2024年8月号<牧師室より>「開かれる道、閉ざされる道」

日本から戻ってきて10日ほど。やっと落ち着いて、18日間の日本滞在を振り返る事ができています。

多くの方々に祈られて、派遣されて、迎えられた日本での日々、本当にエキサイティングな日々でした。5年ぶりの日本で、6年ぶりの各地訪問。久しぶりの方々との再会も長い年月を超えて、まるでずっと共に歩んでいたかのような感覚に襲われる一方で、若者たち、子どもたちの成長には驚かされます。また、初めて出会う方々も何人もおられて、それはまた特別な一時でした。

日本に着いた翌日から東北から北海道と3泊4日の巡回、まず暑い東京から離れて、NJに近い気候で過ごしたのは正解でした。その後、東京での土曜日の帰国者集会と日曜日の礼拝メッセージ。

そして、月曜日からの3日間は今回の日本訪問の中心的な目的である、出身教団の日本ホーリネス教団の小田原での夏季聖会でのご奉仕でした。今から32年前に祈って送り出してくださった皆さんに、日本に帰ることもなく、そのままアメリカにいることになった自分が受け入れられるのだろうかと緊張と不安を感じていました。しかし、そこで神さまが私の心に語ってくださったのは、自分がどう思われるかよりも、神さまが語りなさいと言われることを語ることの大切さ。平安と自由な心で大胆に聖書からのメッセージを語ることができました。

そして、そのまま、土曜日まで東海から関西方面の各地で皆さんと時間を過ごし、東京に戻ってきました。そして、2回目の日曜日、池の上教会での礼拝と午後の伝道会にも、NJの関係の方々が多く来られて、喜びの再会を果たし、ご奉仕も終えました。

ところが、翌朝判明したまさかのコロナ陽性。日本でも5類感染症に移行して、以前のような対応は必要なかったとしても、帰米までの予定はすべてキャンセルして、活動自粛生活に入ることになりました。

最後の5日間は東京近郊で集まりを持ったり、個人的にお会いしたり、訪問させていただく方がいたりと、すごく楽しみにしていたので、とても残念でした。NJから送り出してくださった皆さんに対しても、18日間の中の5日間も部屋に籠もって過ごすことになるのは申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

脅かされていた日本の夏の暑さも、確かに大変でしたが、汗拭きタオルを忘れないように、ということだけ気をつければ、それほど体調に影響することもなく過ごしていたのに、また、コロナの症状もごく軽く、1日半だけ、解熱剤がないとちょっとだるい、という程度。前回感染してから2年間、全く何も気にしないで生活することができていたのに、このタイミングでとは・・・という思いでした。

でも、落ち着いて考えてみると、残念は残念ですが、この日本訪問の準備をしている中で、どうしてもお会いして共に祈りたいという方々との予定がどうしても合わなかったり、久しぶりの日本訪問で連絡がつかなかったり、そういうことの連続でした。その一方で、パズルがぴったり合うかのように隙間の時間に予定が合って、お目にかかることができる人もおられました。「開かれる道もあり、閉ざされる道もある」、このことは、私自身の人生、以前からそうだったな、と思わされます。

「今日か明日、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をしてもうけよう」と言っている者たち、よく聞きなさい。あなたがたには、明日のことは分かりません。あなたがたのいのちとは、どのようなものでしょうか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それで消えてしまう霧です。あなたがたはむしろ、「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」と言うべきです。
ヤコブの手紙 4章13~15節

静まって、わたしこそ神であることを知れ。 わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、 全地にあがめられる。
‭‭詩篇‬ ‭46‬:‭10‬ (口語訳‬)

予定どおりに行かないことがある、祈ってきて、時間もかけ、労力もかけて準備したことなのに、道が閉ざされることもある。それも神さまの御手の中にあることなのです。

今回、各地を走り回っていた自分に、神さまが「落ち着いて、静まって、祈りなさい」とブレーキをかけられたのではないか、という思いもあります。また、「自分がやらなければ・・・」という気負いも手放すようにと言われたのかもしれません。

実際、私が行けなくなった東京での集まりは、皆さんで集まって、そこに私がオンラインで顔を出す、という形になりましたが、とてもいい集まりになったようです。また、ちょうど出張で東京に行かれるNJの教会の方に同行して、お母様にお会いし、信仰告白に導かれたら、洗礼式をするという願いも持っていましたが、それは東京で牧師をしている実兄が代わってくれることになり、洗礼式をしてくれました。私だったら、その後、次に訪問するのはまた1-2年後になりますが、東京で牧師をしている兄ならば、しばしば訪問する事もできそうです。

とは言え、やはり、残念な気持ちはあります。その中で、「すべてのことがともに働いて益となる」(ローマ人への手紙 8章28節)という神の御業を見せていただけるようにと祈っています。

祈ってくださった皆さん、迎えてくださった皆さんに心から感謝しつつ。

「主の柱が動く時」

昨年の7月1日、2年間在籍していたマンハッタンにある神学校の大学院からメールがありました。

「来月末(8月末)で学校がなくなります。」

突然、なんの前触れもなく知らされたニュースに初めは頭が追いつかず、ただ、「神さまはまた何か企んでおられるな…」という予感だけがありました。学校閉鎖のアナウンスから学校が実際閉鎖されるまで2ヶ月もないというありえない状況の中で、悠長に悩んだり決断したりする間も許されない中で、ただ神さまの声のする方に向かって進むというシンプルだけれども究極の信仰の試練に突然飛び込むことになりました。

そのうち、学校からこれまで取得した単位を移行できる全米の提携神学校のリストが届きました。ただ、私の在籍していたプログラムは神学修士ではなくカウンセリング修士だったので、他の神学生たちに比べて神学校でカウンセリングの修士が取れる提携校は限られ、結局マサチューセッツかケンタッキーにある神学校の2択だけでした。通常、大学院受験は教授や(神学校であれば)牧師からの推薦状を数枚、学校側から出されるテーマに沿ったエッセイ、あらゆる出願手続き、そして面接などの過程を何ヶ月もかけて行います。それを数週間もない期間で全部済ませなければならないなんて…と気を失いそうになりました。もう全部諦めて日本にすっ飛んで帰りたい気持ちもありました。それでも、これだけ激しい大嵐のチャレンジに私を招いた神さまだから、何か私には想像も出来ないような計画をお持ちに違いない、と感じました。また、心配した知人から電話がかかってきて、「ガリラヤ湖で弟子たちと大嵐に会った時、キリストは枕して休んでおられたから、神さまは大嵐の只中にあっても日和ちゃんにきちんと休息も与えてくださるから、大丈夫。」と祈りと共に励ましてくれました。「この嵐をあなたと共に通ります、でも通るからには神さま私を養って、祝福してください!」と祈りました。

