「今から10年前の春分の日に…」

今から10年前の春分の日に、千葉の海岸で洗礼を受けました。それまでには色々な「出会い」がありましたが、神様はこんな小さな私のためにたくさんの人を通して導いてくださいました。

はじめて聖書を手にしたのは、大学の入学式でした。その頃は、毎日のチャペルの時間・聖書やキリスト教概論の講義など、チャンスはいつも目の前にありましたが、表面を撫でていただけで、近所の教会へもレポート提出のためにしばらく通った私でした。

こんな私が結婚して4年経った頃には3人の子供たちの母となり、カナダのバンクーバーで生活していました。上の子がナーサリーへ行っている間に、下の子2人を連れて英語のレッスンにバプテストチャーチへ通うことになり、日本で牧師をしていたというカナダ人の先生に出会いました。日曜日の午後には日本語礼拝をしておられると聞き、家族で参加したりもしましたが、先生の体調がすぐれないために、別のESLクラスへ通うことになり、それきりになってしまいました。

日本へ帰国してから、時々聖書を手にすることも多くなった頃、エホバの証人の方々が時々訪ねて来られ、話をすることもありましたが、主人からは「近くにちゃんとした教会があるんじゃないの?」と言われ、友人にエホバの証人ってどんな人達なのか聞いたりしました。その友人がクリスチャンで、私にプロテスタントの教えとエホバの証人の違いを理解できるようにとお茶に誘ってくれ、友人宅で牧師さんに出会い、色々話してくださり、聖書学校・日曜礼拝へ誘われ、私はすぐその週から聖書の学びを始めました。それまで私は勝手に自分の神様に毎日お祈りしていましたが、学びを通して全てがパチンと合ったという思いが強くしました。その教会で、日頃遠くからステキだなあと思っていた方々と出会ったことは大きな驚きでした。喜びでいっぱいになり、御言葉を実行する人になりたいという思いを持って、海で洗礼を受けました。その頃には一緒に教会へ行くようになっていた主人が、洗礼式に深く感動し、半年後に主人も同じように海で洗礼式を迎えることができました。子供達も楽しく日曜学校へ通っていましたが、イギリスへ赴任することになり、しかも地西部のマンチェスターで、未熟な私達は不安でしたが、会社の家のある小さな町(ほとんど村)には、クリスチャンファミリーが待っていてくれました。4家族の日本人のうち3家族がクリスチャンというすごい確率でした。毎日曜日は地元のバプテストチャーチへ通い、月1回はバイリンガルサービスへ集うという恵まれた環境には本当に感謝でした。マンチェスターでは、ハワード夫妻という、神戸で宣教師をしていた方々に出会い、たくさんの日本人クリスチャンに出会い、アングロ・ジャパニーズ・クリスチャン・ミニストリーズ(A・J・C・M)という組織の始まりに参加することができ、隣の隣りに住んでいた友人の洗礼に立ち会い、日本からの留学生(17歳)の洗礼もありました。日本人が少ないこともあり、日本を紹介したり、私の教えていた粘土手芸を村のイギリス人婦人会の方々の前で作って見せたりと、つたない英語で四苦八苦しましたが、色々な場を通じ、友人を通じて新たな出会いがあり、たくさんの人を知ることができ、一歩ずつ前進できたのだと思います。

神様はこのようにいつも色んな人を通して働いてくださいます。今、私はここニュージャージーで色々な人に出会っています。自分の中に改めたい所がある私は、学ばされることがいっぱいです。これからも出会いを大切に、

「いつも喜んでいなさい。

絶えず祈りなさい。

すべての事について、感謝しなさい。」

テサロニケ第1 5章16節~18節

このように歩んで行きたいと思います。主にあって。

月報2000年5月号より

「1997年のクリスマス、主人と一緒に…」

1997年のクリスマス、主人と一緒に生まれて初めて教会に行きました。その時まで、特に教会に興味を持ったこともなく、聖書にも触れる機会のなかった私にとって、教会はとても神聖な場所で、それまで味わったことのない雰囲気を感じました。

しばらくして主人と結婚することも決まり、私は主人の両親や兄弟、友人に会いたい気持ちもあり、教会に通い始めました。その頃主人はアメリカで留学生活を続けていた為、一人で行かなければならない心細さはありましたが、教会の皆さんが温かく接してくださり、とてもありがたく思っていました。ただ、私の心の中には、「クリスチャンの彼と結婚するのだから、私も早く教会のこと、神様のことが分かるようにならなくちゃ。早く洗礼を受けなくちゃ。教会のみんながそう望んでくれている。」という気持ちがありました。一方では、いつもそのことに反発する自分がいました。20数年間信仰について全く考えたこともなく、どちらかというと私には必要ない、自分の判断で生きていけると考えていた私には、すべてを素直に受け入れることはなかなかできませんでした。尊敬していた両親との関係も変わってしまうのではないか、自分自身も変わってしまうのではないかと、たくさんの不安がありました。真剣に考えようとすればするほど、それが悩みになっていきました。牧師先生に「結婚式の前に洗礼を受けることはとても意味がありますよ。」というお言葉をいただいたにもかかわらず、決断ができず、主人にも申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

