「ハジマリニ カシコイモノ ゴザル。」

「ハジマリニ カシコイモノ ゴザル。コノ カシコイモノ ゴクラクトトモニ ゴザル。」

何だ思われるかもしれませんが、れっきとした「御言葉」です。ただし、口語訳でも新共同訳でもなく、江戸時代の抄訳による、ヨハネによる福音書の有名な冒頭部分です。

イエスの先在性は「賢いもの」でいいとしても、神を「極楽」としていますが、私たちの先祖は、まるで仏教や神道の延長のようにキリスト教もとらえていたようです。そこには、現世利益をもたらす宗教としての期待が感じられますし、日本的な多神信仰の中にキリスト教も組み込まれて信仰されていたのでしょう。

私は幼少からこのような日本的な風習に親しみつつも、「神様」という漠然とした存在は常に恐ろしいものでした。極楽どころではなかったことは確かです。

二十歳過ぎ位まで、私は劣等感や罪悪感の塊でした。自己嫌悪を振りまいて同情を買うようですが、とにかく少年時代は、自分の容貌の醜さや垢抜けない言動を常に気にしていた毎日だった印象が第一です。いじめも受けましたし、それで登校拒否もやったり、逆に開き直って無理やり面白い人間になって笑わせようとしたり。よくある、典型的な屈折気味な人間です。

ヴァージニアの大学で大量殺人をやったあの学生は、自己顕示欲を持ちつつ内向的で傷つきやすいという自己矛盾を他人の責任に帰しましたが、私は大抵の場合「自分が悪いんだ」とか「神様の罰なんだ」と自分の犯した罪に関連を見出す傾向がありました。受洗前の「神様」は、仏教でもキリスト教でも何でも良かったわけです。早くに死んだ祖母の時もありました。いずれにせよ、何か良くないことが起こると、強引に自分の過去にやった悪いことと結び付けて、このせいなんだと信じ込む癖があったのです。ですから、「神様」とは罰を与える怖い存在というのが原点で、大人になってからも引き継いでいます。

そんな仏教とキリスト教を混ぜたような宗教観を持ち合わせていた私ですが、中学はプロテスタント系の学校に入り、毎朝礼拝をして、聖書も少し学びました。実を言うと、志望校に入れずに滑り止めで入った学校ですが、それが今考えると良かったのです。しっかり導かれていました。

そして、その時に原罪というものを知り衝撃を受けましたし、ふと何気なく読んだ「ヨブ記」に何故か特に共鳴するものがありました。聖書の授業は道徳のような内容で、教理はあまり教えられませんでしたから、訳が分からずに読んでいるのですが、神を畏れるヨブがいわれ無き苦難を受け、その原因は最後まで示されず、しかし、終わりに神と出会うことで唐突に解決されてしまいます。

最後の部分「神と出会い唐突に解決」は十数年後まで待たなくてはならないわけですが、私は当時、「もしかしたらこの人が俺を罰しているのか」と感じて恐かったことがありました。恐ろしくつまらなかった別の普通の高校を卒業してアメリカに来たわけですが、私のこの宗教的な感覚とキリスト教との接点は、ずっと心の中に潜んでいました。

さて、ここからが実際に洗礼につながるお話になります。

私は、アメリカに来たのはワシントンDCで政治を学ぶためでしたが、2年生の頃から音楽もやりはじめました。小さい頃は家庭環境から音楽にどっぷり漬かっていたのですが、中学高校は勉強優先の方針でやや音楽から離れていました。しかし、音楽の勉強をやり始めると、それが面白くて仕方ありませんでした。

勉強が分かって、成績が良いからというわけでなく、周りが褒めてくれるから、受け入れてくれるからです。自分の存在が初めて有意義に感じるようになって、本当に嬉しかったのです。それから、歌を作ってライブをしたり、自分の自作の歌でCDアルバムを録音して販売したり、夢中になってやりました。少しずつ劣等感や自信の無さも和らいでいって、彼女もでき、女性とも親しく接せられるようになりました。「異性デビュー」が遅いと調子に乗るものです。

DCでの大学時代は辛いこともありましたが、ピアノや歌に夢中で概して幸せでした。しかし、音楽家になることを決心して、飛躍のために卒業後ニューヨークへ移ってからが苦難の連続となりました。飛躍どころか、度重なるの自信喪失との闘いが待っていたわけです。

まず、ピアニストとしては食べていけないのを悟りました。大事な時期に訓練をしていませんから仕方ありませんが、「井の中の蛙大海を知らず」だったわけです。情けない話ですが、ジュリアードでピアノの生徒の余りの多さに怖気づいて、あわてて希望者の少ないのを探して面接を受けたのが、指揮と作曲のクラスで、最終的に指揮に落ち着いたというのが、私が指揮を始めた直接のきっかけです。

しばらくして、マネス音楽院の指揮科に入り、音楽家としての大学レベルの基礎を3年間固めることに費やしました。経験を積むために合唱指導を始めたのも同じ時期です。人はよく「夢を持て」「個性が大切だ」と力説しますが、真剣に自分の夢と個性と向き合う辛さも知らねばなりません。指揮では何十人ものオーケストラ団員(それは友人やライバル、そして、先輩音楽家の集まりです)の前で恥をかきながら勉強します。その度に自分の気持ちを処理するのに必死でした。人前で弱みを見せるのは指揮者ではあまり褒められたことではありませんし、特にアメリカでは自信をアピールするのが大切です。また、日系合唱団の指導では、自分の目指す音楽を妨げる日本的なしがらみに時として悩みました。

今も大して変わらないのですが、思い起こすと、私生活に関しての私はお恥ずかしい限りでした。自分のドロドロした感情やストレスを紛らわせるために、彼女や少数の親友に甘えて依存していました。普段の人前での私しか知らない人が、音楽指導する私を見て大きな違いにビックリすることがありますが、とても近い人といる時は音楽指導に近く、自分を思いっきり出して際限がないくらいです。

とくに彼女に対して我がままに甘えていました。ごく短い期間に終わった時もあります。「結婚」と言われて怖気づいて一方的に別れたこともありました。プライベートを人に噂されるのが恐くて、あまり外にもデートに連れていってあげたりしませんでしたし、自分のスケジュールが第一でした。そして、上記のように自分の気持ちが一杯一杯のとき、過度の快楽で忘れさせていました。

指揮者として身を立てようと思わなくても、このような状態はいずれ矛盾が噴き出してきます。それが2006年、つまり去年でした。

発端は、春に、大学の次のステップ、大学院指揮科の入学試験にことごとく失敗したことからです。私は失敗を恐れますし劣等感が嫌なので、物事は慎重に進めていく性格です。ですから、失敗らしい失敗は経験したことがありませんでした。しかも、指揮としても大勢の友達の前で幼稚なミスをやったり、ある学校の試験では教授に酷くけなされたりもして、ショックどころではなく、ノイローゼにかかりました。

気付くと線路とプラットホームのギリギリの場所で電車を待っていたり、夜は体中汗だくで起きているのか寝ているのか分からない状態でじっと何か呟いていました。その時に本当に好きな女性がいたのですが、一度だけ電話がかかってこなかっただけですぐさま絶交の手紙を送りました。音楽はもう諦めて就職しなければという強迫観念じみたもので突飛な行動に走ったりもしました。

一旦、通院や周りの温かい愛情で元気を取り戻したのですが、自分の内面から変革した訳ではなく対症療法でしたから、秋から再び下降していきました。春ほどの危険な状態にはなりませんでしたが、それだけに自分についてネガティブに考えることが多くなりました。

私が自分の存在証明や辛いことを乗り越える時に、他人依存だったことが身をもって分かりました。両親にもただお金をもらっているだけで、何の恩返しが出来たか。「神様の罰」「自分が悪い」と考えて自分を責め続けても、根本的な解決にはならない時が多いですし、主体的な行動を起こさずに近い人に甘えて誤魔化すのですから、実は形を変えた勝手な自己愛だといえます。俺はなんて人間だろうと、嘆きました。けれど、どうすれば良いか分からず、ただ悩んで時間が過ぎていました。

そんなとき、ついに、合唱団でお世話になっていた大清水兄の深い深い慈愛によって、ヨブ記の最終部分「神に出会い唐突に解決する」という不合理を、身をもって体験するきっかけが与えられました。感謝祭の礼拝と愛餐会のお誘いを受けたのです。中学時代からのこともありましたし、何か嬉しい予感じみたものがありました。

そして、感謝祭の日、ニュージャージー日本語教会に足を運んだのです。

月報2007年7月号より

「恵みと真とにみちている神」

「胎児の両方の腎臓と心臓に問題があるかもしれない。」 妻・桂子の妊娠5ヶ月目の超音波検診で放射線科医に告げられた。その後の検診で、確かに心臓部に見えていた「影」は消えていった一方で、水腎症と思しき水腫は胎児の成長とともに増大していった。それでも2つある腎臓のうちの片方は腫れの程度がもう片方ほどでないため、排尿には辛うじて支障がないであろうから当面は様子を見る、ということであった。その後の経過によっては予定日前の帝王切開を余儀なくされる可能性もある・・・。

