2021年1月 <牧師室より> 「共にささげる礼拝をめざして」

あけましておめでとうございます。2021年もどうぞよろしくおねがいします。

クリスマスを過ぎて、少しずつ日が長くなっていること、気が付かれましたか?私の住んでいるNJでは、夜が明ける時間はほぼ変わらないのですが、日が沈む時間が一番早い時に比べると10分くらい遅くなっています。冬の寒さはこれからが本番ですが、昼間の時間はどんどん長くなっていきます。確実に春はやってくるのです。パンデミックの中で新しい年を迎えることになりましたが、必ず良い方向に向かっていくのだと希望を持っていきましょう。そして、困難の中でも、わたしたちと共に歩んでくださる神を信頼していきましょう。

わたしたちの教会の礼拝は、11月の末からまたオンラインに戻りました。しかし、昨年の春は録画のYouTube配信のみでしたが、今回はZoomで共に礼拝をささげ、そして、メッセージの部分だけを録画でYouTube配信しています。

ここに、わたしたちは「なんとかして『共に』礼拝をささげたい」という思いを込めています。教会は「建物」ではなく、「人の集まり」であり、そして、礼拝は日々の歩みの中で、「個人で」ささげるものであると共に、日曜日に「集まって、共に」ささげるものだからです。YouTube配信だけだと、その向こう側で礼拝をささげている一人ひとりのことを想像して、感じることはでき、フィードバックをいただくことによって、共に礼拝をささげている事がわかるとしても、やはり、一人ひとりで礼拝をささげている感じが否めません。もちろん、それが意味がないというわけではないのですが、Zoomのような会議システムを使うと、「人の集まりとしての教会」をより感じることができるのです。

ただ、それが苦手な方もおられるでしょう。テクニカルな問題で難しさを感じておられる方々もおられるでしょう。「ビデオ会議システム」として作られているので、音質が犠牲になっているところはあります。言葉を交わそうとするとちょっとしたタイミングの悪さに難しさを感じる場面もあります。

そして、何よりも「匿名でいられることの方が助かる」という場合もあります。私もそのように感じる場面もあります。匿名で覗きに来る、という思いで教会に来られる方々を、わたしたちはいつも歓迎します。そのためにも、YouTube配信も続けていきます。また、聖書の中には、誰にも気付かれないように、後ろからイエスに触った人の話も出てきます。そして、その後ろから触った人にも、イエスから力が流れ出て、病が癒やされたことが記されています。(そして、その後、その人はイエスの前に出て、人々の前でどんな事が起こったのか、話すことができるようになりましたが・・・)ですから、どんな思いで神に近づく人も、神は喜んで迎えてくださるのです。

今年、いつまでこのような生活が続くのか、と思います。しかし、どんな状況の中でも、心からの礼拝を神にささげることができますように。

「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」詩篇50:15

2020年12月<牧師室より>「暗闇に輝く光」

今年もクリスマスの時期がやってきました。クリスマスはイエスの誕生をお祝いする日。しかし、実際イエスが生まれたのは12月ではないだろう、というのが通説です。クリスマスの夜、野原で羊の群れの番をしていた羊飼いのところに、天使が「今日、ベツレヘムで救い主がお生まれになった」とお告げをしたと聖書は記していますが、12月は寒すぎて、羊飼いが野宿をすることはないだろうというのです。そこで、聖書に書かれていることをヒントに、いろいろな計算をする人がいて、5月頃なのでは?とか、10月頃だろう?とか、言われます。ですから、実際は「わからない」というのが一番正しい答えなのでしょう。

では、どうして、この時期にクリスマスを祝うようになったのでしょうか?それはキリスト教が緯度の高いヨーロッパに広がっていったときに、夜の一番長い冬至を過ぎて、太陽が帰ってくる、冬至の祭りに、この世に光として来られたイエスの誕生を重ね合わせて祝うようになったのだろうということです。

「暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。」イザヤ書9章2節

今年はクリスマスのキャンドルライトサービスも、教会で集まることはやめて、オンラインで集まり、共にクリスマスを祝う事になりました。このCovid-19の感染が広がり始めたときにはここまでとは考えられませんでした。今も、多くの方々がリモートで働き、リモートで学校の勉強をしています。仕事を失った方、これからどうなるのだろうかという不安の中におられる方々もおられます。以前私達の教会に集っておられた方の中にも、感染しおなくなりになった方もおられます。本当に大変な時を過ごしています。しかし、だからこそ、暗闇を照らす光として、この世に来てくださった、イエスの誕生の意味を深く味わうことのできるときなのだと思わされます。

