「備え給う主の道を」

今、私は20年11ヶ月のアメリカ生活に別れを告げようとしています。
過去40年薬学と製薬企業の中で働いてきましたが、良い薬は病気の原因を作っている仕組みを攻撃するけれども、正常な身体の仕組みには悪さをしないで、その使命を果たしたら速やかに体の外に出るべきものなのです。ここ10年余の私の専門は、薬が人の体に入ってから排泄されるまでの経路を追いながら、有害反応の可能性を臨床試験に入る前に見つけ出すということでした。かつてはあまり省みられていなかった領域でしたが、今では新しい薬の開発にとってかなり重要な事柄とみなされるようになりました。特にこの10年余、情報と技術の急激な進歩によって、製薬の研究開発過程で行われる試験の質も量も圧倒的に増加しました。それにつれて良い薬の標準は高まり、かつては死を待つばかりだった人々が新しい医薬のおかげで職場復帰できることがまれではなくなりました。一方、いまやどんな業界でもそうであるように、企業の生き残りをかけた競争のために、大手製薬企業の合併とその後に来る過酷なリストラが当たり前のように行われるようになりました。何と激しい時代に生かされてきたことかとしばしば思います。
あの国際多発テロは、この地での衝撃の体験でした。一人でも多くの命を救おうとする努力が医薬開発でなされている一方で、理不尽な大量殺人が行なわれたのでした。人権擁護思想が進歩して、これこそ人類の成長の証しかと思わせられる一方で、武力行使によって国際正義を打ち立てようとする旧約聖書の時代と変わらない戦術がとられています。平和共存にむけての人類の英知の進歩というものはないのかと心底問わずにはいられません。

女が海外で一人こんな時代を生き抜いてきたことを知って、尋常ならざるものが私の中にあると感じた方が、「ひょっとしてあの人はかつて全共闘の女闘士だったのでは?」と憶測されたと聞いていますが、それはかなりの見当違いです。
アメリカでの仕事の体験を学生に話して欲しいと言われてお話させて頂いたことがありますが、お招き下さった大学教授との昼食の折「私は本当に愚直としか言いようの無い融通の利かない生き方をしてきたのです。」と申しあげたところ、この方は我が意を得たりと言わんばかりに膝を打って 「そういえば、成功の秘訣は『運』『鈍』『根』といいますね!」とおっしゃいました。私が成功者かどうかは多いに疑問がありますが、その方の感のよさに感心したことでした。
私の場合、「運」とは信仰を与えられていたことにほかなりません。「鈍」は正真正銘文字どおり自分に優れた能力の無いことを自覚していましたから、神様の導きにすがって一歩一歩進むしかありませんでした。「根」とはそれに値しない者に神様から与えられた許しと恩恵に対する感謝の応答に他ならないのです。他から観たら馬鹿かと思われるほど、ある意味で私は「根」の続く人間です。

すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」と書いてある。(コリント第一1:19)

神様は確かに信じてより頼む者を担ってくださるのだとつくづく思うこの頃です。私の帰国の目的は老母を最善に介護するためでした。そのために昨夏以来、日本にいる妹達と知恵の限りを尽くして段取りをしてきました。しかし神様は2月28日満90歳の誕生日に母を召されました。それは私のこちらの住まいが売れた翌日でした。「人は心に自分の道を考える。しかしその歩みを導くものは主である」 (箴言 16:9)。私は今すべてを神様の導きに委ね、期待して日本での生活に向けて発ちたいと思っております。

月報2003年4月号より

「私は、小さいときは 神さまや…」

私は、小さいときは 神さまやイェスさまのことを何もしりませんでした。
クリスマスが イェスさまのたんじょうびだということもしりませんでした。クリスマスはサンタさんがプレゼントをもってきてくれる日とおもっていました。

5年前にアメリカにきて、おともだちにさそわれて、 たまにきょうかいに来るようになりました。でも、きょうかいがなにかはしらずに、きょうかい学校やJoy Joy キャンプに来ていました。れいはいのときも、まだgymであそんでいたので、 うえでみんながなにをしてるか、ぜんぜんしりませんでした。

2年前 に、お母さん がなくなってから、 きゅうにきょうかいの人たちとなかよくなって、はじめて「しゅうようかい」に行きました。しゅうようかいのときも、子どもはほとんどあそんでいたので、イェスさまのことはあまりわかりませんでしたが、とてもたのしかったので、また行きたいとおもいました。

それからまいしゅうきょうかいに行きはじめました。さいしょはなにもわからなかったけど、 行っている間に、みことばをならったり、イェスさまのことをすこしづつおしえてもらいました。
アメリカの きょうかいの ユース グループ にいきはじめて、そこのしゅうようかいにも行って、せいしょのお話をきいて、神さまが人間をつくったことなどをおしえてもらいました。

それから2年たって2002年のしゅうようかいに行ったとき、イェスさまについて行こうと思いました。このしゅうようかいでお話ししてくれた、くりす先生が
「イェスさまは わたしたちみたいな 人間 だった。」 って 言ったとき、
それから、「イェスさまが じゅうじかの上にいるとき、どんなにせなかが、すれていたかったか」 っていったときに、じぶんがいたいような気がして、どんなにイェスさまはいたかっただろうかと思って、すごく自分が つみびとだなってかんじました。
そして、それまでもイェスさまのことをもうしんじているけど、今、ちゃんとに神さまに、「しんじている」と、おいのりをして、きもちをつたえようとかんじて、せんれいをうけることをきめました。

その、しゅうようかい のちょっと まえ、ともだちから、あるしつもんをきかれました。
そのとき、じぶんの答えを secret にしたかったから、うその答えを言ってしまいました。
そのときは、べつにへいきだったけど、後になって、すごく guilty に思えました。
つぎの日、ともだちに学校であやまって、ほんとうのことを言いました。そのともだちは、ゆるしてくれました。
でも、あやまるときはとってもゆうき が ひつようでした。でも、あやまって本とうのことを言って、とてもきもちがあんしんしました。

もし、イェスさまが、わたしたちのために、じゅうじかにかかってくださったことをしらなかったら、うそを答えたことにあまり大きなguiltをかんじないで、さいごまで本とうのことを言わず、その子にはあやまらず、すこしたってわすれていたかもしれません。でも、イェスさまのことをかんがえると、とてもわるいことをしたんだなって思って、ゆうきを出してほんとうのことが言えました。
あやまってから、わたしの中で、もう、うそはつかない ようにしようときめました。