結婚後すぐニューヨークに来て、2ヶ月くらい経った頃だったでしょうか、日本の牧師先生の紹介でこちらの教会に通うことになりました。礼拝に出席できるのはうれしかったのですが、また「洗礼」という言葉が重くのしかかってきました。この言葉がでる度にビクビクしていたような気がします。イースターの少し前、錦織先生から「どのように考えていらっしゃいますか。」と声をかけていただいた時、思い切って話してみようと思い、面談をお願いしました。その時から勉強会を通し、それまで自分が抱えていた悩みや不安を先生にお話しするにつれ、徐々に気持ちが楽になっていきました。主人とも洗礼のことについて話すようになり、相談する度にいつも「人にはそれぞれ時があるから、焦る必要はないよ。」と支えてくれ、その言葉にとても救われました。また、たくさんの方々に支え、励ましていただきました。「悩むことは、神様は望んでいらっしゃらない。」「洗礼を受けた時は本当にうれしくて、その日のことは一生忘れない。」というお話を聞いて、私もそんな風にうれしい気持ちいっぱいで洗礼を受けたい。きっと、私にもそういう時がくると信じていました。

その後もしばらく時間が必要でしたが、日帰りで出席した修養会の夜の集会で先生が「自分のために祈ってもらいたい方、前に出てきてください。」と言われた時、「私のために祈ってください。」と心から願って前に出ました。そして、「クリスマスに洗礼を受けたい」と先生に申し出ました。それからは不思議なように、たくさんの御言葉が心に入ってくるようになりました。神様が共にいてくださることのありがたさ、また人間の力には限界があり、そこにぶつかった時信仰を持って神様にお委ねできるすばらしさを感じさせられました。

昨年のクリスマスは私にとって初めて意味のある、感謝の気持ちいっぱいのクリスマスになりました。夫婦が夫婦としてだけでなく、同じ神様を信じて一緒に歩んでいける喜びを感じました。

「神様はご主人を通して、あなたを導いてくださったのね。」教会に通い始めた頃初めてこの言葉を言われた時はあまり意味が分かりませんでしたが、今は本当にこのことを感じ、私にふさわしい時に、ふさわしい方法で導いてくださった神様に心から感謝しています。

私の信仰生活はまだ始まったばかりですが、神様がいつも共にいてくださることに日々感謝し、最後までこの信仰を持ち続けられるよう導いていただきたいと思います。

「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」

(ペトロ第1の手紙 5章7節)

私の受洗に際し、日本の牧師先生が送ってくださった御言葉です。

月報2000年4月号より

「主が共にいることの喜び」

「しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・

イエスにおいて、キリストの血によって近いものとなったのです。」

(エフェソの信徒への手紙 一章十三節)

何年か前にことになるが、アメリカ留学を終え、その帰途にイスラエル旅行をしてきたある姉妹の証を聞いた。いくつかの話の中で特に印象に残ったものは、主イエスが十字架を背負いながらゴルゴタの丘まで歩いて行かれたと言われている道を訪れた時の話だった。群衆からの罵声を浴びながらも人々の救いのために重い十字架を背負って歩いていくイエス様の姿を思い浮かべ、彼女は涙が止まらなかったと言う。自分もそんな光景を想像し、心を打たれる思いがした記憶がある。

当時は信仰生活が十余年目くらいの時期だったろうか。受洗後、しばらくして教会を離れ、その後また戻って来てからやっとまた教会に馴染みはじめ、信仰的にも再度充実してきた時でもあったように思う。翌年には母教会の青年会の会長職も勤めることにもなった。そんな時ではあったが、ある日人間関係の縺れからひどく落ち込むことがあった。その後何日間か、怒りとむなしさで辛い日々を過ごすことになる。

しかし、悪いことばかりではない。そのような中にあっても、物事が不思議とうまく運んだり、ふと心を静めて考えにふける時間が与えられたりもした。また、心からの祈りもできたのはなかっただろうか。ある日、「ああ、神様はこんな時でも自分のそばにいてくれるのだなあ」と本当に感じられる瞬間があった、と同時に聖書の言葉が与えられる。神が共にいてくださるのは、主イエスの十字架があったからなのだ、イエス様が人間の罪のために死んでくださったからなのだと。

あの時が初めてイエスの十字架が自分にとって身近に感じだ時だったと思う。確かにその出来事は約二千年前に起こった事である。しかし、先にあげた姉妹の話に出てきた、十字架を背負いながら歩くイエス様に対し、罵りの言葉と石を投げつける群衆の中に、自分自身の姿を見たような気がした瞬間でもあった。そして、そんな自分の罪のためにイエス様が命を捧げられたことを思った時、やはり涙が止まらなかった。

それから何年か経って、日本を離れアメリカにやって来たが、本当にクリスチャンであるがためにいろいろな場面で助けられ、また勇気づけられてきた。良き友たちとの出会いは本当に掛替えのないものであった。その度に主が共にいてくださるのだということを身をもって感じた。それらがイエス様の十字架によってもたらされていると思う時、やはり心から感謝せずにはいられない。

今年になって、この教会に導かれたが、また良き交わりの場が与えられたと本当に感謝している。今の自分にとって愛妻が導かれることが第一の課題であるけれど、クリスチャンホームの末っ子として生まれ育ち、祈られることはあっても大切な人の導きのために祈ったり、何かをしたりすることの少なかった自分にとって、これは途轍もない大課題である。そんな無力な自分がまずできることが、良き交わりの場としての教会を探すことであった。

今も主が共にいることを心から感謝している。近い将来、夫婦共にその喜びを心から分かち合える時があることを信じて・・・。

月報1999年11月号より

「えっ、転勤?ロサンゼルス?…」

「えっ、転勤?ロサンゼルス?いったい私はどうなるの?」これが父から転勤の知らせを聞いた私の心の中の呟きでした。当時、私は日本の高校1年生。幼い頃に体験したアメリカ(NY)生活は既に遠い昔の出来事でした。努力して希望する大学に入って、資格を取って専門職に着く、漠然とそんな人生設計をたてていましたから、父の転勤は正に降って湧いた災難でした。