有効なワクチンの実用化も見えてきて、出口が近づいてきている期待も高まってきていますが、決して、「これを通り抜けたら、明るい未来が待っている」ではなく、「この困難の只中で、落ち込みがちな私達の心に光を照らしてくださる」イエスに照らしていただきましょう。今年のクリスマス、他のものをすべて削ぎ落として残る、大切なメッセージを受け取るときとさせていただこうではありませんか?

12月は毎週Zoomで集まって礼拝をささげていきます。また、子どもたちのためのJOYJOYクリスマスも、24日のクリスマスイブのキャンドルライトサービスも、オンラインでの集まりになります。ぜひ、ご参加ください(参加方法についてはこちらからお問い合わせください)。今年のクリスマス。このようなときだからこそ、本当に意味の深い、本当のクリスマスを迎えようではありませんか。

2020年11月牧師室より「嵐の中で」

夏の間、新型コロナの感染が収まっていたヨーロッパでまた感染が拡大して、ロックダウンに追い込まれた国々のニュースが流れてきています。ここアメリカの北東部も、10月の後半になって急に感染者の数が増えてきています。これから、恐れられていた第2波が来るのでは、という心配が募ってきています。そして、11月3日のアメリカの大統領選挙。この状況の中で、手続きが混乱するのでは?どちらの結果になったとしても、結果を受け入れられない人々が暴動を起こさなければいいけれども・・・などという思いが湧いてきます。

そんな時に、一つの聖書の情景が浮かんできました。ガリラヤ湖を渡ろうとしていた弟子たちに、突然の嵐の中で、嵐が襲ってきます。イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、「しっかりするのだ、私である、恐れることはない」と言われます。それを聞いてホッとした弟子たち、そのリーダーであったペテロが、「イエス様、あなたでしたか、でしたら、私に命じて、あなたのところに歩いて行かせてください」と願い出るのです。イエスは「おいでなさい」とペテロを招かれます。ペテロは小舟を出て、湖の上に踏み出すのです。一歩、二歩と歩み始めたペテロ、しかし、途中まで行って、ペテロは風を見て恐ろしくなった、といいます。嵐の中で、波風に気を取られて、恐ろしくなってしまったというのです。その時に、彼はズブズブと沈んでいってしまいます。そこで、イエスはすぐに手を伸ばし、ペテロの引き上げ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた、という箇所です。ペテロはイエスのことを見つめていたときには水の上を歩けたけれども、風を見た時に、波を見た時に、嵐を見た時に、ズブズブと沈んでいってしまったのです。

ここには象徴的な意味があります。私達の人生でも嵐に遭う時に、イエスに目を留めていれば、イエスをまっすぐに見つめていれば、溺れることはありません。恐れる必要はないのです。恐れてしまうのは、嵐の方に注目してしまうからです。

これから、アメリカや世界に襲ってくる嵐、その中でも、私達は目を向けるべきところにしっかり目を向けていきましょう。決して周りの状況を無視するのではないのですが、でも、それに心を奪われてしまうのではなく、それに捕らわれてしまうのではなく、その嵐の中でも、たしかに共にいてくださるイエス・キリストに目を向けて歩んでいくのです。

「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」

ヘブル人への手紙 12章2節

2020年10月牧師室より「与えられているものを用いて」

今年の3月に、新型コロナウィルスの感染が広がって、「集まらない」「会わない」ことが、相手を尊重することであり、愛することである、という普通とは真逆な事が起こりました。いつもは時間を取り分けて集まること、時間と労力をかけて会いに行くこと、会って話をすることが、お互いを大切にすることでした。私自身、「大切なことは会って話をしなければ・・・」といつも思っていました。しかし、「誰が感染しているかわからない」「自分が感染していることを前提にして、周りの人々を感染させないように行動しよう」という状況の中で、「会う」ことは相手を危険に晒すことであり、「集まる」ことは、社会に対する無責任な行動となってしまいました。今は、少し状況が落ち着いて、礼拝だけは集まっていますが、そこでも、互いに距離を取り合い、握手はハグはなし、讃美歌も声を抑えて、曲を減らして歌っています。やはり、それが互いを尊重し、愛することだからです。たとえ、それが「なんだか物足りない」「さびしい」と思っても、そのようなお互いの気持を遥かに超えて、互いの安全を守ることが大切なことだと思うからです。それは決して、ある人々が言うような、見えないウィルスに対する「恐れ」による逃げではなく、「愛」による積極的な行動です。それが責任をもってこの地に生きる教会の使命なのです。