2002年12月 15日に、せんれいをうけました。

せんれいを うけた後、クリスチャンでないおともだちに、神さまや、イェスさまのことをつたえたい というきもち が大きくなりました。
わたしは 、おともだちに 神さまがいつもいっしょにいてくれることとか、せかいを作ってくれたのは神さまだとか、神さまはまちがえをしてない、とかをしってもらいたかったから、ほかのともだちがこういうことを しゃべっているときは、じぶんもいっしょにつたえたいと思うことがとてもおおくなりました。おともだちにまず 神さまをしってもらいたいとおもってます。

「しかし、かれをうけいれたもの、すなわち、その名をしんじた人々には、かれは神の子となる力をあたえたのである。」ヨハネによるふくいんしょ、第1章12節

イェスさまにかんしゃします。

月報2003年3月号より

「15年間の大きな恵」

「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」ヨハネ21章22節

2003年1月第2聖日説教が、この「ヨハネの福音書」最後の部分から「一人一人への召命」と題して錦織牧師を通して語られました時、著者ヨハネが自分の事を示すこの聖言葉を通して、この地域に日本語で福音が述べ続けられてきたのは、主のご意志であった事を、主は私に直接語りかけて下さいました。15年間ここまで教会として成長し、そして又、新たな夢と幻を持って新しい16年目をスタートしたこの教会の歩みにおいて、多くの牧師や信徒の献身的な働きがあった事は確かですが、その歴史の中に刻まれるのは個々の人間の名前では無く、ただ主の、私たちを赦し、救って下さった十字架のイエスのお名前だけなのだと言う事を明確に示してくださいました。

それは1通の日本からの手紙で始まりました。それまでいろいろな奉仕をさせて頂いた幾つかの日本語教会での信仰生活から離れて、英語の教会で日曜クリスチャンの生活に満足しきって過ごしていました者にとって、正木牧師からの「60歳の誕生日に裏山で祈っていたら主からニューヨークへ行って開拓伝道をしなさいと示されました。貴方をその責任者に任命しますから直ぐに準備を始めて下さい。」という全く予期していなかった、驚くような内容が書かれたお手紙でしたが、不思議にも非常に冷静に、そしてあたかも主が直接語られたように感じましたのは、長い年月が経った今考えます時、まさに聖霊様の働きであったのだと思わされます。人の思いで判断しますと、「何で数回しかお会いした事の無い牧師から?」とか「何で私なの?」といった感じを受けて当たり前の事ですのに、逆に自分がどこか遠くの方で感じていた使命感のようなものと共鳴して、「期は熟した。今がまさにその時!」といった言葉が語られたように感じました。本当に自然体でそのための一歩を踏み出せましたのは、主の導きが有ったからであり、まさに私にとりましては奇跡と言う他はありません。

今あらためて教会の出発時を思う時、私を洗礼へと導いて下さった主の御愛は、新しい教会をこの地で始めるという主の目的のために、多くの教会でいろいろな経験をさせながら導き、鍛えて下さる事に絶えず注がれていた様に感じます。その時その時の自分は何もそれを意識しておらず、自分で日々の生活を、信仰の歩みを進めて来たと自負していた事を恥ずかしく思い、悔い改めさせられます。サンタクララの教会で救いへと導かれ、多くの経験豊かな信仰の先輩方の中でそのご奉仕の姿を見せて戴き、ロサンジェルスに移され、開拓伝道と会堂建設に携わり、日本へ戻り大川従道牧師の教会で牧師の伝道旅行の鞄を持たせて戴き、他の教会の成長から学ぶ姿勢を教わり、そしてニューヨークでは日米合同教会で日英両語での礼拝と教会運営に触れ、テナフライの長老教会で米国教会の一員としての信仰生活。そのどれ一つも無駄の無い、欠かす事の出来ない素晴らしい経験として、主が活かして下さいました。そして約16ヶ月の準備期間を通して、それまでの信仰生活で交わりを持たせていただいた、牧師・信徒の方々が親身になって相談に乗ってくださり、力になって下さり、共に主に従う喜びを分ち合えました。しかしいざ日本語教会が始まりますと、ここまで導いて下さった主の労に感謝しつつも、この教会が1年間は維持できるだろうが、それ以上は無理だろうといった不信仰の思いが有りました事を今正直に告白いたします。主は私の思い煩いを見事に裏切って15周年を迎えるまでに成長させて下さいました。それは主の聖言葉、「わたしに従ってきなさい」だけがこの教会の支えであった事の証であり、主がお約束通りに導いて下さったのだと確信できます。この新しい年の初めに、一人一人が主に従って行く時、主が教会を成長させて下さる事を信仰の友と共に確認させて頂けました。

信仰生活の約半分を、この教会で過ごさせていただきましたが、これからの新しい15年は果たしてどのような道を主が御用意くださっているのでしょうか? 教会の中では孫もいないのに「爺様」と既に呼ばれる年齢になりましたが、期待に胸を膨らませ、祈りつつ主に従っていきたいと願っています。

「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいて下さいます。」 ヤコブ書4章8節


月報2003年2月号より

「新しい喜び」

1982年の夏、私が乗った伊豆大島へ向かう船の中は、海へ遊びに行く若者達であふれるばかりでした。なんて大きな空、なんて青くきれいな海、時々海面を魚が飛び跳ねる。船の中は賑やかでも、神様が造られたこの自然界のすばらしさ中に、生かされている自分を見つめるときでした。

この時の伊豆大島でのバイブルキャンプに,私は神様から何とか解決をいただきたい1つの課題をもっていました。それは1年以上抱えた心の中の葛藤でもありました。私が参加した学生キャンプには、東日本各地、カリフォルニアから、100人ほどの学生達が集まりました。3泊4日のキャンプは楽しいレクリエーション、きれいな海での海水浴、バーベキュー、バンドの演奏や賛美、聖書からのメッセージと、盛りだくさんのプログラムでした。キャンプ場は明るい話声や歌声が賑やかで、次々に神様の恵みを証して立ち上がっていく人の話を聞くと、自分だけが取り残されて行く思いでした。そんな中、ある方が「一緒にお祈りしよう。」と、声をかけてくださいました。短い祈りの時でしたがとても慰められる思いでした。