現地校の11年生に編入。言葉が不自由なのに加えて私の心はひどく混乱していました。日本で身につけたものがアメリカでは通用しません。ひとつ例をとると、日本では自己主張が強く物事をハッキリ言う人間は煙たがられますが、アメリカでは逆に自分の意見をハッキリと発言しない者は、まるで存在しないかのように誰も気にとめてくれません(今振り返ると高校生と云う難しい年頃ゆえ余計それが強調されたのでしょう)。私は国境を越える度に(NYから帰国した時には「出る杭は打たれる」で随分いじめられた経験があった)自分の価値観や態度が大きく揺るがされるのに当惑しました。そして、国や文化に関係ない絶対的な価値観というのは存在するのだろうか、と考えるようになりました。生きていく上で、場所や時間を越えた確かな基準が欲しいと思いました。

渡米3年目、初めて親元を離れて大学の寮生活が始まりました。何とかアメリカの大学に入学を許可されたものの、大学の勉強についていくのは大変でした。寮生活も、パーティー好きのアメリカ人学生の様には楽しめず、どこか味気ないものでした。その為、週末ごとに自宅に戻るとホッとしました。一学期が終わる頃、予定よりもずっと早く、父に帰国の辞令がでました。日本には帰りたい。でも、今学校を辞めたら今までの自分の苦労、努力は水の泡ではないか。結局、学年末まで私一人アメリカに残ることになりました。

週末に帰る家を失ってしまった私を、暖かく受け入れて下さったのが父の上司のご一家でした。奥様がクリスチャンで、その方を通じて私はロサンゼルス・ホーリネス教会の日本語礼拝に出席するようになりました。初めて日本語で聴く牧師先生のお話は新鮮で、渇いていた私の心に深く染み込みました。しかしながら、しっくりこない事も沢山ありました。イエス様の十字架、復活、永遠の命、等々。聖書によると私も罪人。頭で分かったつもりでも心にピンと来ません。全て納得いくまで自分はクリスチャンにはなれないと思いこんでいました。礼拝に出席し始めて数カ月後、特別伝道集会がありました。神様の愛についてのシンプルなメッセージでした。私はこみあげてくる涙を押し止めることができませんでした。異国の地で、ずっと張りつめていたものが、一気に弾けたようでした。メッセージの最後に、「今日イエスさまを心に招き入れたい方は、前に出てきて下さい。一緒に祈りましょう。」との招きがありました。その時、私は理屈ぬきに、それまでの心のモヤモヤから解放されたいという気持ちに押し出され、まるで清水の舞台から飛び降りるような気持ちで前に出ました。その数週間後、帰国を1ヶ月後に控えて洗礼を受けました。

今振り返ると、当時の私の信仰はとても稚拙でした。日本に帰国してからは、たまにしか神様のことを思い出さない不信仰な時期が何年も続きました。その後、様々な出来事を通して、自分の罪深さを、概念的にではなく、生身の体験から思い知らされ、イエスさまの罪の贖いなしにはもう生きていけないと思うまでに砕かれました。

創世記を読むと、元来人間は神との交わりの内に生きる者として創られた事が分かります。私は10代後半、自分の意志に反してアメリカに来ましたが、結果的にそこで神様に出逢いました。しかもそれは私の人生の中で最大の出逢いとなりました。

月報1999年6月号より

「最近救われた者の証」

学生時代に本格的な登山をしていたこともあり、一日の無事を眠る前に感謝する習慣を持っていました。そしてクリスチャンである家内との結婚を機に、感謝の対象を神様にして祈ることを始めました。アメリカに赴任してから二年近くになります。転勤前の職場では肉体的にも精神的にも疲れ果てた状態にありました。そのような中で『今の職場から異動させてくれなければ会社を辞めます』という自分勝手な祈りをしたところ、有り難いことに祈りが聞かれました。この体験を通して、機会があれば聖書を通読してみようと思っておりました。

こちらに来てから「ハーベストタイム」を毎週観るようになり、昨年の8月から「リビングライフ」を用いて聖書日課を始めました。そして聖書のことをもっと良く知りたいと思い、昨年の11月から導かれて礼拝に出席するようになりました。

11月の終わり頃でしょうか、家内に「赦された罪人になるのは、それ程難しいことではない」という難解な問いかけをされました。意味も分からずに、どうしたらよいのかを聞いたところ『私は罪人です。どうか私の罪を赦して下さい。イエス様、どうか私の心の中に入ってきて下さい』と祈ればよいとのこと。それがどのような意味か分からないまま、その夜祈りました。それを家内に伝えたところ大感激し、その感激ぶりにかえって自分自身が激しく動揺することとなり、真剣に「罪を赦された罪人」とは何かを家内にたずねたり、改めて「罪」をキーワードに聖書を読み始めました。

その過程を通して、感謝なことに自分の赤裸々な姿や罪について多くを示されました。ただその時点では「自分で何とかしよう、もう少し努力してから」という気持ちを拭い去ることが出来ずに、「洗礼を受けるには絶対的に準備不足」だと思い込んでいました。そのような時、錦織先生から「洗礼を受けるということは信仰の出発点に立つことです」との励ましをいただいて、受洗の決心をしました。