その日は、久しぶりの家族旅行に出発することになっていた。可愛い「赤ちゃん」の影像を見届けたその足で、海岸沿いのホテルへ直行する予定だった。思い切り真夏の海水浴を楽しみ、水族館やサファリにも行く予定だった。家族3人が共に楽しみにしていた一大ファミリーイベントがまさに始まろうとしていた、その矢先の出来事だった。目の前が暗くなった。でも、神様の目から見れば偶然に起こることなど無い。すべては神の御手により起こるべくして起こる筈である。いみじくも、今し方、妻が検診を受けている最中に待合室で以下の御言葉を読んだ。

ある日、空腹を覚えたイエスは無花果(いちじく)の木を覗き込むが、実をつけていないことを知り、その木を呪った。すると瞬く間にその無花果の木は枯れ果ててしまった。それを見た弟子たちはびっくりして、「どうして無花果の木は枯れたのか」とイエスに訊いた。彼は弟子たちに答え言った、「もしお前たちに信仰があって疑わないならば、この無花果に起こったと同じことをすることが出来るばかりか、山に向かい『立ち上がって海に飛び込め』と言っても、その通りに成る。信じて祈れば、求めるものは何でも頂くことが出来る(マタイ21:18-22)」と。

そうか、信じて祈れば、求めるものは何でも頂くことが出来るのか・・・。そのように神様が言って下さっているのであれば、もはや単純に且つ大胆に胎児の健康を願って神様に祈るしかないではないか。すぐに駐車場の車に戻り、3人で心を合わせて祈った。 「健康で何一つ欠けたところのない全き、美しき赤ちゃんを私たちにお与え下さい。」家族旅行どころではない一方で、旅行を取りやめて家に引き戻したところで、気が晴れる訳でもない。やはり予定どおり、夏休みの家族旅行を決行することにした。 いま振り返ると、やはり決行したのは正解だった。気分転換にもなったし、何と言っても真耶が大喜びだった。私たち夫婦もそれなりに楽しんだ。家族に明るい雰囲気が戻ってきた。

一週間足らずの家族旅行はあっという間に終り、また多忙な日常が再開した。それから2カ月ほど経過した頃のこと、救急治療室を舞台にしたテレビ番組「ER」を彷彿とさせる午後の忙しい職場で一人お茶を飲みながらほっと一息ついていたところ、聖霊から心温まる確証がぽっ、と与えられた。曰く「(祈っていた通りの)健康で欠けたところのない全き、美しき赤ちゃんを与えるから心配しなくてよい」と。喜びと共に涙が溢れてきた。瞬時に天を仰ぎ祈りを聞き入れてくれた神に感謝した。しばらくは嬉しさの余りぼう然とオフィスの天井を見つめていた。

帰宅して、職場で聖霊からの確証を得たことを妻に話したが、彼女は未だぴんときた様子がなかった。無理もないことかもしれない。こういう経験はその場にいないと良く分からないものだからである。とはいえ、あれだけのメッセージを私にはっきりと語ってくれた神様が、約束を破る筈はない。御言葉どおり、求めるものは何でも頂くことが出来る、と信じて祈ったのだから、求めるものが与えられるのは至極聖書的なのであろう。そう考え、それまでにしていた懇願の祈りをやめ、それ以降は既に祈りを聞き入れて下さった神様に対する感謝と賛美を捧げる祈りに変えた。自分ではとても自然で当たり前なことと思えた。

しかし、その後も予定日の1週間前まで超音波検診は行われたが、水腫は予定日に向かって大きくなっていく一方だった。だから心配は続いた。でもその間、主が確証を与えてくれたことが嬉しくて、不安は私の心を支配しなかった。イエス・キリストは命である。死の状態から生の状態に再び戻ることが出来る御方である。不治の病を患う無数の人々を癒す御方である。胎児の腎臓如きを癒せない筈はない。そう信じ切っていた。

予定日より2日早く、胎児は元気に生まれた。生後すぐの検診では、小児泌尿器科医が超音波検診で腎臓に異常を見出すことが出来ず「本当に水腎症だったのか」と妻が訊かれたほどだった。1ヶ月後の検診では、腎臓に僅かながら水腫が認められたが、その時点での投薬は不要との判断から、経過観察だけを続けることになった。その後の経過はとても順調で、今日に至るまで排尿等に異常は見られない。小児科病院で見せられた新生児の成長グラフによると、誕生直後は下から約5%のスモールベービーだったが、4ヶ月経った今では身長・体重共に上位95%超のヒュージベービーに育った。先週、教会で献児式をもって頂いた。親ばかながら、「健康で欠けたところのない全き、美しき赤ちゃん」が与えられたことを改めて実感し、感慨深かった。神の御業を賛美したい。

最後に、教会の多くの方々の御祈りの「ゆりかご」の中に生まれてきたEmmaは本当に恵まれている。この場を借りて、神の癒しの御業を信じて御祈り下さった皆様方に深く感謝を申し上げる次第である。因みにEmmaという名前は当時4歳の長女・真耶(まや)が付けてくれたが、それに当てた漢字は「恵みと真とに満ちていた(ヨハネ1:14)」との御言葉から引用した。この「まこと」とは、「神の実体」との意味だそうである。神の実体とはイエスを死から復活させ、また彼を通して不治の病を患う無数の人々を癒した「命」そのものなのではないか、とつくづく感じさせられる今日この頃である。思えば、投獄された使徒たちに主の天使が現われて「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言った(使徒5:20)。神は命であられる。幼い娘の癒しを証しするという恵みにあずかったいま、この命のメッセージを伝える者になりたいものだと切に願わされる。

月報2007年5月号より

「救いの証」

イエス様に出会う前の私は、一言で言うと“わがまま”。家族からいつもそう言われて育ちました。大人になってからは、自分は自分だけの力で生きていること、今の自分があるのは自分の努力や能力など、自分の力によるもの、と考え、それをとても誇りに思って生きていました。自分が悪くても人に謝ったことなどただの一度も無く、人を許すとか許されるとかいう概念すら知りませんでした。けれどその一方で私は随分長い間主を求めていました。

周りにはクリスチャンの知り合いも、教会もないところで育ちましたが、神はきっといる、いつもそう思っていました。そして一人で祈っていました。‘どの神’に祈っているかもわからずに。それが、友人の勧めで、三浦綾子先生の‘塩狩峠’を読んで感動し、それがきっかけで先生の世界に完全にはまりました。そこで、自分の求めていた神を見出だしたからです。三浦先生はその著書のなかで、聖書の学び(一人でするのではなく、指導してくれる人のもとで)、と教会へ行くこと、を勧めていました。私は教会へ行って聖書の勉強をしたくなりました。でも一人暮らしをしていた東京でも、結婚して住んだロンドンでも、私にとって教会の敷居は高く、誘ってくれる人もいず、実際に行くことはできませんでした。
それが夫の転勤でしぶしぶ行った香港でその機会は与えられました。香港に移ってすぐに出来た友人が、‘英語のクラスに行ってみない?テキストに聖書を使っているんだけど“と家庭集会に誘ってくれたのです。”聖書”と聞いて私はすぐに参加することにしました。初めて行った家庭集会で、南部バプテスト教会の牧師夫妻に出会い、すぐに長年の友人のように打ち解け、その4日後には共に教会堂に座っていました。そして礼拝前のバイブルスタディーの後で牧師夫人に“神を信じますか?イエスに従いたいですか?“と聞かれ、”はい“と答えました。牧師夫人は涙を流して”あなたはもうクリスチャンです。“と言ってくれました。その1週間の間に私に起こったことは、いつ思い出しても夢のようです。そしてその6か月後、冬の野外プールでバプテスマを受けました。受洗の時、私の心は喜びに溢れていました。それまでの古い私は死に、再び生まれ変わったという喜びです。知り合いと言う知り合いに、受洗したことを伝えました。とにかく嬉しくて仕方がありませんでした。

ただただ喜んで受洗した私でしたが、私の人生はクリスチャンとなってから、いつも喜びに満ちていたかと言うと、そうではありませんでした。それどころか受洗後は特に、クリスチャンとなったことからくる悩みや苦しみを経験しました。今思うと、自分の行いによって、主の愛を得ようとしていたからでした。そんな私も、聖書の学び、祈り、礼拝、クリスチャンの兄弟姉妹との交わり、そして、私のために祈ってくださる方々によって、少しずつ変えられ、信仰が深まっていったように思います。以前は自分の人生は自分のもの、そして一人で生きている、と思って生きていたのが、主が私を生かしてくださる、ということに気づきました。私の人生は私だけのものではありません。人と争った時に素直に謝ること、許し、許されることの喜びもイエス様に出会っていなかったら知らないままだったでしょう。さらに素晴らしいことには、主は私に、試練を恵みに変えてくださることを教えて下さいました。また、その試練の時に、主は私とともに耐えてくださいます。弟が難病にかかり、いのちが危ぶまれた時、主は祈りの大切さを私に教えて下さいました。何度も子をなくし、その度に嘆き、悲しむだけだった私に、聖句、ヘブル人への手紙12章11節「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。」を通して、試練の後の大いなる恵み、そして、神様には、私のようなちっぽけなものには計り知れない主のご計画があることに気づかせてくださいました。私は悲しい時、主が泣いている私を背負って、もう止まってしまいたい私の人生という道を私のかわりに歩いて下さっている、と感じることがよくあります。主は厳しく、優しい方です。
ほとんど何もわからずに、ただ主を信じ、喜んでクリスチャンとなった私に、“あなたは何も知らないで、聖書もよく理解もせず洗礼を受けようとしている”、と忠告してくださった方もいました。本当にその通りだったのですが、あの時洗礼を受けたことは少しも後悔していません。私にとって、バプテスマは新しい人生のただのスタート地点に過ぎなかったからです。私のクリスチャンとしての歩みはそこから始まったのです。逆にそれが無かったら、今の私はいませんでした。洗礼を受けようか、もし迷っている方がいらっしゃったら、確信が持ててから、とか、聖書を完全に理解してから、などと言わず、とりあえず、受洗してみたら、後のことは主におまかせしましょう、と言いたい気持ちです。