その時の私が1年以上抱えていた心の中の問題は、友人の事故死のことでした。当時、手紙のやりとりをする中、私が友人を傷つけてしまったため、生活が荒れ、事故のきっかけになってしまったのではないか・・・と長い間の心の痛みでした。交通事故はテレビでも報道され、その友人のご両親は即死したのは自分の子とは決して認めらないほど、ひどい状態でした。そのニュースを聞いた私はただ泣き叫ぶだけでした。既に教会に通っていた私は、友人を傷つけてしまったこと、キリストの愛を伝えられなかったことに、罪悪感を覚えたり、自分を責めることも度々ありました。この事において解決をいただかなければ、私はもう生きていても喜びが得られないと、解決がないならこのまま海に落ちてしまいたいとまで悩み苦しんで参加したキャンプでした。しかし、最後の晩、この時ばかりは神様に切なる願いをもって祈りました。「私の心のすべてをご存知な神様、既に過去の事であっても、私にはこの事においてはっきりとした解決が必要なのです。・・・」と、すがる思いでした。しばらくの祈りの中で、ヨハネ第1の手紙1章7節「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。」の聖書のみ言葉が心にとまり、イエスキリストの十字架がわたしの心をとらえました。「十字架のもとに泉わきて、いかなる罪もきよめつくす・・・」賛美の中にイエス様の十字架がどんな罪からも私を救い、赦し、きよめてくださると、語られたようでした。そればかりではなく、もう生きていても価値がないのではないかと思っていた私に、神様は“あなたにしかできないことがたくさんある。”と、教えて下さいました。驚きでした。こんな小さな者でも、他の誰でもない、私にしかできないことがたくさんあるとは。そんなこと考えもしませんでした。目が開かれる思いでした。「そのことのために私をきよめて用いてください。」と、祈らされました。

この十字架の愛と赦しの体験は、私を心の底から変えてくださいました。どんな些細な事でも人のためになれる事が私の喜びと変えられる体験でもありました。なぜなら、こんなちっぽけな私が神様から愛され、生かされているのですから。既にクリスチャン生活3年目の出来事でしたが、私の第2の転機とも言えるほど、大島への船の行きと帰りでは全く違った積極的な生き方へと変えられた経験でした。神様はー歩ー歩の歩みを支え、確かな聖書のみ言葉をもって導いてくださいます。これからもイエス様の十字架の愛の深さを更に教えていただきたいと願います。


月報2003年1月号より

「聖書のことは前から知っていたのに…」

聖書のことは前から知っていたのに、大学では「キリスト教学」が必修科目で、試験の度にしっかり読んでいたはずなのに、それが、神様からの言葉としては自分に入ってこず、ずっと神の国からは遠いところにおりました。(でも、ずっと心にかけていただいていたわけですが。)卒業し、就職してからはプロとしての自分の技量を磨くことに忙しくなり、いつしか自分中心の考えを持つ典型的な人間になっておりました。それが...自分は会社に頼っていないとそれまで自負していたのに、アメリカに来て、実際に自分が勤めていた会社が破綻するという事実に直面したときに、実は会社や、自分の役職や、会社を通しての関係にどんなに寄りかかって生きていたかを思い知りました。

その頃、何故かまた教会(ニュージャージー日本語教会)に通い始めておりましたが、ある特別
伝道集会に参加したときの聖書の言葉で、それまでの自分のエゴと了見の狭い自分の人生哲学でコーティングしていた本当の気持ちが緩んで出てきたように感じました。その言葉は、ルカによる福音書8 章50 節の「恐れることはない。ただ信じなさい。...」でした。いや、そのときお話をしてくださった上野先生は、確かに「...信じていなさい。...」とおっしゃっておりました。「信じなさい」というより能動的な言葉ではなく、「そのまま信じていなさい、信じて見ていなさい」、とやさしく語りかけられたように思えました。後でわかったことでしたが、リビングバイブルでは、「恐れないで、私を信じていなさい。...」となっていました。私は、まさにそのように、確かに聞こえました。その言葉が、聖書の前後の意味とは関係なく、直接私に語りかけられたと思いました。そして、集会後のアンケートに洗礼を受けたいと書いたのでした。その後もいろいろと聖書や説教を通して、学び、気づかされたことは多いわけですが、結局このときの想いが私の信仰の中心にあるような気がします。

自分中心の考えはいけないと聖書は教えてくれます。私の信仰生活もそれが出発点でありました。でも、これを実践することはなんと難しいことでしょうか。毎日のいろいろな場面で、これを実践できない自分がいることに気づかされます。でも、最近、私たちは聖書に書かれていることを完全に実践はできないけれども、同時に、反省する機会を多く与えられていると感じております。 今の自分の態度は主が見て喜ばれるものだっただろうか、今の言葉は主をまた悲しませているのではないか、と。また、主はこのときどのようにしただろうか、と。でもまだ、事を起こす前に「主ならどうするか」と考えつかないのですが。

この世のものに執着していないかと見直す。一歩下がってものを見る。でも、一歩下がっているようでも、実は一歩主に近くなっているのではないか、一歩上がっているのではないかと、思えております。

信じること、でも、礎の確かなものを信じなければ、何の意味もありません。聖書の砂の上に家を建てるたとえの通りだと思います。今、私は、揺るがないものを信じている安心感があります。それでも、これからの人生でいろいろな苦難を味わうかもしれません。お金や仕事で渇望感を味わうこともあるでしょう。人間関係でもめることもあるかもしれません。でも、精神的には遠くに明るい光を望みつつ歩めるのではないかと楽観しております。

この私たちを取り巻く安心感に感謝します。

月報2002年12月号より

元Hi-B.A.宣教師 ケン・クラーク先生「主と共にふるさとに」

長年にわたってJCCNJ の協力牧師をしてくださいました元Hi-B.A.宣教師
ケン・クラーク先生からお便りをいただきました。 先生の許可をいた ミ介致します。

「主と共にふるさとに...」

『わたしは山にむかって目をあげる。
わが助けは、どこから来るであろうか。
わが助けは、天と地を造られた主から来る。』 詩篇121 篇1,2 節

2002 年10 月10 日 土曜日

親愛なる友人たちと祈りによって支えてくださった方々へ

きっとこの詩篇の箇所は、私たちにこれから特に大切な思いを起こさせてくれるでしょう。先週の土曜日、私たちはSteve を車椅子に乗せて、Virginia の山々がよく見えるようにと病院のホールからDay Room へ移動しました。そこはThomas Jefferson の故郷Montecello から遠くないところでした。私たちは詩篇のこの箇所を思い浮かべ、共に主を見上げて助けを請いました。

