2024年7月<牧師室より>「互いに励まし合う」

「7月の日本、昔とは暑さが違いますよ、気をつけて!」

7月に日本を訪問する予定だという話をすると、多くの方々にそのように言われます。調べてみたら、最後に7月に日本に帰ったのが、2005年。19年前です。その時も、とにかく暑くて、「これからは夏に日本に行くのは難しいな」と思ったのを覚えています。 その時よりも暑くなっているとしたら、どんな感じなのでしょう。そして、自分もその頃は40代、今は60代ですから、昔のようにはいかないかも・・・と心配しながらも、久しぶりの日本を楽しみにしています。

27年前にニュージャージー日本語キリスト教会の牧師になってから、間が短い時には毎年一度、間が開いてしまっても、2-3年に一度日本を訪問して、帰国された方々の集まりや訪問、メンバーの日本の家族の訪問を続けてきました。しかし、コロナ禍があって、とても間が開いてしまいました。今回、日本の所属教団からの招聘を受け、7月半ばに日本に行く用事ができたので、それに合わせて2週間半の予定で日本を訪問します。前回は2019年5月でしたので、6年ぶりになります。その間に天に召された方々、病を負われた方々、また、連絡がつかなくなってしまった方々もおられます。教会から足が遠のいてしまった方々もおられるでしょう。間が開いてしまったことの難しさを感じています。

日本に帰国された方々には、一日も早く、日本で教会につながって、そこで歩んでいただきたいと願っています。どこにいても、自分の住んでいるところのそばにある教会につながって、その教会を通して神さまに仕えていただきたいと思います。「自分が信仰を持った、あの教会は良かったなあ」と思って、地元の教会と比べるのではなく、謙遜になって、地元の教会で仕えていくようにお勧めしています。しかし、実際のところ、困難を感じる方々もおられます。ですから、励ましは必要だなあと思わされています。私たちの教会の歴史の中では、実際に牧師だけではなくて、出張や旅行で日本に行く方々が、帰国された方々に声をかけ、連絡を取ったり、日本に先に帰国された方が、戻った方々を励まし、サポートしてくださったりしてきました。そのような互いの励ましによって、私たちは支えられてきたのだと思います。

「自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。」(ヘブル人への手紙 10章25節)

今年の日本訪問でも、そのような働きができるようにお祈りください。互いに励まし合い、力をいただいて、立ち上がっていく時となりますように。日本の方々、お目にかかることができるのを楽しみにしています。予定はこちらから。

2024年6月<牧師室より>「コミュニティーの中で生きる。再び。」

 今年の2月号の月報で「何かが起こってから、『私たちは〇〇教会の者ですが、何かできることはありますか?』と聞いても、それからでは遅い、教会がいつもいつもコミュニティの中で生きていないと、いざという時に教会に手を差し伸べてもらおうなんて人は誰もいない」という9-11の後に参加したセミナーの講師の言葉を紹介しました。それからずっと、私たちは、コミュニティーの中に生きる、そのためにはどうすればいいのか、という課題をもらって歩んでいます。

 数年前にJCCカフェが始まったときも、地域の方々の憩いの場となる様にという願いででスタートしました。実際に毎回多くの方々がおいでくださり、時間を過ごしてくださり、その目的を果たしていたと思います。この働きはコロナ禍で中断して、奉仕をしてくださる方々が引っ越して行かれたりして、まだ再開の目途は立っていませんが、また少し違った形でも、このような場が持てればと思います。また、親子クラスやキッズクラブ、クロッキー教室、JOYJOYキャンプなども、私たちがコミュニティーの中で生きる働きの一つになっていると思います。でも、まだまだ多くの日本語を使う方々に届いていない、まだ出会っていない、そんなことを思わされます。一つ一つの働きがもっともっと多くの方々に届いていくものとなりますように。

 昨年9月にはフリーマーケットとNY男声合唱団のミニコンサートをもって、教会の存在を知っていただく、一歩でも教会の建物に入っていただく、という時を持ちました。とても良いときとなりましたし、これも「コミュニティーの中に生きる」ということの表れになったと思います。

今年は6月22日(土)にフリーマーケットと今度はNY混声合唱団にミニコンサートをしていただいて、更に多くの方々とのつながりを作っていきたいと願っています。昼の12時から午後4時がフリーマーケット、午後4時から5時までがミニコンサートです。是非お出かけください。

昨年の男声合唱団も、今年の混声合唱団も、合唱団の方からお声かけをいただいて、共にやりましょう、やらせてください、ということから始まっています。更にこの地域でコミュニティー作りをしておられる皆さんと共に歩んでいくことができますように。

「良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。
平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、
『あなたの神は王であられる』とシオンに言う人の足は。」
イザヤ書 52章7節

2024年5月<牧師室より>「宇宙ってホントにすごい」

  「おお、わお、すげえ・・・」

 自分はどうして、こんなにも表現力が貧しいのかなと思いますが、それが4月8日に皆既日食を見たときに出てきた言葉です。

 今から50年くらい前、小学生時代の誕生日パーティーで友達にもらった「宇宙のひみつ」という学習漫画にハマりました。何度も何度も読み返しました。その中に「日本で皆既日食が見られるのは2035年・・・その頃は僕たちはおじいちゃん・おばあちゃんだね・・・」というくだりがあり、「そうか、楽しみだな」と思っていました。しかし、その後アメリカに引っ越して、なんと、想定よりも18年も早く、2017年8月にサウスカロライナで初めての皆既日食を見ることができました。見事に真っ黒になって周りにコロナが広がっている太陽。必死になって写真を撮っていました。

 それから6年半。ずっと「次も見るぞ!」と思っていた皆既日食、前回の片道12時間に比べて、今度は4時間くらい運転すれば着く、ということで、絶対行くぞ!と楽しみにしていました。

 2週間くらい前から4月8日の天気予報を注目していたのですが、毎日コロコロ変わる予報。「ダメかなあ」「いや、行けるかも」「まあ、3日前まで分からないだろうなあ」と気分もアップダウン。でも、2-3日前には「大丈夫そう」ということで、ニューヨーク州のPlattsburghか、湖を挟んで対岸のバーモント州のBurlingtonに照準を合わせて準備をしていました。

 でも、当日になって、ちょうど日食の始まる2時頃から雲が広がってくるという予報。不安の中で何とか見えてほしいな、と思って朝7時に家を出ました。計算では11時半頃には着くはずが、途中混んでいて着いたのは1時半頃。何とか間に合いましたが、空は予報どおり薄曇り。「ダメかも・・・」と心配しましたが、薄雲も本当に極薄の薄雲で、3分間の天体ショー、存分に楽しむことができました。今回は、前回の反省で、写真を撮ることになりすぎないで、天を見上げて、自分の目で日食を見て、自分の肌で空気を感じることができました。

さっきまで直接見ることができなかった太陽が黒くなり、周りに明るくコロナが広がっています。

空全体が薄暗くなり、夕暮れのよう。そして、3分の後半、その黒い太陽の右下の方から赤い炎が漏れてきているようでした。

そして、だんだん右下の方が明るくなってきて、キラッとダイヤモンドリングが現れて、すぐにまた明るい太陽に。

ああ、こうやって書きながらも、あの感じ、あの空気は言葉ではうまく表せないなあと思います。

ちょっと引いて考えてみると、太陽の大きさは月の400倍。その太陽がほぼぴったり月に隠されるというのは、地球からの距離が太陽は月の400倍だから。

太陽を直径40センチのビーチボールの大きさにすると・・・

地球:直径約4ミリのご飯粒くらい。
月:直径1ミリのゴマ粒くらい。
地球と月の距離:約10センチ。

ですから、4ミリのご飯粒の周りに10センチ離れて1ミリのゴマ粒が回っている、それが地球と月の関係。そして、40センチの太陽が地球からどれくらい離れているかというと、2メートルとか、5メートルとかではなく、なんと40メートル。

→今回の日食:目の前10センチのところにある1ミリのゴマ粒が、40メートル離れた40センチのビーチボールをぴったり隠した、ということ・・・すごいと思いませんか!

