2022年6月号<牧師室より>「平和を作り出す人」

 5月の後半は、立て続けに銃乱射事件がアメリカ各地で起こりました。ニューヨーク州のバッファローでは、グロサリーストアで多くの買い物客が人種差別主義者の犠牲になりました。カリフォルニア州のオレンジ郡では、台湾系の教会に高齢のお母さんを迎えに行った息子さんが、政治的な信条を持った人の凶弾に倒れました。そして、テキサス西部の町では、21人もの無力な小学生と先生たちが、怒りに支配された若者の犠牲になりました。犠牲になった方々のこと、ご遺族のこと、巻き込まれたすべての方々のことを思うと、胸が張り裂けそうになります。

 銃規制が必要なことは確かですが、なかなかそれが進まないことに、無力さを感じさせられています。そして、私は何ができるだろうかと思わされています。教会はこのような社会の中でどんな使命を与えられているのか。ただ、自分たちの建物の守りを固めて、それでいいのか、ということを思わされています。(先月の月報でも、同じようなことを書いていましたね。)

 2月に始まったロシアのウクライナ侵攻の中でも、神の守りを祈ること、苦しんでいる方々のためにできることをすること、その他に、何ができるだろうかと思わされます。大きな国の政治的な力の前に何もできない無力さを感じさせられます。

 そのような中で、やはり、私たちに託されているのは、私たちお互いの間に、そして、身近なところにいる方々との関係の中に、平和ももたらすことなのだと思わされます。大きなことを言う前に、まず私たちの心の中に、神様からの平安を与えていただいて、そのいただいた平安をもって、周りの人々のところに出て行くことです。神はいつも、個人の内側を造り変え、それによって、周りの人々との関係を造り変え、社会に対してインパクトを持つ者として用いてくださるのです。

「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。」

ヨハネによる福音書14章27節

 社会の分断が進むこの時代、冷静な対論ができずに、相手を非難し、「はい、論破!」と勝手に決めつけて、自分の考えだけが正しいと思う風潮が広がっているこの時代に、私たちはまた、本当に単純に、一歩一歩自分の周りから小さな平和を少しずつ作っていこうではありませんか。

2022年5月号<牧師室より>「出て行く使命」

多くの方々の目に留まる月報にこのことを書くのはためらっていたのですが、半年経って、ずいぶん落ち着いてきたので、書きますが、昨年の9月に牧師館に空き巣に入られました。

 金曜日の夜の集会のために教会に行っていて、帰ってきたら、玄関のドアが少し開いています。「あれ、ちゃんと閉めたはずだったけれども・・・」と思いつつ、中に入ったら、キッチンのキャビネットがすべて全開。「こんなに開けっぱなしにしたっけ・・・、もしや・・・」と思って、ベッドルームに行ったら、引き出しの者が全部引っ張り出されていました。慌てて9-1-1に連絡、「まだ中にいると大変だからすぐ外に出て!」と言われて、外で待っていたら、程なく警察が来て、中を調べてくれて、「もう誰もいない、大丈夫そうだ」と中に一人ずつ入れてもらって、なくなっているものを調べて、すべてが終わったのが夜中の2時頃でした。

 幸いほとんど実害がなかったのですが、勝手に自分たちの生活空間に土足で入られて、部屋を荒らされたことのなんとも言えない嫌な感じはしばらく消えませんでした。

しかし、そのような中で、その日の集会のために与えられていた聖書の箇所、「正しい人は決して動かされることなく、とこしえに覚えられる。 彼は悪いおとずれを恐れず、その心は主に信頼してゆるがない。」(詩篇112:7-8)の言葉がどれほど大きな支えになったか分かりません。

 その後、教会の皆さんがご心配くださって、牧師館にセキュリティーシステムを入れていただいたのですが、その頃から一つの思いが心に与えられました。

「果たして、これで終わりでいいのだろうか?自分たちの生活空間を守ることは大切だけれども、自分たちの周りの守りを固めて、壁を作って、それで終わりでいいのだろうか?」と。

