「1997年のクリスマス、主人と一緒に…」

1997年のクリスマス、主人と一緒に生まれて初めて教会に行きました。その時まで、特に教会に興味を持ったこともなく、聖書にも触れる機会のなかった私にとって、教会はとても神聖な場所で、それまで味わったことのない雰囲気を感じました。

しばらくして主人と結婚することも決まり、私は主人の両親や兄弟、友人に会いたい気持ちもあり、教会に通い始めました。その頃主人はアメリカで留学生活を続けていた為、一人で行かなければならない心細さはありましたが、教会の皆さんが温かく接してくださり、とてもありがたく思っていました。ただ、私の心の中には、「クリスチャンの彼と結婚するのだから、私も早く教会のこと、神様のことが分かるようにならなくちゃ。早く洗礼を受けなくちゃ。教会のみんながそう望んでくれている。」という気持ちがありました。一方では、いつもそのことに反発する自分がいました。20数年間信仰について全く考えたこともなく、どちらかというと私には必要ない、自分の判断で生きていけると考えていた私には、すべてを素直に受け入れることはなかなかできませんでした。尊敬していた両親との関係も変わってしまうのではないか、自分自身も変わってしまうのではないかと、たくさんの不安がありました。真剣に考えようとすればするほど、それが悩みになっていきました。牧師先生に「結婚式の前に洗礼を受けることはとても意味がありますよ。」というお言葉をいただいたにもかかわらず、決断ができず、主人にも申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

結婚後すぐニューヨークに来て、2ヶ月くらい経った頃だったでしょうか、日本の牧師先生の紹介でこちらの教会に通うことになりました。礼拝に出席できるのはうれしかったのですが、また「洗礼」という言葉が重くのしかかってきました。この言葉がでる度にビクビクしていたような気がします。イースターの少し前、錦織先生から「どのように考えていらっしゃいますか。」と声をかけていただいた時、思い切って話してみようと思い、面談をお願いしました。その時から勉強会を通し、それまで自分が抱えていた悩みや不安を先生にお話しするにつれ、徐々に気持ちが楽になっていきました。主人とも洗礼のことについて話すようになり、相談する度にいつも「人にはそれぞれ時があるから、焦る必要はないよ。」と支えてくれ、その言葉にとても救われました。また、たくさんの方々に支え、励ましていただきました。「悩むことは、神様は望んでいらっしゃらない。」「洗礼を受けた時は本当にうれしくて、その日のことは一生忘れない。」というお話を聞いて、私もそんな風にうれしい気持ちいっぱいで洗礼を受けたい。きっと、私にもそういう時がくると信じていました。

その後もしばらく時間が必要でしたが、日帰りで出席した修養会の夜の集会で先生が「自分のために祈ってもらいたい方、前に出てきてください。」と言われた時、「私のために祈ってください。」と心から願って前に出ました。そして、「クリスマスに洗礼を受けたい」と先生に申し出ました。それからは不思議なように、たくさんの御言葉が心に入ってくるようになりました。神様が共にいてくださることのありがたさ、また人間の力には限界があり、そこにぶつかった時信仰を持って神様にお委ねできるすばらしさを感じさせられました。

昨年のクリスマスは私にとって初めて意味のある、感謝の気持ちいっぱいのクリスマスになりました。夫婦が夫婦としてだけでなく、同じ神様を信じて一緒に歩んでいける喜びを感じました。

「神様はご主人を通して、あなたを導いてくださったのね。」教会に通い始めた頃初めてこの言葉を言われた時はあまり意味が分かりませんでしたが、今は本当にこのことを感じ、私にふさわしい時に、ふさわしい方法で導いてくださった神様に心から感謝しています。

私の信仰生活はまだ始まったばかりですが、神様がいつも共にいてくださることに日々感謝し、最後までこの信仰を持ち続けられるよう導いていただきたいと思います。

「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」

(ペトロ第1の手紙 5章7節)

私の受洗に際し、日本の牧師先生が送ってくださった御言葉です。

月報2000年4月号より

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