「19年かかってわかった神様の恵み」

私は18歳の時、初めて日本に行った。
香港の高校を卒業して、イギリスやアメリカに留学した同級生たちをよそに、人と同じになりたくない、という思いと、テレビで青春ドラマなどを見て憧れていた日本に行きたいという漠然とした思いだけで、ひとり東京へ行った。
東京に住んでみると、言葉はほとんどしゃべれないし、狭いアパートで、夢見ていたことと現実は違った。当時は留学生ビザを取るにも身元保証人を見つけるかブローカーを通すしかなかったので、「自分は自力で何とかするのだ」という思いで、正規な留学生ビザも取らずに語学学校へ入った。そして毎日ひたすら日本語を勉強した。
日本の大学に入るには身元保証人の近辺に住むという条件だったので、おじの知り合いが愛知県におり身元保証人になってくれたが、留学生ビザのない私を受験させてくれたのは岐阜大学だった。なぜあの時岐阜大学が受験させてくれたのか今でもよくわからないが、事情を知った受験係の事務の人が手紙をくれて、「普通の試験を受けてみないか」と言ってくれたので、一般の日本人高校生と同じように日本語で試験を受けて工学部に合格した。すぐに友達が出来、先生たちにも良くしてもらい、留学生としてロータリークラブから生活費に相当する額の奨学金をもらい、充実した大学生活を送ることが出来た。いつもいつも一生懸命前向きに勉強し、家庭教師のアルバイトもして、トップで卒業。自分の道を切り開いていった。ドイツにも憧れ、大学でドイツ人の先生に一生懸命ドイツ語を習い、ドイツ留学をも計画した。
大学院に進む時は、日本政府とドイツ政府から奨学金オファーがあり、ますます自分の努力と運の強さに自信を持った。尊敬する教授のいた東北大学を選び、日本国文部省の国費奨学金もたくさんもらえたので、博士課程の途中で結婚して、新しく出来たばかりの留学生会館に住んだ。昼も夜も研究に没頭し、研究成果が何度も全国版の新聞に取り上げられたので、ますます自分のがんばりに自信を持ち、「運命は自分の力で開ける」、と思った。
博士課程を終えるころ、スタンフォード大学やNASAから博士研究員のオファーがあった中でNASAでの研究を選び、日本から見れば憧れの研究所ですばらしいスタートだと、意気揚々とアメリカに渡った。メリーランドのNASA Goddard Space Flight Centerでの研究生活をはじめとし、フロリダの大学、コロラドの国立海洋大気局を渡り歩いて研究実績を積んだ。
コロラドで妻が教会に行くようになり、結婚9年目にして娘が与えられた。
このころ、アメリカでの研究生活は8年目となっていたが、職場の人たちを見ながら、「アメリカで生まれ育ったわけでなく学校教育を受けたわけでもない、アジア人の自分がこの国でどれだけやっていけるのだろう」、と疑問や違和感、不安を感じるようになっていた。ちょうどそんな時に、東北大学の教授がコロラドまで来て、「新しく産官学連携事業として研究所を作るので来てほしいと」言ってくださったので、「これはアメリカでつけた実力を発揮して活躍する機会だ」と、故郷に錦を飾るような気持ちで日本に戻った。研究分野も今までの宇宙と大気の光イメージング計測から生体光計測に広がった。
はじめ仙台郊外に出来ると思っていた研究所が山形市内にできることになり少しがっかりしたが、蔵王と月山の間に広がる自然豊かな山形市に、「こんなところで子育てできるなんて幸せ」と妻は喜んだ。田んぼや畑、果樹園、美しい山河、人情豊かな山形の人たちに囲まれて、娘は伸び伸びと育った。妻は山形南部教会に娘と一緒に毎週礼拝に通っていたが、私は気の向いた時についていって、お客さんとして、みんなに親切にしてもらうのがうれしかった。普段は忙しいこともあり、神経がもたないので、子どもの世話も家のことも何もしなかった。特に、娘と接する時間を大切にしなかったことは、今でも悪かったと思っている。
アメリカ帰りで皆に期待されていると思っていたが、国のプロジェクトはなかなか自分の思うようにいかないことが多く、数年ごとに切り替わりそのたびに状況が変わったり、日本経済も悪くなったりして、困難もたくさんあったし、日本流のやり方や職場の状況に不満や怒りもあった。思い通りに行かない不満やイライラを妻にぶつけたり、教会に行っても「つまらない」と思うようになり行かなくなった時期もあったが、教会の人たちや牧師先生はいつも変わらず親切だった。でも、それは「自分がいい人だから相手も良くしてくれるのだ」と考えていた。「あなたは罪びと」などといわれるのはいやで、自分が退職して現場から離れるまで、神様と距離をおきたいと考えていた。
このような研究にかかわる政策と体制に限界を感じ、共同研究していた会社に、「今の研究をアメリカで進めようじゃないか」と持ちかけたところ、会社も賛同して採用してくれたので、東京本社のメンバーとともに、2007年春、ニュージャージーに赴き、会社の研究所を立ち上げた。 山形を去る前に、山形新聞が特集を組んで3日連載で、私の13年間に亘る山形での研究と大学指導の歩みを「産官学連携の実例」として紹介した。それをもって、自分が山形でやったことの意義が明確になり、自分の足跡を残したことに気持ちの整理がつき、心残りなくアメリカに旅立てると思った。
ニュージャージーでは優秀な部下に恵まれ会社の信頼を得て、世界最高機能の眼科診断イメージング装置の開発に成功したことで、日本の国際競争力を高めることに貢献したと喜びを感じている。
いつもいつも自分は試練と闘っていると思ってきたが、その後ろにどれほど多くの人たちの助けがあったか、今わかる。コロラドで妻と娘を温かく受け入れてくれたFirst United Methodist Churchの人たち、山形を出発するその日の朝までお世話になった山形南部教会の人たち、ホテルの玄関まで見送りに来てくれた友人と隣人たち、仕事先の長野で高速道路のインターチェンジまで見送りに来てくれた教会員のことは忘れない。妻と娘を送り迎えするうちに温かく仲間に入れてくださったニュージャージー日本語教会の皆さん。2013年の元旦礼拝でついに洗礼を受けるに至ったのも、背中を押してくれた人たちのおかげであるし、私をたくさんの人が祝福してくださったことは本当に感謝である。「私がいい人だから」「私が何か良いことをしたから」でなく、ただただ私のために祈り助けてくださったたくさんの人たち、その人たちを通して働いてくださった神様の恵みがようやくわかった気がする。私を今まで祈り支えてくれた妻にも感謝している。
今まで数々の試練があったが、それと同じだけの恵みがあったのだと今は思える。試練はその時は苦しいが、時がたてば記憶の中の一部として遠ざかっていく。しかし恵みは遠ざかることないばかりか、記憶の中の一番近くに残って常に自分に喜びと勇気を与えてくれる。今まで知らずに沢山の神様の恵みを受けてきた私、今まで人に与えることを考えもしなかった私であるが、このみ言葉に出会って、このようになりたいと思うようになった。

「受けるよりは与える方が、さいわいである。」
使徒行伝20:35
感謝します。

月報2014年1~2月号より

「信仰生活40年」

「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。生るるに時があり、死ぬるに時があり、・・・・・・・・、神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終わりまで見きわめることはできない。」  伝道の書3章1節‐11節

1973年に洗礼を授かりましたので今年は受洗40年の年になりました。この40年間一度も受洗を悔やむことなく、私を選んでクリスチャンの一人に加えて下さった主に感謝の日々を過ごせています事を何よりうれしく感じています。そして40年の歩みの中でいろいろの事が有りましたが、冒頭の聖句に記されています「神のなさることは皆その時にかなって美しい。」ことを実感する事が出来た40年であり、それだけでなく生まれた時からの70年がすべて主の御計画の中で歩ませて頂けていると確信しています。

