「私は山形県新庄市という小さな田舎町で…」

私は山形県新庄市という小さな田舎町で生まれ、そこで中学まで過ごしました。私が通った幼稚園は確か教会が運営していた幼稚園で、そこで讃美歌を歌ったことを覚えています。特に子供の頃にクリスマスの季節に歌った「きよしこの夜」は、その当時意味はよく解っていなかったと思いますが、とても美しい響きをもった歌だなあと感じていたことを覚えています。

その後数十年、これといった大過もなく時が過ぎ去り、教会・宗教からは全く遠ざかった生活をしていました。それでも1991年8月に塩見兄姉の家庭集会に誘われた時は、何かを求めるような気持ちで期待して出席したことを記憶しています。又その時御会いした教会員の方々は皆いつも笑顔で接して下さり、自分とは違った世界に住んでいるような印象を受けました。その当時の先生は正木牧師で、先生からはいつも素晴らしい説教を聞かせて頂きました。この会に出席するようになってから、祈ることの意味、大事さと罪の悔い改めについて考えるようになりました。しかし一方では、自分が犯した罪を神様に告白し悔い改めをするだけでそんなに簡単に神様は私の罪を赦してくれるのだろうかとの疑問ももっておりました. そうは思いながらもいずれは神様の前で真実を伝え赦しを請う必要があるとは考えておりましが、それを何時行うかは全く私の頭の中にはありませんでした。

私はその年の11月にニユーヨーク・マラソンに参加が決まっておりトレーニング中でした。そのことを知った正木先生は、レースの前の週に皆さんと一緒に私が無事に完走出来るようお祈りをして下さいました。初めてのフルマラソンへの挑戦で不安がありましたので、このお祈りは本当にありがたく思いました。おかげで無事完走することができましたが、今思えば、自分の後で神様が私を支えて下さっていたのでしょう。

その後石賀先生、池原先生と牧師先生が変わったにも拘らず、私の身辺には大きな変化もなく、相変わらず家庭集会にだけは都合の許す限り出席していましたが、教会にはほとんど行きませんでした。そんな私の心にもある出来事をきっかけに変化が現れ、それが自分でもはっきりと解かったので一日も早く罪の悔い改めを行い主を受け入れたい旨錦織先生にご相談した結果 先生の温かいご協力、ご指導のもと待望の洗礼を1999年12月に受けることができました。これも神様のご計画の中に有ったのでしょうか。こんな罪深い私をも受け入れて下さった神様に深く感謝しております。又此れ迄自分で全てを切り開いて生きて来たような錯覚をしておりましたが、イエス キリストを我が主として受け入れて以来、背伸びをして生きる必要もなくなり本当に感謝です。まだまだ未熟なクリスチャンですが聖書を通じて神様と会話ができることに期待しております。

「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。」

(詩篇119編105節)

主の御名を賛美し感謝して。

月報2001年5月号より

「私とキリスト教の最初の出会いは…」

私とキリスト教の最初の出会いは大学に入学した年です。それは私が自ら求めたものではなく、大学がカナダのミッション系だったことによることからです。今考えますと、その時神様は私にイエス様への信仰の扉を開けてくださったと思います。

大学時代、聖書の授業はありましたが、残念なことに私はまったく聴く耳を持っていませんでしたので、内容は何も覚えていません。でも今使用している讃美歌はその時に買い求めたものです。

卒業後、私は教会付属の幼稚園に勤務しました。子供たちが登園する前の毎朝のお祈りと毎日曜日のお礼拝は仕事の一部でしたが、キリスト教を理解していない私には大変なことでした。牧師先生のお説教は心地良い子守歌でした。でも今は何というもったいないことをしたという気持ちと恥ずかしさでいっぱいです。

その後幼稚園を退職して、あるきっかけで美術の仕事に就くようになったと同時に、キリスト教からはまったく遠ざかるようになりました。当時日本はバブルの最盛期。その中で私は同業の美術関係の男性と知り合い結婚をしました。彼の強い希望もあり、本当は家庭に収まりたかった私の気持ちに反しながらも、一生懸命に働きました。バブルの時期でしたから、美術業界は大変な勢いで潤っていました。私も片隅でそのあおりを受けて、彼の出張についてNYのアートオークションに参加したり、ブランド物を着飾り、高級レストランで食事をしたりする毎日でした。外見は誰から見ても幸せそうな夫婦でしたが、中身はまったく違っていました。そして次第に私の心にはぽっかりと穴があいていきました。

どの位仕事をしても、おしゃれをしても、おいしい食事をしても、心はちっとも満たされない日々が続きました。たまらない虚しさと寂しさを感じていました。「私は一体何のために生きているのか。」「人間とは一体何なのか。」を考えるようになり、毎日が辛く、苦しく、悲しく、死を考えることもありました。

