育児疲れを忘れさせてくれます。これからも、子供2人を育てていく上で、いろいろなハプニングに出遭うことでしょう。でも、どれも神様によって丹念に練り上げられ、準備されたものだと分かっているから心配ありません。

「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である」

箴言16章9節

月報2001年10月号より

「私がこのMaywoodの教会に初めて行ったのは…」

私がこのMaywoodの教会に初めて行ったのは5年くらい前のクリスマスの頃だったかと思います。

初めから、たくさんの人が暖かく声をかけて下さり、家庭集会にも送り迎えして下さったりした事を覚えています。初めは学生としてアメリカに来た私でしたが、こちらでの友人というと皆自分の事だけで精一杯。利用されたり寂しいがゆえ一緒にいる、きっと日本に戻ったりもう連絡をとりあう事もないだろうといううわべだけの友人でした。悩んだり傷ついたりして日本へのホームシックは募るばかりでした。それが教会では全く違う人達が集まっていて優しくされホッとする場所でありました。礼拝中も気持ちが穏やかになり自分と見詰め合ういい機会でもありました。

ただこの時、妊娠臨月で、あまり教会には足を運べずにいました。初めてのお産は緊急帝王切開。2泊で退院だったので無理がたたっていつまでもお腹の痛みはとれずベッドから一人で起き上がることも出来ず、夜中の授乳にも時間がかかりました。そんな時、教会の方々が状況を察して1日おきに主人と私の分の食事を運んで下さったのです。一番助けが欲しかった時に手を差し伸べて下さり、赤ちゃんを見て一緒に喜んで下さったことは有り難く忘れられませんでした。

それからは自然と教会に向かうようになりました。ただ洗礼を受けるまでには4年の月日が流れました。一番の理由は神を受け入れる、信じるということが心からできるまではと思っていたのと、聖書の意味もよくわからないしと壁をつくっていたのです。熱心な教会の方を見ては、私にはあそこまでいきついていない、まだまだと思っていたのです。

二人目の子を妊娠した時、教会を通じてお友達になったママ達がいました。その彼女らの誘いで友人宅に集まったのですが、一緒に悩みを分かち合ったり祈り合ったりするものでした。そこではどんな悩みもお互いがさらけ出し打ち明けられる場でした。それによって彼女らが信頼出来る何でも話せるかけがえのない友達へとかわっていきました。海外に住み子育てをしていく上でさらけ出せる友達、答えてくれる友達は、とても心の支えとなります。教会を通して知り合った人達は良い人ばかりで いつも私や家族の為に祈ってくれて手助けを行動で示してくれるのです。普通「何かあったら いつでも力になるから」そう声をかけてもらっても実際は頼みにくいものです。それをクリスチャンの友は察して動いてくれるのです。私の為に泣いて喜んでくれる人もいるのです。心から私の家族の為に一生懸命祈ってくれるのです。その心の純粋さ優しさをいつもどうしてかと知りたかったのですが わかったのは神様を信じ、愛されているから、人にも同様に出来るという事でした。

出産まであと2ヶ月と近づいた頃、恐怖や不安で一杯だった私は、このままではお産に良くないとわかっていても、どうしても前回のお産が思い出され打ち消すことは出来ませんでした。そんな時、主人が「洗礼を受けてみる?」と尋ねてくれて、その言葉はとても嬉しいものでした。その後は、すがる気持ちで助けて下さい、守って下さいという一心から洗礼を受けたのでした。

洗礼式は感動的でした。主人の家族の方も喜んで来て下さり、先生も気遣って英語で説教をして下さりました。その1ヶ月後いきなり強い陣痛が来ました。病院に行く前に痛みの中ふっと思い、口にしたのは、「主人のお父さんの形見のイエス様のネックレスを持ってきて。」そのネックレスを強くずっと握りしめたまま病院に着きました。その時から自然に不安や恐怖の気持ちよりも、絶対に自然分娩で元気な赤ちゃんを産もうという気持ちの方が強くなっていました。その結果祈りは通じました。

5月13日、母の日に素晴らしいギフトを授かる事ができました。安産でショーンは産まれました。

洗礼を受けて変わったことは、祈りは通じると知った事、感謝する気持ちが増えたこと、姉妹や兄弟と呼べる人がいるという事(この呼び方って家族が増えたようで親近感がわきますね)、そして心配事が出来てもきっと神様がいい方向にむかせてくれると身をゆだねるようになった事です。

ある方がこう教えてくれました。時に自分の欲しいものを与えられない事があるけれどそれには理由があって後になってわかる、貴方にいい方向に神は向けて下さったのだと。

今の楽しみはまだ一度も口にしたことのないあのワインとパン。どんな味なのでしょう?

「神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。」

ヨハネ第1の手紙 5章10節

月報2001年9月号より