「スモールグループを始めて」

「いまだかつて、誰も神を見たものはありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」
第一ヨハネ4章12節

2010年4月、川崎招待キリスト教会で「家の教会」(スモールグループの一種)のセミナーに参加させて頂きました。今でも深く印象に残っているのが、数人のリーダーの方たちの証です。「家の教会」を始めるまでその効果や継続性に対して懐疑的であったこと、始まってからグループ内で感情的なもつれが生じて苦しんだこと、これまでずっと自分が精神的に頼っていたのは神様ではなく他人であったことを示されたこと、などをお分かちしてくださいました。証の中で、この方たちは時間が作れないはずだったのに「家の教会」を始めてから作れるようになった、集中祈祷で神様に自分の葛藤を全て注ぎだして自分の罪が示された、「家の教会」リーダーとなり一回り成長することができた、と報告してくださいました。
私達は不可能だと思うとき、何も頼るものが無いときに、また自分の弱さを知るときに、神様の示しに従うことができるか試されるように思います。私も最近、なぜ自分がリーダーになる必要があるのか?他にもっと適した人がいるではないか?という思いが心を占める経験をしました。一つには日本では小学生の頃から班長や学級委員などが選ばれる時に、面倒くさいからやりたくないから他の人にやらせようというクラスの雰囲気があったり、またリーダーには必要な知恵や助け手が与えられず孤軍奮闘するというイメージが定着しているからといえるでしょう。しかし神様の選びは、日本の公立学校でお荷物のように選ばれる学級委員などとは異なり、必要なサポートも与えられ、いつも最後には私たちを生かしてくださると信じる必要があります。
さらに最近、なぜリーダーを経験する必要があるのか?という記事を読む機会がありました。確かに適材適所という言葉が示すように、全員が同時にリーダーになる必要は無いですし、逆に方向が決まらずにグループがバラバラになってしまうように思えます。聖書にも「あなたがたはキリストの体であって、ひとりひとりは各器官なのです。」とあります。ではなぜ、それでも自分がリーダーに相応しいと思えなくても私たちはリーダーを経験する必要があるのでしょうか?それはリーダーを経験したことがある人は、他の人がリーダーになった時に、リーダーを尊重し、自分がどうグループに貢献することができるか考えることができるからだ、といいます。私もこれまでリーダーの方の苦労を知り、自分にできる貢献をすることによりグループをまとめる手助けをするという視点があったか?と反省させられました。リーダーを批判することばかりしてきたのでは無いか?と。
わたしたちのスモールグループは、短期的にニューヨークに滞在している方も含めて、女性7名で守っています。週一回のペースで集うことについて時間的な懸念がありましたが、いまのところ一人のメンバーの洗礼式があった週を除いて、欠かさず持つことができています。スモールグループの目的は、御言葉の分かち合い、霊的・精神的なサポート、アカウンタビリティー、祈祷課題や感謝報告を安心して分かち合える場所となることなどです。そして、ただの自助グループではなく、常に神様から頂いている恵みに満たされるような場所となることを願っています。
今わたしたちのグループが願っていることは、このグループが伝道の器として用いられることです。NJの教会にいくことができないNYにおられる方々のための飛び地伝道所としての働きができるように、切にお祈りしています。

月報2011年12月号より

「この一年を振り返って」

私にとって皆さんと過ごすことのできた一年間はあっという間でしたがとっても実りの多い一年でした。お一人お一人にお会いできたこと、祈りあえたこと、礼拝を共に守れたこと、行事に参加できたこと、挙げても挙げてもつきないほど私の中で神様に感謝でいっぱいになります。
昨年の10月末、まだ半袖で過ごしていたヒューストンから念願のニューヨークにとりあえず3ヶ月、仕事のため一人でやって来ました。アパートにスーツケースとかばんひとつで着いた時、アメリカに初めて来た時を思い出しました。夜になってももちろん夫は帰ってこないし、夜寝るときも一人だし、寝てるときもいびきは聞こえてこないし、なんだか慣れない生活が始まるんだという実感が沸いてきました(次の日主人は週末を使って来たのですが)。
仕事初日の前日、ニュージャージー日本語教会に初めて夫婦で行きました。ニュージャージーの教会に行こうと思った理由は10年前のサマーキャンプで、イエス様は私の罪のために十字架に架かってくださったと私の心に力強いメッセージをされたのが錦織先生でしたので、もう一度お会いできることを楽しみにしていたからでした。礼拝中の挨拶の時間やお茶の時間に本当にいろんな方に声をかけていただき、とっても歓迎された気持ちになり、次の週も来たいと思いでいっぱいになりました。仕事も、同僚も、生活も慣れないこと続きで不満がたまっていた次の週、やはり礼拝中の挨拶の時間に「今週もお目にかかれてうれしいわ。」とか「お元気でしたか?」という簡単な挨拶からでも神様の愛が伝わってきて胸がいっぱいになりました。次の週もまた来たいと思い、次もそのまた次もと結局一年お世話になりました。
仕事にも生活にも慣れていくうちに色々ハッと気付かされました。JCCNJでは受難週の集会、地域の集会、修養会、集まる毎に小さいグループに分かれ祈ることが多く、それほど親しい仲ではない私にも祈りの課題を分かち合って、ただおしゃべりをするだけではなくて、私のためにも祈ってくれるという関係が私には新鮮で、これって兄弟愛だなーと思わされました。一人ひとり課題があり、大変な中を通ってはいるのですがそれも分かち合い、共に今与えられている自分の役割に忠実に歩んでらっしゃる集まりで、すばらしいと思います。
もうひとつはヒューストンでは、いつから夫と一緒に教会にいかなくなったのか覚えていないくらいで、私にとってそれは優先順位の低いことだったことにも気づかされました。夫にとってもJCCNJは男の人もいて話ができる人がいるまた行きたくなる場所だったのだと思います。大好きだった仕事ですが優先順位が変わり、妻であることも神様の召しであることを喜んで受け入れられるように私も変えられていきました。