その後、何年か苦しんだ末に離婚をしました。その過去を引きずりながらも仕事を続けているうちに、NYにやって来ました。しかし仕事はそう簡単には上手く行くはずもなく、その中で多くのことを考えさせられました。私は心から人に感謝の気持ちを持ったことがなく、自己中心極まりなく、放漫な思いに満たされていたと。

その後、試行錯誤の中で、やっとこの地で本来の私の職に就くことができ、友人に誘われ二、三の教会にも行くようになった後に、こちらの教会を紹介されました。洗礼を受けることは考えていませんでしたが、聖日礼拝のお説教に毎回感動を覚え、錦織先生より勉強を受けさせていただくうちに、人間は生まれながらにして罪人であることを知り、そのことについて深く考えさせられました。そして今まで私が犯してきた多くの罪があれもこれもと思い起こされて、反省の毎日でした。更にイエス様が私たちの罪のために十字架にかかってくださったことを知った時に、こんなに罪深い私でもクリスチャンになれるのかという迷いはありましたが、何故か自然に洗礼を受ける決心がついたと思います。

またこのような私でも神様は愛してくださる。そして私たちはこの地では旅人であるということを学んだ時、がんじがらめだった気持ちが軽くなり、癒されていくのを感じました。

神様は私に苦い経験を通して、その存在を気付かせてくださったと確信しています。今過去を振り返り、あの辛く苦しかった時は、私にとってはなくてはならない必要な時であったとつくづく思い知らされます。神様はすべて道を作ってくださったのです。

「わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試練に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。」

(ヤコブの手紙 第1章2節)

どのような時でも神様は私たちと共にいてくださることに感謝します。

最後に、私を愛情いっぱい育ててくれた日本にいる両親をいつも守ってくださっている神様に心より感謝致します。そして、これからの一歩一歩をイエス様の愛の御手に導かれて歩んで行きたいと思います。

月報2001年4月号より

「私が最初に教会というものに…」

私が最初に教会というものに足を踏み入れたのは小学校の2年生くらいの頃だった。動機はかなり単純で、友達が「お菓子がもらえるところだよ。」と誘ってくれたからである。その頃から食べ物には弱かったらしい。どのくらい教会の日曜学校に通ったのだろうか、神様を信じる、信じないの意識が出る前に、日本人特有の無信仰に近い仏教の家族達の反対でなんとなく行かないようになってしまった。しかし、若い脳みその記憶力とはすごいもので、あの頃覚えたお祈りの文句は忘れることなく、意味もわからずそのときから今まで毎日祈っている(さすがに今は意味くらいわかる)。

その後、教会との縁などさっぱりなくなってしまった私が、2度目に教会に通うことになったのは1997年にサウスキャロライナに住むことになったときである。ここでの動機も全く不純で、当時の彼氏が宗教の研究に興味を持ち、教会に行っていたため(彼もクリスチャンではない)一緒についていっていた、というものだった。神様の話を聞くより、彼の隣に座る方がずっと大事というとんでもない奴だった。しかし、土地柄か、人々のあまりの熱心さに私はかえって冷め切ってしまい、「私は一生クリスチャンになることなどないから、そんなに勧めても無駄だよ。」と心の中で思っていたもんである。

そしてサウスキャロライナを離れニューヨークへ。これでもう教会とはおさらばと思った矢先、どうしてか私のまわりにはクリスチャンが多く、それもなぜか私は彼らの標的になってしまうらしい。ここでも、クリスチャンの友人たちの熱心な教えに拒絶反応を示し、ますます「キリスト教ってカルト?」という今考えると大変失礼極まりない印象を持ってしまった。

その後1年のアメリカ生活を終え、日本へ帰国。夢中で過ごしたアメリカでの生活から、日本の落ち着いた生活に戻ったが、ここで私の心には今まで感じたこともない虚無感というか、なんともいえない不安や孤独が訪れたのだった。私は自分で言うのもなんだが、普通の家庭で愛されて育ち、成績も優秀、行動力もあり、それまでの人生で挫折と呼べるようなものは経験せず、有名大学を卒業し、難なく希望した国家公務員にも合格した。その上、職に就いて1年目で勝手に出した奨学金に合格し、特例として一年仕事を離れさせてもらった。帰国後も多少のやっかみがあるかと思えば、いい人ばかりに恵まれ、希望のセクションに配属され、仕事に行くのが楽しくてしょうがない毎日をおくっていた。お金も職もまわりからの愛情もすべて手に入れた、他人から見たら幸せこの上ない人間だったろう。でも、そんな私の心の中はどうやっても埋められない不満足感、いくら幸せをもらってももっと欲しくてしょうがないという説明できない悲しみが渦まいていた。

そんなとき、仲の良いのおばさんが家庭集会を開いているというので、ちょっとだけのぞいてみることにした。数人で聖書を読んでいると、今まで心に足りなかった何かがちょっとだけ埋まったような気がした。数回参加しているうちに、「ふーん、聖書っていいこと言うじゃん。」という気持ちが出てきた。