与えられたものは私たちが祈ったようなものでも、また、実際に私たちが願っていたものでもありませんでした。その午後、医師からSteve の肝臓と腎臓は今にも機能を停止しようとしていることを聞かされました。わが息子のSteve は、小さな子供だったころ、銅の排泄ができなくなるWilson 病と診断されました。蓄積される銅は、結局のところ、生命の維持に必要な内臓、器官に毒となります。そのとき医師は、息子は10 代後半までしか生きられないだろうとおっしゃいました。しかしながら、治療により、主は私たちにそれから30 年間の命をくださいました。息子は48 歳になっていました。そして、10 月7 日月曜日の朝、かれは主の許に帰っていきました。

今年の始め、息子の具合が悪くなり、医師と相談して、肝臓移植手術を2 月3 日に行いました。そしてその後2 ヶ月間入院と治療の後彼を家に連れ帰りました。それから3 ヶ月は息子は力を取り戻し、状態はよかったのです。しかし、その後、具合が悪くなり始め、8 月の半ばには状態は悪くなっていました。9 月3 日、再び入院し、ICU に10 日間入り、その後、一般病室に移りました。私たちは息子の両親としてこの間5 週間そばについておりました。コミュニケーションは困難なものでした。なぜなら、息子はささやくことしかできなくなっており、彼が何を言いたがっているのかを理解できないことがしばしばでした。私たちが息子のベッドの傍らで主を求めているときでした。彼が言いました。「お父さん、お祈りしてくれてありがとう。アーメン。」それが、最後の言葉でした。

息子Steve は24 年間連れ添った妻を1 年半前に亡くしました。そして、片親として、7 人の子供の世話をしつつ、書籍関係の仕事を続けていくことに勇敢に闘いました。

24 歳になる長男Jeremy は、結婚して3 人の小さい女の子(12 月に4 人目が生まれる予定です)がおりますが、現在、5 歳から18 歳の弟、妹の保護者になっています。そして、彼の父、すなわち私の息子Steve のビジネス、Virginia Publications を引き継ぐことになりました。

Memorial Service は水曜日の夜、家族Bethany UM Church で持たれました。

私たち家族は主に感謝し、Steve のためにお祈りいただいていた方々、Steve の家族にいただきました数々の愛情に感謝します。キリストの体のフェローシップは主の愛の真の形ある表現であります。

息子は彼のレースを走りぬき、ゴールして、信仰を保った。まもなく彼は主の足元に加わる誉れ
を受けるでしょう。よくやった、息子よ。

感謝して、そしてあなたを誇りに思う親、 Kenn and Jane Clark

以下に、実際に錦織先生がクラーク先生から受け取られましたメールを掲載します。悲しみを和らげる言葉は見つかりませんが、神様の愛と平安のうちに慰めを見出されますようにお祈りします。

“I lift up my eyes to the hills—
where does my help come from?
My help comes from the Lord…” Psalms 121:1,2

Sat.Oct.10,2002

Dear Friends and Prayer Backers:

These verses will always have special significance for us. For just last Saturday we took Steve downthe hospital hall to the day room in a wheel chair so he could see the mountains of Virginia. Not faroff was Montecello, home of Thomas Jefferson. We quoted this verse and looked together to the Lordfor help.

Help came in a way we had neither prayed for nor really wanted. That afternoon the doctors told usthat Steve’s liver and kidneys were shutting down. As a little boy Steve was diagnosed with Wilson’s disease, the inability of the liver to excrete copper. The copper eventually poisons the vital organs. Wewere told then that he would not live past his late teens. With medication the Lord gave us another30 years.He was 48. The Lord took him home on Monday morning,October 7.

Last New Years he felt ill,consulted doctors and had a liver transplant on Feb 3. After two months of hospitalization and therapy we brought him home. In the following three months he gained strength and was doing fine. Later he began to fail and by mid August things did not look good. On Sept 3 he was again admitted to the hospital first in ICU for 10 days and then in a hospital room.

As parents we stood by his bedside for those 5 weeks. Communication was difficult for he could only whisper and many times we could not understand what he wanted to say. As we stood around his bed seeking the Lord he said :”Thanks, Dad for praying,Amen.” It was his last sentence.

Steve lost his wife of 24 years a year and a half ago and was struggling bravely as a single parent to care for his seven children and run his privately owned book business.

Steve ユs oldest son,Jeremy,24 married with 3 little girls(and expecting a fourth in Dec)is now the guardian of the younger children ages 5 to18. The family has decided that he should manage Virginia Publications, his father’s business.

Memorial services were held on Wednesday night at the Bethany UM Church were his family attended.

Our whole family is grateful to the Lord and thankful for each and every one who prayed for Steve as well as all the loving care so many have offered Steve’s family. The fellowship of the body of Christ is a real and tangible expression of His love.

Steve has run his race, finished his course, kept the faith. Soon he’ll be awarded his crown to cast at the Saviour’s feet. WELL DONE, SON!

Thankful and proud parents, Kenn and Jane Clark

月報2002年11月号より

「私は、前から神様を信じていました…」

私は、前から神様を信じていました。でも、心の中では、何か言葉では言えない変な感じがありました。 だからいつも母に、『洗礼受けなくても、信じていれば天国へ行けるよね』と聞いていました。それは私の何かが洗礼は受けたくないと言ってたからです。

私はきっと神様が、『晶子の中にまだ来てないのだ』と思っていました。この気持ちで私は苦しみました。毎日、毎日神様に『なぜ来てくれないのですか?』と聞いていました。そして、一方で、みんなに洗礼受けなくても平気ですか、と聞いて歩いてました。

でも、いつもRachel Joy Scottの本を読んで、なぜRachelは12才で洗礼が受けられたのか不思議でした。私はRachelみたいになりたいとずーと思っていました。

あるとき私が行っていた教会のユウスグループのキャンプへ行きました。そこでは、毎日神様の学びをしました。一日に二回は礼拝がありました。ある日その牧師先生がこう言いました。それは、ルカによる福音書5章3節で、『その一そうはシモンの船であったが、イエスはそれに乗り込み、シモンに頼んで岸から少しこぎ出させ、そしてすわって、船の中から群衆にお教えになった。』というところです。つまり、イエス様はシモンの船をboat jackしたと。そこで、その牧師先生は言いました。『イエス様はあなた達に聞かないであなた達の船に乗り込む。』と。そこで私は、本当は、イエス様はもう私のところに来てくれていたんだと気がつきました。