最後に、昨年夏に、ようやく会員にさせていただきました。過去の日本人教会での経験から、‘日本人教会の会員’になることへの抵抗感があり、なかなか会員になることができませんでした。4年もの間、私のためだけでなく、私の家族の為にもお祈り下さり、色々なところで助けてくださり、待ち続けてくださったJCCNJの兄弟姉妹の皆様に心から感謝いたします。どうぞこれからも家族ともどもよろしくお願い致します。  主に感謝しつつ。

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あかし

アトランタからの夫の転勤により、9月よりNJに引っ越ししてきました。3歳になる長男と、3ヶ月の長女の母です。

信仰を持ったのは小学校6年生の時で、その時すでにクリスチャンであった両親と共に、結婚してアメリカに来るまで埼玉県の坂戸キリスト教会に通っていました。日本では「WINDS」(子供から青年まで30-40人からなる賛美のグループ)での奉仕に励んだ子供時代、青春時代でした。そしてその時の訓練により、「主に栄光を!」と賛美すること、主に仕えることを教えられました。

神様はいろいろな経験を通して様々なことを教えてくれました。

・ 病気のため、6回の入院により「自分の弱さと弱い時にこそ主が働かれること」
・ 失業することにより「主にある平安」を(後に新生宣教団に入社)。
・ 6年間の遠距離恋愛(日本とアメリカ)により、「祈りつつ主の時を待つ」こと。
・ 結婚してからは「夫に仕える」ことを。
・ 今回の妊娠中の転勤により「主にゆだねる」ことを。
・ そして今、子育てを通して「愛すること」を教えられています。

最近の小さな証をひとつ。自分の子供を愛するのは当たり前のことと言われるかも知れませんが、これがなかなかまたノ。第一コリント13章の「愛は寛容でありノ」で始まる箇所は有名ですが、この「寛容であり」のひとつをとってみても「うーん」と首を横にかしげてしまいます。私は子供が与えられるまで自分はかなり優しい性格、「寛容な人」だと思っていました。昔から教会でも子供と接する機会が多かったので、子供への接し方、愛し方をわかっているつもりでした。それがどうでしょう。自分の子供となるとどうにもうまくいきません。優しい母になりたいのに、特に上の子に対しては一日中イライラしている日があります。朝食から始まって、寝かしつけるまで、何かと気にさわるのです。2ファミリーの貸家で上に住む大家さんに気遣いながら、夕方頃には一日のいらいらがたまって、ジュースをこぼしただけでも「なにしてるの!」と大声で起こっていました。寛容とはかけ離れています。

そんな日々の繰り返しの中、ある御言葉が示されました。その日もなかなか夜寝付かずぐずっている長男と泣きやまないBABYにこっちまで泣きたくなり、「もうしらない、一人にして!」とバスルームの戸をバタンと閉めた時、「Be still and know that I am God.」と、閉めたドアにかけてあった御言葉が目にとまりました。「静まって私こそ主であることを知れ」(詩篇46:10)。フーと深呼吸をして心を静め短く祈りました。

「私にはできません。私は愛の足りないものです。どうか主の愛で満たしてください。その愛を持って子供を愛することを教えてください」と。

その後、ドアを開けて泣いている二人の子を抱きしめながら、こんなにも可愛い子供を与えられていることに改めて感謝したのでした。もちろんまったくイライラしなくなったわけではありませんが爆発しそうになったときは「Be still and know that I am God.」

子供たちが大人になるのが先か、私が寛容な母になるのが先か。どちらにしろ成長させてくださる主に感謝です。

月報2007年3月号より

「神様に造りかえられた喜びを伝える器に」

私は日本の小さな田舎の町で、無宗教、冠婚葬祭にだけ仏教をつかうような家庭で育ちました。私が神様と出会うきっかけとなったのは、3歳のとき。近所に引っ越してきたセブンスデーアドベンチスト(SDA)というキリスト教団の婦人伝道師のK夫人です。
自分たちの家を、家庭集会所とし、そこでは毎週礼拝が行われ、子供のための神様のお話もたくさんしてくださいました。子供が好きなK夫妻は、自宅を近所の子供たちのために開放し、誰でもいつでも遊びにこれるような環境を提供していました。テレビもトランプもおもちゃもない家でしたが、K夫妻の家は近所の子供たちの人気の場所でした。学校から帰ると多くの子供たちが、K婦人の家に行き、おやつをもらったり、紙芝居をみせてもらったり、オルガンにあわせて賛美歌を歌ったり。礼拝学校の教材を一緒に作ったり、家庭菜園をお手伝いしたり、お料理を一緒にしたり。K婦人の家は、私の家にはない暖かさや穏やさがありました。私はK婦人が大好きで、子供のいないK婦人も私を実の娘のように可愛がってくださいました。
小さいころは、そうは思っていなかったのですが、今考えると、私は、少し複雑な家庭環境の中で育ちました。両親はそれぞれ、とてもいい人なのですが、ふたりとも、親兄弟からひどい虐待を受け、愛のない環境で育ちました。お互いに不幸な家庭で育ったので、理想を持ち、いい家庭を築こうと一生懸命で、それは子供の私たちにも、とてもよく伝わってきました。でも、愛されたことのない人は、人をどのように愛していいのかわからないというのは、本当です。子供に対する接し方も、また、夫婦関係も、とてもぎこちないものでした。
妹たちのように、両親のいうことを素直にきければよかったのですが、私は生まれつき、桁外れのおてんばで、あばれんぼうでした。悪いことをしようとしてるつもりはないのですが、自分でも気がつかないうちに、結果的にそういうことになっているのです。今思うと、多動症かなにかの病気だったのかもしれません。とにかくスーパーアクティブで、落ち着きがなく、授業中はうわのそらで先生のいうことを聞いていないので、学校の忘れ物グラフでは、だんとつ一位。小学生の低学年のときは「どもり」もあり、最初の言葉が足踏みを何回も何回もしないとでてきません。学校の友達に笑われ、だんだん人前で話すことが好きではなくなってしまいました。学校では借りてきた猫のようにおとなしくすごし、その反動で、家に帰ると、とたんに元気になって、近所を走りまわるのです。
この生傷の絶えない近所のガキ大将は、母にとっては目の上のたんこぶ、頭痛の種でした。あちこちでいたずらをするので苦情が絶えないのです。親から愛されたことがない母にとって、こんな問題児を愛すことはどんなに大変だったでしょう。私がいたずらをするたびに叱られますが、言っただけではきかなかったのでしょう。時々押入れや倉庫に閉じ込められたことを覚えています。やっと出してもらっても、懲りずに大声で泣くので「うるさいから外で泣きなさい」と、また玄関のとびらを閉められました。
このようなことが起こるたびに、泣く泣く、いつも足が向かうのは、数軒先にあるK婦人の家でした。K婦人は、私がどんなに大きな声で泣いていても、いつでも両手を広げ「ここで好きなだけ泣きなさい」と、私を抱きしめてくださいました。これは、一度や二度のことではありません。いつも、いつもです。私が泣いていても、怒っていても、またK婦人がどんなに忙しくても、自分の手を休め、私を受け止めてくれました。
K婦人の愛と信仰に支えられ、15歳、私は神様を受け入れ、バプテスマを受けました。そして、その後、高校時代をSDAのキリスト教全寮制の学校ですごしました。その3年間の寮生活のあいだ、K婦人から毎日のように葉書が届きました。書かれているのは、日常のたわいもないことがほとんどなのですが、その文の最後に、必ず「あなたのことを、いつも祈っている。恵里ちゃんが、一番可愛い」と書かれていました。
その学校で、私は信仰に燃え、あんなに授業中、集中力がなかったのに、勉強が面白いと思うようになりました。何かに没頭することを覚え、一生懸命すれば、私にも何かができるという自信がつきました。内側から、自分自身が造りかえられていくような感じがしました。
高校3年生のとき、聖書にあるいろんな性格をとりあげ、クラスメートの誰がそれに近いか投票するという企画がありました。私はそのなかで「柔和な人」に選ばれ、びっくりしました。高校生活、毎日忙しく夢中で過ごしましたが、気がつくと、私を「暴れん坊」と呼ぶ人は、もういなくなっていました。
夏休み、冬休みと帰省で家に帰るたびに、両親が、私がみちがえるように変わったと、目を丸くし、驚いていたことを覚えています。中学時代は親への反抗がひどく、父は私が不良になるのではないかと、本当に心配していたようです。