今でもそうなのですが、自分の努力で…という思いが根強く心に残っており、神様にそれを強く示されたのが「禁煙」を通してです。もちろん禁煙するしないは魂の救いとは無関係です。しかし洗礼を受けるに際して、大きな懸念として私の心に残っていました。この機会を逸するなら、もう一生タバコを止められないかもしれない。今から思うと「何を大袈裟な…」と思えるほどでしたが、その時は切実でした。先ずは洗礼の二週間前から止めよう…しかし止められません。毎日眠る前に『どうか禁煙する意志を、そして力を与えて下さい』と祈りました。一週間前になっても祈りは聞かれません。昨年の12月は特に仕事も忙しく、通常であればとても禁煙出来る状態ではありません。そのような中で洗礼の日は迫って来ました。 三日前になって、とうとう禁煙自体を諦めるところまで追いつめられました。そして『神様申し訳ありません。自分では、もうどうすることも出来ません。どうか助けて下さい』と祈りました。自分では出来ないと分かった時に、神様に明け渡すことができました。自分の力では何一つがんばっている訳ではなく、祈った晩から禁煙を続けさせていただいています。

受洗してからやっと三ヶ月が経ちました。信仰のスタートラインに立ったばかりで、日々新たな試行錯誤と自己中心な自我との闘いがあります。聖書を読み『御心を心に与えて下さい』と祈りながらも、自分の欲望や思いを最優先して日々を生きている自分の姿に気づかされます。今は御心に聞き従っていける従順な信仰を持てるように、どうか神様に成長させていただけるようにと祈っております。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」 エペソ人への手紙二章八~九節

月報1999年5月号より

「ボクにはキライなヒトがいます。…」

ボクにはキライなヒトがいます。

ボクはどうしてもカレをスキになれません。

カレを許すことができません。

ずっと考えていた。自分が存在する理由と、そこに付随する侘びしさについて。勿論、愛する兄弟姉妹を初じめとする御歴々の前で、このように力なき小さな者が、己の存在理由について言及するなどという大それた資格を有さないことは充分承知しているし、全くもって汗顔の至ではあるのだが、きっと主の御前にある証し人としてこの様な機会に恵まれたことをもって諒とされたい。

そもそも、僕がそんなことを考える様になったのは、僕の中で自分という存在が忌むべきものとして捉えられていたからである。もう一〇年程前のことになるが、僕は自分の現実と直面せざるを得なくなり、全く己に潜むモノと対峙するに至って。驚愕、辟易等と形容されるべき感情がそこにあった。あの頃僕は一五歳だった。学校に付随する似た年頃の少年達の集まる小いさな組織の中で、僕は僅かばかりの力を与えられ。もとより奉仕を基本として造られた組織の中で、その与えられた小いさな権力を駆使する僕には、大して歳も違わず年端も行かない後輩達の潤んだ瞳は全く見えていなかった。暴力こそ奮るわなかったが、次ぎから次ぎへと口をついて出る言葉の群は、鋭い矢となって彼等を傷付け、そして何よりその残酷さは僕自身を驚かせ、後に諸刃の剣となって僕を貶めた。今でも僕はその日のことを夢に見る。勿論その時点で一五年しか生きてはいなかったが、恐らく自分の中に自分の未だ見ぬ自分が存在することに薄々勘付いてはいたし、或る程度の覚悟もしていたが、自分の前に現実となって著れたそれは想像を遙かに凌駕し、一五歳のコドモに与えられた思考能力に於ける許容範囲を優に超えていた。自分など居なければいいと思った。存在が許されていることを心の底から疑った。別の人格などという卑怯な手段で片付けたくはなかったし、その様に処理できる程の度胸もなかった。その時の僕にできることといったら、口を開かないことくらいだった。その時の僕にできることといったら。

僕が口を開かなければ、己を表現しなければ、誰かを傷付けることもない。自分が傷付くこともない。辛ろうじて自我にへばりついた意識がそれを示唆し、あらゆる意味に於いて自己を著すことを拒絶していた。一言も口を聴かずに済んだことに悦びを憶えて眠りにつく日々が一年程続いた。暗い道を歩いていた。上を見上げれば木洩れ日の差す暖かい色の空が満面の微笑を湛えて迎えてくれているのかも知れなかった。でも僕は姑息で、孤独で、臆面もなく上を仰ぎ見るような勇気は持ち合わせていなかった。御手は遠かった。

そんな僕にも二人の友人が与えられた。返事もろくにせず、ついてくるだけの人間と友達になろうとは、全く奇特な人間をも造られたものである。依然、その「別の自分」が姿を著すこともあったが、彼等がいずれも肉体と文字を媒体とする表現者であった為か、彼等を通して僕は僕に近づいて行き、僕を通して僕は彼等に近づいていった。そうして僕は少こしずつ言葉を取り戻し、或る程度日常的な自己主張を余儀なくされる場所に身を置くことを決め、ほぼ滞りなく会話をこなせるようになった頃、橋本先生御夫妻を通じて教会に導かれた。余りにも自然だった。必然の流れは、至極当然のこととして僕に受け入れられた。主は見ておられた。これほど小いさき者にも目を掛けて下さっていた。僕は想った。どんな時でも僕は幸あわせだったことに。己に絶望し、下を見て歩くことしか出来なかったあの時でも、僕に生きる道を与えられていたことに。