そして、日本に帰って2年後、またアメリカに戻ることになった。アメリカに来る直前、小学校のころ通った教会の先生に、なんとなーく挨拶する気になり、20年ぶりくらいに教会のドアをノックしたのである。「やっぱり神様は奇跡を起こしてくださる方だ!」先生は喜んでくれたばかりか、なんと私が小学生のころ教会に来なくなってからそのときまで、私がいつか教会に戻ってくることを祈りつづけていたということだった。そのときの私の感動といったら。「こんな私をここまで思ってくれるなんて、クリスチャンとその人たちの信じる神様ってただ者じゃあないかも・・・」

そうやって神様へ気持ちが傾きかけたまま、なつかしいニューヨークへ戻り、それならもうちょっと聖書を勉強してみようとしばらく近所で行われていたバイブルスタディーに参加していた。しかし、そのリーダーがテキサスへ引っ越すということで、そのバイブルスタディーは終了になり、聖書に触れる機会がなくなろうとしていたころ、錦織先生から直接連絡をいただいたのである。実家の方の教会の先生が錦織先生の神学校時代の大先輩だったという縁である。そしてこの教会でやっぱり神様についていきたいという気持ちが強くなり、昨年の12月に受洗させていただいたわけである。私の受洗は、今までなんとか私を神様の道に、と試みて失敗に終ったクリスチャンの友人たちやサウスキャロライナの先生方には寝耳に水だったらしく、「奇跡だ」の声が方々から聞こえた。でもそんなに奇跡、奇跡って私はそれほど露骨に拒絶反応を示していたのだろうか?

そんなわけで、20年も前から始まり、たくさんの人の縁に恵まれてクリスチャンとなった長い道のりにはとっても感慨深いものがある。疑問、疑問を乗り越えてクリスチャンになったのだが、いまだに疑問だらけで、時折その疑問が大爆発し、とても数ヶ月前涙を流して受洗した人とは思えない暴言を吐いて、錦織先生始め、まわりのクリスチャンフレンドに迷惑をかけている。そんな私でも神様は愛してくださるのだから本当にありがたい。これからも、少しでも神様に近くなれるように、神様を心から信頼していけるようにお守りください。

月報2001年3月号より

「神様に捉えられ」

12月初めに行われた洗礼式は印象深いものでした。ともに喜びにあづかりつつ、自分の洗礼式のことを思い出していました。また、ひとつひとつのキャンドルに灯りをともすことから始められたクリスマス礼拝では、心静められ、深い祈りへと導かれて恵みの時を過ごしました。主イエスキリストの誕生、罪の自分が主の十字架のあがないによって赦され、生まれ変わる死と再生の神の奥義をあらためて深く味わいました。今こうしてアメリカの地においても、礼拝をともにする信仰の友に支えられ、平安の内に暮らせる幸いを心から感謝しています。

15年前、私は家族とともに初めての海外生活をブラジル・サンパウロで送っていました。日本から遠く離れ、異文化の地で受けたカルチャーショックの数々は、当たり前と思っていた私の常識をひっくり返し、立つべき基盤を持たない自分に直面しました。青く広がる空と地平線まで続く赤い大地を見ていると、限りなく自分が小さくされ、「なぜここにいるのだろう?私はだれ?」と問わずにはいられませんでした。

ブラジル滞在3年目、思いがけず目の病を得て、失明の危機に陥り、結核の闘病生活を半年送りました。肉体的にも精神的にも闇の中に落とされて、自分の無力さと弱さを味わい、深く内省する時を与えられたことが神を知るきっかけとなりました。私の目となり手足となって支えてくれた友人達の中に、かたわらで祈り、集会へと誘い出してくれたキリスト者の友人夫妻がおりました。温かさに満ちた小さな集会で語られる牧師のみ言葉と賛美は、私の心深くに染み込み、聖書というものがこの私に向かって語られる神のメッセージであることを自然に知りました。闇の中に落とされている私を、神様はみ手の中に捉えてくださったのです。

夫の転勤でブラジルからタイに移り住んで半年後、目の状態が再び悪化しました。悩んだ末、独り日本に帰国し、レーザー手術を受け失明をまぬがれることができました。新しい地に慣れることで必死だった私は、神様のことなどすっかり忘れていましたのに、「神様の守りの中にいる」ことを強く感ぜずにはいられませんでした。すべてが備えられていたのです。「祈りは時空を超えてきかれる。タイにもキリスト者の仲間がいるはずだから..。」と言って送り出してくれた牧師の顔が思い出されました。そしてバンコク日本語キリスト教会の輪の中に加えていただきました。

「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう。」 ヨハネ8章12節

このみ言葉に出会った時の嬉しさに導かれ、1991年、スラム伝道に身を奉げる山口譲牧師より洗礼を受けました。この時の平安と喜びは今も忘れられません。

私はタイのスラムや辺境に住む人々との出会いを通じて、この世のすさまじい人間の欲望と罪が、これらの人々に不条理におそいかかっている現実を目の当たりにしてきました。しかし、ここにも神の福音が届けられているのです。厳しい生活を互いに支えあい、主を賛美し礼拝するその姿に、わが身の貧しさがあぶりだされ、悔い改めを迫られ、何度も信仰の原点に引き戻されました。

