牧師室より 2019年7月号「痛みの中で見えてきたこと」

月報でもおしらせしてきましたが、4月のイースターの後、6月半ばまで、サバティカル休暇として2ヶ月間のお休みをいただいて、教会の牧師としての働きを離れて、休息と研修の時をもってきました。多くの皆さんのお祈りに支えられて、また、留守の間を守ってくださった信徒の方々、近隣の教会の先生方、日本からご奉仕に来てくださった加藤義人先生など、みなさんのお働きによって、このような時を持たせていただいて心から感謝します。

2ヶ月にわたる特別なサバティカル休暇の最後の2週間、いよいよ復帰に向けて、心の準備をしたり、学んできたことのまとめをしたりしようと思っていた時でした。なんだか、胸から背中に痛みを感じるようになりました。普段はそういうことがあっても、いつの間にか忘れてしまうのですが、今回は、どんなに時間が経っても無くなりません。というよりも、何をしていても忘れていられないほどの痛みになっていきました。帯状疱疹でした。夜は眠れない、昼間は痛みで何もできない、市販の痛み止めを飲んでもおさまらない、そんな痛みが数日続きました。最後はお医者さんに行って、抗ウィルス剤と、市販の痛み止めの量を増やして、何種類か併用して、なんとかおさまっていきました。この原稿を書いているのは痛みが始まってからちょうど4週間後ですが、まだ痛み止めを少し飲んでいます。

サバティカル休暇が始まる時に、この2ヶ月間が終わった時には、リフレッシュして生まれた変わった自分、確信に満ちて、今までと違ったレベルのリーダーシップを発揮する自分を夢見ていました。「こんなことを学びました」とプレゼンテーションができるようにと思っていました(確かにいくつかのよき学びの機会も与えられました)。しかし、実際、このサバティカル休暇で学んだことの一番のことは、自分の弱さであり、愚かさであり、情けなさだったのです。普段は講壇から「クリスチャンは困難の中でも、賛美をすることができます。感謝をすることができます」と語っていました。しかし、自分が痛みの中で出てくることといえば、「なんとかしてくれ!」「この痛みを取り去ってくれ!」だけでした。感謝も賛美も出てこない。それどころか、一番身近な家族に当たってしまったり、傷つくことを言ってしまったりする自分がいました。その自分の姿を見せつけられ、肉体的にも、霊的にも弱さを思い知らされたのです。

それは自分にとって必要なことだったと思います。いや、そのことこそ、今の自分にとって大切なことだから、この痛みが神様から与えられたのだと思います。神様は私が本当の自分の姿に気がつくようにと導いてくださったのだと思います。これからも、「自分」が何をしたか、何をしているか、ではなく、「神様が」どれほど大きな方で、弱い私の人生にどれほど素晴らしいことをしてくださるのか、それを見せていただきたいと思わされています。そのことを証ししていきたいと思います。これからも神様が私の歩みの中で必要なものを与えてくださいますように。

「わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」(コリント第二の手紙12:9)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です