 自分たちも空き巣に入られても、金目のものは何も出てこないようなレベルだけれども、少なくとも、安心して眠れて、日々の必要が満たされている。その一方で、空き巣をして生活をしているような人々もこの周りにはいるのだ、そんな中で、自分たちだけ守りを固めて、それで終わりでいいのだろうか?と。

 教会はこの世に出て行く使命を与えられています。4月15日まで毎週持たれたレント集会でも、私たちはこの世に仕える使命をいただいていることを再確認しました。この空き巣事件を通しても、神様が私たちに「この世に出て行きなさい」と導いておられることを感じています。どうか、神様が私たちに与えてくださっている使命を果たすことができるようにお祈りください。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。」ヨハネによる福音書15章16節

2022年4月号<牧師室より>「復活の力にあふれて」

 4月になりました。もうすぐ、春の訪れを告げるイースターがやってきます。イースターはイエス・キリストが死を打ち破ってよみがえられたことをお祝いする日。ちょうど、すべての木々が枯れ、すべてのものが凍りついた冬を越えて、自然界に命があふれるこの春に、イエスの復活をお祝いするイースターがやってくるのは、とても意味深いことだと思います。

 今から2000年前、イエスが十字架につけられた時に、弟子たちは皆、イエスを捨てて逃げていってしまいました。「どこまでもついて行きます」「たとえ、命を捨てることになっても、あなたをおいて逃げたりしません」と言っていた弟子たちでした。しかし、実際にイエスが捕らえられると、彼らは、蜘蛛の子を散らすように、逃げていきました。また、その後も、人々を恐れて、家の戸に鍵をかけて閉じこもっていたと、聖書は語っています。

 しかし、彼らが復活のイエスに出会った時に、彼らは変えられました。人々を恐れて、戸に鍵をかけて閉じこもっていた弟子たちは、復活のイエスに出会ってからは、出て行って、命の危険をも恐れずに、イエスの復活を語っていくようになったのです。それだけではなく、迫害や困難の中でも人々を受け入れ、愛し、仕えていきました。そして、彼らの人生に触れられた人々はまた変えられていきました。そして、その信仰は、次の世代、また次の世代と受け継がれ、そして、300年の年月をかけて、なんの権力も軍事力もなかった教会が、強大な権力を誇ったローマ帝国をひっくり返してしまったのです。

 今、私たちは、戦争が起こり、軍事力や経済力の強さがものを言うかのような時代の中に生きています。しかし、それは2000年前も同じでした。ローマ帝国の軍事力の前では教会は無力のように見えました。しかし、教会がその使命に生きていった時に、世界が変わっていきました。その同じ復活の力が、今日も信じる時に、私たちに与えられます。私たちも、自分の力は弱くても、イエスの復活の力を内側にいただいて、この世界にインパクトを与えるような生き方をさせていただくことができるのです。

 今年のイースター、お一人一人のうちにこのイエスの復活の力が満たされて、新しい歩みをスタートすることができますように。

「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか。」第一コリント15章55節

<牧師室より>2022年3月号「恐れないで愛しなさい」

 ニューヨーク・ニュージャージー地区は12月に急に広がったコロナ感染も落ち着いてきて、やっと教会の働きも対面で再開できる、というところまで来ました。今、さあ、これからまた再出発だ、という思いでいます。

 そのような中でのロシアのウクライナ侵攻のニュースには、本当に心が痛みます。今も、祖国の危機の中にいる方々、身の危険を感じながら歩んでおられる方々のために祈ります。そして、世界は、これから私たちはどこに向かっていくのだろう、という不安に襲われています。

