「主とともに歩む 」

この教会に転入会が許され1ヶ月が経とうとしています。ここに至るまでたくさんの方がお祈りにお覚えてくださってましたこと、また家族一同親しくお交わりの輪の中に加えて頂いておりますことを心より感謝申し上げます。何年も前からこの教会や皆様といろいろな関わりを持たせて頂いてますが、どのようにして私が信仰を持ったかお話しする機会がありませんでしたので、そのことをお証しさせて頂きます。

私の両親はクリスチャンで、生後1歳半の長男を日本脳炎で天に送るという試練を通し、家族献身に導かれました。両親の学びの期間、兄と私はインマヌエル綜合伝道団の神学校(聖宣神学院)の家族寮で幼少期を過ごし、その後両親の転任に伴って高松、京都伏見、新潟の地で、両親が奉仕する教会で育ちました。

高松にいたときのことです。私は2歳半、弟が生まれて5人家族になっていました。両親は、間近に迫った春の特別伝道集会の準備に追われていました。当時は、特別集会の準備と言えば、たくさんの立て看板を作って街中の電柱に立てて回ったり、チラシを何千枚も印刷して近隣に個別配布したり・・・。もちろん、チラシやポスターを作るにもガリ版やシルクスクリーンでの手作業という時代でしたから、その直前の忙しさは相当なものでした。そんな矢先、私は、外に出た兄を追って玄関を飛び出し、走って来た乗用車にはねられてしまったのです。車が急停車するブレーキ音を聞き、びっくりして教会から飛び出して来た両親は、血まみれになってゴムまりのように転がっている私を見つけ、大急ぎで病院に運びました。まだ幼くて体がやわらかかったからでしょうか、幸い命は取り留めました。が、左足大腿部を複雑・粉砕骨折しているということで、何度かに分けての手術が必要となりました。説明を受けた両親は、手術を受けたとしても完治は無理かもしれない、将来足を引きずって歩くことになるかもしれないと言われたそうです。両親は祈り、そして私に手術を受けさせる決心をしました。

手術の前の日、私は、牧師である父から病床で個人伝道を受けました。マルコによる福音書10章に出てくる目の見えないバルテマイのお話を通して、イエスさまは「助けてください」「癒してください」と求めるとき、それに応えてくださるお方であることを知りました。そして、交通事故で本当は死んでいたかもしれないこと、きわどいところで命を守ってくださったこと、神さまが私を愛してくださっていること、あの時事故で死んでいたら地獄に行っていたこと、地獄に行かなくてもいいようにイエス様が私の罪の身代わりとなって十字架で死んでくださったこと、イエス様の十字架を信じる者には永遠の命が与えられること・・・。この時、それまで教会学校や聖書えほんで語られていたお話と、自分のこととが重なり、私も神さまの子どもになりたい、天国に行ける子どもにしてほしいと思い、罪を悔い改めて祈ってもらい、『しかし、この方を受け入れた人、すなわち、その名を信じた人には、神の子どもとされる特権をお与えになった。』(ヨハネ1章12節)のみことばをいただいて、神さまの子どもになりました。

翌日受ける手術も、怖くなくなりました。もし万が一死んでしまうようなことがあっても、天国に行けるという確信が与えられたからです。大腿部と言えども、全身麻酔ですし、小さな子どもの複雑・粉砕骨折の手術は大変でした。細かく砕けて肉に突き刺さった一つ一つの骨を集め、パズルのように元の形に組み上げていく作業は、手術に付き添った父の目にも、息を呑むような瞬間の連続だったそうです。1回目の手術が無事終わり、筋肉の回復と骨の成長を待って、骨を固定するために取り付けたボルトを外す2回目,3回目の手術が行われました。手術、リハビリ、数ヶ月の入院生活、その一つ一つを神さまは守り、いつも一緒にいてくださいました。体を回復させてくださった神さまは、私の小さな信仰も育んでくださり、さんびか大好き、聖書のお話大好き、教会大好き、教会のお手伝い大好きな子どもにしてくださいました。そして救われた日から2年7ヶ月後、1973年のクリスマス,当時教区長であった川口始牧師に洗礼を授けて頂きました(『少年H』にも登場する先生です)。運動しなければならない時期に歩けなかった私の足は、すっかり筋肉が衰え、退院後も数年に渡り体操教室に通って筋力強化に努めなければなりませんでしたが、ドクターの言葉通りにはならず、小学校に上がる頃には、奇跡的にもみんなと同じように歩いたり走ったり出来るまで回復したのです。(実は頭部も強打していてその影響の方がもっと深刻な問題だった、と二十歳になって初めて知らされた時には驚きましたが・・・。)

クリスチャンとなった私は、その後いつもハッピーで笑顔でいられたかというと、そうではありません。仏教文化の根強い京都で小中学校時代を過ごした時には、「おまえんち、アーメン、ソーメン、冷(ひや)そーめん!」とからかわれ、社会科でキリスト教禁止令を学習すると「教会の子やから、やっぱし踏めへんのか?踏んでみろやー。」と落書きの踏み絵を突きつけられ、礼拝出席の為に日曜日のクラブ活動を休むと届ければ大罪を犯したかのように先輩たちに非難され、学校に行きたくない、クリスチャンであることを隠したい,牧師の家庭になんて生まれて来たくなかったと思い、悩みました。新潟で過ごした高校時代は、公立高校の授業料を期日内に納入できないような経済的な戦いの中にあり、志望大学に合格できなかったものの、家計への負担を考えると自宅浪人したいとも言い出せず、東京に出て働きながら学びました。
『あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなた方を耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。』(第1コリント10章13節)

困難に出会う時、いつもこのみことばを思い起こし戦ってきましたが、脱出の道がどこにあるのか分からないことも多々ありました。けれども、若い時からクリスチャンとされた者の幸いは、祈って進んでいく中で必ず神さまが導いてくださる、そしてそれはいつも最善でしかない、ということを理屈ではなく体験的に知っていることではないかと思います。今振り返ると、若い時に通らされた数々の試練のゆえに私の信仰は堅くされたと思いますし、就職、渡米、結婚、子育てと導かれた現在も、日々多くの問題を抱えていますが、「神さまが一緒だから大丈夫!」と思えるのです。

今も30センチほどの手術の傷が私の足には残っています。その傷を取ることを両親は薦めてくれたのですが、私はそうしませんでした。その傷を見るたびに私は、事故のこと,神さまの子どもとされた恵み、イエスさまの手足の釘の痕を思います。キリストの打ち傷によって癒されたことを感謝しつつ。

月報2013年9~10月号より

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