 でもこの太陽とか地球とかは宇宙の中ではホンの片隅の星。この宇宙を造られた神様が、この小さな地球に生きている、ホンの小さな存在である私たちに目を留めてくださっている、日食も経験できるようにして、神さまの素晴らしさを教えようとしておられる。これはなんとすごいことではないでしょうか。

「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」

詩篇 19篇1節

日本の皆既日食11年後です。是非、皆さん楽しみにしていてください。その他にも2年後のスペイン、3年後のエジプト、4年後のオーストラリアと、いろんなチャンスがあります。是非ご検討ください。

2024年4月<牧師室より>「信じられない者への招き」

ハッピーイースター!

いつまでも肌寒い日が続いていますが、今年もイースターがやってきました。

このイースター、イエス・キリストが十字架につけられて、葬られたあと、3日目によみがえられたことをお祝いするお祭りです。今年も3月31日にはイースター礼拝と、礼拝後には愛餐会(ポットラックでのお食事会)を、また、4月6日には子どもたちのためのJOYJOYイースターを持ちます。是非お出かけください。

復活したイエスにお会いした、という人々がいる中で、イエスの十二弟子の中にもそれが信じられなかった人がいました。それはトマスという人です。イースターの日の夕方、イエスが弟子たちのところに現れて、本当にご自分がよみがえったのだと伝えた時、たまたま、トマスはそこに居合わせませんでした。他の弟子たちが喜びにあふれて「トマス、イエス様はよみがえったんだよ!」と言っているのを見て、彼はどんなに寂しい思いになっただろうかと思います。「どうして、私がいるときではなく、私がいないときにイエスは来られたのだろう」と思ったことでしょう。勢い余ってか、トマスは「私はイエスが十字架で手に釘を打たれたその傷跡に指を入れ、脇腹の槍の跡に手を差し入れてみないと、決して信じない」とまで言うのです。

それから1週間後、トマスがいるところに、イエス様が現れて、トマスが言っていたとおりのことを告げます。「さあ、あなたの指を私の手の釘跡に、あなたの手を私の脇腹に入れてごらんなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と。

そこで、トマスは「わが主よ、わが神よ」と答えるのですが、この場面、多くの画家たちによって描かれています。その代表的なものが、16世紀末から17世紀初めにイタリアで活動していたカラヴァッジオの絵です。

このトマスがイエスの脇腹に指を突っ込んでいる絵を初めて見たときには、本当にびっくりしました。私の想像では、トマスはイエスの言葉に、ただひれ伏すしかなかったのでは・・・と思っていたからです。「じゃあ、いいですか、指入れますよ」みたいな事をするだろうかと。今でもそのように思っています。

しかし、カラヴァッジオの絵をよく見てみると、トマスの手はイエスの手にしっかりと握られています。トマスの手を脇腹にぐっと引っ張っているのは他ならないイエス自身の手なのです。これは聖書に書かれていることではなく、あくまでもこの画家の解釈なのですが、イエスの脇腹の傷跡にトマスの指が入っているのは、彼の好奇心や「触らないと信じないぞ」という頑固さではなく、イエスの招きであり、イエスが「ほら触ってごらんよ」と手を引っ張ってくれたからなのです。

イエスは今も私たちを招いておられます。信じられないならば、調べてごらん。さあ、あなたの手を伸ばして調べてごらんと招いておられます。その上で「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言っておられるのです。

今年のイースター、一人でも多くの皆さんが、復活のイエスにお会いすることができますように。

2024年3月<牧師室より>「3月は嵐の季節」

3月になりました。

今年も我が家の庭で一番最初に咲くクロッカスの芽が出てきました。朝晩は氷点下に下がっても、昼間はすっかり春の日差し。今月10日にはサマータイムが始まり、19日のthe first day of spring(日本では20日の春分の日)を過ぎると、昼間の時間の方が長くなりますね。いよいよ春がやってくるな、と楽しみになります。

でも、油断は大敵です。1993年の3月、もう30年以上前になりますが、アトランタの大学で勉強していた時、春休みにフロリダのオーランドに行きました。アトランタを出る時にはレンギョウの黄色い花が満開でした。半袖短パンで2-3日楽しく過ごして、アトランタに戻ろうと思って高速に乗ったら、あちらこちら木々がなぎ倒されています。途中でガソリンを入れようと思ったら、軒並み停電でガソリンを入れられません。そして、フロリダとは思えない寒さ。フロリダ州を抜けてジョージア州に入る頃には雪が降り出しました。アトランタに電話をしたら、吹雪でとてもじゃないけど帰れないと。あとで分かったのは、その時、アメリカの南東部から東海岸を、後にstorm of the centuryと呼ばれるようになる嵐が襲っていたのでした。ニュージャージーも大雪だったようです。

実は3月は嵐の季節なのです。アメリカには “March comes in like a lion and goes out like a lamb” (3月はライオンのようにやってきて、羊のように去って行く)という言葉があります。この時期は冷たい冬の空気と暖かい夏の空気がせめぎ合って、特に前半は、しばしばとんでもない嵐になることがあります。

聖書の中にも嵐の場面が出てきます。それはもっと小さい規模のものですが、イエスの活動していたガリラヤ湖で、何度か、イエスと弟子たちは嵐に遭っています。湖で嵐に遭った弟子たちはどんなに不安だったことでしょうか。しかし、イエスはその嵐の中でも平安を保っておられて、「しっかりしなさい、わたしである、恐れることはない」(マタイの福音書14章27節)と言われ、嵐を鎮めておられるのです。

私たちの人生にも嵐がやってきます。イエスに従う道も万事順調、順風満帆ではないのです。でも、その時にも、イエスは私たちに「恐れるな。私がいるから」と語ってくださり、平安を与えてくださいます。皆さんの中にも今、嵐の中を通っておられる方もおられることでしょう。イエスはその嵐の中にも共に行ってくださいます。「主よ、助けてください」と祈ってみてください。神さまはあなたを支えてくださいます。

<牧師室より>2024年2月号「コミュニティに生きる使命」

良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。
平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、
「あなたの神は王であられる」とシオンに言う人の足は。
イザヤ書 52章7節

私たちの教会は、この聖書の言葉をいただいて、2024年をスタートしました。
この言葉は、教会が、神さまからの平和と解放、救いのメッセージを託されて、出て行く使命を頂いていることを示しています。

それは、言葉によって聖書に表された神の愛、神の救いを伝えるということはもちろんですが、それだけではなく、私たちの行動によって、神の愛を表していくということも大切なことだと思わされています。

9-11の同時多発テロの直後、社会全体が大きな痛みを通る中で教会は何ができるだろうかと、いくつかのセミナーに参加している中で、「何かがあってから、『私たちは〇〇教会の者ですが、何かできることはありますか?』と聞いても、それからでは遅い、教会がいつもいつもコミュニティの中で生きていないと、いざという時に教会に手を差し伸べてもらおうなんて人は誰もいない」との講師の言葉は衝撃でした。今頃になってこんなセミナーに来ているようではダメだと言われているような、でも、これからの生き方が問われるのだとチャレンジをいただいたような思いになりました。

それから22年、ずっと私たちの教会が、そして、私自身が、コミュニティの中で生きるとはどういうことなんだろう、何ができるんだろう?と問い続けています。今年は特別にそのことを考え、受け止め、実践していく年となる様にと願っています。

 今月は14日のAsh Wednesdayから教会はレントの期間に入ります。教会の歴史を通して、この期間はイエスの十字架での苦しみを覚えて、聖書を味わい、悔い改め、人々に仕える時として重んじられてきました。