 そのような状況の中で、私たちはしばしば「世の終わりがやってくる」「世界最終戦争だ」というような声を耳にします。

 確かに、聖書は私たち一人一人の人生に終わりの日があるように、この世界にも終わりの日が来るのだ、と語っています。そして、その前兆として、疫病が起こることや戦争や戦争の噂が起こることを預言しています。そのことを心に留めておくこと、忘れないでいることは本当に大切なことだと思います。しかし、それと共に、聖書が「そういうことが起こっても、慌ててはいけない」「そのような状況の中で、人々の愛が冷めることがあっても、あなたがたは、神を信頼して、愛に生きなさい」と語っていることにもっと注目すべきなのです。

 元々、このロシアのウクライナ侵攻も、ロシア側の「恐れ」から始まったことです。ウクライナがNATOに加入するならば、ロシアにとって脅威となるのだ、という恐れです。そのような恐れに支配された人々は、周りの人々を恐れで支配するようになります。そして、恐れない人々に対して、もっと強い圧力をかけていきます。私たちはその恐れの連鎖を断ち切ることが必要なのです。

 聖書は語ります。

「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。」(第一ヨハネ4:18)

 私たちはこのような世界の中でどのように愛を表すことができるでしょうか?どのように愛に生きることができるでしょうか?

 今年も3月2日のAsh Wednesdayから、4月17日のイースターまで、教会はイエスの十字架の苦しみに心を向けるレントの期間に入ります。今年も、私たちの教会では毎週金曜日の夜に「レント集会」を持ちます。今年は「レントの再発見」というテーマで、このような状況の中でレントの期間をどのように過ごすのかを共に考えていきます。ウクライナのために祈る時も持ちます。是非ご参加ください。詳しくはこちらの案内から。

<牧師室より>2022年2月号「解放されたのだから・・・」

2022年がスタートしました。

「兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。」ガラテヤ5:13

 今年はこの聖書の言葉が私たちの教会に与えられています。

 私自身、イエスと出会って、本当に自由にされたなあ、と思います。

 私は、教会で育ちました。でも、本当の意味でイエスに出会っていなかったのだと思います。その頃は、「もっといい子でなければいけない」「クリスチャンらしく生きなければいけない」というプレッシャーを自分にかけて、がんじがらめになっていました。

 しかし、ある時、私は、自分がそのようなプレッシャーの中でも、そのように生きられない、外側はクリスチャンっぽく生きることができても、内側は醜い思いでいっぱいだということに気がついてしまったのです。

 ですから、私は2つの意味で縛られていたのでしょう。一つは「自分はクリスチャンなんだから、こう生きなければいけない」という義務感であり、また「思ったような生き方ができない」という自分の無力さでした。

 しかし、そんな自分の姿にがっかりする中で、私はイエスに出会いました。そんな生き方しかできない、私のために、イエスが罪を背負って十字架にかかってくださった、ということが、わかったのです。私が立派だから、私が「神様に喜ばれる生き方」をしているから、神様は私を愛してくださったのではなく、内側は醜いものでいっぱいなのに、外側だけは飾っているという偽善的な生き方しかできない私をも愛してくださったのだと、わかったのです。

 その時に、私は本当に自由になりました。解放されました。どう思われるか、ということよりも、この愛にどう応えていこうか?ということが心を占めるようになりました。

 聖書は、そんな自由が与えられたのならば、「その自由を隣人を愛するために使いなさい」と語っています。2022年、この御言葉をいただいて、まず、その自由を確実に自分のものにする、何かに縛られる生き方ではなく、神様に愛されている喜びに押し出されて生きる歩みをさせていただきたいと思います。そして、その自由を、自分勝手な生き方をするためではなく、周りの人々を愛するこのために用いていきたいと思います。

 その時にまた、「愛するってどういうこと?」ということが問われていきます。その問題にもじっくり取りかかっていこうと思います。愛すること、仕えること、お互いに対して、またこの地域に住んでおられる方々に対して、どんなことをすることなのだろうか、求めながら、問いかけながら、実践していこうと思います。神様がこの1年を豊かに祝福してくださいますように!