そこから大急ぎで2択に絞られた神学校の両方にコンタクトを取り始めました。するとすぐにケンタッキーの方の提携校、アズベリー神学校から連絡が帰って来ました。この私の置かれた異例の事態に理解を持ってくださり、急ピッチで出願手続きをサポートしてくれました。このアズベリー神学校はケンタッキーの小さな田舎町にある神学校で、ジョン・ウェスレー(18世紀の神学者)の教えを土台とした福音派、ウェスレー・ホーリネスの流れを汲んだ神学校です。正直私には昨年まで全くと言って良いほど面識のない神学校でした。昨年の2月、この神学校の併設大学であるアズベリー大学でリバイバル(現地の人たちはへり下りの意味を込めてOutpouringと呼んでいます)という聖霊が力強く働いて信仰が大規模に覚醒するという出来事があり、そのニュースを私もSNSを通して見てとても励まされました。それ以降いつか訪ねてみたいと思っていた矢先に出願してみるということになり、自分でも驚いていました。

アズベリー神学校との出願・受験手続きは驚くほどスムーズに進みました。私のミニストリーでのメンターたちも超多忙なスケジュールの合間をぬって推薦状を速やかに送ってくださり、教会の青年も仕事のあと明け方近くまでかけて私のエッセイの英語を添削してくれ、また多くの方の背後の祈りに支えられて、出願から面接・合格通知まで10日足らずで終わってしまいました。こうして、今御霊が力強く働いているアズベリー神学校への道が急に開かれました。

ただ、留学生ビザの制限があり、住んでいたNYCからオンラインでケンタッキー州の神学校であるアズベリーの授業を受講することは許されず、私はどうしても残りの1ヶ月も満たない短期間で留学生用の在留書類発行など含めた一通りの入学・転校手続きをし、そして8月後半から始まる新学期までにケンタッキーのキャンパスに引っ越しも完了しなければいけないという、とても無理難題なスケジュールに思えました。もし秋学期が始まる9月までにキャンパスへ行くことができなければ、諦めて日本に帰国し、一からまた留学の準備を始めなければならないという大きなプレッシャーもありました。しかもこの時点では学費や寮費を払える見込みも立っておらず、何もかもが未知でした。

一方、マサチューセッツの神学校はNYからも比較的近くまたアクセスもいいので、大好きなNJの教会やNYCのミニストリーチームにも頻繁に戻って来られそうで、転校するとすればこちらの学校の方が理にかなってるように思えました。しかし、なぜかこちらの学校からは最初に問い合わせのメールを送って以降音沙汰が一切なく、返事を待っているうちにあれよあれよという間にアズベリー神学校への合格が決まってしまいました。アズベリーからの合格通知が届いたくらいのタイミングでようやくマサチューセッツの神学校からもメールがありましたが、それによると、私に何回もメールを送ってコンタクトを取ろうとしていたけれども全然私に連絡がつかなかったとのこと。私も何回もスパムメールなども入念に確認してメールを何回か送りましたが返信メールは見当たらず、本当に謎でした。でも、この時点ですでにそちらの学校は最終の面接期間を終えてしまっていました。私の状況の緊急性を加味して、特別に私のためだけに面接の機会を作ってあげるよとオファーもしてくださいました。しかし、その時なぜ神さまはアズベリーとのやりとりを驚くほど早くスムーズに進めて、もう一つの学校との連絡を止めておられたのだろうと思い巡らしました。論理的に考えたら、こんなギリギリのタイミングでこれまで7年過ごしたコミュニティ近くの神学校ではない遠いケンタッキーの地に、誰も何も知らない場所に行くことは無謀で筋が通っていないようにも感じました。ですが、その時私の中に浮かんだのは、出エジプトのこの場面でした。

主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。” 出エジプト記 13章21節

イスラエルの子らは、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。雲が上らないと、上る日まで旅立たなかった。” 出エジプト記 40章36~37節

イスラエルの民たちは、雲と火の柱が動けば動き、止まればその場に留まり、そうして40年間荒野を旅し続けました。その柱がいつ動くのか、民たちは知りませんでした。もしかしたら、夕食の準備をしかけていたのに柱が動いたから急に荷造りをして移動しなければいけない、なんてこともあったかもしれません。神さまのタイミングは、必ずしも私たちが思うベストタイミングであるわけではなく、また私たちが準備できているかどうかに限らず神さまが進む時は私たちも進む。そして何より、神さまがその荒野の旅路にいつも寄り添い、私たちの必要をマナによって常に満たし、行くべきところへ導いてくださる。そのようなイスラエルの民たちの荒野での日々を思った時、今私の目の前の柱も動いて、それはケンタッキーの地へ向かっているのだと感じました。大好きなNJの教会の主にある家族のみなさん、重荷を持って全力投球してきたNYCでの日本人伝道、そして素晴らしいミニストリーチームやメンター、そんなみなさんとの突然の別れとミニストリーを手放すことがとても辛く、ケンタッキー行きを決断してから2日間ほどは泣き腫らしましたが、2日間たくさん泣いてからは心を決めいろんなものを手放して神さまの養いの手だけを握って、7年過ごしたNYの地を去るための準備を始めました。

ケンタッキー行きを決めてから実際に引っ越すまでの1ヶ月弱の期間は怒涛の日々でした。お世話になった多くの方々やミニストリーで出会った学生さんたちとお別れの挨拶をして、引っ越しの準備をして、教会のキッズキャンプを手伝って、転校に必要な書類を集めたり提出したりして、送り出しの祈りを浴び、とても濃厚な時間でした。そうして8月末、5つのダンボール箱と3つのスーツケースでケンタッキー州レキシントン郊外のウィルモアという小さな町に引っ越しました。レキシントンの空港についた時、アズベリーからお迎えのボランティアがあり、博士課程にいるインドからの留学生でヘプセバさんという方が私を空港で出迎えてくれました。このヘプセバ(Hephzibah)はイザヤ書62章4節に出てくるヘブライ語で、「わたし(神)の喜びは彼女(この文脈では女性名詞化された神の民、イスラエル)にある」という意味です。実は私がNYCで最後に長期レジデントとして住んでいたクリスチャンゲストハウスの名前もHephzibah Houseで、NYのヘプセバからKYのヘプセバへ託されたような不思議な出会いでした。そのヘブライ語の意味のように、神さまがこのユニークな方法で「わたしはあなたを喜んでいるよ」と愛を伝え、ケンタッキーに歓迎してくれているように感じました。