高校生時代から英語が大嫌いでしたので、アメリカに来る事など思っていませんでした私に、留学の思いを持たせて下さったのも深遠なる主の御計画であったと今更ながらに思わされます。アメリカに来ることが無ければ教会に足を運ぶことも無かったか、または導かれるのにもっと時間が掛かったことでしょう。その後、いろいろな理由で好むと好まないにかかわらず住む地域を変えねばなりませんでしたが、その一つ一つを主が導いてくださったことを思い知らされています。

2年間のカリフォルニアに於ける大学院での学びとその後2年間の米国企業での研修を終えて帰国しましたが、その当時は終身雇用の時代でしたので、一度就職した企業を退社してアメリカに私費留学した者の再就職は容易ではありませんでした。今でこそ当たり前に知られていますMBAという学位も知っている人は皆無で求職の役には立ちませんでした。しかしこの就職浪人期間も主の御計画の一つであったと今は確信しています。
もちろん家族の温かい理解があってこその浪人生活でしたが、帰国しました私に主が御用意下さった教会での経験がどれほどその後の信仰生活の助けになったか分かりません。その教会も本当に不思議な出会いでした。帰国して直ぐに会った妻の叔父が「先週ロータリークラブの会合で牧師がとても素晴らしい話をして下さった。アメリカでクリスチャンになったのであればそこの教会へ行くと良いと思うよ。」と言ってくれました。牧師のお名前を聞きますとカリフォルニア時代に親しくさせて頂いた牧師の弟さんでしたので、主の導きと感謝して先ずはその教会の礼拝に出席させて頂き日本での教会生活が始まりました。共に30歳代半ばで1歳年上のアメリカ帰りの牧師はとても尊敬でき気も合いましたので、仕事が無くて時間が有った私はかばん持ち兼運転手のような立場で牧師の伝道旅行に度々帯同させて頂きました。

その折に見せて頂けた牧師の主にお仕えになる姿勢は何よりも私の信仰成長の糧となりました。行かれる地方でユニークな企画で用いられている教会や、成長している教会をきちんと調べておられて、空いている時間を使われて訪問されそこから学ばれます。教会がどのような場所に立地しているのかを知るために まず教会の近辺を車で回って環境をご覧になってから訪問されます。教会にはアポイント無しで訪問しますので牧師が居られれば短時間で整理されたポイントを質問され、地方の教会ではお留守でも鍵がかかっていない会堂もあって、失礼して中に入らせて頂き、会堂の中を見せて頂く事もありました。その一つでは当時では珍しい喫茶店風のカウンターでコーヒーが飲めるようになっている会堂を見つけてとても感心されて、新会堂の参考になさっていました。また札幌郊外では教会とは別に繁華街で普通の喫茶店を開いて伝道されているニュージャージー州からの宣教師を訪問して、喫茶店伝道のご苦労や喜びをお聞きしながら一晩実際の様子を見せて頂きました。どのようにお客様にアプローチしてどのタイミングで福音を語るのかは、宣教師がアメリカ人である事がとても利していたことは事実ですが、なるほどと感心できる刺激的な経験であった事を今でも思い出します。牧師はその後東京新宿での喫茶店伝道にこの時に感じられ学ばれた事を活かされておられました。さらにこの牧師は教会を運営するには一般のビジネスでの会社経営に通じるものがあると考えておられ、私も良く読んでいない「プレジデント」「日経ビジネス」などを購読しておられて、移動中の車の中や二人だけの食事の時にはそこからの話題や質問が多くありました。組織として運営し成功するには会社も教会も共通点が多いと気付かれて、特にコミュニケーションや人事査定に大変興味を持っておられました。MBAという学位だけは持っていました私にとりましても、牧師との会話は理論を実際に活かすための良き議論と学びの場となりました。

与えられた役割(任務)を真摯にとらえその立場を有効に活かし、共に労する人々と喜びを共にしながら組織をいかに活性化させて主に喜んで頂くかという事を絶えず考えておられ、その使命のために「万事を益となるようにして下さる」(ローマ人への手紙8章28節)主に熱き祈りを日々ささげておられる牧師のお姿に身近に接する事で、聖霊様は新しい職に就く前の私にクリスチャン社会人としての仕事に対する心構えを植え付けて下さいました。
人の目から観ますと就職浪人と言う不遇の一年数か月でしたが、主は私のその後の社会人生活と信仰生活に必要な時として聖霊様を通してこの機会を与えて下さった、まさに無駄のない有意義な期間でした。その教会での信徒生活は短い期間でしたが、マーケティングの重要さ、相手の立場になって考えてみる心遣いや、自分からなんでも率先して経験すると言った組織の中での人間関係、熱き祈り等々、社会人生活の中でも大変役に立つ多くの事を理論では無く実際にこの目で見て体験でき、会社ではなく教会生活でそれを身につけさせて下さった主の御愛に心から感謝しています。

40年間の信仰生活を通して沢山の恵みのお証がありますが、その一つを書かせて頂きました。会社人間から引退してこのニュージャージー州に越してきましたのも主の導きであると信じています。これからも主の福音を伝えていく大宣教命令を示されているクリスチャンの一人として、どのような経験を聖霊様がさせて下さるのか大きな期待を持って胸をわくわくさせています。その折々では決して楽な事ではないと感じましても、主が
「愛する者たちよ、あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚きあやしむことなく、むしろキリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それはキリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。キリストの名のためにそしられるなら、あなたがたは幸いである。その時には、栄光の霊、神の霊が、あなたがたに宿るからである。」(ペテロ第一の手紙4章12-14節)
と約束して下さっていますので、続けて主にお委ねし、お従いする信仰生活を送っていきたいと祈り願っています。

月報2013年11~12月号より

「主とともに歩む 」

この教会に転入会が許され1ヶ月が経とうとしています。ここに至るまでたくさんの方がお祈りにお覚えてくださってましたこと、また家族一同親しくお交わりの輪の中に加えて頂いておりますことを心より感謝申し上げます。何年も前からこの教会や皆様といろいろな関わりを持たせて頂いてますが、どのようにして私が信仰を持ったかお話しする機会がありませんでしたので、そのことをお証しさせて頂きます。

私の両親はクリスチャンで、生後1歳半の長男を日本脳炎で天に送るという試練を通し、家族献身に導かれました。両親の学びの期間、兄と私はインマヌエル綜合伝道団の神学校(聖宣神学院)の家族寮で幼少期を過ごし、その後両親の転任に伴って高松、京都伏見、新潟の地で、両親が奉仕する教会で育ちました。

高松にいたときのことです。私は2歳半、弟が生まれて5人家族になっていました。両親は、間近に迫った春の特別伝道集会の準備に追われていました。当時は、特別集会の準備と言えば、たくさんの立て看板を作って街中の電柱に立てて回ったり、チラシを何千枚も印刷して近隣に個別配布したり・・・。もちろん、チラシやポスターを作るにもガリ版やシルクスクリーンでの手作業という時代でしたから、その直前の忙しさは相当なものでした。そんな矢先、私は、外に出た兄を追って玄関を飛び出し、走って来た乗用車にはねられてしまったのです。車が急停車するブレーキ音を聞き、びっくりして教会から飛び出して来た両親は、血まみれになってゴムまりのように転がっている私を見つけ、大急ぎで病院に運びました。まだ幼くて体がやわらかかったからでしょうか、幸い命は取り留めました。が、左足大腿部を複雑・粉砕骨折しているということで、何度かに分けての手術が必要となりました。説明を受けた両親は、手術を受けたとしても完治は無理かもしれない、将来足を引きずって歩くことになるかもしれないと言われたそうです。両親は祈り、そして私に手術を受けさせる決心をしました。

