「石の上に現在二年」

主の御名を賛美します。ハレルヤ!  j-Gospelの音楽ミニストリーを佐佐木兄と始めて、はや二年が過ぎようとしています。皆様の祈りに支えられて来た事を感謝しつつ、私なりに感じて来た事を証ししてみようと思います。まずは、これまで訪問した所で印象に残っている出来事などから。

あれは忘れもしない去年のクリスマス。ある教会でのコンサートの時、「献金の時は、私達が演奏します。」ということで、その教会のご婦人方がリコーダーを演奏してくださるということでしたが、リハーサルを聴いてビックリ。「うわースゴイ。小学生よっかひどい。」と内心思ってしまいました。ところが、本番始まってみると、すっかり調子に乗れなかった我々をよそに、彼女たちの演奏は、音の澄みきった素晴しいものでした。

『ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」』ヤコブ四章六節

主を愛している者は、レプタニ枚(貧しい女が持っていた最後の小銭)を献げ、イエス様はそれを見て喜ばれるお方です。

ある教会では、祈祷会に出席することが出来ました。この時は驚きました。彼らの熱い祈りに感動しました。となりの部屋どころか教会の外でも聞こえるような声の大きさ、夕方から始めて深夜にまで及ぶこともしばしばあるという祈りの長さ、何度となく呼ばれるイエスの名、あふれんばかりの賛美…。また、その場には、初めて行ったその教会の礼拝の祈りの時、一時間もの間ひっくり返って立ち上がれなくなってしまい、自分の中から悪い者が出て行って、聖い者が入ってきたことを経験した、元ニューエイジの青年がいました。主は今も生きて働いておられるお方です。 『主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』使徒二章二十一節

ある所では、オフで暇をもてあましていた日に、老人ホームへの訪問という機会が与えられました。「ここに来たら平均三年です。」というえらく悲しい言葉を聞きつつ、建物に入っていくと、沢山のご老人が、ベッドに横たわり、多くは車イスの上で、ほとんどは身動きせずにその日を過ごされていました。中に数名障害をもっている子供達もいました。人は皆老いたり病を負ったりします。まったく他人ごとではありません。私の心にはラザロの死の時、涙を流されたイエス様の姿が浮かんでいました。「主よ、私達は無力です。あなたがいなかったら私達の生涯はあまりにも空しい。主よあわれんでください。」と胸の内で叫ばずにはいられない思いのする悲しい施設でした。彼らがナースに連れられて一室に集まり、我々の賛美を聴いてくださいました。すると動かなかったご婦人が動きだし踊り出しました。アメージンググレースを賛美するにいたっては、その部屋全体を包みこむ不思議なうなり声(彼らの賛美)が私の心を打ちました。もう地上では会わないであろう一人ひとりの手をとりながら、その場を去りました。イエス様の言葉が嬉しいです。『あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。』ヨハネ十六章十三節

賛美を録音するという作業についても語ることがあります。今の様な賛美を沢山作るという目標をもって働きについた段階では、何が出来るという自信なんぞ何にもありませんでした。ありったけのお金を投じて購入した器材を目の前にして、荷の重さにつぶされる気さえしていました。最初の一年は試行錯誤どころか、どこかで完璧に迷って穴に落ち、はまり込んで抜けられなくなってしまったことも何度もあります。(その結果が一枚目のCDです。沢山の応援に本当に感謝しています)。そしてニ年目にして、少しは向上したいと願っていましたが、一向に手がかりがつかめず苦しみました。何冊も専門書を買って読んだり、実際にプロのスタジオに通いノウハウを身につけるべく努力したつもりです。

そんな中でごく最近、インターネットのあるページで知った、私にとって大変有効な話があります。それは『Masking』という現象です。これまでにも何度か専門書などで触れられていたので知っていましたが、特に気に止めていなかったことです。どういう現象かというと、ある二つの音があったとして、その二つがほとんど同じ音質でなっていたとします。これを同時に同じ方向から聴くと、なんと音量の大きい方が小さい方の音をほぼ完全に消してしまうという現象です。そのページで強調されていたことは、人間の耳がそのように出来ているということでした。意味が分からないと言われそうな世代(?)の方々は、日本に「ザ・ピーナッツ」という双子の歌手がいたのを思い出してください。彼女らは時に、一人で歌っているように聞こえましたが、それはまさしく『Masking』なのです。同じ声を持った者たちが常にどちらかが他者の声を消して同じ旋律を歌うのですから、一人に聞こえるのは当然だったのです。もちろん二人の音程やリズムにズレがあったら意味が無いのですが…。