あなたはもう、「見捨てられた」と言われず、あなたの土地は「荒れ果てている」とは言われない。かえって、あなたは「わたしの喜びは彼女にある」と呼ばれ、あなたの国は「夫のある国」と呼ばれる。それは、主の喜びがあなたにあり、あなたの国が夫を得るからである。” イザヤ書 62章4節 

Hephzebah Houseで過ごしたNYC最後の2ヶ月間、大嵐のような日々を送る中で神様は何度も私に「あなたはわたしの喜びの花嫁、あなたはわたしの愛する娘」ということを伝えてくださいました。Hephzibah Houseの壁にこのイザヤの言葉が書かれていて、毎日それを見る度に試練の中で神様の愛が拠り所となり、次の人生の通過地点へ行くための備えの期間となったと今振り返ります。こうして7年間のNYでの生活を終え、KYでの新たな歩みが始まりました。

(9月号に続く)

「日本での新生活の意味・主のご計画を尋ねる」

私たち家族は、この3月に日本に本帰国しました。駐在に終わりが来ることは分かっていましたが、子供たちにとって「日本は遊びに行くところ」であったため日本での新生活への不安は隠しきれていなかったと思います。

帰国して数か月がたった今、フェイスブックを眺めると、夏休み入りしたアメリカの皆さんの投稿が目に飛び込んできて、楽しかった思い出が蘇ってきます。庭でのBBQ・ハンバーガー、海や公園、礼拝堂・ジムでの愛餐会、そしてマンハッタンの喧騒。まだ五感で思い出せるので、あたかも日本に一時帰国しているような気持ちにすらなります。

アメリカでの生活・経験を総括するには日が浅いものの、良い信仰の輪(教会)に加えられこと、大きな怪我、病気、事件に見舞われることが無かったことに感謝しています。しかし、何よりも妻の受洗、そして新たな命が家族に与えられたことは私が渡米した当時の期待をはるかに超える祝福でした。主のご計画が人智をはるかに超えたものであることを経験することが出来たと思います。

この半年を振り返ったとき、転勤に伴うドタバタ(5人家族の引越・家探し、仕事の引継、子どもたちの転校)だけでも大変ですが、子どもの高校受験と私の大学院の受験をこなさなければならず、「走りながら考える」とはまさにこのことだと感じる毎日を過ごしました。これだけ多くの出来事を同時並行的に進められたのは、家族が実質的な司令塔と仰ぐ妻の段取り力に他なりません。整然とした新居でコーヒー片手にホッとするとき、神様が妻の健康を守って下さったことに感謝せずにはいられません。

「えっ!これから大学院に?何故?」と質問された時に、5分も10分も使って経緯を説明するわけにもいかず簡潔な受け答えをしてきましたが、祈り求めていた進学にいたった経緯をご紹介します。

経営大学院に初めて興味を持ったのは20代の後半でした。不景気が普通の状態である学生時代を過ごし、少し上向いたと思ったらリーマンショックに見舞われ、漠然とした不安感を持っていました。思い描いたような仕事(=海外駐在)も出来ず焦りがありました。ニッチな領域の手に職的な仕事をしてきたため、経営大学院って意味があるのだろうか?手に職の方がいいのでは?決して勉強自体が好きな性分ではなく、大学時代の成績も褒められたものではなかったため、何となく気になりながらも自分に言い聞かせるように目の前の仕事と家族に集中してきました。

念願叶ってアメリカに来た当初は日本で担当していた業務領域をアメリカで担当するスペシャリスト的な仕事が与えられました。しかし、駐在の後半には経営陣を補佐する仕事が与えられ、尊敬する同僚の視野の広さ、思考の深さに魅了され、体系的にビジネスを学ぶ意欲が掻き立てられました。

一時帰国の際に学校訪問し目的と手段(進学)にズレがないかを確認したり、費用対効果を検証した上で、テスト対策・願書づくりの日々が6月から始まりました。受験は2回(年)までと決めていたため「ご計画ですよね。信じます。先取して感謝します。」と祈る日々が続きます。11月には受験のために弾丸で一時帰国し、2月には長男と一緒に3週間滞在し、長男の高校受験の傍ら、私も受験に臨みました。そして無事に合格を頂き、4月から会社員、夫・父、学生という三足の草鞋を履く生活を送るチャンスを得ました。仕事においても海外子会社を再編するプロジェクトを任され、大学院での学びを実践で活かせる役割を得られました。

今は日本での生活にもすっかり慣れましたが、片道1時間、電車に揺られて通勤・通学する毎日は案外苦痛ではなく、むしろ課題・自習の貴重な時間で座席に座ることは許されません(寝てしまいます)。自分のキャリア、家族の経済的な自由を目的に進学したことは偽らざる本音なので、一日の働きを終え寝床に入る時、「この道は神様が与えて下さったが、なぜ与えられたのか。キリスト者としての私は期待されているのか。両立が難しくて困難に至るような計画ではないですよね。試練は与えないでください。」と神様に聴きながら、気が付くと朝を迎えます。

“主は言われる、わたしがあなた方に対して抱いている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。”
エレミヤ書29章11節

一切が益となる計画を神様は用意してくださっています。主に感謝しつつ、私が御心から逸れず常に主を仰いでいられるようお祈りください。

2024年7月<牧師室より>「互いに励まし合う」

「7月の日本、昔とは暑さが違いますよ、気をつけて!」

7月に日本を訪問する予定だという話をすると、多くの方々にそのように言われます。調べてみたら、最後に7月に日本に帰ったのが、2005年。19年前です。その時も、とにかく暑くて、「これからは夏に日本に行くのは難しいな」と思ったのを覚えています。 その時よりも暑くなっているとしたら、どんな感じなのでしょう。そして、自分もその頃は40代、今は60代ですから、昔のようにはいかないかも・・・と心配しながらも、久しぶりの日本を楽しみにしています。