神様は私達がどんな状態のときでも招いていてくださり、ご自身のものとして愛してくださいました。この愛に励まされながら、神の祝福の内に置かれた幸いを心から信じ、皆様とともに歩んでいきたいと願っています。

月報2001年2月号より

「生かされている喜びと感謝」

もし、私が神を知らなかったなら、この肉の体はとうの昔に滅びていたに違いないことを自分自身よく知っています。誰でも1度や2度は命にかかわる危険を、長い人生の間には経験することがあると思いますが、私はすでに5回も6回も神様に助けていただいたのですから、「もはや、生きているのは私ではない」という実感を強く持って生きています。

まだ幼かった頃、ペニシリンなどの抗生物質はなく、アズキ氷を食べ疫痢にかかった私はただ食塩注射を受ける以外治療の方法はなかったそうです。医者が「だめかも知れない」と言ったそうですが、母は神様に全てを委ね祈ったそうです。その母の祈りによって私の幼い命は生かされました。

母の父はカナダの神学校を出た牧師でしたし、母の兄も牧師でしたので、姉を始め、私や弟、妹たちは皆、生まれるとすぐ伯父から幼児洗礼を受けていました。

太平洋戦争も激しくなり、中学1年生の私たちも軍需工場へ動員され武器の生産に当たっていました。旋盤を教えられた通りに操作し、魚雷の部品を作っていたのです。ある日、空襲警報がなったと思った途端、工場は艦隊戦闘機の機銃掃射を受けました。一瞬、旋盤の下に身を隠し無事でしたが、無数のリンゴ大の雹がトタンの屋根を一気に撃ちつけるような衝撃に、12歳の少年であった私は死の恐怖を感じました。

ある晩、同じように空襲警報が鳴り、姉や弟たちと共に自分たちで掘った庭の防空壕に潜り込み避難しました。「お母さん、早く。」という私の声に答えて母は言いました。「小さい2人の子供がいるし、私はここにいます。神様に祈っていますから心配しないでください。」と言って家の中にいました。それを聞いて、私は子供ながら「お母さんは、凄い信仰の人だな。」と思いました。遠く空に飛行機の爆音が聞こえたと思った時、ドーンという鈍い衝撃音が聞こえました。(遠くに機影が見えたり爆音が聞こえる時が一番危ないのです。)当時、神戸市葺合区の山手に住んでいましたが、爆弾は100メートル程離れた林の中に落ち、家は何の被害も無く、私たちは守られました。このような生死の問題は、全て神様のご計画の内にあることで、自分ではどうすることも出来ないことであったのですが、「神様が私たちを守ってくださっている。」との実感を与えられました。(父は英語の達人で、その当時情報部付き陸軍少佐としてシンガポールに出征していて不在でした。)

しかし成長するにつれ、そのような神様のとりなしや恵みをすっかり忘れて自己中心的な生活に溺れるようになっていました。教会には行かないし、信仰告白はしないけれど神は肯定するという身勝手な信仰を持っていました。

大学生の時、2人の友人と京都保津川鉄橋(単線)を無謀にも渡っていた時、列車が走って来て、あわやはねられそうになったことがありました。汽車が鉄橋に入って来たのは3人が鉄橋を渡りきり、線路の両側の草むらに身を投げ出した直後でした。「バカヤロー」の機関士の怒声だけが耳に残っていますが、間一髪、神様の憐れみが3人の命を救ってくださいました。機関士の怒声を人の声としてではなく神の警告と受け取るべきであったのです。しかしそれからも私は自ら求めて危険と罪の中に身を置く生活から抜け出すことはできませんでした。

社会人となり、会社勤めも10年を過ぎ、課長の立場を与えられていましたが、「自分(我)」の思いの虜になったような生活をしていました。飲酒居眠りで大阪・奈良間のハイウェイであわや即死の事故を起こしました。シートベルトもエアバッグもない1960年代の車ですから、無傷で助かるはずのない死の谷への転落でしたが、血一滴流すことなく生還を許されました。この出来事を通して、不信仰な私にも、十字架でキリスト様が血を流されたのはこの罪深い私のためであったことがはっきりと示され、闇夜のハイウェイで天に向かい「神様、ありがとう。」と叫び、感謝しました。