手術の前の日、私は、牧師である父から病床で個人伝道を受けました。マルコによる福音書10章に出てくる目の見えないバルテマイのお話を通して、イエスさまは「助けてください」「癒してください」と求めるとき、それに応えてくださるお方であることを知りました。そして、交通事故で本当は死んでいたかもしれないこと、きわどいところで命を守ってくださったこと、神さまが私を愛してくださっていること、あの時事故で死んでいたら地獄に行っていたこと、地獄に行かなくてもいいようにイエス様が私の罪の身代わりとなって十字架で死んでくださったこと、イエス様の十字架を信じる者には永遠の命が与えられること・・・。この時、それまで教会学校や聖書えほんで語られていたお話と、自分のこととが重なり、私も神さまの子どもになりたい、天国に行ける子どもにしてほしいと思い、罪を悔い改めて祈ってもらい、『しかし、この方を受け入れた人、すなわち、その名を信じた人には、神の子どもとされる特権をお与えになった。』(ヨハネ1章12節)のみことばをいただいて、神さまの子どもになりました。

翌日受ける手術も、怖くなくなりました。もし万が一死んでしまうようなことがあっても、天国に行けるという確信が与えられたからです。大腿部と言えども、全身麻酔ですし、小さな子どもの複雑・粉砕骨折の手術は大変でした。細かく砕けて肉に突き刺さった一つ一つの骨を集め、パズルのように元の形に組み上げていく作業は、手術に付き添った父の目にも、息を呑むような瞬間の連続だったそうです。1回目の手術が無事終わり、筋肉の回復と骨の成長を待って、骨を固定するために取り付けたボルトを外す2回目,3回目の手術が行われました。手術、リハビリ、数ヶ月の入院生活、その一つ一つを神さまは守り、いつも一緒にいてくださいました。体を回復させてくださった神さまは、私の小さな信仰も育んでくださり、さんびか大好き、聖書のお話大好き、教会大好き、教会のお手伝い大好きな子どもにしてくださいました。そして救われた日から2年7ヶ月後、1973年のクリスマス,当時教区長であった川口始牧師に洗礼を授けて頂きました(『少年H』にも登場する先生です)。運動しなければならない時期に歩けなかった私の足は、すっかり筋肉が衰え、退院後も数年に渡り体操教室に通って筋力強化に努めなければなりませんでしたが、ドクターの言葉通りにはならず、小学校に上がる頃には、奇跡的にもみんなと同じように歩いたり走ったり出来るまで回復したのです。(実は頭部も強打していてその影響の方がもっと深刻な問題だった、と二十歳になって初めて知らされた時には驚きましたが・・・。)

クリスチャンとなった私は、その後いつもハッピーで笑顔でいられたかというと、そうではありません。仏教文化の根強い京都で小中学校時代を過ごした時には、「おまえんち、アーメン、ソーメン、冷(ひや)そーめん!」とからかわれ、社会科でキリスト教禁止令を学習すると「教会の子やから、やっぱし踏めへんのか?踏んでみろやー。」と落書きの踏み絵を突きつけられ、礼拝出席の為に日曜日のクラブ活動を休むと届ければ大罪を犯したかのように先輩たちに非難され、学校に行きたくない、クリスチャンであることを隠したい,牧師の家庭になんて生まれて来たくなかったと思い、悩みました。新潟で過ごした高校時代は、公立高校の授業料を期日内に納入できないような経済的な戦いの中にあり、志望大学に合格できなかったものの、家計への負担を考えると自宅浪人したいとも言い出せず、東京に出て働きながら学びました。
『あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなた方を耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。』(第1コリント10章13節)

困難に出会う時、いつもこのみことばを思い起こし戦ってきましたが、脱出の道がどこにあるのか分からないことも多々ありました。けれども、若い時からクリスチャンとされた者の幸いは、祈って進んでいく中で必ず神さまが導いてくださる、そしてそれはいつも最善でしかない、ということを理屈ではなく体験的に知っていることではないかと思います。今振り返ると、若い時に通らされた数々の試練のゆえに私の信仰は堅くされたと思いますし、就職、渡米、結婚、子育てと導かれた現在も、日々多くの問題を抱えていますが、「神さまが一緒だから大丈夫!」と思えるのです。

今も30センチほどの手術の傷が私の足には残っています。その傷を取ることを両親は薦めてくれたのですが、私はそうしませんでした。その傷を見るたびに私は、事故のこと,神さまの子どもとされた恵み、イエスさまの手足の釘の痕を思います。キリストの打ち傷によって癒されたことを感謝しつつ。

月報2013年9~10月号より

「母の受洗」

今年84歳になった母は、小柄な身体で、田舎道をどこへでも自転車で出かけるほど元気でした。ところが3月に心不全で救急車で運ばれ、緊急入院、その後の検査で、2つの心臓の弁が狭窄、閉鎖不全による心肥大に加え、肺水腫の診断を受けました。

知らせを聞いても、直ぐに飛んでいけず、涙と心騒ぐ私に、神さまは「あなたは私のために嘆きを踊りに変え、荒布を解き、喜びを私の帯とされました。」〈詩編30篇2節〉と、み言葉を示してくださり、私の心も支えて下さいました。

母は、神さまに守られ、やがて酸素も点滴も取れ、1ヶ月後に自宅に戻ることが出来ました。近くに住む姉夫婦が、毎日のように、母が食べられそうな食事を作り、仕事の合間に届けに行っては、共に祈り、励ましてくれていました。

私が5月末に母のサポートのために一時帰国した時、母は、長い間の咳と痰に悩まされ、食欲、体力が落ち、食事と排泄以外、布団に伏す姿は、今まで見たこともなく小さく、弱く見えました。そのような中でも、私の出産の時のことを語っては、「範子を産んでよかった。」と涙ながらに語ってくれ、「ありがとう!」の言葉を交わす時が与えられたのは、感謝なことでした。
以前から、イエス様を信じて祈りに手を合わせる母でしたが、今回、水郷めぐみ教会の平山先生ご夫妻のお導きを頂いて、5月29日に自宅で病床洗礼に導かれました。

「神我らと共にいます」(マタイ1:23)
「我が国籍は天にあり」(ピリピ3:20)

そして、その数日後、しばらく会えず、祈っていた兄が帰ってきた時の母の喜び様は、まるで病気を吹き飛ばすような笑顔でした。私にはまるで幼子のような母が、大きな母に見えました。兄は早朝から玄関を履き、自ら「教会に行かなきゃ・・・」と語るのでした。私にとっても、神様の力以外に考えられない、神さまのみ言葉のお約束の出来事を見せて頂きました。兄は教会の祈りの時に、涙を流していたそうです。

それから、「お母さん受洗おめでとう」「祈っています。」のお言葉をたくさんいただき、母が、なんと多くの方に支えられ、愛されているかを知らされる、幸いな時でした。
母も、「ああ、ありがたいね。」とお祈りのサポートに感謝の言葉が続きました。

私の帰米後間もなく、再入院となった母ですが、身体の弱さの中にも、神様の守りと、祈りの使命が母を支えてくれています。この世で多くの苦労がありましたが、今、幼子のように天国の希望を握ることが出来たのは、何と大きな恵みでしょうか。

主に、そして皆さまのお祈りに心から感謝致します。

月報2013年7~8月号より

「高橋さんとは20年以上の…」

今回は、元JCCNJメンバーの五賀潔兄が、3月20日キリスト兄弟団成増教会でもたれた故・高橋剛兄の葬儀でお話しされたお証しを掲載させていただきます。
高橋兄の思い出

高橋さんとは20年以上の親しいお付き合いをさせていただきました。最初の出会いは、92年に私達夫婦が米国のニュージャージー日本語キリスト教会の聖歌隊に入った時です。高橋さんは以前より奥様と2人で参加されていました。その時はまだノンクリスチャンでいらっしゃいました。そして94年に当時の石賀誠先生が日本に帰国されることになった時、奥様と一緒に洗礼を受けることを決心され、その年のイースターに受洗されました。聖歌隊のメンバーと共に高橋さんご夫妻の洗礼を大変喜んだことを覚えています。