27年前にニュージャージー日本語キリスト教会の牧師になってから、間が短い時には毎年一度、間が開いてしまっても、2-3年に一度日本を訪問して、帰国された方々の集まりや訪問、メンバーの日本の家族の訪問を続けてきました。しかし、コロナ禍があって、とても間が開いてしまいました。今回、日本の所属教団からの招聘を受け、7月半ばに日本に行く用事ができたので、それに合わせて2週間半の予定で日本を訪問します。前回は2019年5月でしたので、6年ぶりになります。その間に天に召された方々、病を負われた方々、また、連絡がつかなくなってしまった方々もおられます。教会から足が遠のいてしまった方々もおられるでしょう。間が開いてしまったことの難しさを感じています。

日本に帰国された方々には、一日も早く、日本で教会につながって、そこで歩んでいただきたいと願っています。どこにいても、自分の住んでいるところのそばにある教会につながって、その教会を通して神さまに仕えていただきたいと思います。「自分が信仰を持った、あの教会は良かったなあ」と思って、地元の教会と比べるのではなく、謙遜になって、地元の教会で仕えていくようにお勧めしています。しかし、実際のところ、困難を感じる方々もおられます。ですから、励ましは必要だなあと思わされています。私たちの教会の歴史の中では、実際に牧師だけではなくて、出張や旅行で日本に行く方々が、帰国された方々に声をかけ、連絡を取ったり、日本に先に帰国された方が、戻った方々を励まし、サポートしてくださったりしてきました。そのような互いの励ましによって、私たちは支えられてきたのだと思います。

「自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。」(ヘブル人への手紙 10章25節)

今年の日本訪問でも、そのような働きができるようにお祈りください。互いに励まし合い、力をいただいて、立ち上がっていく時となりますように。日本の方々、お目にかかることができるのを楽しみにしています。予定はこちらから。

<集会紹介>「NY礼拝」(2024年6月)

2021年9月にNY礼拝が始まってから間もなく3年になろうとしています。「もう3年」ですが、「まだ3年」です。

私(錦織)がニュージャージー日本語キリスト教会に集うようになったのは30年前、1994年の秋だったのですが、その時も、NYからNJにある教会に集ってこられる方が多くおられました。ある方々は自家用車で、また、ある方々は毎週NJからの奉仕者が運転する教会のミニバンに乗って、集ってこられていました。

1997年にこの教会の牧師としての働きを始めたときに、マンハッタンの大学に通うクリスチャンの学生から相談されて、学内でのバイブルスタディーに行くようになり、そこから教会に来るマンハッタンやクイーンズの学生たちが増えてきました。洗礼を受ける学生たちも起こされてきました。その頃から「平日はこのように自分がNYに来て、集まりを持つことができるけれども、日曜日はNJの教会まで来るのが大変だから、そこで止まってしまう学生たちがいる、何とか、NYで礼拝はできないだろうか」と祈り始めました。

大学でのバイブルスタディーはクリスチャンの学生たちが卒業して、2-3年で終わってしまったのですが、その後も、「自分はクリスチャンだから、NJの教会に来ることはできるけれども、クリスチャンではない友達を誘うことは難しい」との声を聞きながら、なんとか、NYでも礼拝をささげることができないだろうかと祈ってきました。

そして始まったNY礼拝、毎月第2日曜日の午前中にマンハッタンのスタジオをお借りして集まって、礼拝をささげています。場所と時間は違いますが、ほぼ、NJと同じプログラムで、同じメッセージをお話しています。いつもNJまで来られる方々も、なかなかNJまでおいでになるのが難しくて、NY礼拝だけに来られる方々もおられます。住んでいるのはNJだけれども、車がないのでNYの方が便利な方や、旅行で来られる方、ウェブページを見て来られる方、ご高齢の方、若い方、いろんな方が集われています。まだ、このNY礼拝から洗礼にまで導かれる方は出ておられませんが、一人でも多くの方々に、聖書のメッセージを、イエス・キリストの福音を伝えたいと願っています。

今月は6月9日(日)午前10時15分から、場所はRipley-Grier Studios #2B (2階)    939 8th Ave (55thSt. & 56thSt.の間)。是非お出かけください。

2024年6月<牧師室より>「コミュニティーの中で生きる。再び。」

 今年の2月号の月報で「何かが起こってから、『私たちは〇〇教会の者ですが、何かできることはありますか?』と聞いても、それからでは遅い、教会がいつもいつもコミュニティの中で生きていないと、いざという時に教会に手を差し伸べてもらおうなんて人は誰もいない」という9-11の後に参加したセミナーの講師の言葉を紹介しました。それからずっと、私たちは、コミュニティーの中に生きる、そのためにはどうすればいいのか、という課題をもらって歩んでいます。

 数年前にJCCカフェが始まったときも、地域の方々の憩いの場となる様にという願いででスタートしました。実際に毎回多くの方々がおいでくださり、時間を過ごしてくださり、その目的を果たしていたと思います。この働きはコロナ禍で中断して、奉仕をしてくださる方々が引っ越して行かれたりして、まだ再開の目途は立っていませんが、また少し違った形でも、このような場が持てればと思います。また、親子クラスやキッズクラブ、クロッキー教室、JOYJOYキャンプなども、私たちがコミュニティーの中で生きる働きの一つになっていると思います。でも、まだまだ多くの日本語を使う方々に届いていない、まだ出会っていない、そんなことを思わされます。一つ一つの働きがもっともっと多くの方々に届いていくものとなりますように。

 昨年9月にはフリーマーケットとNY男声合唱団のミニコンサートをもって、教会の存在を知っていただく、一歩でも教会の建物に入っていただく、という時を持ちました。とても良いときとなりましたし、これも「コミュニティーの中に生きる」ということの表れになったと思います。

今年は6月22日(土)にフリーマーケットと今度はNY混声合唱団にミニコンサートをしていただいて、更に多くの方々とのつながりを作っていきたいと願っています。昼の12時から午後4時がフリーマーケット、午後4時から5時までがミニコンサートです。是非お出かけください。