「父のもとに立ち帰りたい」と願いながら優柔不断な生活をしていた私に、神様の戒めがくだる日が来ました。マンハッタンのミッドタウンで、パンクした後輪のタイヤを取り替えるためにジャッキで車を持ち上げていた時のことでした。サイドブレーキを引かず、ブレーキの踏み込みも甘かったために、車が前に傾きジャッキがスナップして飛ぶ危険が起こりました。私は、どんなことがあっても、回りで見ている人々に当たらないで欲しいと必死に神様に祈りました。「当たるなら、どうか私に当ててください。」と祈りました。妻は冷や冷やしながら私の側で成り行きを見守っていました。その祈りは聞かれ、勢いよくスナップして自由を得たジャッキのバーはまるで矢のような速さで飛んできて、私の右前額部を打ちました。メタルバーが私に向かって垂直に飛んで来ていたなら、体のどこかに突き刺さって大怪我をしていたと思います。すぐに救急車が呼ばれ、エマージェンシーホスピタルに運び込まれました。診察の結果、怪我は7針の裂傷で、脳には異常を認められませんでした。私はまたもや神様の許しによって残る者とされました。

やがてジャスティン春山先生によって堅信礼を受け、再び神様との関係は修復され、同じように堅信礼を受けた長女、信仰を告白した次女・妻とともに家族全員がキリストを信じる者とされました。

このような命にかかわる色々な経験を経て、今日在る私は、「最早自分のものは何もない。全ては神様のもの。何なりと用いてください。」と、キリスト誕生2000年、70歳の誕生日に祈り願いました。主に仕え、教会に仕え、そして隣人に仕えることが、70歳からの私の人生だとの確信に導かれ、献身の思いに至り、JTJ宣教神学校で学びを始めました。働きながら学ぶことにはチャレンジもありますが、そのことによって主が喜んでくだされば、それは何にも勝る幸いだと信じて、感謝して励んでいます。

「わたしはあなたがたの年老いるまで変わらず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。」

イザヤ書46章4節

月報2000年12月号より

「何者も神の愛から私たちを引き離すことはできない」

私が洗礼を受けたのは、高校1年生の6月です。父が私たちを収集し、「家族全員で洗礼を受ける」と言い出したのがきっかけでした。

幼い頃から叔父が牧師をする教会に通っていた私は自分自身を生まれもってのクリスチャンと思っていたので、父の唐突な提案にも快く賛成しました。母や兄は反対しましたが、結局一家揃って洗礼を受けることになりました。その時の私は、同時に5人も信仰を告白するなど教会はじまって以来のめでたいことと、ギネスブックに記録をのせるような誇らしい気分でいました。

晴れてクリスチャンとなったつもりの私は、心の中では十字架の愛の意味を理解していません。イエス様が誰かの罪のために死んで下さったことを感謝することが出来る自分は、なんと寛容な人間であろうかと思い込んでいたのです。従兄弟たちと遊ぶのが目的で教会に通っていたので聖書の内容に無関心、持っていくのが面倒で教会の本棚の奥に聖書や讃美歌を隠しては持ち出す、牧師先生のお話の時間は居眠りの常習犯、というありさまです。

そんな私の心を見抜いて、仲の良かった従兄弟は洗礼式をさかいに私を避けるようになります。「なんで話をしてくれないの?」と尋ねると、「とにかくしばらく私に話しかけないで!」という答え。いつも優しく寛容で他人事には干渉しない彼女に突然冷たく突き放され、唖然としました。周囲の励ましの言葉は頭の中で空回り。「こんなことなら洗礼なんて受けなければよかった」と、とんでもない間違いを犯してしまったという直感だけが胸をちくちくと刺すのです。最良の理解者の一人を失ったような気持ちになり、意欲も薄れ、教会から離れていくことになりました。表向きには平常心を装い、「彼女のとった一時的な私への強硬な態度」の記憶をまるで何事もなかったかのように心の奥底に仕舞い込みました。

数年後、友人に誘われてはじめて聖書の勉強会に参加した時です。信仰の土台がしっかりと築かれた友人との宝のような出会いを与えられ、心が安らぎました。しかし、共に賛美する喜びを味わう一方で私の心に徐々に劣等感が蓄積され、どうしても素直になれません。純粋な信仰を妬ましく思い、「そんなに熱心に聖書を読むのもいいけど、私たちの本業は学問でしょ」と、文句ばかり。そんな私の甘えに対しても彼らは一貫して神の愛を与えつづけ、祈りつづけ、励ましつづけてくれました。

その頃から一進一退を繰り返しつつも、聖書の世界にひきこまれます。特に、「何者も神の愛から私たちを引き離すことはできない」(ローマ人への手紙8章38・39節)という箇所は私の魂を奮い立たせてくれました。「離れた私を見捨てずに愛してくださっている・・・これが神の愛」と確信し、涙しました。虚栄とプライドで固まった心を神は砕かれ、悔い改めへと導かれたのです。感謝のほかありません。

今では私の生い立ち、洗礼、勉強会での出会い、ローマ人への手紙、全てが主の恵みと思います。ニュージャージー日本語キリスト教会の聖書通読のプログラムを通して全体をはじめて通読するチャンスを与えられ、私の珍問に丁寧に答えて下さる錦織先生が与えらていることも、感謝に絶えません。心に負った傷が完全に消え去ることなく、「そんなこといったて、神様」と、愚痴をこぼす日々ですが、聖書の言葉によって「救われる」ような体験をさせていただくに違いないという希望があるからこそ、生きる勇気が湧いてきます。内心わくわくしつつ、今日もまたページをめくるのです。

