説教: 錦織 学師
聖書箇所 : マタイ(Matthew) 5:43〜48
最近、家族に「テレビの音が大きい」と言われることが増えてきました。ずっと「単なる好みの問題だろ・・・」と思っていたのですが、ある集まりで皆さんのお話を聞きながら、「ん?右の耳で聞くときと、左の耳で聞くときで聞こえ方が違う・・・」と気がついたのです。
それで、アプリで「聴力検査」を探して、試してみたら、なんと「高度難聴」!その後、静かなところで落ち着いてテストしたら、そこまでは悪くないようですが、それでもボーダーライン。神様からいただいた大切な聴力。これはちゃんとお医者さんに行って調べないといけないな・・・と思っているところです。
聖書の中にこのような言葉があります。
「人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。」
ヤコブの手紙 1章19節
語るためには聞かないといけないです。私たちは、相手の言うことを一言聞いて、すぐに反論したり、アドバイスをしたりすることがどれほど多いことでしょうか。自分が聞いてもらう立場だと、ちゃんと聞いてもらっていない時はすぐに分かります。「この人、全然話を聞いてくれていないな」と。でも反対に自分が聞く側に回ると、自分ではなかなか気がつきません。勝手に相手の言いたいことが分かったような気になって、コメントをしたくなるものです。一生懸命聞いて、理解しようとして、その心の叫びに耳を傾けて、そして、初めて口を開く。そのような姿勢がどれほど必要かと思います。
それと共に、この言葉は、まず聞くことによって内側が豊かにされて、初めて語ることができる、という真理も表していると思います。ですから、私たちはもっともっとinputに目を向けなければいけません。何を聞くかによって、私たちの口から出る言葉は変わってきます。Negativeな言葉を聞いていると、negativeなものがあふれてきます。Positiveな言葉を浴びていると、positiveなものがあふれてくるのです。ですから、神の言葉である聖書のメッセージを聞くことが、本当に大切です。神の愛の言葉を聞くことが本当に大切です。それによって、私たちの内側が満たされて、そこからあふれるものによって語っていくことができるのです。
心の聴力、ちょっと目を向けてみませんか。
3歳の頃から3つ上の姉に連れられ町内の土曜学校に献金の5円を握りしめ行ったのがキリスト教との出会いです。
途切れとぎれの記憶ですが時々頂く小さなカードがとっても嬉しく宝物だったのを思い出します。斎藤という同じお名前のふたりの牧師がおられて、楽しく、子供讃美歌も沢山教わり、今でも時々口ずさみます。
小学低学年の頃「放蕩息子」のお話を聴いた時は心が熱くなり、それが私の「初恋」でした。
毎日、押し入れに電気スタンドを引き入れ本を読んで、親の言う事も聞かない、弟息子の様であった私を、あの様に迎えて下さる主、その様なお方は子供ながら辺りを見廻しても見た事も聞いた事も無い世界でした。
15歳の高校受験に入るまでは斎藤牧師のいらっしゃる堀切教会に通いました。
その主を知った私が、その後は高校、デザイン学校と、成績はともかく生活は主とかけ離れてしまいましたが、「主の祈り」だけは私の身から離れませんでした。
1989年にアメリカに渡り、ノースカロライナ州のチャペルヒルに住んでいました。
今、手術しないと2週間の命と言われた60歳の時、同じ乳がんを経験した台湾の方にお話を伺いに行った所、日本人の大学教授の乳がん経験者が近くに居るので紹介しましょうかと言われましたが、その時はお断りしました。
幸いに手術で全ての癌は取り去られました。
2年後の1月に連れ合いに肺がんが見つかり7月に亡くなり独りになった時に、先程の台湾の方にお話頂いた方の紹介をお願いしました。
連絡を取り翌日山内先生にお目にかかれたのも主のお計らいであったと思います。
その晩は1ヶ月に1度の山内家でのバイブルスタディの日でした。約20名の日本の方が集まり、リーダーは山内先生のご主人で、そこにはラーリーの日本人教会の横井牧師もいらっしゃいました。2年後横井牧師から洗礼を受けました。
64歳の「放蕩息子」です。
ノースカロライナからNYに来て約10年、NJの教会の礼拝に参加させて頂いてから5年程、毎週の教会が喜びです。
讃美歌も沢山覚えました。
若い方々とご一緒出来るのも嬉しいです。
私に何が出来るのかを探すのも楽しみのひとつになって来ています。
あの小学低学年の子供が恋をしたと思っていたのは思い上がりだったと今はっきりと判ります。私が恋をしたのではなく、主に愛された時だったのです。
日本のテレビ番組「プレバト」をご存知ですか。俳句を中心に、水彩画、消しゴムハンコ画、シャッター、絵手紙、盛り付け、生花、貼り絵・・・など芸能人が素晴らしい才能を見せてくれる番組です。今日はMさんが、その中から家族みんなですぐに楽しめるバナナを使ったアートを紹介してくれました。
色鉛筆画も素晴らしいアート‼︎ プレバトの作品を見ながら、 色鉛筆の選び方で絵の具の3原色とは違う発色のおもしろさも説明してくれました。
バナナにいきなり針や爪楊枝でチクチク描き始めます。バナナの使い方は自由、縦、横…。色の濃さは、針を刺す数や深さ、時間によって変化します。
可愛い動物たちが現れました。・・・「才能アリ‼︎💕」・・・
今度はバナナとお皿を見ながら、発想を自由に飛ばしてクロッキー画!
