私は1930年にカルフォルニア州のオークランドで、日本の秋田県からの移住者の両親の元に生まれました。そのころ、オークランドの日系住民達の社会生活は、プロテスタント教会か、仏教のお寺か、を中心に営まれていました。他の多くの団体がそうであったように、移住者達に提供されていたのは、宗教的なものであるよりも、ソーシャルな、また文化的な活動でした。ですから、そこでは特別に深い個人的なコミットメントを要求されるわけでもなく、自分が何の宗教を信じているか、ということについて、とても受け身的な意識しか持っていなかったと思います。そして、私自身、そのような大人の姿勢を見ていて、宗教的アイデンティティーについては、同じように受け身的な意識を持っていました。

第二次世界大戦の時に、日本人と日系アメリカ人が西海岸から強制収容されたときにも(私たちは、1942年から1945年まで、ユタ州中部に強制収容されました)、この宗教的な受け身の姿勢は続いて、何ら変わることはありませんでした。実際のところ、私は、強制収容所でも教会に行った記憶がありません。そして、1945年、私たちはニューヨークに引っ越してきました。

私の子ども時代、少年時代を通して、宗教一般について、余り真剣に捕らえてはいませんでしたし、もちろん、聖書を読んだこともありませんでした。聖書を読むようにと言われたこともありませんでしたし、私の両親も、普段は聖書を読んでいませんでした。そればかりか、私はすべての宗教というものに対して、軽蔑の念を抱くようになってきていました。この軽蔑の念は、1947年から1951年にかけて、City Collegeで学ぶようになって、更に強くなっていきました。大学時代、私は無神論を当然のように信じている左翼の政治サークルで活動するようになったのです。

私が最初に真に宗教的な経験を持つようになったのはFordham Universityで、イエズス会の司祭と共に哲学を学び始めてからでした。彼は、宗教的な純粋さと、哲学的な緻密さを併せ持っているように見えました。この司祭は私のヘーゲルについての博士論文のメンターであると共に、私のスピリチュアルな指導者でした。ですから、私にとってのカトリックの教えは宗教的であると同時に哲学的なものでありました。今日に至るまで、私は知的な関心と、霊的な関心とを分けて考えることはできません。これは、Fordham Universityでのローマ・カトリックと、イエズス会の哲学との両方にポジティブな出会い方をしたおかげだと思っています。

私は33歳の時に、イエズス会の司祭によってローマ・カトリックの洗礼を受けました。私は1962年にFordham UniversityからPh D.を受けて、Manhattan CollegeというChristian Brothersが経営するローマ・カトリックの大学で教えるようになりました。それからずっと47年間、Manhattan Collegeで教鞭を執っています。

しかし、2、3年のうちに、私はローマ・カトリック教会に失望するようになりました。それは、彼らが告白するキリスト教の理想と、無神経かつ物質主義的な実践との間の大きなギャップを目の当たりにしたからです。私はマルクス、ニーチェ、フロイド、サルトル、カミユなどについて学び、コースを教えるようになっていきました。

私が、妻あやえと出会ったのは、そんな時でした。彼女はNew York Universityで英語を学んでいました。私はそのころ、ポスドク向けの奨学金を受けてColumbia Universityで中国語と日本語を学んでいました。実は、彼女と私の父とがマンハッタンの日米合同教会で会ったのが始まりだったのです。彼女は日本でプロテスタントの洗礼を受けていました。彼女が私のプロポーズを受けてくれたときに、私はイエズス会の司祭に結婚式の司式をしてくれるようにと頼みました。しかし、私の教区の司祭は、ローマ・カトリック教会では、そのようなカトリック以外の人との結婚の時には、カトリックの儀式で結婚式を挙げて、子どもはカトリック信徒として育てなければいけない、と要求しました。私たちはそのような誓約書にはサインはできませんでした。そして、結婚式自体はカトリック教会でいたしましたが、娘はプロテスタントの教会で洗礼を受けました。