ちなみに御存知でない方も多いと思うので、説明しておきますが、通常の音楽の録音は、マルチトラックという方法で録音します。8チャンネルマルチトラックといえば、八回別々に録れるということになります。佐佐木兄をトラック1、ギターをトラック2という風に一つずつ録って行きますから、後でギターだけの変更も容易です。佐佐木兄の声を錦織先生のものに変えることも簡単です(いつかやってみよう!)。

j-GospelのCDの作成を始めた段階で、私が確信していたのは、良い音が集まれば、良い音楽になる、ということでした。佐佐木兄の声、私のギター等その他の楽器、全てがもっともらしい音を出していれば、それらをミックスして出しさえすれば、素晴しい曲が出来上がると信じていました。と・こ・ろ・が・違う、のでした。人間の耳は周波数でいうと大体1~5キロヘルツ(例えば佐佐木兄の声は500ヘルツー3キロヘルツ位を多く含む)がよく聞こえ、音楽においてもその音域を強調してやると迫力と情熱に満ちた音が出てきますが、つまり多くの場合各々は良く聞こえるそれらの音を重ねて同時に聴くとどうなるでしょう? 先ほどの『Masking』によって音は沢山鳴っているいるようですが、それぞれの音がはっきりと聞えないという事実に直面します。そこでそれぞれのトラックの1.15キロヘルツをBoost、佐佐木兄の1.15キロヘルツをCut、ピアノの3.2キロヘルツをBoostという風に音質を補正していくことになります。この段階でギターだけ、佐佐木兄だけの音を聴くと、けっこう間抜けな音になっていたりしますが、それらを同時に再生すると驚きです。きちんと各パートが協調し合い聞こえるようになっています。全体で聴くと美しい調和を得てくるのです。

長々と説明してしまいましたが、これらのことから何を感じているかというと、神様のデザインされた私達の耳の特性が、教会や社会の人間関係を導いているような気がしたのです。私達は時に情熱に燃え、元気一杯で何か良い事をしようとすると、以外な人から苦言をいただいて意気消沈、そんなら止めたということになったりします。正しいこと、良い事をしようとしているのに何故だ?と悩んだりもします。イエス様がマタイ十九章十七節で、『なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。…』と語っておられますが、我々の誰かがこの「良い方」になろうとするといくつもの問題を生むことになるようです。

今の時代、必要であるならば格好良く聞こえるはずの1キロヘルツをCutし、私には出来ないといっている者の2キロヘルツをBoostされる私たちの主であるイエス様のミキシングのもと天国のような素晴しいハーモニーを教会で生み出す時だと思います。これこそ主に喜ばれる賛美であり礼拝だと思います。ついでですが、曲を完成させるのにHidden Noteと呼ばれる音を入れることがあります。云われても気がつかないほど小さな音、目立たない音質で演奏、録音されますが、全体で聴くとこれが有るのと無いのでは大違いというこだわりの音のことです。そんな働きの場が教会にもあったら素晴しいですね。

『こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。』第一コリント十章三十一節

最後に、違いの分かる男にはなった(?)ようですが、違いの作れる男にはまだなっていない私のために引き続きお祈りいただけたら嬉しいです。イエス様が共に居てくださることをもっと体験していきたいと思います。99年初冬の日本ツアーのための限定盤「Spread the Gospel」が間もなく届く予定ですが、そのうち数曲は『Masking』を踏まえた上でのミキシングになっています。三枚目「キリスト賛歌(仮題)」は、99年半ばを完成目標にしています。いずれも乞うご期待! 音楽について賛美について語りあかしたい方はいつでも歓迎します!

月報1999年1月号より

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