 私たちの教会でも、2月16日から3月29日のGood Fridayまで、毎週金曜日の午後7時半から9時まで、教会に集まって、レント集会を持ちます。今年は「受難週からのメッセージ」。受難週とは、イエスが十字架にかかった最後の一週間です。その一週間に起こったいくつかの出来事から、神さまが私たちに託されたメッセージについて学んでいきます。教会に集うのが難しい方のためにオンラインでの参加もできるようにします。是非、ふるってご参加ください。オンラインでのアクセスを希望される方は錦織牧師(pastor.jccofnj@gmail.com)までお問い合わせください。

<牧師室より>2024年1月号「神の恵みによって」

明けましておめでとうございます。

 私たちの教会は1988年元旦にスタートしました。2024年の1月1日に36周年を迎えます。最初はいつまで続くかと思った、と伺っていますが、ここまで守られてきたのは、ただ神さまの恵みであり、憐れみによるものであったと思わされます。

「神の恵みによって、私は今の私になりました。」
(コリント人への手紙 第一 15章10節)

 私が初めてこの教会に足を踏み入れたのは1994年の秋でした。その2年前に日本での牧師の働きを中断してやってきたアメリカ。最初のサンディエゴも、次のアトランタも、知り合いを頼って生活を立ち上げました。しかし、誰も知り合いがいないニュージャージーの大学院に進むことになり、まだEmailとかウェブページとか、あまり普及していない頃でしたから、「キリスト教年鑑」という名前の、日本の教会と世界各地の日本語教会の連絡先が載っている分厚い本を開いて、「神学生としてご奉仕する場はないでしょうか?」とNY周辺の教会に手当たり次第手紙を書きました。その中で、ただ一つ、お返事をくださったのが、ニュージャージー日本語キリスト教会だったのです。「何も約束はできないけれども、とにかく一度来てごらんなさい」と。そのお返事に励まされて、9月の初め、この教会に一歩足を踏み入れました。

 それから、間もなく30年。牧師としてご奉仕をさせていただくようになって、27年。本当に素晴らしい喜びもたくさん経験しましたが、痛みや悲しみ、戸惑うことも何度もありました。そして、私が来る前には、もっと大きな危機があったと伺っています。それでも、ここまで守られてきました。誰かが頑張ったとか、あの人がいたからとか、そういうことを超えて、本当に神さまの憐れみによるものだと思わされます。

 この世界の経済と文化の中心地であるニューヨーク周辺には、これからも日本語での教会の働きが必要でしょう。日本語で人々を支え、励まし、神さまの恵みを伝える教会が必要だろうと思います。そのために、これからも、願わくは、ニュージャージー日本語キリスト教会が用いられてほしいと思います。これからも困難が襲ってきたり、逆風の中を歩んだりするときがあると思います。それでも、ここまで守ってくださった神さまが、これからも一歩一歩導いてくださることを信じています。

2024年の元旦は午前11時から元旦・創立記念礼拝をいたします。また礼拝後にはお餅を準備しています。是非お出かけください。新しい年、神の前に出て祈りをもってスタートしましょう。

<牧師室より>2023年12月号「暗闇が深いところにこそ」

メリークリスマス!

 12月になりました。クリスマスまでいよいよ3週間を切りました。街がイルミネーションで華やぎ、お祝いムードに染まるこの季節ですが、世界に目を向けると、痛みを感じないではいられません。ウクライナはロシアの侵攻から2回目のクリスマスを迎えようとしています。そして、ハマスとイスラエルの間の停戦も一週間で終わり、また本格的な戦闘が再開しています。現地からのニュースに接すると本当に心が引き裂かれるような思いになります。私たちがもしもこの痛みを完全に失って、自分たちだけが良ければそれで良い、と思ってしまってはいけないのだろうと思います。

 クリスマスはイエスの誕生を祝う日。しかし、実際にイエスが生まれたのは12月ではないだろうと言われています。12月ではイエスがお生まれになった夜、羊飼いたちが野宿しながら羊の群れの番をしていた、という聖書の記述と合わないというのです。では、なぜ、12月にクリスマスを祝うようになったのかというと、緯度が高く冬の日中の時間が短いヨーロッパで、これから日が長くなっていく、太陽が帰ってくることを祝っていた冬至の祭りに、暗闇を照らす光として来られたイエスの誕生を合わせて祝うようになったのだろうと言われています。

 聖書の中に、イエスの誕生について語っているこのような言葉があります。

「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネの福音書1章5節)

「すべての人を照らすまことの光が、世に来ようとしていた。」(ヨハネの福音書1章9節)

 イエスは暗闇を照らす光だと、暗闇に勝利する光だと、またすべての人を照らす光だというのです。この暗闇は「一人一人の個人の心の暗闇」だとしばしば言われます。私もそう思います。イエスは私の心の暗闇も照らし、私の心も造り変えてくださいました。しかし、それだけに限定されないのではと思います。この暗闇を照らす光、すべての人を照らす光は、今、暗闇のような状況にある人々のところに届き、その暗闇を照らす光なのだと信じます。そして、私たち自身も心を照らされて、光とされて、出て行くのです。世界の反対側のことも忘れてはなりませんが、身近なところにも暗闇の中に置かれている人々もいるでしょう。そこにも私たちは光を届ける使命があるのです。

「起きよ。輝け。まことにあなたの光が来る。主の栄光があなたの上に輝く。」(イザヤ書60章1節)

 今年のクリスマス。私たちの心がイエスによって照らされて、私たちも光とされて、光を世にもたらす存在とされますように。

<牧師室より>2023年11月号「痛みの中でのサンクスギビング」

 11月になりました。

 アメリカで11月と言えばサンクスギビング。この国では各地から郷里に帰ってきて、家族で過ごす方々が多いようです。私たちの教会でも2019年以来4年ぶりになるサンクスギビングの愛餐会(食事会)をします。また、この機会に以前こちらにおられた方々で戻って来るという方々もおられて、賑やかになりそうです。楽しみにしています。

 しかし、ひとたび世界に目を向けてみると、ロシアによるウクライナへの侵攻は続いていて、戦争の中で2回目の冬を迎えようとしています。そして、10月にはハマスによるイスラエルへのテロ攻撃、またそれに対してハマス殲滅を目指すイスラエルの反撃が続いていて、多くの人々が苦しんでいます。こんな状況の中で、私たちはサンクスギビングを心から楽しめない思いにもなります。

 しかし、実際のところ、アメリカでの最初のサンクスギビングも、万事順調、順風満帆の人生を歩んできた人たちによってではなく、多くの苦しみを経験してきた人々によって祝われたのです。ピルグリム・ファーザーズと呼ばれる人々はイギリスで迫害を受け、困難の中に歩んでいました。そんな彼らが自由を求めて船出した大西洋を渡る航海と、ようやく到着した新大陸での例年にない厳しい冬の寒さによって、乗り込んだ人の半分は命を落としたといいます。希望の船出が悲惨な結果になって、彼らはどんなに大きな痛みを経験したでしょうか?その痛みの中にいた彼らが、現地の人々の助けによって得た初めての収穫。そこで祝われたのがアメリカでの最初のサンクスギビングだと言われます。

 ですから、私たちは今も世界各地で、そして、もっと身近なところでも、痛みの中にある方々のことを心に留めながら、与えられている神様からの恵みに感謝して、サンクスギビングをお祝いするのです。この時期、多くの団体が困難の中にある方々のための働きへの協力を呼びかけています。私たちもこのような働きに心を向けて、出来ること、なすべきことを求めていこうではありませんか。

 今年のサンクスギビングが、多くの人々にとって、感謝と慰め、癒しに満ちたものとなりますように。

<牧師室より>2023年10月号「この国で共に生きる」

私がこの教会の牧師としてご奉仕を始めたときには、ご高齢の方々はそれほど多くはありませんでした。しかし、26年経って、ご高齢の方々のサポートの機会が増えてくる中で、自分が今まで知らなかったことがこれほどあったのか、と思い知らされています。そして、それらの情報は、教会の皆さんにためにも、私自身のためにも、もっと早く知るべきだった、ということばかりです。もし、この国で生まれ育っていれば、当たり前のように知っていて、互いに話題にしたり、共有したりしていたことかもしれません。しかし、日本からやってきた私たちにとっては「そうだったのか!」「へえ、そうなんだ?」ということがどれだけあるかと思わされます。