尤も、一五の後悔を今日まで曳きずって、オトナにも為りきれず、コドモに戻ることも許されず生きてきた僕にとって、今やっとスタートラインに並んだのであって、未だに、他人の家で夜を明かすように己を晒らけ出すことは出来ず、話すことは疲労を産み、書くことは苦痛を伴う。十数年間に渡って学んで来たつもりの聖書についても、己の無知に辟易するのは言うまでもないが、エレミヤ書三一章に示された、「あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰ってくる。」という言葉に励まされ、日々歩みを続けることを許されている。嘗て錦織師が取り次がれた様に、己を愛すことの出来ない者は、「あなた自身を愛するようにあなたの隣人をも愛す」ことも出来ないのであって、自分自身を含めて人を愛することに幼さない僕は、主によって様々な機会を与えられ、悦びをもって日々試される。主の御前にあって、主の御名を賛美し、主の証し人として、また自分を、そしてキリストを表現する者として自分の存在を認め歩み始めた僕にとって、人を愛する為に自分を愛す努力を続け、そうして与えられる日々に感謝する毎日である。

知れ、主こそ神にますなれ。

我らを造りたまえる者は主にましませば、我らはそのものなり。

(詩一〇〇編)

ボクにはキライなヒトがいます。

ボクはどうしてもカレをスキになれません。

カレを許すことができません。

でも、

ちょっとだけスキになってもイイのかなと思えるようになりました。

これがボクのアカシです。

月報1999年4月号より

「弱さと信仰」

ニュージャージー日本語キリスト教会は、1987年メイウッドの地に呱呱の声をあげて12年目の春を迎えています。

現在の錦織先生に至るまでその間3人の牧師先生、二人の教育主事が主の僕として務めを果たされ、教会を愛する多くの兄弟姉妹の信仰と尊い奉仕及びザイオンルーテル教会の愛ある計らいによってここまで支えられ守られて来たことは、神のご計画と導きなくしてはあり得なかったことだと感謝いたします。単立超教派、役員会制の教会ですので、教派、教団に属する多くの教会のように教会を監督する上部機構やガイドライン、アドバイザリーボードがないため、全てのことは牧師の霊的リーダーシップと信徒一人一人の信仰に委ねられていますので、10年余の間には困難な時もあり、霊の戦いを経験したこともありました。

振り返って見ますと、わたし自身愛に欠けた者であり、主を自分の側に立たせる不信仰に気がつかないまま教会生活をしていたこともありました。

しかし慈愛の神は何時も聖霊をわたしたちの教会に送ってくださり、よしとされる導きをもって道を切り開いてくださいました。それはきっと、神がイスラエルのようにこの教会を愛し、「使命を与えて起こされた特別の教会」として取扱ってくださっているからではないかと思っています。ある者が種をまき、ある者は水をやり、育てられてきたニュージャージー日本語キリスト教会、そこにはアポロもなく、パウロもなく、ただ主のみいます教会をわたしたちに備えてくださる大いなる父なる神を褒めたたえます。

1997年7月、よき霊の指導者錦織先生を与えられ、新しい一節の成長期を教会は歩みつつありますが、自分の信仰を守るのみならず、そのよき訪れを広く世に伝える働きを委ねられていることを忘れてはならないと感じます。神が日本語を話す人々の魂の救いの使命を与えて立ててくださった教会は、ニュージャージーのみならずニューヨークからも若い兄弟姉妹が聖日、礼拝に集う教会であり、賛美集団として伝道の働きをしています。又ここから多くの兄弟姉妹が日本の各地に散らされて、良い働きをしておられることも、神の業の不思議という他はありません。

聖書を学び、賛美と祈りをささげて礼拝を守ることを教会生活の中心として、早朝、聖書通読と祈りの時を守りつつ信仰生活を続けていますが、「あなたはこの人たちが愛する以上にわたしを愛するか」の主の問いかけを受けることが時としてあることを告白せざるをえません。信仰にはげみ、学びを通して聖書の奥義にも触れ、祈りと感謝の生活を過ごしていても、本当に主の前に裸になり切れないことがあるからです。それはどんなに罪深いことか、わかっていてもできない時があるのです。

先週、錦織先生はメッセージでいわれましたが「自分の弱さを知った人の集まるところが教会です」は、真のクリスチャン像を示された思いでした。現実に社会に生きていると、強くなければ淘汰させる不安にさらされることがあります。自分の弱みを見せないために、真実の姿でない自分を矢面に立たせて、裸であるべき己は、その影に隠れていることもあります。 肉の人間の思いは自己中心だなと、そのような時いつも反省しています。自分の弱さを知ることは、ありのままの姿で神の前にでることだと悟った時、アダムとイヴの話しを思いだしました。「裸で恥ずかしくないように神がつくられたのに、人は罪を着ると神の前にありのままの姿で出ることができなくなる」の教えは聖書の一番初めの部分に示されているのに、人間の祖として神が造られたアダムとイヴの禁断の木の実の話を、自分のことと受け止めず、聖書物語を第三者的な立場で読み過ごしてきた自分を恥ずかしく思います。でも、このように弱くみ心に背くわたしでも神が許してくださっているのですから、ハレルヤ、ハレルヤです。

「わたしを愛するか」の神の問いかけが、エコーのようにわたしの心に響いてくるのを覚えつつ1999年、心を新たにして歩みたいと祈っています。

月報1999年3月号より

「石の上に現在二年」

主の御名を賛美します。ハレルヤ!  j-Gospelの音楽ミニストリーを佐佐木兄と始めて、はや二年が過ぎようとしています。皆様の祈りに支えられて来た事を感謝しつつ、私なりに感じて来た事を証ししてみようと思います。まずは、これまで訪問した所で印象に残っている出来事などから。