SDAと今の教会では、神様、イエス様と私との関係、神様の愛、悔い改め、十字架の許し、そのようなキリスト教の中心的な教えの部分については、なにも違いを感じることはありません。でも、SDAは旧約聖書にもとづいた生活上の規則がたくさんあり、その部分に、私は、高校卒業後から疑問を持ち始め、葛藤が始まりました。その後、色々なことがありましたが、神様は、様々な出来事を通し、サンフランシスコにあるフリーメソジスト派の榊原先生の教会に導いてくださいました。そしてまた、その先生の紹介で、この教会に来る事ができました。
その榊原先生の教会では、SDAの中にあったような様々な規則はなく、自由に神様を信仰できる教会で、こんな教会があったのかとびっくりしました。その開放感からか、それまでクリスチャンである自分を隠す傾向にあったのですが、堂々と「私は教会に行っている」と、言えるようになりました。礼拝のメッセージが、とても素直に心に響き、賛美をしていると涙があふれました。礼拝に出席するたびに、漠然と悩んでいたこと、どうしたらいいか迷っていたことへの答えが与えられました。教会に義務感で行っていた私が、教会に行きたくてしかたない自分に変えられました。

様々な理由から離れることにしたSDAの教会ですが、私にとっては、信仰の土台を築くことのできたふるさとのようなところで、忘れることはできません。3歳のとき、あの婦人伝道師K婦人に出会い、神様が私に働きかけてくださっていなければ、またその後の導きがなければ、今の私はなかったと思うからです。当たり前のように受けてきたK婦人の愛ですが、今、自分がその年になって、よその子をあのように愛すことができるかと考えると、本当によくしてくださったと、感謝の気持ちで一杯になります。
錦織先生が、私に示してくださった聖句があります。ガラテヤ人への手紙、3章の23節から26節です。「しかし、信仰が現れる前には、私たちは律法の下で監視されており、やがて掲示される信仰の時まで閉じ込められていた。このようにして律法は、信仰によって義とされるために、私たちをキリストに連れて行く養育係となったのである。しかし、いったん信仰が現れた以上、私たちは、もはや養育係のもとにはいない。あなたがたはみな、キリストイエスにある信仰によって、神の子なのである。」 先生ありがとうございます。私は今、まさにこのような心境です。

この年末年始に名古屋の実家に帰り、5年ぶりくらいに両親兄弟の集まりに参加しました。久しぶりで懐かしく、楽しいときでした。でも、それと同時に、自分がどんな家庭環境で育ったのか、改めて実感する機会となり、胸が痛くなりました。それは、実家の家族が、精神的にとても病んでいるように見えたからです。彼らにとってはそれが当たり前の状態なので、それを問題とは思っていません。でも「彼らが信仰を持ち、神様のある家族関係になれたら、どんなに心穏やかに暮らせるだろう」と強く思いました。
あんなにおてんばで落ち着きのなかった私を、変えてくださった神様ですから、熱心に祈れば、きっと私の家族をも救ってくださるでしょう。でも、私の実家は、K婦人がもう数十年ごしに働きかけても、誰も「神様の話に全く耳を傾けなかったつわもの」たちです。
家族のことを祈り始めて気づいたことがあります。自分が忘却のかなたにおいて忘れてしまった方が楽だと思うほどの人のことを祈ると、いろんな過去の出来事や感情がよみがえってくるということ。そして、嫌な気持ちが多くなってくると、真剣に祈る気持ちが弱くなっていくということです。自分の好きな人のために祈ることは比較的簡単ですが、そうでない人のために祈ることは、未熟な私にとっては簡単なことではありません。
この祈りの経験を通して私は、問題は母よりも私の方にあると気づかされました。母が聖霊によって変えられることを祈るよりも前に、まず私自身がもっと信仰的に成長し、この気持ちを克服しなければ、祈ることすらできません。
私は、今まで自称「隠れクリスチャン」で、伝道なんて、とてもできないと思っていました。でも今は、神様によって造りかえられた喜びと信仰による心の平和を私のまわりの人に伝える器になれたらと、心から思うようになりました。
すばらしい信仰の先輩がたくさんいるNJ教会に導かれ、神様のみわざに感謝します。少しでも多くのことを学びたいです。どうぞ、よろしくお願いします。

月報2007年2月号より

「20年間に13回」

これは、私と私の家族が過去20年間に引越しした回数です。今でこそ使われる事がなくなった言葉ですが、私は典型的なメ企業戦士モでした。営業利益率50%の、世間では超優良企業と呼ばれるメーカーで、より大きな責任と権限の持てるポジションに着く事、上司から高い評価を受ける事は私が仕事をする原動力でした。同年代の友人より倍以上の収入を得ている事は誇りでもあり、ハードな仕事も一度も辛いと感じた事はありませんでした。子供達がまだ幼い頃は、彼らが朝起きる前に家を出て、夜は彼らが寝てから帰宅しますので、平日は子供たちと顔を合わせる事もなく、まして平日に夕食を家族で共にする事は絶対にあり得ない様な生活でした。

会社の業容が急拡大するのと合わせて3年に一度位の頻度で転勤があり、日本で数回転勤した後、米国へ初めての海外駐在に来たのが1998年でした。海外でも仕事のペースは相変わらずハードで、妻は隣人からメお宅のご主人は何の仕事をしてるの?モと聞かれる程でした。米国での滞在2年目に生まれて初めて結婚式以外で教会に家族と一緒に行きました。その教会がJCCNJでした。それまでは多くの日本人と同様に特定の宗教を信仰することもなく、むしろどんな宗教に対してもNegativeな印象、思い出しかありませんでした。高校時代のガールフレンドから成人後メ選挙の時はXX党の候補に投票して、、モと電話が掛かって来た時はなぜかとても嫌な気分になり、たまたま会った友人のXX学会の人達は弱い人の集まり、他人の批判ばかりしてる人々にしか見えませんでした。

初めて米国で礼拝に行った時もメ献金モと言う言葉を聞いた瞬間に、献金の意味も良く知らず、やけに冷めた気持ちになり、メ何や やっぱり最後はお金かモと一人でつぶやいていました。その後も何度か礼拝に行きましたが、その時は特に自分自身に変化が訪れる事はありませんでした。ただそこに集まっている方々が皆さんとても親切で明るく、日本のXX学会の人達とは全く違った印象を受けた事は憶えています。その最初に行った礼拝で後藤兄を紹介頂いたのですが、その出会いがその後の人生を大きく変えるとは夢にも思いませんでした。何となく将来日本へ帰国後、もう一度NJに戻って仕事をする様な予感めいた妙な感覚になったのも憶えています。その予感は日常的に常に意識するような大きなものではなかったのですが、確実に心に刻み込まれて行った様に今思い返すことが出来ます。

米国駐在が4年目に入る頃(01年7月)、英国への転勤が決まり教会の皆さんにも見送られNJを後にし、ロンドンから約1時間北の郊外へ引っ越しして、少しして家の近くの日本人教会に毎週家族で礼拝に行くようになりました。1年を過ぎる頃から牧師先生の自宅で礼拝前にメ聖書の学びモをする様になり、私も途中から一緒に学ぶ様になりましたが、その頃は家で自ら聖書を開く事は一度もなかった様に記憶しています。

英国での駐在が3年目になろうとする頃(03年3月)、また転勤が決まり今度はタイに行く事になり、私はいつもの様に家族を英国に残し一足先にタイへ赴任しました。時を同じくして聖書の学びを進めていた妻からメ洗礼モを受けることを考えていると聞きましたが、余り実感がなく他人事の様でした。

ところが一人で一足先に来たタイでは、なぜかまず教会を見つける必要があると強く感じ、すぐに日本人教会を見つけ、毎週欠かさず礼拝に行くようになりました。自ら進んで読んだ事もなかった聖書も、時間を見つけては読むようになり、メ4つの福音書て同じイエス様の生涯を書いてるねんな!モとか今から考えると常識的なことに気付いては、喜んで家内と電話で話した事を憶えています。タイでの単身赴任中に英国残っていた家内と上2人の息子が洗礼を受ける事が決まり、その事を聞いた瞬間に自分もすぐに洗礼を受ける事を確信しました。牧師先生と礼拝後欠かさず、聖書の学びと洗礼準備を進めるにつれて、神様や聖書についての理解が深まると同時に、自分の罪を強く意識させられる様になりました。

その頃心に染み渡る様に自分の中に入ってきた聖書の御言葉がありました。

メ夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会の為に御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。モ (エフェソ人への手紙5章25節)

自分は今まで何の為に生きていたのか、如何に自己中心的な人間であったか、妻や家族にどれだけの時間を使ってこれたのか 妻をどれだけ大切にし、愛してこれたのか等々が具体的な出来事と共に次々と思い出され家族、妻や息子達に対して申し訳ない気持ちで一杯になりました。

