<牧師室より>2023年10月号「この国で共に生きる」

私がこの教会の牧師としてご奉仕を始めたときには、ご高齢の方々はそれほど多くはありませんでした。しかし、26年経って、ご高齢の方々のサポートの機会が増えてくる中で、自分が今まで知らなかったことがこれほどあったのか、と思い知らされています。そして、それらの情報は、教会の皆さんにためにも、私自身のためにも、もっと早く知るべきだった、ということばかりです。もし、この国で生まれ育っていれば、当たり前のように知っていて、互いに話題にしたり、共有したりしていたことかもしれません。しかし、日本からやってきた私たちにとっては「そうだったのか!」「へえ、そうなんだ?」ということがどれだけあるかと思わされます。

 その経験から、今回、10月21日の土曜日の午後、私自身が教会の方々のサポートのために、いろいろな方々に助けていただく中で、大きな力となってくださっている「ライフデザインサポート」の方々にセミナーをしていただきます。この国で歩んで行く中で、特にシニア世代や、そこにさしかかろうとしている皆さんにとってはもちろん、どの世代にとっても必要な情報をお話していただきます。詳しくはこちらの案内をご参照ください。多くの皆さんのご参加をお待ちしています。

 しかし、改めて考えてみれば、たまたま、今まで私たちの教会にシニア世代の方々がそれほど多くなかっただけで、教会の周りには、どれほどたくさんのサポートや情報を必要としている方々がおられるだろうかと思います。

 イエスは「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」(マタイの福音書 25章40節)と言われました。

 これを機会に、もっともっと、私たちが多くのことを学び、生活のあらゆる側面において、この地域の日本語を使う方々と共に歩んでいくことができるようにと願っています。

<牧師室より>2023年9月号「空の鳥を見てごらん」

8月の最後の日曜日は「ピクニック礼拝」。多くの皆さんが参加されて、楽しい時を持ちました。礼拝後のサンドイッチのランチや、その後のレクリエーションも良かったのですが、私自身はそれと共に、緑豊かな公園での礼拝の中で、イエスの言葉に従って「野の花に目を留める」ことを実践してみて、新しく目が開かれる思いがしました。

礼拝のメッセージの中で「では、皆さん、自由に歩き回って、野の花をじっくり見る時を持ちましょう」とアナウンスして、10分ほどそれぞれで野の花を見る時をもっていただきました。正直なところ、当日の朝、会場の公園に来てみて、かなりしっかりと刈り込みがなされていて、元々あまり花の多くない8月の下旬、「花なんて咲いてないじゃん」と言われるんじゃないかと思いました。でも、注意して見てみると、普段は目に留まらないような小さな花がいろいろ咲いているのですね。そして、その一つ一つ、花びらの形、その数、おしべが出ているかどうか、など、それぞれに個性があって、いくら時間があっても足りないくらいでした。ちょうど今、NHKの連続テレビ小説「らんまん」の主人公が這いつくばって、草花に見入っているのが、こんな感じなんだろうかと分かるような気がしました。

イエスは「野の花を見てごらん」と言われた後に、「その一つ一つの野の花よりも、神はあなたの事を何倍も大切に思い、心にかけておられるんだよ」と言われるのです。

「今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。」

マタイの福音書 6章30節

これからいい季節になります。散歩をしたり、空を見上げたりするときに、自然の中に込められた神さまのメッセージに耳を傾けてみませんか?

<牧師室より>2023年8月号「宝物を探しに行こう」

 今年もJOY JOY キャンプがやってきます。
 今年のテーマは「JOY JOY 探検隊〜宝物を探しに行こう」です。5日間、20人の子どもたちと、毎日宝物を探しに探検に行きます。

 我が家の「宝物」と言えば、「松井秀喜選手のバット」です。

 もう20年も前ですが、ヤンキースの試合を見に行った時、松井秀喜選手が空振りしたバットが手から滑って観客席にいた私達のところに飛んできました(その時の様子はこちら)。「これはさすがに返さないといけないだろう」と思って係の人に渡したのですが、その時、球場全体で大ブーイング!「何だ?何か自分はブーイングされることしたか?」と思っていたら、周りの人が「あの係の人にブーイングしているんだよ!あれはおまえのものだ!もらってこい!」と口々に言ってくれて、係の人を追いかけて、無事いただいて帰ることができました。それから、野球を見に行く度に、良くもこの大きな球場の中で、自分のところに飛んできたな、と思います。特別な神さまからのプレゼントだったと思います。