あれは忘れもしない去年のクリスマス。ある教会でのコンサートの時、「献金の時は、私達が演奏します。」ということで、その教会のご婦人方がリコーダーを演奏してくださるということでしたが、リハーサルを聴いてビックリ。「うわースゴイ。小学生よっかひどい。」と内心思ってしまいました。ところが、本番始まってみると、すっかり調子に乗れなかった我々をよそに、彼女たちの演奏は、音の澄みきった素晴しいものでした。

『ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」』ヤコブ四章六節

主を愛している者は、レプタニ枚(貧しい女が持っていた最後の小銭)を献げ、イエス様はそれを見て喜ばれるお方です。

ある教会では、祈祷会に出席することが出来ました。この時は驚きました。彼らの熱い祈りに感動しました。となりの部屋どころか教会の外でも聞こえるような声の大きさ、夕方から始めて深夜にまで及ぶこともしばしばあるという祈りの長さ、何度となく呼ばれるイエスの名、あふれんばかりの賛美…。また、その場には、初めて行ったその教会の礼拝の祈りの時、一時間もの間ひっくり返って立ち上がれなくなってしまい、自分の中から悪い者が出て行って、聖い者が入ってきたことを経験した、元ニューエイジの青年がいました。主は今も生きて働いておられるお方です。 『主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』使徒二章二十一節

ある所では、オフで暇をもてあましていた日に、老人ホームへの訪問という機会が与えられました。「ここに来たら平均三年です。」というえらく悲しい言葉を聞きつつ、建物に入っていくと、沢山のご老人が、ベッドに横たわり、多くは車イスの上で、ほとんどは身動きせずにその日を過ごされていました。中に数名障害をもっている子供達もいました。人は皆老いたり病を負ったりします。まったく他人ごとではありません。私の心にはラザロの死の時、涙を流されたイエス様の姿が浮かんでいました。「主よ、私達は無力です。あなたがいなかったら私達の生涯はあまりにも空しい。主よあわれんでください。」と胸の内で叫ばずにはいられない思いのする悲しい施設でした。彼らがナースに連れられて一室に集まり、我々の賛美を聴いてくださいました。すると動かなかったご婦人が動きだし踊り出しました。アメージンググレースを賛美するにいたっては、その部屋全体を包みこむ不思議なうなり声(彼らの賛美)が私の心を打ちました。もう地上では会わないであろう一人ひとりの手をとりながら、その場を去りました。イエス様の言葉が嬉しいです。『あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。』ヨハネ十六章十三節

賛美を録音するという作業についても語ることがあります。今の様な賛美を沢山作るという目標をもって働きについた段階では、何が出来るという自信なんぞ何にもありませんでした。ありったけのお金を投じて購入した器材を目の前にして、荷の重さにつぶされる気さえしていました。最初の一年は試行錯誤どころか、どこかで完璧に迷って穴に落ち、はまり込んで抜けられなくなってしまったことも何度もあります。(その結果が一枚目のCDです。沢山の応援に本当に感謝しています)。そしてニ年目にして、少しは向上したいと願っていましたが、一向に手がかりがつかめず苦しみました。何冊も専門書を買って読んだり、実際にプロのスタジオに通いノウハウを身につけるべく努力したつもりです。

そんな中でごく最近、インターネットのあるページで知った、私にとって大変有効な話があります。それは『Masking』という現象です。これまでにも何度か専門書などで触れられていたので知っていましたが、特に気に止めていなかったことです。どういう現象かというと、ある二つの音があったとして、その二つがほとんど同じ音質でなっていたとします。これを同時に同じ方向から聴くと、なんと音量の大きい方が小さい方の音をほぼ完全に消してしまうという現象です。そのページで強調されていたことは、人間の耳がそのように出来ているということでした。意味が分からないと言われそうな世代(?)の方々は、日本に「ザ・ピーナッツ」という双子の歌手がいたのを思い出してください。彼女らは時に、一人で歌っているように聞こえましたが、それはまさしく『Masking』なのです。同じ声を持った者たちが常にどちらかが他者の声を消して同じ旋律を歌うのですから、一人に聞こえるのは当然だったのです。もちろん二人の音程やリズムにズレがあったら意味が無いのですが…。

ちなみに御存知でない方も多いと思うので、説明しておきますが、通常の音楽の録音は、マルチトラックという方法で録音します。8チャンネルマルチトラックといえば、八回別々に録れるということになります。佐佐木兄をトラック1、ギターをトラック2という風に一つずつ録って行きますから、後でギターだけの変更も容易です。佐佐木兄の声を錦織先生のものに変えることも簡単です(いつかやってみよう!)。

j-GospelのCDの作成を始めた段階で、私が確信していたのは、良い音が集まれば、良い音楽になる、ということでした。佐佐木兄の声、私のギター等その他の楽器、全てがもっともらしい音を出していれば、それらをミックスして出しさえすれば、素晴しい曲が出来上がると信じていました。と・こ・ろ・が・違う、のでした。人間の耳は周波数でいうと大体1~5キロヘルツ(例えば佐佐木兄の声は500ヘルツー3キロヘルツ位を多く含む)がよく聞こえ、音楽においてもその音域を強調してやると迫力と情熱に満ちた音が出てきますが、つまり多くの場合各々は良く聞こえるそれらの音を重ねて同時に聴くとどうなるでしょう? 先ほどの『Masking』によって音は沢山鳴っているいるようですが、それぞれの音がはっきりと聞えないという事実に直面します。そこでそれぞれのトラックの1.15キロヘルツをBoost、佐佐木兄の1.15キロヘルツをCut、ピアノの3.2キロヘルツをBoostという風に音質を補正していくことになります。この段階でギターだけ、佐佐木兄だけの音を聴くと、けっこう間抜けな音になっていたりしますが、それらを同時に再生すると驚きです。きちんと各パートが協調し合い聞こえるようになっています。全体で聴くと美しい調和を得てくるのです。