昨年の男声合唱団も、今年の混声合唱団も、合唱団の方からお声かけをいただいて、共にやりましょう、やらせてください、ということから始まっています。更にこの地域でコミュニティー作りをしておられる皆さんと共に歩んでいくことができますように。

「良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。
平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、
『あなたの神は王であられる』とシオンに言う人の足は。」
イザヤ書 52章7節

私は教会で育ったからクリスチャンなのか? 〜生態学を通して信仰の自立を考える〜

1.はじめに

2024年5月に大学を卒業いたしました。中高生時代に体調を崩していたので、親元を離れてのアトランタでの大学生活にご心配をおかけしましたが、多くの方にお祈りしていただき支えられましたことに感謝しています。さまざまな壁にぶつかりながらも、充実した日々を過ごすことができました。

大学での4年間を振り返ると、自分で言うのもおこがましいですが、学業と信仰が互いに影響し合いながら大きく成長できたように思います。生態学を学ぶ中で、またクリスチャンとしてのアイデンティティが芽生えたこの期間を通じて神様の恵みを深く実感したので、そのことをお証しさせていただきます。


2. 幼少期と信仰の始まり

ニュージャージーで生まれ育った私にとって、平日は英語の現地校、土曜日は日本語学校、日曜日は教会という生活が幼少期から高校卒業するまで「当たり前」でした。母がクリスチャンなので、物心がつく前から地元の英語教会やニュージャージー日本語キリスト教会に通い、教会学校やジョイジョイシンガーズ、ジョイジョイキッズクラブ、ジョイジョイキャンプなどに参加していたので、自分が神様に愛されていることを耳にタコができるほど聞いていて、知っていました。

最初は母に教会に連れて行かれていましたが、小学1年生の時に神様の子どもになりたいと自ら願い、洗礼を受けました。中高生になると、教会のミニストリーを手伝うようになり、少しずつスタッフとしての役割を担うようになりました。礼拝では和英通訳をするなど、さまざまな奉仕に加わる機会に恵まれました。英語と日本語を活かしながら礼拝のために、教会キッズのために、教会のご奉仕をするのは純粋に楽しかったのを覚えています。当時、私が発案した工作の企画や賛美動画の活動を教会の大人やユースの仲間が喜んで応援してくださったことによって、私の与えられた賜物が用いられていると感じ、教会生活やご奉仕に積極的にになれたのだと思います。 


3. アトランタでの大学生活

COVIDで最初の1年リモート授業を余儀なくされましたが、2年目の夏から大学進学のために親元を離れてアトランタでの生活が始まりました。リベラルアーツの小さい女子大だったので、理系文系問わず興味のある分野を少人数の授業で受けることができました。脳科学専攻の一方、ジャーナリズム・公衆衛生学・化学を副専攻として学び、生態学の部活の部長を務めたり、昆虫を用いた微生物の研究をしたりなど、いつしかスケジュールの詰まった大学生活を送っていました。

教会に行くかどうかを自分で決めるようになり、毎週アトランタ日本語バプテスト教会に通いました。新しい教会生活のスタートでしたが、ニュージャージーの教会もアトランタの教会も、同じ神様を礼拝する場であり、主のもとに帰る場所であり、神の家族と会える場所だと感じました。大学から離れて数時間、日本語でメッセージを聞ける、教会の皆様と交われる環境に身を置くことができ、徐々に教会が心の拠り所となりました。

アトランタの教会では、礼拝の賛美チームに参加したり、教会学校で祈り課題を共有したり、月に一度の愛餐会で共に食事をしたりしました。また、礼拝後にはキッズとお絵描きをしたり、本を読んだり、宿題を手伝ったりする時間を過ごしました。教会の外でもご自宅に招いていただいたり、キッズとザリガニやイモリを探しに行くこともありました。

たとえ寝不足でも、試験に追われていても、日曜日の朝は教会に行こうと思えたのは、信仰の支えがあったからこそです。1週間大学でヘトヘトになって教会へ駆け込み、主のもとで憩い、力をいただいてまた出ていく、1週間がんばれるというふうに、学業と信仰が互いに影響し合い、私の生活を支え、大きく成長させてくれたように思います。


4. 信仰に対する葛藤と挑戦

同時に、信仰に対する葛藤も感じるようになりました。アトランタで出会ったアメリカ人や日本人の友達に、自分の信じている神様についてうまく説明できず、悔しく情けない気持ちになることが何度もありました。礼拝に来てもらっても、主の祈りを唱和した時に「今のはカルトっぽくなかったかな?」と心配することもありました。

大学では、私が教会に通っているクリスチャンだと知っている人はいるものの、聞かれなければわざわざは言わないようにしていました。私の大学は非常にリベラルな校風で、キャンセルカルチャーが激しいと感じていたため、学問で不自由を感じないために、私は必要でない情報は無闇に言わないスタンスを取っていたのです。

例えば、クリスチャンのキャンパスミニストリーがLGBTQに関する声明を出すよう学生から求められ、保守的すぎる、寛容でないと大学のコミュニティーから追い出されるということがありました。このような環境で、自分の信仰をどう表現するか、どのように維持するかについて多くの葛藤を感じていました。


5. 信仰と学問の共生

生物学の研究を進める中で、神様の偉大さを感じました。例えば、昆虫が特定の微生物と共生することによって得られる利益や、生態系全体におけるその役割を理解することで、神様の計画の緻密さと精巧さに感嘆しました。

しかし、これらの分野に関する知識が深まるにつれて、疑問も増えました。例えば、遺伝子操作の発展は生命の神秘を解明する一方で、倫理的な問題も引き起こす可能性があります。進化学においては、自然選択や突然変異のメカニズムを理解することで、神様が創造された生命の多様性の素晴らしさを解明できる一方、クリスチャンとして進化論と創造論の間で揺すぶられることもありました。

こうした疑問に直面する中で、神様が与えてくださった知識と技術をどのように使うべきか、クリスチャンとしてこの道の研究者として進んでいく場合どうあるべきかについて考えるようになりました。科学の進展を通じて神様の偉大さを証しする一方で、倫理的な問題に対しても慎重に対応することが求められるからです。これは大きな挑戦です。大学院進学に際し、この道を突き進むことが正しいことなのか神様に喜んでいただけることなのかと、大いに悩んだ部分でもあります。けれども今は、信仰と学問の両立についてさらに多くを学び、クリスチャン研究者としての自分の立ち位置を再確認しながら歩んでいこう、と思わされています。


