私がこのMaywoodの教会に初めて行ったのは5年くらい前のクリスマスの頃だったかと思います。
初めから、たくさんの人が暖かく声をかけて下さり、家庭集会にも送り迎えして下さったりした事を覚えています。初めは学生としてアメリカに来た私でしたが、こちらでの友人というと皆自分の事だけで精一杯。利用されたり寂しいがゆえ一緒にいる、きっと日本に戻ったりもう連絡をとりあう事もないだろうといううわべだけの友人でした。悩んだり傷ついたりして日本へのホームシックは募るばかりでした。それが教会では全く違う人達が集まっていて優しくされホッとする場所でありました。礼拝中も気持ちが穏やかになり自分と見詰め合ういい機会でもありました。
ただこの時、妊娠臨月で、あまり教会には足を運べずにいました。初めてのお産は緊急帝王切開。2泊で退院だったので無理がたたっていつまでもお腹の痛みはとれずベッドから一人で起き上がることも出来ず、夜中の授乳にも時間がかかりました。そんな時、教会の方々が状況を察して1日おきに主人と私の分の食事を運んで下さったのです。一番助けが欲しかった時に手を差し伸べて下さり、赤ちゃんを見て一緒に喜んで下さったことは有り難く忘れられませんでした。
それからは自然と教会に向かうようになりました。ただ洗礼を受けるまでには4年の月日が流れました。一番の理由は神を受け入れる、信じるということが心からできるまではと思っていたのと、聖書の意味もよくわからないしと壁をつくっていたのです。熱心な教会の方を見ては、私にはあそこまでいきついていない、まだまだと思っていたのです。
二人目の子を妊娠した時、教会を通じてお友達になったママ達がいました。その彼女らの誘いで友人宅に集まったのですが、一緒に悩みを分かち合ったり祈り合ったりするものでした。そこではどんな悩みもお互いがさらけ出し打ち明けられる場でした。それによって彼女らが信頼出来る何でも話せるかけがえのない友達へとかわっていきました。海外に住み子育てをしていく上でさらけ出せる友達、答えてくれる友達は、とても心の支えとなります。教会を通して知り合った人達は良い人ばかりで いつも私や家族の為に祈ってくれて手助けを行動で示してくれるのです。普通「何かあったら いつでも力になるから」そう声をかけてもらっても実際は頼みにくいものです。それをクリスチャンの友は察して動いてくれるのです。私の為に泣いて喜んでくれる人もいるのです。心から私の家族の為に一生懸命祈ってくれるのです。その心の純粋さ優しさをいつもどうしてかと知りたかったのですが わかったのは神様を信じ、愛されているから、人にも同様に出来るという事でした。
出産まであと2ヶ月と近づいた頃、恐怖や不安で一杯だった私は、このままではお産に良くないとわかっていても、どうしても前回のお産が思い出され打ち消すことは出来ませんでした。そんな時、主人が「洗礼を受けてみる?」と尋ねてくれて、その言葉はとても嬉しいものでした。その後は、すがる気持ちで助けて下さい、守って下さいという一心から洗礼を受けたのでした。
洗礼式は感動的でした。主人の家族の方も喜んで来て下さり、先生も気遣って英語で説教をして下さりました。その1ヶ月後いきなり強い陣痛が来ました。病院に行く前に痛みの中ふっと思い、口にしたのは、「主人のお父さんの形見のイエス様のネックレスを持ってきて。」そのネックレスを強くずっと握りしめたまま病院に着きました。その時から自然に不安や恐怖の気持ちよりも、絶対に自然分娩で元気な赤ちゃんを産もうという気持ちの方が強くなっていました。その結果祈りは通じました。
5月13日、母の日に素晴らしいギフトを授かる事ができました。安産でショーンは産まれました。
洗礼を受けて変わったことは、祈りは通じると知った事、感謝する気持ちが増えたこと、姉妹や兄弟と呼べる人がいるという事(この呼び方って家族が増えたようで親近感がわきますね)、そして心配事が出来てもきっと神様がいい方向にむかせてくれると身をゆだねるようになった事です。
ある方がこう教えてくれました。時に自分の欲しいものを与えられない事があるけれどそれには理由があって後になってわかる、貴方にいい方向に神は向けて下さったのだと。
今の楽しみはまだ一度も口にしたことのないあのワインとパン。どんな味なのでしょう?
「神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。」
ヨハネ第1の手紙 5章10節
月報2001年9月号より