長々と説明してしまいましたが、これらのことから何を感じているかというと、神様のデザインされた私達の耳の特性が、教会や社会の人間関係を導いているような気がしたのです。私達は時に情熱に燃え、元気一杯で何か良い事をしようとすると、以外な人から苦言をいただいて意気消沈、そんなら止めたということになったりします。正しいこと、良い事をしようとしているのに何故だ?と悩んだりもします。イエス様がマタイ十九章十七節で、『なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。…』と語っておられますが、我々の誰かがこの「良い方」になろうとするといくつもの問題を生むことになるようです。

今の時代、必要であるならば格好良く聞こえるはずの1キロヘルツをCutし、私には出来ないといっている者の2キロヘルツをBoostされる私たちの主であるイエス様のミキシングのもと天国のような素晴しいハーモニーを教会で生み出す時だと思います。これこそ主に喜ばれる賛美であり礼拝だと思います。ついでですが、曲を完成させるのにHidden Noteと呼ばれる音を入れることがあります。云われても気がつかないほど小さな音、目立たない音質で演奏、録音されますが、全体で聴くとこれが有るのと無いのでは大違いというこだわりの音のことです。そんな働きの場が教会にもあったら素晴しいですね。

『こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。』第一コリント十章三十一節

最後に、違いの分かる男にはなった(?)ようですが、違いの作れる男にはまだなっていない私のために引き続きお祈りいただけたら嬉しいです。イエス様が共に居てくださることをもっと体験していきたいと思います。99年初冬の日本ツアーのための限定盤「Spread the Gospel」が間もなく届く予定ですが、そのうち数曲は『Masking』を踏まえた上でのミキシングになっています。三枚目「キリスト賛歌(仮題)」は、99年半ばを完成目標にしています。いずれも乞うご期待! 音楽について賛美について語りあかしたい方はいつでも歓迎します!

月報1999年1月号より

「私の証」

神様が一人一人に与えるご計画は、わたし達の想像を超え、不思議な形で現れます。私はアメリカへ来て聖書に触れ、生まれて初めて教会に足を運んだものですが、振り返ってみると、神様は、本当に多くの人を通して、長い年月をかけて私を救いの道に導いてくださいました。

初めに、私はふとしたきっかけで、お祈りの方法を学んだのです。それは、高校卒業したての頃、デパートの紳士服売場でアルバイトをしていた時に出会った二十六歳の男性クリスチャンからでした。彼は私が働いていた店の隣のコーナーでジーンズを売っているお兄さんでした。当時未だ男性の間ではめずらしく耳にピアスをし、指にジャラジャラ指輪をつけていたその人は、高級志向のデパートの中で一人浮いている不思議な存在でした。さらに不思議なことに、彼はいつもお昼休みに一人で黙々と聖書を読んでいたのです。彼の風貌と聖書というギャップが印象的で『聖書って一体何が書いてあるのだろう』という興味が湧き上がりました。たまたま私のベッドには何故か姉が高校時代に使っていた聖書が飾りとして置かれてあり、そのとき初めて聖書を開きました。ページ数の少ないほうの新約聖書から読み始め、マタイの六章の『主の祈り』が書いてある所で私の興味は難しい聖書を読むことから神秘的なお祈りに変わりました。単純な私はこの言葉を何の疑いもなく信じました。聖書朗読は、まさに三日坊主で終わりましたが、お祈りは今日まで続いています。今考えてみると『主の祈り』でさえ意味を理解せず、ただ呪文のように唱えては願い事を神様に語りかけていましたが、そんなへんてこりんなお祈りをも神様は耳を傾けてくださいました。

その後、聖書を再び読む機会が与えられたのは六年後のアメリカに来てからでした。Art好きの私は、普通のカレッジに通っていながら、できる友人は何故かアートスクールに通っている人が多く、その中の二人の女の子達にバイブルスタディーに招かれたのがきっかけでした。彼女達の作った芸術品の並ぶお部屋でやるバイブルスタディーは今でも楽しい思い出です。その後行ったり行かなかったりしているうちに、ちょうど昨年の十月、父が腎臓ガンであるという知らせがありました。ガンは八センチにまで大きくなっていて、私はもう父の命はそう長くはないのではないかと心配で、毎日学校も行けず泣いていました。一時帰国が決まるまで、私は必死で祈りました。『父の命を助けてください…』神様の奇跡の力であんな大きなガンにもかかわらず父は癒されました。この御わざで本当に神様はいるという私の確信になりました。

NYに戻り、真剣に神様について知りたくなりました。私はもう一度バイブルスタディーを再開し、友人の行っているアメリカン・チャーチにも足を運びました。しかしどうしてもその教会になじめませんでした。ほとんどが若い大学生の信者でとてもパワフルな教会だったのですが、その勢いについて行けなかったのです。彼らが重点においていたのは『行い』でした。神を信じるだけでは救われない。行いによって救われるというのです。私はそれがとてもプレッシャーになり、神様のところに近づくにはこんなに大変なことなのかと思い込んでしまいました。そんな時、佐伯真理ちゃんからハンターカレッジのクリスチャン・フェローシップの誘いがあり、私は今までの教会仲間の強い反対を押し切って、そのフェローシップに行きました。第一回目の参加で私の抱えていた問題はあっという間に解決されました。錦織先生の穏やかな口調から出るみ言葉は、今まで受けたものと全く違っていました。そこでは神様が私に与える寛大な愛、なんとも言えない神様の愛が私の心に入ってきたのです。