その牧師先生は、「きっと、魚が獲れずに怒っていたシモンに、イエス様は、『おまえの魚は何処にある』と聞いただろう」と言いました。そこで、私達に聞いたのです。『あなたの魚は何処ですか?』 私は『魚』はイエス様の事だと思いました。イエス様はもう私のところに来てくれていたのに、それに気がつかないで、ずっと苦しんでいたんだと気がつきました。そのとき神様にあやまりました。変な事を言ってご免なさい。その祈りの後に本当に神様が許してくれたように、以前感じていた変な気持ちが消え、救われた気持ちになりました。

神様は私をアメリカに導いて、教会にも導いてくれて、今度はこのキャンプにも導いてくれたのです。心から感謝しています。ルカ5:11『そこで彼らは船を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。』私もすべてを捨てて、神様が用意してくれてた方向へ行きたいと思います。

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Rachel Scott情報
www.racheljoyscott.com
主な書籍
The Journal of Rachel Scott
Chain Reaction
Rachelユs Tears
The Martyrユs Torch
The Untold Stories of Columbine

1999年4月20日、コロラド州リトラトン(デンバー郊外)コロンバイン高校で、2人の男子生徒が、同高校内で13人を射殺後、自分たちも自殺しました。彼らの標的は人種的マイノリティとクリスチャンでした。犠牲になった13人のうち8人がクリスチャンでした。日本のメディアはこのことをほとんど報道しなかったので知らない方も多いでしょう。そして、この事件の本当の影響も。
昼食時間、外で昼食をとる女生徒に銃は向けられました。腹部と足が撃たれました。犯人は銃をその子の頭に当て、”Do you still believe in your God?”と問います。その子は答えます。”You know I do.” ”Then, go be with him.”の言葉とともに銃弾が彼女を貫きました。この女生徒がRachel Joy Scottでした。
犯人はさらに図書館へ向かい、同じような質問をし、Yesと答える者たちに容赦なく銃弾を浴びせていきました。

犠牲になったクリスチャンたちの葬儀では、その子供たちの証しが紹介され、生前の彼らの行動がいかに愛に満ちたものであったかが紹介されました。実に多くの同級生たちがその葬儀でイエスを主と受け入れ、救われました。

波はそれだけでとどまらずに、世界中に届こうとしています。3年以上を経過し、でもさらに強く私たちの心に語りかけてきます。彼らは確かに「一粒の麦」でありました。

月報2002年10月号より

「イエス様に会うために」

親愛なる天のお父様、私を受洗に導いてくださいましたことを感謝申し上げます。
私をこれまで助けてくださいました、錦織牧師をはじめ多くの兄弟姉妹に感謝いたします。

第1章 だまされて、愛されて

どこにでもいる、フツーの日本人のサラリーマンとして、私はキリスト教を全く知らなかったと言ってよいと思います。宗教なるものを理解していなかったと言った方が当たっているかも知れません。そんな私が、何故、洗礼を受けてクリスチャンになったのか。そもそも、イエス様に会う前に、どうやって教会に来るようになったのか・・・。
きっかけは、これもよくあることなのですが、友人の教会員の「Oさん」が修養会に誘って下さったことでした。「こんどの週末、空いてる?」「えー、別に予定ないですけどぉ」「じゃ、修養会いかない?」「しゅー、よー、かい???」「そ、教会の人たちが2泊で行くんだけど、午前中少し先生の話聞いて、午後はテニスしたりソフトボールしたり。結構楽しくやってますよ。子供達もいっぱい来るし」「そー、じゃ、行ってみるかな?」という訳で、完全に「だまされて」教会の方たちと、お知り合いになる1歩を踏み出しました。
参加してみたら、修養会は予想と全く違う。「やられたっ!」
でも、そこで、本当に良い経験をしました。こちらは、何方の顔も知らないのに、多くの方たちが私のことをご存知で、にこやかに声をかけてくださる。「ようこそ、いらっしゃいました」「どうぞこちらへ」「一緒にお食事いただきましょう」等々。ピアノバーでもないのに、こんなに居心地の良い思いをしたのは初めて。皆さんが本当に自分達のことを愛し、相手のことを愛し、すべての人々を愛し、そして、すべてのことに感謝をして生きておられる。人前でこんなに涙を流したのは初めて。こんなに清々しい思いをしたのも初めてでした。「なんで、こんなにいい人ばかり集まってんだ?」
今では、誘ってくださったOさんに心から感謝しています。
「よくぞ、だましてくださいました。ありがとう!」(感謝)

第2章 聖書を「教科書」として

それからは、ほとんど毎週、礼拝に伺うようになりました。修養会で涙をながして感動しておいて、翌週から知らん顔することはできなかったし、やはり、初めて読んだ聖書の御言葉にとても興味を持ったからだろうと思います。礼拝中に、前夜の「罪」のため居眠りをしてしまうことも多かったのですが、それでも週に一度、錦織先生のメッセージに感動して涙を流すのも清々しい思いでした。
「聖書って意外といいこと書いてあるじゃない」という気持ちで、格言や、四文字熟語を覚えるような感覚で、心に感じる御言葉を探しながら読んでいました。
生き方として、学ぶべきこと、感動する御言葉に多くぶつかり、知識としては、充実感が持てましたが、教会でお会いする方達のような、いかにも幸せそうな、あるいは、とても満足そうな生き方が、感覚としてつかめませんでした。
「神様は先生ではありません」「聖書は教科書ではありません」と錦織先生はおっしゃるのですが・・・・

第3章 祈ってみても

聖書を読むことは、神様の御言葉に耳を傾けること、お祈りは神様との対話、と言われます。
聖書を読んでもだめなら、お祈りをしてみよう。という訳で、聞きよう聞き真似で「お祈り」なるものをやってみました。人に聞かれたら恥ずかしいので、通勤途上の車の中で。それもご丁寧にカーステレオでWorship Songなど鳴らしながら。この、Worship Songというやつも、なかなかの代物で、涙もろいオジサンは、これを聞いているだけで、もう涙が出てしまう。それこそ、誰かが見てたら、こんなおかしな光景はない。なにしろ、いいオジサンが一人で涙をボロボロ流しながら、Garden State Parkwayを突っ走っているのですから。それでお祈りしているんだから、どう見ても「あぶないオジサン」。涙で前方も良く見えないし、ほんとに危い。
しかし、そうやって祈ってみても、自分の「罪」は大いに反省するのですが(単に反省するタネが多いだけかもしれませんが)、したがって、日常の行動としては、もしかしたら、やや改善されていたのかも知れませんが、先輩の兄弟姉妹のように、はつらつとした幸福感には導かれないのです。
真剣さが足りないのだろうか? 病気をしたときや、大怪我で死にそうになったとき、本当に苦しみのどん底に陥ってしまったときなどに、イエス様が現れた、イエス様に会えた、などというお話をよく伺います。ギリギリの状況に追い込まれないと祝福は与えられないのかしら? いくら、涙ながしてお祈りしても、毎晩、旨いもん食べて、ワイン飲んでたんじゃ、やっぱりだめかなぁ?