その後、正式な教会員として当時私が担当する委員会(宣教?伝道?よく覚えていませんが)にご参加いただきました。議事録作成の担当を快く引き受けてくださり、その委員会の議事録を作成してくださいました。その内容がポイントを簡潔・明瞭に網羅したもので、さすがだなーと感銘したことを覚えています。

高橋さんにとって青二才で経験不足な私のような者に対しても、謙虚に接してくださいました。また、ご自身のプライベートゴルフクラブに私達夫婦をご招待くださり、一緒にゴルフを楽しんだりしました。私を含め、多くの方が高橋さんのご好意に与ったと思います。

私たち夫婦が97年に帰国後、98年に成増教会に通うようになってから、日本のご自宅が近いこともあり日本に帰国された時は必ずといっていいほど成増教会に来られ、ニュージャージー日本語キリスト教会の近況を良く話してくださいました。ニュージャージーの教会の会堂建設の問題等、ずいぶんと心を砕かれ、ご奉仕されていました。2011年末に拠点を日本に移され、成増教会の会員になられてからは、ほぼ毎週のように日曜日の昼食をご一緒させていただいていました。

この場で高橋さんの素直な信仰、率直なお人柄を表したご自身の証しを紹介いたします。2006年にがんの手術を受けられた時の事の証しです。

(以下、高橋兄の証しの要約 : 高橋兄は2006年2月末、日本へ一時帰国された際に受けられた人間ドックで、大腸ガンの診断を受けられました。糖尿病の持病と心筋梗塞の病歴から手術の成功率は5分5分、でもこのままにしておけば2~3年は大丈夫かもしれないが、4~5年目には必ず腸閉塞になって苦しんで死ぬでしょうと担当医から宣告されます。本来、体が弱く60才位まで生きられればいい方だと言われていたのに、75歳(当時)まで生きてこられたのだから今死んでも十二分に元は取れていると、手術を受けない決心をされました。ガンの宣告を受けたにもかかわらず、ご夫妻そろって平安を保っていられたのは、お二人がクリスチャンであるということにあると気付かれ、既に天に永遠の命が用意されていて、無意識のうちに死を恐れない安心感が与えられました。その後、温熱療法や気功治療を受けられましたが、病状の改善は見られず、10月の再検査の結果、主治医の判断で11月1日に手術を受けることとなりました。入院前、高橋兄は「神さま、私に何か起きるのでしたら、脳梗塞だけはならないようにお願いします。もし脳梗塞になるのでしたら、すかさず天に召してください」と祈られました。弟さんを脳梗塞で亡くされ、脳梗塞のつらさと家族にかける負担の大きさがよくわかっておられたからです。手術後、翌2日の朝まで麻酔から覚醒せず、その間に心筋梗塞を起こすなど大変な手術ではありましたが、兄の祈りが聞かれ、手術は成功、ガンは切除され、2週間後に晴れて退院となりました。
この経験を通して、高橋兄は神様に守られていることを実感されました。第一に初期の段階でガンが見つかったこと、第二にガンと聞いても平安を保つことができたこと、第三に代替治療もトライしてうまくいかないことを納得した上で、担当医が背中を押して手術に向かわせてくださり、ガンの恐れを取り去ることができたこと、第四に脳梗塞を回避できたこと、そしてもう一つ、日頃余りコミュニケーションのない一番下の娘さんがご夫妻のサポートのために飛んできて、ゆっくり話をする貴重な時間を持てたこと。「これらはすべて神さまのみ恵みによるものと言う他ありません。本当にクリスチャンであることの喜びを感じて感謝しております。」(本文より、以上)

(証の全文は2009年2月号月報に掲載されております。)    https://jccofnj.org/?p=536

この証しの中で、高橋さんはお医者様を通して手術を成功させてくださった神様に感謝し、この後の人生は死んでもおかしくなかったのに特別に付け足していただいたものとして、神様のために生きようと思われたそうです。

最後に一言、3月3日に見舞いに行った時、高橋さんが、「五賀さん、天国に先に行って、あなたの部屋を掃除して待ってますよ」とおっしゃいました。私は、「高橋さん、天国の部屋は掃除する必要がないほど素晴らしいそうですよ。」と言い、高橋さんが「そうですか。そんなに素晴らしいですかね!」笑っておっしゃいました。高橋さんご自身が平安で、天国を待ち望んでいることが強く感じられ、逆に励まされました。

高橋さんのような素晴らしい方が天国で準備して待ってくださることは何と幸いでしょう。主に感謝します。
(3月20日の葬儀にて)

高橋さんは、亡くなる前の数年間を天国への準備期間のように位置づけられて、いろいろな方々にお会いになってもてなされたり、親切にしたりしていらっしゃいました。最後は病室にご家族全員が集まって、天国に見送られました。

晩年をクリスチャンとして人生を全うするお姿を間近で見せていただけた私達は、本当に幸せでした。悲しみの中にも重苦しさはなく、むしろさわやかな気持ちにさせていただきました。

天国への希望を与えてくださり、生きた証しを見せてくださる神様をほめたたえます。

月報2013年7~8月号より

「母を天に送って」

母は3月4日に90歳の誕生日を迎え、3月20日に天国へと旅立ちました。
73歳の時にこちらに来たのが最後でしたが、高校生の姪と来たので、美術館へ行ったり、五番街やモールを歩き回ったりしながら、自分の歩く力が弱っているのをとても気にしていました。
それから少しずつ、少しずつ歩けなくなり、何度も家の中で転んでは入退院を繰り返していました。その頃はショートステイの施設でリハビリをしてはまた家に戻って来て、をしていました。そして週三回デイケアサービスでそこに通っていました。
毎年、母に会うために一時帰国をしていましたが、自分で靴を履いていたのが履かせてもらわなければいけないとできなくなり、最後は車いすの生活になりました。
それでも、車いすを自分の足で漕いで動いていたそうですが、ショートステイの施設はいつまでも置いてくれません。自分から有料老人ホームを探してほしいと弟に伝えたそうです。弟は何十箇所と見て回ったそうです。
家から近く、環境の良いそうして、払える料金のところ、そこは清潔で施設も整い部屋からは若草山が見えました。スタッフの方々も良さそうな方でした。
でも、個室で車いすの生活だと、人と接する機会も減り、去年入居したばかりの頃に会った時には、いろいろ話もしていましたのに、今回は本当にびっくりするほど喜怒哀楽がなく、会話も短いものしかできませんでした。
今回はただいつものように顔を見に帰っただけでしたのに、園に会いに行った次の日、急に具合が悪くなり、入院となりました。体中が痛い痛いと訴え、座薬を入れてもらい、眠り、また痛みのために目を覚まし、また薬、その繰り返しでした。
目を覚ました時、早く死にたいと頼みました。そこで、私はもう一度、私自身がクリスチャンになったことを母に話して、そんなに辛いなら、神様にお願いしようかと聞きました。母はうなずき、私は神様に早く楽になれるように、天国に連れて行ってくださるように、お願いしました。
次の日、うそのように痛みが取れました。
今回、帰る前から、長い間会っていない友達と会う約束をしていて、もちろん、キャンセルするつもりでしたが、弟や義妹が、病院に入っているから、一応安心だし、出かけたら、と言ってくれたので、出かけました。
毎日、様子を聞くために電話をしていたのですが、髪を洗ってもらった、体を拭いてもらった、飲み込む力をつけるため、
リハビリを始めた、と快方に向かっているようでした。予定どおり帰って来て、病院に行き、私のことわかる?と話しかけると、「典子」と言い、長男のことも洋介だとわかると言いました。先生からも一週間ほどしたら退院です、と説明されました。
長男は6年ぶりに母に会ったので、何か話してあげなよ、と言ったのに、あまりの変わりように、ショックを受け、泣いてしまって、何も言えませんでした。
抱き寄せて、ほほにキスしてあげたのが精一杯でした。明日、また来るから、と帰りました。
次の日、明日帰るからね、と病院への向かう途中、先生から電話が入り、早朝から容態が急変したと言われました。病院に着いた時はまだ意識はありました。その日は祭日で先生たちも少なく、説明しますと言われたとたん、急患が入り、そばについていましたが、私たちのことがわかっていたかどうか。
そんな中、心臓が止まり、一時は蘇生しましたが、元気な頃から延命行為はしないと決めていましたので、そのまま午後2時10分永眠しました。
今から思いますと、私を行かせてくれるために、一時的に回復し、そのおかげで、ちょうど同じ頃に天に召された高橋さんとも最後のお別れができました。
髪を洗ってもらい、体を拭いてもらい、旅立ちの準備をしていたのですね。

