「だれが、キリストの愛からわたしたちを…」

「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。

患難か、 苦悩か、迫害か、

飢えか、裸か、危難か、剣か。」

『ローマ書』 8:35

初めて死というものに直面したのは丁度一年前、1997年5月28日のことでした。過去67年間健康に恵まれた私は、前立腺癌に侵されていると知った時、表面上は冷静を装ったものの、内心恐怖に戦えていました。その年の2月に癌と診断されて以来、同じ病を患った方や、患った人を知っている方など幾人にも話を伺いました。殆どの方は手術を受けることを勧め、又ある方は放射線治療を、そして娘の上司の兄であるジョンズ・ホプキンズの医師には「心して安静」する様勧められました。私自身入手出来る限りの文献に当たり、それぞれの選択肢の長所・短所を吟味してみました。そして随分後込みしながらも、結局手術を受ける決断に至ったのです。

その時まで死や病気などは他人事だと高を括っておりました。私が教える哲学の講義で死を論ずることがあっても、それは抽象論の世界に過ぎませんでした。何らの兆候も自覚症状もなかったこともあり、癌だと宣告された後ですら現実のものだとは考えられませんでした。然し私自身のために敢えて自分の病気を人に隠さない様努め、大学においても教会においても聞いて下さる方には誰彼構わず病気について話しました。私が余りにも開けっ広げに話すので人に衝撃を与えたことも、また逆にこの話題を避けようと苦慮していた人を安堵させたこともあったかも知れません。大学の講義で私の病気を議題にしたこともあったほどです。

それまでは苦難を通じて神が我々の近くにおられることを本当に感じるのだとは分かっていませんでした。如何にして愛である神が患難を通して私達の心を満たして下さるのでしょうか。私の場合は手術の前にも後にも特に痛みなどは無かったのですから患難と言っても単に精神的なものでした。それでも、人生の中で本当に初めて一度神に見放されることが、神の愛を体感するのに必要であったのだ、否、見放されたそのことが神の愛なのだと気付くに至らされたのです。現代宗教思想家の中で私が最も敬愛して止まないユダヤ系フランス人、シモン・ヴェイルはその著書の中で辛辣にこう述べています。

「我々人間において、苦難を享受してこそ父とそのひとり子の間の隔絶を共有するという限りなく貴重な特権が与えられる。然しこの隔絶は愛する者にとってはただ一時の別れに過ぎない。痛みを伴っても、愛する者にとってこの別れは善である。何故ならそれは愛だからである。見放されたキリストの苦難ですら善なのだ。地上においてこの愛を共有する以上の善はあり得ない。神は我等の肉の故に我々のもとに全きまでおられることはない。然し神は究極の患難に置かれた我々をおよそ全きまで見放されもする。これこそが我々がこの地上で完全となる唯一の可能性であり、だからこそ十字架が唯一の希望なのだ。」

『Waiting for God (神への待望)』より

『The Love of God and Affliction (神の愛と患難)』 p. 127

人生において初めてこの筆舌に尽くし難い別れと結束の両方を体験したのです。

大学でも教会でも人々が私に惜しみなく愛を注ぎ、又お気遣い頂いたことは感謝の限りです。手術の日にわざわざ二度も病院を訪ねて下さった錦織師を初め、多くの兄姉が私の回復のために毎週祈って下さいました。特に、私のために教会全員でお祈り下さったあの土曜日のことは忘れることが出来ません。教会と祈りを通して溢れんばかりの神の愛を痛感しました。

娘マリもワシントンD.C.から幾度も足を運び私を癒してくれました。実のところ、私の病気があったからこそ親子の絆が強まったと言っても過言ではありません。父親を失うかも知れないという危機感が娘の心を開き、父親への愛を悟らせたのです。娘が一時も早く神への信仰に立ち帰ることが出来ます様、妻と私と共にお祈り下されば幸いです。

「もし、神がわたしたちの味方であるなら、

だれがわたしたちに敵し得ようか。」

『ローマ書』 8:31

月報1998年7月号より

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