『真理はあなたがたを自由にします』ヨハネ八章三十二節

このみ言葉が一人でガチガチに力んでいた私の心をほぐしてくれました。

振り返ってみると、ここまでたどり着くのに凄く遠回りをして来た様な感じがします。しかし、私の場合、ここに出てきた人達なしでは今の私はないのです。不思議なことに、神様は無神論者の父にまでも働いて、私を神の元に導いてくれました。いつかこの父にも神様の存在に気づける日がくるといいなと思います。受洗して六ヶ月、これからも多くの人を通して自分の信仰を強めることができるように、そしてまた私を通しても、神様に導かれる人が多くできることを期待しています。

月報1998年11月号より

「あゆみ」

私が語学留学のため、6年間の教員生活にピリオドを打ち、NYに単身やって来たのは去年の5月でした。誰一人、知人友人もいない、全くのゼロからスタートして、この約一年半の間に、大きなケガや病気もなく、たくさんの良き友人に恵まれ、心の寄り所となる教会に出会い、またこの9月から大学に編入、再び学生として音楽を学ぶ機会を与えられたこと、神様に感謝しています。

そもそも、留学を真剣に考え始めたのは、ゴスペル・シンガーとして日本で活躍しているラニー・ラッカー氏主催の『Bright Lights Choir』の一員として活動している頃でした。私達はラニーさんの指導のもと、アメリカの黒人教会で歌われているようなゴスペル・ソングを歌っており、時々教会やイベントに呼ばれてミニ・コンサートを催したりする傍ら、座間キャンプや横田基地などの米軍基地で行われる、ゴスペル・ミュージック・ワークショップに参加してゴスペルを学んでいました。ちょうどその頃、本業の教員生活の方でも素晴らしい音楽専科の先生と出会い、にわかに合唱指導に興味を持ち始めていたので、忙しいながらも充実した毎日であったと思います。そのような生活の中で、英語の習得も兼ねて、本場アメリカでゴスペルを学べたら、という思いが日増しに強くなり、ついに留学に踏み切ったという訳です。

大志を抱いてこちらに来たのですが、滑り出しは必ずしも順調ではありませんでした。英語がすらすらと話せないため、電話の加入、銀行口座の開設などからして、あちこちたらい回しにされ、スムースに行くものが、2倍も3倍も時間がかかる始末。英語もできない小娘が何しに来た、という冷やかな対応をずい分受けたものです。当時同居していたヒスパニックのルームメートとの関係でも神経がすり減る事ばかりで、みじめな気持ちになっては日本をなつかしく思う毎日でした。経済的にも貯金が頼りの自費留学だったので、不安は常にあったし、誰一人頼る者もいない生活の中で、自分は果たしてやって行けるのだろうか、と悩みました。

NJ日本語教会に通い始めたのは、ちょうどそんな時でした。日本の友人が古くから錦織牧師を知っており、私が渡米するということを前もって連絡してくれていたのです。一本の暖かいお誘いの電話から、錦織先生ご家族、NJの教会の方々とのお付き合いが始まりました。日本に居た時からゴスペルを通じて教会へ足を運ぶ機会はあり、また遡れば幼稚園、小学校と日曜学校に通っていた経験もあったので、私にとってキリスト教は全く未知なものではありませんでした。実際にゴスペルを学んでいく課程でクリスチャンになることも幾度となく考えましたが、自分の中に整理できない問題もあり、それが解決するまでは、と思っていました。ゴスペルのワークショップで熱狂的な礼拝体験をしながらも、その雰囲気に押しながされるような形でクリスチャンにはなりたくなかったのです。私には平静さの中で、膝を交えてキリスト教について話し合える人が必要でした。

神様は思わぬ所で思わぬ方々との出会いを用意してくれているものです。錦織先生ご夫妻というのは、私にとって“膝を交えて何でも話せる”方々でした。初めて教会に足を運んだ日から、陰にまり日向になり私の事を見守って下さり、また辛抱強く私の言うことにも耳を傾けて下さったのです。何度か牧師館にもお世話になりましたが、お互いを知り合うような暖かいクリスチャン・ホームはとても居心地が良く、また教会にあっては、座る暇もない程働いていながら、いつも笑顔を絶やさないお二人の姿が印象的でした。また教会員の方々も見ず知らずの人間に本当に暖かく接して下さり、教会に通うことで殺伐とした毎日の生活を忘れ、心が安らぎました。そして、「クリスチャンになるのなら、この教会で。」と思うようになったのです。

昨年の12月に洗礼を受け、正式に教会員となりました。今は子供聖歌隊の指導や教会のバンドの一員としてご奉仕させて頂いています。また、毎年一度催されるゴスペル・ミュージック・ワークショップ・オブ・アメリカ(GMWA)に3度目の参加を果たし、ラニーさんや日本のクワイアのメンバーと再会できたことも大きな喜びでした。心細い中でスタートしたアメリカ生活でしたが、神様は本当に必要を満たして下さっているのだなあ、と思います。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ書43・4)

これは受洗の記念に頂いた聖書に錦織先生が書いて下さった言葉です。このアメリカ生活の中で何度も自分がちっぽけで取るに足らない存在であるよう思えて悲しくなることがあるのですが、その度にこの言葉は私を励まし支えてくれます。

まだまだクリスチャンとしては駆け出しの私ですが、これから聖書の学びを深めながら、私が受けた愛情を今度は他の人々に返していけたら、と思っています。

月報1998年10月号より