聖書の中でパウロが皆さんを訪ねたいと何回も出てくる気持ちが今はもっと理解できます。皆さんと交われ、教えられた一年私たち夫婦には宝物です。またお会いできる日を楽しみにしています。

月報2011年12月号より

「洗礼に導かれて」

私は明治生まれの父と大正生まれの母の元、2男4女の6人兄姉の末っ子として躾の厳しい家庭に育ちました。そんな私が家族の大反対を押し切って国際結婚をして2人の娘に恵まれました。言葉も習慣も育ちも違う二人ですから、喧嘩もよくしました。
私の家庭は仏教ですが、夫はカトリックだったので娘たちは生後3ヶ月で幼児洗礼を受けました。私と神様との出会いはこの時からです。しかしながら、私は親の反対を押し切って結婚したので、親不孝をしている思いから、国籍と宗教は親の生きている間は変えない方がいいと考えて居ました。
母は80歳を過ぎてから、胆石、胆管炎、腎臓結石と3回の手術をしました。86歳の時には動脈瘤が見つかり、手術をする筈だったのですが、若い人なら血管も弾力性があり、手術にも耐えられるけど、母は年齢的にも血管がおせんべいの様にバリバリになっている為に、体力と血管が手術に耐えられるか、五分五分だと主治医からお話がありました。選択肢は好きな物を食べて普通に生活をさせて上げて3~4ヶ月か、手術をして、万が一成功してもずっと病院で完治をするまで耐えられるかどうか、という話でした。そして父の下した判断は今のままで好きなようにさせて上げたいという事でした。そして兄から連絡が有り、最後のお別れになるかも知れないので直ぐに帰って来るようにと言われて、急遽、母の看病に帰りました。
その頃、夫はアメリカ空軍をリタイヤして教師をしていたのですが、横須賀基地の中にある軍人の子供達が通う学校に移動が決まっていました。9月には転勤になるのでそれまでは、母に頑張って居てほしいと思っていたのですが、7月末に母は亡くなり、父からは9月に帰ってくるのだからお葬式にはかえって来なくてもよいとの事でした。今も母を思い出すと亡くなった姿を見ていないので元気に笑っています。
父は70歳の時に大腸癌を手術してそれから20年再発もなく元気になって、陶芸に没頭して母が生きている時から二人で仲良くやっていましたが、母がなくなって、2年後に腸閉塞で亡くなりました。その頃、私は日本に居たにもかかわらず仕事をしていたので、父は元気だったし何時でも会えると思っていました。知らせを受けて病院に駆けつけた時には、手術中でした。それから2日後に目を覚ます事もなく亡くなりました。私は母の時はお別れが出来ていたのですが、父は突然だったので、悔いが残りました。
その頃、夫は横須賀基地内の学校を辞めて、日本の大学で講師として教鞭を取っていました。日本には2年の滞在のはずが11年も住んでいました。
その間には次女が結婚して、二人の孫が出来て、長女も結婚して、待望の赤ちゃん(ジャック)が生まれました。しかし出産して3日後に退院する直前に心臓に2箇所も欠陥が見つかり、直ぐに手術をしなければ命にかかわるということで、大手術を受けました。
私は、産後の手伝いに日本から来るはずだったので急遽日にちを変更して飛んで来ました。病院に直行してジャックを見た時には声も出ないくらいのショックでした。胸には大きな絆創膏が貼ってあり体中に管が着いていて、顔はパンパンに腫れあがり、可哀想で涙が止まりませんでしたが、それでも大きな泣き声ですごい生命力を感じました。娘はこの子は神様が授けてくれたんだから大丈夫だと気丈に看病をしていました。
ほんとに神様はこの子を助けてくれるのか半信半疑な気持ちでした。娘夫婦は朝に晩に病院内の教会で祈り、自分達が行っている教会の牧師さんや仲間には励まされ、お祈りをしてもらっていました。それから10日後、副作用もなく、傷口は痛々しいのですが、7ポンドの小さなジャックは家に帰ってきて、傷も日増しに完治していき、この時は、神様ありがとうってほんとに感謝しました。

