5.「信じること、救いと受洗」

受洗という言葉を始めて伺ったのが実は愛餐会のときに三村兄と一緒にポトラックパーティーの食べ物を取るために列に並んでいる時でした。今から思えばこれも主の導きでした。もし三村兄と一緒に食事を取るために並んでいなかったら、受洗の恵みを授からなかったかもしれません。そしてその後の週にお二方の受洗式に立ち会うに及び、私も導かれたいと強く思うようになりました。

それから私が洗礼を受ける決心をするまではいくつかの紆余曲折がありました。ひとつはお墓のこと。ひとつは時間的なこと。一番大きかったのは自身の気持ちだったでしょう。

まだ十分に決心がついていない状況でしたが、錦織牧師とのman-to-manの学びが始まりました。学びの中で、牧師は余り難しいことは言われませんでした。ただ、イエス様が私たちの罪を負って、十字架に掛かられて、三日の後によみがえられ、今も聖霊様を通して、私たちと共に居られることを信じなさいということでした。それから、私たちは罪深い存在なので、それを主の前で悔い改めなさいとも教えていただきました。

私にとって、すぐに主を信じることが出来るようになっていたのは、その時点で自身の無力さを悟っていたためかもしれません。それまで自分が如何に自惚れていたか、如何に自信を持ちすぎていたかが、直ぐに分かりました。そのため悔い改めることに余り抵抗がありませんでした。また、2000年前に十字架の後復活した主を信じること、それによって主より愛され救われるということ、これらも私にはたやすい事でした。

そして、2005年2月20日に錦織牧師の手によって主に祝福されながら洗礼を受けることが出来ました。洗礼を執り行って頂いた錦織牧師とともに主イエス様に感謝しています。

(神林兄の証は4月号の月報からの続きです。 この後次回の6月号の
月報で完結です。)

月報2005年5月号より

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