第4章 「信じる」ということ

聖書の御言葉に耳を傾けても、自ら罪を悔い改めようとしても、あるいは悔い改めたと思っても、イエス様が現れてくださらない。どうしても「イエス様が我々の罪のために十字架にかかてくださった」という1点を「信じる」ことができませんでした。(そして、よくしたもので、洗礼式の時に質問されるたった1つのこと、がこの点なのです)。
ある時、ふと、とても簡単な「答え」にぶつかりました。
ただ、イエス様を「信じる」ということをすれば良い。自然に信じられないのなら、先ず自分から「信じ」ればよい。「信じない」という最も大きな罪を先ず悔い改めよう、と。
簡単に、「信じる」、「信じない」などと言うけれど、「信じる」ってどういうことだろう?「私は地球は丸いと信じています」と言うことができます。でも、これは「信じる」というより、「知っている」に近い。「イエス様を信じる」というのは、全く次元の違うことではないだろうか?「私は、お金しか信じない」という人がいます。ことの善し悪しは別にして、そういう人は、お金の存在そのものを信じているわけではない。お金の持つ目にみえない力を信じ、それに従って生きているのです。ある人は、「そのとおり」と言い、また、ある人は、「もっと大切なものがある」と言う(信じている)。「信じる」って、自分の心を自分で動かして、そのものに従って生きてゆくことではないだろうか?
ならば、イエス様に付いて行こう。まず、自分から心を動かしてイエス様に付いて行こう。待っているだけでは、病気になろうが、事故に遭おうが、イエス様は現れない。
まず、私から信じて付いて行こう。