牧師室より2022年1月号「足下を照らす光をもって」

明けましておめでとうございます。

2022年もどうぞよろしくお願い致します。

12月の下旬、いよいよクリスマス、というときになって、オミクロン株の出現により、新型コロナウイルスの感染が爆発的に広がり、私たちの教会は24日のクリスマスイブのキャンドルライトサービスから、再再度、教会のすべての集まりをオンラインに移行しました。とても残念なことでしたが、お互いや、教会に新しく集う方々、一人一人の家族や友人、またこの地域全体の安全を最優先しての決断でした。

この2年間、何度も同じようなことを書いてきたような気もしますが、「あ、出口が見えてきたかな」というときに、「ああまだ先なのか・・・」ということが繰り返すと、ダメージがボディーブローのように効いてきますね。

そんな私たちのために、聖書はこのように語っています。

「あなた(神)のみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。」詩篇119:105

トンネルの中で、出口が見えることはうれしいことです。しかし、たとえ、このトンネルがいつまでも続くものであったとしても、もしも、足下を照らす光があるならば、恐れないで、一歩一歩歩み続けることができます。聖書は、「神の言葉こそ、神からの語りかけこそ、私たちを守り、導き、暗闇の中でも、希望を持って歩ませてくれる光なのだ」と語るのです。

2021年は、私にとって、本当にこれはそうだなあ、と思わされる1年でした。自分は本当に神の言葉によって、聖書の言葉によって支えられて、生かされているのだ、ということを感じさせられました。困難の中で、悔しいこと、悲しいこと、不安になるようなことの中でも、「恐れるな」と語り、「私はあなたを大切に思っているから」「私が共にいるから」と語ってくださる神の言葉が慰めであり、力でした。

2022年、また、私たちは聖書の言葉を信頼して歩み始めます。毎朝聖書の言葉を少しずつ読んで、それを味わう「日々のみことば」をEメール配信しています。あなたも、毎朝、聖書の言葉を読んでスタートしませんか?ご希望の方はこちらからご登録ください。このトンネルがどこまで続くとも、また、トンネルを抜けた先でも、聖書の言葉は、あなたの人生を照らす光となることでしょう。

牧師室より2021年12月号「神はどこにおられるのだろう」

サンクスギビングを過ぎて、いよいよホリデーシーズンだ、というところに水を差すように、新型コロナウイルスの「オミクロン株」出現のニュースが出てきてしまいました。7月の独立記念日のころ、ワクチンの広がりでずいぶん状況が落ち着いて、ああ、もう大丈夫なんだ、と思ったところに出てきたデルタ株、それが落ち着いてきた頃に出てきた、今回の変異株・・・。まだ詳しいことはわかっていませんが、出口が見えてきたかな、と期待したところに出てくる悪いニュースには、「またか・・・」とがっかりしますし、それは私たちへの心へのボディーブローのように効いてきます。

私たちは困難の中で、しばしば「神はどこにおられるのだろう・・・」と思います。「神がおられるならば、どうしてこんなことが起こるのだろうか?」と。

聖書はイエスが2000年前、ユダヤのベツレヘムで生まれたときに、「飼い葉桶の中に寝かされていた」と語っています。以下はルカによる福音書に出てくる天使の言葉です。

「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。 あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」(2章11-12節)

「飼い葉桶の中に寝かされている赤ん坊」・・・それが救い主のしるしだったと聖書は語っているのです。「しるし」というのは「目印」という意味よりも、「象徴」という意味です。この救い主はどういう救い主かというと、低いところに降りてくる方であり、誰にも注目されないようなところに目を留め、共に歩んでくださる方なのだというのです。私たちは、多くの場合、「救い主」は力があって、カリスマ性があって、多くの人に注目されるそういう存在だと思っています。しかし、クリスマスに神から送られた救い主は「飼い葉桶」をトレードマークにするような、「こんなところに・・・」というところに来てくださる方だというのです。