 その経験から、今回、10月21日の土曜日の午後、私自身が教会の方々のサポートのために、いろいろな方々に助けていただく中で、大きな力となってくださっている「ライフデザインサポート」の方々にセミナーをしていただきます。この国で歩んで行く中で、特にシニア世代や、そこにさしかかろうとしている皆さんにとってはもちろん、どの世代にとっても必要な情報をお話していただきます。詳しくはこちらの案内をご参照ください。多くの皆さんのご参加をお待ちしています。

 しかし、改めて考えてみれば、たまたま、今まで私たちの教会にシニア世代の方々がそれほど多くなかっただけで、教会の周りには、どれほどたくさんのサポートや情報を必要としている方々がおられるだろうかと思います。

 イエスは「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」(マタイの福音書 25章40節)と言われました。

 これを機会に、もっともっと、私たちが多くのことを学び、生活のあらゆる側面において、この地域の日本語を使う方々と共に歩んでいくことができるようにと願っています。

<牧師室より>2023年9月号「空の鳥を見てごらん」

8月の最後の日曜日は「ピクニック礼拝」。多くの皆さんが参加されて、楽しい時を持ちました。礼拝後のサンドイッチのランチや、その後のレクリエーションも良かったのですが、私自身はそれと共に、緑豊かな公園での礼拝の中で、イエスの言葉に従って「野の花に目を留める」ことを実践してみて、新しく目が開かれる思いがしました。

礼拝のメッセージの中で「では、皆さん、自由に歩き回って、野の花をじっくり見る時を持ちましょう」とアナウンスして、10分ほどそれぞれで野の花を見る時をもっていただきました。正直なところ、当日の朝、会場の公園に来てみて、かなりしっかりと刈り込みがなされていて、元々あまり花の多くない8月の下旬、「花なんて咲いてないじゃん」と言われるんじゃないかと思いました。でも、注意して見てみると、普段は目に留まらないような小さな花がいろいろ咲いているのですね。そして、その一つ一つ、花びらの形、その数、おしべが出ているかどうか、など、それぞれに個性があって、いくら時間があっても足りないくらいでした。ちょうど今、NHKの連続テレビ小説「らんまん」の主人公が這いつくばって、草花に見入っているのが、こんな感じなんだろうかと分かるような気がしました。

イエスは「野の花を見てごらん」と言われた後に、「その一つ一つの野の花よりも、神はあなたの事を何倍も大切に思い、心にかけておられるんだよ」と言われるのです。

「今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。」

マタイの福音書 6章30節

これからいい季節になります。散歩をしたり、空を見上げたりするときに、自然の中に込められた神さまのメッセージに耳を傾けてみませんか?

<牧師室より>2023年8月号「宝物を探しに行こう」

 今年もJOY JOY キャンプがやってきます。
 今年のテーマは「JOY JOY 探検隊〜宝物を探しに行こう」です。5日間、20人の子どもたちと、毎日宝物を探しに探検に行きます。

 我が家の「宝物」と言えば、「松井秀喜選手のバット」です。

 もう20年も前ですが、ヤンキースの試合を見に行った時、松井秀喜選手が空振りしたバットが手から滑って観客席にいた私達のところに飛んできました(その時の様子はこちら)。「これはさすがに返さないといけないだろう」と思って係の人に渡したのですが、その時、球場全体で大ブーイング!「何だ?何か自分はブーイングされることしたか?」と思っていたら、周りの人が「あの係の人にブーイングしているんだよ!あれはおまえのものだ!もらってこい!」と口々に言ってくれて、係の人を追いかけて、無事いただいて帰ることができました。それから、野球を見に行く度に、良くもこの大きな球場の中で、自分のところに飛んできたな、と思います。特別な神さまからのプレゼントだったと思います。

 でも、当時良く思ったものですが、もしも強盗に銃を突きつけられて、「おまえの家の宝物を持って行くぞ!」と松井のバットを奪われたら、間違いなく「どうぞ!」と言うだろうなあ、でも、もう一つの我が家の宝物であるその頃小さかった自分の子どもたちに同じことが起こったら、絶対に命をかけて、「自分はいいから・・・」と自分の身を差し出しても、子どもたちを守るろうとするだろうな、と。実際、本当に大切な「宝物」は決して「モノ」ではないんですよね。

 今回のキャンプで子どもたちに是非見つけて欲しい2つの宝物があります。それは、一つは「神様の愛」、そして、もう一つは、「自分自身」です。聖書の中に、天国(=神さまの愛に満たされた人生と死の向こう側にも続く命)という宝物を見つけたら、喜びにあふれて、全財産を売り払ってそれを自分ものにするだろう、というイエスの言葉があります。

「天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。」(マタイの福音書 13章44節)

 私達がこの宝物を自分のものにするために、すべてを投げ出してもちっとも惜しくないだろう、というのです。それくらい価値があるのだよ、というのです。でも、この言葉にはもう一つの意味があります。それは、立場をひっくり返すと見えてくることです。宝を探しているのはイエスであり、宝物は他でもない、私達だというのです。イエス自身が、「私達」という宝物のためには、すべてを投げ出しても惜しくない、と言ってくださったのです。実際、イエスは十字架にかかって、私たちの代わりに罪を負ってくださいました。そこまで私達は愛されているのです。

 今年のJOY JOY キャンプも、子どもたちの安全が守られて、子どもたちが、神さまが自分たちの事を宝物としてくださっていること、そして、愛されている喜びを知ることができるようにお祈りください。

<牧師室より>2023年7月号「自由とされたのだから」

「ああ、またやられた!」18年前の初夏。庭に日本の野菜を作ろうと一生懸命になっていた頃、本当に毎年、グランドホッグとの戦いに苦戦していました。ネットを張ったり、動物の嫌う匂いのスプレーを蒔いたりいろいろ試しましたが、敗戦続き。これはもう捕らえるしかない、とワナを買ってきて、捨てるクズ野菜を餌に、庭に仕掛けました。そうしたら、かかるわ、かかるわ、家族で住んでいたのでしょうか、次々とグランドホッグがかかります。後でネットで調べてみたら、この地域では許されていないようですが、そんなことも知らず、山に連れて行っては、放すことを繰り返していました。

 グランドホッグは昼行性。朝にワナをかけて、夜は変な動物がかからないように閉じておくのですが、ずぼらな性格の私は、ついつい閉じるのを忘れてしまい、ある朝はオポッサムがかかっていました。あまり可愛くない動物なのですが、ワナを開けたら、一目散に逃げていきました。

「あ、また変なのがかかっている!」7月5日の朝、前の晩にワナを閉じるのを忘れてしまっていて、何か動物がかかっていることに気づきました。あたり一面砂ぼこり。かなり暴れていたようです。今度は何がかかったのかな、と近づいてみて、「わっ」と血の気が引きました。ワナにかかっていたのはなんとスカンクだったのです。「どうしよう・・・」と思いました。自分の愚かさを悔いました。逃がすためには近づかなければいけない、近づいたらスプレーをかけられる。まともに食らったら、何日も匂いが消えない・・・。

その後の顛末を詳しく書いているととても長くなってしまうので、詳しく知りたい方は、以前毎日書いていたこちらのブログの記事を。

結論を言うと、最後は覚悟を決めて、すべて捨てていい服で身を固めて、頭には目のところだけ穴を開けた紙袋をかぶって、スカンクのスプレー攻撃を全身に浴びながら、近づいていって、ワナを手で開けて、スカンクを逃がしたのですが、ワナの扉を開いても、スカンクはおびえて、奥の方から動かないんですね。それで最後はワナの一番奥のスカンクがいるところをバンと一発蹴ったら、慌ててワナからでて、逃げていきました。