『信じない者にならないで、信じる者になりなさい』ヨハネによる福音書 第20章 27節

主の恵みに感謝します。 アーメン

月報2002年8月号より

「前略 父上、母上」

前略 父上、母上
日本は蒸し暑い日が続いていると聞いています、いかがお過ごしですか。僕は相変わらず、元気です。仕事、趣味、遊びにと毎日、充実した日々を過ごしています。最近はラグビーも再開しました。
留学から始まったアメリカ生活は、先月でちょうど10 年が経ちました。空港で見送られた日が昨日のように思い出されます。ボストンでの語学学校から、ハートフォードでの勉学と修士号取得、そして、ニューヨークにある保険会社への就職、ニューヨークからロスアンジェルスへの転勤、IT ベンチャービジネスへの転職、さらに、ロスアンジェルスからニューヨークへの移動、と文字通り「アット」言う間の10 年でした。
その10 年間に、尊敬すべき人々や大切な友達との出会い、それに伴う貴重な経験、やりがいのある仕事、そして、さらなる大きな夢への歩みなど、本当に多くのものを与えられたアメリカ生活でした。もちろん、その中には嫌なこと、辛いこともありましたけれど・・・。
アメリカ留学という機会を与えてくれたことに改めて、感謝します。ありがとうございました。これからの生活も今まで以上に、より充実したものになると確信していますので、ご安心下さい。
さて、この10 年間での最も大きな出来事を伝えたく、ペンを取りました。それは、昨年5 月にイエス・キリストを救主とする信仰を受け入れ、今年3 月24 日にプロテスタントの教会にて洗礼を授かったことです。僕がクリスチャンになったことを、お二人に喜んでもらえれば幸いです。ここからは、そこに至る経緯を書いています。
僕が、自ら聖書を開くようになったのは、今から3 年半前です。ちょうど、当時勤めていた保険会社で転勤になった時でした。ニューヨークから異動になったロスアンジェルスで、任された仕事は、北はシアトルから南はメキシコ(ティファナ)までの西海岸全地域の日系ビジネスを管轄するという、大役でした。しかも、約300 人働く赴任先のオフィスには日本人スタッフが僕以外にいない環境でした。
そのような状況下で会社から与えらたミッションは「西海岸における日系ビジネスを成功させる」でした。正直言って、その時は悩みました。初めての土地、知っている人はいない、頼るツテも無し。全てが、「はじめまして」の挨拶で始まる生活でした。まさに、孤軍奮闘でしたね。
何をすべきなのか考えました。あれこれ、考える中で到達した結論が「ここで、成功するには一緒に働く米国人の助けが必要になる。助けてもらうには彼らのことを知らなければならない、米国人を理解するために、聖書を読んでみよう!」でした。つまり、この国またはこの国の人々の根底には、腐ってもキリスト教的な考え方が流れている、それを学べば、米国人の考え方、習慣を理解でき、ひいてはビジネスを実践する上で役にたつのでは?という仮説に基づく、考え方でした。
主の導きはこの時から働いていたようです。そのように、僕が独りで、聖書を開き始めた頃ちょうど、新しく友だちになった一人が、ある牧師先生を紹介してくれました。その先生が、それから2 年後に僕を信仰へと導いてくれた、ぶどうの木国際教会、英語部牧師の楠秀樹先生でした。その友人に「牧師らしくない牧師がいるから、毎週土曜日にある聖書勉強会に遊びにおいでよ」というのが、誘い文句でした。牧師らしくない牧師?いったい、どんな人なんだろうと興味本位に、出かけて行ったのです。
牧師らしくない牧師、まさにその言葉通りでした。牧師とは堅物な人、もの難しい人と、僕が勝手に決めつけていたイメージとは、全く正反対で、楠先生はとても気さくな、楽しい、親しみやすい方でした。なんと、初めて勉強会に行った日、突然、ギターを弾き始め、作詞作曲の賛美の歌を聴かせてくれたのです。このパフォーマンスにはびっくりしました。それが、僕の抱いていた牧師のイメージを壊すきっかけとなりました。それから、時間の許す限り、毎週土曜日の午後から行われる、楠先生宅での聖書勉強会に2 年間通いました。
横道にそれますが、勉強会の後は、楠先生の奥さんが夕食を用意してくれていて、家庭料理に飢えていた僕にとって、奥さんのおいしい手料理はいつも楽しみでした。もしかしたら、胃袋で信仰へと導かれたのかもしれません。楠先生はクリスチャンでなかった僕に、いつも、温かく親切に分かりやすく、聖書の御言葉を教えてくれました。また、勉強会に集まってくる数多くのクリスチャン達との交わりも持つようになり、少しづづでしたが、主の御言葉が僕の心に響いてきました。
不思議なもので、独りで聖書を読み、週一回聖書勉強会に通うことで、今まで、見えなかったアメリカの仕組みが見えたり、一緒に働く米国人の考え方が手に取るように理解できたり、また、ビジネスで米国人との交渉が問題なく進むなど、僕の仮説に基づく行動はまんざら間違っていないようでした。聖書を学ぶことで知らず、知らずのうちに恵みを受けていたのですね。
その様な中、一年ほど経ったある時期、仕事において、大口顧客の契約を成立させることが出来ました。それは自他ともに高く評価される業績でした。その嬉しさを楠先生に伝えた時、私に教えてくれた次の聖書の御言葉はとても衝撃的なものでした。
「おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くするものは高くされるであろう」(ルカによる福音書第14 章11 節)の一節は、深く考えさせられるものでした。また、はじめて畏れを感じました。しかし、聖書の御言葉に畏れを感じても、結局、信仰を持つには至らず、その後一年経ち、仕事の関係で再度、ニューヨークに戻ることになりました。
ニューヨークに発つ数日前に、お世話になった楠先生のお宅に挨拶に伺いました。奥さんのおいしい手料理を頂き、思い出を語り合い、楽しく時間を過ごしました。それから、時間も遅くなったので、楠先生宅をお邪魔しようとした時に、先生から、「倉田君、なにをためらっているのかね?」と突然、言われました。それは、信仰を受け入れるということでした。それまで、何回かやんわりと勧められていたものの、何か踏み切れない気持ちがあり、お茶を濁していました。
しばしの別れの言葉として、「なにをためらっているのかね」には少々面食らいましたが、その時、先生のその言葉を素直に受け取ることが出来、その場で信仰告白をしました。今から、考えれば、僕はきっかけを求めていたのかもしれませんね。そして、その場にいた、楠先生夫妻、クリスチャンの友達から祝福の祈りを受け、信仰を受け入れてロスアンジェルスを離れました。
クリスチャンになってから、僕のアメリカ生活を振り返ってみると、それは「影踏みごっこ」でした。常に心は乾き、何かを求めて、自己実現という目標に向かって、見ていたものは結局、自分の影だったのです。今まで神に背を向けていた僕が、神の光の前に映されて見ていたものは自分自身の影でした。その自分自身の影を踏もうとして、掴もうと、がむしゃらに生活を送っていました。
踏めそうで踏めそうでない、掴もうとして掴めないのが、「影踏み」です。そして、自分の影を踏む試みほど、愚かで虚しいものはありません。クリスチャンになって、それに気づきました。そして、自分の影を踏む必要もなくなり、神に背を向けることを止めて、今では神に向き合えることで満たされています。その後、ニューヨークに移ってから、通える教会を探していましたが、なかなか良い教会が見つからずにいました。その時、先述ぶどうの木国際教会、日本語部牧師の上野五男先生より、ニュージャージーにある日本語キリスト教会を教えてもらい、今年からその教会に通い始めました。
ニューヨーク、ニュージャージーに住む日本人の集まる教会です。親切で温かい人ばかりで、とても素敵な教会です。そこで、当教会の錦織学牧師先生の導きを受け、3 月24 日に洗礼を授かりました。
と、言っても、まだ初心者クリスチャンで、信仰を受け入れた新しい生活は、葛藤の毎日です。おまけに、自分自身の罪深さが曝け出されて、嫌になることも日常茶飯事ですね。でも、「神が僕の側にいつもいてくれる、イエスキリストの十字架の死によって、罪が贖われている」と信じることで、救われています。
その他に話したいことは多くありますが、それは次回、会った時に話をします。お二人とも体には十分気をつけて、いつもまでも健康でいて下さい。最後になりましたが、お二人、そして兄夫婦、また、親戚一同の上に主の恵みがあることをお祈りしております。
それでは、また連絡します。
草々

(於:ニューヨーク)

月報2002年7月号より

「先日大学の卒業式に出席しました…」

先日大学の卒業式に出席しました。残念ながら両親は来る事ができませんでしたが友達が一緒に来てくれ、お祝いをしてくれました。実際の卒業よりは5ヶ月遅れではありましたが、始めて例の黒いガウンと四角い帽子に身をまとい“卒業できたんだなぁ(涙)”という実感と“いつまでも学生気分ではいられないな”という身の引きしまる思いとがしました。 アメリカに来たばかりのガソリンの入れ方もわからなかったころのこと、Examに追われてベーグルとピザばかりに嫌気がさした日々、そしてなによりも神様に出会いイエス様を受け入れた事。今の自分がこうしてあるのはまさにみ言葉通り、“しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。”(1コリント15:10)と心から思います。

始めて日本の大学で友人に誘われて聖歌隊に入った頃、まさか自分が神を信じるようになるなんて、クリスチャンとして洗礼を受けるなんて夢にも思っていなかったことでした。自分はそんなところから程遠い人間だし、もしもなにかを信じるならそれはいわゆる“宗教”について自分なりのなんらかの納得のいく理解、そして結論が出た時だ、とおこがましくも思っていました。そもそも一般的な日本人の思うように、なにかを信じる=宗教=危ないという図式がわたしの中にもできあがっていましたし、それでも選べというならば、もっとも怪しくなく(!?)、そして自分にいちばん利益のある宗教だとも思っていました。 しかし、“宗教”ではなく“神(イエス キリスト)との個人的な関係”を体験している今、まさに神を選んでやろうと思っていたわたしが神様によって選ばれていて、自分で切り開いていってると思った道が実は神様によってすべて導かれていたのだと思うとき、気恥ずかしさすら覚えます。