03 年7月に家族の到着を待ち兼ねた様に3男も一緒にタイで洗礼を受け(彼は英国で洗礼を受ける事も出来たのですが、パパが一人でタイで洗礼を受けると寂しいと思い待っていてくれました!)神の家族の一員になる事が出来ました。それからも神様からの働きかけがあり、このまま今の仕事を続けていて良いのか?という疑問が頭の中にもたげて来ました。考えれば考える程今のままではいけないと思う様になり、ある日家内に相談した所意外にもにあっさりと賛成してくれました。夏休みにタイからJoy Joy Campに参加しに行った家族に私も1週間遅れでNJに行き、その週の礼拝で後藤兄からメ転職を考えているの?モと話かけて頂き、(妻が後藤兄に事前にそれとなく話をしていました)それがきっかけで転職が決まり翌年の04年4月から現在勤めている会社に転職しました。日本での1年余りの勤務の後に希望していた米国にそれもNJに戻って来ました。予感が実現しました。

神様は人によりそれぞれ違った方法で、違ったタイミングで、時には弱く継続的に、時には強く瞬間的に私達に働きかけて来られます。私は妻と家族の為に信仰を持ちましたが人それぞれに神様様を受入れるきっかけは異なるかも知れません。信仰を持ってもあまり自己中心的で短気な性格は大きくは変わってはいませんが、腹を立てた時は神様にその事を告白し、素直に謝る事が出来る様になりました。また穏やかな生活を送れる様に、心に平安がある様に祈る様になりました。これからも神様はどの様にして私たちに働きかけて下さるのか、どの様に私たちを用いて頂けるか楽しみです。これからは時間を掛けてでも1人でも多くの人々に神様のすばらしさを知って貰えればと思います。

いつか妻が望むメ穏やかな性格の夫モになれる様に Amen

月報2007年1月号より

「弱さの中に現れる神様の力」

韓国のピアニスト、イ・ヒアさんを御存知ですか?
先月、家の近所にある韓国人教会でこのイ・ヒアさんのコンサートがありました。
指が左右2本ずつしかないのにピアニストということで、一体どうやってピアノを弾くのか不思議に思い、集わせていただきました。

会場で、イ・ヒアさんを始めて見た時、彼女は私がいる席より少し斜め前の方にお母さんと一緒に椅子にちょこんと座っていました。「あれ?子供なんだ・・」と思いましたが、コンサートが始まり、ステージに上がってい行く彼女の姿を見て、「あ!」と思わず息を呑みました。子供だったのではなく、脚がなかったのです。その背丈から小さな子供のように見えたのです。子供用のワンピースが21歳の彼女にはロングドレスになるのです。脚は、ももがほんの少しはえているだけで、足の指もないその部分に履いているスニーカーを脱いで、ピアノの椅子によじ登り、演奏が始まりました。モニターが上から鍵盤をスクリーンに大写しにしていますが、一体どのように指が動いて鍵盤の上を流れるているのか目にもとまらないほどです。演奏ももちろん素晴らしいのですが、なにより彼女の純粋な愛らしさに心が惹きつけられました。

イ・ヒアさんが生まれた時、周りの人は、こんな体では韓国では育てられないから外国へ送りなさいと勧めましたが、お母さんはヒアさんを見て、何もおかしい所は全然ない、と思われたそうです。二つに割れた指も、まるでチューリップのように可愛い!と思い、自ら韓国で育てる事にしたそうです。このお母さんの目は、きっと神様が私達をご覧になる時に思ってくださっている気持と同じなのだろうと思いました。

演奏が終わって、家に帰って購入したDVD__ヒアさんの生活の様子を記録した__を見てからも私は一日中考え込んでしまいました。今、私自身が抱えている問題など何でもないことであり、何とつまらない事に自分は悩み、振り回されているのだろうということに気がつかされました。が、それだけではありません。

沢山のものを持ってる私たちが、持たない人を見た時、
その生き方に感動し、心を打たれ、励まされる・・・・
ないものを通して、私たちは与えられる、と言う事実。
それは、勇気だったり、癒しだったり、悔い改めだったり・・・・
あるものを失った人が、または初めから持たない人が、
持っていても満たされない人々を満たしてくれる・・・
一体この事実は、何なんだろう・・ということです。

体にハンディを持つ人に対して、助けになりたい、役に立ちたいなどと考える自分が、
この事実の前に打ち砕かれます。

私は今年、念願の人に2人もお会いする機会が与えられました。お会いしたと言ってもコンサートに行けたとか、実際にお証を伺う事が出来たということですが、ひとりは、生まれつき両腕がなく、足にも重い障害がありながら、ゴスペル歌手として活躍されているレーナ・マリアさん、もうひとりは交通事故で全身が丸焦げになる大火傷をおいながらも、それを信仰によって乗り越えたイ・チソンさんです。会場でそのお姿を拝見しただけで心が打たれ、涙が出そうになりました。そして今回、イ・ヒアさんを初めて知ったのですが、やはり同じような印象を受けました。

私にとって人間の目から見たらネガティブにしか写らない事柄の中に、圧倒的なポジティブを見る時、想像を絶する逆境の中にあっても輝いている人たちを見る時、そこに人間の力を超越した何かがある、と思わずにいられません。それが、弱さの中に働かれる神様の力だと思います。神様は霊なので眼には見えませんが、神様が何かをされようと思う時、人を用いられます。神様に用いられたレーナマリアさん、イ・チソンさん、そしてイ・ヒアさん、彼らが持っているものは、失ったからこそ、見えたもの、知ったもの、初めからなかったからこそ、その弱さの中に現れた神様の完全な力です。それは、この世の基準では計り知れない恵みであり、それらで満たされている彼らを通して、神様は私たちひとりひとりを目的を持って神様の御計画によって作ってくださったということを教えてくれます。

私が苦しみの中で、なぜこんなことが起こるのだろうと考える時、この神様の御計画__きっと何か神様の意味があるのだろう、と思えることは幸いです。この世の価値観、基準だけに振り回されることがないことも幸いです。こうでなくては私の人生は意味がないなどと思っていたものから解放された時、神様の声が聞こえてくる事もあります。
イ・ヒアさんのお母さんが神様の基準でなく、この世の基準だけでヒアさんを育てたら、神様が用意していたギフトに気がつかなかったことでしょう。

最後にイ・ヒアさんの書いた詩をご紹介します。
実は、私自身、数年前から体に不調をきたし、出来なくなってしまったり、諦めなければならないものが沢山ありました。運動や大好きだった手先を使った趣味も何一つできなくなりました。体の痛み同様、精神的にも辛いことでしたが、(いつもお祈り下さり感謝です!)でもそこで、韓国語の勉強を始めました。おかげで今日、イ・ヒアさんの書いた韓国語の詩を訳す事が出来てとても嬉しいです。私もどうにもならない時、どうしてよいか分からない時、只その弱さを神様にゆだねてゆくことしかできません。でも弱さの中に働かれる神様が必ず最善を用意してくださることをこれからも信じてゆきます。イ・ヒアさん、頑張れ!

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10本の指がなくても 悲しくなったりしない。
残っている4本の指に感謝する時、私の心に光を下さった神様が、
10本の指があったら持つ事の出来ない喜びを
私に届けてくださった。

2本の脚がなくても、恨んだりしない。
わずかに残ったこのももに 靴を履いて、主に向かって踊りを踊る時、
この世を作られた神様が、私を世界に遣わし、
希望を語れるようにしてくださった。

外なる人は古くなるけれど、
内なる人は日ごと新しくなるのだから、
外見の理由によって、泣いたりしないで、
内なる人の命に喜びましょう。
神様は、そんな外見の理由で泣いたり、笑ったりしている人たちに
伝える主の言葉を、私に託してくださったのです。

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月報2006年12月号より

「罪深い人間の心さえも作り直して下さる神様」

最初にこの証しを書く機会が与えられたことに感謝いたします。

私は在日韓国人として生まれました。父は一般的な常識とはやや違う考えを持つ人間で、私たち子供をとても愛してはくれましたが、それは父に対する服従を前提とするものでした。「勉強でも何でも一番になれ」の父の教えに逆らわないように顔色をうかがいながら育った私は、結局自分だけを愛し、他人に興味を持たない独りよがりな人間になりました。何でも一番というなら、人を愛することにも長ければ良かったのですが、残念ながらそうはならず、この世で大切なのは私だけ、他人の痛みは完全に人ごと、自分の欲望・利益・悦楽が最優先、これらの嫌な表現が全てあてはまるようなかなり強い自己中心性を持つ人間になりました。と同時に一方では、”他人からの評価に依存する”という自己評価の低さ、自信の無さも私のなかに共存していました。自己中心性と自信の無さの共存、つまり自分自身をこよなく愛しているのにもかかわらず、実はその自分に自信が持てないという裏腹さが私の心をとても不安定にしていたのです。そしてさらに悪いことには、そんな自分ときちんと向き合うことを避け続け、”私はとてもいい人間だ”、ときには”私はかなり思いやりがあるほうだ”などと全く見当はずれな自己解釈をして無意識に自分を慰めていたのです。私は常に第三者の評価を求め続けました。それはまるでアイドルスターか漫才師のように。いつも観客の顔色を異常なほど気にして、誰かと話をするときも、話し相手当人ではなく周りの人の反応をちらちら見るのが私のクセでした。全ての行為の動機は第三者からいい点数をつけてもらうことだったのです。こうして私は空虚なうわべに厚い上塗りを繰り返していました。

