「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」
(マタイ27章46節、マルコ15章34節)

これは十字上の断末魔の苦しみの中で主イエスキリストが唱えられた言葉です。この言葉の解釈について一般的には詩篇22編の引用とされ、詩篇22編の内容が、神の応答が聞こえないという苦痛を歌った前半から神が祈りを聞いて下さったという確信と感謝の賛美に満ちた後半へと変わって行くように、死の絶望の中にあっても復活の希望がその先にあることをキリストが示されたのだと多くの解説書などで説明されているのは皆さんご存知の通りのことだと思います。私も今まで、神から見捨てられた主イエスの苦しみにがどのようなものであったのかについて深く考えたことはなく、むしろ、そのような神から見放されたと言う絶望や手に釘を打たれた肉体的苦しみの中にあってさえ、詩篇の御言葉を諳んじ、聞いているものに死の絶望がやがて希望へと繋がってゆくのだというメッセージを送られた主イエスの偉大さと、また、そこまで深く私たちを愛して下さっていたのだということに感動し、「やはり主イエスは凄い方だ!受肉の苦しみや神からの孤立という絶望的状況さえ超越して愛を貫かれる力を持たれていたのだ。」と単純に感心しておりました。

昨年の7月から今年の7月までほぼ丸1年間に亘り人生初めての失業を経験しました。1年と言う期間は当初予想していたよりもはるかに長い期間となってしまいましたが、この先どうなるのだろうという不安な思いがあった反面、今まで仕事をしていた為に持てなかった時間を持つことが出来て、普段なら出来ない経験ができたと言うことも事実であり、必ずしも辛いばかりの日々を過ごした訳ではありませんでした。健康面でも守られ(毎日良く寝ているから風邪をひく訳がありません)、経済的にも失業保険や健康保険の付保期間が通常の倍以上に延びたり、家内のESLのAidの仕事が与えられたりと不思議と支えられました。子供の学校が休校となった平日に釣りに行ったり、毎朝子供を学校に送って行った後、家内と二人でデボーションの時を持ったりと、仕事をしていたら持てなかったであろう時間を持つことができたのは少し立ち止まって考えなさいという神様のはからいだったのかもしれません。

しかし、勿論、仕事が無い状態が続けば、この先どうなるのだろうという不安にかられたことがなかった訳ではありません。あれが一番辛かったなぁと思える出来事は失業から9ヶ月経ったころに訪れました。失業するまで約15年間に亘りマンハッタンに通勤していた私はこの失業を契機に家からもっと通い易いニュージャージーの何処かに仕事が見つかって、今までよりもっと多くの時間を教会の集まりに出たり、家族と一緒に過ごす時間に充てることが出来たらと思い、失業して以来、ずっと、御心であるなら、ニュージャージーで車で30分くらいで通える場所に仕事を与えて下さいと祈っていました。そして、この祈りを主が聞いてくださったかのように、ニュージャージーでの就職口の話が舞い込んで来ました。場所は家から車で約35分、ニューヨークとは反対の方向へ向かうので交通渋滞の心配はまずありません、仕事の内容は自分の職務経験にも合っており、また、給与も今までと同じかそれ以上というレベルでした。唯一、自分の経験で当てはまらなかったのは、「CPAの資格があればなお良し」ということであったので、もし、落とされるとしたらこの点かな、でも、CPA受験の準備を進めている話をすれば、この点はクリアできるのではないかとも考えていました。私はこの話が複数の人材紹介会社から持ち込まれ、更には以前、仕事で付き合いのあった監査法人に勤務しておられた方からも紹介があったので、もしかしたら本当にこれは主が与えてくださったチャンスなのかもしれないと思え、そして、御心ならこの仕事を私に与えて下さいと祈っていました。そして、一番最初に声をかけてくれた人材紹介会社を介してレジュメを提出して先方からの返事を待ちました。ところが、一週間以上経っても良い返事は聞かれず、それから2、3日して人材会社から、「今回は面接にまで行きつけませんでした。先方は、もっと同業分野での経験がある方にしたいと仰っています。」と告げられました。実は私にもこの同業分野での経験はあり、そのこともレジュメには書いていましたので、この「お断り」の理由が良く理解できませんでした。正直、これだけ複数の人材紹介会社から私のところに話が真先に持ち込まれたことからも、また、過去の経験からも日本語ができて自分と同じ程度の職務経験のある人間はそう何十人もいる訳は無く、少なくと面接くらいはしてくれるのではないかと思っていたので予想外の門前払いであったことによる落胆の度合いは大きなものでした。それも、CPAが無いからと言う明確な理由であれば納得できましたが、そうでない何か良く分からない理由だったので、これだけ、自分の経歴にぴったり合うと思えたポジションだったのに、面接にすら漕ぎ着けないなんて自分のような人材はもう必要とされていないのではないか、今の時代にもう自分の職務経験やら資格やらは価値が無いのではないだろうかと思えました。一方で、私の周りにいた知り合いや教会に集っておられる方で失業されていた方も、その頃にはなんとか仕事を見つけて再就職をしていたので、自分だけが取り残された思いがして、出てくる祈りは「神様、どうしてですか」という言葉だけでした。