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」            (ヨハネ第一の手紙4:14)

痛みからも解放され、息子と孫と娘に付き添われ、お願いした通り、神様に天国へ連れて行っていただいたのと、確信しています。
私たちのことを待っていてくれたのでしょうか。
遠く離れて住んでいますのに、幸いにも最後に会わせてくださった神様に感謝いたします。
本当にすべてこれで良かったと思っています。
そうだよね、お母さん。

月報2013年5~6月号より

アンドリュー・ホンゴー牧師による証

今回は、私たちの教会を何度も訪問してくださり、(そのうち何度かはハワイアンの歌手であるご両親と一緒に)励ましてくださってきたAndrew Hongoさんが書いてくださった英文のお証しを、日本語に訳してご紹介します。
アンドリュー・ホンゴー

私は今までも宣教の働きに携わってきましたが、ずっと日本に特別な使命を感じることはありませんでした。私は貧しい人々と共に働くことに情熱を感じていたから、ということもあるでしょう。私はもっと冒険的なところ、エキゾチックなところを求めていたということもあると思います。もしかしたら、私が12歳の時に、私はハワイでサマースクールに行って、友達とテニスをしたり勉強をいっしょにしたりしたいと思っていたのに、両親が日本でのサマーコンサートのツアーに無理やり私を引きずって行ったからかもしれません。

けれども、ハワイの教会が日本へのミッショントリップを計画していることを知った時に、それは主が開かれた道だと感じました。ハワイアンの歌手である私の両親は、東日本震災で被災された方々のために、2011年の12月に日本に行く予定にしていましたが、父にガンが見つかり、直前でキャンセルになっていたからです。ちょうど日本に出発するはずだった日に、両親はカルフォルニアの病院で治療を受けるために飛行機に乗っていたのです。両親は私にこう言いました。「アンドリュー、私たちが行けなかったんだから、おまえが代わりに行かなきゃいけないんじゃないかな」と。

私は、このトリップがあの大震災で被災された方々のための働きであることを知っていました。しかし、その地に立つまでは、そのことの重大さがわかっていませんでした。私は「どうして神はこんなことが起こることを許されたのだろうか?」という問いに直面しなければならなかったのです。日本に着いて間もなく、おじのデニスと牧師の藤浪先生と私は、1年半前に起こった被害の大きさを物語る一つの場所に立っていました。そこには、何キロも内陸なのに、何も残っていない土地に、大きな船が打ち上げられていてそのままになっていました。その船の下、右の方には押しつぶされた車がありました。そして、正面には小さなテーブルが置かれて、そこにはソーダやビール、果物、手紙、そして、香炉と小さな十字架がおいてありました。私たちはそこで祈りをささげようとしたのですが、ただ、涙があふれてくるばかりでした。私は、愛の神がどうして、このような恐ろしい状況でたくさんの人々や子供たちが亡くなるということを許されたんだろうか、それを理解することが全くできなかったのです。

私はただ、この震災の被害状況を理解するのが難しかっただけではありませんでした。私たちは、翌日に気仙沼で、ハワイアンショーをする予定にしていたのです。私たちのなすべきことは、希望と喜びを失った人々に、その希望と喜びとを届けることでした。しかし、自分たち自身が悲しみに押しつぶされているのに、どうして、私たちが何かをすることができるというのでしょうか?

翌朝、私は目が覚めた時に、主からの幻を見ました。私たちのチームが公園のステージに立っているのが見えました。おじのデニス、藤浪先生、そして、私が赤いアロハシャツを着て、リリコと二人のダンサーが私たちの前に立っています。そして、私たちの後ろには父なる神が立って、その手を大きく広げて、気仙沼の人々がご自身の元に帰って来られるのを待っておられるのです。それはちょうど、ルカによる福音書の15章の放蕩息子の父親が愛をもって、忍耐深く、情熱的に放蕩息子の帰りを待っているかのようでした。

そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。 (ルカ15:17-20)

私はまだその疑問への答えを得たわけではありませんでしたが、神がどれほど日本の人々を愛しておられるのか、それを感じ始めていました。

それからの日々の中で、私は、そんなことがあるんだろうかと信じられないような証しをいくつも聞きました。ある牧師は津波で流されてしまった漁村で伝道をしていました。以前はその漁師のみなさんは、日々の生活のために忙しくて、聖書の話を聞くことなんか全然できないでいました。しかし、津波の後、漁師の仕事に戻れるまでに時間がかかったために、たくさんの人々が聖書の言葉に耳を傾けることができ、クリスチャンになったといいます。そして、その牧師に言ったそうです。「私たちは津波が来たことを感謝さえしている。それがなければ、私たちは決してイエスさまに出会うことはできなかったから。」ある女性はこう話してくれました。彼女は命からがら津波から逃げることができましたが、高台に逃げる途中に、津波がすぐそばまで迫って来るのを目の当たりにしました。家を失い、仕事も失い、仮設住宅の小さな部屋に住んでいます。でも、それらのことによって、彼女は主を知ることができたのです。彼女の顔は喜びに輝いていました。

神様がどうしてこんなことが起こるのを許されたのか、私にはまだ良くわかりませんでした。この地上にいる限り、わかる日が来るのかどうかもわかりません。しかし、この疑問に苦しみながら、私は自分の父のことを考えないではいられませんでした。父は1年間ガンと闘ってきました。いつまで続くともわからないドクターとのアポイントメント、抗癌剤治療、そして、腎臓透析の日々を送りました。自家造血幹細胞移植の後は話ができないほど弱ってしまいました。熱でうわごとを言うようになり、夜中にトイレに連れて行かなければいけない時もありました。そんな日々のことを思い出していました。そんな時はただただ、神に叫ぶしかありませんでした。でも、そんな時にこそ、今までの人生の中で、イエスの臨在を一番確かで、一番力強く感じたのです。神がどうして、私の父がガンになるのを許されたのか、ということも私には理解できません。しかし、私はすべての疑いを越えて、これらすべての経験の中で、今まで経験したことがないほどに、神が私たちを愛してくださることを知ることができたのです。

去年の8月、私は12歳の時よりもずっと日本が好きになっていました。34歳になって、やっと私は自分の祖先の地に愛着を感じるようになりました。食べ物や文化、言葉、そして、温泉も。私の人生の中で初めて、主の働きのためにそこに戻りたい、という気持ちになりました。今まで何年もの間、両親から「一緒に日本に行かないか?」と聞かれる度に、何の迷いもなく「ノー、サンキュー」と答えてきました。しかし、今、「いつか一緒に日本に行かないか?」と聞かれたら、即座に「ぜひ行きたい!」と答えるでしょう。私の祈りは、主が私の家族を日本にもう一度送ってくださることです。そして、そこで神様が日本の人々を神様の元に導いておられる御業を共に見せていただければと願っています。