啓茶先生とみんなの作品を鑑賞しコメントをいただきました。
誰にでも簡単にできるバナナアートは、五感でアート能を刺激してくれると思います。是非一度お試しあれ!!
続いて錦織先生の聖書のお話です。
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最近、家族から「テレビの音が大きい」と言われることが増えてきました。ずっと「単なる好みの問題だろ・・・」と思っていたのですが、昨日、他の集まりで「ん?右の耳で聞くときと、左の耳で聞くときで聞こえ方が違う・・・」と気がついたのです。
それで、今朝アプリで「聴力検査」を探して、試してみたら、なんと「高度難聴」!お医者さん行かねば・・・と思っているとこです。(その後、静かなところで落ち着いてテストしたら、そこまでは悪くないようですが、ちゃんと調べないといけないですね・・・)耳を大切にしないといけないですね。
そこで、今日はこの聖書の箇所を紹介したいと思いました。
マルコの福音書 7章31~37節
イエスは再びツロの地方を出て、シドンを通り、デカポリス地方を通り抜けて、ガリラヤ湖に来られた。人々は、耳が聞こえず口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださいと懇願した。そこで、イエスはその人だけを群衆の中から連れ出し、ご自分の指を彼の両耳に入れ、それから唾を付けてその舌にさわられた。そして天を見上げ、深く息をして、その人に「エパタ」、すなわち「開け」と言われた。すると、すぐに彼の耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話せるようになった。イエスは、このことをだれにも言ってはならないと人々に命じられた。しかし、彼らは口止めされればされるほど、かえってますます言い広めた。人々は非常に驚いて言った。「この方のなさったことは、みなすばらしい。耳の聞こえない人たちを聞こえるようにし、口のきけない人たちを話せるようにされた。」
この人は耳が開かれたときに舌のもつれも解けた、のです。
この順番が大切です。
何を聞くか、ちゃんと聞いているかによって、語る言葉が変わります。どんなインプットがあるかによって、どんなアウトプットが生まれるかが変わるのです。
積極的な励まされる言葉を聞いていれば、そのような言葉が自分の口からも出てくるのです。神様からの愛の言葉、励ましの言葉をいつも聞いて、人を励まし生かす言葉を出す者とならせていただきたいですね。
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2023年も早くも1ヶ月が過ぎ、2月になりました。アメリカでは2月2日が春の訪れを占うグランドホッグデー、日本では2月4日が、寒が明けて春の始まりを告げる立春ですね。冬至から1ヶ月あまり経ち、ちょっと散歩をしてみようと外に出ると、久しぶりの青空はまぶしいほどです。夕方も4時半には暗くなっていたのに、今は5時半まで昼間の明るさが残っています。2月はまだまだ寒い日や雪の日も多いですが、太陽は確実に春がやってくることを約束してくれています。春が待ち遠しいですね。
この「待つ」ということは、私たちの信仰にとってとても大切なことです。自分の力ではどうにもならないことを前にして、神がなさることを信頼して、神が働いてくださる時を信頼して、待ち望んでいくのです。聖書の中に「待ち望む」という言葉が何度も出てきます。
代表的な言葉を挙げると、
「雄々しくあれ。心を強くせよ。すべて主を待ち望む者よ。」詩篇31篇24節
「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。」イザヤ書40章31節
「その恵みは、私たちが・・・祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。」テトスへの手紙 2章13節
ですから、「待ち望む」というのは、「冬は寒いからこたつの中で丸くなっていよう」とか「今は状況が悪いから、我慢するしかないね」と、ただ我慢して春が来るのを待っている、嵐が通り過ぎるのを待っている、というのではなく、神が良くしてくださることを信頼して、いろいろ心配しないで、勇気をもって、自分のなすべきことをするという意味です。上のイザヤ書の言葉にあるように、「主を待ち望む者は力を得る」ことができるのです。
あなたは今、どんな状況に置かれているでしょうか?冬のような状況でしょうか?主を待ち望みましょう。必ず春がやってくることを信じて、主を待ち望み、力を頂いて、勇気をもって、忠実に自分のなすべきことをしていきましょう。