今もそうです。神はすべてを超越したところで、超然と人間の苦しみを見ておられる方ではありません。神は、私たちが「神はどこにおられるのだろうか?」と悩み苦しむ現実の中に、来てくださいます。今も、がっかりして、落ち込んで、悩んで、苦しんでいる私たちの現実の中に共にいてくださるのです。今、あなたが苦しみの中におられるならば、神はあなたのそばにいてくださいます。一番近くにいてくださる方です。このクリスマスの時、まだまだ先が見えませんが、この困難の中で、私たちと共に歩んでくださる神に、イエスに目を留めてみませんか。

<牧師室より>2021年11月号「すべてのことについて感謝しよう!」

 今年も早くも11月になりました。11月25日はサンクスギビングデーです。

去年の11月号の月報を読み返してみたら、ちょうどその頃、新型コロナ感染の第2派が始まったところ。まだワクチンも承認される前で、寒くなっていく時に感染拡大が心配されていたときでした。そして、もう一つ、11月の初めには大統領選挙があって、結果によっては暴動が起こるのではないかと心配されていました。(新型コロナ感染は恐れていた通りになり、また大統領選挙の結果を受けての混乱は翌年1月の連邦議会議事堂への襲撃事件へとつながっていきました。)本当に大きな不安の中で、サンクスギビングを迎えたのだなあ、と思い出していました。

コロナ禍での2回目のサンクスギビング、そして、12月のクリスマス。ワクチン接種の広がりで、1年前のような大きな不安の中にいるわけではありませんが、まだまだ気を抜けない状況です。これから寒くなっていく中で、何よりも、いつものように、多くの皆さんと楽しい時間を一緒に過ごせないのは残念です。しかし、元々サンクスギビングは、アメリカ大陸に渡ってきた人々が寒く厳しい冬を乗り越えて、翌年の収穫を祝ったことが始まりですし、クリスマスは、暗闇を照らす光としてこの世に来られたイエスの誕生を祝う時。困難や問題の中でこそ、その意味を深く知ることができるのではないでしょうか。

聖書は「感謝」について、このように語っています。

「すべてのことについて感謝しなさい。」第一テサロニケ5章18節

「すべてのことについて」です。私たちは「心から感謝したいこと」については、「あ、いつも感謝しなきゃいけないな」と反省することは必要だと思いますが、感謝すること自体は、それほど難しくはありません。しかし、「普通感謝できないこと」「とてもじゃないけれども感謝できないこと」について、感謝することはとても難しいことです。しかし、聖書は、それらについても、そんな状況の中でも、「感謝しなさい」と命じているのです。それは自分の力ではできないことですが、神様はそれをする力を与えてくださるのです。

今年のサンクスギビング、教会では、昨年に続いて今年も、例年のような愛餐会(食事会)はできませんが、でも、心から、神様に感謝をささげる「感謝祭礼拝」をささげます。11月21日(日)午後1時半から。是非、お出かけください。そして、困難の中でも、感謝をささげる時に与えられる祝福を経験させていただきましょう。

<牧師室より>2021年10月号「踏み出すときに開かれる道」

先月の月報で、NYでの礼拝をスタートすることをお知らせしました。「沖へこぎ出しなさい」との聖書からのメッセージを受け取って、踏み出す思いを書かせていただきました。そして、9月12日、ついにその日がやってきて、第1回のNYマンハッタンでの礼拝がスタートしました。初めての場所で、わからないことや、あれ、こんなはずじゃなかった,などということもあるだろう、当日になってバタバタすることあるだろうと思い、何度も確認し、緊張して会場に向かいました。早く着いたのですが、駐車スペースを探してぐるぐる回りました。結局有料駐車場に車を止めて、会場に歩きました。一緒に祈りつつ、準備を進めてきた皆さんと現地で合流し、会場に入りました。予想通り、バタバタ準備をしましたが、いざ、始まってみると、本当に自然で、いつものNJの教会でささげている礼拝と全く変わらないように思いました。期待していた以上の方々がおいでになり,心から感謝して共に神様に礼拝をささげました。