そのワナの奥でおびえていたスカンクの姿を思い出すと、私達も同じように狭いところでビクビクしていることはないか、と思わされます。神さまは私達のところに来て、私達を解放しようとしてくださっているのに、私達はその神さまの思いに気がつかないで、おびえて、逃げて、閉じこもっていることはないだろうかと。聖書のメッセージは解放のメッセージです。神様が与えてくださる自由を受け取って感謝して歩んでいきましょう。

「真理はあなたがたを自由にします。」ヨハネの福音書 8章32節

<牧師室より>2023年6月号「人を迎える喜び」

5月は3年ぶりに牧師館での集会を再開しました。初めて来られた方や、久しぶりの方々も加えて、聖書をじっくり味わいながら、とても楽しい集まりとなりました。いいですね。本当にいろんな事が次々と平常に戻りつつあります。

 昭和の日本の牧師の家庭に生まれ育った私にとっては、教会の2階だったり、教会の隣だったりした自分の家に教会の皆さんにおいでいただくのは、ごくあたりまえのことでした。日曜日の朝はいつもよりも早く起きて、簡単に朝食を済ませて、家の片付け。弟の部屋一つと、風呂場の脱衣所だけは「荷物置き場」にとっておいて、他の部屋の片付かない荷物を全部そこに押し込んで、自分の部屋も「教会学校」の部屋として使っていただいていました。同じような経験をした牧師の子ども仲間の中には「自分の部屋に入られるのがすごく嫌だった」という子たちもいましたが、私はそういうことを感じたことはありませんでした。逆に来てもらっていることが、うれしかったことを思い出します。

 今でも、同じです。多分、自分のスペースに来てくれるのは、自分のことを信頼してくれているから、自分のことを受け入れてくれているから、と感じるからなのかな、と思います。それがコロナ禍で互いに距離を取るようになり(「6フィートのソーシャルディスタンス」!この言葉にも懐かしささえ感じます)、お互いの家に招き合ったりすることがとても難しくなりました。そして、それが単なる物理的な距離ではなくて、いつの間にか、心理的な距離、お互いの心の距離にもなってしまっていたのでは、と思います。

 互いの心の距離、急に詰めようと思っても難しいですよね。少しずつ、信頼関係を築いていくのだと思います。これからですね。

 神様もそうです。私たちをご自分の家に招いて、ずっと一緒にいて欲しいと思っておられるのです。

 「わたしの父の家には住む所がたくさんあります。・・・わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」(ヨハネの福音書 14章2~3節)

 この言葉は最後の晩餐の時にイエスが弟子たちに言われた言葉です。神様は私たちを喜んで、その家に迎えてくださいます。私たちが、神様を信頼して、神様のところに行くことを喜んでくださるのです。これは究極的にはこの地上の歩みを終えて神様のところにいく「天国」のことを語っています。でも、この地上の歩みの中でも、私たちを喜んで迎え、共に歩もうとされているのです。

 今月も牧師館での集まりが続きます。また、他にご家庭を開放してくださる方もおられます。これらの集まりを通して、更に神様の愛が多くの人々に届きますように。

<牧師室より>2023年5月号「神の時を待つ」

 昨年のクリスマス直前、12月22日の午後に携帯電話にテキストメッセージが届きました。「・・・旅行の帰り道にある出来事に遭遇し、その時神様がいらっしゃるという事を実感しました・・・」

 4月の最後の日曜日、今年初めての洗礼式を持ちました。今回の月報にも証しを書いてくださっていますが、クリスチャンの男性と結婚されて数十年、それからずっと教会に集って来られた方です。その方のために、御家族はずっと祈っておられたそうです。教会でもお祈りしてきました。その祈りが聞かれるまでは、時間がかかりましたし、もう、ずっとこのままなのかな、とも思いました。一緒に聖書の基礎の学びもしました。イエスの十字架の話も何度もしてきました。それでも、なかなか聖書の言葉が入っていかない、そんなもどかしさも感じていました。しかし、この時に、神様は特別な方法で、その方の心に触れてくださったのです。

 その前の週、4月4週目の日曜日は一人の方がカリフォルニアに引っ越されると言うことで最後に一言挨拶をお願いしました。その中で、NJで経験した一つ一つの出来事の中で、心に与えられた聖書の言葉を分かち合ってくださいました。

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」(伝道者の書 3章11節)

 私たちには分からないことがあります。すべてを見極めることはできません。でも、神様の時があって、神様の時に美しいことをしてくださるというのです。

 私たちはしばしば、思い通りに行かないことに出会います。自分の願った道が開かれなくてがっかりすることもあります。「どうして?」と思うことにも出会います。でも、神様はすべてを美しく導いてくださり、神の時に御業をなしてくださるのです。その神の時を待ち望み、神様を信頼して歩んで行こうではありませんか。

2023年4月号<牧師室より>「新しい力に満たされて」

Happy Easter!

今年も春の訪れを告げるイースターがやってきます。今年は4月9日。近所の公園でも桜の木が花を咲かせ始めました。まだまだこれからという感じですが、ちょうどイースターの頃には花盛りとなりそうです。

 

 冬の間、葉を落としていた木々が一斉に芽吹き花を咲かせるこの時に、イースターをお祝いするのは、イエスの復活の力が私たちにも注がれるのだということを教えてくれます。死んでいたかのように見える自然界も冬が過ぎ去るのを待っていました。そして、その内側にあった命が春の訪れと共に外にあふれてくるのです。それと同じように、十字架にかけられて墓の中に葬られたイエスは、死と墓を打ち破ってよみがえり、今も、私たちのうちにその復活の力を満たしてくださるのです。

 「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。」

ローマ人への手紙 8章11節

  私も自分の力のなさ、弱さに落ち込むこともあります。がっかりすることもあります。エネルギッシュに生きている他の人を見ると、そのように生きられない自分に焦りを感じることもあります。そんな時、この復活の力が今も私のうちに注がれていることを思い出すのです。そして、祈るのです。「神様、あなたの力を、イエスをよみがえらせたあなたの力を、私のうちに満たしてください」と。祈りの力はすごいです。祈りの中で心が燃やされていき、本当に力が湧いてくるのです。

 その力を一人でも多くの方々に知っていただきたいです。

 今年のイースター礼拝は4月9日の午後1時半からです。そして、礼拝後には4年ぶりになる愛餐会(持ち寄りのお食事会)をいたします。是非お出かけください。皆さんで共にイースターをお祝いしましょう。心からお待ちしています!

2023年3月号<牧師室より>「聞くのに早く、語るのに遅く」

最近、家族に「テレビの音が大きい」と言われることが増えてきました。ずっと「単なる好みの問題だろ・・・」と思っていたのですが、ある集まりで皆さんのお話を聞きながら、「ん?右の耳で聞くときと、左の耳で聞くときで聞こえ方が違う・・・」と気がついたのです。

 それで、アプリで「聴力検査」を探して、試してみたら、なんと「高度難聴」!その後、静かなところで落ち着いてテストしたら、そこまでは悪くないようですが、それでもボーダーライン。神様からいただいた大切な聴力。これはちゃんとお医者さんに行って調べないといけないな・・・と思っているところです。

 聖書の中にこのような言葉があります。

「人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。」

ヤコブの手紙 1章19節

 語るためには聞かないといけないです。私たちは、相手の言うことを一言聞いて、すぐに反論したり、アドバイスをしたりすることがどれほど多いことでしょうか。自分が聞いてもらう立場だと、ちゃんと聞いてもらっていない時はすぐに分かります。「この人、全然話を聞いてくれていないな」と。でも反対に自分が聞く側に回ると、自分ではなかなか気がつきません。勝手に相手の言いたいことが分かったような気になって、コメントをしたくなるものです。一生懸命聞いて、理解しようとして、その心の叫びに耳を傾けて、そして、初めて口を開く。そのような姿勢がどれほど必要かと思います。

