今年の8月で受洗してから3年がたちました。けれども今まで一度もあかしをしていませんでした。次々と受洗された方のあかしを読んでは、わたしはまだしていないとうしろめたい気持ちでいっぱいでした。
なぜ、今までほとんど信仰を持たなかった私が洗礼を受けようと思ったのか。主人の仕事のことでいろいろあって、不安と不満が入り混じり、泣いたり、怒ったり不安定な気持ちの毎日でした。
そんな時、Tenaflyの教会で三浦光世さんのお話を聞く機会が与えられ、元綾子さんの秘書であった方の讃美歌を聞いて涙が止まりませんでした。そんな心に響く歌を聞いて泣いたのは、私だけではなかったでしょうが、私は自分で私の心は病んでいると思い込んだのでした。
それからしばらくして、イースターに今度はMaywoodの教会に招かれ、その後、ほとんど毎週、教会へ足を運ぶようになりました。
教会ではいつも涙が出てきました。その涙が私の心を洗ってくれていたのかもしれません。少しずつ気分が落ち着いてきて、私は心の病から救われた感謝の気持ちとして、洗礼を受けようと決心したのです。
錦織先生に私の気持ちを話し、何週間か洗礼を受ける準備をして頂きました。そのとき、少し今までのことを話しているうちに、全くキリスト教に結びつくものはないと思っていたのが、そうでなかったことを発見しました。
母が近所に住んでおられたクリスチャンの方のお葬式に参列し、白いカーネーションを一本ずつ献花してとてもシンプルでいい式だったと話してくれたこと。
(その方は杉山さんといいましたが、いつもニコニコされていたのを思い出しました。)
中学の時、英語塾に通っていた道にインマヌエル教会と立看板が示されていて、何のことかな、といつも気になっていたこと。
(正直に言いますと「インヌマエル」か「インヌマニエル」とうろ覚えで、先生から「インマヌエル」と訂正して頂きました。)
北海道稚内市で、友だちのレストラン“おつな”に三浦綾子さんが三、四人で来られて、一言、二言、話しかけられたこと、首に大きな十字架をかけられていたこと。
(その時はキリスト教の事のはずもなく、召し上がられたお料理の事でですが・・・)
等々です。
そして、マタイによる福音書第一章を読んだ時、インマヌエルという文字を見つけて、それが“神はわれらと共にいます”という意味であることを知りました。
あかしを少しずつ書き始めていた頃、9月28日の礼拝で「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」(ヨハネによる福音書13章34節)を聞き、なぜか私に今一番足りないものはこれだ、と心に響きました。初めて聞いたわけではない、何度も聞いてきた言葉のはずですが、そのときには特別に心に届いたのでした。「御言葉が与えられる」というのはこういうことなのか、と思わされました。
働いても働いても楽にならない生活。主人のこと、子供たちのこと、日本にいる母たちのこと、心配で不安なことは、まだまだありますが、これから信仰生活を送る一生の課題としてこの言葉が与えられたと確信しました。どうぞこの言葉に一歩でも半歩でも近づけますよう、導き、見守ってくださいますようにお願い申し上げます。
月報2008年11月号より