 でも、当時良く思ったものですが、もしも強盗に銃を突きつけられて、「おまえの家の宝物を持って行くぞ!」と松井のバットを奪われたら、間違いなく「どうぞ!」と言うだろうなあ、でも、もう一つの我が家の宝物であるその頃小さかった自分の子どもたちに同じことが起こったら、絶対に命をかけて、「自分はいいから・・・」と自分の身を差し出しても、子どもたちを守るろうとするだろうな、と。実際、本当に大切な「宝物」は決して「モノ」ではないんですよね。

 今回のキャンプで子どもたちに是非見つけて欲しい2つの宝物があります。それは、一つは「神様の愛」、そして、もう一つは、「自分自身」です。聖書の中に、天国(=神さまの愛に満たされた人生と死の向こう側にも続く命)という宝物を見つけたら、喜びにあふれて、全財産を売り払ってそれを自分ものにするだろう、というイエスの言葉があります。

「天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。」(マタイの福音書 13章44節)

 私達がこの宝物を自分のものにするために、すべてを投げ出してもちっとも惜しくないだろう、というのです。それくらい価値があるのだよ、というのです。でも、この言葉にはもう一つの意味があります。それは、立場をひっくり返すと見えてくることです。宝を探しているのはイエスであり、宝物は他でもない、私達だというのです。イエス自身が、「私達」という宝物のためには、すべてを投げ出しても惜しくない、と言ってくださったのです。実際、イエスは十字架にかかって、私たちの代わりに罪を負ってくださいました。そこまで私達は愛されているのです。

 今年のJOY JOY キャンプも、子どもたちの安全が守られて、子どもたちが、神さまが自分たちの事を宝物としてくださっていること、そして、愛されている喜びを知ることができるようにお祈りください。

<牧師室より>2023年7月号「自由とされたのだから」

「ああ、またやられた!」18年前の初夏。庭に日本の野菜を作ろうと一生懸命になっていた頃、本当に毎年、グランドホッグとの戦いに苦戦していました。ネットを張ったり、動物の嫌う匂いのスプレーを蒔いたりいろいろ試しましたが、敗戦続き。これはもう捕らえるしかない、とワナを買ってきて、捨てるクズ野菜を餌に、庭に仕掛けました。そうしたら、かかるわ、かかるわ、家族で住んでいたのでしょうか、次々とグランドホッグがかかります。後でネットで調べてみたら、この地域では許されていないようですが、そんなことも知らず、山に連れて行っては、放すことを繰り返していました。

 グランドホッグは昼行性。朝にワナをかけて、夜は変な動物がかからないように閉じておくのですが、ずぼらな性格の私は、ついつい閉じるのを忘れてしまい、ある朝はオポッサムがかかっていました。あまり可愛くない動物なのですが、ワナを開けたら、一目散に逃げていきました。

「あ、また変なのがかかっている!」7月5日の朝、前の晩にワナを閉じるのを忘れてしまっていて、何か動物がかかっていることに気づきました。あたり一面砂ぼこり。かなり暴れていたようです。今度は何がかかったのかな、と近づいてみて、「わっ」と血の気が引きました。ワナにかかっていたのはなんとスカンクだったのです。「どうしよう・・・」と思いました。自分の愚かさを悔いました。逃がすためには近づかなければいけない、近づいたらスプレーをかけられる。まともに食らったら、何日も匂いが消えない・・・。

その後の顛末を詳しく書いているととても長くなってしまうので、詳しく知りたい方は、以前毎日書いていたこちらのブログの記事を。

結論を言うと、最後は覚悟を決めて、すべて捨てていい服で身を固めて、頭には目のところだけ穴を開けた紙袋をかぶって、スカンクのスプレー攻撃を全身に浴びながら、近づいていって、ワナを手で開けて、スカンクを逃がしたのですが、ワナの扉を開いても、スカンクはおびえて、奥の方から動かないんですね。それで最後はワナの一番奥のスカンクがいるところをバンと一発蹴ったら、慌ててワナからでて、逃げていきました。