月報2013年3~4月号より

「2013年は洗礼20周年です。…」

2013年は洗礼20周年です。これまでの歩みをすべて支えて下さった神様と、家族、教会の皆さんに心から感謝致します。

私の生まれ故郷の浅草は、寺社を中心に祭事の多い威勢のいい町でした。同級生の家は自営業中心で、商店、水商売、とび職、家内産業等でした。実家は製本業を営み両親は働き者で、子供の教育にも熱心でした。私は子供の頃から外国への憧れが強く、大学時代は海外旅行や短期留学をしました。卒業後は大手旅行社に就職し、中国室に配属となりました。上海へ駐在する話もありましたが、当時若い 女性を中国に送るのは危険との声があり、立ち消えになりました。入社後4年目に父を病いで亡くし、母は49才で未亡人となりました。私は若くして父を亡くしたことがショックで、なかなか立ち直れませんでした。親孝行することもなく、自分勝手に生きて来た事が父を殺したような気がしていました。そして弟が結婚し、家庭環境は激変しました。家業を廃業し、母と二人暮らしになりました。一人になるとわびしい思いが溢れてきました。自分がなぜここに存在しているのか、人はどこから来てどこに行くのか、答えのない問いが心を巡ります。時はバブル全盛期、仕事、夜遊び、習い事でスケジュールを埋め、ヨガ、瞑想、ニューエイジ系の本等、心の隙間を埋めてくれるものを探し求めていました。日本では聖書の話を聞いたこともなく、教会とも接点がありませんでした。

その後、海外研修に行くことになりました。行き先は北京か上海かと思いきや、地球の裏側のニューヨークでした。英語は苦手で、不安と期待が混ざる気持ちでNYにやって来ました。仕事もアフター5も充実して、一年弱の研修期間はすぐに過ぎてしまいました。帰国後すぐNYに戻りたくなり会社に交渉しましたが、聞き入れられず退社、母に2-3年行ってくるからと告げて一人でNYに戻ってきました。90年夏のことでした。

まず学校で英語とPCを習いました。久し振りの学生生活は楽しかったものの、減っていく貯金に心細くなり、働かねばという気持ちになりました。その時ローカル誌を開いてみると、一つの求人広告が飛び出してきたように目に留まりました。小さな旅行社でしたが、面接に行ってみるとその場で採用され、就労ビザもサポートしてもらうことになりました。しかし2週間経った頃、突然移民局の査察官が職場にやって来ました。出口が閉ざされ尋問を受け、移民局への出頭が命じられました。仲良くさせてもらった同僚はビザ切れが発覚し、その一週間後に強制送還となってしまいました。彼女も夢をもってNYにやってきた人でした。同じ状況で働いている人は大勢いるのに、やり切れない不条理を感じました。

一年経つ頃には会社の財政状況が悪くなり、別のオフィスビルへ移転、多くの人が入っては辞めていきました。雰囲気が暗く時に怒号が飛び交い、クビを覚悟で2回ほど数日間のプチ家出(無断欠勤)を決行しました。ビザ切替申請もしてもらっていましたが、必要書類が会社から提出されずに、数ヶ月宙に浮いた形となりました。二回目のNYは思い描いていたバラ色からは程遠く、限界を感じていました。

その職場には社長の友人である男性が毎日来ていました。彼はクリスチャンになったばかりの人で、”神様はすごいんだよ”といつも熱く語っていました。社長は忙しく留守がちでしたが、私にも神様を知ってから彼の人生に起こったたくさんの事を話してくれました。ランチをよくご馳走してくれました。こんな会社経営者の中年男性をとりこにする神様とはどんなものだろうと思ったものでした。

誘われるまま、当時マンハッタンで行われていた新来者向けゼロ集会や、家庭集会に行くようになり、91年のクリスマスに初めて礼拝に出席しました。二人の方が洗礼を受けておられました。何だか自分がそこにいるのが場違いな気がしました。それでも、礼拝に何回か行くうちに、そこに聖らかな流れがあることを感じるようになりました。

ある家庭集会で、二代目牧師の石賀先生がこう言われました。”あなたは自分で米国に来たと思っているでしょう。でも違うんだ。神様がここに連れてきたんだよ。あなたはここで色々やりたいと思っているだろう。実は神様と出会う為に来たんだ。それがあなたが米国で経験する一番素晴らしい事になる。あなたが聖書の話を聞きたければ、僕はいつでも、どこにでも行きます。” その言葉を何日も反芻していました。

昔から超自然的な存在を感じており、父なる神様のことはすんなりと受け入れることができました。”でも、そこにイエス・キリストがどう結びつくですか?”核心的な問いが心にありました。ある時石賀先生は、神様⇔イエス様⇔人間の相関図を見せながら、”人間には罪があって、そのままでは聖なる神様のところには行かれない。神様はそれを憐れみ、ひとり子であるイエスを十字架に送り人々の罪を背負わせた。イエスは十字架で死んだのち葬られて三日目に復活した。イエスを信じる者には罪の赦しと永遠の命が与えられ、神様の子とされる。だからにイエスは神様と人間のあいだの架け橋となったんだ。”と教えてくれました。

頭で理解しても、魂のレベルでそれが分るようになるまで相当の時間を要しました。牧師や教会の皆さんは祈りをもって見守ってくれました。自らどうしていいか分りませんでしたが、ある時牧師が、罪の悔い改めとイエス様を救い主として受け入れる信仰告白の祈りをリードしてくれました。聖書の分らないところは、魚のように柔らかい肉から食べて、固い骨は後に取っておきスープにすれば良いと言われました。聖書を読み進むうちにここに真実があり、イエス様の教えは人間の知恵から出てくるものではないと確信するようになりました。

その頃グリーンカードの抽選があり、申請書を千通ほど送ったところ、弟と私が当選しました。ここで道が開かなければ帰国かというところでした。すぐに労働許可が取れ就活を始めると、ホテルでの就職が決まりました。色々ありましたが、社長に引き止められながら、感謝のうちに円満退社することになりました。

93年5月30日に父なる神、子なる神、聖霊なる神のみ名によって洗礼を授かり、罪の赦しが宣言されました。職場で初めて福音を聞いてから約一年半の時が流れていました。その夜それまでにない平安と温かさが心を包み、聖書で約束された聖霊様を受けた事を知りました。

やがて聖霊様は、父の死は神様の主権下にあり、誰も責める必要がないことを示してくれました。また、神様がご計画をもってこの時代に生命を与えNYに導かれたこと、罪過の内に霊的に死んだ状態から引き上げ、イエス様の十字架の恵みに招き入れて下さったこと、神様と歩む喜びに満たし、この地においてもたくさんの使命が用意されていることも….。消化できるよう時間をかけて悟るようにして下さいました。

洗礼に際して頂いた新改訳聖書の裏表紙に、石賀先生がみ言葉を書いて下さいました。
神の全能の力の働きによって、私達信じる者に働く神のすぐれた力がどれほど偉大なものであるかをあなたがたが知ることができますように。(エペソ1:19)

洗礼は、神様による溢れんばかりの祝福へのスタート地点です。この20年間の歩みを通して、私が離れている時でも、神様はこのみ言葉どおり偉大で真実でした。結婚、出産、子育て、大学院進学、再就職等、人生の節目において教会があり、共に喜びを分かち合い、試練の時は祈り支えてくれる人々を備えて下さいました。毎週の礼拝では神様の下で憩い、新しい一週間を歩む力が注がれます。日々神様の恵みを分ち合い、祈り支え合う人々が与えられえています。又、福音を語ってくれた人々、祈ってくれた人々の仕える姿が、クリスチャンとして使命を果たしていく上での良き見本となっている事を感謝しています。

目に見えなくても、イエス様は日々羊飼いとしてその民の歩みを導き、豊かな命を得させて下さいます。そして主の真実はとこしえに変わることはありません。

すべてのご栄光を主にお返しします。

月報2013年1~2月号よ

宮古コミュニティーチャーチ岩塚和男牧師による証

今月は昨年の東日本大震災で大きな被害を受けた宮古市を中心に支援活動をされている岩塚牧師にメッセージをお願いしました。岩塚牧師ご夫妻は、今年の6月にNJを訪問され、被災地の様子をご報告下さいました。

「被災地の中心で神のシャロームを叫ぶ!」

宮古コミュニティーチャーチ牧師 岩塚和男

その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
He will be called, “Wonderful Counselor,” “Mighty God,” “Eternal Father,” “Prince of Peace.”イザヤ9:6

