「3月8日の礼拝で、木戸ブライアン先生の…」

3月8日の礼拝で、木戸ブライアン先生のメッセージの中で語られた「私達はいつ神様に頼ることができるのだろうか」という言葉が心に残りました。その後の中高科のクラスでの分かち合いの時にも、「神様に信頼することの難しさ」を感じました。
私は小さい頃から母と妹とこの教会に通っているので、私にとって神様とイエス様の存在は「なんとなく」当たり前と言うか、いつも存在している、神様のいない世界は考えられないくらいです。でもそれだからと言って、神様に頼るということは簡単ではありません。やはり小さな頃は感情的にだけ神様を信じていて、知識的に信じていないところがあったと思います。ファミリーキャンプの中高科の集会の時にある先生から、「感情だけで信じていると、何かの時にそれが崩れてしまう。頭でも神様を信じていないと、どこかでこけてしまう」という話を聞きました。強い信仰を持つためには、知識も持っていないといけない。それは何故かと言うと、私達の感情はいつも変化しているし、感情は何にでも変わってしまうから、感情ではなくて知識を土台にしないと、本当に神様に信頼することができないということです。
私なりの考え方はこんな感じです。私達は皆「重力」を信じています。今ここでボールを持ってテーブルの上に放すとそのボールは落ちてしまうから、それを見て「ああ、重力は本当にあるんだな」と信じている。けれど、何故そうなるのかは学校で重力について勉強しないとわからないし、物理を勉強して地球と太陽の関係を学んで重力の法則を理解することができて、それで初めて確信をもって「このボールは落ちるんだな」と信じることができるのです。
でもそれとは違って、知識的に神様を信じるということは、やはり難しいことだと思います。学校では理科の時間に「進化論」のような非聖書的なことも習っているし、友達と宗教について話をすると異なった考えの人もいて、自分の中でもどこかで説明できていないところがあるとフラストレーションを感じていました。ファミリーキャンプの先生から、「旧約聖書の中には、キリストの誕生から復活までとても多くの預言が書かれているけれど、それを一つ一つ読んでみるとどれも本当にキリストにあてはまっている」と言われました。確かにすべての預言は無視することのできないほどの多くの証拠となっていることに気づいて、それによって私はキリストを確信することができたんだなと思います。私をこのように導いてくれたキャンプの先生にとても感謝しています。
神様に頼るということは本当に難しいことだと思います。錦織先生もメッセージで何度も話してくださいますが、トラブルや思い煩いだけではなくすべてを神様にお捧げしなければだめだし、自分の夢や希望、計画もすべて捨てて神様に頼るということは、私にとって難しくてとても怖いことに思えたからです。
私はあと3ヶ月で高校を卒業します。振り返るとこの4年間は私にとってとても楽しい4年間でした。多くの友達に出会えたし、いろいろなクラスでたくさん勉強することができたし、いい経験もたくさんしました。しかし、実は私は8年生の時、今通っている高校には絶対進学したくないと思っていました。Bergen Academyという学校がとても気に入っていて、それ以外の学校には行きたくありませんでした。入学試験があって私は筆記試験は合格しましたが、その後の面接と楽器演奏のオーディションで落ちてしまいました。学校の先生や友達からも「美香なら入れるよ」と言われたりしていたこともあって、不合格となった時はとてもショックで、「神様、どうして?なんで?」としか思えませんでした。そして不本意ながら、町の公立高校へ進学することになりました。
今になって振り返ってみると、Bergen Academyに進学していたらそれなりに高校生活を楽しんでいたと思うけれど、Pascack Hills(通っている高校)で経験できたようなことを得ることはなかったのではないかと思います。Pascack Hillsは公立高校だからいろいろな人達がいます。いい人もいれば、ドラッグをやっているような生徒もいます。様々な違った考えを持った人達にたくさん出会えたことがPascack Hillsでのすばらしい経験のひとつです。4年間すばらしい先生の指導の下でコンサートバンドのメンバーとして演奏することができ、また今年はマーチングバンドの指揮者になったり、リンカーンセンターのユースコンサートでの演奏と大好きな音楽でもすばらしい経験ができました。8年生の頃の私にはこんなすばらしい4年間が待っているなどとは当然予想することはできなかったし、たとえできていたとしても、自分が思い描いていたのと違う学校に進学するということに納得できていなかったと思います。今になって考えると、あの時の私は神様のことを聞いていなかったし、神様を信頼することができていなかったと思います。自分で自分の将来を決めようとしていたのだと思います。
去年の夏、6週間の数学キャンプに参加しましたが、その2週目の時、「私はそんなに数学できてなかったんだ。数学ってこんなに難しかったのか」と心細くなった私は、友達が与えてくれた御言葉にすごく励まされました。
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」(伝道者の書 3章11節)
今、私はどの大学に進学するかという大きな選択をしなくてはなりません。「あそこに行ったらこういうことをしよう」と計画を立てるのが好きな私には、神様にゆだねるということはとても難しいことに思えます。たくさんある夢や計画をすべて神様にゆだねるのはやっぱり怖いです。しかし、8年生の時、私は自分の望んでいたのとは違った道に進むことになったけれど、それは神様が私に与えてくれた道であって、その道を進んだことによってとてもすばらしいことがたくさんあったし、後になってみるとそれは美しいということがわかります。そして、その経験によって現在のこういう自分が在るのだと思います。今、私はそのことを神様に感謝しています。この経験があるので、進学する大学を決める時も8年生の時のように「絶対この大学」とは考えずに、神様にゆだねて、神の導きを信じて進んでいきたいと思っています。

月報2009年4月号より

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