そのワナの奥でおびえていたスカンクの姿を思い出すと、私達も同じように狭いところでビクビクしていることはないか、と思わされます。神さまは私達のところに来て、私達を解放しようとしてくださっているのに、私達はその神さまの思いに気がつかないで、おびえて、逃げて、閉じこもっていることはないだろうかと。聖書のメッセージは解放のメッセージです。神様が与えてくださる自由を受け取って感謝して歩んでいきましょう。

「真理はあなたがたを自由にします。」ヨハネの福音書 8章32節

<牧師室より>2023年6月号「人を迎える喜び」

5月は3年ぶりに牧師館での集会を再開しました。初めて来られた方や、久しぶりの方々も加えて、聖書をじっくり味わいながら、とても楽しい集まりとなりました。いいですね。本当にいろんな事が次々と平常に戻りつつあります。

 昭和の日本の牧師の家庭に生まれ育った私にとっては、教会の2階だったり、教会の隣だったりした自分の家に教会の皆さんにおいでいただくのは、ごくあたりまえのことでした。日曜日の朝はいつもよりも早く起きて、簡単に朝食を済ませて、家の片付け。弟の部屋一つと、風呂場の脱衣所だけは「荷物置き場」にとっておいて、他の部屋の片付かない荷物を全部そこに押し込んで、自分の部屋も「教会学校」の部屋として使っていただいていました。同じような経験をした牧師の子ども仲間の中には「自分の部屋に入られるのがすごく嫌だった」という子たちもいましたが、私はそういうことを感じたことはありませんでした。逆に来てもらっていることが、うれしかったことを思い出します。

 今でも、同じです。多分、自分のスペースに来てくれるのは、自分のことを信頼してくれているから、自分のことを受け入れてくれているから、と感じるからなのかな、と思います。それがコロナ禍で互いに距離を取るようになり(「6フィートのソーシャルディスタンス」!この言葉にも懐かしささえ感じます)、お互いの家に招き合ったりすることがとても難しくなりました。そして、それが単なる物理的な距離ではなくて、いつの間にか、心理的な距離、お互いの心の距離にもなってしまっていたのでは、と思います。

 互いの心の距離、急に詰めようと思っても難しいですよね。少しずつ、信頼関係を築いていくのだと思います。これからですね。

 神様もそうです。私たちをご自分の家に招いて、ずっと一緒にいて欲しいと思っておられるのです。

 「わたしの父の家には住む所がたくさんあります。・・・わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」(ヨハネの福音書 14章2~3節)

 この言葉は最後の晩餐の時にイエスが弟子たちに言われた言葉です。神様は私たちを喜んで、その家に迎えてくださいます。私たちが、神様を信頼して、神様のところに行くことを喜んでくださるのです。これは究極的にはこの地上の歩みを終えて神様のところにいく「天国」のことを語っています。でも、この地上の歩みの中でも、私たちを喜んで迎え、共に歩もうとされているのです。

 今月も牧師館での集まりが続きます。また、他にご家庭を開放してくださる方もおられます。これらの集まりを通して、更に神様の愛が多くの人々に届きますように。

<牧師室より>2023年5月号「神の時を待つ」

 昨年のクリスマス直前、12月22日の午後に携帯電話にテキストメッセージが届きました。「・・・旅行の帰り道にある出来事に遭遇し、その時神様がいらっしゃるという事を実感しました・・・」

 4月の最後の日曜日、今年初めての洗礼式を持ちました。今回の月報にも証しを書いてくださっていますが、クリスチャンの男性と結婚されて数十年、それからずっと教会に集って来られた方です。その方のために、御家族はずっと祈っておられたそうです。教会でもお祈りしてきました。その祈りが聞かれるまでは、時間がかかりましたし、もう、ずっとこのままなのかな、とも思いました。一緒に聖書の基礎の学びもしました。イエスの十字架の話も何度もしてきました。それでも、なかなか聖書の言葉が入っていかない、そんなもどかしさも感じていました。しかし、この時に、神様は特別な方法で、その方の心に触れてくださったのです。