 それと共に、この言葉は、まず聞くことによって内側が豊かにされて、初めて語ることができる、という真理も表していると思います。ですから、私たちはもっともっとinputに目を向けなければいけません。何を聞くかによって、私たちの口から出る言葉は変わってきます。Negativeな言葉を聞いていると、negativeなものがあふれてきます。Positiveな言葉を浴びていると、positiveなものがあふれてくるのです。ですから、神の言葉である聖書のメッセージを聞くことが、本当に大切です。神の愛の言葉を聞くことが本当に大切です。それによって、私たちの内側が満たされて、そこからあふれるものによって語っていくことができるのです。

 心の聴力、ちょっと目を向けてみませんか。

2023年2月号<牧師室より>「春を待ち望んで」

2023年も早くも1ヶ月が過ぎ、2月になりました。アメリカでは2月2日が春の訪れを占うグランドホッグデー、日本では2月4日が、寒が明けて春の始まりを告げる立春ですね。冬至から1ヶ月あまり経ち、ちょっと散歩をしてみようと外に出ると、久しぶりの青空はまぶしいほどです。夕方も4時半には暗くなっていたのに、今は5時半まで昼間の明るさが残っています。2月はまだまだ寒い日や雪の日も多いですが、太陽は確実に春がやってくることを約束してくれています。春が待ち遠しいですね。

この「待つ」ということは、私たちの信仰にとってとても大切なことです。自分の力ではどうにもならないことを前にして、神がなさることを信頼して、神が働いてくださる時を信頼して、待ち望んでいくのです。聖書の中に「待ち望む」という言葉が何度も出てきます。

代表的な言葉を挙げると、

「雄々しくあれ。心を強くせよ。すべて主を待ち望む者よ。」詩篇31篇24節

「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。」イザヤ書40章31節

「その恵みは、私たちが・・・祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。」テトスへの手紙 2章13節

ですから、「待ち望む」というのは、「冬は寒いからこたつの中で丸くなっていよう」とか「今は状況が悪いから、我慢するしかないね」と、ただ我慢して春が来るのを待っている、嵐が通り過ぎるのを待っている、というのではなく、神が良くしてくださることを信頼して、いろいろ心配しないで、勇気をもって、自分のなすべきことをするという意味です。上のイザヤ書の言葉にあるように、「主を待ち望む者は力を得る」ことができるのです。

あなたは今、どんな状況に置かれているでしょうか?冬のような状況でしょうか?主を待ち望みましょう。必ず春がやってくることを信じて、主を待ち望み、力を頂いて、勇気をもって、忠実に自分のなすべきことをしていきましょう。

<牧師室より>2023年1月号「光に照らされて輝く」

明けましておめでとうございます!
本年もどうぞよろしくお願いします。

2022年はガラテヤ人への手紙5章13節「兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい」という言葉を頂いて、歩んできました。

多くの困難や閉ざされた道などもありましたが、そのような中でも、皆さんのお祈りに支えられて、神様が与えてくださる平安と喜びの中に歩むことができました。心から感謝します。

教会としてもっともっと地域社会とつながりをもって外向きの働きができればと思っておりましたが、大きな進展はありませんでした。そんな中でも、弱さや痛みを抱えたお互いのために祈り合い、支え合う中で、聖書の言葉通り、与えられた自由を仕えるために用いておられる方々の姿に励まされています。

「主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。」詩篇105篇4節

2023年のために祈っている時に与えられた聖書の言葉です。

たとえ、私たちが今までよりも積極的に社会の中に出ていくことができたとしても、もしも、私たちの顔が死んでいたならば、もしも、私たちが単なる義務感で、しょうがなくやっている、というのが見え見えだったら、それに何の意味があるのでしょうか?社会に出て行くときに、人々に仕えていくときに、私たち自身の心の状態がどんな状態であるかが問われてくるのです。

聖書の中に出てくるモーセという人は、神と語り合ったがゆえに顔が輝いていたと書かれています。私たちも、神の輝きに照らされて、そして、私たち自身が輝きにあふれて歩んでいく時こと、それが私たちが出て行くときに必要なことだと思わされています。

新しい年も、続けて私たちがこの地域社会の中で、特に日本語を使う方々の社会の中で果たしていく役割が何であるかを求めていこうと思います。更に一歩外に出て、人々に仕えていく教会となることができるように、まず、私たちの顔が神様の光に照らされて輝くものとなりますように!

2022年12月号<牧師室より>「クリスマスの平和」

2022年も早くも12月になり、街はクリスマスの装いになりました。今年のクリスマス、皆さんはどのような思いで迎えようとしておられるでしょうか?

今年はロシアがウクライナに侵攻するというニュースがあり、今も戦いが続いています。例年以上に平和を祈るクリスマスを迎えられる方も多いのではないでしょうか。

実は、「平和」はクリスマスの大切なメッセージの一つです。聖書の中にこのような言葉があります。

ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。

イザヤ書 9章6~7節

これは、イザヤという預言者が救い主の誕生を預言した言葉です。その救い主は「平和の君」と呼ばれる、そして、その救い主による平和が限りなく続く、と約束されているのです。

そして、それから700年後、最初のクリスマス、イエスが生まれた夜に、天使たちはこのように歌いました。

「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」

ルカの福音書 2章14節

アメリカで道を走っている時に時々目にする「Peace On Earth」という言葉はここから来ているのですね。

イエスは平和をもたらすために来られました。そして、神は今も私たちの平和を願い、私たちに平和を与えようとしておられるのです。この時に「平和」が何を意味しているのかにちょっと注意しないといけません。日本語・英語を含めてほとんどの言葉で、「平和」は「穏やかなこと」「争いのないこと」「波風が立っていないこと」を意味しています。戦争と戦争との間の争いがない期間のことを「平和」と呼んだ人々もいました。しかし、旧約聖書が書かれ、また新約聖書でもその背景となっているヘブル語では、「平和」は「シャローム」といって、命と自由にあふれた状態を指すと言われています。ただ、争いがない、強い者の横暴さの中で、みんなが我慢して成立しているような平和ではなく、本当に一人一人が喜びに満ち、感謝にあふれて歩むような平和を指しているのです。神は、クリスマスにお生まれになったイエスを通して私たちに与えようとしている平和はこれです。私たちの内側を喜びと命、自由と力に満たし、それによって、私たちが周りの人々との間に平和を作り出していくことができるようにしてくださるのです。

今年のクリスマス、私たちが世界の平和を祈ると共に、神様の力を頂いて、まずは自分の周りの人々との間に「波風が立たない」状態を超えた本当の平和を作り出していくことができますように。

2022年11月号<牧師室より>「小さき者と共に」

  先月、私たちの教会でずっと信仰の歩みを共にしてきた方が、神様のもとに召されて行かれました。92歳とご高齢ではあられましたが、もうしばらく共に歩む時間が与えられていると思っていたので、突然のことに本当に寂しさを感じています。ご遺族のために心から神様の慰めをお祈りしています。

 聖書の中に、このような言葉があります。

「彼は死にましたが、その信仰によって今もなお語っています。」(ヘブル人への手紙 11章4節)

 この「彼」というのは、聖書に出てくるアベルという人のことを指しているのですが、これは、私たちの信仰の先輩たちのことに当てはめて受け止めることのできる言葉です。

 天に召されたその方は、本当に多くの働きを担ってくださいました。オルガンやピアノでの奏楽、聖歌隊のメンバーとしての奉仕、そして、英語が第一言語の方でしたので、通訳や英語でのバイブルスタディーも担当してくださいました。本当に穏やかな、謙虚な方でした。大学の哲学の教授でしたから(それもニーチェの専門家)、多くの学びをしてこられたでしょうが、本当に幼子のように神の前に歩んでおられました。教会の人々を愛し、笑顔で迎えられる方でした。その彼が、時々厳しい表情をすることがありました。それは、社会的に弱い人、軽んじられている人が、不当な差別を受けたというニュースに接したときでした。ご自身も戦時中には日系人として強制的にキャンプに収容されたときもありましたが、その事についてはあまり触れることなく、それよりも、現代の社会の中での不当な差別に怒り、社会の断絶を嘆いておられました。彼が天に召されてから2週間が経ち、彼が遺してくれた信仰の遺産、「その信仰によって今もなお語っている」のは、このことではないだろうかと思わされています。