「わたしの命をあらゆる苦しみから救って下さった主は生きておられる。」

列王記上 1章29節

月報2000年9月号より

「十字架の痛み」

私は今、2人目の子供を妊娠中です。9ヶ月目に入り、まもなく出産を控えていますが、今回はつわりはひどかったものの本当に神様に守られ、皆さんの祈りに支えられて、ここまで来れていることを心から感謝致します。妊娠中といえば、1人目の子供のときに一つだけ忘れる事のできない出来事がありました。それは妊娠6ヶ月のときに、尿管結石で入院したときのことです。突然、横腹の激痛を感じ病院で診察してもらった結果、尿管に石がたまる尿管結石だと診断され、即入院して石を出すことになりました。石を出すと言っても、『妊娠中なのでレントゲンをとって散らす』、という本来の方法での治療ができず、ひたすら点滴と水分をとることで下におりてくるのを待つことになりました。

入院して4日目のことだったと思います。その夜、今までには感じた事のないほどの激痛に耐えられず、お腹の子供には影響のない注射を打ってもらいましたが、その注射も効かず、挙げ句の果てには痛みから来る吐き気で、一人トイレにうずくまっていました。もう自分がみじめで、悲しくて、痛くて、泣きながら「神様、どうしてですか?どうして、どうして私がこんなに苦しまなきゃいけないんですか…?」と神様につぶやきました。その夜は、結局3本の注射を打ってもらってようやく眠りに就くことができたのを覚えています。

次の朝、意識が朦朧とするなかで、その日が日曜日であるということに気付きました。少し落ち着きを取り戻したくて、何気なく聖書を手に取りました。そのとき行っていた教会では、毎週、新約聖書のヘブル人への手紙から連続してメッセージが語られていたので、そこに目を通していたときのことです。意識は朦朧としていたのに、次の箇所にきたときハッとさせられました。

「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、……」

(ヘブル人への手紙 5章7~9節)

イエス様が十字架にかかられたシーンと重なり、私のうちに迫ってきました。イエス様が十字架上で苦しまれたのは、まぎれもなくこの私の罪のためであるのに、あの苦しみと痛みのなかでイエス様は「父よ、彼らをお赦しください。」と祈られました。私の痛みなんてとても小さいもので、その何倍も、何十倍も想像を超えるほどの痛みと苦しみのなかで祈られたことば。私のうちから離れませんでした。私達を、いやこの私を罪から救うためにここまでしてくださったイエス様の深い愛に、涙が止まりませんでした。前日の涙も、この日の涙も、ともにもう一度イエス様の十字架の愛に触れるために必要なものでした。

あんなにもまたいつやってくるかわからない激痛を恐れていたのに、その後、不思議と恐れは消え、それどころかともにこの痛みの中を通ってくださる方がおられる、というだけで俄然ファイトが湧いてきて「いつでもかかってこい!」と言う心情でした。ところが、それ以降、痛みは一度もやってこず、その2日後には退院しました。結局石はでてきておらず、どこへ行ったかもわからないまま今に至っています。実は、妊娠中は普段の体の状態と違って石が溜まり易いということもあり、また再発するのでは、と少し不安もありましたが、神様はあの時にもう一度十字架の愛に触れさせてくださっただけでなく、癒してくださったと今改めて信じております。これほどまでに、一人一人を気遣ってくださる神様に心から感謝しつつ、これからもこのイエス様の十字架を覚えて歩んで行きたいと思います。

「私達が神を愛したのではなく、神が私達を愛し、私達の罪のために、なだめの供え物としての御子をつかわされました。ここに愛があるのです。」

ヨハネ第1の手紙 4章10節

月報2000年11月号より

「今から10年前の春分の日に…」

今から10年前の春分の日に、千葉の海岸で洗礼を受けました。それまでには色々な「出会い」がありましたが、神様はこんな小さな私のためにたくさんの人を通して導いてくださいました。

はじめて聖書を手にしたのは、大学の入学式でした。その頃は、毎日のチャペルの時間・聖書やキリスト教概論の講義など、チャンスはいつも目の前にありましたが、表面を撫でていただけで、近所の教会へもレポート提出のためにしばらく通った私でした。

こんな私が結婚して4年経った頃には3人の子供たちの母となり、カナダのバンクーバーで生活していました。上の子がナーサリーへ行っている間に、下の子2人を連れて英語のレッスンにバプテストチャーチへ通うことになり、日本で牧師をしていたというカナダ人の先生に出会いました。日曜日の午後には日本語礼拝をしておられると聞き、家族で参加したりもしましたが、先生の体調がすぐれないために、別のESLクラスへ通うことになり、それきりになってしまいました。