 その前の週、4月4週目の日曜日は一人の方がカリフォルニアに引っ越されると言うことで最後に一言挨拶をお願いしました。その中で、NJで経験した一つ一つの出来事の中で、心に与えられた聖書の言葉を分かち合ってくださいました。

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」(伝道者の書 3章11節)

 私たちには分からないことがあります。すべてを見極めることはできません。でも、神様の時があって、神様の時に美しいことをしてくださるというのです。

 私たちはしばしば、思い通りに行かないことに出会います。自分の願った道が開かれなくてがっかりすることもあります。「どうして?」と思うことにも出会います。でも、神様はすべてを美しく導いてくださり、神の時に御業をなしてくださるのです。その神の時を待ち望み、神様を信頼して歩んで行こうではありませんか。

2023年4月号<牧師室より>「新しい力に満たされて」

Happy Easter!

今年も春の訪れを告げるイースターがやってきます。今年は4月9日。近所の公園でも桜の木が花を咲かせ始めました。まだまだこれからという感じですが、ちょうどイースターの頃には花盛りとなりそうです。

 

 冬の間、葉を落としていた木々が一斉に芽吹き花を咲かせるこの時に、イースターをお祝いするのは、イエスの復活の力が私たちにも注がれるのだということを教えてくれます。死んでいたかのように見える自然界も冬が過ぎ去るのを待っていました。そして、その内側にあった命が春の訪れと共に外にあふれてくるのです。それと同じように、十字架にかけられて墓の中に葬られたイエスは、死と墓を打ち破ってよみがえり、今も、私たちのうちにその復活の力を満たしてくださるのです。

 「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。」

ローマ人への手紙 8章11節

  私も自分の力のなさ、弱さに落ち込むこともあります。がっかりすることもあります。エネルギッシュに生きている他の人を見ると、そのように生きられない自分に焦りを感じることもあります。そんな時、この復活の力が今も私のうちに注がれていることを思い出すのです。そして、祈るのです。「神様、あなたの力を、イエスをよみがえらせたあなたの力を、私のうちに満たしてください」と。祈りの力はすごいです。祈りの中で心が燃やされていき、本当に力が湧いてくるのです。

 その力を一人でも多くの方々に知っていただきたいです。

 今年のイースター礼拝は4月9日の午後1時半からです。そして、礼拝後には4年ぶりになる愛餐会(持ち寄りのお食事会)をいたします。是非お出かけください。皆さんで共にイースターをお祝いしましょう。心からお待ちしています!

2023年3月号<牧師室より>「聞くのに早く、語るのに遅く」

最近、家族に「テレビの音が大きい」と言われることが増えてきました。ずっと「単なる好みの問題だろ・・・」と思っていたのですが、ある集まりで皆さんのお話を聞きながら、「ん?右の耳で聞くときと、左の耳で聞くときで聞こえ方が違う・・・」と気がついたのです。

 それで、アプリで「聴力検査」を探して、試してみたら、なんと「高度難聴」!その後、静かなところで落ち着いてテストしたら、そこまでは悪くないようですが、それでもボーダーライン。神様からいただいた大切な聴力。これはちゃんとお医者さんに行って調べないといけないな・・・と思っているところです。

 聖書の中にこのような言葉があります。

「人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。」

ヤコブの手紙 1章19節

 語るためには聞かないといけないです。私たちは、相手の言うことを一言聞いて、すぐに反論したり、アドバイスをしたりすることがどれほど多いことでしょうか。自分が聞いてもらう立場だと、ちゃんと聞いてもらっていない時はすぐに分かります。「この人、全然話を聞いてくれていないな」と。でも反対に自分が聞く側に回ると、自分ではなかなか気がつきません。勝手に相手の言いたいことが分かったような気になって、コメントをしたくなるものです。一生懸命聞いて、理解しようとして、その心の叫びに耳を傾けて、そして、初めて口を開く。そのような姿勢がどれほど必要かと思います。