7. 神様を受け入れる選択

生態学では、最初に定着した種がその後の生態系に大きな影響を与えることを「先住効果(Priority Effect)」と呼びます。複数の生物種が新しい環境に導入される際、どの種が最初に到着するか、その数や環境への適応度の違いによって、それぞれの生物種の成長能力や最終的なコミュニティーの構成が変わります。
私の信仰も、まさにこの先住効果のようだと感じます。母が私を毎週教会に連れて行き、様々な教会の集まりに参加させてくれたことで、私の信仰の基盤が築かれました。この最初のエクスポージャーがなければ、私の信仰は異なるものになっていたかもしれません。大学生活を通じて、私は自分の信仰が、母や育った環境からの影響だけでなく、私自身の選択によるものであることに気づきました。

最初に与えられた信仰の環境が、神様と共に歩み続けたいという私の意志によってさらに強固なものとなりました。このようにして、信仰は単なる環境による「エクスポージャー(exposure)」だけでなく、私自身の「選択(selection)」によっても形成されていったのです。

時折クリスチャンでない生き方に揺れ動き、教会から離れそうになりましたが、聖霊様による信仰生活の免疫(Immunity)に守られているのだと思います。最初に形成された信仰が成長し、大学生活を通じてさらに深く「定着(establishment)」したと感じています。

学業と信仰の両面を通して、私は信仰生活が自分にとってどれほど重要であり、それが私の人生にどれほど深く根付いているかを実感しました。このプロセスを通じて、信仰が私自身の意思と神様との関係に基づいていることを確信しています。これからも、神様の導きと共に成長し続けていきたいと思います。


8. 結論

私は、クリスチャン家庭で育ったからではなく、自らの意思で神様を受け入れました。まだ弱さや葛藤はありますが、これからも神様の愛に満たされ、神様のご臨在の中で生き生きとした信仰生活を送りたいと祈っています。

   『雨や雪は、天から降って、もとに戻らず、
  地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、
  種蒔く人に種を与え、食べる人にパンを与える。』 <イザヤ書 55:10>

2024年5月<牧師室より>「宇宙ってホントにすごい」

  「おお、わお、すげえ・・・」

 自分はどうして、こんなにも表現力が貧しいのかなと思いますが、それが4月8日に皆既日食を見たときに出てきた言葉です。

 今から50年くらい前、小学生時代の誕生日パーティーで友達にもらった「宇宙のひみつ」という学習漫画にハマりました。何度も何度も読み返しました。その中に「日本で皆既日食が見られるのは2035年・・・その頃は僕たちはおじいちゃん・おばあちゃんだね・・・」というくだりがあり、「そうか、楽しみだな」と思っていました。しかし、その後アメリカに引っ越して、なんと、想定よりも18年も早く、2017年8月にサウスカロライナで初めての皆既日食を見ることができました。見事に真っ黒になって周りにコロナが広がっている太陽。必死になって写真を撮っていました。

 それから6年半。ずっと「次も見るぞ!」と思っていた皆既日食、前回の片道12時間に比べて、今度は4時間くらい運転すれば着く、ということで、絶対行くぞ!と楽しみにしていました。

 2週間くらい前から4月8日の天気予報を注目していたのですが、毎日コロコロ変わる予報。「ダメかなあ」「いや、行けるかも」「まあ、3日前まで分からないだろうなあ」と気分もアップダウン。でも、2-3日前には「大丈夫そう」ということで、ニューヨーク州のPlattsburghか、湖を挟んで対岸のバーモント州のBurlingtonに照準を合わせて準備をしていました。

 でも、当日になって、ちょうど日食の始まる2時頃から雲が広がってくるという予報。不安の中で何とか見えてほしいな、と思って朝7時に家を出ました。計算では11時半頃には着くはずが、途中混んでいて着いたのは1時半頃。何とか間に合いましたが、空は予報どおり薄曇り。「ダメかも・・・」と心配しましたが、薄雲も本当に極薄の薄雲で、3分間の天体ショー、存分に楽しむことができました。今回は、前回の反省で、写真を撮ることになりすぎないで、天を見上げて、自分の目で日食を見て、自分の肌で空気を感じることができました。

さっきまで直接見ることができなかった太陽が黒くなり、周りに明るくコロナが広がっています。

空全体が薄暗くなり、夕暮れのよう。そして、3分の後半、その黒い太陽の右下の方から赤い炎が漏れてきているようでした。

そして、だんだん右下の方が明るくなってきて、キラッとダイヤモンドリングが現れて、すぐにまた明るい太陽に。

ああ、こうやって書きながらも、あの感じ、あの空気は言葉ではうまく表せないなあと思います。

ちょっと引いて考えてみると、太陽の大きさは月の400倍。その太陽がほぼぴったり月に隠されるというのは、地球からの距離が太陽は月の400倍だから。

太陽を直径40センチのビーチボールの大きさにすると・・・

地球:直径約4ミリのご飯粒くらい。
月:直径1ミリのゴマ粒くらい。
地球と月の距離:約10センチ。

ですから、4ミリのご飯粒の周りに10センチ離れて1ミリのゴマ粒が回っている、それが地球と月の関係。そして、40センチの太陽が地球からどれくらい離れているかというと、2メートルとか、5メートルとかではなく、なんと40メートル。

→今回の日食:目の前10センチのところにある1ミリのゴマ粒が、40メートル離れた40センチのビーチボールをぴったり隠した、ということ・・・すごいと思いませんか!