そのような状況の中で、インターネットやコンピューターの発達がどれほど助けになっているかと思います。

私がJCCNJの牧師となったのは、やっとeメールが普及し始めた頃でした。教会がホームページを作って、教会の存在を知ってもらうということが始まったのもその頃です。「ダイヤルアップ」でインターネットに繋ぎ、文字で情報を発信し、また集めていました。しかし、それから23年が経ち、今は教会の礼拝の様子をビデオで発信することができるようになりました。また、Zoomなどの会議ツールで互いの顔を見、互いの声を聞きながら、あたかも、同じところにいるかのように語り合い、祈り合う事ができるようになっています。これが今から23年前に起こっていたら、私たちはどうしていただろうかと思います。

最近の礼拝メッセージの中で繰り返し語られていることは、「私たちに与えられているものは、神様が私たちに任されたもの。私たちはそれを神様の望まれるように用いることが大切」ということです。お金や、時間、才能などを、神様が私たちに託されたものとして、互いのために、神様のために用いていくのです。今、私たちはそこに「テクノロジー」も加える事ができるのではないでしょうか。神様から任され、託されたものとして、このインターネットやコンピューターの発達も、思いっきり、色んな方法で用いさせていただこうではありませんか。そして、「お金」があくまでも神様が託された道具でありながら、しかし、私たちがそれに支配され、コントロールされてしまう危険もあるのと同じように、このテクノロジーも、私たちがそれに支配され、振り回される危険があることをわきまえながら、しかし、恐れないで大胆に、このテクノロジーを用いさせていただこうではありませんか。

「福音のために、わたしはどんな事でもする。」コリント第一の手紙9章23節

2020年9月牧師室より「困難の中での賛美」

「こんなに長くなるなんて・・・」。わたしたちは何度この言葉を口にしてきたことでしょう? 3月にCovid-19感染拡大の影響を受けて、生活に影響が出始めてから、ちょうど半年が経とうとしています。

NY・NJ地区が少しずつ落ち着いてくる中で、私たちの教会では7月からは感染予防対策をとって、いつもとは違った形で、ザイオン教会のジムに集まって礼拝をささげていますが、その中で、まず私の心に引っかかったのは賛美歌のことでした。

私は子どもの頃から、教会で大きな声で歌を歌ってきました。賛美歌を思い切り歌うのは、私にとっての礼拝の本当に大切な部分だったのです。神様に捧げる賛美ではありますが、賛美をささげている中で、心が整えられ、神様に語られて涙したことが何度あるでしょうか?しかし、感染対策を取るためにはマスクをして、控えめに歌って、また歌う曲数も歌詞も減らして、最低限にしなければなりません。場所によっては歌うことを完全に禁止されたり、自粛したりしているところもあると聞きます。そんな中で、私たちは集まることの意味があるのだろうかとさえ思いました。礼拝が完全にオンラインだったときは、私たちの家のリビングルームで何曲も賛美歌を大きな声で歌っていましたから・・・。

そんなことを思っていた時に心に浮かんだのは、ナチス・ドイツの強制収容所の中で信仰を守った人々の礼拝のことでした。彼らは秘密に持ち込んだ聖書を開いて、看守に気付かれないように小さな声で賛美歌を歌って、神に礼拝をささげました。そして、その礼拝のあるところには、人々の間のギスギスした空気が薄れ、ちょうど暗闇に灯火が輝くように、影響が周りに広がっていったといいます。大きな声で歌いたくても歌えない、命の危険もある、そんな状況の中でささげた賛美、その声がどんなに小さかったとしても、神様はそれをどれほど喜ばれたことでしょうか?