聖書の中に、エジプトの奴隷から解放されたイスラエルの民がヨルダン川を渡る場面が出てきます。時は麦の収穫の時期、ヨルダン川は上流の山々の雪解け水で水量が増えていました。そのような時に民はこのヨルダン川を渡って向こう側に行くようにと、神から導きをいただいていたのです。せめて川の水量が少ないときにしてくれたら、どんなに楽だったろうか、と思ったことでしょう。しかし、神はこのタイミングで「進みなさい」と民のリーダーに語りました。その語りかけに彼らは従ったのです。そして、このように書かれています。

「箱をかく者がヨルダンにきて、箱をかく祭司たちの足が水ぎわにひたると同時に、-ヨルダンは刈入れの間中、岸一面にあふれるのであるが、- 上から流れくだる水はとどまって、はるか遠くのザレタンのかたわらにある町アダムのあたりで、うず高く立ち、アラバの海すなわち塩の海の方に流れくだる水は全くせきとめられた」(ヨシュア記3:15-16)

民の先頭を歩く人々の足が水に着くと同時に、その川の水は枯れ、乾いた地になりました。そして、民はそこを通っていくことができたのです。

私たちの歩んでいく道にも、しばしば、先がはっきりと見えないのに、完全に準備ができているわけではないのに,踏み出していくことを求められるときがあります。そんなとき、踏み出したときに見えてくる道があるのです。踏み出したときに開かれる道があるのです。ですから、勇気を出して踏み出していくことが大切なのです。

NYマンハッタンでの礼拝、10月はまた第2週、10日の日曜日午前10時15分からです。教会の礼拝はいつでもそうですが、クリスチャンであるなしに関わらず、皆さん大歓迎です。是非お出かけください。詳しくはこちらのチラシをご覧になってください。神様がこれからも道を開き続けてくださいますように。

<牧師室より>2021年9月号「沖へこぎ出しなさい」

ずっと祈ってきましたが、9月12日から、まずは毎月1回からですが、第2日曜日の午前中に、NYでの礼拝をスタートします。NY市の郊外に位置する私たちの教会には、ずっと、NY市から来られる方々が多くおられました。また、車の便が必要な方々のことを覚えて、送迎の車も出してきました。それでも、「自分はクリスチャンだから、NJの教会に来ることはできるけれども、クリスチャンではない友達を誘うことは難しい」との声を聞きながら、なんとか、NYでも礼拝をささげることができないだろうかと祈ってきました。

それが、2020年からの牧師としての任期を更新するかどうか、祈っている中で、この任期の中でNYでの礼拝をスタートすることができないだろうかという思いが強くされていきました。元々、2020年の9月スタートを目指していたのですが、コロナで多くのことが制限される中で、この計画も延期になりましたが、この延期を通して、2021年の初めからは、このために心に重荷が与えられた方々と共に語り合い、祈り合い、備えることができました。そして、今年の6月2日のNYでの礼拝のための祈り会のために準備をしている中で、

「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」ルカ5:4

の聖書の言葉が心に響いてきました。この言葉は、夜通し働いて、でも、何も獲れずに、がっかりし、疲れ果てて、網を片付けていた漁師のペテロに向かってイエスが言われた言葉でした。ペテロはいろいろ言いたいことはあったでしょう。理由をつけて、イエスの言葉から逃げることもできたでしょう。しかし、最終的にはこのイエスの言葉に従った時に、網が破れそうになるくらいの多くの魚が捕れたというのです。この言葉を心に与えられたときに、私自身は、これをNYでの礼拝をスタートするための、神様からの語りかけと受け取りました。従うときに、祝福が与えられる招きであると思わされたのです。

どうか、皆さん祈ってください。この働きを通して、神様を知る方々が起こされますように。イエスに出会い、イエスに心を触れていただいて、新しくされる方々が起こされますように。また是非、お知り合いをご紹介ください。一人でも多くの方々に届くことができますように。案内はこちらから。