 でもこの太陽とか地球とかは宇宙の中ではホンの片隅の星。この宇宙を造られた神様が、この小さな地球に生きている、ホンの小さな存在である私たちに目を留めてくださっている、日食も経験できるようにして、神さまの素晴らしさを教えようとしておられる。これはなんとすごいことではないでしょうか。

「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」

詩篇 19篇1節

日本の皆既日食11年後です。是非、皆さん楽しみにしていてください。その他にも2年後のスペイン、3年後のエジプト、4年後のオーストラリアと、いろんなチャンスがあります。是非ご検討ください。

「想像を超えた神様のご計画」

お証の機会に感謝します。

私は、昨年5月に組織改編によるリストラの為、18年間勤めた会社を退職することになりました。ある朝オフィスで働いている時に、突然上司から会議室へ呼び出され、あなたのポジションを無くすことになったと通告されました。そこからは、自分のデスクに戻ることも許されず、終わりのないバケーションに突入する事態となりました。

組織を司る部署に所属し、会社の方向性も熟知していましたので、それが自分に起こり得ることも承知していましたが、実際にそれを経験すると、かなりの衝撃でした。

この話を聞いた、教会のHさんは、『神様のされることは、ベターかベストしかないからね。』と言ってくれましたし、一緒にスモールグループ(聖書の分かち合いと祈りの時)をやっているKさんは、『神様がすることはベストしかないよ。』と言ってくれました。 それぞれの励ましを聞きながら、本当に心からそう思える日が来たらいいな、果たして来るだろうかと、ただ思うばかりでした。 また急に時間が出来た為、一体どうしてこのようなことになったのだろうかと考え始めました。

今後、再就職して新しい会社に行く場合、ほぼ一年は纏まった休暇を取れなくなると思い、5月後半には息子と一緒に里帰りをすることにしました。その結果COVID以来、久しぶりに日本の家族に会うことが出来、少し前に帰国されたNTさんや、NSさん・Kさんご夫妻にもお会いしました。

日本の母は4年ほど前から認知症患者用施設に入居していますが、前回会った時と比べて、だいぶ足腰が弱っていました。 また私と自分の妹の名前を混乱して呼んだりし、母に残された時間が多くないことを感じました。 母に早くイエス様の救いを受け入れてもらい、天国の切符を受け取ってもらわないとと焦る思いで、面会に行った時、母と二人だけで話をしたいと施設にお願いし、その時間を作っていただきました。

母に、イエス様が私たちの罪の為に十字架で死んだこと、イエス様が墓に葬むられて、三日目によみがえったこと、このことを信じるものは神様の子として、死んだあとも天国へ行って、永遠の命がもらえる。お母さんもイエス様を信じようね、と手を握って話ました。 それを聞き、母は、それはありがたいね、と応答しました。そう、だから一緒にイエス様を信じるお祈りをしよう、私は祈りを導き、イエス様、私たちの罪を赦す為に死んでくれて有難うございます。お母さんはイエス様を救い主として、感謝して受け入れます。 神様のこどもとして、これからの歩みもイエス様が助けて下さい。アーメン。母もアーメンと応答しました。 簡単でつたない信仰告白のお祈りでしたが、イエス様が聞いて下さったと信じます。

もっと若く、頭がしっかりしていた時は、教会に連れて行っても、説教の時間に居眠りをしているような母でしたが、今は疑問を呈する力もなく、福音を受け入れることが出来る柔らかい心になっていました。 私は、この為にこの時期里帰りすることが出来たのだと思い、心から神様に感謝しました。

一方で、日本から戻った後は、弁護士を通じて、会社と退職条件の交渉を行う必要があり、それを考えるだけで気が重く、以前のように心から里帰りを楽しむことは出来ませんでした。

こちらに戻ってからは、経済面以上に、周りの人たちに別れを告げる機会もなく、職場を去ったことからくる心痛や、これからどうすれば良いのかという漠然とした不安が残りました。 時差ぼけの時期が過ぎても、なかなか寝付けず、不眠症となり、体重は急激に落ち、いつも疲れて体調や気分が悪く、何もしたくない時が長く続きました。

毎週持っているスモールグループでは、AさんやKさんが常に励ましのお祈りをしてくれました。一緒にNY礼拝を捧げているYさんや、以前教会に来ていたMさんやFさんなどが家に来てくれて、交わりや祈りを通して励ましを与えてくれました。MHさんも、私が不眠症で悩んでいると聞き、カウンセリングをしてくれました。本当に神様は必要な時に、必要な祈り手と助け人を与えて下さるお方です。

人の道は主の目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を配っておられる。(箴言5:21) という聖書の言葉をいつもデスクの前に置いていました。 私の知らないうちに神様が心を砕いて下さっている、このことを思うたびに涙が出てきました。

体調不良が続く中、求職活動はとても難しいように思えました。 また以前の職場や、他で経験した様々なことから、私は強い年齢コンプレックスとも戦っていました。 神様は必ず必要を満たして下さるし、神様の方法でことを為して、ご栄光を現わして下さると、スモールグループで励ましてもらっていましたし、私自身もそう信じていましたが、恐れを取り除くことが難しかった事実を告白せずにはいられません。

夏が終わるころには、何とか就活を再開し、いくつかの会社に面接へ行きました。 その結果、半年の失業保険給付が終わろうとする10月の終わりに、神様はある会計事務所とそのクライアント企業での仕事を与えて下さいました。 ただ、その時も面接や、仕事の初日に雇用主や人々に年齢を知られることを恐れていました。

再就職先では、2つの会社を掛け持ちしながら、フルタイムで働く条件で入社しました。最初は大変で、夜も週末も独学での学びを続けました。やがて次第に慣れてくると、仕事が楽しくなっていき、ここで数年働いてリタイヤしても良いかもと思うようになりました。 ところが、入社して1か月半ほど経った頃、突然勤務時間を40時間から35時間にして欲しいと言われました。 それを承諾しましたが、その後も徐々に業務量が減っていき、1月に入ってからは、翌日仕事があるかどうか分からないような状況になりました。SGでも、明日仕事があるように祈って下さい、というお祈りをお願いするようになりました。 しかし、状況が改善することはなく、そこで働き続けることは困難に思えました。

あなたは私の報酬を何度も変えました、とヤコブが叔父のラバンに言った言葉が頭に浮かび、神様に叫びました。あなたはこの状況をご覧になっていますね。神様、何とかしてください。私が今までやってきたことを活かせる別の機会を与えて下さい、と私は神様に泣いて叫んで祈りました。

そして、その直後のことです。確か翌日だったと思いますが、就職サイトIndeedでNew Jerseyにある会社のポジションを見つけました。 ある日系のJob Agencyが掲載していたもので、Just Postedとありました。長年勤めていた以前の会社の同業他社で、その内容を見て心に感じるものがあり、すぐに応募しました。

しかし、先方からは何の連絡もありませんでした。 約一週間して、そのAgentから漸く連絡がありましたが、なんと私が応募したポジションではなく、マンハッタンでの別のポジションに興味はないかとの問い合わせでした。 私はその会社への応募もお願いしつつ、その前週にIndeed経由応募したNJのポジションがあることを先方に伝えました。 その方は、NJでの仕事は12月から出ており、もうクローズになっていると思う、でもまだ履歴書を受けてもらえるか聞いてみると言って、その会社にも私の履歴書を送ってくれました。