その弊害は結婚生活に見事に現れました。当然です。

自分にしか興味が無い男をありがたがる妻や子供がどの世界にいるでしょうか。だれかが点数つけてくれなければとたんに動かなくなる私。もちろん家事の手伝いへの動機なんてどこにも探しようもありません。うちに帰ればやる気を保てずゴロっとするだけの生活でした。それでも日本では仕事の忙しさを言い訳にできましたし、妻もなんとかそれで納得しようと努力してくれていたようです。しかし、家族再生を安易にスローガンに掲げてやってきたニュージャージーでも同じことを繰り返せば、夫婦の溝は自ずと深まるばかりでした。自分を省みるわけでも変えようとするわけでもなく、私の心は変化を拒み続けました。変化には痛みをともなう膿み出しをしなければなりませんから。

そして心の革命は「教会にいらっしゃいよ」の暖かい言葉から始まったのです。

どんどん信仰に引き込まれて行く妻を不安な気持ちでながめる日々でした。教会員のクリスチャンホームに頻繁に子供を連れて遊びに行く妻を見ながら、正直なところ、”同年代の子供と遊ばせてもらうためだけだ。キリスト教に勧誘されているわけじゃないはずだ。たまに話を聞いてもらってるだけだ”、と自分に言い聞かせていました。しかしそれはある日突然訪れたのです。「明日から牧師先生の家で個人的に聖書を教えてもらうことになったから」。妻からこの言葉を聞いた時は、”ああ!やっぱりそれが目的でうちに近づいてきたんだな!ついにやつらも本性を見せたな!意外に早かったな!”、と腹立たしい気持ちになったのを覚えています。喜々としている妻の機嫌をむざむざ悪化させるのが怖くて、行くなとは言えなかった。それでもなんとか口にした「大丈夫なのか?」に、無言の反駁が返ってきて、あわてて「いや、別に深い意味はないんやけど。。」で投了でした。

ああ、妻よありがとう。あのとき私の意に反して行ってくれて。

しかし、神様を追いかけてどんどん速度を増して遠ざかる妻の後ろ姿を、私は今にも見失いそうで気が気ではありませんでした。万が一ここで私が立ち止まってもし夫婦関係に決定的な亀裂が生じてしまったらどうしよう、考えただけでも空恐ろしい、けれど自分で追いかけるまでの気分にはなれない、などとジタバタしていた私のところに妻はいつもすっと戻って来てくれ、ぐいぐいと手を引っ張ってくれました。

ああ、妻よありがとう。君が私をいつも正しい道に連れ戻してくれたね。

とうとう2006年7月16日に妻と一緒に洗礼を受けることになりましたが、その決断にはまだ多くの人の後押しが必要でした。特に印象深かったのが職場の助教授でした。彼は韓国からの移民のクリスチャンで、私が同じ血を持つということもあり、公・私・信仰にわたりとても力になってくださった方です。このときも、「100%完璧に準備してから洗礼を受けようなんて考えちゃだめだよ、10%いや1%で十分なんだ。洗礼を受けてからゆっくり始めればいいんだから」、と導いてくださり本当にありがたかったです。それでも、受洗の朝になってさえも、まだ私の心は晴れきってはいなかったのです。朝食中にふとしたことから妻と口論になり、「今日はやっぱり洗礼は受けない!まだオレには早すぎたんや!」とけんか腰になっている私にさっときびすを返し、黙々と電話を掛け始めた妻。

錦織先生、早朝にご足労いただき本当に申し訳ありませんでした。

それ以後は神様が本当に働いてくださいました。とくにJOY JOY CAMPを存分に楽しんでいる頃から、私の心は急速に晴れ渡り、自分の醜い部分と向き合うことができるようになり、心の目が少しずつ開かれて行くのが自分でもよく分かるほどでした。そして今、

妻に感謝しています。
家事を一緒に手伝おうと思う気持ちが生まれました(まだ生まれたてです)。
人に純粋に興味を持つようになりました。
約束を守ろうとするようになりました。
身を低くして人に仕える人間になりたいと思っています。
誠実な人生を送りたいと思っています。
感動しやすくなり涙腺がすぐゆるむようになりました。(年のせいかも?)
なんだかおだやかでハッピーな気持ちでいることが多くなりました。
イエス様は途方もなく大きな愛のお方です。すごいです。
神様に感謝しています。本当です。

どうやら神様は複数の方法を用いて私を変える作業に当たられているようです。一つは礼拝のメッセージ、二つは教会員との親しい交わり、三つは聖書の御言葉、四つは妻の支え、五つはクリスチャンのための本です。どれが欠けても神様の作業は著しく滞るように思います。今、かなりの時間をこれらのことのために捧げていますが、神様がそう望んでいらっしゃるに違いないと感じています。

まもなくに迫った我が家の帰国の後におそらく信仰の試練がやってくることでしょう。神様どうかせっかく開きかけている私の心の目を閉じさせないようにお守りください。そして家族みんなの信仰ときずなをいつまでもお守りください。

神様あなたを心から賛美致します。アーメン。

月報2006年11月号より

「あんしん」

シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。  ルカ 22:31-32

「シモン、シモン。」は、「り」を入れると、「しもりん、しもりん。」で、やはりこのみことばは、今もなお、自分に語られているように思います。
「あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」
「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

離婚という経験は、誰でもできるものではなくて、確かにそこには傷みが伴ないます。苦しかったし、辛かったし、何度も何度もひとりで涙を流しました。何が辛かったのか、どうしてそうなったのか、それを説明することは今でも上手にできません。
それでも、今、こうして確かに生かされています。それは、自分の力によって生きているのではなくて、ただ、神さまの力によって生かされているだけです。そして、神さまは、消極的な気持ちで、いやいやながら生かしてくださるのではなくて、愛と情熱をもって、生きなさいと語ってくださり、共に歩んでくださる方です。神さまは、間違えることも、失敗することもなく、いつでもどのような時でも、その祝福の約束のみことばのままに、最善をなしてくださる方です。だから、なにもかもすべて、安心して、神さまにゆだねていい。

昨年、聖書を開くことも、お祈りすることもできない時間がありました。「神はいるか」と問われれば、「いる」と答えることができても、「自分は祝福されていない」、そう思う時がありました。あるいは、礼拝に集うことができない時もたくさんありました。「ハレルヤ」と元気に讃美する人々の中に、自分はとてもじゃないけれどいられないと感じました。苦しい、辛い時間の中で、いろいろな思いが頭の中を駆け巡っていて、何をどうしていいのかわからずに、暗闇の中に道を失っていました。
その時間の中で、何人かの友達とメールのやり取りをしていましたが、今になって見返してみると、自分が綴った言葉に、胸が痛くなります。なんと声をかければいいのか?と、その言葉を受け取った相手も心を痛めたのではないだろうかと思わされます。けれども、誰も彼 (女)も、必要な言葉を与えてくれて、そのことは本当に感謝で、ありがとうの気持ちでいっぱいになります。
そのようなやり取りの中で、なぜか僕はいつも、聖書のみことばに戻っていました。聖書のみことばはこう語っている、神さまの約束はこう言っている、などなど。そして、ある時、ふと気付かされたことは、みことばからは逃れられないということでした。自分の状況が、辛くて苦しいものであっても、あるいは、自分の力で何をどうすることもできなくても、神さまの祝福の約束のみことばはいつもそこにあって、それにがっちりと捕まえられていて、逃れることができないのです。

私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、
そこでも、あなたの御手が私を導き、
あなたの右の手が私を捕えます。
詩篇 139:9-10

逃げようとしても、逃げられないんだということに気付いて、逃げることを止めることができたのだと思います。神さまの祝福の約束のみことばは、決して変わることがなく、いつもそこにあります。自分が信じるとか信じないとか、そういったことの前に、みことばは確かにそこに存在するのだということに気付かされました。

そして、その後、もう一つ。気付かされたことは、自分の弱さでした。
自分の力で何とかすれば状況を打開できる、そのような思いにどこかで捕われていたのは事実で、でも、ある時、自分の弱さを目の当たりにさせられました。
何とかできると思ってみても、実のところ、自分自身は精神的にいっぱいいっぱいな状況にあって、まだ頑張れると口にしてみたところで、もう頑張れない。自分はそんなに強くない。というよりもむしろ、自分は弱い。自分の力では何をすることもできない。
そのことに、気付かされました。そして、その自分の弱さに、どうしようもなく涙がこぼれてきました。
「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」 (ルカ22:33)とまで言ったシモンさんは、その後、 3回イエスさまを知らないと口にします。自分で言ったその約束を守ることもできずに、自分自身の弱さに気付かされて、激しく泣くシモンさんの姿に、僕自身の姿を見るような思いがしました。けれども、イエスさまは、そのすべてのことを知っていて、だから、前もって、「あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」と語ってくださり、また、「あなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と語ってくださいました。このことは、僕にとっては、本当に慰めであり、また大きな励ましでした。
神さまとの約束を守ることもできなくて、自分の力では何もできないほど弱くて、でも、既にイエスさまが祈ってくださったのだから、安心して、自分の弱さを認めて、それに泣いていいんだと思いました。
そのような僕自身の弱さや罪をゆるすために、イエスさまの十字架と復活があり、イエスさまを十字架に付けたのは、確かにこの僕の弱さと罪なのだと思いました。