 イエスも言われています。「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」(マタイの福音書 25章40節)

 まず、私たち自身が神様に愛されたその愛に満たされて、この社会の中で、今も弱い立場に置かれている方々のことを覚えて、声を上げ、行動を起こしていこう、そのように思わされています。

2022年10月号<牧師室より>「あなたの若い日に」

 時折雨の降る肌寒い日でした。神奈川県の三浦半島油壺海岸でブルブル震えながら洗礼を受けました。今から46年前の10月24日のことです。初めて自分の口で信仰を告白したのは小学校2年生の時でしたから、この時には「中学生になったのだから、もう十分大人だ、何を信じるかだって自分で決められる」と思っていました。

 でも今思うと、この時は本当にまだまだ子どもの信仰だったと思います。自分の心の醜さに自己嫌悪に陥ったことも、「本当は神なんていないんじゃないか?」と疑ってみたことも、「あなたはどうして信じているの?」と友だちに聞かれても説明できなかったことも、「自分は親から言われて信じているだけで、自分の信仰なんてないんじゃないか?」と思って葛藤したことも、洗礼の後の出来事です。本当の意味で信仰が確立したのは何年も後でした。

 それでも、自分が子どもの頃から聖書に親しみ、信仰の歩みを続けることができたことは本当に良かったなあと思います。

 聖書の中に「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」(伝道者の書12章1節)という言葉があります。

 時々、「人生好きなことをして、いよいよ、というときに『神様ゴメンナサイ』とお祈りをして赦してもらったらいいのでは」という話を聞くことがあります。聖書の中にも人生最後の瞬間に信仰に導かれた人の話が出てきますし、お年を召してから信仰に導かれる方々もおられます。それは確かに素晴らしいことです。でも、若いときに信仰を持ち、その生涯、いつも聖書の言葉に支えられ、神様に支えられて、心にあふれるものを持ちながら歩むことができるのは何という幸せかと思います。

 教会で語られる「天国」もこの世の生涯を終えたあとに行くところ、という印象を持たれる方も多いかと思いますが、決してそれだけではありません。「あの世」だけではなく、「この世」でも「天国」の歩みをすることができるのです。この世の困難や闘いの中でも、いつも神様に支えられて、心が守られ、満たされて、歩んでいくことができるのです。信仰を持つのを先送りして、「この世の天国」を十分に味わうことができないのはとってももったいないことだと思います。

 一人でも多くの皆さんにとって、この地上での歩みが喜びにあふれたものとなりますように!

2022年9月号<牧師室より>「最後の生命線」

この一週間は牧師館のベッドルームにこもって過ごしています。はい、私も、とうとう新型コロナウィルスに感染してしまいました。症状は最初の2日間だけ、それも本当に軽く済みました。しかし、アメリカのCDCの基準では、今でも5日間の自己隔離+5日間はマスク着用、ハイリスクの方々には近づかない、ということで、もうしばらくは自宅勤務、9/4の礼拝はビデオでのメッセージになります。

 この自己隔離期間中、ずっと同じ部屋の中でじっとしている中で、メールや電話でのやりとり、Zoomでの祈り会など、この部屋の外の方々とのつながりが、どれほど励ましになり、力になったかと思います。

 ちょうど、9/4の礼拝で読む聖書箇所はイエスを信じる人々が、投獄されている中で神に祈り賛美をささげていた、というところです。今から2000年前、ネットや電話はもちろん、読むものだって個人で持つことができなかった時代、彼らは外とのつながりを持つことはできませんでした。しかし、そんなときにも切れない生命線がありました。それは神とのつながりだったのです。

「真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた。」(使徒の働き16章25節)

 彼らは投獄され、自由を奪われ、外との関係を断絶される中で、神に祈り、神から力をいただいて、賛美をしていたのです。そして、その賛美を他の囚人たちは静かに聞いていました。そして、そのことが、このあとの他の囚人たちや獄吏の行動を変えていくのです。

 今回、物理的には皆さんにお会いするのを控えていても、テクノロジーを通してつながっていることができています。それには本当に感謝しています。しかし、それが故に、彼らが経験したような神との親しさを私は経験できていないではないかと思います。

 新学期を迎えようとする中で「さあ、これから秋の活動再開だ!」と気負っていた私には必要な時だったのかもしれません。その必要がないときにも、敢えて時間を作って、一人になって、ネットや電話もすべて切って、静まって神を求めるときが大切なのではないか、そんなことを思わされています。

「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」詩篇46:10(口語訳)

2022年8月号<牧師室より>「ホンモノの平和を求めて」

 8月8日から12日までJOYJOYキャンプが持たれます。今年は「3年ぶりに日本に一時帰国してきます・・・」という方々が多く、いつもに比べてかなり参加者が少ないのですが、それでも、参加する子どもたちと楽しい時を過ごすことができれば、と思っています。

 今年のテーマは「ピースレンジャーズ」。

 ウクライナへのロシアの侵攻など不安定な世界情勢の中で、子どもたちにも不安が襲ってきている今の時代。でも、それは決して、遠くの国の話ではなくて、自分の身の回りにも小さないざこざが起こっている。そんなときに、どんな状況の中でも、子どもたち自身が心の平和を与えられて、周りに平和を作り出すようになってほしいなあ、という思いをこめてこのテーマに決めました。

 イエスの言葉にこのようなものがあります。

「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。」(マタイ10:34)

 これを読むと「えー、どういうこと?」と思います。イエスは他のところでは、「平和をつくり出す人たちは、さいわいである」(マタイ5:9)とも言われているのですから。

 では、これはどういう意味なのでしょうか?それは、「表面的な、見せかけの平和を壊して、本当の平和を作り出すのだ」ということです。事なかれ主義の平和、波風が立たない平和、とりあえず戦いが起こっていない平和、そのような表面上の平和ではなく、本当に中身のある、喜びがあふれる平和を目指していくのだ、ということです。9-11の日、その朝まで世界は平和だと思っていました。でも、それはただ、アメリカの軍事力や経済力によって、世界の人々が黙っていることによって保たれている平和に過ぎないことを私たちは見せつけられました。

 簡単な道ではない、でも、この不安の時代の中にあって、まず、私たちは内側に神様からの平和をいただいて、その平和をもって、平和のメッセージを周りの人に語っていく、自分の周りに平和を作り出していく、家庭から、職場から、友人関係から平和を築いていく、そんな働きが始まるきっかけとなったら、と願っています。どうぞ、お祈りください。

2022年7月号<牧師室より>「どんな時代にも変わらないもの」

7月になりました。2022年も半分が過ぎ、後半に入ります。

 振り返ってみると、この半年、多くの出来事の中で心乱されることが多かったと思います。なかなか終わらないコロナ感染。ロシアのウクライナ侵攻。アメリカ各地で続く銃の乱射事件と、それにもかかわらず一向に進まない銃規制。そして、6月の終わりには、人工中絶についての連邦最高裁の判断が49年ぶりに覆りました。本当に心が騒ぐ出来事が続いています。

 私たちの教会は、今年は「兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。」(ガラテヤ5:13)という聖書の言葉を与えられて歩んできました。私たちはどうしても、後半の「愛をもって互いに仕え合いなさい」という言葉に目が行きます。ですから、なおさら、このような社会に対して、分断が進み、対立する価値観が衝突する時代の中で何をしたらいいのか?何を発信したらいいのか?と思わされます。このような社会の中で、「互いに仕え合う」とはどういうことなのでしょうか?