彼らのおかれた状況と、私たちの今の状況は全くレベルが違います。私たちには自由が与えられ、いろいろな制約はありますが、それはお互いを守るための制約です。彼らが経験したような厳しい状況と比べることはできません。しかし、その賛美を喜ばれた神様が、私たちがお互いを守るために、いろんな制約の中で集まって礼拝を捧げようとする中で、大きな声を控えて賛美をささげることを、喜ばれないことがあろうか、小さな声であったとても、私たちの心からの賛美を喜ばれないことがあろうかと思わされたのです。

「さあ、われらは主にむかって歌い、われらの救の岩にむかって喜ばしい声をあげよう。 われらは感謝をもって、み前に行き、主にむかい、さんびの歌をもって、喜ばしい声をあげよう。」詩篇95:1-2

毎週、神様に心から捧げる礼拝の中で、賛美歌は以前よりも、もっと深い意味を持つようになりました。一つ一つの歌詞をもっと味わいつつ、心からの賛美として神にささげるようになりました。困難の中で、神は私たちをより本質を重んじるように、本質に立ち返るようにと招いておられるのだなあ、と思わされます。今月も心からの賛美を神様にささげながら歩むことができますように。

2020年8月牧師室より「内側からあふれるもの」

この8月に、私のニュージャージー日本語キリスト教会の牧師としての新しい3年の任期が始まります。もうこれが9回目の任期の更新ですが、何度更新しても、決して慣れることはありません。毎回、新しい気持ちでスタートします。毎回、あの30代の前半でこの教会の牧師になったときの思いに引き戻されます。今回、このような状況の中ですが、それでも、いや、それだからなおさら、新しい気持ちで、これからの3年間、神様がどんなことを準備しておられるのか、楽しみにしています!

一番強く思わされているのは、この3年間、どんな状況の中にあっても、いつも内側から溢れるもので奉仕させていただきたいということです。

イエスは言われました。「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(ヨハネ4:14)

聖書の中には、形だけ繕って、外側だけ整えて、それなりの生き方をしているように見せている人々もいました。イエスはそのような人々を、「偽善者よ!」と叱りつけて、内側からあふれるものによって生きるようにと、人々を招かれたのです。そして、その内側を私が満たそう、と言っておられるのです。渇かない水、心の中の泉を与えると言われるのです。

私自身、外側を繕って生きていたこともありました。外側ばかり、他人の目にどう映るかばかりを気にして、自分を守ってきました。そして、それでいいと思ってきました。しかし、ある時、「偽善者よ!」とのイエスの言葉が自分に向けられているのだということに気がついて、イエスの与える 生ける水をいただく経験をしました。私達の内側に泉があれば、それは強いですね。困難の中でも、状況に振り回されないで、強く生きていくことができます。

このような時代、その内側からの力、内側から溢れるものが、どれほど必要かと思わされます。それをイエスは「あなたに与えよう」と言われるのです。この力を頂いて、この満たしを頂いて、これからの3年間を歩ませていただきたいと思います。どうぞ、よろしくおねがいします。そして、日々、私に神様からの力が満たされますように、どうぞお祈りください。

2020年7月牧師室より「新しい時代を共に歩む」

私たちの教会では、7月5日から、いつもお借りしているザイオン・ルーテル教会のジムに集まっての礼拝を始めます。これは、3月にすべての集まりがオンラインに移行してからずっと待ち望んできたことです。しかし、まだまだ、NJ州全体で何百人レベルで新しい感染者が見つかっている段階なので、両手を上げて喜んでスタートできることではありません。換気に気をつけて、social distanceを十分にとって、細心の注意を払っての再スタートになります。

そして、今回準備している中で、気をつけていきたいと思ったことは、ひとりひとりの感覚が違うということです。すぐにでも喜んで集まって礼拝をささげたい、という方もおられれば、しばらく様子を見て判断する、またもう完全にリスクがなくなるまでは集まることはできない、という方まで、いろいろな方々がおられます。そして、それは決して「信仰」の話ではなく、それぞれの置かれた状況の違いであり、健康状態の違いであり、また感性の違いでもあるのです。その違うお互いを受け入れるのが教会です。

実際に教会堂に集まる礼拝が始まったときに、そこに集う方々と、「集えない」「集わない」方々が互いに互いを尊重し、受け入れ合い、励まし合って行くことがどれほど大切かと思います。そこに教会の真価が問われてくると思います。全員が同じ考えで同じ方向を向いているのではなく、それぞれ違うのだけれども、互いを受け入れ、互いを認め合って、神のもとにへりくだって共に歩んでいくのです。