そして、今、生かされています。
昨年の苦しい/辛い時間の中で、どこかで、信仰を失うことや、教会を離れることや、あるいは崩れ落ちてしまうことがあり得たのかもしれません。けれども、そうはなっていなくて、今、こうして、礼拝に集うことも、讃美をすることも、お祈りすることも、奉仕をすることもゆるされています。だから、そのようなことの一つひとつは、自分の力によるものではなくて、ただ、生かしてくださる神さまの力のゆえです。

「あなたは、わたしのしもべ。
わたしはあなたを選んで、捨てなかった。」
恐れるな。わたしはあなたとともにいる。
イザヤ 41:9-10

そう約束してくださる神さまに、安心して、自分自身を空っぽにして、なにもかもすべて、ゆだねていい。間違えることも、失敗することもない神さまが、時にかなって、その最善をなしてくださる。

時々、それでも、せっかく神さまが生かしてくださっているのだから、もっと(自分の力で)頑張らなければというような思いに囚われます。そして、何もできていない自分の姿に、 “焦り”のようなものを感じたりもします。けれども、先日のファミリーキャンプにおいて、神さまが再び語りかけてくださいました。

恐れないで、ただ信じていなさい。
マルコ 5:36

だから、あんしん。

月報2006年10月号より

「ホノコン ’06」

私は今年の夏、姉と2人でJCFNの15周年記念ホノルル・コンファレンスに行きました。私はどうしてもハワイに行きたかったんです。私にとってハワイは世界で一番好きな場所で今年の夏もハワイのビーチへ旅行したいと思っていました。あの爽やかな海風、暖かい気候、綺麗な海と素敵な風景はこの地上でハワイしか持ってない特徴だからこそ行きたくてしょうがなかったんです。そういう理由で私は、ホノコン(以下ホノルル・コンファレンスの略)に参加したのですが、神様は違う目的で私をハワイに送ったのです。では、ホノコンで何が起こったのかを書きたいと思います。

今年のホノコンのテーマは「You Gotta Paddle! Can’t You See It? ~主の波はもう来ている~」でした。そこで気がついたのですが、実は皆私の周りの友達はこの「~主の波はもう来ている~」に気付き、洗礼を受け、Strong Christianになっていたのですが、なぜ私だけがいつも置いてけぼりになっていたのか悩んでいました。でも考えてみると私ももうとっくに神様を信じてました。それは赤ちゃんの頃から教会で育ったような環境だったからかもしれませんが、「神様が私のためにイェス様を地上に送り、私の罪のために十字架につけられ、よみがえったからこそ私の罪は赦された」は100%信じていました。小さい頃から何か問題があれば神様に祈り、彼はいつも絶対に私の横にいる事を学んできたからいつも何かが起こったら神様に頼っていたんです。「…じゃあ、なんでまだ洗礼を受けてないの」の疑問にいつもたどり着きました。それがホノコン、そしてそこで出会った皆のお蔭で解決できたのでした。

私がホノコンに行きたかった No.1 の理由はハワイでした。別に信仰を深める目的もなかったし、何を期待するかも知りませんでした。でも、そこで歌った意味深い賛美のせいか、先生方の説教が本当に心に突き刺さったせいか、特別に最高だった Small Group で分かち合った時間のせいか、いつの間にか毎回賛美を歌った時や話し合った時、私の目はいつもウルウルしてて、涙が止まりませんでした。神様の十字架の愛、そして感謝の気持が溢れて、初めて賛美の意味が心に突き刺さって来た気分でした。

この気持の変化はDay2 の Small Group の ディスカッションからです。一体そのディスカッションで何が起こったかというと、荒井牧師が教えてくれたことです。Small Group の皆に私が持っていた悩みを相談したら、荒井牧師がニコッと笑って「レナさん、あなたは一人じゃないんですよ。本当の事を言うと、幼い頃から教会に行ってた人の方が洗礼を受けるのが遅いんですよ。それは、そうゆう人は神様に初めて出合って人生が全く変わった、すごい証をする人じゃなくて、何気なく信じているみたいだからからです。レナさんはもうすでに救われています。レナさんが波に乗りたい気持、ちょっと考えてみなさい。もう Paddle していると思いますよ。レナさんはもうすでに波に乗っていますから、あなたが言ってた洗礼への道、もう歩んでいますよ。これからは同じく神を信じ、洗礼を受けるだけですよ。もうクリスチャンなんですから。」と話してくれました。だけど私はまだ足りない気分を持っていたら、同じグループだった下部ゆうこさんがこう言ってくれました「もしかしてレナちゃん、何かが起こるのを待っているんじゃないかな。ちょっとしたアドヴァイスね:自分で波を作らなくていいんだよ。自分で作っても、神様の波の方が全然大きくて素晴らしいんだよ。『私はこんなすごい事が起こってクリスチャンになったんだ。人生、180度回転しました。』みたいな証できる事を待っているんじゃないかな。そんなのいいんだよ。最終的には皆で波を Surf できる事が一番重要なんだよ。だから自分の力で何かを作ろう!と思ってないで、レナちゃんを乗せようとしている神様が特別作ってくれた波を皆で Paddle すればいいんじゃないかな。」その一言で私が何かすごい事が起こるのを待っているのに気付き、そして人生を変えてくれるような出来事なんか必要じゃない事に始めて気付きました。

それから次の日賛美していた時、ただ歌ったんじゃなく、本当に歌詞を味わって初めて神様への「賛美」をしました。その日の一つの賛美は:

「主は導きをもって私をここまで支えられた
主の十字架の後をただついていきます
あなたのみかお見つめて みこえをたよりにして
みあしのあとをついていかせてください 愛する主よ」

でした。そして、やっぱり神様一番! と思いながら人生を振り返ってみました。本当に一歩一歩イェス様が共に歩んできてくれた事、そして今まで神様がすごく人生を祝福してくれた事に感謝でした。神様は頼れるお方でずっと気付いてなかったけど、いつも支えてくれていた事を賛美し、ホノコンで出会った皆の事を考えました。「こんなに暖かくて明るい皆に恵まれて、神様ありがとう!笑顔で本当に人生を無駄にしてない、楽しそうに毎日生きてる皆…神様の力はすごい!私も皆みたいに人生を生きて、神様の後をついていきたいな」と思いました。

それから Small Group の皆にその燃えていた気持を告白し、洗礼を受けたい事を分かち合いました。皆は感激してくれて、本当に支えられている気分でした。その時から神様が私の事を愛してくださって、愛してくれる人たちに囲まわれている事を本当に感じて、喜びで溢れて、スマイルが顔から離れませんでした。

次の夜、ホノコンの最後の夜、友達四人で徹夜しました。ゲームを遊び、話し合っていたら、もう日が出る時間になりました。その朝日が言葉で表せないぐらい綺麗で、やっぱり神様すごい!こんな素晴らしい地球を造ってくださったすごいお方だ!とまたまたおもいました。そしてその朝日を見ていた食堂の屋上で四人で賛美をし、最後のホノコンのお日様を迎えました。

そして帰りの日。ホノルルのアラモアナビーチで BBQ Party を持ちました。野外礼拝をして、皆でお昼ご飯を食べて、2,3人証しました。ビーチで遊び、とうとうお別れの時になりました。親しくなった皆にお礼とあいさつをして送迎のヴァンに乗りました。飛行場へ着いて、ハワイにお別れして、この洗礼を受けたい燃えている気持だけを持ってニュージャージーに帰って来ました。

その帰って来たその日に錦織先生、そして教会学校の中高科の立石先生と鬼頭先生にメールを書いて、洗礼を受ける決心の事を伝えました。先生三人とも私の気持をサポートしてくれて、一ヶ月後に洗礼を受けることができました。

教会、そして、私を励ましてくれた皆様、いつも祈って私の事を覚えていてくれてありがとうございます。どうかこれからのクリスチャンとしての歩みも支えてください。本当に教会を通して出会った皆様が応援してくれていた事に感謝しています。

月報2006年9月号より

「神様の恵みを受けて」

7月16日。私達夫婦の渡米2年目に家庭崩壊寸前の状態から夫婦揃って洗礼式を迎えるまでに至った経緯を「証し」としてお話ししたいと思います。

私達夫婦が3人の子供と渡米したのは、2004年7月、夫の2年間の留学のためでした。突然の留学話。2年間自費留学するための資金は無かったものの留学のためより『家族再生』のため、(何でもいい、今の状況が変るなら!)と生命保険や学資保険を解約し、売れるものは全て売り払い、どうにかこうにか渡米準備完了。荷物は5人家族で段ボール箱4つとスーツケース2つ、犬一頭が全てでした。
友人も知人もいない初めてのアメリカでの生活を思うと不安と寂しさ、心細さで一杯。でも一方で『家族再生!』をスローガンに「家族で過ごす時間さえ有れば何とかなる」と、期待も一杯でした。