私の夢は、将来は夫と孫の面倒を見たり、ホリデーには家族で集まったりして、みんなで楽しく、そして老後はあちこち旅行などして、ゆっくりと過せたら、なんて思っていました。子育ても夫の転勤先にも付いて行って、仕事もして、慣れた頃には又移動でしたが、その夢に向かっていました。
でも、夫の夢は、私とは同じ方向に向いてなく、残り少ない人生で、もう一度青春を取り戻したい、その思いが年齢を重ねる事に大きく膨らんでいったようです。
それから、私の苦悩の日々が幕を開け、5年間は精神的にズタズタになっていました。娘達にも心配を掛けてしまい、疲れ果てて、40年間の結婚生活に幕を降ろしました。親の離婚は大人になった娘達にも深い傷を負わせてしまいました。私は親の反対を押し切って結婚したのだし、夫も離婚なんて絶対しないと言っていたので、一人になってこれからどうしたらいいか、日本に居る兄姉たちは日本で暮らしたほうがいいと言ってくれたのですが、とにかく長女の居るニューヨークに行こうと決心をして、今まで両親の位牌を置いて、毎日朝のお参りは欠かさずしていた私が、心機一転、位牌を兄に頼んで、私は孫の命を救ってくれた神様のところへ、娘の教会に行きたいと思っていました。
ところが、娘たちはもう完全なアメリカ人であって、日本のように親との同居なんて、考えないし、有り得ない事。そこへ私がボロボロでやって来たのだから、青天の霹靂です!「しかし、今は母を受け入れなくては・・・。来てしまったのだから。」というところだったのでしょう。
それからは私と娘と婿殿の葛藤の日々が続きました。娘達の教会に行っても英語なので分らず、パスターも教会の方々も、私のお友達探しをしてくれるなど、優しい方ばかりでしたが、毎週行っているうちに、自分にあった教会を探したいと思うようになりました。2箇所ばかり行ったのですが、なかなか、「ここだ!」という教会にめぐり合えませんでした。離婚の手続きのために、娘が親の間に入って苦しんで傷ついて、気の毒な事をしました。娘はパスターや教会の皆様にお祈りしてもらっていました。そのときにはわかりませんでしたが、私もその祈りの中で、神様に助けていただいたのだと思います。
そして、月日は一年以上も過ぎて、娘夫婦と私の間の溝が大きくなっていく中で、神様にニュージャージー日本語キリスト教会に導かれました。あの時の感激は今も思い出します。やっと出会えた・・・と思いました。ほんとに嬉しかったです。
そして錦織先生との面談、バイブルの勉強、礼拝、一日も欠かさずに楽しくて仕方がありませんでした。そんなある日、初心者のためのバイブルの勉強をしていた時です。終わりに近付いてお祈りをする頃に、二人の若い女の子が入って来て先生と挨拶をしました。その瞬間、私はこの一人の女の子が別れた夫の新しい奥さんだと気づいたのです。
それは、夫が新しい人と住んでいた所から、ニュージャージーに引っ越して来ているのを娘達にメールで知らせて来ていたからです。娘とミツワや美容院、ドクターに行くたびに「会わなければいい」と何時もヒヤヒヤしていたのに、教会で出会うなんて・・・。私は礼拝堂に入り、彼女が前の方で座っている姿を見ながら、夫に対しての悔しさとか未練とかではなく、やっと好きな教会に出会えて、神様に助けを求めて来ているのに、何で、こんな事が起きるのか、私は直ぐに席を立って教会を出ようと思いました。でも、何で私が出て行かなくちゃいけないの?神様が導いてくれたんだから、何故?こんなひどい出会いを神様は私にさせるのか?涙が止まりませんでした。
そして先生のお話を聞いてるうちに、逃げない。ここは私が救われる教会だから。そして、神様が助けてくれました。この日から私の洗礼を受ける決意が固まったように思います。
今思えば、あの時の出来事は、神様が何時もヒヤヒヤして毎日を送っている私に、「私を信頼しなさい」と、荒治療をして下さったような気がします。そして10月21日に洗礼を受ける事が出来、感謝してます。

これからは迷う事無く神様の導いて下さる道を歩んで行きたいと思います。

“The Lord will watch over your going out and coming in from this time and forever.” Palms(詩篇)121:8

月報2011年11月号より