「キリストもわたしたちを受けいれて下さったように、あなたがたも互に受けいれて、神の栄光をあらわすべきである。」(ローマ15:7)

先月ここに書かせていただいたように、私たちは元に戻るのではありません。新しい地に踏み出すのです。新しい時代に新しく「共に生きる」ということが問われています。互いの違いを受け入れ、尊重し、互いにとって何が一番プラスになるのかを考え、そこにエネルギーを使っていきましょう。神様が私たちの新しい出発を守り、支え、また新しい気づきを与えてくださいますように。

2020年6月号牧師室より「新しい出発」

3月の初めに教会での集まりをオンラインに移行する時にも、4月の初め、イースターを迎えようとしているときも、こんなに長く、外出制限が続くとは思っていませんでした。また5月の初め、感染拡大もピークを過ぎている状況で、この5月のどこかでまた集まることができるのではないだろうか、という期待も少しは持っていました。しかし、6月になろうとしているこの時、少しずつ規制が緩んでいる中でも、教会堂に集まって共に礼拝をささげる見通しはまだ立っていませんし、また、もしも集まることができても、多くの制限の中で、どんな形で礼拝をささげるのだろうかと思います。

残念ながら、アメリカの大統領はそのような視点は持っていないようですが、多くの指導者たちは、「私たちはもとの生活に戻るのではない、戻ろうと思っても戻ることはできない。私たちは新しい出発をするのだ。」と人々に訴えています。そうだろうと思います。そして、同じことは教会にも言えるでしょう。ただ、回復するのではない、神様は私たちを新しい出発に導いておられるのだと。聖書のなかにはこのような言葉があります。

「あなたがたは、さきの事を思い出してはならない、また、いにしえのことを考えてはならない。 見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。」イザヤ43:18-19

この言葉はバビロンに捕囚の民として連れて行かれたイスラエルの民に対して、解放の約束、回復の約束を語られた神の言葉です。バビロンから解放されて祖国に帰っていく、けれども、それは単なる回復ではなく、神が新しいことをなさるのだ、だから、今までの考えに捕らわれていてはならない、神はあなたが想像していなかったような素晴らしいことをなさるのだ、という預言だったのです。

19年前の9-11の時のことを思い出します。あの日から、ガラッと空気が変わってしまったアメリカの社会、早く元の平和な日々が帰ってこないだろうかと思っていた時に出たセミナーで「私たちは9-11前の時代にはもう戻れません。そのことを受け入れることが、第一歩です」と言われて、はっとして、それから前に踏み出すことができました。

私たちもコロナ前の社会にはもう戻れません。それは受け入れがたいことかもしれませんが、それを受け入れた時にこそ見えてくるものがあります。受け入れた時にこそ、前に進み出すことができるのです。そして、神様は私たちに「新しいことをなす」と言われています。より良いもの、より素晴らしい祝福を準備しておられます。私たちが経験したことがないようなもの、私達の思いを超えたものを準備しておられます。それを待ち望みながら、楽しみにしながら歩んで行こうではありませんか?

2020年5月号牧師室より「見えないものが見えるように」

4月はNY/NJ地域にとって、この新型コロナウィルスとの戦いの中で、とても厳しい、大きな痛みの中を通る1ヶ月でした。今、新しく感染する方や、病院で治療を受けておられる方の数はピークを過ぎたと言われていますが、それでも、まだまだ多くの人々が生死の境で闘っておられますし、何万人もの方々が命を落としました。今も医療現場で最前線に立って尽力しておられる方々のために、私たちの生活を支えるために働いている方々のために、また行政を始め各分野のリーダーの働きのためにも、祈らされます。

教会では、3月の初めから、礼拝の他、すべての集まりを、物理的に教会の建物やお互いの家に集まって守ることができなくなって、2ヶ月が経とうとしています。2ヶ月前、このような状況になった時、集まること、面と向かって話をしたり、祈り合ったりすることがとても大切な働きである教会はこれからどうなっていくのか、と不安を覚えないではいられませんでした。

しかし、日曜日の礼拝はすぐにビデオでの配信になり、ウィークデーの集まりも、3月の半ばくらいから少しずつオンラインで集まることができるようになってきました。コンピューターやスマートフォンで互いの顔を見て、話ができる集まりが増えていきました。4月には、子どもたちのためのJOY JOY イースターもオンラインで持つことができました。

