神様が一人一人に与えるご計画は、わたし達の想像を超え、不思議な形で現れます。私はアメリカへ来て聖書に触れ、生まれて初めて教会に足を運んだものですが、振り返ってみると、神様は、本当に多くの人を通して、長い年月をかけて私を救いの道に導いてくださいました。
初めに、私はふとしたきっかけで、お祈りの方法を学んだのです。それは、高校卒業したての頃、デパートの紳士服売場でアルバイトをしていた時に出会った二十六歳の男性クリスチャンからでした。彼は私が働いていた店の隣のコーナーでジーンズを売っているお兄さんでした。当時未だ男性の間ではめずらしく耳にピアスをし、指にジャラジャラ指輪をつけていたその人は、高級志向のデパートの中で一人浮いている不思議な存在でした。さらに不思議なことに、彼はいつもお昼休みに一人で黙々と聖書を読んでいたのです。彼の風貌と聖書というギャップが印象的で『聖書って一体何が書いてあるのだろう』という興味が湧き上がりました。たまたま私のベッドには何故か姉が高校時代に使っていた聖書が飾りとして置かれてあり、そのとき初めて聖書を開きました。ページ数の少ないほうの新約聖書から読み始め、マタイの六章の『主の祈り』が書いてある所で私の興味は難しい聖書を読むことから神秘的なお祈りに変わりました。単純な私はこの言葉を何の疑いもなく信じました。聖書朗読は、まさに三日坊主で終わりましたが、お祈りは今日まで続いています。今考えてみると『主の祈り』でさえ意味を理解せず、ただ呪文のように唱えては願い事を神様に語りかけていましたが、そんなへんてこりんなお祈りをも神様は耳を傾けてくださいました。
その後、聖書を再び読む機会が与えられたのは六年後のアメリカに来てからでした。Art好きの私は、普通のカレッジに通っていながら、できる友人は何故かアートスクールに通っている人が多く、その中の二人の女の子達にバイブルスタディーに招かれたのがきっかけでした。彼女達の作った芸術品の並ぶお部屋でやるバイブルスタディーは今でも楽しい思い出です。その後行ったり行かなかったりしているうちに、ちょうど昨年の十月、父が腎臓ガンであるという知らせがありました。ガンは八センチにまで大きくなっていて、私はもう父の命はそう長くはないのではないかと心配で、毎日学校も行けず泣いていました。一時帰国が決まるまで、私は必死で祈りました。『父の命を助けてください…』神様の奇跡の力であんな大きなガンにもかかわらず父は癒されました。この御わざで本当に神様はいるという私の確信になりました。
NYに戻り、真剣に神様について知りたくなりました。私はもう一度バイブルスタディーを再開し、友人の行っているアメリカン・チャーチにも足を運びました。しかしどうしてもその教会になじめませんでした。ほとんどが若い大学生の信者でとてもパワフルな教会だったのですが、その勢いについて行けなかったのです。彼らが重点においていたのは『行い』でした。神を信じるだけでは救われない。行いによって救われるというのです。私はそれがとてもプレッシャーになり、神様のところに近づくにはこんなに大変なことなのかと思い込んでしまいました。そんな時、佐伯真理ちゃんからハンターカレッジのクリスチャン・フェローシップの誘いがあり、私は今までの教会仲間の強い反対を押し切って、そのフェローシップに行きました。第一回目の参加で私の抱えていた問題はあっという間に解決されました。錦織先生の穏やかな口調から出るみ言葉は、今まで受けたものと全く違っていました。そこでは神様が私に与える寛大な愛、なんとも言えない神様の愛が私の心に入ってきたのです。
『真理はあなたがたを自由にします』ヨハネ八章三十二節
このみ言葉が一人でガチガチに力んでいた私の心をほぐしてくれました。
振り返ってみると、ここまでたどり着くのに凄く遠回りをして来た様な感じがします。しかし、私の場合、ここに出てきた人達なしでは今の私はないのです。不思議なことに、神様は無神論者の父にまでも働いて、私を神の元に導いてくれました。いつかこの父にも神様の存在に気づける日がくるといいなと思います。受洗して六ヶ月、これからも多くの人を通して自分の信仰を強めることができるように、そしてまた私を通しても、神様に導かれる人が多くできることを期待しています。
月報1998年11月号より