感謝と祈り
 2011年3月11日の東日本大震災から1年8カ月になりましたが、これまで様々な形でご支援下さり、お祈り下さった方々に心から感謝します。
また、先日ニューヨーク、ニュージャージーを襲ったハリケーン「サンデー」で被害を受けられた方々にお見舞い申し上げます。

最も被害が大きかったのは
 「東日本大震災で最も被害が大きかったのはどこですか?」
震災後に持たれた復興支援コンサートで司会をさせていただいた時に、このような質問をさせていただきました。
「大槌町」「(宮古市)田老」「……」などの地名があげられましたが、私が被災各地を回り、多くの被災者のお話しをお聞きした経験から「最も被害が大きかったのは私たちの心ではないでしょうか」というと皆さんが同意され、涙を流されていた方もいました。

なかなか癒えない心のダメージ
 ガレキが取り去られ、商店が再開し、外見的には復興が進んでいるように見えても、1年後のアンケートでは、85%の方たちが「まったく進んでいない」「ほとんど進んでいない」と答えています。1年8カ月になってもその数字はあまり変わらないように思えます。被災して心に受けたダメージの回復が遅れているのが現状です。
先日、ロサンゼルスで開かれた国際トラウマティック・ストレス学会で日本の精神科医により「福島の子供たちの21.5%が危険な心の状態にあり、大人は21.3パーセントが心的外傷後ストレス障害(PTSD)に陥っている」と報告されました。実に、5人に1人の方が精神的な問題を抱えているのが現状です。

悲しみに寄り添う働き
 昨年のお盆の前(震災から4ヶ月後)にある仮設住宅を訪ねたら、一人の男性が無表情で玄関にお盆の準備をしておられました。震災から1年8カ月を迎えようとしている11月に再びその方とお会いすることができ、玄関先でお話しをしました。しばらくすると、奥さまが目の前で津波にさらわれ亡くなられたことをお話し下さり、その深い悲しみで嗚咽しながら泣き出されました。私も一緒に泣きました。少し落ち着かれると、同じく奥さまを亡くされた友人を連れて、教会主催の仮設カフェに来られ、支援に来られていた牧師にこれまで一人で抱えてきた思いを打ち明けられました。そして「震災後初めてこのような機会を持つことができた。ありがとうございます。」とおっしゃって帰られました。この方は、1年8カ月もの間、悲しみを吐き出すことができずにいたのです。

震災で友人を亡くされた仮設住宅で一人で暮らされているご婦人は、自分だけが助かったことに罪悪感を覚えるようになり、また一人暮らしの孤独感で、時が過ぎるにつれて「海に飛び込もうか」「包丁でお腹を突き刺そうか」「……」と自ら命を絶つことばかり考えるようになったそうです。クリスチャンのボランティアが集中的に訪問することにより、今は、「もう死のうなんて言わない」「神様がいるってわかった」とおっしゃっています。

こうした、心が張り裂けそうな悲しみにある方がた、生きる希望が持てずに家にこもっている方がた、アルコール依存症の方がた、死にたいという思いに苛まれている方がた、……が今も大勢おられるのです。
そして、それは決して被災地に限った事ではないのです。
日本では、自殺者が年間およそ3万人、孤独死(孤立死)が東京23区だけで年間およそ3千人。大切な命が悲しみと孤独の中で失われているのです。

あなたの隣人が叫びをあげているのです。
悲しんでいる人々に寄り添う人が必要です。

「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」
 東日本大震災から二度目のクリスマスを迎えようとしていますが、
“その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」(イザヤ9:6)” と呼ばれる救い主イエス様が一人一人の被災者の心に、そして世界中の救いを求めている方々に訪れるように切に願わされます。

1.「素晴らしいカウンセラー」”Wonderful Counselor,”
 「不思議な助言者」は、尾山令仁訳では「素晴らしいカウンセラー」と訳されています。ほとんどの英語訳も同様に訳されているようです。多くの方が気休めや如何わしい助言者ではなく、まことのカウンセラーを求めています。どのような悩み、悲しみ、苦しみにある方にも、イエス・キリストこそその思いのすべてを受け止め、寄り添い共に歩んで下さり、解決を与えて下さるお方です。

2.力ある神
 震災後に多くの方がたが感じられて、言われたことは、それまで信じ、仕えてきた偶像の神々が「力ない神」で何の助けも得られなかったことです。教えを説き、御勤めやお布施を求めるが、具体的に助けることはできない神々。まさに“彼らの偶像は獣と家畜に載せられ、あなたがたの運ぶものは荷物となり、疲れた獣の重荷となる。彼らは共にかがみ、ひざまずく。彼らは重荷を解くこともできず、彼ら自身もとりことなって行く。(イザヤ46:1~2)”であったことを身を持って体験したようです。
しかし、震災後に、多くのクリスチャンボランティアに接した方がたが、クリスチャンの信じている神のことを知りたいと言われるのを聞きました。クリスチャンの愛の奉仕や証しを通して、その信じている神の偉大さ、力強さを覚えたようです。「あなたたちの信じている神様は強い神だ!」と言われた方もおられました。

3.永遠の父
 “わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。(ヨハネ14:18)”とあるように、イエス・キリストは、私たちの父であり、愛する子供たち一人一人をみなしごにしない神である。
また、心の行き場のない人々が増えている現代社会で、父の家は私たちの帰るべき魂の故郷でもあります。
震災やさまざまな苦しみによって一人ぼっちになり、みなしごのような状態にある方々にとって永遠の父となって下さる救い主の愛が、私たちの奉仕を通して伝えられるように!

4.平和の君
 先日、ある集会で「伝道は自分たちの教団、教派の拡大とそのための信徒獲得のみを目指すのではなく、この世界に神のシャロームを樹立することを目標とすべきだ」と話させていただいた。“シャローム”は単に、争いのない、「平和」な状態を表わすだけでなく、力と生命に溢れた動的な状態をいい、「健康」「平安」「健全さ」「安全」「欠けることのない十全性」という意味も含まれる豊かなことばです。
キリストはその十字架により、神と人とのシャローム、また人と人とのシャロームを成し遂げて下さった。その福音をことばだけでなく、私たちの存在のすべてを通して伝えられればと強く願わされる。
仮設住宅での生活が長引くほどその生活の過酷さを訴えられる方が増えている。経済の問題、健康の問題などもさることながら人間関係の問題が深刻になっている。ストレスも溜まりDVも急激に増えているようである。
人間関係の難しくなっている仮設住宅の自治会長さんから「教会のボランティアはそういう(和解の働き)のが得意のようだから手を貸してほしい」と相談されたことがあります。私たちには、神から“和解の務め”がゆだねられているのだと再確認させられました。
それは神が求めておられることですが、世の人々も求めていることなのです。
今こそ「平和の君」であるキリストのシャロームが必要です。

月報2012年11月号より

「みんなくるくるクールなスクール~ JOY JOY Academy」

2012年8月14日、ジムに学校の教室ができて、その裏には迷路が広がりました。そして、56人の元気な子供たちが集まって、JOY JOY Academyが始まりました!17日までの4日間、楽しく遊んで、たのしく聖書の話を聞いて、元気よく歌って踊って、スポーツや工作をして、迷路トンネルを探検して、エキサイティングな日々を過ごしました。
詳しくはwww.jccofnj.orgからJOY JOY Camp 2012の写真やニュースレターへのリンクをごらんください。

聖書のメッセージと「くーるVerse」はこのようなものでした。

1日目:
この世界は神様が造ったんだよ
「初めに神か_天と地を創造した。」 創世記1:1

2日目:
神様は一人一人を特別に造られた
「神様は一人一人に何かすく_れた能力を授けてくた_さっています。」 ローマ 12:6

3日目:
神様はイエス様によって私たちの罪を赦してくださいます
「神は実にそのひとり子をお与えになったほと_に世を愛された。それは御子を信し_るものか_一人として滅ひ_ることなく、永遠のいのちを持つ為て_ある。」ヨハネ 3:16