結婚してからは、私の父と妻と、娘とが日米合同教会に行き、私は家に残っていました。

1988年の夏に、ニュージャージーで始まったばかりの教会の初めてのファミリー修養会(リトリート)が持たれました。その時、妻は、自分では会場までどうやって行ったらいいかわからないから、車を運転していってほしいと頼んできました。まだ宗教というものについて反感を持っていた私は余り気が進みませんでした。彼女は集会には出席しなくていい、外をぶらぶらしていればいいから、とまで言います。そして、最終的には私は抵抗する思いを乗り越えて、修養会に出席したのです。驚いたことに、私がそこで会った人々、当時の正木牧師を始め、後藤さん、梅本さん、中條さん、催さんといったニュージャージー日本語キリスト教会の創立メンバーの皆さんは、親しく私に語りかけてくださり、またその信仰的に純粋な姿は私に深い印象を与えてくれました。韓国人であった催さんご夫妻は特に、私を歓迎してくださいました。その暖かさが私の抗う気持ちを溶かし、私はMaywoodにある教会に続けて集うようになっていきました。翌年には私はこの教会のメンバーになり、その後、教会が二つに分かれる危機の時には役員にもなったのです。

私の場合はサウロがダマスコへの道で経験したような劇的な出会いがあったわけではありません。それよりも、ゆっくりと、目立たないで、教会生活が浸透していくような歩みがあったのだと思います。キリストの愛を直接感じるよりも、教会のメンバーの生活を見ている中で神の臨在を感じるようになっていったのです。実際のところ、これが多くの人がキリストを知るようになるようになる道であり、最も効果のある伝道の方法であると、私は信じています。

私の人生で一番大きな危機は1997年の春にやってきました。私は67歳でしたが、中程度に進んだ前立腺ガンの診断を受けたのです。私は、同じような経験をした方々と話をして、手術を受けることにしました。そして、1997年6月に、radical prostatectomyという施術を受けました。その時には、教会の皆さんにお祈りをして頂きました。実際のところ、無理矢理、そのようにさせられたのです。礼拝の後に、人々が私の周りに集り祈ってくださいました。

手術の日、錦織牧師(そのころは牧師は空席で、錦織師は教育主事でした)は、私と共に祈るために、lower ManhattanにあるNYUのメディカルセンターに来られました。しかし、その時には私はもう手術の準備のために会うことはできませんでした。その日の午後、手術の後私がリカバリールームにいると、まだ麻酔が覚めない中で、イエス・キリストにお会いしたように思いました。しかし、それはもう一度病院まで来られた錦織牧師だったのです。今日まで、私はこれは幻覚ではなかったと確信しています。私は神様に、錦織牧師に、そして、私のために祈ってくださったすべての方々に深く感謝しています。私の回復は、ちょっとガスがたまった痛みがあった以外は、すべて順調でした。術後の傷の痛みも、合併症も何もありませんでした。5年以内に再発しなければいいというところ、手術から12年も経っていますから、私は統計的には完治した、ということになります。

78年間の人生、そして、クリスチャンとして、ニュージャージー日本語キリスト教会のメンバーとしての21年間、また2-3年のローマ・カトリックとしての日々、そして、宗教に対して無関心だったり、反感を持っていたりした数え切れない年月を通して、私の人生のすべては働いて最高に導かれたのだと確信しています。これこそが、「神の導き(摂理)」ということの本質的な意味だと思います。

マルクスやニーチェ、フロイドのような無神論者についての私の研究は、彼らの洞察力や、自由で制限のない、批判的な思索の価値を認めることによって深められていきました。同じようにローマ・カトリック教会とのつながりは、哲学を大切にすることと、組織の権威の必要性と危険性の両方とを教えてくれました。

最後に、クリスチャンの生活は、普通の限界の中に留めておくことはできず、マザー・テレサが、どうしてあなたは、カルカッタの路上で死んでいく人々、貧困にあえぐ人々を助けるために人生をささげたのか、と問われたときに、「彼らの中にキリストの顔を見るからです」と答えたように、限界を超えていくのだとわかってきました。

最後に証を終えるにあたって、私の好きな聖句を挙げます。

「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。」ローマ14:7

「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」 ローマ8:31、35、38-39

月報2009年9月号より