日本へ帰国してから、時々聖書を手にすることも多くなった頃、エホバの証人の方々が時々訪ねて来られ、話をすることもありましたが、主人からは「近くにちゃんとした教会があるんじゃないの?」と言われ、友人にエホバの証人ってどんな人達なのか聞いたりしました。その友人がクリスチャンで、私にプロテスタントの教えとエホバの証人の違いを理解できるようにとお茶に誘ってくれ、友人宅で牧師さんに出会い、色々話してくださり、聖書学校・日曜礼拝へ誘われ、私はすぐその週から聖書の学びを始めました。それまで私は勝手に自分の神様に毎日お祈りしていましたが、学びを通して全てがパチンと合ったという思いが強くしました。その教会で、日頃遠くからステキだなあと思っていた方々と出会ったことは大きな驚きでした。喜びでいっぱいになり、御言葉を実行する人になりたいという思いを持って、海で洗礼を受けました。その頃には一緒に教会へ行くようになっていた主人が、洗礼式に深く感動し、半年後に主人も同じように海で洗礼式を迎えることができました。子供達も楽しく日曜学校へ通っていましたが、イギリスへ赴任することになり、しかも地西部のマンチェスターで、未熟な私達は不安でしたが、会社の家のある小さな町(ほとんど村)には、クリスチャンファミリーが待っていてくれました。4家族の日本人のうち3家族がクリスチャンというすごい確率でした。毎日曜日は地元のバプテストチャーチへ通い、月1回はバイリンガルサービスへ集うという恵まれた環境には本当に感謝でした。マンチェスターでは、ハワード夫妻という、神戸で宣教師をしていた方々に出会い、たくさんの日本人クリスチャンに出会い、アングロ・ジャパニーズ・クリスチャン・ミニストリーズ(A・J・C・M)という組織の始まりに参加することができ、隣の隣りに住んでいた友人の洗礼に立ち会い、日本からの留学生(17歳)の洗礼もありました。日本人が少ないこともあり、日本を紹介したり、私の教えていた粘土手芸を村のイギリス人婦人会の方々の前で作って見せたりと、つたない英語で四苦八苦しましたが、色々な場を通じ、友人を通じて新たな出会いがあり、たくさんの人を知ることができ、一歩ずつ前進できたのだと思います。

神様はこのようにいつも色んな人を通して働いてくださいます。今、私はここニュージャージーで色々な人に出会っています。自分の中に改めたい所がある私は、学ばされることがいっぱいです。これからも出会いを大切に、

「いつも喜んでいなさい。

絶えず祈りなさい。

すべての事について、感謝しなさい。」

テサロニケ第1 5章16節~18節

このように歩んで行きたいと思います。主にあって。

月報2000年5月号より

「1997年のクリスマス、主人と一緒に…」

1997年のクリスマス、主人と一緒に生まれて初めて教会に行きました。その時まで、特に教会に興味を持ったこともなく、聖書にも触れる機会のなかった私にとって、教会はとても神聖な場所で、それまで味わったことのない雰囲気を感じました。

しばらくして主人と結婚することも決まり、私は主人の両親や兄弟、友人に会いたい気持ちもあり、教会に通い始めました。その頃主人はアメリカで留学生活を続けていた為、一人で行かなければならない心細さはありましたが、教会の皆さんが温かく接してくださり、とてもありがたく思っていました。ただ、私の心の中には、「クリスチャンの彼と結婚するのだから、私も早く教会のこと、神様のことが分かるようにならなくちゃ。早く洗礼を受けなくちゃ。教会のみんながそう望んでくれている。」という気持ちがありました。一方では、いつもそのことに反発する自分がいました。20数年間信仰について全く考えたこともなく、どちらかというと私には必要ない、自分の判断で生きていけると考えていた私には、すべてを素直に受け入れることはなかなかできませんでした。尊敬していた両親との関係も変わってしまうのではないか、自分自身も変わってしまうのではないかと、たくさんの不安がありました。真剣に考えようとすればするほど、それが悩みになっていきました。牧師先生に「結婚式の前に洗礼を受けることはとても意味がありますよ。」というお言葉をいただいたにもかかわらず、決断ができず、主人にも申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

結婚後すぐニューヨークに来て、2ヶ月くらい経った頃だったでしょうか、日本の牧師先生の紹介でこちらの教会に通うことになりました。礼拝に出席できるのはうれしかったのですが、また「洗礼」という言葉が重くのしかかってきました。この言葉がでる度にビクビクしていたような気がします。イースターの少し前、錦織先生から「どのように考えていらっしゃいますか。」と声をかけていただいた時、思い切って話してみようと思い、面談をお願いしました。その時から勉強会を通し、それまで自分が抱えていた悩みや不安を先生にお話しするにつれ、徐々に気持ちが楽になっていきました。主人とも洗礼のことについて話すようになり、相談する度にいつも「人にはそれぞれ時があるから、焦る必要はないよ。」と支えてくれ、その言葉にとても救われました。また、たくさんの方々に支え、励ましていただきました。「悩むことは、神様は望んでいらっしゃらない。」「洗礼を受けた時は本当にうれしくて、その日のことは一生忘れない。」というお話を聞いて、私もそんな風にうれしい気持ちいっぱいで洗礼を受けたい。きっと、私にもそういう時がくると信じていました。