 それと共に、この言葉は、まず聞くことによって内側が豊かにされて、初めて語ることができる、という真理も表していると思います。ですから、私たちはもっともっとinputに目を向けなければいけません。何を聞くかによって、私たちの口から出る言葉は変わってきます。Negativeな言葉を聞いていると、negativeなものがあふれてきます。Positiveな言葉を浴びていると、positiveなものがあふれてくるのです。ですから、神の言葉である聖書のメッセージを聞くことが、本当に大切です。神の愛の言葉を聞くことが本当に大切です。それによって、私たちの内側が満たされて、そこからあふれるものによって語っていくことができるのです。

 心の聴力、ちょっと目を向けてみませんか。

2023年2月号<牧師室より>「春を待ち望んで」

2023年も早くも1ヶ月が過ぎ、2月になりました。アメリカでは2月2日が春の訪れを占うグランドホッグデー、日本では2月4日が、寒が明けて春の始まりを告げる立春ですね。冬至から1ヶ月あまり経ち、ちょっと散歩をしてみようと外に出ると、久しぶりの青空はまぶしいほどです。夕方も4時半には暗くなっていたのに、今は5時半まで昼間の明るさが残っています。2月はまだまだ寒い日や雪の日も多いですが、太陽は確実に春がやってくることを約束してくれています。春が待ち遠しいですね。

この「待つ」ということは、私たちの信仰にとってとても大切なことです。自分の力ではどうにもならないことを前にして、神がなさることを信頼して、神が働いてくださる時を信頼して、待ち望んでいくのです。聖書の中に「待ち望む」という言葉が何度も出てきます。

代表的な言葉を挙げると、

「雄々しくあれ。心を強くせよ。すべて主を待ち望む者よ。」詩篇31篇24節

「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。」イザヤ書40章31節

「その恵みは、私たちが・・・祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。」テトスへの手紙 2章13節

ですから、「待ち望む」というのは、「冬は寒いからこたつの中で丸くなっていよう」とか「今は状況が悪いから、我慢するしかないね」と、ただ我慢して春が来るのを待っている、嵐が通り過ぎるのを待っている、というのではなく、神が良くしてくださることを信頼して、いろいろ心配しないで、勇気をもって、自分のなすべきことをするという意味です。上のイザヤ書の言葉にあるように、「主を待ち望む者は力を得る」ことができるのです。

あなたは今、どんな状況に置かれているでしょうか?冬のような状況でしょうか?主を待ち望みましょう。必ず春がやってくることを信じて、主を待ち望み、力を頂いて、勇気をもって、忠実に自分のなすべきことをしていきましょう。

<牧師室より>2023年1月号「光に照らされて輝く」

明けましておめでとうございます!
本年もどうぞよろしくお願いします。

2022年はガラテヤ人への手紙5章13節「兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい」という言葉を頂いて、歩んできました。

多くの困難や閉ざされた道などもありましたが、そのような中でも、皆さんのお祈りに支えられて、神様が与えてくださる平安と喜びの中に歩むことができました。心から感謝します。

教会としてもっともっと地域社会とつながりをもって外向きの働きができればと思っておりましたが、大きな進展はありませんでした。そんな中でも、弱さや痛みを抱えたお互いのために祈り合い、支え合う中で、聖書の言葉通り、与えられた自由を仕えるために用いておられる方々の姿に励まされています。

「主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。」詩篇105篇4節

2023年のために祈っている時に与えられた聖書の言葉です。

たとえ、私たちが今までよりも積極的に社会の中に出ていくことができたとしても、もしも、私たちの顔が死んでいたならば、もしも、私たちが単なる義務感で、しょうがなくやっている、というのが見え見えだったら、それに何の意味があるのでしょうか?社会に出て行くときに、人々に仕えていくときに、私たち自身の心の状態がどんな状態であるかが問われてくるのです。

聖書の中に出てくるモーセという人は、神と語り合ったがゆえに顔が輝いていたと書かれています。私たちも、神の輝きに照らされて、そして、私たち自身が輝きにあふれて歩んでいく時こと、それが私たちが出て行くときに必要なことだと思わされています。

新しい年も、続けて私たちがこの地域社会の中で、特に日本語を使う方々の社会の中で果たしていく役割が何であるかを求めていこうと思います。更に一歩外に出て、人々に仕えていく教会となることができるように、まず、私たちの顔が神様の光に照らされて輝くものとなりますように!