そのような悶々とした日々の中で迎えたある聖日のメッセージは冒頭で述べた主イエスによる十字架上での祈りについてでした。「絶望から希望へと変わって行く詩篇の御言葉を通して、十字架上で磔にされ死んでゆくという絶望的な状況がやがて復活の希望へと変ってゆくというメッセージをイエスは送られたのだ。」と言う解釈はそれはそれで筋の通った素晴らしい解釈であるとしながら、でも、敢えてそこに今日のメッセージではチャレンジしてみたいと、その日、牧師が仰ったように記憶しています。「確かに、あの十字架の語るメッセージは希望へのメッセージである。しかし、イエスキリストはあの時、本当に苦しかったのではないだろうか?そして、それは肉体的な痛みもさることながら、神の子でありながら神から引き離され、何一つ罪を犯していないのにも拘らず、おぞましい犯罪人の処刑の道具である十字架にかけられ、あざけられて死んでゆく、そのような神からさえも見捨てられるという孤独な屈辱的な経験の中でイエスは本当に苦しくて苦しくて仕方がなかったのではないのか。そして、その苦しみは私たちの罪のためであり、私たちを救うためであったのだ。それほどの犠牲を払ってまで主が救おうとして下さったことを思う時、私たちは感謝せずにはいられないのではないか。」確か、メッセージの概要はこのようであったと思います。

「ああ、そうだったのか!」と、この時、私は一瞬何かがはっきりと判った気がしました。「神様、どうしてですか?」という搾り出すような嘆きにも似た祈りしか出てこない、神に見捨てられたと思えるような経験を通して、主はあのイエスの十字架上での本当の苦しみを、すなわち、神に見捨てられると言う苦しみがどんなに絶望的であったかを知らせたかったのではないのか。私の「神に見捨てられた」と思えるような経験は、自身の父である神から見放され、罪も無いのに磔にされると言う十字架上でイエスが通られた経験から見れば、比べるべくも無い小さなものに過ぎなかったと思います。しかし、放蕩息子のようだった者を赦し、そしてそのような者のために十字架にかかって下さったイエスの愛の深さに感謝し、自分こそが主を十字架にかけたのだと悔い改めたことは今までに何度もあっても、十字架上でのイエスの本当の(単に肉体の苦しみに留まらない)苦しみについて考えたことが無かった私は、何か目を開かれたような思いがしました。

勿論、この経験があったからと言って状況が劇的に変わった訳ではありませんでした。それから、あと数ヶ月間は失業状態が続いた訳ですが、それでも、これ以降、私の中には神様にちゃんと取り扱って頂いているという何か安心感めいたものがありました。それは、あの圧倒的な絶望感や孤独を受肉した人として経験された主は、この小さき者の味わう絶望的な経験や痛みもちゃんと知っていて下さり、その先には必ず希望を用意していて下さるという安心感でした。
このような私たちの絶望感や孤独も判ってくださる神が、今日も共に歩んでくださることを覚えて感謝したいと思います。

月報2010年10月号より