数学者で哲学者で有名なパスカルの言葉に“人間の心の中には神の形をした空洞(=God shaped vacuum)がある。”という言葉があります。潜在的に人はその空洞をなにかで埋めようとしますが、それは私達人間が生きていくために不可欠なものを得るために与えられている動物的本能と同じだと私は思います。無意識のうちに私達が飲んだり食べたり息をしていることは、私達の内なる存在が神によって満たされたいと欲求することと同じではないでしょうか。ただそれは物質的な欲求とは違い目には見えませんが。

私は小さい時からの家庭環境からか、知らず知らずのうちにとても厭世的な考えを持つようになっていました。人間は一人で生まれて一人で死ぬんだ、人の心なんてわかりあえるはずがない、と。誰かに頼りたいけど誰にも自分の本当の心の内を打ち明けることはありませんでした。それでいいと思っていましたし、どうせそんなものだという諦めのような気持ちでもありました。自分の心の内に目を向けようとせず、上手くごまかして、無感情になっていました。それでも持ち前のこの性格でそれなりに楽しく過ごしていましたが、やはり私の内なる存在は安らぎを求めて、100%頼れるものを求めていたように思います。 そんな時アメリカに来て何の気なしにルームメイトに連れられていった教会で出会ったクリスチャン達を通して生きた神との関係を見ることになりました。私が彼らに対して一番最初に抱いた印象といえば、“こんなにフツーの人達が神様信じてやってんだー。”というものでした。今思えば偏見も甚だしいところですが私にとっては自分とおなじようないわゆる普通の若い子達が普通の格好をして、当たり前のように“神様?いるにきまってんじゃん!”といわんばかりに礼拝している姿は相当の驚きだったのです。(私のクリスチャンに対するイメージは相当悪かったみたいですね、、!)これがアメリカ人か、と驚きながらも一体この人達の信じているものはなんなんだろうと、興味が沸いてきました。が、しかし聖書を読めば難しい人の名前やら、イエスキリストの言う事の突拍子のなさに(“右の頬を打たれたら左の頬も差出しなさいー?一発殴られたら眼をとばして倍にして返すのが常識でしょう!!”みたいな、、。)つまずくし、自分があっさりとなにかを信じることに抵抗があったのです。単に周りに影響されているだけなら意味が無い、アメリカに来ました、はいクリスチャンになりましたではあまりにも話しが単純じゃないか、とも思ったのです。なんとか納得のいく理解をと、聖書を読み、他の宗教と比較してみたりしました。しかしそうやって、たいしてありもしない頭で理解しようともがく私に神様はただ単純なしかし大きな愛をもって迫ってきました。

十字架の意味について、救いについてすこしずつわかってくるにつれてクリスチャンになりたい、イエスキリストをもっと知りたいという欲望が増してくるのがわかりました。しかし私はまだもがいていて、そして自分がもしクリスチャンになったら人からどう思われるかということを心配していました。キリスト教に対する疑問ももちろんまだたくさんありました。神が愛ならば今この世で起こっているすべてをどう説明するのか、何故救いはもっと簡単でみんなに開かれていないのか、、。 あるとき私はクリスチャンの友人につっかっかって言いました。神は愛といいながら、“救いにいたる門は狭く、滅びにいたる門は大きく広い(マタイ7:13)なんてどうしてこんなに排他的なことが書いてあるわけ?”とつきつけました。その友人は悲しそうに、でも一生懸命にこう言いました。“その門を狭くしてるのは僕たち人間側の問題なんだよ、神はすべての人に一人も漏れることなく入って欲しいと必死の思いで招いているんだよ。”と。そして“罪”について話してくれました。そのとき始めて神様ばかりを見ていて責めていた私が自分の問題に、いわゆる聖書でい言う罪について向き合ったのです。 ここまでくるともう一歩という感じですがそう簡単にもいきませんでした。始めて“自分にも罪がある”という認識が生まれ始めた私はそれをどうにかしたい気持ちになっていましたが、神の存在自体は信じられるとしてもそれがどうしてイエスキリストでないといけないのかという思いになっていました。しかし聖書ではっきりと、“わたしは道であり、真理であり、命である。だれもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。”(マタイ14:6)と言いきるこの人物は、はったりかます大嘘つきか、もしかしてまさかの本物しかないんじゃないか、そしてわたしは今どっちに賭けるか問われているんだ、と何故か人生の一大選択を迫られているような感覚にとらわれてきました。そして始めて心から祈ってみました。“神様、ほんとうにいるなら証明して!”と。そのころの私は自分の内なるイエスを受け入れたいという欲求に一生懸命理性でブレーキをかけていたように思います。そんなとき、私の行っていた教会の牧師がこう言いました。“みき、今君はJesusに恋をしているんだよ、そしてこの人と結婚していいのか一生懸命悩んでいる。大事なことだからもちろん悩んでも仕方が無い。人間は考える能力を、知恵を与えられてい

あるとき、ふとなにがあったという訳でもなくもうGiveUpしようと思った瞬間がありました。素直に心から、イエスは神だ、と。聖霊の押しに感謝! 自分がクリスチャンになったら親との問題はどうするんだ、友達にはどう説明するんだ、日本人としてクリスチャンとして生きることをどう両立するのか、そんないろいろな思いを遥かに超えるイエスキリストへの欲望が勝った瞬間だったと思います。今考えるとそれらのすべての問題は私がイエスを受け入れた瞬間に私がすることではなく神様が解決してくれる問題だったのです。友人の導きにより、なんと人のごったがえす学校のカフェテリアで信仰告白の祈りを捧げた私ですが、祈っている最中にも不謹慎ながら“どうせならもうちょっと思い出に残るような場所でお祈りしてもらいたかったなぁ。”という思いを裏切って神様は私の心のなかの空洞をバッチリ埋めてくれました。パズルの最後のピースがカチッと音を立ててはまるような気分の良さでした。それまで味わったことのない安心感と喜びに満たされてわたしのクリスチャン生活が始まったのです。イエスキリストに恋に落ち、この人に賭けたことを後悔することは決してないでしょう。わたしばかりか、去年の春にはわたしがクリスチャンになったことをあんなに戸惑っていた母までがイエス様にひっかかって!?しまいました。私が母を電話で祈りに導く恵みに預かった時、母の祈りの第一声は“イエス様、今までずうっと私のこころを覆っていたものが今一気に晴れていくようです!”でした。晴れるや!もとい、ハレルヤ!!私達はイエスキリストという色男にひっかけられてとっても幸せ者です。これだからクリスチャンはやめられませんね、みなさん!

月報2002狽6月号より