 そのために、私たちはこの聖書の言葉の前半に注目すべきです。それは「自由を得る」ということです。まず私たちが自由になることです。この聖書の言葉が書かれた時代は、「宗教的戒律」が人々を不自由にしていました。「〜しなければいけない」「〜をしてはならない」というような、戒律が人々を縛っていました。イエスは、そこから人々を解放し、神の愛に満たされる歩みを人々に与えたのでした。私たちは何に縛られているでしょうか?世のしがらみや、価値観、人々の期待や、「こうでなければならない」という先入観、そのようなものでしょうか。子どもの頃の経験でしょうか?その時にかけられた言葉でしょうか。それらに縛られている私たちをイエスは解放してくださるのです。そして、私たちを義務感ではなく、喜びと感謝に満たして、人々に仕える者へと変えてくださるのです。

 ですから、まず私たちは「〜しなければならない」というところから解放していただくことが大切です。人々にどんなことを期待されているのか、それを気にして、それに応えることもやめましょう。そして、私たちを無条件で愛し、受け入れてくださる神の愛に目を留めましょう。その神の愛への感謝に満たされて、今、私たちの周りで痛みや苦しみの中にいる方々に仕える働きをさせていただこうではありませんか。時代は変わっても、課題は変わっても、芯になる部分は変わりません。神様の愛に押し出されて、周りの人々を愛する、そのような歩みをさせていただこうではありませんか。

2022年6月号<牧師室より>「平和を作り出す人」

 5月の後半は、立て続けに銃乱射事件がアメリカ各地で起こりました。ニューヨーク州のバッファローでは、グロサリーストアで多くの買い物客が人種差別主義者の犠牲になりました。カリフォルニア州のオレンジ郡では、台湾系の教会に高齢のお母さんを迎えに行った息子さんが、政治的な信条を持った人の凶弾に倒れました。そして、テキサス西部の町では、21人もの無力な小学生と先生たちが、怒りに支配された若者の犠牲になりました。犠牲になった方々のこと、ご遺族のこと、巻き込まれたすべての方々のことを思うと、胸が張り裂けそうになります。

 銃規制が必要なことは確かですが、なかなかそれが進まないことに、無力さを感じさせられています。そして、私は何ができるだろうかと思わされています。教会はこのような社会の中でどんな使命を与えられているのか。ただ、自分たちの建物の守りを固めて、それでいいのか、ということを思わされています。(先月の月報でも、同じようなことを書いていましたね。)

 2月に始まったロシアのウクライナ侵攻の中でも、神の守りを祈ること、苦しんでいる方々のためにできることをすること、その他に、何ができるだろうかと思わされます。大きな国の政治的な力の前に何もできない無力さを感じさせられます。

 そのような中で、やはり、私たちに託されているのは、私たちお互いの間に、そして、身近なところにいる方々との関係の中に、平和ももたらすことなのだと思わされます。大きなことを言う前に、まず私たちの心の中に、神様からの平安を与えていただいて、そのいただいた平安をもって、周りの人々のところに出て行くことです。神はいつも、個人の内側を造り変え、それによって、周りの人々との関係を造り変え、社会に対してインパクトを持つ者として用いてくださるのです。

「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。」

ヨハネによる福音書14章27節

 社会の分断が進むこの時代、冷静な対論ができずに、相手を非難し、「はい、論破!」と勝手に決めつけて、自分の考えだけが正しいと思う風潮が広がっているこの時代に、私たちはまた、本当に単純に、一歩一歩自分の周りから小さな平和を少しずつ作っていこうではありませんか。

2022年5月号<牧師室より>「出て行く使命」

多くの方々の目に留まる月報にこのことを書くのはためらっていたのですが、半年経って、ずいぶん落ち着いてきたので、書きますが、昨年の9月に牧師館に空き巣に入られました。

 金曜日の夜の集会のために教会に行っていて、帰ってきたら、玄関のドアが少し開いています。「あれ、ちゃんと閉めたはずだったけれども・・・」と思いつつ、中に入ったら、キッチンのキャビネットがすべて全開。「こんなに開けっぱなしにしたっけ・・・、もしや・・・」と思って、ベッドルームに行ったら、引き出しの者が全部引っ張り出されていました。慌てて9-1-1に連絡、「まだ中にいると大変だからすぐ外に出て!」と言われて、外で待っていたら、程なく警察が来て、中を調べてくれて、「もう誰もいない、大丈夫そうだ」と中に一人ずつ入れてもらって、なくなっているものを調べて、すべてが終わったのが夜中の2時頃でした。

 幸いほとんど実害がなかったのですが、勝手に自分たちの生活空間に土足で入られて、部屋を荒らされたことのなんとも言えない嫌な感じはしばらく消えませんでした。

しかし、そのような中で、その日の集会のために与えられていた聖書の箇所、「正しい人は決して動かされることなく、とこしえに覚えられる。 彼は悪いおとずれを恐れず、その心は主に信頼してゆるがない。」(詩篇112:7-8)の言葉がどれほど大きな支えになったか分かりません。

 その後、教会の皆さんがご心配くださって、牧師館にセキュリティーシステムを入れていただいたのですが、その頃から一つの思いが心に与えられました。

「果たして、これで終わりでいいのだろうか?自分たちの生活空間を守ることは大切だけれども、自分たちの周りの守りを固めて、壁を作って、それで終わりでいいのだろうか?」と。

 自分たちも空き巣に入られても、金目のものは何も出てこないようなレベルだけれども、少なくとも、安心して眠れて、日々の必要が満たされている。その一方で、空き巣をして生活をしているような人々もこの周りにはいるのだ、そんな中で、自分たちだけ守りを固めて、それで終わりでいいのだろうか?と。

 教会はこの世に出て行く使命を与えられています。4月15日まで毎週持たれたレント集会でも、私たちはこの世に仕える使命をいただいていることを再確認しました。この空き巣事件を通しても、神様が私たちに「この世に出て行きなさい」と導いておられることを感じています。どうか、神様が私たちに与えてくださっている使命を果たすことができるようにお祈りください。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。」ヨハネによる福音書15章16節

2022年4月号<牧師室より>「復活の力にあふれて」

 4月になりました。もうすぐ、春の訪れを告げるイースターがやってきます。イースターはイエス・キリストが死を打ち破ってよみがえられたことをお祝いする日。ちょうど、すべての木々が枯れ、すべてのものが凍りついた冬を越えて、自然界に命があふれるこの春に、イエスの復活をお祝いするイースターがやってくるのは、とても意味深いことだと思います。

 今から2000年前、イエスが十字架につけられた時に、弟子たちは皆、イエスを捨てて逃げていってしまいました。「どこまでもついて行きます」「たとえ、命を捨てることになっても、あなたをおいて逃げたりしません」と言っていた弟子たちでした。しかし、実際にイエスが捕らえられると、彼らは、蜘蛛の子を散らすように、逃げていきました。また、その後も、人々を恐れて、家の戸に鍵をかけて閉じこもっていたと、聖書は語っています。

 しかし、彼らが復活のイエスに出会った時に、彼らは変えられました。人々を恐れて、戸に鍵をかけて閉じこもっていた弟子たちは、復活のイエスに出会ってからは、出て行って、命の危険をも恐れずに、イエスの復活を語っていくようになったのです。それだけではなく、迫害や困難の中でも人々を受け入れ、愛し、仕えていきました。そして、彼らの人生に触れられた人々はまた変えられていきました。そして、その信仰は、次の世代、また次の世代と受け継がれ、そして、300年の年月をかけて、なんの権力も軍事力もなかった教会が、強大な権力を誇ったローマ帝国をひっくり返してしまったのです。

 今、私たちは、戦争が起こり、軍事力や経済力の強さがものを言うかのような時代の中に生きています。しかし、それは2000年前も同じでした。ローマ帝国の軍事力の前では教会は無力のように見えました。しかし、教会がその使命に生きていった時に、世界が変わっていきました。その同じ復活の力が、今日も信じる時に、私たちに与えられます。私たちも、自分の力は弱くても、イエスの復活の力を内側にいただいて、この世界にインパクトを与えるような生き方をさせていただくことができるのです。

 今年のイースター、お一人一人のうちにこのイエスの復活の力が満たされて、新しい歩みをスタートすることができますように。

「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか。」第一コリント15章55節