――娘が1歳過ぎた頃、夫の転勤で大学病院勤務に戻ると、夫は帰宅が週に2日の激務になりました。そして、娘が1歳半のときに2番目の子供を妊娠。単身赴任の様な状況で、まだオムツも取れていない上の子を抱えて2回目の出産を迎えるのかと思うと、嬉しさよりもまず不安でした。漠然と親の援助を期待する事などを考えて行った2回目の検診で、実は2番目の子供だけでなく3番目も妊娠している事が分かり、嬉しいのか不安なのか、もう何が何だか分からず頭の中が真っ白な状態で娘と帰宅しました。上の子の妊娠時とは比べものにならない勢いで、みるみる膨らんでくるお腹に不安を感じていた頃、ある人に「双子を授かる人は神様に選ばれた人なのよ、」と言われ、私にとってはその後、子育てで辛い時いつも思い出し、心の支えになる言葉でした。幸い経過は順調で管理入院のため3ヶ月入院したものの、予定日の2日前に出産、しっかり一人分ずつの体重で生まれてくれたお陰で4日目には退院できました。しかし、自宅に戻ると私一人の先の見えない育児の始まりでした。2歳2ヶ月の娘と双子の乳児の世話で母乳も1ヶ月で止り、毎晩1、2時間おきの授乳で昼夜逆転、心身共に疲れ時々はっと、気付くとオムツを替える時も沐浴させている時も無表情で無言の自分。かわいい盛りの娘と生まれたての赤ちゃんの成長をゆっくり見る事の出来ない仕事に追われる夫も気の毒なはずでした。でも、(望んで産んだのに。)(私だけの子供じゃないのに。)そんな思いばかりが心を埋め尽くしていました。

双子の誕生から4ヶ月後、実家の父が脳内出血で倒れ、週に一度来てくれていた母の手助けが無くなりました。一命は取り留めたものの、それ以降約2年間続く父の入院では、娘として何も力になってあげられず申し分けない気持ちと裏腹に、いつも思いやってくれる母に対し、「たまには、手伝いに来てよ。病院に居るお父さんには看護婦さんやヘルパーさんがいるけど、私にはお母さん以外、誰も頼る人がいないのよ!」と、母に暴言として吐いた時、『夫と子育て』という意識は完全に消えていました。母との子供ではないのにおかしな話です。娘は放ったらかし状態になる事が多く、それに比例するように愛情の飢えも強く感じられる様になりました。息子達も日増しに活発になり、気分転換で公園に行っても四方に散らばる子供達を追いかけに行くだけで、ストレス解消どころか逆に疲れ、次第に引きこもり親子になっていきました。(一人になりたい!せめて3時間続けて眠りたい!)そう思うばかりで、娘に抱っこをせがまれても、すでにその気力は残っていませんでした。その頃の娘の「ママー!だっこだよぉ!」と泣く声は今でも耳から離れません。と、同時に(子供より自分の方が大事なんじゃないか)という疑問がいつも着いて回り、息子達の言葉の遅れも気になり始め、“無言育児”を思い出し、苦しみました。(このまま、こんな母親に育てられる子供達は、一体どんな子になってしまうのだろう、夫の知らない間に子供達は成長を続け、分かち合う思い出もなく思春期になった頃に、父と子の会話、夫婦の会話なんて出来るんだろうか。。。)と思うとどうしようもなく不安になり、焦り、その気持ちを話したい夫は居ないという状況で、一点の光も見いだせない暗い穴の中に居る様でした。夫も相変わらず多忙を極め、お互い日々、自分のやらなければいけない事で精一杯。お互いを労り合うなんてとても考えられない状況が続いた、そんな時に舞い込んだ留学話だったので、一も二もなく飛びついたのでした。

しかし渡米3ヶ月後、元来、前向きで自信に満ちあふれていた夫が一変しました。
この時娘は6歳、「このあいだ産まれたはずの赤ちゃん達」もいつの間にか4歳になっており、夫にとってほぼ“初めての子育て”は“初めて思いどおりに行かない対象”だった様です。“初めて”の事は他にも、子育てを通して“初めて向き合う自分の感情”にも戸惑い、“初めて心底向き合った夫婦問題”、“初めての慣れない環境と言葉”、これらの“初めて”によるストレスから体も心も荒んでいきました。常に体調が優れず、気持ちはマイナス思考、自己否定モードに入ってしまった夫。子供達は次第に夫を恐れる様になり、私自身もそんな夫の姿を初めて目の当たりにし、パートナーとして何もしてあげられない無力感と、夫自身のこの問題を(彼は乗り越えられるんだろうか?)という不安。ようやく一人ぼっちの子育てから解放されるはずだったどころか、夫と子供の仲介役。(なぜ?)(どうして?)(どうすればいいの?)の繰り返しでした。実はその過程は、私達の『家族再生』のために不可欠だった通るべき道で、神様が用意して下さっていた試練であった事はまだ知る由もなく、実際はすでに家族再生のために前進していたのに「家族再生はどうしたの?!」と、夫を責めました。(こんな状態になるために渡米したんじゃない!)と。それだけでなく、息子達の言葉の遅れや、型にはまらない二人は学校で問題児に。今まで見ない振りをしてきた小さな心配事が、後から後から大波になって押し寄せて来る様に感じていた時、小さな出会いがありました。

このアメリカ留学自体が、我が家にとっては長期旅行と決め込んでいたので旅行も観光も無し。同じ週末の繰り返しに煮詰まりつつあった渡米1年後のある日、
犬の散歩で大清水姉(*)と出会ったことがきっかけで、JOYJOYキッズクラブや日本語教会に、気が向いたときだけ行く様になりました。錦織先生のメッセージや中高生の面倒見の良さに触れ、(自己否定どっぷりの夫のために!)(子供達に隣人愛を!)という私の勝手な理由で行っていたものの、実は、夫や子供達を変えようとばかりしていた私へのメッセージだった事に気付いたのです。私自身の今までの傲慢な気持ちを神様はずっと見透かしていらしたのだ、と思うと恥ずかしく情けない気持ちでした。そして、何度となく聞いていた「人は生まれながらの罪人」ということばも、次第にその意味が自分のものとして実感する様になりました。確かに“何かモにすがりたい気持ちでいました。(信仰を持てたら楽になれるんだろうなぁ、)と。しかし、私も夫も多くの日本人の様に無宗教に近い環境で育ったため、信仰を持つという事に今ひとつ、積極的にはなれませんでした。しかし、錦織先生のメッセージ、教会の方との交流を通して自然な気持ちで神様、イエス様の深い愛に触れ、(聖書の事、神様の事をもっと知りたい!)という気持ちになり、バイブルスタディを始めて1ヶ月程経った頃、息子達の緊急入院がありました。親としての至らなさ、バイブルスタディも自分が救われる事ばかり考えているんじゃないか、と子供達に申し訳ない気持ちと自分を責める気持ちでいっぱいでした。そんな中、私や私達家族のために、お礼拝で教会の皆さんがお祈りして下さったそうです。以前から私達家族のために祈って下さって、私の学びを導きサポートして下さっていた小林葉子姉(*)、錦織先生ご夫妻の熱いお祈り、全てが私にとって衝撃的でした。私が神様の愛を実感するという事は、こうしてクリスチャンの方を通して実感出来たのです。

今思えば、双子を授かったのは「子供は3人欲しい、」と願っていたわたしがもしあの時、双子でなかったら夫の激務が続く中、3人目は望まなかったでしょう。私達が『家族再生』の為にアメリカに来たのも、私達が選んだのではなく、私達が知る前から、神様が全てを備えておいて下さった事を強く感じずにはいられない事ばかりです。日本から犬を連れて来るのにバックヤードにはフェンスが必須でした。
百件ほど見て語学力に自信の無い私達の借りたフェンス付きの家は、日本語ペラペラの大家さん。日本人なんて誰もいないだろうと思っていた娘の学校には同じクラスに日本人の女の子。しかも歩いて2分のお家。この方達には学校の事から犬、前述の息子達の入院など本当にお世話になってます。そして、どん底状態だった私達のために神様は、近くに教会や一緒に苦しみを分かち合ってくれる教会の方達まで用意しておいてくださったのです。まるで、「不自由しない様に色々揃えてあるから、とにかくいらっしゃい。」と。それでも神様を信じずに、「私がなんとかしなくちゃ、」という傲慢な心を悔い改めずにイエス様を救い主として受け入れない理由は、もうどこにもありませんでした。

私の少し後から夫も学びのときを持ち、私達の長女として、いっぺんに双子の弟の姉として我慢を強いられる事ばかりだった娘の8回目の誕生日に、私達夫婦も洗礼の恵みに預かる事ができました。本当に感謝です。もう一人で、夫婦で悩む必要も無く、それどころか祈りの先輩、祈りの友、まで与えられ聖書やメッセージを通して神様からのラブレターをいただき、どんな時も希望を持っていけるのです。
本当に感謝です。。。

『あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものは無かったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共にそれに耐えられるよう、逃れる道をも備えていて下さいます。』 第一コリント10:13

(*) 教会では、キリストのもとに互いに兄弟姉妹、という気持ちで、お互いのことを「~兄」「~姉」と呼ぶことがあります。

月報2006年8月号より