そんな集まりが週1回から、週2回、3回、4回と増えていく中で、一つの文章に出会いました。うろ覚えなのですが、「やっとみなさんにとっても当たり前になりましたか」というような題だったと思います。「私たちはずっと、このようにやってきました。リモートで勉強をして、リモートで仕事をして・・・でも、それはこの社会では本当に特別なことで、ほんの少ししかリソースがありませんでした。・・・」体が不自由だったり、病気だったり、外に出るのが不安だったりして、学校や職場に行けない人々の言葉でした。

「バリアフリー」ということが、叫ばれるようになってから、しばらく経っていますが、わたしたちは、「集まることができない」ということが自分の身に起こるまで、そのようなことが必要な人々のことがわかっていませんでした。

今回、オンラインでの集まりが始まった時に、ご高齢の方々で、ご自分でセッティングできないという方々もおられました。その事に気がついてから、「もっと前の段階、ご訪問ができなくなる前にセッティングをして差し上げていたらよかったのに」と思いました。

ある教会では、この混乱が始まる前から、ご高齢だったり、病気だったりして、どうしても礼拝に集えない方々のために、オンラインで礼拝をささげることができるようにと、すでに、配慮が始まっていたそうです。その教会は、外出制限の命令が出たときにも、すぐに対応することができたそうです。

今、また教会堂に集まって礼拝をささげることができる日が来ることを願っています。今月中にその日が来るのか、それとも来月なのか、と待ち遠しく思います。しかし、それが実現した時に、もう一度、私たちの届かないところにおられる方々にどのように届いていくのか、愛と知恵と勇気が必要であろうと思います。今回見えるようになったものを、見失ってしまうことがありませんように。「コロナ後」の世界がどんな世界であったとしても、私たちが見るべきものをしっかりと見ていくことができますように。

「何事でも人からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。」(マタイ7:12)

2020年4月号<牧師室より>「復活の力をいただいて」

新型コロナウィルス(COVID-19)の感染拡大で、3月の初めから教会の集まりもみんなオンラインやビデオになりました。その後、必要な買い物以外は外に出るな、仕事も勉強も家から、と家の中に缶詰になって、しばらく経ちます。みなさん、守られていますか? 4月もこの状況が続きそうです。今、医療現場で最前線に立って尽力しておられる方々のために、また行政をはじめ各分野のリーダーの働きのためにも、祈っていきましょう。

しかし、街では、木々が芽吹いて、花が咲いて春の訪れを告げています。4月12日にはイエスの復活をお祝いするイースターを迎えます。今年はいつものような教会でのJOY JOYイースターも、イースターの礼拝と持ち寄りの食事会もできませんが、それでも、イースターはイエスの復活をお祝いする大切な日なのです。

「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。」ルカ24:5

これはイースターの朝、イエスのからだに油を塗ろうと思って墓に来た人々に天使が告げた言葉です。イースターのメッセージは、「主イエスは生きておられる」ということです。イエスは今も生きておられます。私たちと共にいてくださいます。困難の中でも、闘いの中でも、私たちと共にいてくださるのです。

私たちはこのような状態がいつまで続くのか、と思います。早く平常に戻って欲しい、いつ戻るのだろうか?と思いながら過ごしています。5月か、6月か、夏までには・・・と思います。そうしたら、あれもできる、これもできる、もうしばらくの辛抱だ、そのように願います。しかし、この今も生きておられる主イエスを信じる時に、私たちは困難の只中で、闘いの只中で、しかし、それに縛られず、それに支配されず、上を向いて、今与えられ使命に生きながら、希望と勇気をもって歩んでいくことができるのです。

神を信じたら、自分の会社は潰れないとか、他の人が感染しても自分までは来ないとか、症状も重症化しないですぐに収まるとか、そういうことではありません。同じように苦難の中を通ります。同じように困難の中で途方に暮れます。しかし、その中でも、私たちと共にいてくださるイエスの力を頂いて、イエスを復活させた神の力をいただいて、歩んでいくことができるのです。

「 わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。 いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。」(2コリント4:8-10)

今年のイースター、私たちすべての者達にとって、特別なイースターとなりますように!