4日目:
イエスさまが友達になってくれたように、私たちも誰かの友達になろう!
「救い主のわたしは、実にこの人のような者を捜し出して、救うために来たのです。」 ルカ19:10

一つ一つの聖書の言葉が子供たちの心の中に残りますように、お祈りしています。

以下にキャンパーとご家族、そして、スタッフから寄せられた声をご紹介します。

<キャンパーとご家族から>

こんにちは。
JOYJOYでお世話になったOとWの母です。
キャンプでは息子達が大変お世話になり、ありがとうございました。昨年、今年と子供たちはとても楽しい数日間を過ごさせて頂くことができました。
昨年初めて参加させて頂いてから、JOYJOY Campのために家族旅行の計画をずらして欲しいというほど楽しみにしていた今年のキャンプでした。
毎日楽しみで、朝起きるのも上機嫌。
でも木曜日になると「あと1日しかないの…」とすでにしょげるほどみなさんによくして頂いて、楽しいだけの時間を過ごさせて頂いたようです。毎日帰りの車の中でも上機嫌で、キャンプであったことをいろいろ話してくれました。
Oのお気に入りの「しもりん」さん、話しの中には何度も何度も名前が出て来ました。本当によくしていただいたのだと思います。
Wにとても優しかった「えりか」ちゃん。いつも笑顔で接してくれて、私もとても話しやすい明るいいい子でした。
私の子供たちもいつかはこんな風に優しい、思いやりのある子供たちに育って欲しいと思うばかりです。
ほかのスタッフの皆様も、本当に優しくていい方ばかりで、こどもたちがJOYJOYファンになる意味がよくわかりました。

錦織先生はじめ、スタッフの皆様、ボランティアで関わってくださった皆様、お手伝いくださった若いリーダーの皆様、本当にありがとうございました。
また来年もお世話になれたらと願っています。
4日という短い時間でしたが、本当にありがとうございました。


とても楽しい4日間でした。ありがとうございました。
夏休みがまだ遠かった頃から、娘たちが参加できるといいなと思っていました。
聖書のお話しを聞いた事のない娘たち、このまま大きくなったらさみしいなと考えていました。
長い間、教会へ行っていない私自身ですが。。小学生の頃は、聖書のお話しを聞いたり 暗記したり 夏は何泊かバイブルキャンプへ行ったり、クリスマス会など懐かしい思い出があります。
Joy Joy Campに参加した4日間、娘たちは大好きな工作やダンスだけでなく、スタッフみなさんの温かさに触れてパワーUPした様子です。


4日間大変お世話になりました。
兄(8歳)弟(5歳)で参加させていただきました。
2人とも来年もまた行きたいと声をそろえて言っています。
迷路や実験?(ペットボトルの魚つり)が楽しかったようです。
最後の日、お祭り・表彰式から自宅へ帰って来くると次男が急に泣き出しました。
「寂しいよ~、またあそこに行きたいよ~」としばらく泣いていました。キャンプが終わってしまったことが悲しかったようです。素敵なスタッフや友達に出会えて、充実していたんだなぁと改めて感じました。
また来年も是非、参加したいと思います。
ランチまで付いていて本当に大助かりでした。母はとても楽が出来ました。
また来年もランチ付きでお願いします。
4日間ではなく5日間にしてもらえると子供達も喜ぶのではないかと、要望としてキャンプ期間を延ばしていただけたら嬉しいです。
素敵なキャンプを企画、実行していただきありがとうございました。スタッフの皆様、本当にお世話になりました。


とても楽しい4日でした。
本当にありがとうございました
Kはいまだに歌を歌い踊ってます
Sもとても楽しんでいました。
二人そろって歌っているときがあります。


今回兄弟二人ではじめての参加でした。
毎日子供達を飽きさせることのない内容に、スタッフの皆さまのご準備にどれだけの時間が費やされたのかと思わずにいられません。
皆さまに温かく迎えられ、子供達の癒しになったことは子供達の笑顔が語っています。
二人揃って「もう終わり?来年もまた行くね」と言っておりました。ありがとうございました。


こんにちは
KとYの母です。
2人とも、キャンプ中とても楽しかったようで、一番はトンネルで作った迷路と叫んでいます。
お祭りも、とっても楽しかったです。
手作りの工作も多く、楽しかったようです。

一つ・・・お昼ご飯で、自分たちで作った・・・トルティーヤに包んで食べたのが、苦くて食べれなかった・・・辛かった・・・と
美味しかったのは、カレー 牛丼 お祭りのたこ焼き~と言っています。
また来年も行きたい!!と、もう今から、話しています。
色々とありがとうございました。


今回、初めて参加させていただきました。
子供たちも最初はどんなことが始まるのか少し不安そうでしたが、毎日「JOYJOY楽しいよ~」と言って戻ってきました。
また、スタッフの皆さまの親切さ、優しさに、子供たちも安心できたのではないかと思います。
わが家はクリスチャンではありませんが、今回のキャンプで神様のお話を聞き、現地校、補習校に習い事と、親子共に心にゆとりがなく過ごしている毎日の中で「神様に守られている」「それぞれに才能を与えられている」等の言葉は少なからず子供たちの心の中に残りちょっと安心したのではないかと思います。これから先、つらい時にはまた思いだして頑張る力となることを願っております。
本当に楽しい毎日で終わってしまった日は、とても寂しそうでした。またJOYJOYに(キャンプだけではなく)行きたいと毎日言っていました。キャンプが終わり子供たちの顔が優しくなったような気がします。子供たちの心に安らぎを与えてくださり、本当に感謝しております。


TがJoyJoyキャンプに参加するのは今年で二回目。昨年、アメリカに来てすぐに参加させて頂いたのが楽しくて、その後、月一のキッズクラブにも参加させて頂くようになりました。
今年のキャンプも楽しみにしていて、思い切り楽しんでました。
特にサッカーに熱が入っていたようです。
会場の装飾からプログラムまで至るところに工夫があり、スタッフのみなさまの発想力に頭が下がる思いです。
そして、何よりキャンプの雰囲気が温かく心がこもってる感じがするのがこのキャンプの魅力の一つと毎回感じています。様々な年齢の子とふれあい、神様の教えも学び、そんな中で何か大事なことを感じてくれたらなあとも思ってます。
今年もたくさんのスタッフの方のお力でキャンプに参加出来た事を感謝しております。本当にありがとうございました。

<スタッフより>

いつもながら、こどもたちの心はスポンジのようでした。
神様が世界と地球を造ったんだ、という話に、
”神様って本当にいるの?”と聞いた5才の子。
悪い人は天国に行かれないものね?という劇の語りかけに
“そうだよ。”という反応。
小さいなりに、罪が生む深刻さを感じているんだ。
“そのままでイエス様のところへ行けばいいんだよ。
罪が赦されて、永遠の命がもらえるんだ。”
十字架の愛はいつも感動的。それがこどもたちの心へも拡がっていくのを感じました。
植えられた種、注がれた水。そして、それを大きくして下さる神様の働きを期待しつつ。

キャンプ中に作成した巨大モザイク。
小さな8色の紙片を何百枚も貼っているうちにだんだん声を
失ったものの、やがて出現したイチローに大喜び!
近視眼的には分からないが、遠くからだと見えるものがある。
人生もまさにそうではないでしょうか。
1ピースを一日と数えると、24,000ピースは約65年分。
昨日は赤色、今日は青色だったりするけど、いつか全体を
見わたす日がやって来る。

年々肉体的にはきつくなることを実感したキャンプでした。
準備3日間が終わった段階で、(つまりキャンプ開始前に)
疲労はピークに….。
教会やスモールグループの皆さんに毎日祈ってもらったことが大きな支えになりました。祈りのパワーに感謝と感動。

月報2012年9月号より