その後もしばらく時間が必要でしたが、日帰りで出席した修養会の夜の集会で先生が「自分のために祈ってもらいたい方、前に出てきてください。」と言われた時、「私のために祈ってください。」と心から願って前に出ました。そして、「クリスマスに洗礼を受けたい」と先生に申し出ました。それからは不思議なように、たくさんの御言葉が心に入ってくるようになりました。神様が共にいてくださることのありがたさ、また人間の力には限界があり、そこにぶつかった時信仰を持って神様にお委ねできるすばらしさを感じさせられました。

昨年のクリスマスは私にとって初めて意味のある、感謝の気持ちいっぱいのクリスマスになりました。夫婦が夫婦としてだけでなく、同じ神様を信じて一緒に歩んでいける喜びを感じました。

「神様はご主人を通して、あなたを導いてくださったのね。」教会に通い始めた頃初めてこの言葉を言われた時はあまり意味が分かりませんでしたが、今は本当にこのことを感じ、私にふさわしい時に、ふさわしい方法で導いてくださった神様に心から感謝しています。

私の信仰生活はまだ始まったばかりですが、神様がいつも共にいてくださることに日々感謝し、最後までこの信仰を持ち続けられるよう導いていただきたいと思います。

「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」

(ペトロ第1の手紙 5章7節)

私の受洗に際し、日本の牧師先生が送ってくださった御言葉です。

月報2000年4月号より

「主が共にいることの喜び」

「しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・

イエスにおいて、キリストの血によって近いものとなったのです。」

(エフェソの信徒への手紙 一章十三節)

何年か前にことになるが、アメリカ留学を終え、その帰途にイスラエル旅行をしてきたある姉妹の証を聞いた。いくつかの話の中で特に印象に残ったものは、主イエスが十字架を背負いながらゴルゴタの丘まで歩いて行かれたと言われている道を訪れた時の話だった。群衆からの罵声を浴びながらも人々の救いのために重い十字架を背負って歩いていくイエス様の姿を思い浮かべ、彼女は涙が止まらなかったと言う。自分もそんな光景を想像し、心を打たれる思いがした記憶がある。

当時は信仰生活が十余年目くらいの時期だったろうか。受洗後、しばらくして教会を離れ、その後また戻って来てからやっとまた教会に馴染みはじめ、信仰的にも再度充実してきた時でもあったように思う。翌年には母教会の青年会の会長職も勤めることにもなった。そんな時ではあったが、ある日人間関係の縺れからひどく落ち込むことがあった。その後何日間か、怒りとむなしさで辛い日々を過ごすことになる。

しかし、悪いことばかりではない。そのような中にあっても、物事が不思議とうまく運んだり、ふと心を静めて考えにふける時間が与えられたりもした。また、心からの祈りもできたのはなかっただろうか。ある日、「ああ、神様はこんな時でも自分のそばにいてくれるのだなあ」と本当に感じられる瞬間があった、と同時に聖書の言葉が与えられる。神が共にいてくださるのは、主イエスの十字架があったからなのだ、イエス様が人間の罪のために死んでくださったからなのだと。

あの時が初めてイエスの十字架が自分にとって身近に感じだ時だったと思う。確かにその出来事は約二千年前に起こった事である。しかし、先にあげた姉妹の話に出てきた、十字架を背負いながら歩くイエス様に対し、罵りの言葉と石を投げつける群衆の中に、自分自身の姿を見たような気がした瞬間でもあった。そして、そんな自分の罪のためにイエス様が命を捧げられたことを思った時、やはり涙が止まらなかった。

それから何年か経って、日本を離れアメリカにやって来たが、本当にクリスチャンであるがためにいろいろな場面で助けられ、また勇気づけられてきた。良き友たちとの出会いは本当に掛替えのないものであった。その度に主が共にいてくださるのだということを身をもって感じた。それらがイエス様の十字架によってもたらされていると思う時、やはり心から感謝せずにはいられない。

今年になって、この教会に導かれたが、また良き交わりの場が与えられたと本当に感謝している。今の自分にとって愛妻が導かれることが第一の課題であるけれど、クリスチャンホームの末っ子として生まれ育ち、祈られることはあっても大切な人の導きのために祈ったり、何かをしたりすることの少なかった自分にとって、これは途轍もない大課題である。そんな無力な自分がまずできることが、良き交わりの場としての教会を探すことであった。

今も主が共にいることを心から感謝している。近い将来、夫婦共にその喜びを心から分かち合える時があることを信じて・・・。

月報1999年11月号より