その結果、2月初めにはこれら2つの会社に面接に行くことになりました。 勤務していた会計事務所での仕事がスローであった為、面接準備や祈りに十分時間を取ることが出来ました。

後日私が入社することになったNJの会社では、面接官の方が実家で不幸があり帰国していた為、採用活動がひと時中断されていた、その間に私の履歴書が届き、タイミング的には良かったと言って下さいました。 ただその面接で受けた印象は、可もなく不可もなくといった感じでした。 一方、もう一つのマンハッタンの会社では、第一面接の時より、是非来て欲しいという雰囲気が漂っていて、こちらに決まるのではないかという感じがしました。

しかし、感謝なことにその翌週には両方の会社からオファーをいただき、どちらかを選ばないといけないという状況になりました。 条件的にはほぼ同じでしたが、祈りの中で、安き道を選ぶのではなく、狭い門から入りなさい、というみ言葉が心に響きました。 通勤に片道70分、コーポレート業務全般を総括する相当チャレンジングなポジションでしたが、こちらの会社に行く決断をしました。 神様が安きなところでsettleするのではなく、更にチャレンジして人として成長するように促しているように思えたからです。

こういった経緯で、2月後半からJersey Cityにある会社に再々就職することになりました。前任者が2月末日で退職する為、引継ぎは4日しかありませんでしたが、親切な方が備えられており、出来る限り教えて下さいました。 これも祈ってきた結果です。 それから約二か月経った現在も、分からないことばかりで、仕事をこなす為の知恵が与えられるよう、助け人が備えられるようにと祈らない日はありません。

人生を歩んでいく中で、どこかであなたはもう要らないと言われることがあるかもしれません。 年齢を重ね、人の目には、また常識的にも可能性がないと思える状況に遭遇するかもしれません。 でも神様は常に憐みを注いて下さっていて、主のみ名を呼び求めるものに対して、不可能なことは何ひとつない神様の方法を以って、私にも憐みを示して下さいました。

最近、更に神様から語られたことがありました。『私が与えてきたものが、私より大切なものになっていないか? あなた自身のすべてを私に捧げなさい。』と。 神様が与えて下さった仕事が偶像にならないようにと悔い改めて、握っていた手を神様の前で開きました。神様が与えて下さっているもの、私自身の命、時間、信念、仕事、その他多くのものを神様の前にお捧げする祈りをしました。その時に心にすっと平安が与えられました。

わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである。あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。 (へブル12:5-7

2024年春のレント集会において、ここに書いた内容でお証をしました。 後日に至っても、証のビデオを見ました、と励ましのご連絡をいくつかいただきました。 これを通しても、証をするものが一番の恵みを受けることを今回も経験させていただきました。

感謝しつつ、すべてのご栄光を主にお返しします。

<集会案内>「礼拝」(2024年5月)

「皆さん、こんにちは!」

 私たちの教会の礼拝は、まず、この「こんにちは!」の挨拶と教会のニュースで始まります。それはどうしてかというと、私たちが一人一人個人的に神さまにお祈りすることも大切ですが、それと共に、一緒に集まって礼拝することが大切だと思うからです。

 聖書の中にはこのような言葉があります。

「いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」(ヨハネの手紙 第一4章12節)

 神さまは目に見えないでしょ。神さまがいるっていうけど、見えないじゃん。でも、私たちが互いのことを大切にして、祈り合い、励ましていくときに、神様がそこにいてくださるんだよ!というのです。ですから、神さまが教会堂にいて、そこで一人一人バラバラに礼拝をするのではなく、素敵なステンドグラスがあるから、そこに向かってお祈りするのでもないのです。私たちが一緒に集まるところに、そして互いのことを心にかけて、一緒に礼拝をささげるときに、本当の礼拝があるのです。ですから、私たちは最初に「こんにちは!」と挨拶から始めて、教会の中のニュースをアナウンスして、礼拝をスタートするのです。

 そして、讃美歌。私たちはここ数十年の間に作られたノリのいい現代の歌も、歴史の中で歌い継がれてきた伝統的な讃美歌も、いろいろ歌います。大切なのは、心から神さまの素晴らしさを歌うこと、神さまの大きさ、愛と力に感謝して歌うことです。伝統的な讃美歌の中には「この歌、どこかで聞いたことがある!」「幼稚園の時に歌った!」みたいな曲もあるかもしれません。

 それから、祈り。祈りは、うれしいことも、泣きたいことも、何でも心にあることを神さまにお話すること。個人的に心の中で祈る時もありますが、誰かが代表して祈り、みんなでそこに心を合わせる時もあります。でも、心配しないでください。何の予告もなしに「あなた、みんなを代表して祈ってください」みたいな指名はしませんから。

 そして、聖書。「神からのラブレター」と言われる聖書の言葉を読んで、牧師がそこから説き明かし、現代に生きる私たちへのメッセージを語ります。だいたい30-40分くらい。毎月第2週は最初の10分くらい子どもたちのためにもお話します。コロナ禍でのリモートの時に始まった「バイブルおばさん」シリーズ、今も続いています。大人の方々の中にも「自分にはこれくらいがちょうどいい」という声も・・・。

  献金。神さまが与えてくださった素晴らしいことに感謝をして、クリスチャンは自分の人生をまるごと神さまにささげていく、その一つの表れとして、与えられたものの中から神さまに献金をします。これは入場料や会費ではありませんので、初めての方や、クリスチャンではない方はご心配なく。

 そして、1時間15-30分の礼拝の最後に「祝祷」と言われる祈りを牧師がささげます。これは、ここから出て行く時に、神さまが共に行って、守り、祝福を与えてくださるようにという派遣の祈りです。私たちはここで力をいただいて一週間の歩みに出ていくのです。

 いろいろ詳しく礼拝の中でなされていることの一つ一つの意味を書いてきましたが、礼拝は、目に見えない神様の前に、皆で一緒に出るとき。是非、一度お出かけください。私たちは、初めての方、クリスチャンでない方々も大歓迎です。百聞は一見にしかず、是非、一度私たちの教会の礼拝にお出かけください。