「無言の宣教」

去る4月16日朝、弟の毅が安らかに天に召されました。長い間教会の皆様にお祈り頂きましたことを遅れば
せながら心から御礼申し上げます。

この日は奇しくも私の72歳(年男)の誕生日で弟が俺の命日を忘れるなよと言っているような気がしていま
す。

さて、弟は長い間私達の家族の中で唯一人のクリスチャンでした。彼は小学生の時同級生で親友だった上野さんという方のご一家が敬虔なクリスチャンホームだったことから教会に導かれ高校一年生のとき洗礼を受けた様です。この上野家というのはお父様が東京朝日新聞社の社主というえらい方でありながら子供たちの友達が来るとお母様ともども一緒になって子供たちの話題に入って下さるような素晴らしいご家庭でした。翻って小学校6年生の時に父を亡くし、私とは歳が離れすぎていて家に帰っても話し相手もなかった弟が温かい上野家に惹かれて行きそのベースにあるキリスト教に親しみを感じたのは自然の成り行きだったのでしょう。

弟の偲ぶ会の席上、多くの方々から私の知らなかったことも含めて弟にまつわる様々なエピソードが語られました。その多くは「仲人口半分」に聴いてもいずれも弟は面倒見がよかった、弟に感化された、弟のお蔭でクリスチャンになった、というような話で彼はそんなに「偉大」だったのか!・・・という思いを抱かざるを得ませんでした。そして会の後で前出の上野さんが私に「タックン(毅のニックネーム)と出会えた事は本当に幸運でした。

私たちは真実盟友でした。彼は色々な意味で私の人生を変えてくれました。」と言って下さった時はじーんときて涙が出そうになりました。上野さんに弟が感化されたとばかり思っていたのに逆に弟が上野さんの人生を変えたなんて・・・・盟友というのはお互いに感化しあい向上しあうものなのか、そう思うと今までの人生に盟友といえる友人を持ち得なかった自分が薄っぺらで情けなく思われ、無性に弟が羨ましく感じられました。

同時に今、私が救われているのは実は弟のお蔭ではないのか、という思いが次第に大きくなってきました。弟は私に対して一言も宣教めいたことは言いませんでした。しかし弟の生きざまは全てが愛に満たされ、クリスチャンの生き方を具現していた様に思えます。私が受洗するにあたっては教会の皆様に引っ張り上げて頂いたりお尻を押して頂いたりしました。それは勿論有難く、私の救いの為の直接的なfactorでした。しかし、もし弟の存在がなかったらきっと傲慢で頑なな私は教会に足を踏み入れることすらしていなかったと思います。神様は弟を通して私を愛の道に導いて下さったのではないでしょうか。

天国の毅に感謝をこめて。

月報2003年10月号より

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